第7話 摂津の戦い
茫然自失。これがズタスが北河以北を完全に掌握しつつある頃の庸の朝廷の実状であった。
半ばは同情も可能であろう。六十万の大軍を送り込み、騎馬民族を壊滅させるか長城の外へ押し返そうとしたのは、彼らにしてみれば上出来であった。
だがこの大軍は、騎馬民族を壊滅させるどころかほとんど損害を与えることすら出来ないまま、完膚なきまでに叩き潰されてしまった。乾坤一擲でありながら必勝と言っていいだけの兵数と陣容であったにも関わらず、この惨敗である。彼らが茫然自失に陥るのも無理はなかった。
そして彼らが自失から帰ってくる間もなく、騎馬民族はズタスによって統一されてしまった。
騎馬民族たちの(庸から見れば)同士討ちはしばらく続く。それに付け込んで奴らを弱体化させ、再度長城の外へ叩き出してやろうと企図していた庸首脳部にとって、またたきする間もない、常識外の早業だった。
「ズタスとやらは鬼神か魔術師か」
そうとしか表現できないほど、ズタスの北河以北統一は、庸の朝廷にとって信じられない速攻だったのである。
が、これで庸の危機は最高潮となった。ここで満足して侵攻をやめるズタスであるはずがない。統一した軍隊をもって北河を渡り、央華大陸を蹂躙しはじめるは必定であった。しかし、すでに庸にはまとまった軍隊は存在しない。呂石に託した六十万は、最後の精鋭であったのだ。
それですら「庸では精鋭」でしかなく、騎馬民族たちから見れば弱兵であり、これから徴集しようという兵が、騎馬民族の精強さに対抗し得るはずがなかった。
余談だが彼ら朝廷がいかに追いつめられているかは、呂石の責任を追及する声が一つも挙がらなかったことからも証明されている。これほどの大敗を喫した将軍であれば、どのような罵声が上がっても当然であった。たとえ戦死しようとも、敵の捕虜になろうとも、許せるものではない。
それが士大夫はまだしも、「失敗はすべて他人のせい」を信条として生きている宦官からすらなかったのだから、彼らが精神まで真っ蒼になっているのが可視できるような有様であった。
この状況に至っての彼らの最重要課題は、皇帝や自分たちがいかに逃げ出すかであった。彼らはいまだ帝都・寧安にとどまっているのである。寧安は北河のすぐ南の支流の近くにあり、現状では騎馬民族たちと目と鼻の位置にあるといってよかった。
彼らがこれまで逃げ出さなかったのは、体面と、そのような弱腰を見せて兵や民の士気を下げることを恐れたからでもあったが、寧安が敵に攻められる状況が実感できなかったからでもある。北河のすぐ先で戦いがおこなわれていたとしても、彼らの想像力はそこにすら及ばなかったのだ。
実は今でも完全には実感できていない。彼らにとって寧安の中枢である宮廷がすべてであり、その外は現実感のない世界であったのだ。
それでも寧安の城壁の外に敵があふれてからでは手遅れである。そのことはわかる。現実感と同様に胆力も足りない彼らにとって、逃げ出すには充分の理由であった。
が、ここで反論が出た。士大夫の重鎮である
「寧安から陛下がただお逃げあそばせば、大庸全体が動揺し、宮廷の権威は失墜いたしましょう。それに寧安の民すべてを連れて脱出というわけにはいきませぬ。寧安には重臣を残して防衛に当たらせ、陛下には遷都として別の安全な都市へお
宦官派=通称「賢花」がいかに安全に寧安を逃げ出し、いかに安全な場所へ避難するかで右往左往している中、士大夫派の徐雄は皇帝・陳徹に対してそう直奏した。彼にしてもすでに皇帝を寧安から逃がさねばならないことはわかっているが、それが庸の滅亡に直結する事態は避けねばならない。どう取り繕っても逃亡の印象は拭えないが、それでも傷口は出来るだけ小さくしておきたかった。そうでなければ北狄に対して反撃に移る力すら失ってしまう。そのための「遷都」の提案であった。
確かにこれなら、形だけでもそれなりに威を保てる。だが陳徹には懸念もあった。
「しかし寧安に誰が残るというのだ。我が国にまとまった戦力はすでにほとんどない。兵を集めたとしても北河を渡ってくる北狄を撃退するために使わざるを得ず、寧安を守るために使える兵は少ないぞ。それでは万が一の時、全滅するだけではないか」
はっきり言って犬死にである。下手をすれば寧安の民全員がコナレ族に虐殺されてしまうかもしれない。が、この可能性は実は低かった。これまで集めた情報で、コナレ族族長ズタスは庸の朝廷内で、ただ暴虐なだけの男ではなく、話が通じる部分があると感じられていたのだ。ゆえに降伏すれば民にはそこまでの被害は与えられないかもしれないが、責任者としての重臣だけは彼らに捕らえられ、処刑されてしまう可能性は充分にある。そんな危険な役回りを誰が
「提案したは臣にございますれば、陛下のお許しをいただけるならば、その任、臣が承りたく存じます」
徐雄は低頭したまま静かな力感とともに自薦した。士大夫は、このような時こそ国にすべてを捧げる。それがゆえに士大夫なのだ。宮廷を宦官に牛耳られ、能力や勢力に不足を見せつつも、その矜持だけは士大夫派も決して忘れていなかった。あるいはこれ以外に宦官派に勝る力はないのかもしれず、それゆえ彼らにとって決して退くことの出来ない一線でもあったのだ。
皇帝の御前ゆえ発言は控えているが、他の士大夫たちも同じ気を発散している。そのことが感じられ、陳徹は感動し、徐雄たちに褒詞を捧げようとする。が、それを遮る者がいるのが、今の庸の宮廷の現実であった。
「お待ちくだされ陛下。その儀、臣は承伏いたしかねます」
年齢に比して高い声。宦官のそれは発言者の悪意をともなったとき、聞く者の不快感を鋭く刺激する。それゆえ他者への悪意を常態として生きている賢花のそれは、普段の発言すべてが不快であると言ってよかったが、今日のそれはさらに不快であった。
「なにゆえでござるか、王どの」
徐雄の提案を蹴り、皇帝から彼に与えられる名誉も封じたのは、賢花の一、現在の庸の事実上の支配者である
「寧安が北狄に攻められた折、抗戦するにしても勝利はおぼつかず、であれば降伏する選択のみしか結末はありえませぬ。であれば誰が残ったとて何の意味もございませぬ。民には最初から降伏の許可を与え、また寧安から避難する者にもその許可も与えればよろしい。さすれば無駄に死者が出ることもございますまい」
「正気か。この寧安にどれだけの民がいると思っている。百万以上だぞ。避難といってもそれでは大混乱になる。加えて逃亡中は北狄に対して無防備になり、やつらにとっては殺し放題、奪い放題ではないか。そもそも避難するとてどこへ逃げるというのだ。寧安の民をすべて受け入れられるような都市は央華には存在せぬ。様々な都市へ分配など出来ればよいが、そのような計画を立てる余裕はない。それでは彼らは流民になるしかないではないか。せめて我らのうち誰かが残り、彼らを率いて降る程度のことをせねば、それこそ民が無駄に死に、国に混乱をもたらす元となる。我らのうち誰一人残らぬなどありえぬ話だ」
「我らが庸の民はそこまで愚かではない。我らの指示なくとも自分たちが逃げる先を定め、自力でたどり着くことも可能であろう。北狄の襲撃から逃れることも同様。徐どのは陛下の臣民の力を蔑まれるか」
王潔の、民を信用しているように見せかけて、彼らに責任を押しつける暴論に、徐雄は憤慨して再反論しようとする。が、それにかぶせるように王潔は言いつのる。
「それと徐どのは今、臣を正気かと罵られた。そのことについて正式に謝罪を求める。臣は陛下の御ために常におのれを殺し、
「そのような揚げ足を取っている場合か。わしが残るのが気に食わぬのであれば、汝が残ればよかろう」
「そのようなことを申しているのではござらん。それに臣の名誉に関わることを些末事のようにおっしゃられるは許しがたいことにござる。陛下にすべてを捧げている臣の名誉を損なうは、陛下の名誉を穢すも同様にござる。不忠不敬の極みでござるぞ、徐どの。さらにただいま我らが在る場所は陛下の御前なれば、そのような口汚さも礼に反すること。陛下のご寛恕は無辺なれど、それに甘えるは臣下として許されぬことでござろう。陛下がお許しになっても臣らが許しませぬぞ」
「汝に許してもらうことなど、何一つない!」
士大夫派の能力の多寡は、賢花のこの程度の論旨のすり替えに正面から憤慨して乗ってしまうことからも知れる。それが若い臣下であるのならまだしも、重鎮である徐雄からしてこの様であることが絶望的であった。
王潔が徐雄たち士大夫派を寧安に残したくない理由は、純粋に自分たちに不利になるからである。たとえ降伏するにしても、ここで士大夫たちが寧安に残れば、民を身を挺して守る気概を見せた勇気ある英雄として国内で認知される可能性があった。北狄に処刑されでもすればその観はさらに強まるであろう。
さらに万が一、籠城戦で士大夫たちが北狄を撃退しでもしたら、彼らの名声は央華大陸を覆うほどになってしまうに違いない。そうなれば宦官派の面目は丸潰れで、下手をすると反動から粛正されてしまう怖れすらある。
そのような危険な可能性は芽にもならないうちから潰しておかねばならなかった。
それゆえ王潔は続ける。
「それに徐どの、北狄に降るにしても、それは本当に寧安の民のためでござるか?」
「どういうことか」
「あるいはすでに北狄に通じておる、ということはございますまいな。寧安を無血で明け渡すことを条件に助命を謀ろうとなさっておるのでは… いやそれどころか、北狄の武力を背景に、陛下が去った後の玉座にお座りになろうと画策なさっているのでは…?」
「言うに事欠いて! 汝こそそのような破廉恥なことを考えておるのであろう。いや、汝らのような不浄の者でなければ思いつけぬ卑しい考えだろうよ!」
「我らは陛下をお守りし、どこまでもついてゆく所存であることはすでに明らかにしております。徐どのでござろう、陛下から離れた場所に居りたいとおっしゃっているのは。そのような疑いをかけられるいわれは充分にございますぞ」
「貴様…!」
「陛下の御前でござる。そのような品のない言葉はお控えくだされ」
皇帝の眼前での口論、どころかそれ以下の水準の罵り合いを繰り返す二人であり、彼らの熱に当てられて互いに憎悪をむき出しにする賢花と士大夫派たち。彼らに挟まれた皇帝は虚しさに天を仰ぐだけである。
こうして、元々どのような対処を計るにしても足りない時間は、彼らの愚かさのために無駄に消費されてゆき、取り返しのつかない事態へ転げ落ちてゆくのであった。
実は騎馬民族側も厳しい。
ここまで庸に対しては連戦連勝、それもすべて完勝と言っていい結果だったが、それでも得たのは央華大陸の北河以北のみである。しかも力ずくで奪っただけの話で、まだ完全に自分たちの支配下に置いたわけではない。庸が南へ追い出され、かといって騎馬民族の政権が確立したわけでもない北河以北は、実質、無政府状態である。騎馬民族の軍隊が駐留している地域はまだしも、他の土地の治安は悪化し、仕事にも生活にも悪影響を与え続けている。
殊に経済は壊滅的であった。経済とはつまるところ、他の地域とのやり取りがなければ発展しようがないし維持することも出来ない。何か商品を持って他の土地へ売りに行こうとしても、治安が悪ければ道中で襲われて身ぐるみはがれ、殺されてしまうかもしれない。
商業網もズタズタになっている。北河以南との交通は難しくなり、以北内での往来もままならない。各都市、各邑が孤立している状態である。これでは商い=貿易が成り立つはずもなかった。
そこに加えて騎馬民族たちの略奪である。軍を維持するための徴収と言えば聞こえはいいが、そんな水準はとうに越えている。騎馬民族たちにとって略奪は戦闘の目的であり、同義でもあった。なるべく良い物を、なるべくたくさん奪うために命懸けで戦うのである。勝利した以上、彼らにとって略奪は当然の権利であった。
これはズタスたち首脳部からすると眉をしかめる話ではある。ズタスたち一部の人間には、騎馬民族のこの「習性」は、恒常的な支配において有害以外の何物でもないことはわかっていた。
それにズタスにとって師匠である韓嘉との「なるべく略奪は少なくするように」という約束もあった。ズタスもそのつもりはあるのだ。
だが習性と書いたように、進歩的な一部の者をのぞいて、騎馬民族のほとんどは生粋のそれのままである。上からの命令で抑えられるものでもなく、また抑えようとすれば大反発を招くことも必至であった。それどころか一気に反乱へ移るほどの絶対的な破滅につながる恐れすらある。ズタスも生きてはいられないであろう。
彼らを変えてゆくには時間が必要で、そのための時間はまだズタスらの手の内になかった。
が、それでもズタスであれば兵たちのこの蛮行をある程度抑えることはできる。というより軍律の面からいえばやって当然であった。現にズタスも、軍の物資を盗んだり、行軍や訓練で命令を聞かない兵は容赦なく斬り捨て、全軍を引き締めていた。
しかし兵たちの欲望そのものに関しては、あえて野放しにしている
このように北河以北は騎馬民族の手中に入ったが、急速に荒廃への道をたどっている。これを止めるには新たな支配体制を確立しなくてはならないが、そのためには年単位の時間や、質量そろった豊富な人材が必要だった。
が、ズタスは北河以北にとどまろうなどとは考えていなかった。
「このまま北河を渡り、庸を完全に攻め滅ぼし、央華大陸の全土を征服する」
そのことをズタスは主立った部下たちに宣言した。それは好戦的で奪い足りない大多数の騎馬民族と、高く柔軟な戦略眼と見識を持つ少数の騎馬民族と央華人との双方から賛成される方針であった。前者は感情の面から積極的に、後者は理性の面から積極的に(あるいはやや消極的に)との違いはあったが。
前者については説明の必要はほぼない。北河を渡ったその先には、今自分たちがいる大地よりはるかに芳醇な土地が待っているのだ。北河以北は長城の北の高原からすれば充分に満たされているが、央華全体から見れば実り少なき土地なのだ。南へゆけばゆくほどさらなる沃野が待っている。それを知る彼らは、欲望のままに南下を求めていた。
ズタスが兵たちの略奪を抑えなかったのは、このためである。騎馬民族の士気の大部分は欲望である。ただ奪って故郷へ帰るだけならこれまでのままの欲望で充分だが、ズタスが呑み干したいと思っているのは、央華大陸全土なのだ。
これから南下して大陸の奥へと進めば進むほど、思いもかけない事態が待っているに違いない。庸軍の反撃だけでなく、自然の脅威、疫病、補給、帰心、その他もろもろの困難である。その困難の巨大さと兵たちの士気=欲望のどちらが勝るか。ズタスにとってそれは、これからのために見過ごせないほど重大な要素である。野放しの略奪にさらされる北河以北の庸人は、兵たちの志気を得るための「生け贄」にされたようなものなのだ。
ズタスは器量の大きな男ではあるが決して甘くはなく、聖人でも君子でもなく、野心に全身を満たした侵略者であり征服者であった。
央華大陸南下支持の理由の後者、理性的な判断からのそれについては、現在の自分たちと庸との勢いの差を考えてのことである。庸が建国する以前から見ても、歴史上、騎馬民族がここまで広範囲に央華民族の土地を征した例はなかった。空前の勢威が今の騎馬民族にはあった。
重要なのはそれをより強く感じているのが、攻められる庸の方であるということだった。北河以北を失ったと言っても、まだ彼らが有している国土の方がはるかに広大で、人口もはるかに多いのである。国力=人口の時代、やりようによっては騎馬民族への抵抗もまだ不可能ではなかった。
しかし今は庸自身がそのことを信じられずにいる。ここまで連戦して連敗、しかもほとんどが大敗に完敗なのだ。宮廷はもとより民衆に至るまでが「北狄には勝てない!」と刷り込まれている。恐怖に支配された人間は、たとえどれほどの力があっても役には立たない。今の彼らは騎馬民族が攻めてきたら、あっという間に恐慌に陥って逃げ去るだけだろう。それなのにここで下手に時間をかければ、彼らの恐怖心は薄れ、勇気と対抗心をよみがえらせてしまうかもしれない。この機を逃す手はなかった。
さらに感情的・理性的な理由だけでなく、実質的な事情もあった。このままでは北河以北は自分たちの兵の略奪によって食い潰されてしまう。何年もかけて兵らを教導し、支配体制を固めようとしても、それが間に合わない恐れがあったのだ。
それほどまでに兵たちの略奪は凄まじかった。教養や広い視野を持たない彼らであっても、今自分たちが歴史の分岐点にいることを漠然とながら感じ取り、そのことに高揚しての蛮行かもしれない。が、だとしても余りにも度が過ぎている。これでは北河以北を貪り尽くした後、なにも得る物なく北の平原へ帰らなくてはならないかもしれず、そんな不毛な結果になるくらいなら、さらなる獲物を求めて南へ攻め入る方がはるかにいい。そこにある美果は、彼らをしても食い尽くせないほどの質量を持っているかもしれず、そうでなくとも時間が稼げる。兵たちを教導し、支配体制を築くための時間が。
騎馬民族は、自らが起こした凄まじいまでの風に乗って驀進しているように見えるが、同時にその暴風に煽られ、南へ侵攻しないことには立ちゆかない状況でもあったのだ。
騎馬民族が北河以北を征服して二ヶ月が過ぎた。彼らは今、北河の北岸に在る。全軍ではない。もともと精強な彼らの中でも精鋭の五万である。
北河は対岸が見えないほどの大河だ。水深が浅い場所もない。渡るには必ず船を必要とする。
が、騎馬民族には造船技術も操船技術もなかった。当然である。大河どころか水そのものが乏しい世界で生きてきた彼らなのだ。泳げる者自体ほとんどいなかった。
それゆえ北河のような大河は、彼ら騎馬民族にとって未知と恐怖の存在であった。地上・馬上では恐れるものなど何もない男たちが、北河を前に尻餅を突くほどの怯みと怯えを見せることも珍しくなかった。それは恐怖というより畏怖と言うべきかもしれない。自然には、特にその人が触れることの少ない巨大な自然には、そのような力がある。
いま北河を前に馬を立てる五万は、ただ戦いに強く、勇気があり、規律正しいというだけでなく、そのような畏怖や恐怖を乗り越えた男たちだった。
そんな彼らを前にズタスは告げる。
「汝らは我ら騎馬民族でも有数の勇者である。河を越え、庸の弱兵を斬り伏せる一剣と化せ。もって央華を呑み尽くせ!」
演説とも言えぬ短い文言だが、騎馬民族の族長としてすでに最大の存在となったズタスの言葉は、それだけで兵を奮い立たせる。ズタスの存在自体がすでに彼らの士気そのものであった。
彼らが乗り込むのは庸から奪った軍船である。百を越える人馬が乗れるほど巨大なものもあれば、十人がやっとという小舟もある。前述したように騎馬民族には造船技術も操船技術もなく、艦隊運用の知識も経験もなかった。ゆえに彼らはこの点では、庸人に頼らざるを得ない。いずれ自分たちもそれらを学び、身につけなければならないが、現時点ではそれしか方法がなかった。
家族を人質に取られ、あるいは殺すと脅されてやむなくという者も多かったが、自ら率先して騎馬民族に協力する庸人も多かった。彼らにしてみればこの世はすでに生き地獄である。せめてほんの少しでも生きやすくするためには、地獄の鬼が相手だろうと取り入らなくてはならない。またさらに野心を持つ者は、庸の将来を見限り、ズタスたちの時代が来ることに賭けたのだ。その中で栄達をはかるためには、出来るだけ早い段階で彼らに協力する方が恩を売れるというものである。
北からの突風は、庸人の生き方や考え方を根本から覆すほど強大なものになりつつあった。
騎馬民族が自分たちの軍船を駆り、北河を渡ろうとしていることは、すぐに庸の宮廷の知るところとなった。コナレ族が長城を破って侵入してくるまでほとんど機能していなかった庸の諜報機関だが、この時期はさすがに情報収集に力を入れるようになっている。が、騎馬民族が集めた船団は、そのような専門機関の調査能力が必要ないほど大規模なものであった。
予想していたこととはいえ、庸の宮廷は戦慄する。
「とにかく迎撃の準備だ」
諜報活動同様、そのための準備はすでに全力でおこなわれており、基本戦略も定められていた。
水際で叩く。これ以外に存在しなかった。
北河の南岸にも当然軍船は存在する。数から言えば互角で、加えて庸には造船技術があり、その気になれば突貫作業でさらなる軍船の増強も可能であった。さらに操船技術も敵軍とは比べ物にならないほどのものだろう。騎馬民族側の操船も庸人がおこなっているであろうが、彼らが進んで協力しているとも思えない。士気の差は歴然であり、それどころか庸人による戦闘中の妨害・寝返りも期待できる。
これだけ有利な条件がそろえば船を出して北河上での決戦も考えそうなものだが、彼らはその選択を断念している。それはやはり勝ち目がないからだ。
軍船同士の戦いと言っても、この時代の水上戦は、相手の船に乗り込み、白兵戦で決着をつけるというものである。いかに揺れる船上の戦いに不慣れとはいえ、正面から騎馬民族と剣をもってぶつかり勝利できると断言できる庸人はほとんどいなかった。それほどまでに個人戦闘能力で騎馬民族は庸人を凌駕しており、そしてなにより、庸人は騎馬民族に恐怖していた。実力の劣る者が最初から怯えていて、勝てると思う方がどうかしているだろう。
それでも上陸中の騎馬民族であれば勝算はある。それも充分に。
水の近くに帯陣することは、兵法でも固く戒める常識である。最初から逃げられない方向が一方でもあり、しかもその方向に追い落とされれば大打撃を受けること必至である以上、そんな場所の近くにいることは、実際面でも心理面でも圧倒的に不利なのだ。「背水の陣」は本来邪道であり、これを有効に扱うのは異能の天才将軍以外には不可能であった。
また上陸中の軍は無防備になる。上陸を終えた兵もすぐには戦いの準備は出来ないし、上陸途中の兵は言わずもがなである。しかも上陸中と上陸後の兵の行動は不統一であり、軍組織としては最悪の状態と言っていい。加えて騎馬民族はそもそも水が不得手だった。恐れていると断言していいほどである。
これだけ有利な状況であれば、いかに弱兵の庸軍であっても勝てるはずであった。
その危険をズタスが見落とすはずもなかった。
が、彼の幕僚や属将の理解は薄かった。彼らも頭ではわかっているのだが、感覚としてわかりにくいのだ。相手は、すでに何度も勝っているどころか一度も敗北したことのない庸軍である。どのように不利な戦場であろうと負けることなど想像もできなかった。加えて彼らは水辺での戦闘の経験がほとんどなく、その危険を体感したことがなかった。また元々戦いは頭ではなく勇気――場合によっては蛮勇――でするものだと信じている男たちである。
「泳ぎと北河以南での戦闘とが同時に初体験できるか。なかなかに珍妙な経験だな」
と豪語して笑う者がほとんどであった。油断といえば油断であるが、既体験は勝利のみであり、危惧すべき対象が未体験の事柄では、見通しが甘くなるのも無理からぬことである。そのことにこそ危惧を抱くズタスだったが、ただ一人例外がいることも見抜いていた。
すでに彼の幕僚の一員となっていたタクグスである。
彼は大族を率いて降ってきたため、最初からコナレ族の陣営ではそれなりに重きをもって迎えられたが、スンク族の将兵以外に彼個人に信服する将軍や兵は少なかった。騎馬民族は智者ではなく猛者に無条件で敬意を払う。ズタスの智力も相当なものだが、コナレ族が族長を慕う、あるいは畏れる理由は、その器量と勇猛さに対してが大部分であった。
この度、まだ少年から若者の域に入っただけのサガルも幕僚として初めて抜擢されたが、それに異を唱える者も皆無に近い。それはスッヅを討った勇猛さが認められたためであり、彼らにとっては当然の処遇であったのだ。
ゆえに今コナレ族でタクグスの真価を理解しているのは、ズタスを含め少数の者しかいなかった。そしてズタスとしては彼をどうしても軍師として自分の
しかし今ズタスがタクグスを重用すれば、他の部下たちに不満と不安が生まれるのは必至である。少なくともタクグス自身が彼らに一目置かれるまでは、控えるしかなかった。
が、当のタクグスにおとなしく控えるつもりはなかった。
ギョラン族とスンク族のコナレ族編入の大わらわの中、北河渡河と央華進撃のための作戦会議は何度か開かれていた。作戦会議と言っても、具体的な「作戦」を持っている人物など、参加している将軍たちの中にはほぼ皆無であり、自分たちの武勇を大声で語り合い、自らを鼓舞することを目的とした「決起集会」の色合いが濃い集まりである。作戦のほぼすべてはズタスが一人で考え、一人で準備し、一人で実施する。彼らはズタスの命令を過不足なくこなすことに全精力を注ぎ込めばよかったのだ。ズタスの負担は想像を絶するが、この程度で音を上げる男では、そもそも央華大陸を征服するような野心を持つはずがなかった。
ゆえにズタスに不満はなかったのだが、三度目の会議の折、発言を求められたタクグスが言い切ったのである。
「汝らはこの戦いでどこまでを求めておる」
今日に限らず、ここまでの会議でほとんど無言だったタクグスの発言に、その場にいた全員が軽くぎょっとして静寂に移った。発言時に諸将が小声とはいえ好き勝手しゃべっていたことからも、新参の若将であるタクグスがいかに軽んじられていたかがわかる。だがその若造の挑発的な言葉に一瞬の静寂を作ってしまった将たちは、そのことも含めて不快げに応じた。
「どこまでとな。庸の弱兵を完膚なきまでに叩きのめしてやるまでに決まっておろうが」
「それだけか」
「それ以上に何がある」
「寧安を落とす」
タクグスの一言に、またも場は一瞬静まりかえり、そして爆笑に包まれた。
それも当然であろう。庸帝国の帝都・寧安は、確かに北河流域にあり、遠方にあるわけではない。だが帝都である以上、防衛には庸全土で最も力を入れている場所でもある。
城壁は長城を越えるほどに高く、厚く、防御用の武器も最新式で豊富。また兵も選りすぐりの精兵をそろえているであろう。あるいはその兵も自分たちとの戦いに投入され、帝都とはいえさほどの兵は残らないかもしれない。だがまったく兵がいないことはありえず、逆に庸の軟弱な廷臣たちであれば、自分たちを守るために精兵を残しておく可能性も充分ある。騎馬民族から見れば、庸程度の兵の中から選ばれたのなら精鋭とはいえたいしたことはないと鼻で笑うだろうが、それでも城壁越しの戦いである以上、容易に勝ち得るとは思えなかった。
なにしろ騎馬民族は攻城戦を大の苦手としているのだ。城攻めの技術情報も体系化されておらず、攻城用の兵器もほとんど持っていない。そもそもそんなものがあれば、もっと容易に長城を越えられていたはずなのだ。
その寧安を、膨大な戦力と時間をつぎ込み、莫大な損害を被った上ならばともかく、激戦の予想される北河渡河のついでのように陥落させようというのだ。将軍たちの嘲笑も無理はなかった。
彼らの大笑、嘲笑の中、タクグスは表情一つ変えずに黙っていたが、しばらく続いた彼らの笑いが収まると鋭く続けた。
「では汝らは寧安は落とせぬというのだな」
「汝の夢想の中では落とせようがな。我らは命を張ったまともな考えの中で生きているゆえ、そのような夢物語につきあってはおられぬ」
「ではおれも自分の考えに命を懸けよう。おれの策で寧安が落とせなんだ時は、汝らに首をやる」
その言葉は新たな嘲笑で応じられてもおかしくなかった。が、将軍たちの耳に届いたタクグスの鋭い言葉は、新参の若将が本気であることを示し、彼らの心に突き刺さった。
嘲笑の声が止まる。命懸けの言葉には、それだけの力があるのだ。
先ほどと違う種類の静寂が起こり、その瞬間をズタスは逃さなかった。
「よかろう、まずはその策を話せ。使えるものであれば採用しよう」
絶対君主であるズタスに命じられれば、将軍たちも何も言えない。半ばの興味と半ばの不満とともに居住まいを正す将軍たちの前で、タクグスはズタスに一礼すると、彼の考えを話し始めた。
そしてその策は、採用された。
北河に浮かぶ軍船の数は、大小あわせて百を越えるほどであった。それでもまったく埋まる様子のない北河は、確かに大河である。
「噂に聞く海とはこういうものか」
「馬鹿を言うな。海はこれよりずっと広い」
「ずっと? どのくらいだ?」
「わからん。だがずっとだ」
騎馬民族の兵の間でそんな会話も為されていた。彼らにとって、北河や南江すら見たこともないほどの水の連なりである。海の広さなど想像のしようもなく、どこか下半身から力が抜けるような感覚すら覚え、あわてて首を振ってその畏れを振り払う者がいるほどだった。
人ですらこうなのだから、馬たちはさらなる恐怖にさらされた。が、馬までも精鋭を選んでの渡河である。兵たちの叱咤と慰撫とで彼らは落ち着きを取り戻す。どうにか船に乗り込んだ馬たちは、水に浮かぶ未知の足場と、初めて体験する揺れにもよく耐えた。そしてそれに加えて大量の武器や食糧、水、その他の必要なものも積み込まれ、ついに渡河の準備は整った。
「族長、いつでも」
副将ゲボルの報告にズタスはうなずくと、間を空けることなく命令を発した。
「出撃!」
銅鑼や鐘が鳴らされ、ズタスの命令が全船へ伝えられると、央華史上初の、騎馬民族に指揮される船団は北河を渡り始めた。それはズタスの統率力と騎馬民族の勇猛さを示す、見る者に整然さと力強さを感じさせる進発だった。
「来たか」
北河南岸に待機する庸の迎撃軍にも、騎馬民族軍進発の報はもたらされた。
庸軍、約十万。騎馬民族軍の二倍である。が、彼らに必勝の信念はまったくなかった。
庸本来の主力軍はすでに騎馬民族軍によって壊滅状態にあり、この軍の内実は、徴兵されたばかりで実戦経験もなく、訓練もままならない新兵や、すでに退役した者をあらためて徴用した古参兵、さらにこれまでの騎馬民族との戦いで生き残り、なんとか逃げ帰ってきた敗残兵と、真っ当な将軍であれば戦う前から匙を投げ出しかねないものだったのだ。
しかもその将軍の方も主立った者はすでに戦死しており、この軍を率いる
だがこれで必勝を期せというのは、無理というより無茶であるのは誰の目にも明らかだった。
しかしそれでも彼らは踏みとどまる。
「ここで北狄どもを抑えなければ後がない」
この防衛線で彼らが負ければ、央華大陸は燎原の炎のように騎馬民族に焼き尽くされ、食い尽くされてしまう。その恐怖と認識は、将軍から一兵士まで骨髄に刻み込まれていた。皮肉なことながら彼らの士気と意思の統一は、これまでのどの庸軍より高く強かったのだ。
また戦略も戦術も今回は単純である。
「上陸しようとする北狄を遠目から攻撃する。そのための矢も投石機もふんだんに用意してある。そうして連中の足を止めれば、いずれ食糧も水も切れて北岸へ帰るしかない。そして北河以北で略奪する物が無くなれば、連中は長城を越えて故地へ帰るしかなくなるだろう。そうなれば我らの勝ちだ」
基本の戦略と戦術は、長城を使い、騎馬民族を撃退してきたものと変わらない。城壁が河になっただけである。だが有効な戦略と戦術であろうことは疑いなかった。騎馬民族は騎馬民族ゆえに強く、それゆえに弱点も変わらない。彼らの勇猛さと機動力を発揮させず、戦線を膠着させ、食糧を使いきらせさえすれば、彼らはそれ以上戦うことが出来ないのだ。
孫佑も庸兵も、この一事にすがって満身の恐怖と戦っていた。
そして庸は、すでに北河以北の民のことを考えていなかった。考えてもどうしようもなかったのだ。今の庸に彼らを救う力はどこにもない。それどころか自分たちを守るだけで精一杯だった。彼らは、自分たちが生き残るために、罪悪感と無力感に目をつぶり、北の同胞を見捨てるしかなかった。
北河以北の庸人は、騎馬民族の生け贄となり、同国人から切り捨てられたのだった。
騎馬民族が渡河を始めたとの報告があってから丸一日後、北河南岸に彼らの船団が艦影を見せた。
「来たな」
孫佑は南岸に布陣したまま冷えそうになる肝を抑えつつ、船団を強い目で見た。もし自分だけのことだったら彼もその恐怖に耐えきれなかっただろう。だがこれは庸帝国存亡の危機である。どれほど恐怖に満たされていようと退くことは出来きないし、救国の使命感が彼を奮い立たせてもいた。なけなしの勇気も絞り出せようというものである。
また総司令官は孫佑であるが、実戦そのものに関しては副将格の将軍たちが担当する。彼らとて敗残の身であったり、歴戦というには足りない若将ばかりであった。それでもこの戦いの目的と戦い方とは熟知し、そのための準備は出来得る限り完璧におこなわれていた。
「旗艦らしき船にコナレ族の族旗がはためいております。また各艦の喫水線は荷を満載にしていることを示しております」
将軍の一人が敵船団の様子を報告してきた。コナレ族の族旗が掲げられているということはそこにズタスがいる証であり、また喫水戦の高さは人馬が大量に積み込まれている証拠である。目測の計算でも五万の人と馬が積載されていることは確実だった。
「よし、当初の予定通りにせよ」
孫佑は各将に命令を出した。
船団は、南岸に近づいて来ても接岸はしなかった。目の前に庸軍がいるため躊躇しているようである。
そのため船団は庸軍の邀撃を避けようと上流へ向かう。が、当然庸軍もそちらへ向かって移動する。その追撃をかわそうと今度は下流へ向けて舳先を向けるが、庸軍もそうはさせじと追いすがる。
庸軍は弱兵ではあったが、行軍の機敏さと統一だけは、短時間ながら徹底して叩き込んであった。それがなければ騎馬民族軍のこのような動きに対応できず、上陸を許してしまうかもしれなかったからだ。敵を素直に上陸させてしまえば勝ち目はない。とにかく執拗に「後の先」を取り続けるしかなく、庸軍は全霊をもってそこに活路を見出していた。
騎馬民族にとっても上陸地点はどこでもいいわけではない。出来るだけ安全に、出来るだけすべての兵を降ろせる広い場所がいい。広大な北河南岸ゆえ条件に合った場所はそれなりにあるが、そこはすべて庸軍の予測内にある。央華大陸は彼らの大地であり、北河は彼らの母なる大河だった。地の利は圧倒的に守る側のものなのだ。
また、船団をいくつかに分けて、南岸の様々な位置に上陸してくる可能性もなくはなかったが、それでは自ら兵力を分散することになり再集結が難しくなる。いくさ上手の騎馬民族がそのような愚行を犯すとは考えにくかったし、仮にそのような策取ってきても、庸軍は対応できるように準備していた。
船の喫水線から各船にだいたいどのくらいの兵が積まれているのかは、船団発見時から計算されている。それに応じて庸軍も兵を分けて邀撃すればいいのだ。本来であればこれも愚策ではあるが、庸軍は騎馬民族軍の二倍の兵力である。敵の兵数がわかる以上、分散した敵兵のそれに倍する兵を当てればいいのだ。圧倒的な兵力を持つ者のみに許される戦い方であった。
騎馬民族軍は船団を分けることはなかった。といって有効な策があるわけでもなさそうだった。ひとまとまりのまま、上陸場所を求めて北河上を右往左往するのみである。
騎馬民族に率いられているにしては操船がとどこおりないのは、脅されてか積極的にかはわからないが同国人がそのあたりを担当しているからであろうことは庸軍にもわかっていた。ゆえに船団がふらふらと暗礁に乗り上げたり、岸壁に激突するような、庸軍に有利な醜態をさらすとは期待していなかった。北河を庭とする庸の船人たちが練達であることは、庸の民にとって誇りですらあるのだ。
庸軍はひたすら、騎馬民族軍と根比べをするつもりであった。このまま時間が経てば、騎馬民族軍は食糧も水も尽き、北岸へ帰るしかなくなるのである。
自軍の強さに自信のない庸軍にとっては、それが最善であった。
そんな状態で丸二日以上が過ぎた。騎馬民族船団も今は北河上にたたずみ、動く気配もない。どうすることも出来ず、戸惑い、立ち尽くしているようにも見える。
「どうせならこちらから討って出るか?」
孫佑は幕僚たちとそんな相談をする余裕すら出てきた。もちろん全面的に攻撃を仕掛けるわけではない。足が速く小回りの利く小舟で近づき、嫌がらせの攻撃を仕掛けようというのだ。それだけでも敵軍に、物心両面でなにがしかの被害を与えられるだろうが、実行まではしなかった。今は船団も何をすることも出来ず、焦り、だれているに違いないが、ここで自分たちがちょっかいを出すことによって返って活気づき、全面攻勢を仕掛けてこないとも限らないのだ。騎馬民族の蛮勇は、ちょっとしたことをきっかけに暴発する。そうなれば庸軍としては与しやすい結果になるやもしれぬが、逆に全面潰走を誘発する結果になるかもしれなかった。
今の庸軍は腰の引けた弱兵ばかりである。騎馬民族の喚声だけで逃げ出しかねない。
相手が「だれ」と飢えで引き返してくれるかもしれない可能性を、自ら摘むわけにはいかなかった。
が、破局はいきなり、庸軍にとってまったく思いもよらぬ形でやってきた。
夜ともなれば騎馬民族軍も上陸はあきらめる。暗闇での上陸など水に慣れた庸軍ですら危ない。まして泳ぐこともままならない騎馬民族であっては。
ゆえに庸軍も夜はそれなりに緊張をゆるめることが出来た。もちろん警戒を解くことなどありえず、交代で騎馬民族の船団を見張ることはやめない。が、緊張の持続に耐えるのが難しい弱兵にとって、夜は比較的心平らかに過ごせる唯一の時間であることも確かである。
そして北河へ向かってはともかく、絶対安全であるはずの南――後背への警戒はより薄くなる。一応そちらへも歩哨などを配しているが、北に比べてぞんざいになるのは無理からぬことだった。
騎馬民族の船団が北河の南岸に現れて三日目の朝である。
太陽が最初の光を発した直後、陣の南側を警備する若い歩哨の一人は、大きく伸びをしながらあくびを漏らす。もうすぐの交代時間を楽しみにしていた。
が、次の瞬間、いぶかしげに目を細める。若いがゆえに目がよく、誰よりも早くそれを見つけることが出来たのだ。
「なんだ…?」
砂塵である。左――東からの薄い陽光の中でもわかるほど大量の砂煙であった。最初はつむじ風や竜巻の類かと思い、自然の猛威への警戒心を強めた歩哨だったが、それ以外に伝わってくるものもある。地鳴りだった。小刻みに地面が揺れている。地震とは違うそれが、新兵である彼には何によるものかわからなかった。
が、少し離れたところに立っていた古参兵は、砂塵と地鳴りの原因が同一のものであることを知り、反射的にその正体に気づくと、一瞬にして総毛立って悲鳴に近い叫びを上げた。
「…北狄だあっ! 北狄が南から来たぞぉッ!」
その叫びが他の歩哨や、急を全軍に知らせるための銅鑼係に届くには時間がかかった。彼らの耳に届かなかったわけではない。頭が理解することが出来なかったのである。
それも当然だった。北狄は今、まったく正反対の方向、北河の上で立ち往生しているはずではないか。どこからどうやって現れたのだ。
「連中は空でも飛んできたのか!?」
半ば腰が引けたまま、しかし現実が信じられない彼らは「ありえないだろう!」「敵ではなく味方ではないのか!?」「あんな数の騎兵隊が今の我が軍にあるものか!」と異口同音に声を上げるだけで行動がともなわない。これもまた弱兵の証である。自分たちで考えるのは後回しにして、まずは上官と味方へ急を告げるのが彼らのすべきことなのに、それすらも怠った。
その結果、事態はさらに悪化した。彼らの報告が遅れたため、もともと完全に出遅れた庸全軍は、半分は寝起き、半分は眠りこけたまま、精強な騎馬民族軍の急襲を、背後からまともに受けてしまったのだ。誰よりも先に騎馬民族の馬蹄に踏みにじられたのは、他ならぬ報告を怠った彼らだったが。
騎馬民族軍は庸軍駐屯地へ乱入した。いや、それとも印象は異なる。
乱入というにはあまりに鋭く、あまりに統一されすぎた行軍だったのだ。それでいて剥き出しの剽悍さと
統率力が圧倒的だったのだ。火口部からぶちまけられた溶岩に意思を与えることが出来る人間がいるとすれば、それはこの日、この時、庸軍へ突入した騎馬民族軍を指揮していた男だけだろう。そのような男は、庸帝国に匹敵するほどの人口を誇る騎馬民族の中でも、唯一人だけしかいなかった。
その恐るべき男に指揮された騎馬民族軍は、自分たちより遙かに多数を誇る庸軍を、溶かし、焼き、蹂躙しはじめた。
「なんだ! なにがあった!?」
庸軍総司令官用の天幕の中、あわただしく甲冑をつけさせながら孫佑が問う。彼はすでに起き出していたが、朝食前の寝起き同様であり、気持ちに体も頭もついていかない状態だった。
それでも外の異様な状況は感じ取れる。兵同士の喧嘩などではありえない喧噪と切迫感で、孫佑は叛乱が起こったかと勘違いしたほどであった。
だが兵の報告は、彼の想像を越えて血の気を引かせるものだった。
「北狄の攻撃です! 兵数不明! あるいは五万以上!」
「北狄だと!? しかも全兵力が攻撃してきた!? ありえるはずがなかろう、ならば目の前にいる船団はなんなのだ!」
「わ、わかりませぬ。とにかく北狄の攻撃であることだけは確かなようで、その他のことは皆目…」
「ならばその事実だけ報告せよ! 憶測を交えるな!」
後方官僚なだけにどちらかといえば穏健な孫佑が全身で叱声を発し、兵は縮みあがる。報告の仕方一つとっても不備であった。致し方ないとはいえ、そんなことを言っていてはどれだけの被害が出てしまうか。
「いずれにしても少数による奇襲であろうが、こうまで混乱しては…」
少数、あるいは百単位かそれ以下の兵数であろうと孫佑は考える。それくらいならばこちらの目を逃れていずこからか渡河に成功する可能性はあった。少数の兵による奇襲でこちらを混乱させ、その隙をついて本隊が上陸をはかる。そういう意図の攻撃だろうと考えた孫佑は、とにかく全軍を落ち着けるように指示を出し、同時に突入してきた敵軍の、兵数をはじめとした正確な情報を集めて報告するように命令した。
落ち着きさえすれば味方は十万。多少の出血があろうとも致命傷にはならないはずであった。
が、孫佑の考えは甘かった。半分は当たっていたが半分ははずれていた。突入してきた兵は十万の庸軍に比べれば確かに少数だったが、彼の予想を遙かに越えた数、一万騎もいたのだ。
それでも庸の全軍に比べれば十分の一。数においては圧倒的に有利のはずである。
が、有利なのは数だけだった。襲いかかってきた一万は、精鋭ぞろいの騎馬民族軍の中でも最精鋭、精鋭中の精鋭であった。それが弱兵の上に起き抜けで、まったくの無防備だった庸軍に襲いかかってきたのである。たとえ二十万の兵がいても抗し得るはずもなかった。
しかもこの一万は別働隊ですらなく「本隊」であった。血風を撒き散らし、逃げまどう庸兵を草木のように刈ってゆく騎馬民族軍の先頭に、幾人もの兵や士官が、信じられないものを見たのだ。
「なぜズタスがここにいる!?」
ありえない光景だった。ズタスは今、北河に浮かぶ船団を指揮しているはずではないか。それが突然現れた騎馬民族軍の先頭で馬を駆り、剣を振るって庸兵をなぎ倒している。
その姿は鬼神の如しであった。突入してきた騎馬民族の兵たちの中で誰よりも強く、誰よりも存在感を放ち、つまり誰よりも目立ち、それであるのに庸兵に討ち取られるどころか傷一つ負っていない。他の騎馬民族たちが庸兵の群に行く手を阻まれ、馬速を緩めざるを得ない中、ズタスのみが突出しかねないほどであった。
いや、ズタスの背後には必ず一人いた。その男はズタスほどではないが圧倒的に勇猛で、若く、精悍であり、そして片頬に口が裂けたような大きな傷があった。ズタスの武勇にわずかに及ばないため彼に付き従っているように見えるが、頬傷のせいもあり、ズタスが鬼神であるなら、彼もまた鬼神と見まがうほどの強さであった。
若き鬼を従えたズタスは孤立するように見える。が、それでもなお討たれない。庸兵たちはズタスの凄まじいまでの形相と風貌、暴勇としか思えないほどの武に畏怖すら覚え、泣きながら背を向けて逃げ出す始末だった。
「あ、悪鬼だ! 鬼神が、じ、地獄からやってきたんだ!」
「に、逃げろ! かなうはずがねえ!」
「お助け、お助けくだせえ!」
徴集されてきた兵は地方出身者も多く、帝都などの大都市に比べて信心深い者も多い。彼らの目に、ズタスは数倍の大きさに見えていたかもしれない。逃げるだけではなく、這いつくばって祈りを捧げ、命乞いをする者も多数現れた。彼らのほとんどはズタスに見向きもされなかったが、逃げてゆく他の兵たちに踏みつぶされて死んだ者も多かった。
一万の鬼竜は、十万の鈍牛を食い破ってゆく。
「数は! 敵の数は何人なのだ!」
「わ、わかりません! どこもかしこも大混乱で報告も上がってこないのです」
「それでは迎撃の命令も出しようがないではないか! 全軍に一度下がれと伝えよ。そこで態勢を立て直して…」
「なりません。退却するにも北へ下がるしかありませんが、そこには北河があります。全員が追い落とされてしまいます!」
孫佑は天幕で臓腑まで冷える恐怖と屈辱に焼かれていた。敵が攻め行ってきたという報告以外、味方の混乱の報しか入ってこないのだ。敵の規模すらつかめない。これでは戦いようがなかったが、孫佑に彼らを責める資格はない。そもそも水の近くに陣を張るなど愚行の極みであった。いや孫佑とてそれなりに北河から離れて陣を張ったのだが、河上に浮かぶ騎馬民族船団の動きに即応できるよう、そこまで離れるわけにはいかなかったという事情はある。
それでも油断はあった。まさか敵が南からやってくるとは。なにが起こるかわからないのが戦場ということをわきまえていれば、やはりこれは孫佑の失敗であった。
「それにしても連中はどこからやってきたのだ」
今はそんなことにこだわっている場合ではないとわかってはいても、この最悪の戦況の要因はそれがすべてであるため、考えることをやめられない孫佑であった。
もちろん騎馬民族が馬ともども空を飛んできたわけではない。彼らも船を使って北河を渡ってきた。彼らは完璧に近い隠密行動を取ることに成功していたのだ。
まず彼らは、大船団が進撃の準備をしている間、本拠地に残留する軍から抜け、はるか下流の渡河地点へ集合していたのだ。船団の準備は隠すこともなく、また隠すことも出来なかったのだが、それゆえ庸の斥候はそちらばかりに気を取られ、残留部隊への警戒は完全に解いてしまっていた。それに加え騎馬民族軍は残留部隊から抜ける際にすら、数騎、十数騎と小出しに抜ける細心さを見せ、庸の斥候の目を完全にくらますことに成功した。
そうして下流地点に集まったのは騎馬民族軍の中でも精鋭中の精鋭。大船団の精鋭たちを越えるほどの精鋭一万だった。
だがここで彼らはすぐに進発したわけではない。集合しつつも完全に隠れ、大船団が進発する時を待つ。その間に、これも完全に身を隠したままズタスが到着する。ズタスが率いる以上、この一万が「本隊」である。この「本隊」の成否がズタスの野心の結末を大きく左右するのだ。彼自身が指揮する以外ありえず、また彼以外には困難な用兵だったのである。
そして大船団が北河渡河を始め、南岸へ到達した頃を見計らって、ようやく彼らは進発した。すでに庸の斥候たちも本軍へ戻り、戦いに集中しているはずである。それでも静かに、さほど大きくなく目立たない船に分乗して、彼らは北河を渡りはじめた。
隠密船団が北河を渡る中、大船団はコナレ族の族旗を掲げ、ズタスがいることを偽装する。そして南岸で庸軍と対峙してからは、彼らに上陸をはばまれ、右往左往する様を見せる。当然これはズタスたちが渡河するための時間稼ぎで、庸軍の目を自分たちに向けさせるための陽動である。
勇猛であっても粗暴な者の多い騎馬民族の中で、これだけ細密な作戦を成功させられる者は多くない。この渡河作戦に集められた兵が精鋭であるゆえんは、戦闘より困難なこの作戦を実行し、達成してのけたことにこそ求められるべきであった。
大船団が庸軍の注意を引きつけている間、ズタス率いる本隊は丸一日をかけて北河南岸へ上陸。その際、誰一人声を立てず、
彼らはそのまま行軍に入る。南岸の地理や道は、占領した地の庸人に微に入り細に渡り確認している。北河の北岸に住むとはいえ、河を使って商売や生活をしている以上、彼らにとって南岸も庭同然であった。さらに何枚もの地図も手に入れ、斥候を放って現地を確認させてもいる。
兵たちの脳にはそれらの情報はすべて書き込まれており、彼らが道に迷ったり移動を滞らせたりする心配はなかった。
また移動は夜、しかもこの日を選んだ月のない夜である。彼らの姿はますます庸軍の目に入らない。
騎馬民族は夜目が利く。それでもほとんど真っ暗な初めての土地では行軍速度は落ちるものだが、それであっても夜明け前、しかも仮眠も取れるほどの時間に目標地点――庸軍の南方に到着できたのは、ズタスと最精兵の面目躍如であった。
そして夜明け、彼らは起き抜けの庸軍へ突入したのである。
戦いは――正確には最初から戦いではなかった。庸軍の中にも判断力と勇気があり、何が起きて、何をせねばならないかを自分で考え、武器を持って反撃する兵もいたが、数は少数であった。そのような兵ですら騎馬民族軍にはまともに抗し得なかった以上、他の兵たちは逃げまどうだけである。
「なんだ、なにがあった!」
「わからん! とにかく逃げろ!」
と、他の兵たちに巻き込まれ、何がなにやらわからないまま走り出す。
加えて流言も凄まじい勢いで飛び交った。
「コナレ族が襲ってきた!」
「北狄どもがやってくるわけがないだろう、連中は河の上だ!」
「え、援軍がおれたちを敵と間違えて襲ってきたんだ!」
「そんな間抜けがいるか!」
「じゃあなんなんだ! 北狄でもなければ味方でもなければ、どこから現れた敵なんだ!」
「おれが知るか!」
このような会話になっているものはまだしもで、
「悪鬼が湧いたんだ!」
「この土地の呪いだ!」
等々迷信めいたものもあり、中には、
「ズタスが陣頭にいるぞ!」
というありえない事実も叫ばれ、混乱に拍車をかける。
そのせいか、彼らは逃げる方向にも気を払う余裕がなかった。南から襲われたから逃げるのは反対側になるのは自然である。が、その方向にはさらなる地獄が待っていた。
「ま、待て、止まれ! 北河に落ちる!」
多少離れた場所に陣を張ったとて、敵が上陸しようとすればすぐに駆けつけられる距離でなければ意味がない。甲冑も着ず武器も持たない兵が全力で走れば、対岸が見えないほどの大河にたどり着くのはあっという間だった。
そのことに気づいた者は蒼ざめて止まろうとするが、後ろから来る兵たちは止まれない。押し倒され、踏みつぶされ、血と肉と骨の残骸になって大地に擦り込まれる末路を迎える兵が続出した。そして悪気なく戦友を解体した兵の方は、目の前の水の連なりに、立ち止まろうとした兵を押し出しながら、かたまりとなって水没してゆく。
目の前の河岸で阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられる中、北河上に浮かぶ船団も何もしていなかったわけではない。地上での戦いを避けるように上流へ向かうと、そこから上陸を始めたのだ。
その場で上陸すれば乱戦に巻き込まれ被害が大きくなるからだが、下流を上陸場所に選ばなかったのは、その方向には、これから大量の水死体が流れてくるとわかっていたからである。
船を岸に着け、直接大地に、あるいはやや沖合いから小舟に分乗して騎馬民族軍は続々と上陸してゆく。船の大きさや位置によって多少方法は違うが、整然と素早く上陸してゆくことに変わりはない。このあたりの統率力の高さが精鋭の証である。
船団から上陸した五万の兵を指揮するのは、なんとタクグスであった。有力者だが新参者の彼が、この「別働隊」の指揮権を手に入れられたのは、当然ズタスの許可と命令があったればこそだが、軍議で披露された彼の作戦が、大胆でありながら合理的であったことと、なによりその気迫が諸将に勝ったからである。
「この作戦が失敗すれば、おれのすべてをくれてやる」と言わんばかりの迫力は、諸将にタクグスの覚悟を感じさせた。
騎馬民族は勇猛さだけでなく、男気が大好きである。人生を懸けたようなタクグスの気迫は、彼らの新参者への軽蔑を、好意の方向へ曲げさせることに成功した。また、諸将にとってタクグスの作戦は戦意と高揚感を心地よく刺激するものであり、図に当たればかつてないほどの武勲を手に入れられるものであったことも大きい。
「よかろう、一度くらいは汝の言うことを聞いてやろう」
そういう気運が軍議を覆い、タクグスは機会を得たのだ。
が、これが失敗すれば、たとえ生き残ったとしても彼の人生は大きな挫折を余儀なくされる。それは、北方で再起を計るために奮闘している叔父の前途も閉ざすことになってしまうのだ。
「絶対に、落とす」
五万の兵のうち二万は、このままズタスと共に庸軍の撃滅に入る。言ってみれば「とどめ」のための予備兵力である。庸軍にとって地獄の門番に等しい兵団であった。
そして彼らを進発させた後、タクグスは、凄まじいばかりの気を込めた眼を南西に向ける。その方向にこそ庸帝国の帝都・寧安があるのだ。
「出撃!」
タクグスは、整然と並んだ三万の先頭に馬を立て、背後に向かって大音声で命令を下すと、馬腹を蹴って疾走を始める。喚声をあげて三万の人馬が、彼に続いた。
一息に、百人単位の人間が水へ落ちてゆく様は、見ている者に現実感を失わせる。が、それは遠くから見ている者に与えられた特権であった。当事者たちには総毛立つような現実である。前を走る兵のかたまりが「ボゴッ」と没し消えてゆく光景は、彼らを本能の域で恐怖させる。当然立ち止まってその地獄を回避しようとするが、そんな彼らの運命も同じであった。
後ろから押され、地に倒れた者は肉塊になるまで潰され、そうでない者は水中にかたまりとなって落ちてゆく。
そんな天災にも近い惨状が二度、三度と繰り返されると、さすがに彼らの足も止まった。
だがそれは、彼らの死因が圧死と水死から、斬死に戻るだけのことだった。
斬る。斬る。斬り伏せる。突く、突く、突き殺す。コナレ族どころか騎馬民族史上、最大の族長に率いられた最強の兵である。彼らは戦闘(というより虐殺)に全身を煮えたぎらせていたが、血に酔ってはいなかった。ゆえにその攻撃は、残忍ではあっても秩序が消えず、より効果的に、効率的に庸兵を殺してゆく。
十万の兵は一万の兵に毟られるように殺され、数を減らしていった。
時間は、どれほどだったろうか。
朝のさわやかな空気が消え去る前に、すべては終わった。
庸軍十万は、惨殺された。十万という兵を一つの人体と見れば、その表現が最も適切だった。
死傷者は六万。うち水死は半数に近く、残りは圧死と斬死。二万は逃亡に成功し、二万は捕虜となった。
司令官である孫佑は行方不明だが、その後、皇帝に復命することもなく、二度と表舞台に出てこなかったことから、逃亡して一庶民として生を終えたか、あるいは戦死したと考えられており、おそらく後者であろうと推察されていた。逃亡は彼の人となりにそぐわしくないというのもあるが、あの大混乱と潰乱に巻き込まれ、圧死か水死したと考えるのが最も妥当だと思われたのだ。
騎馬民族側の戦死は二十。十倍の敵に対し、またも彼らは完勝した。だがそのことに感慨を覚えるズタスではない。彼の意識はすでに次の段階へ進んでいた。
「そうか、タクグスはすでに道半ばか」
捕虜をまとめていたズタスの元へ、タクグスから派遣された別働隊二万を率いていた将軍から、「寧安攻撃軍」の進撃についての報告があった。実は、戦闘の最中にタクグスの伝令は到着していたのだが、ズタスは最前線で猛攻撃をおこなっていたため、知らせようがなかったのである。
本来、ズタスが手こずる事態になっていれば、タクグスたちも援軍として駆けつけるはずであったが、その必要なまったくなく、それを知ったタクグスは、当初の予定通り進撃を開始したのである。
「ここから先は、緻密な奇術を見ることになるかな」
ズタスはタクグスの計画を思い出し、小さく笑った。奇術とは見た目の華やかさと違い、絶対的な理と、周到で徹底的な準備と、芸術的な技巧とによって成り立っている。タクグスは奇術を弄する性格の人間ではなかったが、それゆえ今回の奇術的作戦を成功させ得る能力があった。
「捕虜をまとめて北河を渡らせよ。その準備が出来次第、我らも別働隊を追う」
騎馬民族にとって人材はいくらあっても足りない。特に様々に技能を持つ者は、統治や戦のためにも必要不可欠であった。捕虜は、兵であるが民でもある。全員がなにがしかに「使える者」であるはずだった。
が、貴重な彼らより、今のズタスには南へ向かった「奇術師」たちが気になる。
「出来るだけ早く進発したいものだ」
最も近くにあった
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