ボディ
【人体は、側面から見ると分かる通り、胸が顎ラインよりも前に張り出していて、背骨がS字のカーブを描いています。肋骨の大きさやお尻の丸みを意識して作っていきましょう】
賄いの豆腐ステーキをパクつきながら、指南書を繰り返し読んだ。
「精が出るね。エリちゃん、芸術家センセーみたいだな」
店主がカウンターの中からこちらを覗き込む。
痩せたなぁ。
茹で釜の湯気の奥にある店主の背中が、ふたまわり程小さくなっている。
日に日に店主は頰がこけていく。疲労感が落ち窪んで濁った両目に出ていた。
「芸術家なんて、そんな大層なもんじゃないですよ。初心者だし、思ってたより大変です。楽しいけど」
そう言って笑う私も、最近の睡眠時間は3時間を切っている。寝食を忘れて人形を作っている。
「うちな、離婚するわ」
唐突だった。
え、と指南書を閉じて店主を見上げる。
「もう、限界だわ。あいつ壊れちまったよ。俺がおかしいんじゃねぇかなってずっと思ってたんだけどな。違ったよ。あいつ、毎朝毎晩、顔を合わせれば怒鳴るんだわ。私を殺す気かって、怒鳴るんだわ…」
パートの園部さんが、奥様は更年期が酷くてと言っていたが、店主がこんなにも消耗してしまう程壊れてしまうものなのか。
同じ女として、いずれ自分にも来るであろう更年期を想うとゾッとした。
「お子さんは…どんな様子なんですか?」
確か、中学生の男の子と小学生の女の子がいると聞いている。
「…ずっと黙ってるな。聞こえてないような顔してさ。アイツが怒鳴り散らして酷い時にもさ、ずっと黙ってるな」
父が病で他界したのは、もう20年も前になる。
父は愛人と生活していた。
母と私と6つ年の離れた妹の3人は、父が亡くなってもいつもと変わらない暮らしだった。
あえて変化と言えば、居間に仏壇が置かれたぐらいで、あとは何も変わりがなかった。
死んでくれて、ホッとした。
49日の法要が済んで、紫の袈裟のお坊さまの背中を見送る母が、そう呟いた。
素直に、そうだろうな。と思った。
子供の足で歩いて10分の小学校から帰宅すると、ガッチャンガッチャンと何か激しく割れている音がする。
そっと台所を覗くと、母が手当たり次第に皿や茶碗を床に叩きつけている。
何してるの!?と、心のなかでは思ったが、声は出せずにじっと見ているだけだった。
イタズラをして叱る母の顔ではなく、知らない女の人が物凄く怖い顔で暴れていた。
割れた皿がどんどんたまって、破片もあちこち飛び散った。
食器棚が空になるのではないかと心配した。変な心配だけど、母がこうして鬱憤を晴らしているのだとしたら、止める事など出来なかった。
父とは、週末にしか顔を合わさない。
父は平然と愛人同伴だった。母もそれに対して何か言うわけでもなかった。
父の愛人はきつね顔の美人で、スラリとスタイルも良く綺麗なお姉さんという印象だった。
由美ちゃんといった。
まるで親戚か何かのように、外食の席を囲んだ。
私や妹の誕生日には、由美ちゃんからプレゼントが届いた。由美ちゃんからとなっていたが、それは父からだったのかもしれない。
どうして両親が離婚をしないでいるのかなんて分からなかった。子供心に、離婚はとても悲しくて辛いものだと思っていたが、そんなことより父に愛人がいて、それが当たり前になっている事の方が重苦しかった。
いつもいつも、母は平然としていたので、なんなら由美ちゃんとも談笑するぐらいだったので、母は父に対しても由美ちゃんに対しても寛容で理解があるのかと思っていた。
だけど、それは表面的なものであって心の中は違ったのだなと、尖った白い破片を見て感じ取った。
親が極限の感情で怒り狂ってるのを目の当たりにすると、子供は泣くことすら出来ないのだと思う。
恐ろしさと、不安と、哀しみと…そして、親が見知らぬ誰かになってしまったという絶望感がそうさせるのかもしれない。
魔女の遊園地 ヒスイ リマ @r-hisui
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