第9話 南庸建国
北河南岸で庸軍を撃滅したズタスたちが帝都へ到着したのは、タクグスたちが寧安へ突入してから十日後だった。
ズタス率いる三万の兵(奇襲の一万に加え上陸部隊二万)は、十万の庸軍を木っ端微塵にしてしまった。半ば以上は庸軍の自滅であったが、そうであっても数倍以上の敵を味方の損害をほぼ皆無で壊滅してしまったのは、常識ではありえない戦果であった。
もっとも、ズタスとコナレ族、騎馬民族軍は、長城を越えて以来常識外の勝利と前例のない快進撃を続けている。これはズタスだけの力ではなく、なにか天意のようなものが働いているのではないか。そう思う者が騎馬民族だけでなく庸人の間でも増えつつあった。
ズタス自身もそのように考えなくはないが、それは自己を過信してのことではなく、むしろ謙虚さからである。
「わしに実力以上の戦果を与えてくれているというのならば、天よ、授けられるだけ授けられよ。だがわしが慢心し、すべきことをせず、すべきでないことをするようになれば、その時はわしからすべてを奪いたまえ」
ズタスは人為でおこなえることは何一つおろそかにしなかった。少なくとも彼が知覚し得る範囲では。天が援助を与えてくれているのだとすれば、それゆえこそだろうと考えている。ゆえに天に支えられるも見捨てられるも、すべて自分の責任だとわきまえていた。
そのような覚悟があってのことでもあるが、ズタスはこの手の噂が広まるのを放置していた。騎馬民族にとっては大きな士気に、庸人にとってはさらなる精神の弱体化につながるとわかっていたからだ。
北河南岸でおこなわれた「摂津の戦い」は一日未満で終わったにも関わらず、ズタスたちの到着に十日もかかったのは、戦後処理に加え、さらなる戦力の増強を図っていたからである。
庸軍を撃破し渡河になんの障害もなくなったところで、ズタスは北河以北の駐屯地に置いてきた騎馬民族軍を呼び寄せたのである。まずは五万。これだけでも相当時間がかかるのに、中には初めて見る巨大な水の連なりに怯える人馬もあって、渡河は順調にはいかなかった。摂津の戦いに参加した最初の六万は、やはり精鋭であったのだ。
この後も順次渡河させる予定だが、とりあえずの戦力が整ったところで、ズタスは寧安を目指して進発したのである。水上では惰弱さをのぞかせる騎馬民族も、地上と馬上では比肩する者のない強者の姿に戻る。道案内としてタクグスが寧安から派遣した兵が、すでによく道を知っていたこともあり、八万の騎兵は寧安までまったく滞ることなく到着した。
「お待ちしておりました、族長」
寧安の城壁外で、タクグスはズタスを出迎えた。城内はすでにそれなりの安定を取り戻しており、無秩序に八万の兵を収納するのは得策ではなかった。タクグスと共に寧安を占拠した三万――脱落した五千もすでに合流していた――は、すでにこの世の春を謳歌しているが、彼らと交代ということにもなろう。寧安の民にとって災厄の日が続く。
「ご苦労だった、タクグス。万事うまくいったようだな」
「いえ、都内の要所確保、占拠、占領、略奪等は予定通りにおこなえましたが、皇帝一家確保には失敗いたしました。非才の身、厳罰を覚悟しております」
「いや、汝の報告通りであれば、汝に罪はない。むしろ庸の皇帝を誉めてやるべきだろう。わしもかの者がそれほどの挙に出られる男だとは思うていなかった。汝に罪があるとすれば、わしにも疎漏はあった。気にするな」
「恐れ入ります」
「しかし、いささか面倒なことにはなったな」
「は。影武者を仕立てますか?」
「いや、わしや汝はまだしもだが、そのような腹芸はわしらの不得手とするところだ。逆に墓穴を掘ることになりかねん。やめておこう」
「は」
北河南岸で戦力を整えながら、タクグスの「皇帝・皇妃・皇子・皇女、全員自害」との報告を受けたズタスは、隠すことなく舌打ちした。タクグスは自らの失敗を飾ることなく状況の報告を正確におこなっていたため、彼をとがめる気はズタスにはなかったが、それでも皇帝一家を死なせたのは痛かった。
敵であり、しかもその親玉である以上、皇帝は殺してしまうのが当然との向きもあるが、事はそう単純ではないのだ。むしろ殺してしまった方が味方の害になり、敵の益になってしまう。
捕らえておくことの益は、なんといっても絶対的な人質になり得る。まだまだ広い央華大陸。現状、騎馬民族は全体の四分の一程度を制覇したにすぎない。支配下に置いていない領土や庸人の方がはるかに多く、彼らの抵抗はまだまだ続くだろう。
その時、皇帝の身命を盾にすればどうなるか。実際に抵抗をやめることはないにしても、ためらいを持たずにはいられなくなるだろう。本心は人質になった皇帝など見捨てたいと思っても、そんなことを公言するわけにはいかないし、実際に見捨てたりすれば、見捨てた方が不忠の汚名をかぶることになる。このあたりは、彼らの文明人としての倫理観と誇りとが大きな枷となるのだ。
また、いまの皇帝が生きている限り、新しい皇帝を立てて王朝を運営していくわけにもいかなくなる。抵抗するにしろ反撃するにしろ、あるいはごく日常的な政(まつりごと)をおこなっていくにしても、皇帝という核がなければ成り立たない。それが敵中にあるとあっては、万事が不都合になるのは必至である。それを嫌って無理に新しい皇帝を立てたとしても、敵中で「前皇帝」が生きている限り、その正統性は常に疑われることになる。まして庸の宮廷は内輪揉めが常と言っていい状態だ。正統性があやしい皇帝の元で真にまとまるのは難しいであろう。
そしてさらに、人質にした皇帝を傀儡にして、庸帝国を実質的に自分たちの物にしてしまうことすら出来るかもしれない。このあたりまで来ると謀略の水準が騎馬民族の能力を越えてしまいかねないため、なかなかうまくはいかないだろうが、それでもこのような可能性が残ること自体が味方にとって有利であり、敵にとって不利なのだ。
が、皇帝が死んでしまえばすべてはご破算である。庸の「遺民」たちにとって、これらの障害はすべて消え去ってしまう。彼らは皇族の誰かから「新皇帝」を立て、その者を新たな核として反撃態勢を築くことができる。少なくとも皇帝が生きたままに比べれば、はるかに強固なそれを造り上げることができるだろう。
「せめて皇子の誰かが生き残ってくれれば、その者を正統な庸の皇太子、ひいては皇帝として、新しい皇帝に対抗させることが出来たであろうにな」
ズタスにしろタクグスにしろ、同様にため息をつくのには、陳徹が息子や娘たちまで道連れに自害してしまったことも理由として大きかった。
陳徹の実子は彼自身が殺した者しかいないことは調べがついていた。庸の各地に幾人かいる皇族は、すべて陳徹の弟や従兄弟などばかりである。確かに彼らにも皇位を継ぐ資格はあるのだが、やはり皇統は親から子へが正統である。他の皇族が帝位に就いたとて、陳徹の子供を「正統な皇太子=皇帝」として担ぎ上げ、彼らと対決させれば、庸の宮廷も民衆も動揺を禁じ得ないであろう。敵の動揺は味方にとっての益である。これからの戦いにおいて有用な武器となるはずであった。
それらすべての可能性を、陳徹が摘み取ってしまったのだ。それも自暴自棄からの暴挙としてではなく、こちらの意図を正確に見破った上でである。惰弱と思われた皇帝でさえこれほどの見識と覚悟とを持っていたとは、タクグスでなくとも「庸、いまだ侮りがたし」と、嘆息しつつ認めないわけにはいかなかった。
とはいえ寧安占拠は大きな加点であることに変わりはない。タクグスの武勲は巨大で、大いに面目を施し、他の族長や将軍たちも彼に一目も二目も置くようになった。なにしろ発案から立案、準備から実行まで、すべて彼主導でおこなわれたのであるから、認めないわけにはいかない。中でも北河防衛の庸軍撃破(摂津の戦い)すら陽動として、一挙に帝都まで陥落させてしまうという発想を持ったことがなにより彼の評価となった。なにしろ他の誰も、ズタスですらそこまでの飛躍は出来なかったのだから。
もちろん、大きすぎる武勲は他の将軍たちの嫉視を招く面はあるが「大族の族長代理」以外に足場のなかったタクグスには、とにかく実績が必要だったのだから仕方がない。これからのことはこれからのことである。
タクグスにとって大きな幸運の一つは、武勲の巨大さを主君に対してはばかる必要がないことであった。凡庸な主君であれば、大きすぎる武勲を持った臣下に対し、嫉妬や警戒心を持つのが常である。それがために失脚させられたり殺されたりした例は枚挙に暇がない。
が、ズタスにその癖はなかった。彼は激情家ではあったが、器量の大きさはそれを上回る。臣下の武勲を嫉妬するような小ささは持ち合わせていなかった。
もっともタクグスにとっては、ズタスがそのように凡庸な男であってくれた方がありがたかったかもしれない。そうであれば、叔父は一時の敗北の屈辱とともに、捲土重来をはからなくてよかったのだから…
兵たちは、央華大陸どころか大陸全土でも有数の大都市でこの世の春を謳歌している。彼らにとってこれまでの労苦はこの時のためにあったようなもので、酒、女、金、その他もろもろの地上の快楽を味わい尽くそうとしていた。それは必然的に寧安の民衆にこの世の地獄を味わわせることになるのだが、ズタスもしばらくはこれを放置せざるを得ない。
言ってみればこれはズタスという政治家の「公約」である。さえぎったりすることは許されなかったのだ。ズタスとて寧安をしゃぶり尽くすまで永遠に、とは考えていなかったが、それでもある程度は好き勝手させてやる必要がある。
「師はこれを許される範囲と見てくれるであろうか…」
とは彼の懸念の大なるものだったが、今はどうしようもなかった。
そしてズタスには、もう一つやることがあった。これから先の方針や戦略を練り上げることである。それはズタスにとって楽しみでもあった。これまでこの手のことは彼一人でやらざるを得なかったのだが、今回からは参謀がいるのだ。負担を一人で背負うことに否やがあるわけではないが、必然それは軽減されるであろうし、なにより人材を得たことがうれしかったのである。たとえ潜在的な敵である可能性があろうとも。
「さて、これより先、我らはどのような形で庸を攻めてゆけばよかろうか」
ズタスは半ば非公式の会議をそのような言葉で始めた。皇宮の一室、私的な会談をする部屋である。皇帝が使用するものではなく、ごく当たり前の士大夫たちが使う部屋であるが、この一室だけでも彼らにとっては豪奢にすぎる。
ズタスはこの部屋に「参謀」であるタクグスだけでなく、他に二人の男を呼んでいた。一人が副将のケボルであるのは当然だが、もう一人は意外な人選であった。
「口裂け」こと、シン族の若き族長・サガルである。
サガルはギョラン族のスッヅを倒し、摂津の戦いでも獅子奮迅の活躍を見せ、武勲の輝かしいこと騎馬民族軍の中でも際立っていた。
だがズタスが彼をこの場に呼んだのは、彼の勇猛さを買ってのことではない。彼の中に見える、ただの猛将では済まない器量を正しく伸ばしたいと感じてのことであった。
彼を智将や謀将にしたいわけではない。それでは彼本来の長所が削られ落ちてしまう。あくまで彼は勇将である。だが、たとえそうであっても戦略までも理解した広い視野を持った将軍になってもらいたい。そう考えてのことであった。
素養の欠ける者にこのようなことを仕込もうとしても困難だが、サガルには確かにそれがある。もし彼がそのような、広い視野と深い思慮とを持った名将になってくれれば、ズタスにとってありがたさは、タクグスを得た時と同等かそれ以上であろう。
ゆえにサガルはこの場にいる。若将らしい自負にあふれた表情と、いささか場違いな居心地の悪さをたたえた雰囲気とが混在しており、ズタスは笑いをこらえるのに多少の努力が必要だった。
「攻めずにおく、という選択肢もございますな」
と、最初のズタスの問いに答えたのはタクグスであった。現状、サガルの戦功の光彩に比肩しうる武勲の持ち主は彼だけである。これまでの戦いで赫奕たる武勲を立てた将軍や兵士はいくらでもいるが「スッヅ殺害」「寧安陥落」に届く者は一人もいなかった。
ゆえにケボルも、そしてサガルも、タクグスには一目置いている。それは寧安突入の先頭に立ち、皇宮占拠を自身の手で成し遂げた武そのものに対してというのが大きかったが、同時に彼の智についても、ズタスほどではないが認めていた。それは他の将軍たちも同様だが、彼らはその念がより濃かったがゆえに、今、この大切な会議の場に呼ばれているのである。
「ふむ…」
タクグスの言に、ズタスは腕を組む。彼自身、考えていない選択肢ではなかった。それを見て取ったタクグスは言葉を続けた。
「北河以北と帝都・寧安、さらに北河流域。我らが征した領土は央華全土に比べれば四分の一程度でしかありませぬが、純粋に広大です。これほどの領域を央華帝国から奪った者は存在しません。その一事だけで長の名は歴史に残りましょう」
世辞でも誇張でもなかった。央華が現在の形で形成されるようになってから、庸を含めた巨大統一王朝はいくつも興亡を繰り返してきたが、そのどれからもこれほどの土地を分捕った異民族は、ズタスたち遊牧騎馬民族を含めて他に存在しなかった。「歴史に名を残すこと」の意味と栄誉を、この場で正確に理解しているのはズタスとタクグスだけだが、他の二人にも漠然とその恐ろしささえ含んだ巨大さは伝わる。
タクグスは続けた。
「また実質的にも、この広さの領域を統治していくのは至難です。これよりどれほど注力したとしても、必ず齟齬や軋轢が出てまいりましょう。下手をすれば叛乱や叛逆が起こってもおかしくはありません。それほどの難事が待っているというのに、これ以上の南下は危険としか言えないでしょう」
騎馬民族に、統治の技術情報は存在しない。央華民族のように大帝国を創設し、運営してきた経験は持ち合わせていないのだ。征服した領域内にいる庸人をすべて殺し、財宝その他をすべて奪い取り、そのまま故郷へ帰るというならともかく、そのような無意味なことをする気はズタスにはなかったし、タクグスも考えていなかった。
「ゆえに征服行動はここまでにして、すでに手に入れた物を完全に自分たちの物にするために全精力を注ぐというのも正しい選択かと思われますが」
タクグスは言葉を結んだ。このような意見を多数の将軍がいる場所で吐けば「臆病者!」とのそしりをまぬがれない。征服=侵攻であり、武力=支配・統治と考える騎馬民がはほとんどである。中には手に入れた田畑を見て「こんなもの潰して牧草を植えよ。その方がはるかに使える」との暴言を吐いた者すらいた。畑から得られる農作物や、それから採れる「税」というものの価値を理解せず、自分たちの価値観だけで生きているのが彼らなのだ。いや、自らの価値観だけで生きているのは央華人も同じかもしれないが、とにかく騎馬民族に支配や統治に向いている人間が少ないのは確かである。
ケボルやサガルにもその傾向はある。が、ズタスに近い場所で生きてきたケボルや、発展途上の明晰さを持つサガルには、タクグスの言うことを漠然とながら理解できていた。ゆえに何も言わず、彼の言ったことを頭の中で咀嚼するため懸命に考えている。
それを待つことなく、ズタスは組んでいた腕を解いてタクグスに尋ねた。
「ここにとどまったとして、統治は完全に成るか?」
「それはわかりませぬ。我らはこれほどの土地を、まったく新しい形で治めなければなりませぬ。どのような結末となるか、誰にも予測はできますまい」
「では央華全土を対象にしたとて同じことだ。統治に成功するにせよ失敗するにせよ、どうせならすべてを呑み込んでからにしようではないか」
にやりと笑うズタスの言うことに、タクグスも似たにたような笑みを浮かべ頭を下げた。
タクグスも異議を唱えはしたが、ズタスが侵攻をやめるとは考えていなかったのだ。そうであっても一つ一つの事柄をきちんと整理するために異論を上げたのだが、そこにはサガルへの教育の意図もあった。これはズタスにはっきり頼まれたわけではないが、タクグスは察しており、大勢を見ての考え方というものを彼に示しているのである。
このような機微のわかるタクグスに、ズタスは「本当に良いものを拾った」と感動すらしていた。
「ではこのまま侵攻を続けるとして、どこの誰を相手にするか、ですな」
タクグスは次の議題へ移るが、その内容にケボルが首を傾げる。
「どこの誰とは? 相手は庸ではないか」
「庸がこのまま皇帝不在の状態を続けるはずがありません。それでは我らに対する抵抗も各地での散発的なものになり、各個に撃破されるだけですから。庸に勢力を糾合すべき者がなく、あるいはいるにしてもその数が複数で、その者たちの間で主導権争いが起こってくれれば、攻略はたやすいのですが」
「その言い方からすると、汝には糾合すべき者の目星がすでについているのだな」
タクグスの言うことにズタスは笑みを含んで問う。実は目星ならズタスにもついているのだが、この場の主導権はできるだけタクグスに握っておいてほしいため、さほど口を挟まないように気をつけているのだ。タクグスの権威は寧安での武勲で飛躍的に増大されたが、まだ足りないところは当然ある。そのために細かなことでも実績を積ませなければならなかった。
タクグスもそのことは感じているので、悪びれることなく続ける。
「は。おそらく紅都を治めている陳戎(ちん・かい)が新皇帝として即位するのではないかと」
「なるほど、皇帝の弟だな」
「は。他にも幾人か候補はおりますが、血統的にも実力的にも陳戎以上の有資格者は存在しません」
紅都は北の北河に匹敵するほどの南の大河、南江流域に存在する都市である。規模は寧安に匹敵するほどで、庸第二の都市と言っても過言ではない。北方の寧安が政治都市としての趣を持っているのに対し、紅都は経済都市としての色合いが濃かった。南方は北方に比べて農産物の量も種類も豊富であり、なにより海を通じての海外貿易が盛んだった。それにより発展した紅都を中心とする南方は、経済力では北を凌駕するほどである。「南の財貨で北を支える」側面すらあったのだ。
それほどの重要都市であるがゆえ、この都を治めるのは代々皇族と決まっていた。権力にしろ財力にしろ、臣下に持たせるには巨大すぎる都市なのだ。もちろん皇族といえど謀反を起こすときは起こす。それであってもやはり血のつながりは人を安心させるところがあるもので、家・一族というものを大切にする央華文明においては、無理からぬ処置であった。
その紅都を現在治めているのが皇帝・陳徹の弟、趙王・陳戎だった。
三十八歳の彼自身は皇帝である兄と比べ、とりたてて優れているというわけではない。もしそうであれば、兄皇子を廃して彼を皇太子、皇帝にという運動があってもおかしくなかっただろう。
人となりは誠実で、悪人ではなかった。それゆえ野心もさほどなく、大過なくすぎてゆく庸帝国内で、大過なく「高貴な凡人」として生きて死んでゆくはずであった。
その彼が統治しているせいか、紅都も大都市であっても凡庸な内実である。繁栄し、南方のあたたかさもあってか開放的で、貿易都市ゆえに外国人も多く、経済力もあるため陽性のにぎやかさもあり、そしてそれなりの腐敗と矛盾とを抱えた「普通の都市」だった。
だが、時代と、北方に生まれたはた迷惑な野心家によって、陳戎も紅都も、安穏とした幸福から蹴り出されてしまった。
「皇帝陛下がご崩御!?」
陳戎はその報告を受けて愕然と椅子から立ち上がった。彼とていかに穏健な性格といえ、またいかに離れた場所のこととはいえ、現在の庸の異常な状況を無視したり放置したりしていたわけではない。絶えず情報は仕入れ、兵や必要な物資を北方へ送ったりもしていた。それでも北から良い報告はほとんど何もやって来ず、彼とともに紅都を治める士大夫たちと陰鬱な日々を送っていたのだ。
ちなみに紅都における宦官の勢力はさほどではなかった。いかに大都市とはいえ南江流域は彼らにとって「田舎」である。あえて行きたいと思える場所ではなく、ある程度甘い蜜の吸い上げが出来ていれば満足であったし、なにより寧安と皇帝さえ抑えておけば万事どうとでもなる。それは完全な事実であり、軍事力をほとんど持たない紅都は、彼らにとってそこまで重要ではなかったのだ。
「は、北狄により寧安は陥落。陛下はご家族とともにご自害を…」
報告する士大夫も蒼白のままである。
「…そうか…」
しばらく茫然としていた陳戎は、放心のままつぶやき、椅子に崩れるように座り直した。
彼同様兄帝は凡君であったが、それゆえか兄弟仲は悪くなかった。覇権を争い、殺し合う兄弟すら珍しくない央華帝国の歴史において、彼らは私人としては幸福な部類に入る。それだけに兄と義姉、甥、姪たちの訃報は、純粋に陳戎を打ちのめした。
が、ここで打ちのめされたままでいることを許されないのが彼の立場であった。士大夫の一人が進み出て、頭を垂れたまま言上する。
「都督閣下、皇帝陛下のご崩御、哀惜の極みなれど、帝位は一日とて空位であることを許しませぬ。なにとぞご善処を」
陳戎の立場は「皇弟」であり「紅都都督」であるから、敬称は殿下、あるいは閣下になる。この場は都督としての彼が召集したものであるから士大夫は閣下と呼んだのだが、言上の内容は、聞きようによっては不穏なものであった。
そのことに気づいた陳戎は、打ちのめされたままながら軽く視線を上げ、士大夫を見る。
「なにが言いたい」
「陛下がご崩御なさった際は太子さまが帝位にお就きになるのが必定ではございますが、その太子さまもお亡くなりになられました。また他の皇子さまも皇女さまも皆陛下に殉じられた由。陛下の跡をお継ぎになり、大庸の皇帝となられる方は寧安にはおられませぬ。また他の土地にあらせられる皇族の方々は、皆様陛下よりお年を召した方や幼弱な方ばかり。血統的にも年齢的にも陛下の御跡をお継ぎになられるのは、閣下しかあらせられぬかと…」
「汝はわしに帝位に就けと申すのか!?」
打ちのめされていた陳戎は、目を剥いて勢いよく立ち上がった。
このような言は、本来であれば口にするだけで不敬罪を問われかねないものだが、この時この場では絶対にせねばならない話であった。士大夫の言うとおり、帝位は一日も空けてはならないのである。もちろん、皇帝が死んで何日も経っているが、一日も早く新しい皇帝を立てなければならないことに変わりはない。そうでなければ庸帝国は分裂し、本当に騎馬民族軍に蹂躙され、亡ぼされてしまうだろう。
そしてこの状況では、陳戎以外の者が帝位に就くことは考えられなかった。理由は進言した士大夫が挙げた通りだが、ぐずぐずしていればもともと野心を持たぬ者すらこの状況にうずきを覚え、暴発する可能性があった。他の皇族が勝手に帝位に就くことを宣言したり、あるいは他の何者かが簒奪を謀ろうとするかもしれない。そうなれば庸の分裂は決定的で、騎馬民族に対抗するどころではなくなってしまう。
が、陳戎にとっては青天の霹靂、寝耳に水に近い事態である。もっと野心のある男であれば、好機到来とばかりに喜々として帝位に就くかもしれないが、陳戎はそうではなかった。喜びより狼狽の方が大きい。
「閣下、なにとぞ」
だが士大夫たちには国の存亡が懸かった重大事である。絶対に退けなかった。
そして陳戎は、他者に強く出られると逆らうことが困難な性格をしていた。
「……わかった。汝らの申す通り、帝位に就こう」
それでも散々に逡巡し、一晩の猶予を求めた陳戎は、課せられた重責と自分の線の細さを自覚しつつも、ついに帝位に就くことを受け入れた。
庸帝国・第九代皇帝、陳戎の誕生である。
が、彼の代から庸は以前の庸とは違う国家となる。政治体制や経済活動、歴史的意義、文化的なものまで含めてである。彼らが意図してそうなったというより、状況によりやむを得ず、あるいは自分たちも知らぬうちいつの間にか、という形でだったし、彼ら自身も自国を「庸」と称し続けたが、それでもこれまでの統一王朝としての庸と区別して、紅都を帝都とするこの帝国は、後世において「南庸(なんよう)」と呼ばれるようになる。
このことにより陳戎は、「南庸」帝国・初代皇帝としても名を遺すこととなった。
陳戎が新皇帝に即位したことは、すぐにズタスたちの知るところとなった。それも当然で、紅都の「新宮廷」は全庸人を糾合するため、陳戎の即位と、紅都の「臨時帝都化」を全土に発布したのである。これにより庸人は拠り所を得、おのおのの心の中にしっかりとした足場を再度得ることができた。
つまり折れかけた心を立て直したということで、ズタスたちが最も避けたい事態が完成してしまったのである。
あきらめた者たちなどいかに数が多かろうと、枯れ枝を踏み折るように進むことができる。だが小さくとも生木となった彼らは、簡単に折れる相手ではなくなったのだ。これはこれからのズタスたちの侵略にとって、大いに不都合なことであった。
だがこれは皇帝一家を死なせてしまった時から覚悟していた事態である。いまさら落胆など表情にすら出さぬズタスだった。
だがズタスの落胆がさほどではなかったのは、彼の心構えだけの問題ではなく、ここから先に庸の組織的抵抗はほとんどないとわかっていたからでもあった。
庸は北河以北の戦いで、将や兵の主力や精鋭をことごとく失っており、最後の本格的な防衛戦とも言える摂津の戦いですら弱将と弱兵を使わざるを得なかったのだ。
長城を破り、北河を越え、庸軍のほとんどすべてを壊滅させたズタス率いる騎馬民族軍に、すでに敵はいなかった。
いないはずであった。
ズタスは間を開けなかった。寧安を占拠してもそこに居座るつもりはない。とにかく攻めに攻め、侵しに侵す、そのことしか考えていなかった。
これは彼の野心や性情によるものでもあるが、「ひとところにとどまった騎馬民族に、なんの脅威があるか」という現実からも来ていた。
何度も言うが、ここまで破竹の快進撃を続けている騎馬民族軍といえ、征服したのは央華大陸の四分の一でしかない。ここでとどまるということは守勢に回るということ。攻城は騎馬民族の不得手とするところだったが、守城はさらに苦手であった。なにしろ城など持った経験がないのだ。不得手とはいえ、何度もやったことがある攻城戦の方がまだましである。仮に庸が新たな軍を率いて攻めに来たとして、いかに高く厚い城壁に守られているとはいえ、寧安を維持出来る自信はズタスにも他の将軍にもなかった。
攻撃のみが自分たちを守る最大の防御であることを、彼らは自覚していた。
ズタスは北河以北から軍隊の到着を待ちつつ、兵には寧安での快適な生活と、厳しい訓練とを交互に与えた。
これまで激闘が続いたため、ある程度の飴を与えなければ兵はまともに動かない。といってあまりに甘やかせば厳しい戦いに赴くことを厭(いと)うようになる。
「南方はさらに豊かだぞ。寧安のような都市はいくらでもある。そこまでたどり着けば、また奪い放題喰らい放題だ」
将軍たちはズタスの指示のもと、飴にさらなる甘さを加えることによって兵の質を保ち、向上させていった。騎馬民族にとって略奪品の質と量は士気に直結するのだ。率直と言えば率直だが、それだけに扱いさえ間違えなければいくらでも戦力たりえた。
北河以北にある程度を残し、残りすべての兵がズタスのもとへたどり着いたのは、寧安陥落から二週間後であった。それからさらに二週間を使い「飴と鞭」の生活で兵を鍛えたズタスは、ついに進撃の再開を決意する。
兵数は、三十万。
すでにまともな戦力もない庸軍に対して圧倒的な数だったが、これからのズタスの「新しい相手」の力を考えれば、必ずしも多い数ではなかった。
「出撃!」
全軍を整備し終えたズタスは、彼らへ向けて侵攻再開を指示した。
当然の事態であるが、騎馬民族侵攻再開の報を聞いた「帝都」の宮廷は、やはり蒼ざめた。それも無理はない。なにしろ今の庸には、彼らに対抗できる武力など皆無だったのだから。
「当然兵を集めて迎撃せねばならぬが…」
「これまですでに相当の無理を民に強いておりますが、亡国の危機なれば、それでもなんとか兵は集められましょう。ただ集めるだけならば…」
「わかっておる…」
突如、紅都の高官から国家の高官へ格上げされた宮廷の人々だが、そのことを喜ぶ余裕はどこにもなかった。彼らとて庸の高官である以上それなりの能力はあるが、やはり凡人の域は出ない。もし凡人以上の能力があるのなら、寧安の宮廷で力を発揮するか、あるいは逆に宦官たちの嫉妬や恐れに遭い、殺されていただろう。そんな彼らでは、この非常事態に有効な手段を思いつくことは出来なかった。
「……」
それは新たに玉座に座った陳戎とて同様であった。彼も皇帝に即位できたこと自体はうれしい。兄帝への哀惜も偽りではないが、皇族男子に生まれてきた者の本懐は、やはり即位なのだ。それは本能に近いものである。
だがやはり、この時期の即位は喜びより憂いの方が圧倒的だった。普通に考えればいかに正統性があろうとも、陳戎の即位に反対意見が出てもおかしくなかった。しかし彼以外に帝位に就く資格のある皇族男子は誰一人として反対せず、すぐに忠誠を誓ってきた。彼らもこの時期に帝位に就くことの困難と恐怖をよく知っていたのだ。
そのことを自覚しつつも帝位に就いた陳戎は、あるいは志や心構えにおいて誰よりも皇帝にふさわしかったかもしれないが、能力の点で心許ないのは致し方なかった。
「陛下…」
恐怖に後押しされながら、有効な手立ては一つも出てこない会議の中、一人の臣下が気弱さを漂わせながらも皇帝へ言上してきた。まだ年若く、縁故でこの場にいる者であり、やはり能力の点では頼りにならない。それがわかってはいても、陳戎には何かにすがりたい思いは消せなかった。
彼に対し、気乗り薄と意気込みとをない交ぜた表情と声音で、わずかに身を乗り出す。
「なんだ、なにかよい策があるか」
「いえ、臣のような非才の身には何も…」
しかし臣下は気弱さをより強めながらあわてて否定し、皇帝を落胆させる。
「では何だ。無用のことでもよい、申してみよ」
それでも臣下を無碍(むげ)にはしない陳戎は彼に続けるようにうながし、若臣もやや気を改め言上する。
「は、確かに我が大庸は北狄どもに対抗する術(すべ)を持ち合わせてはおりませぬ。しかしこの央華には、まだ味方がおります」
「味方? どこか別の国から救援が来ると申すか。南方の兵は弱兵で当てにはならんし、西方は遠い。東方に到っては海を挟んでの間柄だ。どこからも兵など借りられぬぞ」
なによりこの「兵を借りる」という発想自体が今の庸にとっては禁忌に近い感情がある。なにしろ張堅が宦官を倒すため、ズタスたちコナレ族を引き込んだのがすべての発端なのだ。異国・異民族から兵を借りるなど、新たな敵を呼び込む以外にありえないという感覚が今の宮廷にはあった。
だが若い臣下が言いたいのは、まったく別のことであった。
「いえ、そうではありませぬ。すでに味方は我らのもとにあります。そして北狄に対し戦いを始めてくれておりましょう」
彼の言うことに皇帝たちは疑問符を浮かべたが、すぐに了承した。彼らも忘れていた「味方」のことを思い出したのだ。
「なるほど、確かにかの者らが最後の防壁になってくれるやもしれぬな」
皇帝たちは、わずかながら希望を見いだした表情になった。それがわずかなのは、たとえその「味方」が有効な防壁になってくれるとしても、民の犠牲は減らない。そのこともわかっていたからだった。
寧安を出撃した騎馬民族軍は、無人の野を行くようであった。なにしろ組織的に反抗する軍隊はほとんどいないのだ。
進む先進む先の街や邑、都市や城塞に、彼らは挑んでゆく。城攻めは苦手だったが、ズタスもそのあたりは考えていた。
まず簡単に陥落出来る城を選び、そこで城攻めの実践をさせてゆくのだ。攻城兵器は庸の武器庫から奪い、あるいは強制的に徴集してきた庸の工人たちを使って作らせる。彼らとて同胞の守る城を攻めるための兵器を作るのは苦しみ以外の何物でもなかったが、逆らったとて殺されるだけである。そして死してなお抗う心の持ち主の大半は、すでに殺されていた。彼らについて来ているのは、気概はあっても死ぬことが許されない立場にある者か、積極か消極かの差はあれど征服者に追従して生き延びよう、あわよくば富貴を得ようという者たちばかりである。ここまで来れば騎馬民族は、さして苦労もせず彼らを使うことができた。
雲梯(うんてい)、破城槌などの攻城兵器を、最初は騎馬民族たちもうまく使うことが出来なかった。しかしそこは慣れである。最初に容易な城を相手に戦ったことも奏功し、彼らはそれらの使い方に習熟していった。
城を攻め、邑を侵し、財を奪い、人を殺す。最初はゆるやかだったその動きも、城攻めに慣れてくれば速度も増す。それは皮肉なことに、よく整備された央華の街道網も一役買っており、血管を通して全身に毒液が巡るかのようである。
騎馬民族の速攻は北の大地のみならず、央華の大地でも発揮され始めた。
彼らのゆくところ、最初からあきらめて降伏する城や街も多かった。だが徹底抗戦を言動と行動とで示すそれらも少なくない。そんな彼らへの騎馬民族の対応は、
「城門を開けて降伏すれば命だけは助けてやる。さもなくば皆殺しだ」
これであった。
一見すると公正な申し出のようにも見える。だが最初から降伏しても助けられるのは命だけで、その他の物は根こそぎ奪われてしまうのだ。まして他人の家に武器を持って押し掛け「門を開けなければ皆殺しだ」という申し出の、どこに人の道があるのか。
そのことを、ズタスは自覚していた。タクグスのようにズタス以外にも自覚していた騎馬民族もいた。その上で彼らはその道を突き進んでいるのだ。
彼らは仁者ではなかった。侵略者であり略奪者であり殺人者だった。
彼らはそのことを知っていた。
経験を積んで「上達」してきたとはいえ、騎馬民族にとって城攻めは不得手の部類に入るし、性にも合わない。彼らにとって戦いとは、遮るものとてない平原における、正面からのぶつかり合いである。馬上、風とともに剣を振るってのそれこそが彼らの本懐であった。その欲求不満の解消もあってか、略奪は激しさを極めていた。
が、侵略する騎馬民族の感覚では亀の歩みでも、侵略される庸にとって彼らの侵攻速度は、燎原に放たれた炎も同然であった。
寧安を出撃した騎馬民族は、ほんの数ヶ月で央華大陸を半ばまで征してしまったのだ。彼らが停滞するのは城壁を攻める時と、攻め落とした街を略奪する時のみで、それ以外ではとどまるところを知らない。そして紅都の宮廷は彼らの侵攻に為す術がなかった。唯一の「味方」の効力が発揮されるのを待つしかない。忍耐と民の犠牲を唯一の武器に、彼らはその時を待っていた。
そしてその忍耐は、報われつつあった。
「もう来たか…」
央華大陸の半ばには、北河や南江ほどではないが、もう一つの大河があった。逗河(とうが)と呼ばれるその河は西から東へ、央華大陸を南北(上下)に、ほぼ均等に分けるように流れている。
その逗河に達したところでズタスは背後を顧み、奥歯を噛みしめた。
見た目、彼が率いる軍隊に変わったところはない。敵もない状態での侵攻で、戦死者どころか負傷者すらほとんどいないのだから変わりようがなかった。が、様々な部署からの報告により、それが崩れ始めていることを彼は察していたのだ。
そしてもう一人、そのことをズタスと同様の想いで察している者もいた。彼の参謀である。
「タクグス、ついに疫病が流行り始めたな」
「は」
ズタスの苦渋の声に、タクグスはなるべく表情を消して応じた。ここで主君と同じ感情に染まっては思考が同じ方向にしか向かず、効果的な対応策が浮かばないと考えたからだが、彼自身の複雑な想いを表に出さないためでもあった。
当初から懸念していた通り、ズタスに染まり始めている自分を自覚していたからである。さらに言えば、それはズタスが叔父の器量を越えると認めることであり、彼の心の芯にある何かを崩壊させる事態でもあった。そのことを簡単に認めるには、タクグスもまだ若すぎた。
そんな参謀の心情を察することなく――あるいは察していても忖度する余裕もなく――ズタスは続ける。
「最初からわかっていたことだ。だがせめて、南江にたどり着くまでは保たせたかったが…」
長城の北、北方の高原が彼らの故郷である。長城はただの国境ではなかった。そこから別の国になるということである。政治的・文明的にだけでなく、風土的にも。異国において侵略する軍隊が最も恐れるのは、敵軍よりこの風土の違いからくる疫病であった。その土地に住む者にとっては何の恐れのないものでも、異国から来た者にとっては、水や空気さえも安心して取り込むことはできない。これらの強敵に対しては、史上最強の騎馬民族軍でさえ抗することは出来なかった。
ましてここから先はさらなる「異国」である。庸人にとってさえ南江を挟んでの互いの土地は「異国」の感が強い。北河周辺から南江近辺へ移り住み、そこで疫病にかかって死ぬ者も少なくないのだ。この時代、同国内でも移住はある意味命懸けであった。
ゆえにズタスもこの事態を覚悟し、同時に恐れていたのだが、誤算だったのは予想より早く「症状」が現れてしまったことだった。彼の考えでは、南江近くまでたどり着けさえすれば、疫病で多少の兵力減はあっても、勢いで紅都の新政権を覆し、覇権を獲得できるはずであったのだ。
その見通し自体が甘かったかもしれない。だがそれでも紅都近辺まで侵攻出来れば、それだけでも示威の効果は大きいし、兵に実地経験も積ませられる。再度の侵攻における成功確率を上げることが出来たはずだったのだ。
しかし、ズタスの思惑ははずれはじめていた。
これこそが紅都の新政権が期待した味方、央華大陸そのものの広さと風土であった。無敵の騎馬民族軍であっても、それは庸軍、庸人に対してのみであり、央華大陸の広さには抗し得ない。またそれはズタス自身が認め恐れるところでもあった。
「逗河を越えて南江まで届くであろうか」
ズタスは馬上から南への視線をはずさずに、タクグスに尋ねた。
「届きます。ですが、届くだけです」
タクグスは正直に答えた。南江まで届かせるだけならいくらでも出来る。だがそこに到った騎馬民族軍は、疲弊し、疫病に冒され、数は減り、戦闘力は激減しているだろう。とてものこと紅都を落とすことは出来ない。
そして激減した戦力は、そのままズタスの権力と権威の失墜を意味する。騎馬民族は力を信奉する。彼ら固有の宗教も存在するが、それも即物的な力の前には数歩及ばない。もしズタスがここで庸侵略を無理に続行すれば、北にいる者たちがうごめき出すのは必定だった。
それは長城の北にいる者たちだけではない。長城の南、北河以北や寧安に残してきた者たちも同様である。力という蓋がなくなった彼らは、自分たちの野心と欲望を満たすため、互いに争い始めるだろう。
そうなれば庸の征服どころではない。まだ地歩も固まってない場所での内乱となる。これまでの苦労も無に帰し、得た物をどれほど失うことになるか。それどころか元々持っていたものまでどれほど損なうかわかったものではなかった。
「帰るか…」
ズタスは、南方をはるか見透かしながらつぶやいた。
そこには、野心を半ばにしてあきらめなければならない無念以上のなにかがこめられているようであった。
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