第17話


 職人気質という言葉がある。

 自身の技量に誇りを持ち、金銭により道理を曲げず、妥協することなく仕事を遂行する。優秀な職人に対する敬称でもあり、頑固な職人を揶揄する名称でもある。

 静馬はこの言葉が嫌いだ。

 決して陥ってはならない考え方だと思っている。

 静馬にとって、紋筆家とはあくまで職業である。

 職業とは詰まる所、報酬を得るためにある。報酬によって何かを得、その何かを失って人は生きていく。そこに差はあれ、その本質は何も変わらない。

 誇りも、妥協も、道理なんて曖昧なものも、全ては無価値である。そんなものにこだわっていったい何になるのか。

 報酬を下げるなんて以ての外だ。

 繰り返すが、職業は報酬を得るためにある。報酬を、自分の生きるために成し遂げた行為の対価をどうして貶めるのか。

 筆一本。

 それで事が為されたからと言ってなんだというのか。

 思考が脱線している。

 それでも筆の滑りは上々だった。

 完成が近い、という確信がある。

 疲労で意識がもうろうとしていたが、それでも仕事はこなさなければならない。既に論理と設計図たる印図は完成している。あとは単純な作業のみ。だからこそ、無駄な思考が意識を支配した。

 報酬の値下げ。

 それを言ったのが誰だったのか、すぐには思い出せなかった。そんなことがあったのも随分と前のことのように、静馬には思えた。

 桜の理屈は当然ながら、正しい。

 本当に当たり前のことだ。報酬は利益から支払われる。利益は労働賃金から費用を差し引いたものだ。

 労働賃金は労働の対価に支払われる。では、労働を行うために必要なものは何か。

 当然、仕事の依頼である。

 それを得るために必要なことこそ、彼女が静馬に求めたものなのだろう。

 要は売りである。

 無名の見習い、それも人当たりも悪く口達者ではない。いくら腕前に自信があるとはいえ現状ではそれを披露する場面もない。

 どうしようもない半人前。

 それが最も手軽ですぐにでも改善できるであろう部分を放置しているのは、歯がゆくて仕方がなかったことだろう。

 静馬自身、わかっていた。

 だからと言って、それを受け入れるつもりはなかった。

 不意に、筆が止まる。

 かすかな違和感。見ると、毛先に艶がなくなっている。

 腰に付けた容器に筆を突っ込んだ。かさかさと毛先がこすれる音だけが響く。その事実に静馬は陰鬱な気分になった。

 背筋を伸ばすとぱきぱきと骨のなる音がした。

 静馬は室内を照らす燭台を持って、外へ向かう。そっと石造りの壁に触れるとゆっくりと光が差し込んできた。

 太陽のそれとも蝋燭から溢れるそれとも違う優しい光。

 岩壁の至る所に寄生した苔が発する光は、空間の隅々まで照らし出す。その中央。無骨な石を積み上げただけの台座に彼女はいる。

 まるで死人のようだった。

 石造りの椅子に背を預け、瞼を閉じている。うっすらとした灯りの下でもわかるほど青白い肌。唇は青く変色し、息遣いは微塵も感じられない。

 彼女は人間ではない。だが、だからと言ってここまで生気がなかっただろうか。

 ぱちりと瞼が開いた。

 眼球が動く。

 静馬を捉えると一拍の間を空けて、笑みを浮かべた。満面の笑みは初めて見たときよりも、どこか儚い。

 彼女は言葉もなく、静馬へ手首を差し出した。

 白い肌に一文字が走る。

 ゆったりと赤い液体が溢れ、静馬は零れた滴を容器で受け止める。

 幾度も繰り返された行為。

 その度に、彼女は希薄になっていく。

 ——残したい、と彼女は言った。

 自分には許されなかった、自分だけの人生。どこかの誰かのためではなく、ただ己がための生。

 それをあの子に残したい、と頭を下げられたのだ。

 だから、静馬は筆を執った。

 覚悟も思いも見せられた。

 あとはそれに応えるか、否か。この選択を静馬は決して後悔しないだろう。

 不意に、痛みが走る。

 容器から液体を零さないように位置を修正する。痛みは耳の奥から発せられたものだ。ただ、それも一瞬で消えた。

 異質な痛み。その正体を静馬はよく知っている。

 結界が破られた。

「来た、の?」

 思わず聞き逃しそうになった。

それほどか細い声。

 静馬は頷き、容器を振った。たぷんと十分な重みを感じる。

 彼女はゆっくりと上体を起こす。まるで操り人形のような無機質な動き。浮かべた笑みに儚さはもうない。

 初めて見た時と同じ、優しげで力強い笑顔。それが母の笑顔だと静馬は遅まきながら気付いた。

「あとは、任せたわ」

 一言だけ残して、彼女は消えた。文字通り、静馬の視界から一瞬で消え去ったのだ。

 静馬は広い空間に一人残される。

 任せた。

 まったく、なんて言葉を残すのだろうか。

 静馬はため息を吐いてから、元の場所へ向かう。

 蝋燭は半分も残っていないが、現状では十分すぎる。おそらくは三喜男と玲が侵入してくるだろう。結界を破ったのは先生のはずだ。

 そして、桜。彼女もそこにいる筈だ。

 ここから先は出たとこ勝負。雌雄が決する前に静馬は仕事を終わらせる。

 暗闇に照らし出された印を見つめ、静馬は筆を執った。


 いつか、飯村が言っていた。

 君の筆とお客さんじゃない、君とお客さんで仕事は始まるんだ、と。

 その言葉の意味を静馬はようやく理解した。


                 *


 早すぎる。

 瞬きの間もなく過ぎゆく光景と浮遊感。頬を打つ強風と時折襲う着地の衝撃。縦から横への変化。白い何かが見えたと思えばはじけ飛び、耳元で風がごうごうと鳴いている。

 何が起きているのか。

 私には状況は理解できても、目の前の光景を処理することができない。お腹に回された太い腕の主だけがその全てを把握している。

 三喜男。

 玲といつも一緒にいる巨人である。

 普段は険しい顔つきながらも抜けているところがあり、どこか愛嬌がある人。けれど、今は違う。

 ぎらぎらと眼を光らせ、食いしばった歯がむき出しになっている。苦悶の表情ではもちろんなく、口角が無駄に吊り上がっていた。

 獰猛な笑み。

 小説でよくある陳腐な表現が、ここまで的を射るとは思わなかった。

「桜っ!」

「は、はい」

 突然の呼びかけに声が上ずってしまった。

 三喜男は周囲に視線を巡らせ、最後に私を見る。まるで獲物を狙う猛禽類の目である。その眼光の鋭さに私は言葉を失ってしまう。

 ただ、続く言葉に、

「どこに落ちたい?」

 私は別の意味で言葉を失った。

「……は?」

 三喜男の視線はすぐに私から離れた。

 嫌な予感がする。

 私が何か言う前に、三喜男の視線が一点を捉えた。私もそれを追う。

 それは、頼りない若木だった。

 葉が生い茂った姿こそ他とそん色はなかったが、あまりに背が低い。他の木々とは雲泥の差がある。

 だからこそ、私は三喜男の視線が釘づけになる意味が分からない。いや、そもそもさっきの言葉自体が理解に苦しむというかなんで急にそっちに向かうのかとか明らかに腕の力が抜けているような気が、


「ちょ、待ってよぉおおおおおおっ!」


 返答はなかった。というよりも、静止の言葉を聞く前に放り投げられた。

 ありえない。

 けれど、いくら現実を否定しても目の前に迫る光景は決して消えることはなく。私は、前のめりに木へ突っ込んだ。

 枝が折れる音、葉の感触、むせかるような緑の臭い。

 覚悟した衝撃や痛みはなく、私は気が付くと緑の中に身を沈めていた。

 数秒の思考停止。

 ふつふつと湧き上がる何かが、私に喝を入れた。

「三ぃ喜ぃ男ぉ…っ!」

 体を捩って茂みから抜け出す。

 視線を上へ。

 銃声が遠くで聞こえた。そちらを向いても視界を木々が埋め尽くす。怒りの矛先が見つからず、私はとりあえずガシガシと頭をかいた。髪に引っかかった葉とごみを散らす。幸いなことに虫はいないようだった。

 それにしても、と私は周囲を見回した。

 大きい。

 ただただ大きかった。

 見渡す木々はどれも天を貫かんばかりに聳え立ち、その幹は私の目から見ても明らかに常軌を逸している。現に、私が今いる場所もとある巨木の一部である。頼りなく見えた若木ですら、その枝葉でしかなかったのだ。

まるで小人になった気分。眼下に見える動物も空を飛び交う鳥でさえ、私の知るそれとは姿もサイズも段違いだ。

 静馬はここを森と言ったが、私にはここが異世界そのものにしか見えなかった。

 なんというか、もう、感動を通り越して呆れてしまった。

「ああ、やっと見つけた」

 突然の声。

 振り向くと、そこに先生がいた。傍らには三蔵ちゃん。飄々とした態度は相変わらずで、私は驚く前に安心した。

「先生」

「怪我はないようだね。色々と大変だったろう」

「…はい」

「さっきは声も掛けづらい状況だったからね。無事でよかった」

 何気ない言葉が身に染みる。

 三蔵ちゃんが、お姉ちゃんと抱き付いてきた。頭を撫で、ようやく私は普段の空気に触れることができたような気がした。

 無論、気のせいである。

 証拠に遠くで銃声が響いている。木々の合間を何かが通り抜け、その度に白い布が宙を舞うのが見えた。

「さて、これからどうしようか」

「どうしようって言われても」

 ここから移動しようにも、私には三喜男たちのような足がない。木々を跳び伝う脚力も体力もないのだ。

 八方塞がりである。

 それでも、

「なんとかして、静馬の処へ向かいます」

 やらなければならないことがある。

 先生は、何故か、深く息を吐いた。柔和な表情から真剣な表情に変わる。

「実はね、はじめは君を連れ帰ろうと思っていたんだ」

「え?」

「この話を持ち掛けられた時、僕はまず君を助けようと思った。これは責任の話だ。僕は君の保護者だからね。一度面倒を見た人間を見捨てるほど薄情なつもりはなかった」

「でも、静馬が」

「あれは自分で何とかするさ。その程度には鍛えたつもりだ」

 それこそ薄情ではないだろうか、と私は思ったが口にしなかった。なんとなく先生の表情が、なんというか、そう、誇らしげだったというか、自慢げだったというか。 とにかく、そういう印象を受けたからだ。

「どうやら余計なお節介だったみたいだね」

「その、すみません」

「君は自分の意志で何かをしたいと言うとは思っていなかったよ。そういう性格なのかと思っていたが、僕らの前では遠慮していたのかな」

「そんなこと」

「君はできた娘だ。周囲の空気を良く察するし、いつも誰かの役に立とうと頑張っている。静馬の助手を引き受けてくれたのも助かったし、うれしかった」

 あれは折り合いをつけるのが下手だから、と先生は苦笑する。その通りだと思った。あの男はとんでもない頑固者である。

「でも、君を静馬に付けた理由はそれだけじゃないんだ。君に自信を持ってほしかった」

「自信、ですか?」

「そう、自分がここにいてもいいという確固たる自信がね」

 それは、本当に予想外の言葉だった。

 ここにいていいという自信。

 誰もが持っている当たり前のもの。それを、私は確かに持っていない。

 そこまで考えていてくれたという驚きと考えさせてしまったという申し訳なさで、私は言葉を失った。

 先生は、けれど、と言葉を続ける。

「君にはそんなものは必要なかったのかもしれない。君の出自とは関係なくね」

 先生の視線に何かが混じった。

 憐れむような、あるいは、悲しげな。

 先生は、言葉を続ける。

 

「桜ちゃん、君はこの世界にいたいかい?」


                  *


 朝、起きる。

 出された朝食を食べて、学校へ。友人と会う。テレビの会話、雑誌の話、噂話。どれにも興味は持てなかったけれど、話す誰かにつられて笑う。面白くもない先生がくれば終わる時間。そこからはノートに文字を書く時間。内容を頭に入れる時もあれば聞き流す時もある。数字の羅列がちょっと苦手。昼食をいつもの顔と食べてから午後を乗り切る。放課後は誰かに付き合うこともあれが、大抵はそのまま自宅へ。誰もいない家でテレビをつける。玄関のドアが開く音で意識を取り戻し、夕飯の支度。作ることもあれば手伝うこともあって、ただ待つこともしばしば。夕飯を食べたら、お風呂に入って布団に籠る。

 何の変哲のない一日。

 仕事を任せられることも、上手くいくことも、緊張することも、まだない日常。

 それが恋しいと思ったことなんて一度もない。

 ここの生活は楽しい。

 生活も、人も、街並みも。その全てが心地いい。

 私は、心からそう言える。

 けれども、だからこそ。

 私は先生の言葉に、何も言えなかった。

「君のいた世界のことは、正直僕にはわからない。だから比べることもできないし、それについて何か言うことはできない。けれど、今の暮らしはとても恵まれたものであることは自覚しているかい?」

「それは、もちろん。身寄りのない私の面倒を見てくれた上に教育部にまで通わせていただいているのは」 

「そうじゃない。気付いていないようだけれど、あそこに在籍している学徒は全てどこそこかの御曹司で跡取りだ。職業適性試験の模範という触れ込みだが、ほとんどが家業を継ぐために仕向けられた子供達なんだ」

 ぎょっとした。

 なんというか、それではあまりに話が違いすぎる。いや、私自身が勝手にイメージしていただけかもしれないが。

「本人の適性なんていうのは詭弁さ。どんな仕事だって時間と本人のやる気さえあれば覚えられる。逆に言えば、そうでなければ仕事なんて成り立つわけがない。もちろん、才覚が要らないなんて言えば嘘になる。けれど努力と時間で超えられないなんて天才はそうそういないよ」

 話が逸れた、と先生は言う。

「とにかく、僕が言いたいのはこの世界で暮らしていくにあたって、君は最大の幸運を得たということだ。社会的地位や将来性、その他もろもろを考えても現状以上の待遇は考えられない。それを、君は投げ捨てようとしている」

「それは、なんだかちょっと極端だと思います」

「極端なんかじゃないさ。君は今、生徒会長を敵に回すかどうかの瀬戸際まできている。それを自覚した方がいい」

 言葉に詰まる。

 というか、既に敵に回している気がする。この場所にいる時点で、それは理解しているつもりだ。

「彼女は君達学徒の代表であると同時に僕らの代表でもある。それを敵に回してこの街で生きることなんてできない。たとえよそに行っても同じさ。君は異世界人で、言い方は悪いけれど彼女に管理されている人間だ。何者でもない人間が生きていけるほど、この世界は甘くない」

 突然、銃声が鼓膜を揺らした。

 十や二十ではきかない。

 遠くでざわつく木々に白い布が舞うのが見える。その周囲を銀閃が舞い、ものすごい速さで飛んでいく人影が見えた。

 戦いが続いている。

「先生、あの、その話が大事なのはわかります。けど、今はそれどころじゃ」

「もしもの話」

「いや、あのだから」

「僕らが間に合わず、静馬が神殺しをしてしてしまったら、君はどうする?」

「助けます。どうすればいいかなんてわかりませんけど、それでも何とかします」

 はっきりと、自分でもびっくりするくらいはっきりと答えることができた。

 当たり前の話だ。

 静馬は私のせいで捕らわれている。そして、おそらくは私のために神殺しをしようとしているのだ。

 それを見殺しにすることなんてできる筈がない。

 それこそ、筋が通らない。

 私は、なにをおいても静馬を連れ戻さなければならないのだ。

 先生は私を見た。数瞬の空白。やがて、先生の顔に普段通りの柔和な笑みが浮かぶ。

「すまない。どうも私はいらぬお節介が過ぎるようだ」

「そんなことはありません。自分の立ち位置は理解できました。その、なんていうか、心配ばかりかけて本当にごめんなさい」

 現状、周囲の環境、立ち位置。

 先生が話してくれたのは私が考えていない、考えることもないであろうことだ。日常においてはとても大事なことで、この数か月の間に私が向き合っていた課題でもある。

 結局、私はその手のことを考えるのが苦手だと身に染みてわかった。

「君が謝る必要なんてないさ。ただ僕としては聞いておかなければならないと思ってね。なんというか、わかりきったことではあったんだけど」

 そこで、先生は言葉を切った。否、切らざるおえなくなった。

 咆哮が轟いた。

 鼓膜を揺さぶるそれが私から音を奪い、次いで振動が襲って来た。断続的なゆれは徐々に勢いを増し、立っているのも困難になる。

この感覚には、覚えがある。

 視線を前に。

 そこに予想を上回る光景があった。

「あれは…っ!」

 倒壊する木々、巻き上がる土砂、逃げ惑う鳥と動物。

 その向こうに、黒い蜘蛛を見た。

 それも複数。

 巨大な木々に匹敵する八相の脚が森を蹂躙し、恐らくは唾液のような何かが森を穢していく。まるで怪獣映画だ。笑えないのはその光景が現実のものであって、その標的が自分自身であることである。

 瞬く間に距離は縮み、眼前に至ってようやく蜘蛛は進撃を止めた。

 圧倒的な威圧感。

 蛇に睨まれた蛙と言う言葉はまさしくこの状況を表すのだろう。八つの眼球に映る自分がひどく醜く見える。

 そして、


「また会ったわね」

 

 渡来世椿がいた。

 蜘蛛の上に乗り、相も変わらず柔らかな笑みを浮かべている。


               *

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