第6話 河北統一

 ギョラン族を吸収したコナレ族の勢力は、過去最大のものとなった。軍事力だけ見れば、央華大陸と長城以北の大平原を合わせた広大な範囲内でも最大である。

 単純に兵の数ということであれば、まだ庸の方が多いだろう。だが質がまったく違う。なんの訓練もしていない子供が百人集まったとて、実戦に鍛えられた大の男十人にかなうわけがないのだ。


 そして兵の質はまだしも、数で圧倒的な劣勢に陥ったのが北河以北の西方に陣取るスンク族であった。領土という点では、ズタスが捨てたコナレ族の根拠地まで手に入れ、北河以北の三分の二以上を有しているのはスンク族である。だがその領土を維持する軍事力は、今のスンク族にはなかった。

 スンク族族長・バジュの表情は、苦渋に満ちている。

「……」

 彼は孤独であった。常に彼のかたわらに控え、優秀な軍師として仕えていた甥のタクグスを、彼は今遠ざけている。根拠地を捨ててギョラン族を討ちに行ったコナレ族の後背を全力で突くべきだという甥の強い進言を退けたためであり、この時に放った「これからは公私の別をはっきりとさせる」という明言を遵守しているからである。

 が、真の理由を言えば、後者は建前で、前者への後ろめたさが大である。目の前の利にとらわれたおのれの欲がすべてを覆そうとしているのだ。自身の小器と狭量、視野の狭さがうらめしい。

「わしはズタスにおよばぬか…」

 バジュはズタスをあなどったことは一度もなかったが、彼におよばぬと思ったことも一度もなかった。今回の央華侵攻も、ズタスに一歩遅れたが、それも必ず挽回してみせる自信があった。

 が、今回のことで、それが不可能に近い難事であることを悟った。スンク族とコナレ族の勢力の差ではない。ズタスとおのれの器量の差が理由である。そのことにスッヅは早くから気づいていたが、バジュには気づけなかった。

 そして気づいたとて、認めるのは凄まじいまでに困難だった。彼には誇りがあった。騎馬民族として、有数の族長としての誇りである。その誇りの巨大さは、彼自身、彼そのものと言っていいほどであり、ズタスに劣ると認めることは、これまでのバジュの人生をすべて否定するに等しかったのだ。

 剛直であり単純でもある騎馬民族にとって、おのれが他者より弱いと認めるのは恥ではないが、頂点に近い者ほどそれを簡単に認めるなど出来るはずもなかった。


 それでも時間はない。いつかはわからないが、ズタスは必ずこちらへ攻め入ってくるだろう。庸軍、ギョラン族との立て続けの戦いに、精強なコナレ軍とてさすがに兵を休めないわけにはいかないだろうが、きっと遠くない将来、必ずこちらに軍を向けてくる。あるいはバジュが考えるよりずっと早い段階で進発するかもしれないが、それを防ぐ手だては今のスンク族にはなかった。少なくともバジュには思いつけない。彼はもともと策士ではなかった。騎馬民族全体がそのような人材をはぐくむ環境になく、タクグスのような男こそが希有な存在なのだ。

 タクグスが単に頭が切れるだけの軟弱な男であれば、バジュはもちろん、スンク族の配下にいる者たちも彼の智者ぶりを受け入れはしなかっただろう。騎馬民族にとっては勇猛さがすべてなのだ。

 だがありがたいことにタクグスは胆力にも優れ、一見無謀とも思えるほどの戦いにも一兵卒として突撃することにためらいを見せない。武技そのものは「どうにか一流」というところではあるが、それでも個人戦闘で武勲を挙げることも多々あり、バジュも配下の者たちも、タクグスに一目置くことに心理的抵抗は覚えていなかった。

「……」

 バジュは、身を切られるような煩悶に全身を乱打されている。もうタクグスの知謀に頼るしかないのはわかっているのだ。だがそれをおこなうには、おのれの愚かさと卑小さを直視し、受け入れなければならない。煩悶は懊悩に達し、バジュを気死させかねないほどだった。

 が、バジュは突然ふっと肩から力を抜いた。

 なんのことはない、彼は自分がいまだ小器にあることに気づけていなかったのだ。このようなことで悩むこと自体、ズタスならせぬであろう。なんのためらいもなく自分の不備を認め、頭を下げ、甥に助けを求めるはずであった。

「やはりわしはズタスにおよばぬか」

 先ほどまでと似たような言葉を吐き自嘲するバジュだが、その質は明らかに変わっていた。彼はもう一度小さく自分を笑うと、配下の者にタクグスを呼んでくるように伝えた。


 タクグスは叔父の天幕へ入ってきた。ここへ来るのは四日ぶりである。その時も一、二の報告があったのみで、込み入った話も献策もなかった。それまではほぼ毎日、長時間を共に過ごし、様々な意見の交換をおこなったというのに。

 それでもタクグスはあきらめていなかった。あらゆる方向から現在の状況を観察し、それをもとに様々に検討し、最善の策を考え続けた。彼は叔父を見捨てていなかった。それはバジュが自分に対して見せる心の壁に接しても変わらなかった。叔父がわざわざ自分にそのような硬質の態度を取るということは、むしろ自分に対して後ろめたさを覚えているからだと彼にはわかっていたのである。もし叔父が自然に彼を遠ざけたのであれば、公はともかく私の立場ですら会うことをためらったり拒否したりするはずがない。

 そして東方の戦況を聞くたびに、タクグスの期待は大きくなっていった。叔父はきっとまた自分を必要とする。その時が現状を打開する好機であるはずだった。


 が、それは二律背反でもあった。

 コナレ族とギョラン族の戦いが膠着すれば、それこそが最大の好機であるが、今の叔父ではそこで動く可能性は低い。もし動くのであれば、それは二族の戦いが終わり、勝利した一方がこちらへ矛先を向ける可能性が高まった時であろう。

 だがそれでは遅い。少なくとも反撃の機会は相当少なくなる。ゆえにタクグスとしては、東方の戦いができるだけ長引き、敗者だけでなく勝者すらが消耗してまともに動けない状況を期待していた。

 その時に命懸けで叔父を説得し、漁夫の利をつかむ。その状況であれば叔父を説得する材料はまだある。あらゆる事象を想定しつつ、献策の内容は彼の中でいくつも考え抜かれていた。

 が、それは徒労に終わった。


「久しいな、タクグス」

 椅子に腰掛けたままバジュは甥に言う。わずか四日前に会ったばかりだが、タクグスにとってその言葉に違和感はなかった。叔父の声音が以前と違っていたからだ。正確に言えば以前に戻っていたからである。互いにとって久しぶりの叔父と甥、そして族長と軍師としての対面であった。

「は」

 タクグスはそのことに喜びと虚しさを覚えながら、小さく返事をした。その甥の声音に微妙なものを感じたバジュは、それでも覚悟を決めたように続ける。

「…わしは汝に謝らねばならぬ。すべて汝の申す通りになってしまった」

 視線をそらしたい衝動に耐え、バジュは甥を直視したまま、率直に自分の誤りを認めた。その叔父にタクグスは自然な敬意を覚え、肉親の情として安堵する。

 が、何も言わない。叔父に含むところがあるわけではなく、何も言えなかったのだ。

「…汝がわしに怒りを覚え、見限っていたとしても仕方がない。が、もしまだ力を貸してくれるのであれば、頼む、この苦境を打開する方法を教えてくれ」

 黙ったままの甥に対し、バジュも不愉快さを覚えないわけではない。だが彼は、ズタスに劣る自分を認めた以上、彼を越える器量を身につけねばならない。そのためであればこの程度の屈辱には耐えられる。ゆえにバジュは甥に頭を下げた。

 その叔父のあまりに意外な行動に、タクグスは目を見開き、そしてようやく口開いた。その声音に叔父への恨みはなく、ただ無念さのみがあった。

「…申し訳ありませぬ叔父上。私は叔父上に腹を立てて何も申し上げぬわけではないのです。私自身の無能さに腹を立て、叔父上への申し訳なさから、何も言うことができぬのです」



「…どういうことだ」

「今の状況に至っては、私のような非才の身では、すでに為すすべを思いつけないのです。それほどにズタスの勝利は素早く、完全なものでした」

 苦渋がにじむ表情でタクグスは告げた。

 事実、ここまでの速攻・完勝は、タクグスの予想を上回っていた。彼が考えた最悪の速度と完璧さを越えるほどで、これだけでもタクグスはズタスの恐ろしさを感じざるを得ない。タクグスは戦況の膠着と二族の消耗を期待していたのだが、現実はまったくの逆、最悪の結果になってしまった。ズタスは消耗するどころかギョラン族のすべてをほぼ無傷で吸収し、勢力と戦力を激増させた。これでは三すくみや漁夫の利を狙う余地もない。「圧倒的な一」と「弱小」との戦いにしかならないのだ。

 これほどの戦力差を逆転させる術は、タクグスには思いつけなかった。


 だがこれはタクグスの買いかぶりでもあった。この事態はズタスにとっても意外な幸運であったのだ。

 すべてはサガルの突出と勝利が要因であった。

 若者は、自分でも知らぬうちに、歴史を一気に加速させてしまったのである。

 だがこれもズタスの強い運を物語っているかもしれない。サガルのような男を麾下に持ち得たことは彼の強運であろう。そして歴史を作るような男には、この手の運も不可欠なのである。


「そうか…」

 苦渋に満ちた甥の言葉を聞いて、彼に劣らぬ苦渋の表情となったバジュは小さくつぶやいた。

 甥を責めることはできなかった。この状況を招いたのは、誰より自分に責任があるのだ。そのことがわからないほどバジュは愚かではなかった。つい先日までは愚かだったが、今は違った。そのことがさらなる愚かさの証明だと、バジュは自分でよくわかっていた。

「叔父上、選択肢は二つです」

 そんな叔父にタクグスはぐっと顔を上げて告げた。表情はすでに改まっている。悲愴さを漂わせつつも確固たる意志がそこにはあった。その甥の言いたいことは、今度はバジュも聞かずとも理解していた。

「わかっておる。降るか逃げるか、どちらかであろう」

「さようです。どちらも叔父上にとって耐えがたい屈辱でございましょうが、今すぐの逆転がかなわぬ以上、今は屈辱に耐え、捲土重来を謀るしかありませぬ。そして私見を申し述べるなら、故地へ帰り、力を蓄え直すがよろしいかと存じます」

 叔父の明晰さが戻ってきていることにうれしさと虚しさを覚えつつ、タクグスは力強く断言した。現状ではこの二択以外、彼も思いつけない。そしてどちらを選ぶかと言えば、やはり後者であった。

 前者であれば、あるいは好機は意外に早くやってくるかもしれない。今のズタスは強大だがまだ完成されてはいない。自分たちを滅ぼすなり吸収するなりしても、北河以北を征したに過ぎぬ。ここから央華大陸を南下して庸を攻め滅ぼさねば真に征服を完成したとは言えないのだ。

 だがいかに弱体化した庸とはいえ、まだ抵抗勢力はあるし、なにより広大な大地があった。

 さらに、それらの困難を排して庸を滅ぼし、天下を統一したとて、その権力を維持し継承していくのは、これまた困難の極みである。

 それら苦闘の道程で、ズタスが悲運に倒れることもあるであろうし、越えがたい障害に出会うこともあるだろう。その機を狙って反乱を起こせば、ズタスに代わりバジュが草原と央華の覇者となれる可能性は多分にある。

 が、それはやはり紙一重の危険がともなう。一つ間違えば返り討ちに遭ってバジュたちが滅ぶだけである。それどころか投降したその場で殺されることも充分にありえた。スンクのような大族の族長という「火種」を抱え込む危うさを思えば、そうする可能性が最も高いとすら言ってよかった。

 タクグスはそれを恐れた。彼は一時の冷遇で叔父を見捨てるほど器量の小さい男ではない。バジュを憂う心は誠心であった。

 バジュも確かにそれを感じた。それゆえ彼の返答の意外さはタクグスに目を剥かせた。

「いや、わしは降らぬ。汝が一族を連れて降れ」

「叔父上!?」

「勘違いするな。わしは自死するわけではない。北へ落ち延びる。汝はズタスのもとで獅子身中の虫となれ」

 バジュは自嘲をふくませた笑みで甥に告げ、それだけでタクグスは叔父の真意を察した。

「北で捲土重来をお謀りになりますか。そして機を見て内部のスンク族と呼応し、ズタスを討つと」

「わし好みのやり方ではない。だが今はこれしかできぬであろう。ズタスに臣従せず、殺されず、再起を図ろうと思えば」

 自嘲の色は消えないが、バジュは確固たる決意をもってこの策を取った。このまま自分が降ればズタスは受け入れはするだろう。だが同時に強すぎる支配欲を持つ自分に警戒心を抱かぬことは不可能で、結局殺されるしかない。同じ死ぬのなら正面から戦って討ち死にする方が本懐であるが、それでは自己満足と自己憐憫以外得るものはない。かといってこのまま軍を連れて北へ帰っても、央華で勢力を増すコナレ族を凌駕する機会は減ってゆくばかりであろう。自分たちは北を支配できるかもしれないが、央華大陸で得られる成果とは、比べるのも恥ずかしいほど微々たるものしか手に入らない。そのような馬鹿馬鹿しい話があってたまるだろうか。

 そこで「伏兵」である。自分は逃げたことにし、甥であるタクグスが兵を率いてズタスへ降伏する。これであればズタスも過剰な警戒心は抱かないであろう。そして伏兵と化したタクグスとスンク族が機を見て反乱を起こし、それに応じて自分も北で集めた新戦力で攻め入る。すでにほとんどの兵を央華に投入している以上、北で新しく徴収した兵は、数も少ない上に精強であるはずもない。だがそれでも機さえ誤らなければ充分に勝算は立てられる。そしてその機をつかむ力は、バジュにもタクグスにもあるはずであった。

 それでも勝算の少ないことは、バジュもタクグスも承知していた。

 タクグスはその点を質す。

「…問題は山積でござるぞ叔父上。私が偽りの投降をしたとて、兵がそのつもりであろうはずもありませぬ。ズタスに取り込まれ、真に彼の配下に収まってしまう可能性は充分にございましょう。残念ながら、やつの器量は本物です」

 勝機をつかむ云々もだが、敵中で叛意を気づかれずに何年も過ごすなど至難である。それが一般の兵ならなおさらで、彼らに腹芸など望むべくもない。ゆえに彼らにタクグスたちの真意を伝えるわけにはいかず、投降する彼らは本心からズタスの傘下に入るであろう。しかも喜々として。騎馬民族は、力を見せつけられての投降ならば、恥とは思わないのだ。

 それゆえいかに勝機をつかんだとて、ついてくる兵が一人もいないという状況は充分に考えられた。それではせっかくの叛乱も、何の成果も得られぬ愚行でしかない。タクグスにとってこの策は、やはり積極的におこなうべきものではなかった。

 が、叔父はそんな彼の意表を突いた。

「なに、ともに降る兵は目くらましと汝の踏み台よ。わしがズタスめに送る伏兵は、汝一人だ」

 その言葉にタクグスは驚いて目を剥き、そして徐々に剥いた目を潤ませ始めた。

「叔父上…」

 バジュにとって多数の兵は、ズタスを信用させるための迷彩でしかなかった。その信用をもってタクグス一人の投降を真実のものと見せかけようとしているのだ。タクグスの能力であれば、ズタスに重用される可能性は大いにある。そうして高い地位に就いたタクグスであれば、突如の叛乱も、困難ではあっても不可能ではないはずだ。そのための同志をコナレ族内で、ズタスに気づかれないように募ることも出来ようし、場合によってはズタスの暗殺も可能かもしれない。

 そして同じ投降をするにしても、一人で降るのと、多数の兵を従えて降るのとでは、投降後の重さが違う。タクグスがコナレ族内で、より重用されやすい状況が作り出せるのだ。ここで図に乗れば怪しまれ、粛正されてしまうかもしれないが、タクグスであればうまくやる。そのことをバジュは疑っていなかった。

 が、タクグスを感動させたのは、バジュがここまで自分の能力を買っていてくれたからだけではない。そこまで自分を信じてくれたことに対してであった。

 彼は短い時間とはいえ不遇を囲った。それはバジュの愚かさのためであったが、叔父はそのことを誰よりも恥じ、後悔していたのだ。そして今度こそ全面的に甥を信用すると決めたのである。タクグスが裏切ると疑っていれば、彼に全戦力を与えて自分は一人寂しく落ち延びるような真似をするはずがない。タクグスは、涙を浮かべぬことはできなかった。

「叔父上…」

「わしは汝の言うことを聞かなかったがゆえにこのていたらくに陥った。が、汝の助けがあれば、必ずまた再起できる。ゆえに汝にすべてを託す。頼まれてくれるか」

 バジュは愚行の代償はすでに払ったが、まだ完済されたわけではない。それはこれからの苦労に加算されてゆくだろう。それでも逆転のための資産は敵中に残してゆく。今度こそ彼の軍師を信じるのだ。それで滅ぶならそれまでだ。

 バジュの言にはその覚悟とあたたかさがあり、タクグスの心と体を震わせる。彼の頭は自然に下がっていた。

「叔父上…必ずやコナレ族を滅ぼしましょう。いや、コナレ族を我がスンク族のものとするのです。そして央華を我らの手に。そのためにタクグスは身命と存在のすべてをすつもりです。それは叔父上の志にすべてを賭すことと同義とお考えください」

 甥の満身の言葉にバジュはうなずいた。

「数年後の再会、楽しみにしているぞ、タクグス」

 叔父と甥の志は、完全に一つとなった。



 本心を言えばズタスはすぐにでもスンク族へ攻撃を仕掛けたかった。現状はすこぶるコナレ族に有利なのだ。それゆえここで全力を尽くしてすべてを決してしまいたい。ズタスは勝機を貪欲にむさぼる男でもあった。

 だが今はとにかく兵が動かない。呂石率いる庸の大軍を撃退し、休む間もなくギョラン族を急襲したのだ。討ち死にではなく疲労で死者が出たほどであり、さすがに休息は必要であった。

 また降伏してきたギョラン族の兵から、スッヅが庸へ援兵を求めたとの情報を得たこともあり、そちらへの警戒も必要となったのである。せっかくギョラン族とスンク族に対する際どい二正面作戦を乗り切ったというのに、スンクを攻めている間にギョランより弱兵の庸軍に背後を突かれて負けたとあっては、いい笑い者である。

 ズタスは庸の援兵の様子を確認させるための斥候を放ち、その報告を待つ間だけ兵を休ませることにした。たとえ疲弊した兵しかいなくとも、数は圧倒的なのだ。仮にスンク族の奇襲があったとて撃退する自信はある。

 ちなみに庸の援兵だが、コナレ族の速攻があまりに速すぎたため、使者が庸の宮廷にたどり着いた頃にはギョラン族の敗北が決定しており、庸は援兵を送る算段をする時間さえなかった。

 これもまたズタス、というよりザガルの功績である。彼の一騎打ちでの勝利は、方々へ影響を与えていた。

 後日、ギョラン族の使者は首だけの姿になって庸からズタスの元へ送られてきた。一応は敵対しないとの証である。


 これらは後日の話で、とにかく今は兵を休ませる。いささか奇妙な表現になるが、出来るだけ急いで休ませることがズタスのできるすべてだった。そのために必要なことはすべておこなう。

「ひと月以内にスンク族を降伏させ、残った弱小勢力もすべてたいらげ、北河以北を我がものにしてくれる」

 その意志をズタスは全軍へ伝えようとした。

 が、ズタスの意図よりずっと早く、彼は北河以北を統一してしまうのである。ギョラン族を吸収して三日後、スンク族の使者が降伏を伝えてきたのだ。これにはさすがのズタスも目を丸くした。

「なにゆえだ。いかに現在の我らとスンクの戦力に差があろうと、あのバジュが一戦もせずに降ってくるなどありえぬであろうが」

 ズタスの知るバジュとはそのような男である。騎馬民族は玉砕を潔しとしないが、無抵抗を蔑む心も同程度に強い。バジュ本人の性質と族内の事情から、無抵抗降伏など考えられなかった。

 が、使者の言上はさらに意外なものであった。

「現在の我らの族長はバジュではなく甥御のタクグスどのでござる。タクグスどのが一族を率いてズタスどののもとへ降る所存にございます」

 使者の言うことにズタスは眉を寄せた。

「なにゆえ、そのようなことになった。バジュは死んだのか。そのタクグスと申す者に殺されたのか」

「いえ、バジュは一昨夜、数騎を連れて逃れいでてございます。一族を見捨てて」

 使者のその言葉には苦渋と抑えようのない憎しみがこもっていた。

 自分たちは、見捨てられたのだ。いや、見捨てられるだけならまだいい。なによりそのような臆病者に率いられていたことが許せなかったのだ。騎馬民族の誇りは、勇者に従うことを許しても、臆病者に率いられることをがえんじられはしない。彼らは、一人一人が侵しがたい誇りを胸に生きているのである。

「そうか、あのバジュがな…」

 使者の、前族長に対する憎悪と蔑視を込めた報告を聞いて、ズタスは小さくつぶやいた。警戒を解くわけではないが、一応信じてみる価値はありそうである。

 そこまで考えてからズタスは表情をあらためた。

「では全軍の休息が終わったのち、そちらへこちらが出向こう。汝らは武器をすべて捨て、我らを迎え入れるよう、タクグスとやらへ伝えよ」

「いえ、タクグスどのはすでに全軍を率いてこちらへ向かっております。ですがここまでは参りません。兵は武器を放棄し、斉水せいすいを渡り、河畔にて滞陣させたまま、タクグスどののみでズタスどのの下へやってくるとのことでございます」

「ほう…」

 使者の言にズタスは軽く目を見張り、その目をわずかに細めた。タクグスとやらのやりようは徹底しているように見える。

 斉水せいすいとはこの近くにある、北河の支流の一つで、大河とまでは言えずとも、簡単に渡れるような浅く狭い河ではない。

 兵を水の近くに置くことは、兵法で固く禁じられている。退路がない状態で水に追い落とされれば全滅は必至だからである。であるのに、タクグスはあえて後背に水を置いた最も危険な状態で兵を待機させるというのか。しかも武器すら放棄した上で。

 それはつまり、ズタスたちコナレ族に、自分たちの生殺与奪の全権を預けるということである。しかもタクグス本人は、その兵からすら離れて、単身ズタスの前に現れるというのだ。これ以上の降伏はないと言えた。

 それゆえズタスは、タクグスがいかに本気かというのを感じたのだが、同時にどこか違和感も覚えた。なにが理由というわけではないのだが、とにかく勘がそう告げてくる。いや、ささやくにも届かないほどの小さな異臭を嗅いだというところだろうか。それゆえ錯覚と言い切ってしまっていいほどである。

「とにかくタクグスとやらに会おう。期日は五日後だ。その日にやってくるように伝えよ」

 なんにせよ情報が少ない。タクグスに会って、彼の本心を、自分の目と耳と心で確かめればよい。そう考え、ズタスは使者へタクグスの出頭日を伝えた。その日はコナレ軍全軍が休息を終え、完全に回復するとされている日であった。


 使者が去った後、ズタスは、西へ斥候を放った。スンク族が言葉通りに行動するかどうかを確かめるためである。

 三日後、放った斥候が帰還し、スンク族の行動を報告した。彼らは確かに全軍で進発しており、進軍速度は遅かったが、それはちょうどズタスが指定した日に、指定した場所へ到着する速さだという予測も報告された。

「ふむ…」

 その内容にズタスはうなずいたが、同時にタクグスという男に興味も湧いた。どうやらその男は、自分が斥候を放ち、彼らを監視することもわきまえていたらしい。そこまでは誰でも予想するだろうが、ズタスはスンク族の行軍と斥候を通じてタクグスの声明メッセージを感じたのだ。

 スンク族の行軍には外連けれんがなく、真っ当な意思と「嘘はつかぬ。必ず降る」という言行一致の誠心と誇りを感じる。行軍で意思を表し、斥候をもって相手に声明メッセージを伝えるなど、なかなか尋常な男に出来る芸当ではない。

 ズタスは、スンク族という大魚を得るより、タクグス一人に会えることを楽しみに感じ始めていた。


 そして五日後。指定された当日。

 半舎(一舎は軍隊が一日で進むとされる距離)ほど離れた斉水のほとりに全軍を置き、タクグスはズタスのもとを訪れた。

「なるほど、本当に単騎でやってきたな」

 実際には数騎ほど部下を連れてきているのだが、ギョラン族を吸収して倍加したコナレ族のもとへやってくる以上、数騎など無いも同然である。

 そしてタクグスはズタスのもとへ到着した。

「汝がタクグスか」

「は。こたびはズタスどのに臣従するために馳せ参じました。受け入れてくだされば幸いです」

 互いに馬に乗ったまま、ズタスとタクグスの会話は始まる。近くにそれぞれの部下はいるが、多少離れた場所におり、危急の際に役に立つかはわからない。危険は充分にあったが、ズタスは恐れる色も見せなかった。タクグス一人程度、自分の剣で討ち据えることなど造作もない。この水準の自信と度胸はズタスの自然体であった。

「それは願ってもないことだが、一戦もせぬうちに降るとはいかにも潔すぎるな。存念があれば聞こう」

 ズタスは率直に尋ねた。

 タクグスが臆病者であるとは思わない。そのような者に騎馬民族がついてくるわけがないのだ。降伏のためであるのに、ここまでの道程でスンク軍に一切の乱れが見られないのは、タクグスの統率力あってこそだろう。ゆえにズタスはタクグスを過小評価してはいなかった。が、騎馬民族らしからぬこの行為に疑問もあったのだ。

 その問いにタクグスも答える。

「私の器量は叔父には及びませぬ。ゆえにこのままズタスどのと戦い続けても敗北は必定。無駄に兵を死なせることは避けねばなりませぬ。ましてズタスどのに従えば庸を攻め滅ぼし、央華の財宝を我がものにできることも確実である以上、兵たちには生どころか富貴も与えられましょう。私にためらいはございませんでした。ですが私個人にとっては一つだけ存念はございます」

 タクグスの言にひねくれたものは感じない。が、騎馬民族らしからぬ視野の広さと思考の冴えは感じ取れた。

 ズタスは以前から時折、スンク族の軍の動かし方に奇妙なものを感じていた。バジュの性情からすれば発想しにくい行軍をしばしば取っていたのだ。それが理にかない、広い視野と明確な戦略をともなっていることをズタスは認めぬわけにはいかず、バジュの思わぬ才覚に侮りがたいものがあると警戒していたのである。

 が、それはどうやらこの甥から出ていたものらしい。バジュには惜しいことに男子がおらず、それでも後継者についてさほどあわてていなかった。そのことも奇妙に感じていたが、なるほど、それもこの甥の存在があったればこそだったのだろう。

 ズタスは自分に謀将と呼べる存在がいなかったことと、騎馬民族にはそのような種類の才を持つ者が少ないこととがあって、バジュに「軍師」がいるという考えが及ばなかったのである。

「これはもしや、天の恵みかもしれんぞ…」

 ズタスは浮つきそうな内心を鎮めつつ、タクグスをうながした。

「ふむ、聞こう」

「叔父は捲土重来を図って北へ帰りました。いずれ新たに軍を集め、南下してくるでしょう。その折りには私も叔父の下へ参じたい。そのことさえ許していただければ、それまでの間、ズタスどのにすべてを捧げまする」

 今は臣従するが、いずれ敵になる。ふてぶてしいほどの要求を、タクグスは一切の後ろめたさもなく言ってのけた。そのことにズタスも軽く目を剥いたが、すぐに小さく笑った。

「なるほど、バジュはやはりそのつもりであったか。その方がただ逃げるよりやつらしい。で、汝は叔父についてはゆかなんだか。それになぜ兵を連れて北へ帰らず、わしのもとへ連れてきた」

「叔父の存念は、ズタスどのが央華を征服することにあります。そのために私に助力をするようにと」

 タクグスはそれだけしか答えなかったが、ふてぶてしさその二である。

 ズタスの野望達成のためには、兵が多いに越したことはなく、優秀な将も同様である。ズタスが征服した央華をいずれ自分がもらい受けるため、兵もタクグスも一時貸しておく。そういうことである。

 ズタスもこれにはもう一度失笑した。

「そうか、なるほど。で、そのような話を聞いてわしが汝を生かしておくと思うか。汝を殺して兵だけもらえれば、わしとしては万々歳であろうと思うが」

「それはそれで構いませぬ」

 タクグスはそれしか答えなかった。彼は巧妙さと大胆さと覚悟とをすべて混ぜ合わせ、今この場にいた。

 恐ろしいことにタクグスの言うことはすべて彼の本心であった。ズタスの心へ食い込むには本心を明かすことが最良であると、彼は考えていたのだ。

 ズタスは自分の能力と器量に自信を持っている。そしてその自信は決して過信ではない。タクグスには彼に対抗できるそれらはなく、小手先のごまかしでは彼に真意を見抜かれるとわかっていたのだ。

 ゆえに彼は、ズタスのその自信に正面から付け込むことにしたのである。そしてさらにタクグスは、自分が彼の自信に「付け込もうとしている」とズタスが察するであろうことまで計算に入れていた。

 ズタスはその器量で自分の裏の裏まで見透かしてしまう。その上で、自分をどうするか。そこは賭けであったが、タクグスには充分に勝算があった。それほどにタクグスはズタスの器量を信頼していたのだ。


 ズタスは苦笑した。タクグスの考えていた通り、ズタスは彼の「策」をすべて看破していたのだ。そしてあっさりと言った。

「よかろう。汝をバジュから借り受けよう。汝が使える男であれば返すつもりはないが、そうでなければ放り出す。その時は叔父の下へ帰るなりなんなり好きにせよ。汝の望みと誇りのため、せいぜいわしに惜しまれる働きをしてみせることだな」

 勝算の高い賭けに勝ち、タクグスは深く頭を下げた。

「仰せのままにいたします」

 そう言うタクグスにとっての戦いはこれからだった。彼はズタスの「役に立つ」自信はある。問題は彼に魅入られない自分であり続けられるかどうかであった。何度も言うがズタスの器量は本物である。そのような男に心服するのは、男にとって一つの本懐である。その誘惑に自分は抗しきれるかどうか。

 叔父からの信頼と、自身の志とを武器に、タクグスはこれからその誘惑と戦ってゆくのだ。それは十倍の敵と戦うより困難かもしれなかった。


 ズタスにとって北河以北を征する最後の段階は幸運であった。戦いと結果そのものが幸運だったわけではない。次代の勇将と若き軍師とを同時に手に入れられたことが最大の幸運であったのだ。

 騎馬民族には猛将の類に入る男は多いが、そのほとんどは文字通り、猪突猛進と正面激突のみを得手とする。彼らの破壊力は確かに有効だが、ズタスの代わりに全軍を指揮したり、別動隊として自身の判断をもって行動する、ズタスの副将と呼べる存在は得にくかった。今の副将であるケボルをはじめ、そのような存在がいないではなかったが、彼らはやはりズタスの制御下にあって初めて最大の力を発揮できるのだ。

 が、どうやらサガルにはその才があるようである。スッヅを一騎討ちで倒したことより、ズタスにはサガルが自分の意志や思考を正確に読み取り、それを利用して一騎討ちを果たしてのけたことの方に価値を見出していた。

 もちろん一騎討ちに勝利したことも大きな価値はあったが、ズタスには、サガルが一生に一度に近い大勝負に勝つ実力と運の強さを持っていることにも着目していた。そういう男はこれから伸びてゆく。

 あるいはサガルはいずれズタスすら越えようとするかもしれないが、そうさせるつもりは彼にはなかった。ズタスはサガルを高く買っていたが、彼に負けているところがあるとも思っていなかったのだ。

「もしサガルがわしを越えるなら、その時は勝手にわしが落ちぶれていくだけだろうよ」

 ズタスは自分がコナレ族の頂点に立っている理由を忘れていなかった。実力がなくなれば蹴落とされるのは騎馬民族の摂理である。これまで何度も、何人も蹴落としてきたズタスである。その覚悟はとうの昔にできていた。


 そして副将と同等以上に欲しかった謀将。軍師。参謀。これを得られたのは法外のことであった。

 これまで戦いに関して、ズタスはほとんどすべてを自分一人で考えてきていた。戦術のみならず、戦略・補給・戦後処理、その他もろもろのすべてである。それができるだけの力量がズタスにはあったが、それでも負担の大きさは想像を絶する。ましてこれからは、央華大陸を南下しての征服行が待っているのだ。このままではズタスの処理能力を越える可能性が充分にあった。

 その負担を軽減してくれるであろう男が降って湧いたのである。多少出自と「去就」に難があろうとも構わなかった。いずれ心服させてやるだけである。

「あるいは天がわしに力を貸してくれているのかもしれぬな」

 ズタスは自分たちの故郷ほどではないが、澄んだ空を見上げてそんな風にも考えた。彼は天が必ず自分に味方してくれるとうぬぼれてはいなかったが、畏れる気持ちは忘れていなかった。タクグスの出現は、彼にその思いを強くさせるものであったのだ。

「さて、今度こそ師を招かねばな」

 ズタスは空を見ていた顔を元に戻すと、現実へ立ち返った。北河以北を完全に征服下に置いた彼は、膨れ上がった軍を組織し直し、占領政策をおこなわねばならぬ。どちらも手を抜くつもりはないが、手助けはいる。軍に関してはタクグスを使える。そして占領政策に関しては、彼の同胞を討つための戦いからは離れた場所にいてもらった、師である韓嘉に頼めるはずであった。彼はこの時のためにズタスの下にいるのだから。

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