第8話 寧安陥落

 寧安の街は大喝采に包まれていた。

「孫将軍、北狄撃破。敵軍死傷者多数。北河以南より完全に駆逐。北狄は北河以北へ逃走。我が軍の損害は軽微なり」

 との捷報がもたらされたからだ。敗報はひた隠しにする宮廷だが、これは大々的に発表された。正式な敗報が宮廷からもたらされなくても、商人や旅人、また敗残兵等様々なところから流れ込んでくる情報で、寧安のみならず庸の民は騎馬民族に自分たちの国が侵されていることを知っていた。詳細がわからないだけに噂や流言の類も多く、それが返って彼らの不安を煽っていたが、宮廷からのこの発表は彼らを爆発的に喜ばせた。

「やった! 皇帝陛下万歳! 孫将軍万歳!」

「これでもう安心だ!」

「このまま北河以北も取り戻せるぞ!」

「北狄なんぞ蹴散らして追い返せ! 連中には北の茫漠とした大地がお似合いだ!」

 これまでの不安の大きさを表すようなお祭り騒ぎに、寧安の街はわき返る。実際、この年のどの祭より派手に、大規模にこの勝利は祝われた。中には羽目を外しすぎ、登った火の見櫓から落ちて死亡する者まで現れたほどだ。しかしこのような少数の不幸を飲み込むほどに、寧安は場違いな活気に包まれた。

 

 宮廷の方は、都民を越えるほどの浮かれっぷりであった。民のように馬鹿騒ぎ、大騒ぎをするわけではないが、騎馬民族に手も足も出ず、敗北に敗北を重ねてきた彼らの心労は極限に達していたのである。それが解放されたのだ。浮かれるなという方が無理であった。

「やりました。やりましたなあ」

「まさか孫どのにこれほどの将才があったとは、まったく気づけませなんだ」

「さようさよう。適材を適所に置けばどのような困難も覆せる。今後に活かすべき教訓ですな」

「これまで孫どのを文官として遇していたのは間違いでござった。この責は誰に求められましょう」

「それはもちろん…」

 このような会話が宮廷の宦官派と士大夫派と双方でおこなわれていた。おそろしいほど同じ内容で、喉元が過ぎればすぐに政敵への非難と責任へ問題を移す。最後の「もちろん…」の後は、士大夫派は宦官派の、宦官派は士大夫派の、誰かの名を挙げる。もちろん。

 このようなことだから騎馬民族にいいように自国の領土を蹂躙されているのだが、それがわかる者であれば、そもそもこの窮状に到ってはいなかった。

 だが、これでまたしばらくは内輪揉めをやっていられる。撃退された騎馬民族も、さすがにすぐ再度の出兵をおこなうことは難しいだろう。北河以北奪還のことを考えれば余裕などあるはずもないが、寧安にいる自分たちへの直接の危機はとりあえず去ってくれた。彼らにはそれだけで充分だった。


 そしてこの捷報は、当然ながら虚報である。送り主は、これも当然ながら騎馬民族。スンク族族長代理、タクグスであった。

 あらかじめ北河南岸に準備させていた、庸軍の兵に扮装させた兵を、戦闘が始まると同時に寧安へ向けて出発させたのだ。扮装といっても衣服やよろいを庸軍の物にしただけではない。完全に庸兵に見えるように、言葉や動作、仕草、礼儀、常識等も教育された兵である。彼らはスンク族出身であり、以前からこのような策を用いるためにタクグスが育ててきた兵なのだ。本物以上に庸兵らしく見えるほどであった。

 ゆえに彼らがもたらした「捷報」は、庸の宮廷ではすぐに信じられた。「使者」は見知った顔ではなかったが、もともと「そうなってほしい」と心から願っていた内容の報告である。彼らは飛びつくように信じたのだ。

 寧安へ捷報を届けた偽装兵は一人だけではない。他の者たちは寧安の民衆へ「捷報」をふれ回った。彼らにしても北から暗雲が近づいていることは知っているし、北河以北と連絡が取れない状況であることも知っている。寧安は北河に近く、いつ危険が迫ってくるかわからないが、それでも天下の大都である。高く厚い城壁もあれば兵隊もいる。いくら自国の軍隊が騎馬民族軍に連戦連敗であっても、寧安が落ちるなどとはなかなか信じられないものである。だがそうであっても不安が消えるわけではない。

 ゆえに彼らもこの捷報を一瞬で信じ、大いに湧いた。さらに宮廷から正式な発表もあり、彼らの安堵と歓喜は帝都を覆うほどになった。


 タクグスがこのような虚報を寧安にもたらしたのは、当然ながら彼らを油断させるためである。が、さらにもう一歩、踏み込んだ目的があった。

 寧安の城門を開かせるためである。

 普段、寧安の城門は、朝開き、夜閉じるものである。そうでなければ民衆が自由に出入りできず、商業その他の維持や発展に大きな阻害が出来てしまう。

 だが戦時中は事情が異なる。当然、今現在も昼間は開いてはいるが、それでもすぐ近くで戦がおこなわれるとなれば、いつでも閉じられるように警戒されるし、そのための準備も怠らない。また民衆も、北からやってきた人間の情報に過敏になり、警戒心は強くなる。まして庸軍が負けたとの報が伝われば、彼らの警戒心は最高潮に達し、城門は固く閉じられ、騎馬民族にはどう攻略しようもない城壁が完成してしまう。彼らはとにかく攻城戦、持久戦が苦手なのだ。

 ゆえにタクグスは寧安の警戒心という「城門」を開け放したかった。そのために必要なのは、彼らを安心させることである。そして彼らを最大限安心させる方法は、この場合、「庸軍の勝利」以外ありえない。

 もちろんこの後、庸軍惨敗の「真報」は北からやってくることになるだろう。寧安攻撃隊の進軍中、北河南岸はまだ戦闘中で、庸軍の敗北は決まっていなかったが、タクグスはそのことを疑っていなかった。

 ゆえにタクグスは、寧安が虚報に踊らされている間に、すべてを決してしまうつもりだったのだ。


 三万の騎兵は疾走する。最前列には庸内の地理に詳しい者を置き、脱落してゆく者はそのまま捨てて行く。とにかく速さのみがすべてを決するのだ。城門さえ開いていれば、たとえ半数以下であっても寧安を落とすことができる。タクグスはそう踏んでいた。そして城門が開いている可能性はほぼ十割。しかも一つだけでなく、東西南北すべての門が開いている可能性が高いとの自信があった。


 その自信は、正当なものであった。

 寧安は、民衆のみならず、宮廷もあまりの安堵に羽目をはずしていたのだ。

「凱旋の前祝いだ!」

 との号令の下、すでに戦勝を祝うための祭が開催されていた。軍隊が凱旋してきた時にはあらためて祝祭がおこなわれるため、前祝いである。これは普段の戦勝であってもおこなわれるものだが、今回は央華史上でも未曾有の大危機からの回生である。盛大さにおいて庸の歴史上最大のものとなった。

 街路には露天が並び、歌舞音曲は辺り一面から流れてくる。

 宮廷から役所を通じ、男には酒がふるまわれ、女子供には蜂蜜水や菓子が無料で配られる。

 大声で歌う者、走り回る子供、神々に感謝の祈りを捧げる者。中には昂揚しすぎて殴り合いに発展する者すらいたが、そんな連中でさえ笑顔は消えなかった。

 ある意味では、央華史上最大の祝祭である。解放感は帝都にあふれ、城外にすら及ぶほどだった。

 当然、城門など邪魔である。分厚い鉄製の門扉を全開にしていても、今日の戦勝気分から来る解放感の前には物足りない。城壁すら壊してすべてを開け放ってしまいたい。それほどに都民の心は浮かれ、すべてに対して開けっぴろげであった。



 そんな帝都・寧安から半舎離れた場所にタクグス率いる騎馬民族軍二万五千――脱落は五千騎だった――が到着したのは、朝だった。強行軍ゆえ多少の休息は取ったが、兵たちの方がこらえきれない風情である。

 それも当然であろう。寧安は庸以前の央華帝国の帝都としても使われてきた栄華の都なのだ。そこにはどれほどの美果があるか。自律心の強い精鋭であっても騎馬民族としての本能は抑えきれない。

 またそれだけでなく、無自覚ながら自分たちが歴史に名を残そうとしていると感じていたことも彼らを昂揚させていた。万古の都・寧安を陥落させる歴史上最初の騎馬民族。それが彼らであった。

 そしてその意味と価値を正しく把握している男が彼らの指揮官である。

「斥候の報告によれば、寧安は戦勝の前祝いを昨日より三日に渡り執り行う予定だそうだ。つまり今日も彼らは何の警戒もなく、浮かれ、踊り、そして城門を開け放っている」

 タクグスの静かな、報告のような演説を黙って聞いていた二万五千の兵は、声を立てずに気炎を上げた。信じられないほどの質と量を誇る高級料理が、なんの苦労もなく食べ放題だと言われたようなものである。寧安が本来持っている堅牢さを知っている彼らにしてみれば、夢かと疑うほどの朗報であった。

 彼らの気炎を感じ取ったタクグスは、それが最高潮に達した瞬間に語を続けた。

「皇帝をはじめ、皇族は必ず生け捕りにせよ。殺すことは許さぬ。また帝都に火を放ってもならぬ。それでは黄金を生み続ける羊を自ら殺すようなものだからな。民衆も同様だ。むやみに殺すな。いかな寧安といえど、人が住まぬ都は何も生まぬ。何も作らぬ。それでは帝都を落としたとて、なんの意味もない」

 が、抑制はここまでだった。

「だがそれ以外は何をしても構わぬ。奪いたいだけ奪え。犯したいだけ犯せ。兵であろうが民であろうが反抗する者は殺せ。長城を越えてのち、これまでの汝らの労苦を省みぬ者どもがどのような目に遭うか、帝都のすべての人間に知らしめてやれ!」

 騎馬民族の中では異端といえるほど理知的なタクグスだが、やはり彼も北方の民だった。ズタスに比べ兵たちの士気を上げるための演技は多少存在したが、峻厳さとそれにともなう残忍さは、彼らの属性である。

 兵たちは今度こそ武器を掲げ、叫声を挙げ、抑制されてきた欲望を解放した。

 それを見たタクグスは、剣を振り上げ、振り下ろした。

「突撃!」

 半舎は、歩兵を含む一軍が半日で進む距離である。騎兵しかいない騎馬民族軍にとって指呼の距離である。「突撃」は誇張でもなんでもなかった。



 城門の外にも人は住んでいた。「衛星邑」といえる集落さえある。帝都・寧安といえど無限の広さを誇るわけではなく、このような場所に住んでいる人たちはたいてい下層民である。故郷で仕事にあぶれ、大都市までそれらを求めに来て、そのまま住み着いてしまったのだ。

 以前はこのような人たちもいなかった。庸帝国も建国から百五十年近くが過ぎ、膿がたまり、たががゆるみつつあった。上層部の腐敗やそれに伴う中層・下層の乱れ。それらが徐々に吹き出し、社会の不満やきしみが顕在化しはじめていたのだ。彼らの存在は庸帝国が傾き始めた事実の、目に見える証拠の一つであった。

 といえ、庸帝国もこのまま何事もなければ、あと数十年はもったはずである。庸も表面的には繁栄し、安定していた。柱や壁を白蟻が、内側から少しずつ蝕み続け、ある日突然崩れるような滅亡が待っているにしても、である。

 だが庸の滅亡は、外部からの凄まじいまでの突風によってもたらされた。

 この日、これから起こる寧安での惨状が、それを最も明確に現すことになる。


 城壁の外に住む人たちにとっても、この日は祝日だった。無料で配られる酒や菓子は、彼らにもふるまわれたのだ。彼らにとって、特に子供たちにとっては、年に何度も食べられない甘いものであり、親たちにとってもそんな子供を見るのは幸福でしかなかった。

 それに彼らとて騎馬民族の侵略に無関心であるはずもない。不安は央華大陸全土を覆い、憂いを持たない者は皆無だった。ゆえに彼らにも今回の「捷報」は心から歓迎すべきものだったのだ。

 彼らも日雇いや力仕事をするため都内に入るため、普段からさほど制限を受けているわけではないが、今日は特に開け放たれた城門から出入りすることも自由であり、戦勝祝いの祭りに参加することも許されていた。

 寧安の民の中には、彼らを蔑み、差別する者もいたが、この日はそんな者もいなかった。解放感と達成感は人を寛容にする。中には自分たちの宴会に見も知らぬ彼らを呼び入れ、共に飲み、歌い、笑う者も多数いた。これで終わっていれば、ほんの短い日数であっても、寧安は夢と理想の都市として過ごせただろう。


 最初に異変に気づいたのは、衛星邑に残った彼らだった。

 寧安の外周部に住む彼らの全員が都内に入って祝ったわけではない。病気で動けない者もいたし、家での仕事をおろそかに出来ない者もいた。だが彼らも「戦勝」に華やがぬ者はおらず、全員が久々の解放感を味わっていた。

 その彼らの解放感に震動が伝わってきた。

「…なんだ?」

 彼らは、摂津の戦いで歩哨が感じたのと同じものを感じ、同じことをつぶやいた。快晴の空に暗雲が急速に広がってゆくような不安。

 そして彼らは目でも見た。遠くに砂塵が巻き上がり、それが徐々に大きくなってくる光景を。それもまた件の歩哨たちが見たものと同じで、原因も同じであった。

 が、彼らが「原因」を認識するのは、歩哨たちよりも遅れた。いかに意外な方向からやってきたとはいえ、歩哨たちには戦時の意識があり、どれほどありえなくとも敵の存在は常に認識していた。

 しかし彼らは違う。戦場から遠く離れた場所に住むまったくの民間人で、徴兵からもまぬがれている違法に近い存在である。それゆえ彼らは、砂塵を上げる存在が至近に迫ってすら、それが何なのかわからなかった。

「うわ……!」

 彼らに許されたのは悲鳴を上げることだけだった。初動が遅れたせいもあるが、騎馬民族たちの疾走は、邑人に逃げる間も与えなかった。

 が、馬群は、衛星邑の存在を無視するように通り過ぎていった。奪う物がない場所に、彼らの用はない。が、行き掛けの駄賃のように邑人は殺された。全員がではない。道にいた者が「ついで」に殺されたのだ。

 邑人は、暴風のような人馬の群が通り過ぎた後にいくつか転がった死体へ目をやる余裕もなく、呆然と立ち尽くすのみであった。

 生き残った彼らと死んでいった邑人たちが、央華史上に庸帝国の事実上の滅亡を示す大略奪・大虐殺として名を残す、「寧安陥落」の最初の犠牲者であったが、彼ら自身はその意味を知ることもなく生を終えていった。

 

 タクグスは、二万五千の兵を三つに分けた。本来であれば軍を分けるなど愚行でしかないが、今回は「敵」が存在しないのである。三つが四つや五つでも問題なかった。

 タクグスは、北門七千五百、南門七千五百、東門一万で突入させた。西門を開けておいたのは、袋小路になった民衆を逃がすためだが、自軍の兵が「殺しすぎないように」との配慮が主であった。

 時刻は昼近く。祭りの二日目も盛りの頃。油断しきっている寧安へ三方から突入した騎馬民族軍は、都内にいた庸人を、一瞬で夢から悪夢へ突き落とした。


 民衆は殺された。タクグスにやりすぎるなと言われていたにしては殺しすぎたように見える。が、そうではなかった。もし指揮官に釘を刺されていなかったら、彼らはもっと殺していた。その証拠に、彼らはもう一つの厳命であった放火はおこなわなかった。それどころか、庸人が逃げる際に起こした失火を消すことすらしている。

 が、制動が制動に見えないほど、やはり彼らは殺した。血に、酔っていたのだろう。そうとしか言えなかった。

 

 略奪もおこなわれた。彼らにとっては殺人よりこちらが主目的である。「遺漏なく」おこなわれるのも当然であった。

 騎馬民族の感性では夢のような時間であった。寧安は東方大帝国の帝都である。央華大陸どころか、西方まで含めた大陸全土で三本の指に入るほどの豊かな都市である。そこを好き放題蹂躙し、奪うことが出来るのだ。人生で二度とないであろう僥倖である。人には幸福を求める権利も力もあるが、彼らのそれは他の人間の不幸のもとに成り立っている。それだけが問題だったのだが、今の彼らにそんなことを思う余地は一片もなかった。


 東門から突入した兵が最も多いのは、西へ「押し出す」ためである。といって逃げ出す民衆はそこまで多くない。そのための時間がなかったというのもあるが、逃げ出したとて行く場所がある者ばかりではないのも大きな理由だった。一度門から寧安から逃れつつ、結局戻ってきた都民も少なくなかった。

 が、この時タクグスが指揮したのは、北門から突入した七千五百の兵だった。なぜか。寧安の北に皇宮があるからである。

「絶対に皇帝は逃がさん」

 という意図のもと、タクグスは北門突入軍を指揮していた。

 とはいえ皇宮が無防備なわけではない。寧安の都市全体を囲う城壁の内側に、皇宮の周りにも城壁が張り巡らされている。そこは街の中の街という風情で、皇室関係者の邸や、彼らの使用人のための住まいなどがあった。そしてさらにその内側にもう一つ城壁があり、その内部にあるのが皇宮である。皇帝やその家族、帝国の重臣たちがいる場所であった。いわば庸の中枢と言っていい拠点だが、それだけに防備は厚い。まともにぶつかれば、もともと攻城戦に弱い騎馬民族軍は、城壁の外で立ち往生するしかなかっただろう。

 だがタクグスには成算があった。皇宮にしたところでこの奇襲はまったくの予想外、想定外の事態だろう。防備も、もちろん門は閉まっていようが、守備を担う近衛兵も油断しきっているはずである。

 ゆえに速攻であった。タクグスは第二城壁の一つの門へ兵を集中させた。その圧力は圧倒的であり、なにが起こったのかわからない近衛兵に何もさせないまま城壁を乗り越え、兵を殺し、城門を内側から開け放ち、兵を突入させる。

 さらに間髪入れず第三の、最後の城壁へも同様の集中攻撃を仕掛け、城門を突破してしまった。近衛兵たちに状況把握の余裕さえ与えないほどの速攻は、騎馬民族軍の面目躍如であった。

 そして突入後の皇宮へ響くのは、寧安都内に劣らぬ阿鼻叫喚だった。


「なにが起こった! 何なのだ! 叛乱か!? 叛乱なのか!? 叛逆なのか!?」

 にわかに宮廷に響きだした叫喚と、空気を圧する尋常でない圧力に、皇帝より先に、皇帝以上にうろたえ騒ぎ立てたのは、賢花を含む宦官たちだった。彼らの世界は皇宮の中だけ、広がったとしても寧安の中だけにしかなかった。寧安の城壁の外は、彼らにとって支配すべき世界であり、脳内と机上の世界であった。

 その「別世界」が自分たちの世界へ侵入してくるなど、ありえないことだった。少なくとも想像は出来ても実感は出来ないことだった。それだけに宮内の叛乱や叛逆をまず疑ったのだが、これは彼らの無意識の傲慢だった。叛逆は皇帝に対しておこなわれるもので、彼らに対しておこなわれるものではないのだから。

 彼らの甲高い声を不快に聞きながら士大夫派はそのことに気づいたが、指摘したり糾弾したりはしなかった。彼らとてそんな余裕はなかったのだ。

「陛下、何が起こっておるかわかりませぬが、ここはひとまず玉体を安全な場所へお移しくだされ。その後、事態を納めますゆえ」

 士大夫派の長である徐雄は、それでも皇帝・陳徹の前へ進み出ると、そう言上した。彼としてもそれ以上に出来ることがなかったのだが、最も肝要なことであるのは確かだった。皇帝の身に何かあっては庸のすべてが大激震に見舞われる。すぐに新しい皇帝を立てるにしても、それまでの間、屋台骨が崩れるほどの揺動が庸を襲うだろう。まして陳徹には、まだ明確な皇太子は存在しなかったのだ。何人かいる皇子の中で、賢花が自分たちに最も都合のいい者をまだ見極めていなかったからである。

 その賢花の長である王潔が、徐雄の言上に色めき、彼を押し退けるように皇帝へにじりよった。

「陛下、そのような弱気な。叛乱などと申せど、民の祝日の隙を突くような姑息なものでございます。大庸最強の近衛兵であれば、ものの半刻で鎮圧してみせましょう」

 他の宦官のように目に見えてうろたえたりはしてなかったが、王潔も遠方からの叫喚に蒼ざめて為すところがなかった。それでも自分たち以外に皇帝の思考や行動を左右する者が現れるのは絶対に許さなかった。彼らにとって、それは本能のようなものである。

 彼らには皇帝しかいなかった。皇帝が自分たちの手元から離れれば、彼らには何も残らない。誰からも自らの身を守れない。

 ゆえに事実の確認も深い考えもなしに、ただ徐雄と真逆の進言をして皇帝を自分たちの元へ置こうとするのである。彼らにとって外界の現実は二の次であった。

 そして士大夫の宦官への反発も、反射の域に達するほど骨髄に染みている。徐雄のような年配の重臣ですら、その癖から自由ではなかった。皇帝への配慮をわずかに残しつつも、王潔の自己中心と無礼とへ憤る。

「まだ何が起こったかすら判明しておらぬではないか。陛下に安全な場所へ移っていただくは臣下としての義務であろうが」

「では徐どのは、他に何が起こったとおっしゃるか。北狄が攻め入ってきたとでもおっしゃるのか。いかにかの者どもが卑しき蛮族といえ、空を飛んでこられるわけでもございますまい。まして我が軍に撃滅させられた弱軍が、しかも寧安の皇宮へ侵入してくるなど、天地がひっくり返ってもありえぬではござらぬか」

「わしは何も北狄が侵入してきたと言うておらぬ。何が起こったかわからぬと言うておるのだ」

「北狄の侵入はありえぬ。北狄以外の外敵の侵入もありえぬ。叛乱ならば近衛兵が収める。徐どのはなにがご心配か。失礼ながら徐どのは、ご自分の臆病を陛下の安全のためと口実をつけて正当化なさっておるとしか臣には思えませぬ。臣下として陛下をそのような卑しき行為に巻き込むなど、許されぬことでござる。ご自重なされよ」

「わしがいつ臆病を示したか! 無礼を申すと許さぬぞ」

「臆病者は真実を突かれると、うろたえて大声を放つと申します。徐どのの大声はその類ではございますまいか?」

「つい先刻まで蒼ざめて腰を抜かしていた汝に言われとうないわ!」

「徐どのこそ無礼をおっしゃるな。私は陛下の御ために沈思しておったにすぎませぬ」

「その結果があの愚策か。愚考にふさわしい結論だな」

「臆病者の拙案よりは、よほどにましでございましょう」

 宦官派、士大夫派、双方の長が現状を忘れて、またしても罵りあいをはじめる水準である。陳徹は近づいてくる叫喚と圧力と悲鳴とを聞きながら、絶望感を深めていた。


 タクグス率いる七千五百は、皇宮をあっという間に埋め尽くしていった。城壁を乗り越えられた時点で勝敗は決している。近衛兵は、勇敢に戦う者もあり、逃げ出す者もいたが、逃亡に成功した者以外ほぼ全員が殺された。武器を持っていたからだ。タクグスの指示は「武器を持つ者、抵抗する者は殺しても構わん」であった。

 女官の中には暴行を受けた者もいたが、ほとんどは見逃された。タクグスが選んだ精兵の大部分は、「皇帝確保」という最重要の目的を忘れていなかったのだ。

 が、宦官は容赦なく殺された。彼らの見分け方は簡単である。男性器のない彼らには髭が生えていないのだ。士大夫たちは自分たちが宦官と同類に見られることを忌避し、髭の薄い者ですら必死になって生やしていたため、宦官と誤解されて殺される者は皆無に近かった。

 そんな中、武器を持たぬ文官であっても、北狄と蔑む彼らに皇宮を蹂躙される屈辱に耐えきれず抵抗する者もいたが、その勇気と誇りは彼らの命とともに消える。

「皇帝はどこか」

 徐々に皇宮の深く深くへ侵入してゆくタクグスは、出会う文官にしばしば尋ねる。死を賭して無言を貫く者は捨て置き、恐怖に駆られる者を脅して聞き出すと、さらに奥へ。

 皇帝と国家の重臣たちがいる宮廷まであと少し。


 宮廷にすら、怒号、悲鳴、剣戟の音がはっきり聞こえるようになってきた。中には「北狄だあ!」との悲鳴も聞こえ、皇宮乱入の暴挙に出た者の正体を知らせてくる。

 すでに徐雄も王潔も黙っていた。互いの人格や見識からではない。ありえない恐怖が彼らの顔を蒼ざめさせ、口を開いたまま声を失わせたのだ。

 そんな中、皇帝は立ち上がった。そして背後の扉へ向かう。

「へ、陛下、どちらへ」

 徐雄がかろうじて声を漏らし、尋ねる。王潔も口を開くが、むなしく開閉するだけだった。彼ら宦官の思考は、自己肯定と責任転嫁を旨としている。それは主君である皇帝に対してすら同様で、この時の王潔も「お一人でお逃げあそばすか」という非難を浴びせようとしたのだが、自分たちの内世界をはるかに越える恐怖の前に、声が出てこなかったのだ。

 そんな彼らに、皇帝は振り向いた。

「朕が何を言おうと考えようと、汝らに聞く気はあるまい」

 冷たいというより乾いた表情と言葉は、即位してからこれまでの陳徹の真情を余すことなく示していた。

 彼はこれまで無視されてきた。最も尊貴な地位にありながら、彼の言うことを聞く者は宮廷に誰もいなかった。それを怒るには彼の心は乾ききっており、また怒る資格がないことも知っていた。

「朕の無力が汝らを誤らせた。ゆえに北狄に降るも許す。好きにせよ。しかし最期くらいは朕のすることに口出ししてくれるな。頼む」

 そう言いおくと陳徹は扉の向こうへ消え、そんな主君を士大夫も宦官も呆然と見送るしかなかった。


 そして自失が去ると、彼らは恐慌に陥った。本当にどうしていいかわからなくなったのだ。

「に、逃げるか?」

「ど、どこへ。どうやって。もうここには北狄があふれかえっているに決まっておるぞ」

「で、ではどうする、戦うか」

「それこそどうやって! 北狄にかなう者が我らの中におるものか!」

「大声を挙げるな! ではどうするのだ、降るのか」

「そ、それしかあるまい。陛下もお許しくださった」

「汝らはそれでも大庸の忠臣か! 北狄に降るなど恥を知れ!」

「恥で生き抜くことができるか! 死にたければ汝一人で死ね。わしは嫌だ、まだまだすべきことがあるのだ」

「汝のしたいことなど酒池肉林だけであろうが! 私欲のために大庸の臣下としての道を踏み外すか」

「汝と同じにするな! わしは大庸の民のために生き残り、すべきことがあるのだ。そのためなら泥水をすすっても生き延びてくれるわ」

「どの口がそのようなことを言うか! 民の血肉を喰らって私腹を肥やしてきた者が、それこそ恥を知れ」

「汝にだけは言われとうないわ!」

 士大夫も宦官も関係なく、互いへの罵詈雑言が乱れ飛ぶ。

 中にはどこか奇妙に空白を覚える者もいて、この絶望的状況においてすら互いを罵り合うことしかできない自分たちに恐怖すら感じつつへたり込む。

「我らはいったい、なんだったのか…」

 それはこの世に生まれ落ちて数十年、はじめて彼が正気に戻った瞬間だった。

 が、それは本当に一瞬のことでしかなかった。

 ついにタクグス率いる騎馬民族が宮廷へ押し入ってきたのだ。

 すべてを終わらせるために。



 陳徹は、一室に家族を集めていた。

 人数は九人。皇妃が一人、正式な愛妾が三人。娘は二人。十三歳と九歳。そして息子が三人。十二歳、十歳、六歳である。娘は二人とも皇妃の子で、皇子三人のうち長男は一人の愛妾、次男と三男はもう一人の愛妾の子であった。

 全員が現在の皇宮の、異様な状況に怯えきっている。特に二人の娘や最年少の皇子はそれぞれの母親から離れられず、彼女たちも子供を抱きしめながら蒼ざめていた。

 と、そこへ陳徹が現れ、彼女たちはホッと安堵のため息をつくが、すぐに不安と恐怖に彩られた顔に戻り、皇帝ににじりよる。

「陛下、いったいなにが…」 

 皇妃が尋ねた。彼女も女である以上、愛妾たちの存在にややわだかまりはあるが、それでもこの状況では些末事である。全員が、今は夫であり父である皇帝にすがるしかなかった。

 が、陳徹は妻の問いには答えず、乾きと烈情とのこもった目で彼女たち、特に子供たちを見やると、おもむろに手にしていた剣を抜く。その行為に目を剥く九人だったが、彼の次の行動は驚くどころの話ではなかった。 

 いきなり最年長の皇子を、剣で突き刺したのだ。

「…! 陛下! なにをなさるのです!」

 刹那の後、床に崩れ落ちた我が子を、母である愛妾の一人が悲鳴を上げて抱き上げる。が、ほとんど無防備のまま心の臓を貫かれた長男は、恐怖や苦痛を浮かべる余裕もなく、なにがなんだかわからないという表情で、すでに事切れていた。

 母も同様になにが起こったかわからなかったが、息子を失った現実だけが彼女を半狂乱にさせかかる。が、続けて起こした皇帝の次の行動が、彼女に狂わせることすら許さなかった。彼は、我が子を次々と刺し殺しはじめたのだ。

 逃げる間もなく皇子が次々と刺され、あまりの光景に自失していた愛妾が、我に返ったように我が子を抱き上げるが、急速に骸と化してゆく息子たちに声にならない悲鳴を上げる。

「陛下! 陛下! なにを、本当になにをなさるのです! おやめください、おやめください!」

 義理の息子たちが立て続けに父親に刺し殺される光景は、皇妃も恐慌に陥らせた。怯えと恐怖とに全身を染めた、彼女の実子である娘二人を両腕に抱き、部屋の隅へと逃げてゆく。が、狭い部屋である。逃げ場などほとんどない。扉と逆方向に逃げてしまったこともあり、皇妃と二人の皇女はすぐに追いつめられてしまった。そこへ血塗られた剣を持つ皇帝が歩み寄ってゆく。

 皇妃は、夫が乱心したと思った。騎馬民族に攻められ、さらに今は皇宮内に――騎馬民族なのか叛乱を起こした臣下なのか彼女にはまだわからなかったが――武器を持った敵が乱入しているらしい。それらの心労で夫は狂したのだ。そうでなければこのような人倫にはずれる暴挙に出るはずがない。皇妃はそう思った。

 が、夫の目を見た彼女は殴られたような混乱に陥る。陳徹の瞳は、激しい哀惜とたとえようもない無力感に苛まれてはいたが、決して正気を失っていなかったからである。

「陛下……」

「北狄どもに我らを残してやってはならぬのだ」

 皇妃の震える唇から漏れたのは夫の尊称だったが、皇帝は彼女の問いにはならぬ問いに答えてやる。

 そして陳徹はそのまま三人に近づくと、父の異常さに圧倒され、泣くこともできず固まったままの娘たちを、一人一人刺してゆく。母である皇妃も夫に圧倒され、腕の中の我が子を守ることが出来なかった。陳徹は武芸の心得があるため、子供たちは苦痛の時間も短く絶命してゆくが、それがなんの慰めにもならないと、消えかかる皇妃の理性はかろうじて感じている。

 我が子を全員刺殺した陳徹の手から、血塗れた剣が床に落ち、乾いた音を立てた。それぞれの母に抱かれた我が子の骸を眺めやる彼の目に、わずかに激情が戻ったように見えたが、それはまたすぐ消えた。

「ならぬのだ…北狄どもに我らを残してやっては…」

 もう一度、つぶやくように言うと、皇帝は妻と愛妾たちを見やる。

「汝らは好きにせよ。北狄に降って慰みものになるもよし、子を追って自害するもよし。朕もすぐに行くが、天上へは汝らだけで行くがよい。朕は地下へ落ちるであろうからな。その子らには父が詫びていたと告げてほしいところだが、朕には詫びる資格もなかろうな…」

 我が子の骸を抱え、泣くことも発狂することも出来ないまま茫然とする彼女たちに告げると、皇帝はふらつきそうになる足に力を込めて、自らが作り出した惨劇の部屋から出ていった。


 宮廷を出たタクグスたちは、さらに回廊を奥へ進む。彼らが求めるのは皇帝の身柄のみである。もしかしたらすでに逃亡してしまっているかもしれないが、宮廷にあれだけの重臣が残っていたのだ。逃げるなら連中も一緒に逃げているはずで、皇帝だけが逃げるに任せるはずもない。必ず皇宮内にいる。タクグスはそう信じていた。

 そしてその信念は、事実として報われた。

「いた!」

 一人の兵が前方にいる男を指差して叫んだ。騎馬民族の誰も庸の皇帝など見たこともないが、皇帝のみが着ることの許された皇帝服の特徴だけは聞かされて知っている。その特徴に合致する服を着た男を見つけたのだ。ただ、皇帝を逃がすために影武者が着込んで騎馬民族の目をごまかそうとしている可能性はある。

 が、それに関してはタクグスに腹案があった。

 タクグスは兵を引き連れ、皇帝服を着た男に走り寄ると、立ったまま短く質す。

「皇帝か」

 鋭く射るような視線で皇帝を見るタクグスのよろいは、砂塵と返り血に汚れ、ここまでの道程を如実に表している。凄惨なその姿は、気の弱い女官ならば見ただけで失神してしまうほどだったが、そんな彼を皇帝は、静かとも重いとも取れる目で見据えると、問いにふさわしい短さで答えた。

「さよう。朕が大庸帝国皇帝・陳徹だ」

「まことか」

 確認するタクグスに陳徹は苦笑する。

「そう尋ねられても困る。汝がそのような姿勢でおるのなら、どのような形で証明しようと疑うであろうが」

 タクグスは騎馬民族の中では繊弱に見える。が、芯には大族を率いるにふさわしい強靱さがあり、凡庸な者であればまともに相対することなどできはしない。ましてタクグスの後ろには、強悍さを体現したような兵が十人以上いるのだ。凡庸以上の男であっても平静を保つのは難しいだろう。そして陳徹は、本来、凡庸以下、惰弱とすら酷評されるひととなりのはずであった。少なくともタクグスはそう聞かされていた。

 が、今の陳徹は、敵兵の発する圧迫感をまるで感じていないようであり、タクグスを小さく混乱させる。あるいはやはり影武者なのだろうか。

「……」

 タクグスは無言のまま、一人の男を引きずり出した。賢花の一人、二花の朱叡であった。彼は皇帝を見ると、指を差し、甲高い声でタクグスに告げた。

「こ、皇帝です! 陳徹です! 間違いございません!」

 顔を知らない皇帝を見分ける首実検役として、半ば進んでタクグスたちについてきたのみならず、君主である皇帝を指差し、敬称もつけず、さらに名を呼び捨てにするという幾重もの不敬を一息に働く朱叡を、しかし陳徹は乾いた目で見やり、何も言わない。賢花がこういうひととなりであることは、陳徹にも重々わかっていたのだ。わかっていてこれまで彼らの言いなりになってきた。何を言う資格も自分にはないと、彼にはわかっていた。

 そんな朱叡に不快感と憤りを見せたのはタクグスであった。

「そうか、ご苦労であった。どこへなりとも好きなところへ行くがよい」

 が、タクグスはそんな朱叡を放してやった。「皇帝を見分けられれば助けてやる」とでも約束していたのだろう。突き飛ばされるように自由になった朱叡は、多少の狼狽を見せながらタクグスと陳徹をおろおろと見比べていたが、すぐに身を翻して走り去った。

「よいのか」

 とは、そんな朱叡を乾いた視線で見送った陳徹である。皇帝の問いにタクグスは、逃亡者への侮蔑を込めて答えた。

「全兵士に宦官はすべて殺すよう命じてある。逃げられるものなら逃げ切ってみせるがよい」

 タクグスに限らないが、騎馬民族にとって宦官は、本能的な嫌悪感と気色悪さとを覚える存在であった。彼らにとって性は即物的なものであり、男でも女でもない宦官は異質すぎて受け入れがたいのだ。ましてこれほど庸を腐敗させ弱体化させた要因が宦官だという事実も知っている。情においても理においても、生かしておく価値を覚えさせない存在が、彼らにとっての宦官だった。そして皇宮にはすでに騎馬民族軍が充満しており、前述した通り、髭のない宦官は簡単に見分けがつく。よほどの機知と幸運がなければ逃げ切れるものではない。

 現にこの後、皇宮内の宦官は一人残らず斬殺されてしまう。当然、朱叡も逃げ切れなかった。

 この大虐殺によって庸中枢に巣くった宦官派は一掃された。これは、ズタスと内通して長城の門を開き、庸崩壊の大きなきっかけを作った士大夫・張堅の悲願が達成されたということでもある。ズタスは彼との約束を守ったのだ。

 ただ、それだけのことだったが。

「そうか」

 タクグスの言うことにうなずいた陳徹は、あらためて彼に向き直る。が、なにを言うわけでもない。剣戟と悲鳴と叫喚がそこかしこから聞こえてくる中、沈黙に耐えきれないように口を開いたのはタクグスの方であった。

「宮廷に残った連中も、すでに全員死んでおる。命乞いをする者もいたが、そうでない者もいた」

 タクグスは、陳徹に同情していたのかもしれない。無自覚にそんなことを教えてやっていた。命乞いをする者は宦官が多く、あくまで屈せず騎馬民族を難詰してきた者は士大夫が多かった。だが、これもまたそれだけの話であった。

 陳徹は表情も変えずにうなずき、そして口を開いた。

「で、朕をどうしたいのだ。殺すのか?」

 陳徹の問いは、なにがしかの意志も込められており、タクグスはやや居住まいを正して応じた。

「いや、汝には我らとともに来てもらう。我らが長も、汝には会いたがっていた」

 これはズタスの当初からの方針であり、タクグスも異論はまったくなかった。皇帝は殺さず捕らえるべし。その方がただ殺すよりはるかに益がある。いや、殺してしまった方が害があるのだ。それも計り知れないほどの。

「そうか、さすがに北狄といえどこれほどのことをやってのける男はわかっておるな。が、そうであればこそ、朕は汝の主君に会うわけにはいかぬのだ」

 やや自嘲気味に笑みを浮かべた皇帝は、懐から小刀を取り出し、鞘から抜いた。それを見た騎馬民族たちは反射的に身構えたが、次の瞬間、皇帝がなにをしようとしているかを知ったタクグスは、目を見開き手を伸ばす。

 が、それより早く、小刀は手にした皇帝自身の頸動脈を切り裂いた。勢いよく血が噴き出し、皇帝は回廊に崩れ落ちる。

「くそ…!」

 タクグスは急いで皇帝に駆け寄り、片膝をついて彼の傷口を調べる。が、それは絶望しかタクグスに与えなかった。武芸に一応の心得がある皇帝は、手の施しようがないほどきれいに動脈を切り裂いていたのだ。繊弱に見えて歴戦であるタクグスにもそのことはすぐわかった。舌打ちは、皇帝の身命をおもんぱかってのことではなく、陳徹の意図を正確に感じ取ったからであった。そしてその推察が正しいことを、陳徹はか細い声で証明した。

「汝らに…我らは…一人も…残さん…」

 声の最後はほとんど聞こえず、陳徹の目からは急速に光が失われ、そして流れ出る血液がほとんどなくなったところで、それらはすべて消え去った。

 崩御した皇帝に渋面を見せるタクグスだったが、陳徹の言葉の意味にようやく気づき、らしくもなくあわてて背後の兵たちに命じた。

「皇子たちを探せ! 皇女もだ! 急げ!」

 タクグスの命令に跳ねるように反応した兵たちは、部屋を一つ一つ確認しながら皇宮の奥深くまで進む。そしてようやく見つけたのは、皇帝の子供たちと、彼らの後を追って自害した皇妃、愛妾たちの遺体であった。

「…やられたか」

 その報告を受けたタクグスは、生き残っている士大夫に首実検をさせて、彼らが真実、皇妃や皇子であることを確認した。遺体にすがりついて泣き崩れる士大夫には構わず、タクグスはさらなる渋面を作り、すでに屍となった皇帝のところへ戻り、彼を見下ろす。開いていた目を閉じさせてやったのはせめてもの情けであるが、タクグスは思っていた以上に、この死せる皇帝にしてやられたことを実感していた。

「皇帝と皇妃、皇子たちの遺体は生き残っている士大夫に任せて、連中のやりたいように安置させてやれ。葬儀その他はすべてが終わってからだ」

 タクグスがいかに博識であっても、央華帝国の葬儀の手順を知っているはずもない。勝者の特権としてこのまま北河に叩き込んでも構わないだろうが、それはこれからのことを考えれば下策であった。タクグスはそのことがわかる男ゆえにズタスに帝都攻撃軍の総指揮官に選ばれたのだが、それゆえに自分の失敗も自覚していた。

「…庸、いまだあなどりがたし、か」

 寧安陥落をもって、百四十四年続いた庸帝国は、事実上滅亡した。この歴史的壮挙を達成したタクグスに、しかし勝利感は薄い。陳徹は無能・惰弱を絵に描いたような皇帝であり、その皇帝に統治される庸帝国は彼らにとって与しやすい存在であるはずだった。

 が、それが間違いであったとタクグスは知った。

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