第18話


 母。

 私を産み、私を育てることなくいなくなった人。いや、いなくなったと思っていた人。

 母の存在を祖父に聞いたことは、なかったとも思う。

 死んだとばかり思っていたし、何故か聞くこと自体が悪いことだと思っていた。その思いは今でもある。

 こうして目の前にいるその人を見ても、私はなんというか申し訳ない気持ちになっている。思い返せば、彼女を初めて見た時からその思いはあったのだ。

 それが誰に対してなのか、私はあえて考えないことにした。

 何より、今は、

「静馬を返してください」

 もっと大事なことがあるのだ。

「返せ、とは随分な言い草ね。彼は自分から私たちに協力してくれているのだけれど」

「私のために?」

「さぁ、どうでしょうね」

「すぐにやめさせて」

「どうして?」

「余計な御世話だからよ。それはあいつには関係ないじゃない」

「貴女にも関係ないわ」

 なぜか、私は言葉に詰まった。

 構わず声を奮わせる。

「だったら、なんであいつはそんなバカみたいな真似してるっていうのよ!」

「彼が私の依頼を引き受けてくれたからよ」

「だから、それがなんでってあたしは…っ!」

 だめだ、落ち着け。

 頬が熱い。なぜか感情の抑えがきかない。

 上から見下ろされる視線がひどく気になった。優しげな微笑みも私を苛立たせる。

 どうしてこの人はこうまで余裕があるのだろう。

 私に、なにか言うことはないのだろうか。

「本当に静馬が引き受けたのですか?」

 不意に、先生が声を上げた。

 相も変わらず柔らかい表情で、この状況であっても少しの動揺も見て取ることができない。私の視線に頷いて、更に言葉を続けた。

「失礼。私は飯村啄木と言います。静馬と桜さんの保護者として面倒を見させていただいております」

「ああ、貴方が。静馬君も言っていました。なんでも日本一の紋筆家であり、人格者であるとか」

「しがない町職人ですよ。しかし、静馬の奴も随分と口がうまくなった。何か粗相はありませんでしたか?」

「そんな、滅相もありません。一生懸命に仕事をしてくれています」

 世間話のように会話は進んでいく。

 それにもどかしさを覚えてはいても、私は口を出すことができない。いや、出すべきではないと思った。

 まだ冷静さを取り戻せていない。

「それで先ほどの質問ですが」

「ええ、間違いなく彼は自分から引き受けてくれました」

「そうですか。申し訳ありませんが、私にその内容を教えてくださいませんか?」

 先生?

 その言葉に驚いたのは私だけではなかった。ツバキ、さんも怪訝そうな顔をしている。

 先ほどまでの会話、なにより車内で私が言ったことを先生は覚えている筈である。

 なぜ、今更そんなことを聞くのだろうか。

「どうして、そんなことを?」

「私が彼を信じているから、ですかね」

 一瞬、空気が止まった。

 答えになっていない。

 そう思ったが、何故か、そうではないようである。先生は常と変らぬまま、ツバキさんの表情が真剣なものになった。

「残したいと言いました」

 声音から優しさが消えた。

 どこまでも厳しく、明確な意志が込められているように思えた。その声を私は知っている。

 祖父だ。

 私をしかりつけた時、あるいは、なにかを教えてくれた時。

 そんな時の祖父の言葉は妙に説得力があって、私は言い訳をすることもできなかった。

「残したい、ですか?」

「はい」


「私達が生きた証を残したいんです。そして、その先の未来も」


 突然、空が割れた。

 比喩じゃない。

 文字通り、何もない空間が割れたのだ。上空の一部が硝子の破片のように砕け、割れた向こう側にどす黒い闇が見えた。

 否、それも違うと私は直感した。

 あまりにスケールが違う光景を見ると、人間は存外単純な思考になるらしい。いや、そもそもこの状況にあって考えられるには一つしかない。

 これは、まさしく。

「あら、聞いてたよりずいぶん早いじゃない。あの子、本当に腕がいいのね」

 淵に何かがが引っ掛かる。

 おそらくは、指なのだろう。

 骨に申し訳程度の肉がついただけの指。爪のように見えるとがった物体は枯れた木を思わせる。それが十本、何もない空間から現れたと同時に。

 ばりぃと。

 空間が縦に裂けた。

 その合間から、巨大な何かが現れる。

 骨、と言えばいいのか。

 指と同様、随所に肉が付着した姿はどこか生々しい。だが、それほど迫力があったわけではない。まるで人体模型か骨格標本のよう。だからこそ、どこか拍子抜けしてしまったのだと思う。

 けれど、


「     っ!」


 それは、間違いだった。

 咆哮、だったと思う。

 鼓膜どころか全身を打った衝撃は、私に現実を思い知らせるには十分だった。本能、と言えばいいのか。膝が崩れ、思わず泣きそうになる。反射的に太ももの合間に手を押し込んだのは正解だった。零れそうになった何かはまだ尊厳を保っている。

 周囲の木々は枯れ、空に暗雲が立ち込め、雷鳴が轟いた。

 神。

 未だ完全には至らないであろう姿に、私はただ見つめていることしかできなかった。

  

               *


「なんてみすぼらしい姿なのかしら」


 森が、大気が、風が、雲が、大地が、あるいは世界が震えている。

 咆哮は既に消えた。

 動きはなく、その巨体は佇むように立ち尽くしている。

 それでもなお、その威容は圧倒的に過ぎる。

 目を離すことなんて絶対に出来ない。少なくとも、私にはそのつもりは全くなかった。次の瞬間に何が起きるのか、その結果が途方もないことだと確信している。

 この身体が、それとも本能とでもいえばいいのか。

 魂という言葉に置き換えてもいい、と思う。

 目の前のあれは、決してあってはならない存在だと訴えている。

「馬鹿な、どうして」

 先生の声が聞こえた。

 普段とは違い、明らかに動揺しているのがわかる。語尾の震えは決して誤魔化しの効くレベルではなかった。

 その理由は明らかである。

 神。

 その威容を見たからでは、勿論ない。

「ねえ、なんであれが降りて来たの? 殺すんじゃなかったっけ?」

 今度は、子供の声。

 三蔵ちゃんだ。

 今まで無言だったのですっかり忘れてしまっていた。…なんだか違和感がある。いつもと違うというか、あまりに冷たすぎるというか。

 妙に迫力のある声だった。

 ただ、彼女の言葉は正しい。

 先ほどの話では、静馬は神殺しの依頼を受けたはずだ。

 確かに生きているとは思えないが、死んでいる筈もない。そもそも、神殺しを行ったのならばここに現れること自体がおかしい。

 ここに現れたということは、


「言ったでしょう? 私が生きた証を残したい、と」


 動いた。

 ぎちぎちとぎこちなく右腕が上がる。まるでブリキ人形のような不自然さ。関節になにか詰まっているのか、随分と遅い。

 その間も、私は目を離せなかった。

 天頂に達するまで十数秒、振り下ろすのに更に数秒。

 瞬間、森が消えた。

「え?」

 見間違え、ではない。

 巨人の周囲、所狭しと聳え立っていた木々が文字通り消えてしまった。茶色く剥げた大地の中心で、再び咆哮が上がる。

 ああ、と私は納得した。

 あれがここに現れた意味と、これから起こるであろう事態。

 何が残したいだ。

 最悪なことにこの女は、

 

「このクソヒス女……っ!」


 すべてを消し去ろうとしている。

「ふざけんじゃないわよっ! あんた、本当に馬鹿じゃないのっ! そんなことしたら今度こそ取り返しがつかないじゃないっ!」

「とうに終わっているわ。残るのは、あなたとあなたの未来だけ。そこに、ここはいらないの」

 蜘蛛が蠢いた。

 巨大な脚を天高く掲げ、八つの瞳が私を見下ろす。悪寒がした。私は、反射的に駆け出す。

 数瞬の間。

 衝撃は足もとから。背後で轟音が響き、私はそのまま体勢を崩した。幸い、予想していたので受け身をとることができた。

 痛みはない。

 起き上がり、周囲を確認する。

 巨大な蜘蛛が見える。

 八つの瞳は私を捉えず、標的のみに向けられている。

「そういうわけで、ごめんなさいね。あなた達がいると邪魔なの」

 先生と三蔵ちゃん。

 巨大な脚の一本が再び、天へと掲げられる。

 それを見上げたまま、二人はいつもと変わらぬ表情をしていて。

 私は、叫んだ。


                  *


「と、まぁ、これが現状なわけでして。貴方、騙されちゃいましたね」

 既に準備は終わっている。

 薄暗い室内で静馬はぼんやりと壁にもたれかかっていた。目の前には例によって胡散臭い男が一人。静馬には理由がわからなったが、愉快そうに笑みを浮かべている。

 連日の疲れから話に付き合う気にもなれず、静馬は適当に相槌を打った。

「そうか」

「おや、それだけですか?」

「ああ」

 ふむ、と男は三原直衛は首を傾げた。

 どうにも納得していないようだな、と静馬は思った。実に面倒だとも。

 追及の言葉はない。だが、その視線と態度は明らかに答えを求めている。というか、非常にうっとおしい。男が無駄に好奇心を曝け出して、目を輝かせる姿はそれだけ犯罪的だった。

「依頼人は嘘をつくってよく言うだろ」

「ほう、これまた意外な言葉ですね。貴方らしくない偏見に満ちた言葉だ。いや、ある意味らしいと言った方が良いですかね?」

「おれに聞いてどうすんだよ。…まぁ、ある程度はわかってたからな」

「あの女が嘘をつくと?」

「契約には入ってないしな」

 そもそも拉致された身なのだ。

 相手を信頼する方がどうかしている、と静馬は思った。

「だとすると、なおのことわかりませんね。貴方、それほどあの町に恨みがあったんですか?」

「ないよ。むしろ、壊されちゃ困る」

「だったら、どうして」

「依頼はまだ終わってないからな」

 一瞬、三原が目を丸くした。

 肩を竦め、半眼で静馬を見る。

「いやいや、安心しました。相変わらず無駄にくそ真面目なようで」

「別にあの女がやってることを認めたわけじゃない。ただ、おれの街に影響が出る前には依頼が終わるだろうからな。その後のことはその後に考えればいい」

「そのための手は打ってあると?」

「おっかない女がいるからな」

 ああ、と今度こそ三原は納得した。

 劉堂月歩。

 あの女がこの事態に手を打っていないはずがない。

 三喜男と神田は当然として、他にも援軍がいる筈である。静馬の予想が正しければ、飯村先生が駆けつけている筈だ。であるならば、対抗できるはずである。

 たとえ神であっても、勝つことは出来なくても負けることは決してない。

 静馬は、そう確信している。

「それより、お前の方こそどうなんだよ。まだあいつを連れてこないのか?」

「貴方がどう考えているかはわかりませんが、あれは私にとっても切り札のようなものでして。そうやすやすとは使うことはできないんですよ」

「おれは毎晩連れ込まれてたんだけど」

「それだけ貴方との時間が大切だったんですよん♪」

「死ね」

 ひどいですねぇ、とどうでもよさそうに三原は笑った。

「まぁ、彼女を連れてこないのは他に理由があるんですよ」

「何だよ?」

「簡単なことです」


「彼女はまだ選んでいませんから。決断もせずに救いが現れるほど、世の中は甘くない」


               *

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