第5話 荊上峠の戦い

 庸軍を完全撃破した騎馬民族は、互いに勝利を祝うこともなく、それぞれの支配地へ帰っていった。彼らが共に戦ったのは「敵の敵は味方」の論理に従ったに過ぎない。またこの戦いで自分たちの軍がどれだけの被害を被ったのか、他の部族に見せるわけにもいかなかった。最大の敵を退けた以上、次は真の敵との戦いに勝たなければならない。自分たちに不利になることをおこなう余裕はなかった。


 この戦いにおいて最大の被害を被ったのはスンク族である。もちろんこれは三部族の中においてであり、庸軍の被害に比べれば多寡はしれている。だがそれでも庸軍が直接攻め込んできたのは彼らの占領地であったし、それだけに彼らが主力として戦う余地は大きかった。なにより、領土を荒らされたことが最も大きな被害である。

 庸軍ももともと自分たちの領土であるし、奪還と解放を企図しての侵攻であるのだから略奪などはおこなわなかったが、それでも戦いがあっただけで近隣の邑には大きな迷惑である。また敗走時の兵には領地や領民を気遣う余裕もなかった。逃走経路にあった邑々は敗残兵に襲われ、多大な被害に遭い、その分生産力も治安も悪くなり、それらの回復のためにスンク族は力を割かねばならない。支配者とはそういうものであるし、そこをおろそかにするようであれば、支配の効率は悪くなり、瓦解のきっかけにすらなりかねない。

「とはいえ、どこまでそんな方向へ手を伸ばせるか…」

 騎馬民族は移動民族であり、定住民族のような支配のための技術情報ノウハウは持ち合わせていない。捕虜にしたり支配下に置いた庸人をそのための役人として用いるにしても限界はある。バジュは無能ではないのでそれらのことをおろそかにするつもりはなかったが、困難の巨大さに憮然とせざるを得なかった。

「さて、どうしたものか」

 バジュはため息混じりに参謀役の甥に相談する。彼を重用しているのはバジュの賢明さの現れではあるが、タクグスとておのれに限界があることは自覚していた。また、コナレ族とギョラン族と雌雄を決して戦うための準備も怠るわけにはいかない。これからが本当に苦しい死闘だということを、バジュもタクグスも知っていた。

「とにかく様々に無理を重ねなければなりません。我が族の存亡が懸かっている事態です。ですがこれをしのげば、我らの手にする富貴は想像を絶するものになりましょう」

「そうだな。苦しいのは我らだけではないはずだ。誰よりも先に音をあげるわけにはいかぬ」

 バジュも甥の進言に従い、表情をあらためた。



 ギョラン族の方は少し事情が違った。直轄地に被害がなかったということだけではない。族長の意識の変化がそれである。彼もまたコナレ族とスンク族を滅ぼし、庸を亡ぼし、巨大な央華大陸をおのれだけの手に入れようという巨大な野心があった。だが一つ大きな駒を手に入れたことで、その心理に微妙なゆらぎが生じたのだ。

「呂石よ、不自由はさせぬ。必要なものがあれば遠慮せず言え」

 スッヅは戦場で捕らえた高貴な捕虜、呂石と対面し、そう告げた。呂石の方は押し黙ったままである。彼の欲しいものはただ一つ、これ以上名誉を損なわないための死のみだが、スッヅからそれを得られるはずもなかったし、彼自身同胞のため、自分だけが安らかな終わりを迎えるつもりはなかった。

「…生き恥をさらせというのならそうしてやろう。ただし他の兵たちの安全は保証し、この地にとどめておく必要なしとなれば、北河を渡らせ、帰国させてやってくれ。さすればわしは汝の思うがままに使われてやろう」

 捕虜になったのは呂石だけではない。逃げそこね、殺されそこなった兵たちも無数に捕らわれの身となっているのだ。呂石は彼らに対して責任がある。できるだけ多く、可能ならば全員を帰国させなければならない。それも無傷で。兵たちは言うなれば、呂石にとって人質も同然であった。

 ここで呂石は気づく。いま自分が捕らわれている地も、本来は庸の領土である。だがすでに異国であるかのように「帰国」などという言葉を使ってしまった。これこそが自分たちが敗北したなによりの証だと、呂石は胸中で耐えがたい苦みとともに思った。

 その呂石の苦渋を知ってか知らずか、スッヅは鷹揚にうなずく。

「わかっておる。汝がわしの要望通りに働くのであれば、兵たちは無事に北河を渡らせてやろう。約束する」

「まずはその証拠を見せてもらいたい。捕虜となった兵たちが北河を渡るところをこの目で見ぬ限り、汝には何一つ協力せぬ」

 だがスッヅの言うことに、呂石は正面から異を唱えた。彼としては絶対に譲れない条件である。もしこの要求をスッヅが拒み、無理に協力させようというのであれば、その場で命を絶つつもりであった。無能にも自分が死なせてきた兵にはもう詫びることもできないが、生き残った兵たちはせめて生き延びてもらわなければならない。それすら果たせぬのであれば、自分に生きている価値は本当になくなる。命など惜しくはなく、逆に言えばそれさえ為せれば、その後の自分の人生は捨てても構わない。その覚悟が呂石にはあった。

 そしてそれはスッヅにも伝わる。呂石の方こそ口約束で、兵たちが帰還した後自死を謀るかもしれぬと疑わぬでもなかった。だが、彼の人となりと名誉とに懸けて、自分との約定を破る恐れはないとスッヅは判断した。

「…よし、わかった。ならば兵たちを帰還させること、汝の目の前でおこなうとしよう。その後は汝はわしのものだ。よいな?」

 呂石に劣らぬ威を込めてスッヅはうなずき、それを見た敗軍の将は、黙然とうなずき返した。


 スッヅは約束を守った。庸軍の捕虜を全員船に乗せ、北河を渡らせたのだ。呂石も別の船に乗せ、監視付きではあったが兵たちと同道させ、彼らが南岸へたどり着き、無事地平線に消えてゆくのを確認させる念の入れようで、これには彼も完全に納得した。

 が、スッヅが約束を完遂した以上、呂石もそれに応じる義務がある。義務というより矜持の問題であった。北狄と蔑む彼らが約定を守ったというのに、文明人を自認する自分が破ったとあっては、たとえ生き延びたとしても、先祖も主君も、誰より自分で自分を許せない余生を生きることになるだろう。

 呂石は、裏切り者として生きることに定まった己の後半生に思いを馳せ、そして考えるのをやめた。

「スッヅどの、感謝いたす。これで私はあなたのものだ。お好きに使うがよろしい」

 呂石はスッヅに深々と頭を下げ、心からの言葉で自分を差し出した。スッヅの方も呂石の言葉に真実がこもっていることを察し、自分の判断の正しさをあらためて知った。

「そうさせてもらおう。だがさしあたっては客人として遇させてもらう。部屋を用意させよう」

 今はまだ、一つの大きな会戦が終わった直後である。こちらもだし、大敗した庸の方はさらに混乱しているだろう。その庸の宮廷へなにがしかの交渉を持ちかけるのも一つの策だし、そのための材料として呂石を使うにしても、今日明日というわけでもない。とりあえずは接収した邸にでも軟禁しておくしかなかった。呂石の様子を見れば見張りすら必要なさそうであるが、それでは部下たちにいらぬ不安や懸念を覚えさせるやもしれぬ。形だけとは言え、監視下にあることを示しておく必要があった。

「さて、どうするか…」

 年の功を最大限発揮し、ズタスやバジュを出し抜かなければならない。スッヅの弱点は参謀がいないことであったし、彼本来の気質は突貫を旨とするものであったが、ここは誤るわけにはいかなかった。彼と、誰よりも彼の孫と部族のために。

 スッヅは黙考を始めた。



 そしてコナレ族、ズタスである。庸軍を北河から南へ叩き出し、再度の侵攻能力を奪った今、北河以北における最大勢力は彼らであり彼であった。

 だが絶対的な勢力とは言えない。コナレ族を四とすれば、スンク族とギョラン族はそれぞれ三と二。ただし今のスンク族の戦力は一時的にギョラン族と同等以下に落ち込んでいる。残りの一は、彼ら三族の手が回らない場所に割拠する小部族たちである。それだけでなくコナレ族の占領地は、西にスンク族、東にギョラン族と、彼らに左右から挟まれる位置にあった。二族にその気と優秀な連絡方法があれば、コナレ族を挟撃できるのである。そしてその恐れは決して低くなかった。庸に対して「敵の敵は味方」と協力した三族である。コナレ族という「敵」に対し、スンクとギョランが同じ論理を使わないとは限らなかった。協力して最大勢力であるコナレ族を先に潰し、余勢を駆って最後の「同盟族」を討ち滅ぼす。

 それによって河北を統一し、南征の軍を発し、庸を滅ぼして央華全土を征服する。

 ここまでうまくいくとは限らないが、スンク・ギョランの両族にしてみれば、とにかくこれが最も勝率の高い戦略であろう。

「そうさせるわけにはいかんな」

 これがズタスの結論であり、これ以外に出しようのない結論であった。



 そして三部族それぞれの問題の解決に、いち早く動いたのもズタスであった。これには理由もある。スンク族は「昏晦平原の戦い」の痛手からまだ完全に回復しておらず、ギョラン族は手に入れた呂石という駒の使い道に悩み、始動が遅れたのだ。

 これらを見たズタスは、速攻を仕掛けたのである。

「まずは東だ。ギョラン族を叩く!」

 ズタスの号令一下、昏晦平原の戦いから一週間も経たない状況で、コナレ族はギョラン族の占領地へ進軍を開始した。これは、先の戦いの推移を見、西に割拠するスンク族の回復にはまだ時間がかかるとの判断から選んだ結果である。

 あるいは全軍とは言わぬまでも、スンク族も多少の軍の回復はおこない、その部隊に背後を突かれる可能性はあった。だがそれでも、先に西のスンク族を突いて、戦力が整っているギョラン族に背中を襲われるより被害は少ないはずである。

 このままどちらにも攻撃を仕掛けず、じっくりと対策を練るという方法もあるかもしれないが、それでは結局、スンク族に回復のための時間を与え、東西に脅威を抱える結果にもなりかねない。

 なにより、ズタスを含めた騎馬民族は、待ちの戦いより攻めの戦いの方が性に合っているし得意でもある。速戦速攻こそが自分たちの最大の長所であり、その長所を殺す戦い方は自殺行為であった。

 そう考えたズタス率いるコナレ族の勢いは、進軍というより突進に近かった。



 これに対し、迎え撃つ形となったギョラン族は、完全に立ち遅れた。

「なんだと、もう来ただと!?」

 コナレ族侵攻の報を受けたスッヅは勢いよく立ち上がり目を剥いた。まさか大戦おおいくさがあったわずか数日後、即座に攻め込んでくるとは考えていなかったのだ。これをスッヅの油断と言ってやるのは気の毒かもしれないが、やはり油断であった。思いもかけず手には入った「駒」の活用法などという慣れない思考に気を取られ、ズタスに対する警戒がわずかにゆるんだ隙を突かれたのである。常のスッヅなら「コナレがいきなり攻め込んでくることもありうるな」との懸念を頭の隅に置いておき、警戒していたはずなのだ。有利になるはずの異分子が、逆の事態を招いてしまった。

 しかも不利はこれだけではない。総司令官であるスッヅの心と頭だけでなく、兵たちの準備も出来ていなかった。まず数自体がコナレ族に劣るだけでなく、昏晦平原の戦いで、兵数そのものが減少している。のみならず、大きないくさを終えたばかりで、兵の心身はまだゆるんだままの状態だったのだ。彼らは戦いの疲弊を癒すため、乱痴気騒ぎの真っ最中であったと言っていい。これでは精強を誇る騎馬民族といえど、鞭を入れ直すのに時間がかかる。しかも相手は弱兵の庸軍ではなく、騎馬民族の中で最精鋭と言っていいコナレ軍なのだ。

 と、ここまで考えて、スッヅの脳裏に一つの案が浮かんだ。

「……よし、使者を南にやれ! 庸に兵を貸せば北河以北の一部を返してやると伝えるのだ」

 この緊急事態に、スッヅは直接的な方法を取った。とにかく兵がいなければ話にならない。少なくとも援軍がなければ、いま現在手元にいる兵たちの士気も保ちえないだろう。その援軍を、つい数日前に戦って粉砕したばかりの相手に求めようというのである。虫がいいというより非常識というべき方法かもしれないが、スッヅには成算があった。

 庸にしてみれば、先祖からの地を奪われてしまった事実は痛恨どころの話ではない。あらゆる不名誉と恥辱と恐怖とに駆られる異常事態なのだ。ゆえにその一部でも奪還できるとなれば、乗ってくる可能性は充分にある。庸はすでに大軍を編成する力は失っているかもしれないが、まったく兵がいないわけではないだろう。この際、数千の兵でもありがたい話であった。たとえそれが弱兵であったとしても。

 コナレと庸に挟撃される怖れもないではないが、庸軍にしてみればコナレ軍と共謀してギョラン族を討っても、その後コナレに粉砕されるだけである。ギョランに対しても同様の疑念は拭えないだろうが、同盟を結ぶだけ信用できると考えるはず。どちらの族も信用できず、兵を出してこないのであれば、それはそれで南は安全になる。全体の不利は消えないが、これ以上の不利を抑えられればそれだけでも益と言えた。

 スンク族へは使者は送れない。そのためにはコナレ族の領域圏内をゆかねばならず危険であるし、北や南へ迂回していては時間がかかりすぎる。

 それに心情としても政治的にも今回は送れない。足許を見られるだけである。

 ギョラン族は孤軍で戦わねばならない。しかしスッズはあきらめてはいなかった。 

「コナレも疲れているはずだ。時間を稼げば逆転できる。そしてコナレが持つ地も我らのものとしてみせようぞ」

 スッヅは危機を好機に変えるべく、拳を握った。


 コナレ軍は突進する。彼らは前方しか見ていなかった。そうでなければ戦えないのだから当然である。だが総司令官であるズタスの目は背中にもあった。

「スンク族は動いたか」

 というのが、彼の懸念の最大のものであった。ズタスの集めた情報と、そこから導き出された結論、そして理性以外の理由から起こりうる突発的な返事。それらすべてを考慮に入れた上で、ズタスは「スンク族の攻撃はない」「たとえあったとしても充分対処し得る」と考えていた。

 スンク族の攻撃があった時点で反転して迎撃するということではない。そんなことをすればギョラン族に背後を撃たれ、全滅してしまう。彼は全力でギョラン族を叩きのめすつもりであった。

 ではいくら力が弱まっているからといって、スンク族の攻撃を軽視しているのか。それも違った。いかに弱まった力であっても、背後から撃てば強者を打ち倒すことは充分可能である。

 しかしそれでもズタスはあえて背中を見せた。

 それどころか彼は、軍隊だけでなく、北方から連れてきた騎馬民族の、占領地にいるすべての民間人をも引き連れて、東へ進撃を開始したのである。もちろん軍隊が先頭を走り突出してはいるが、民も彼らの後をついて行っている。つまり央華大陸におけるコナレ族の本拠地はからになっているのだ。

「どちらに飛びつくか…」

 ズタスにとっては大きな賭けであった。彼にはスンク族の侵攻があることはわかっていた。その侵攻が、自分たちの後背へ向かうか、それとも明け渡した土地へ向かうかに賭けたのである。

 ズタスには実は、スンク族とギョラン族、二方面を同時に相手取る自信があった。傲慢だとの非難もあるだろうが、なんと言われようと彼には自信があったのだ。だがそれでも、前後を同時に相手取るのはすさまじく困難で、被害は大きくならざるを得ない。

 ゆえに彼が欲しかったのは時間だった。目の前のギョラン族を撃滅し、返す刀でスンク族を退ける。時間差で各個撃破できればそれが最上であった。

 それが虫のいい話であるとさすがのズタスも感じないではないが、しかしこのまま時間をかけて東西に巨大な敵を持つのは危険すぎる。今現在、三部族の中で最大の勢力と戦力を誇るのは自分たちであり、その好機を活かさない手はなかった。

 危険な賭けである。だがこの機を逃せば、将来さらに大きな危険のある賭けに身を投じなければならないかもしれないのだ。ズタスの戦略は無謀半歩手前の危うさに満ちていたが、冒すに値するとズタスは信じていた。


 バジュとタクグスは迷った。彼らは現在、三部族の中で最弱であった。もしコナレ族が彼らを襲ってきたら、負けないまでも危険は必至で、まかり間違えばせっかく占領した地を捨て、北方へ逃げ帰らなければならなかったかもしれない。

 だがズタスは自分たちではなくギョラン族を襲った。しかも全勢力を引き連れ、もともと持っていた占領地を捨てて、である。

 バジュもタクグスも、これには目を剥いて驚いた。すぐにはズタスの意図も見えなかったが、多少時間がかかりはしたものの、さすがにタクグスは正確に敵将の狙いを読み取った。

「わかりました叔父上。これは我らに迷いを与えるためのズタスの策です。我らが奴らの放棄した地を奪うのか、それとも奴らの後背を襲い叩きのめすのか、と」

 広大な沃野は美果の宝庫である。殊に北方の茫漠とした平原しか知らない騎馬民族にとっては、央華の大地はいくら食べても減らない無限の食膳であった。央華でも南方に行けばさらなる沃野があり、彼らが今いる地はそれらの地に比べれば不毛の大地の観すらあるのだが、騎馬民族にとってはこの地ですら桃源郷であるのだ。

 ゆえに目の前に差し出されたそれは、彼らをして全身で抱きしめ、誰にも渡したくないという思いに駆られる。実際、タクグスにもその思いはあった。だが彼は、この時、最も必要なことはなにかをわきまえていた。

「叔父上、全軍をもってコナレ族の後背を襲いましょう。機さえ合えばギョラン族との挟撃も可能です。さすればいかな精強を誇るコナレとて深手を負わずにはいられますまい。千載一遇の好機でありますぞ」

 タクグスは興奮気味に叔父に進言する。

 彼にとってもこの事態は予想外であり、迷うこと多大な状況であった。だが、もろもろの状況を削ぎ落とし、本質だけを見れば、進むか止まるかの二者択一しかないことは、タクグスにはすぐにわかった。そして進めば吉、止まれば凶ということも。もしここで目の前の大地に目がくらめば、絶対の好機を逃してしまう。たとえコナレ族が治めていた沃野を手に入れても、彼らがギョラン族を倒して反転してくれば簡単に奪い返されてしまうかもしれない。現状では、コナレ族と自分たちには、それだけの戦力差があった。

 だが今コナレ族に攻勢を仕掛ければ、その差を埋めることができるかもしれない。ズタスが賭けに出たように、タクグスもここは賭けに出るべきだと判断したのだ。

 が、彼の主君の意思は違った。

「ならん。まずはコナレが放棄した地を我らの物とする」

 甥の進言を叔父であり族長であるバジュは退け、タクグスに目を剥かせる。

「なにゆえです叔父上! 領地を獲得するよりコナレの後背を襲う方が利が大きいという理由は、たった今ご説明申し上げたではありませぬか!」

 タクグスにしてみれば思わぬことであった。叔父は当然、彼の傀儡ではなかった。これまでとて進言が容れられないことも何度もあった。だがそれは、タクグスに小さな迷いや見落としがある時のことであり、叔父はそれらを正確に見抜き、確固たる意志と理由をもって退けている。

 だからこそタクグスは叔父を尊敬し、彼に仕え、彼を北方と央華との覇者にしようと全力を尽くしているのだ。

 だが今回は違う。もしかしたらこれまで通りタクグスになにか見落としがあるのかもしれないが、そうではないと彼の勘が伝えてくるのだ。

 そしてその勘は正しかった。

「現在我らの戦力は手薄だ。それを補強してからズタスと決着をつける。そのためにも豊かな土地は必要であり有用だ」

 バジュが口にする理由はタクグスの予想の中にあった。タクグスにとってあらゆることに暗雲がたちこめる思いである。

「それはなりません。叔父上のおっしゃるように、現在の我らの戦力は少ない。それゆえ今の占領地だけならともかく、コナレ族が捨てた土地まで守るには数が不足すぎます。それでもなお彼らの地を領し、確保しようとすれば、少ない戦力をさらに各地に分散して配置せねばなりません。それでは陣容は薄さを増し、領地を守るどころか各個に撃破されるのみです」

「わかっておる。ゆえに我らの故地へ兵を送るよう、すでに伝えておる」

「そのような時間はありません。また我が族の精鋭はすでに全員連れてきており、故地から送られてくるのは、数も質も劣る兵しかございません。それでは戦力にはなりえませぬ」

「到着してから鍛え上げればよい。また占領した地に住む民を兵に加えれば、数はいくらでも増えるではないか」

「そのような悠長な真似を、ズタスが許すはずもないではありませぬか。また庸の民にとって我らは昨日までの敵。しかも彼らの親兄弟を殺した敵でござる。そのような相手に徴集された者が、従順に働くはずがございませぬ。戦の最中に寝返るのが関の山でございましょう。加えて彼らは我ら騎馬の民に比べ、勇猛さではまったく劣ります。戦力そのものとしても使い物になりませぬ」

 バジュの提案をことごとく論破しつつも、タクグスは絶望感を深めていった。こんなことは無駄で無意味だと彼にはわかっていたのだ。

 バジュは欲を持ってしまった。もともと欲望の強い男であり、だからこそ過激な騎馬民族たちの上に立ち、彼らを押さえつけ、束ねる力があったのだ。

 だが央華の地に来て、欲望の質が変わってしまった。無い物を奪うための欲望ではなく、得た物を守るための欲望になってしまったのだ。それほどに央華の大地と庸の民が造り上げて来た物産は魅惑的であった。バジュは、それらに魅せられてしまったのである。

 ゆえに彼がズタスの放棄した地を、よだれを垂らして欲しがるのは当然であった。楽をして、もっと多くの美果を得られるのだ。

 その誘惑にはもう勝てない。叔父が口にする理由など、もっともらしい飾りに過ぎない。タクグスの説得も、端から聞く気もありはしないのだ。

 あと少しすれば彼は甥を雷喝し、話を強引に打ち切らせるだろう。それもわかるだけに、タクグスの絶望感は虚しさに変わっていった。

「叔父上……」

「ええい、もうよい!」

 予想通りであった。タクグスは口をつぐむ。

「汝は我が族の何か!? いつ族長になった。汝はわしに求められたときだけ意見を言えばよいのだ。身内とはいえ甘えが過ぎるぞ! 今後はそのあたりのけじめをしっかりとわきまえよ。わしもそのようにする」

「……わかり申した、族長」

 タクグスは虚しさの中でそう答えた。だがまだ希望が消えていないことも感じた。バジュがこのように痛烈に甥を非難するのは、自分の言うことが耳に痛いからである。それはつまり、事の軽重や良否を判断する叔父の理性がまだ消えてはいない証拠であった。

 タクグスはその可能性に賭け、逆転の策を考え始めた。



 スンク族、我らを追わず土地を狙う。

 その報を受けた時、ズタスは馬上でぐっと拳を強く握った。彼は自分が賭けに勝ったことを知ったのだ。

 だがそれは、最初の賭けに勝利したに過ぎない。正面のギョラン族を討ち、反転してスンク族を叩かねば、この賭けに勝った意味がなくなる。それでも後背を気にせず前方だけに集中できるのは大きかった。

「三割しかなかった勝率が六割か七割まで上がったぞ」

 と、馬上で笑みを浮かべるほどだったが、その表情を無理矢理に引き締める。まだ彼は、自分がなにも得ていないことを忘れていなかった。

「全軍、ギョラン族へすべての力を叩きつけよ。汝らは強い。庸軍とのたび重なる戦いでもそれは証明されておる。我が指揮に従い、持てる力を存分に発揮せよ。さすれば勝利以外の結果は我らの前に転がってこぬ」

 ズタスは全軍を鼓舞し、兵たちは鬨の声で応じる。庸軍は弱かったかもしれない。だがそうであっても庸兵の数は多く、地の利も彼らにあった。必ず勝てると言い切れるほどに差はなかったのだ。そうであるのにコナレ族はすべての戦いに勝ち、しかもほとんどが完勝であった。コナレ族の実力は本物であり、自信を得るための実績に不足することもなかった。あとは自信が過信になるのを戒めるだけだが、ズタスは今現在、兵たちの勢いを最大限活かすことのみを考えていた。

 コナレ族は波濤のようにギョラン族へ迫る。



 ギョラン族は完全に立ち遅れた。だが圧倒的に不利というわけではなかった。意表を突かれはしたが、立て直す余地はまだまだある。

 スッヅは戦場を選ぶため地図を持ってこさせた。

「よし、ここにしよう」

 地図をにらんでいたスッヅは、ある地に視線で印をつけた。それは北河の支流の一つを北に、小高い山を南にのぞむ、さほど広くはない、荊上峠けいじょうとうげと呼ばれる谷間のような土地であった。

「ここにコナレとズタスを誘い込む」

 狭隘な土地は大軍の利を活かせない。広く展開できない以上、正面から戦うに少数の敵と同数でしか戦えないからだ。それでも数が多い方が圧力があるし、余剰の兵を敵の後背へ回すという戦い方はできるかもしれない。だがそれは戦場になった土地を熟知し、しかも相手に悟られないようにおこなわなければ危険でもある。別動隊が途中で道に迷ったりでもすれば、各個撃破される危険すらあった。

 ズタスであればそのような間の抜けた戦い方はしないかもしれないが、ギョラン族が支配しているこの地に関する知識は薄いはずである。

 また、スッヅが選んだ戦場へ、ズタス率いるコナレ族が足を踏み入れない可能性もある。なにも進んで自分たちが不利になる戦場へおもむく必要はないのだから。

 しかし今のズタスには時間がなかった。もしギョラン族を叩くのに時間がかかれば、後背からスンク族が襲ってくる可能性は高くなる。自分たちが荊上峠に入って動かなければ、コナレ族も踏み込んでこざるを得ないだろう。

 またズタスは知らないであろうが、時間が長引けば長引くほど有利になる要素がギョラン族にはある。庸からの援軍が到着する可能性も高くなるのだ。

 騎馬民族であるギョラン族も持久戦は苦手であったが、この際は持ちこたえることが最良の戦い方であった。

「時間を稼ぐ」

 これがスッヅの戦略の第一であった。


 コナレ族の進軍が始まって四日。彼らはギョラン族の領内の、かなり深くまで入ってきていた。そして先行させていた斥候の一人が、ギョラン族の軍隊を発見した。が、その報告を聞いたズタスは意外そうな表情を見せた。

「あの老人が穴に閉じこもっているのか」

 地図を開き、斥候が指し示す場所を見ながらズタスはつぶやく。荊上峠と地名の書かれたその場所は、川と山とに挟まれた狭隘な地であり、大軍を展開させることも、騎馬軍を突進させるにも不向きな場所であった。いかにも騎馬民族らしからぬ戦場設定で、特にスッヅにはふさわしくない。スッヅは老人であっても、あるいはだからこそ、誰よりも騎馬民族らしい男なのだ。狭い穴蔵で縮こまって迎え撃つなど、彼らしくなかった。

「……なにか狙いがあるのだろう。が、それが今一つ見えぬ」

 速攻、奇襲を企図して飛び込んできたズタスだけに、ギョランの内情に関する情報は多くなかった。

 だがズタスには時間がない。理由はスッヅが看破した通りであり、そのことはズタス自身が最も自覚していた。ゆえにスッヅにつきあって持久戦を構えるつもりはなかった。

「……なにか策はないか」

 ズタスは幕僚たちを振り返り、尋ねる。が、もともとさほど期待はしていなかった。

 彼らは騎馬民族である。勇将であり猛将ではあっても、謀将ではなかった。コナレ族の中で最も謀略に長けているのは、他ならぬズタスなのである。実戦はともかく、そこに至るまでのほとんどすべてはズタスが一人でやらなくてはならない。それをわずらわしいと思う彼ではなかったが、このような時はいささか困るのだ。

 本来であれば師である韓嘉に参謀役をやってほしいのだが、彼は軍事には、ほぼ関与させていなかった。これはズタスの真の敵が、韓嘉の故国と同胞だからである。韓嘉が裏切ったり、自分たちの不利になる危険分子になることを恐れたからではない。そんな人物であるなら、そもそもズタスは師事したりしない。この処置は純粋に、韓嘉の心情にこれ以上の負担をかけることをズタスがいとんだためである。

 ゆえに韓嘉の見識は内政に活かさせてもらうことにしていた。征服されたとはいえ故国の民を可能な限り救おうとするのなら、韓嘉はおのれの力を存分に発揮してくれるだろうし、彼の罪悪感も多少は薄れるであろうとズタスは考えたからである。

 だがスッヅとの対決は騎馬民族同士の戦いである。韓嘉にとっては罪悪感を覚えずにすむ戦いであるから、もしかしたら力添えしてもらうにも師の負担にならないかもしれない。そうも考えるが、韓嘉を呼ぶにしても時間がかかる。今はその時間も惜しかった。


「族長」

 と、ここでズタスを呼ぶ声がした。やや自らの思考に沈んでいたズタスは、一瞬、師がこの場に突然現れたのかと感じた。その声が少しだけ韓嘉に似ていたからである。だが似ているのは声質だけで、若々しい躍動感がその声音にはあふれていた。

 ズタスは声の主に目を向ける。と、そこには一人の若者がいた。若者と言うより少年と言ってもいいかもしれない。彼は十八歳であった。騎馬民族の中でも彼の年齢になれば一人前として扱われはするが、それでも「新参者の大人」と見られるのは致し方ない。それを本人が是とするか否かは当人の気質にかかっているところが大きいが、血の気が多い騎馬民族では否とする者が多数である。そして彼もその中の一人であった。

「サガルか。なんだ」

 コナレ族は大族であり、その中でも様々な中族、小族に分かれている。それらの集合体であるのが騎馬民族の部族であり、彼ら個々の部族は一つ一つが誇り高く、また精強であった。それらを束ねるには指導者の個人的な力量や器量が欠かせず、またそのような者がいなければ彼らは簡単に分裂してしまう。

 ズタスにはそのすべてがあり、ゆえに彼らを糾合して「大族」としてコナレを維持することができているのだ。


 少年――サガルの部族はシン族といい、中族と小族の間の勢力であるが、つい先日族長が亡くなった。戦場での死であり、それはシン族にとって誇るべきことであったが、彼には跡継ぎとなる男子がサガルしかいなかった。年齢からいっても彼が跡を継ぐことに反対する者はいなかったが、壮年であった父に比べ、年若いサガルを軽視する向きはやはりただよう。それをサガルが苦々しさと多少の焦りとともに感じていたことを、ズタスは知っていた。

 ゆえに彼は、少年がなにを言おうとしているかも察していた。

「族長、おれにスッヅとの一騎討ちを許してくれ。必ず討ち取ってみせる」

 予想通りの請願に、ズタスはわずかに沈思しつつも首を横に振った。

「いや、あの老人は応じまい。数年前なら血気のままに汝の挑戦を受けたかもしれんが、今の老人はただの騎馬民族の族長ではなくなった」

 ズタスはそのことを感じ取っていた。それは長城を越えて庸へ侵攻し始めた頃からではない。それ以前、自分が勢力を増してきた頃から感じていたことだった。それまでのスッヅは騎馬民族の長らしく、力と攻撃と侵略とを旨とし、相手には屈服以外のものを求めて来なかった。

 だが老いて器量が広がったのか、あるいは覇気が衰えたのかはわからないが、とにかく引くことと柔軟さを兼ね備えるようになり、視野の広さを併せ持つようにもなってきたのだ。

 これはズタスにとってはうれしくない変化であった。猪突してきてくれた方がはるかに御しやすい。そしてそのような変化があったスッヅだけに、彼がサガルの挑戦を受けるとは考えにくかった。

 が、サガルには異見があった。

「いや、あなたや壮年の男が挑んできたのならスッヅも勝負を避けるかもしれないし、それはあの爺さんの配下にいる者たちも納得するかもしれない。だがおれのような年端もいかぬ子供の挑戦まで退けたとすれば、さすがにじじいの面子が砕け散る。これからの戦いや征服にも支障が出てくるだろう。そのことをあの爺さんがわからないはずがない」

 サガルの言うことに、ズタスはやや虚を突かれた。

 たしかにその通りだろう。自分はスッヅを高く評価していたが、それだけに見えなくなっていたものがあったらしい。

 が、突かれた虚はそれだけではなかった。見た目も表情も乱暴者との印象が濃い少年だが、意外にも視野が広く、見識も高いことに驚いたのだ。

「これはうまく育てれば、予想外の掘り出し物になるかもしれんぞ…」

 たったいま人材の不足を嘆いていただけに、思わぬところからの可能性がズタスの表情をゆるませそうになる。もちろんサガルの気質から彼が謀将になれると考えていたわけではないが、有為な人材はそれだけで彼の心を浮き立たせるのだ。それは人の上に立つ者の本能に近いかもしれないが、ズタスそれを無理矢理引き締めると少年との会話を続けた。

「なるほど、確かにそうかもしれん。だがあの老人が汝の挑戦を受けたとして、汝が勝てばよし、もし負けたなら、我らはなにも得るところがない。汝は自分が負けるはずがないと思っているかもしれぬが、あの老人を一騎討ちで必ず倒せると言い切れる者は、我が族にもさほど多くはないぞ。そのことがわからぬというのであれば、わしとしても汝をやるわけにはいかん」

 サガルがスッヅに勝てば、対ギョラン族の問題どころか、北河以北征服のための懸念は一気にすべて解決する。コナレ族同様、ギョラン族の団結も、スッヅという「要」あってこそのものなのだ。それが砕ければ、残った者たちはほどけた糸のようにばらばらにならざるを得ない。いくら個々が強かろうと、まとまらぬ存在など恐るるに足りない。コナレ族はギョラン族の支配する東方もすべて獲得することができるだろう。

 そしてそれは北河以北における圧倒的な勢力の獲得ということであり、西方に在るスンク族を押しつぶすなど造作もない。

 将棋倒しにすべてが解決してしまうのである。

 が、逆にサガルが負ければ、それでおしまいである。スッヅは変わらずギョラン族を掌握しコナレ族にとっての難敵であり続ける。コナレにとっては得るものがないどころか、若い勇者を失うだけであるのだ。たった今サガルの意外な才能をかいま見たズタスにとって、この若者は、ただの戦闘における勇者ではないのだ。有為な若者を無駄に使い捨てる気は、ズタスにはなかった。

 が、若き勇者は思慮と覚悟の双方を持っていた。

「おれ一人か、おれの部族だけで突出する。族長の意思と関係なく勝負を挑む。そうすればコナレ族全体に類は及ばぬし、おれが負けた時はその瞬間にギョラン族を襲えば、スッヅはまだ陣に帰りきっておらぬだろうし、ギョラン族全体も混乱するだろう。そうすればギョラン族もなし崩しに戦いに突入せねばならぬであろうから、閉じこもっている連中をおびき出すことができる。そしておれがスッヅに勝てれば、それはそれでなんの問題もない」

 サガルは「違うか?」という表情でズタスを見る。その視線を受けたズタスは、またも沈黙する。それは少年の言っていることに理を見ている証拠であった。

 が、ズタスはやはり首を横に振った。

「…いや、やはり駄目だ」

「族長…!」

「サガル、汝は自分や自分の族を軽く見過ぎだ。わしは臆病は許さぬが、無駄に兵を死なすつもりも毛頭ない。汝もシン族の族長ならば、族下の者を無駄に死なせるような真似はつつしめ。汝がスッヅに一騎討ちで破れたとして、族下の者たちがそれをそのままにしておくと思うか。汝の仇討ちにギョラン族へ突撃し、全滅してしまうぞ。そうならずとも族長がいなくなったシン族はどうなる。汝以外に族長にふさわしい者がおるのか。自重せよ」

 ズタスは少年族長を諭す。確かにすべてズタスの言う通りで、年若い彼が死んだ後、新たに族長に就くにふさわしい者は、今のシン族には見あたらない。誰が就いても内紛の起こる可能性があるのだ。彼は自分の族人のために命がけで尽力せねばならなかったが、同時に簡単に死ぬわけにもいかない立場なのだ。

「……」

 それがわかるだけにサガルは黙った。

 が、サガルは物わかりがいいだけの少年ではなかった。



 深夜、ズタスの眠る天幕の外から彼を呼ぶ声がした。戦場であるゆえ同衾する女もいないが、そのことに不満を言う彼ではない。それでも夜中に起こされれば不快さを覚えはするだろうが、ある予感があったズタスはそれも見せず、簡易の寝台に上半身を起こす。

「……なんだ」

「は、シン族がひそかに出立いたしました。向かう先はギョラン族の布陣している地であるかと思われます」

「…そうか。我らもすぐに追う。全軍を起こし、出撃の準備をさせよ」

「は」

 短く返事をすると、天幕の外の兵は各所へ起床と出撃の準備を知らせるために走り出す。それを天幕越しに見送ったズタスは寝台から降り、駆け込んできた従卒に手伝わせながら、出陣の用意を始める。

「…わしは変わらず非情よの」

 ズタスは心中で自嘲する。彼はサガルとシン族の突出を、ある程度予想していたのだ。それを止めようと思えば止められたが、彼らが動くことによって状況が変わる可能性は高かった。ゆえに黙認したのである。

「しかし、であるなら、この機は最大限活かさねば」

 サガルたちを見殺しにするつもりはない。ないが、最悪そうなることは充分考えられる。しかしたとえ結果がそのような形になるとしても、必ずギョラン族を撃滅し、東方を征せなくてはならない。

 おのれの罪を自覚しつつ、それを償う最低限のことは必ず成し遂げようと誓うズタスであった。


 サガルに率いられたシン族は、静かに陣を抜け出した後、一転して全速力で駆け始めた。彼らの数は百五十というところで、族人全員が出撃したわけではない。自分たちが全滅したとて、族全体を消滅させるわけにはいかないのだ。全滅も覚悟の上で若き族長に従いたいと願ったのは族人たちの方であったが、サガルは強い意志をもって彼らを制した。

「我らがすべて死んだら、祖先と残された女子供たちはどうすればよい。我らは必ず勝つ。仮にそうならぬとしても、族長は我らの動きを利用してギョラン族を叩くであろう。その功をもってシン族は存続を許されるに違いない。汝らが残るのは、我らの死を無駄にせぬためだ。我らを犬死にさせないでくれ」

 少年期をわずかに越えた若者であっても、一族の長を努めるだけあってサガルは非凡であった。彼の理と威とに、族人たちはうなだれて従うしかなかった。

 そしてサガルの非凡さのもう一つは、ズタスが自分たちの突出を見抜いて、しかも黙認するであろうとわかっていたことである。だがそのことについてサガルはズタスに恨み言を言うつもりはない。むしろ感謝していた。

「族長。我らの誇りのために、感謝する」

 陣を離れるとき、振り向いたサガルは小さくつぶやき、頭を垂れた。ズタスは自分たちの動きを戦局を動かすきっかけにするつもりであろうが、そのような打算だけで見逃したわけではないと、若者は知っていた。ズタスがそのような非情な思考のみを旨とする男であるのなら、彼に従う者はこれほど多くはない。理と情とを高い次元で兼備している者にこそ、人はついてゆくのだ。それゆえサガルは、この出撃が何の意味もなく終わることはないと確信していた。

 深夜ではあるが、騎馬民族は農耕民族より夜目が効く。また今夜は半月ではあり充分に明るく、道を誤ることはない。

 それは奇襲に向かない夜ということでもあるが、最初からその意図がないサガルには関係がなかった。彼は昼間ズタスに進言したように、スッヅに堂々と一騎討ちを挑むつもりであったのだ。


 ギョラン族の陣も、当然無防備のはずがなかった。それなりにきちんと陣を布き、歩哨も立て、夜襲に備えていた。

 が、彼らの目前に現れたのは、夜襲のために息を殺して近づいてくる部隊ではなく、かといって松明を掲げて堂々と進撃してくる大軍でもなかった。百騎から二百騎程度の部隊である。

 小部隊ではなく、さりとて百騎程度では自分たちと戦うのに戦力としては不足にすぎる。敵であることは確かだと思われたが、その数にしては堂々としすぎており、あるいはコナレ族を裏切り、自分たちへ降伏してきたのかとも考えたが、それとも違った。なにをしにきたのか、先頭にいる騎士が大音声で告げたからである。

「我はシン族族長サガル! ギョラン族族長スッヅとの一騎討ちを所望!」

 声からして若者であることは確かだが、聞いたことのない名である。シン族の名はコナレ族に類する一族であることは知れていたが、最近族長が変わったということまではギョラン族は知らなかった。だがこの状況、この時間に突然現れて、族長と一騎討ちを望むなど、いかに勇猛さを誇る騎馬民族とはいえ、目を見開いて驚いた。

「小僧! まだ夜は明けておらぬぞ。寝ぼけて世迷い言を言いにきたのなら、さっさと寝なおして、しゃんと目を覚ましてから出直してこい!」

 歩哨の報告を聞いてやってきた士官の一人がサガルの申し出を嘲笑する。事実、この状況で聞いたこともないような若僧の挑戦に乗る必要は、ギョラン族にもスッヅにもなかった。

 だが若き族長は、まったく引き下がらなかった。

「スッヅは騎馬の民の誇りを失ったか! 軟弱な庸の地に来て、その惰弱さに染まるを恥とは思わぬか! おれを小僧とののしるのであれば、片手で斬り伏せてみせよ。おれの方もじじいゆえ手加減はしてやる。片手の指でつまんだ剣で相手をしてやろうか。これでもまだ怖いのならば素手で戦ってやろう。これですらまだ足りぬか。誇りも力も失った者は、赤子相手でも震えて泣き叫ぶというが、汝も同様であるかよ!」

 挑戦のための挑発である。サガルは思い切り侮蔑した。特に騎馬民族としての誇りを傷つける形で。騎馬民族にとって実力と勇気を軟弱と臆病にすり替えられるほどの屈辱はない。実力は人生を懸けて培ってきた証、勇気は彼自身の存在そのものである。芯も身もけなされて黙っていられる者は、騎馬民族、特にすべてを統べる族長ではなかった。

 それでも相手がズタスのように、実力も実績も充分以上の壮年の男が相手であれば避けることも恥ではなかったかもしれない。騎馬民族は誇りの高さも一級品だが、現実感覚の鋭さも同様であった。そうでなければ彼らの生まれ育ってきた厳しい環境では生き残れないのだ。

 しかしたかが二十歳前の雛鳥に対して背を向けたとあっては、全軍の統率への影響すら出かねない。実力なき者以上に臆病者に従わないのは、騎馬民族にとって当たり前のことだった。サガルはそこまで考えて挑発したのである。


 大音声で呼ばわったため、サガルの声はまだ自分の天幕にいたスッヅの耳にまで届いた。ということはそれは、他の兵たちもサガルの挑発を聞いたということである。老族長は小さく舌打ちした。

 スッヅにとって利の薄い挑戦である。受けずに聞き流し、多数の兵をもって押しつぶすか追い返すかですませたいところであった。だがこうも多数の兵に聞かれては、出ていかないわけにはいかない。勇気なき者と見られれば、スッヅは根本の基盤を失いかねなかった。彼自身はその域を脱しつつあるが、騎馬民族は政略や戦略より戦術を、それより個人の武勇をなにより尊ぶのだ。ここで出ていかなければスッヅは兵の忠誠を失うどころか軽蔑を買ってしまう。そうなっては戦いや征服どころではなかった。

「…甲冑はいらぬ」

 入ってきた従卒が武具を用意するのを制すると、スッヅはほぼ寝所にいるときと同じ姿で馬上の人となり、前線へ向かった。


 サガルは槍を手にしたまま、口を開くこともなく馬にまたがっていた。彼はすでに言うべきことはすべて言った。あとはスッヅがどう応じるかである。

 が、答えはわかっていた。サガルもまた騎馬民族である。ここで出てこない男に族長を名乗る資格のないことをよく知っていた。それゆえ群がる敵兵が道を開け、スッヅが馬に乗って現れたことに驚きはなかった。が、彼が武器も持たず、甲冑もつけない平服姿であることは意外であった。

「サガルというか。シン族の族長はソウズだと聞いていたが」

 スッヅはサガルに対し、前置きもなく尋ねた。さすがに族長ともなれば、コナレ族にいる部族とその族長の名くらいは知っている。

「父は先日、戦死した。ゆえにおれが跡を継いだ」

 わかりやすく、納得のいく答えであった。スッヅはうなずく。今度はサガルが尋ねた。

「おれは一騎討ちを望んだ。なぜ汝は武器も持たず、そのような姿で現れた。一合も交えず降参するつもりか」

「まず汝を見たかったのだ。わしに一騎討ちを挑んでくるほどの者であるのなら、よほどの剛の者であろうからな。くちばしの黄色い雛鳥に勝ったとしても自慢にはならん」

 スッヅの言うことにサガルはすっと目を細める。怒声を発しないのは、スッヅの自分に対する評価がまだ出ていないからだ。ゆえにサガルは手にした槍を水平に掲げ、切先をスッズへ向けると、それをすうっと横に振る。

「で、返事はどちらだ。受けるか、勇者よ。退くか、臆病者よ」

 静かな動きと静かな問い。だがそれは、空に輝く月ほどに澄んだ鋭さを持っていた。

「……」

 そのサガルを見たスッヅは、無言で近くにいた兵から剣をもぎ取る。

「成鳥には届かぬが、相手をしてやらぬほどでもない。今の汝ではわしには勝てぬかもしれぬが、今しばらく成長を待てばより確実に勝てるやもしれぬぞ。今退くのであればそのための時間はくれてやる」

「老鳥にこそ時間はあるまい。今、この場で汝を斬ること。それがおれが成鳥となる唯一の方法なのだ」

 会話はここまでだった。サガルは槍を横に構えたまま静かに馬を進め始める。それを受けたスッヅも剣はだらりと下げたまま、同様に馬を進める。

 背後にはそれぞれ麾下の兵たちがいる。勝敗がいずれに転ぶとしても、彼らの前で無様な戦いは見せられぬ。族長となる者は、死に方も自分では選べなかった。が、情けない姿をさらしてまで生き延びたいとは思えぬ者だけが、騎馬民族の族長になれるのだ。彼らは彼らとして生きるだけで、自らの望む生死を与えられていた。

「…シャア!」

 互いの距離がせばまったところで、サガルが喚声とともに突進を始めた。一瞬で馬速を最大に近いところまで持っていくあたり、彼の操馬術は一流であった。


 そして受ける方も一流だった。

 なにがというわけではない。すべてがである。

 甲冑も着ておらず、すでに全盛期は過ぎているはずの肉体が、サガルのかんからきゅうへ突然の変化にも、なんの遅滞も見せず剣を振るい、突きこまれてきた槍をいなす。

 擦過音とともに小さな火花が飛ぶ。

 スッヅの真横を駆け抜けたサガルが、これも一瞬で馬首を翻すと、背を向けたままの老族長へ肉薄する。

 刹那、突き込まれた槍は、寸前で振り向いた剣に弾かれた。

 スッヅの動きには余裕がある。背後からの攻撃すら有効ではなかった。

「後ろから斬りつけるを恥とは思わぬか、小僧」

「汝の背中には目があろう。現に、あった」

 スッヅの非難は微笑混じりで、サガルの答えは悲壮さをたたえた真剣な表情である。サガルも本来、背後からの攻撃を是とする男ではない。今の攻撃はスッヅがよけるとわかっていたからこそのものだったが、それでもここまで余裕をもってかわされるとは思っていなかった。彼の突きはそれほど本気だったのだ。

「シャア!」

 再度鋭く声を挙げると、サガルは槍を縦横に振るい、上下左右からスッヅへ斬りつけてゆく。槍に振り回されるということは、まったくない。彼の腕がそのまま槍になったかのように、無駄なく、圧倒的といっていいほどの膂力を持った攻撃だった。

 だがそれを老人はすべていなしてゆく。柔をもって剛を断つのはいかにも老人らしい戦い方ではあったが、スッヅがそれのみでないことを、サガルは一合ごとに思い知らされていた。

 それほどにスッヅの剣は重いのである。こちらの攻撃を受けているだけなのに、その重さが槍を通じてサガルの腕に伝わってくる。剛と柔の圧倒的な融合であった。これで攻撃を仕掛けられたらどうなるか。

 ガシャッ、と音をさせて、スッヅとサガルの馬がぶつかり、二人の槍と剣が鍔迫り合いを始める。

「…老人、貴様本当に老人か」

 全力での押し合いの中、サガルが驚嘆を込めて声を絞り出す。物言いがややおかしいのは、それだけスッヅの武勇に押されているからだ。こうして押し合いをしているだけで、サガルの体力は削られてゆく。


 ではスッヅの方はどうか。実はサガルが考えているほどの余裕はなかった。

 スッヅにとってもサガルの武勇は予想以上だったのだ。

 正面から打ち合って負けるとは思わない。が、必ず勝てるとも言い切れない。ゆえに受けて流す戦法は有効だったのだが、それでも受ける腕がきしむほどの剛勇である。彼が相対している少年は、雛鳥は雛鳥でも並の雛鳥ではなかった。

 だがスッヅはそのことを、サガルだけでなく周囲で見ている誰にも感じさせなかった。

 表情は余裕を捨てず、体の芯はぶれず、動きは極力最小限に。その姿は若き族長がいいようにもてあそばれている印象を、サガル本人も含めたこの場にいる全員に感じさせている。このあたりスッヅは年齢にふさわしく老練だった。

 しかし前述したようにスッヅにも余裕はない。二人の力量は、登りつつある者と下りつつある者が交叉する、その境にあった。


 不自然な音がしてサガルの槍が折れた。焦りを覚えたサガルの動きが乱れた瞬間をスッヅが見逃さず、剣で彼の槍を巻き込み、もぎ取ろうとしたのだ。が、サガルは当然のように抵抗し、結果、槍の耐久力を越える負荷がかかってしまったのである。

 しかし少年の闘志は衰えず、折れた槍を捨てて剣を抜くと、何度目かの喚声で自らを鼓舞し、スッヅへ突進する。

「シャアッ!」

 馬による突進と剣の突きの動きを合わせる。強弓から放たれた矢さながらに老人の心臓を狙う剣先は、スッヅに跳ね返される。だがサガルはあきらめることなく剣を立て続けに繰り出した。それはまるで十数本の矢が同時に放たれたかのようで、スッヅの心臓だけでなく、腹、脚、腕、顔、その他の部位を同時に攻撃するかに見えた。

 が、スッヅはそれすらもすべて受けてしまった。

「……!」

 この攻撃はサガルにとって奥の手と言っていいほどのもので、少年族長をさすがに愕然とさせた。

 彼の半瞬の自失とともに、再度サガルとスッヅは馬体を激突させ、互いの体をぶつけ、剣と剣できしむ音をさせるほどに押し合う。

「…小僧、わしに降れ。ズタスのところにいるより良き目にあわせてやるぞ」

 スッヅも疲労していた。呼吸は荒くなりかかり、汗もにじみそうになる。しかしそれを精神力で抑えつつ、サガルに帰順を薦めた。

 スッヅのサガルを欲しいと思う心は真剣だった。本物の勇者はどの族であろうと欲しい。サガルの武勇と気骨は、充分に勇者と言ってよかった。だがそれ以上にスッヅは自分の後継者である孫のオドーのためにサガルを欲したのだ。

 スッヅはもうすぐ死ぬ。もうすぐが数年後か十数年後か、あるいはもう少し先なのかはわからない。だがオドーが成人し、真実ギョラン族を率いる頃には、たとえ生きていたとしても自分の力は孫の役には立たないであろう。その時のために、孫に有力な部下を残しておいてやりたかった。サガルはそのために必要な力量も若さも、充分に持ち合わせていたのだ。

 だがもし帰順せぬとなれば、なんとしてもここで殺さねばならぬ。サガルを無事に帰せば、彼はこれから先もギョラン族の敵として自分たち――ひいては孫の――眼前に立ちふさがるだろう。それも有能で強力な敵として。孫の脅威となる存在を残して死ぬわけにはいかなかった。

 それゆえサガルの返答は重要なものだったのだが、若きシン族族長は荒い呼吸の下、あっさり拒絶した。

「…断る。おれの族はコナレ族長の下にある。汝を殺さぬ限り、おれは生きて帰るつもりはない」

 スッヅは少年を見誤っていたことを知った。彼は若くとも一族の長なのだ。配下にある者たちに責任がある。彼らを裏切れば、ズタスは残されたシン族を許すはずがない。またそうでなくとも、サガルは一族を捨てて自分だけが富貴を得るなど考えることもできなかった。

 少年の誇り高さに気づかなかったスッヅは、むしろ恥入った。

「…由ないことを口にした。忘れよ。そしてあの世で一族の行く末を見届けよ。わしの配下として富貴を味わわせてやるゆえな」

 敬意をこめて言い放つと、スッヅはサガルの剣を彼の体ごと弾き飛ばした。サガルはよろめくが、スッヅは傲然と馬上にある。

 スッヅはズタスを倒し、コナレ族を自らの勢力に加えるつもりだった。その中には当然シン族もあり、彼らにも征服した央華の美果を存分に味わわせる。そのことを馬上の威風に劣らぬ剛毅さで、サガルに約したのだ。それは同時にサガルへの死刑宣告だった。

「…シャアッ!」

 よろめく馬体と自らの四肢に鞭を入れ、サガルは再度突進する。すでに体力は限界に近く、剣を持つ腕も重さを覚えてきた。だが闘志と怒りとは消えず、さらなる猛火となる。サガルは誇り高きシン族の長である。自らの族を奪うなどと宣言する者を許すつもりはなかった。

 怒りは、疲労を忘れさせたかのように剣の暴風を作る。だがそれが一時的であることは明らかだった。スッヅは暴風が収まるまでいなしながら待つだけでいいのだ。

 だがそうはしない。サガルの最後の猛攻を正面から受け、叩き返す。それができずに彼の率いる族をむしり取るなど、騎馬の民の誇りが許さなかった。

 互いの誇りが激突する。

 そして恐るべきは老族長だった。サガルの捨て身に近い凄まじいまでの攻撃を上回る猛攻で、若きシン族族長を圧倒したのだ。

「……!」

 サガルは声にならない叫びを挙げた。それは驚愕の叫びであり、怒りの絶叫であった。スッヅにここまでの力があるとは。彼は自分の甘さに怒ったのだ。

 それでも闘志は薄れない。猛攻にさらなる猛攻を返すが、限界が近いことはサガル自身にもスッヅにもわかっていた。

「…シャアッ!」

 瞬間、スッヅはこの日最初で最後の喚声を挙げた。サガルが自棄に近い反撃のため剣を振り上げた瞬間、その隙を見逃さず、己の剣の向きを急激に変えたのだ。剣先が、サガルの顔面、絶叫をあげるために開いていた口へ矢のような速度で突き込まれる。振り上げられていたサガルの腕に、剣を防御へ回す余力はない。スッヅの剣はサガルの口内を突き刺し、首の後ろまで抜けるはずだった。

 が、その刹那、サガルは首を横にひねった。喉を突き刺すはずだった剣先は彼の左頬を突き破り、口の端まで斬り裂いた。血が、弾けた。

 この時この瞬間まで、ぎりぎりでありながらサガルの行動はすべてスッヅの許容内であった。央華の遊戯である将棋でいえば「詰み」であったのだ。この最後の行為、反射そのもの、本能のままの行為だけがスッヅの予想を上回り、そしてすべてを覆したのである。

「……!」

 勝ちを確信していたスッヅは目を見開いて驚愕し、隙を作る。よけるのも反射だったサガルの攻撃は、これも反射だった。上段に振り上げていた剣を剛速と共に振り下ろす。速度に劣らぬ重さを持った剣は、スッヅの左腕を斬り落とした。サガルの頬に咲いたものとは比較にならないほど大きな血の華が咲く。さらにサガルは振り下ろした剣を斜め上に斬り上げた。左腕がなくなり、がら空きになったスッヅの胴は、左脇腹から右胸にかけて大きく斬り裂かれた。返り血が、少年族長の身体に振りかかる。

 が、サガルはそのことに構う余裕がなかった。斬り上げた剣に振り回されて身体の均衡を崩し、馬上から地面へ落下してしまったのだ。打ちつけられた背中に痛みは感じない。それ以上に、もともと苦しかった息が落下の衝撃で詰まってしまったのが耐えがたかった。

 永遠に等しい数瞬後、詰まった呼吸が抜け、全身で酸素をかき集めるように大きく荒くあえぎながら、サガルは仰向けに倒れたまま動けなくなってしまった。こんなことは彼の人生で初めての経験で、それほどまでに消耗しきっていたのだ。


 勝者は少年だった。だが敗者である老人は、左腕を失い、全身を朱に染めながら、傲然と勝者を見下ろしていた。

「見事だ、シン族族長よ」

 スッヅはすでにサガルを小僧と呼ばなかった。自分に勝った勇者を小僧呼ばわりなど、勇猛を至上とする騎馬民族の「礼」に反する。

 スッヅの声に弱々しさは感じない。右手はすでに剣を放しており、手綱を握っている。左腕がないその姿は見る者に奇妙な違和感を与えるが、彼の剛毅さは誰一人として見誤らなかった。

「…、…、…、…!」

 サガルは返答すらできなかった。肺が、口と鼻を数個必要とするほどに酸素を求めている。声を出すために使う余裕などなかった。斬り裂かれた左頬から血を流し続けながら、まったくの無防備でスッヅを見上げるしかない。

 しかしその目には、凄まじいまでの烈気がこもっていた。もしスッヅが倒れて動けない自分を攻撃してきたら、動かない体を無理矢理にでも動かして反撃するつもりだったのだ。

 その少年族長に小さく笑みを見せると、スッヅは馬首を返し、蒼白になって彼を見つめる部下のもとへ歩み去っていった。


 奇妙な空白ができた。

 勝者であるサガルは地に倒れ、敗者であるスッヅは馬上にある。二人の死闘を息を殺して見守っていた少数のシン族と多数のギョラン族は戸惑った。

 ギョラン族にしてみれば、スッヅが勝てば余勢を駆って、負ければ報復として、勝敗に関わらずシン族を覆滅してしまえばよいだけである。

 それが勝者と敗者の姿があまりに真逆であるため、判断に惑ってしまっているのだ。

 シン族の方も同じである。彼らはここに死ぬつもりでやってきていた。もしサガルが勝てば勢いに乗ってギョラン族へ突撃するつもりであった。それでも多勢に無勢、殲滅させられる可能性の方が高かったが、あるいは族長を失ったギョラン族が混乱し、潰乱することもありえた。

 サガルが負けた時は逃げるだけである。もし若き族長に息があれば彼を守っての敗走になるし、死んでいても遺体は絶対回収せねばならない。どちらにせよ多数のギョラン族に追いつかれて壊滅させられること、勝利の時以上に確実であった。自分たちが死んでもズタスが残ったシン族を生きながらえさせてくれると信じればこその覚悟であった。


 だが今、こうして勝ちながら動けない少年族長と、負けてなお剛毅さをたたえたままの老族長の姿は、彼らにどの行動を取らせればいいかを迷わせたのである。

 が、それも数瞬のこと。状況が飲み込めれば次にすることもわかる。固まった空気が溶け始め、彼らが死線に身を投じようとした瞬間、しかし状況は、まったく違う方向から動かされた。

 轟く馬蹄が大地と空気を伝わってきたのだ。それも多数の。大多数の。

「……シャアッ!」

「コナレ族だあ!」

 突撃してきたコナレ族の大喚声と、相手の正体を知ったギョラン族の叫びと、どちらが早かったか。狭い空間に凄まじい密度の騎兵が突進してくる。そして当然、突進してきたコナレ族の方に勢いがあり、出遅れたギョラン族は受け身に回った。

 それは、サガル勝利の余勢を駆った、絶妙の時機タイミングであった。


 偶然ではない。その機を狙っての突撃である。

 なぜそのようなことができたのか。

 当然、二人の死闘を見ていたからだ。

 誰が。もちろんコナレ族の族長がである。

「押し潰せ!」

 コナレ軍の前線指揮官たちが口々に部下へ命じる。狭い土地ゆえに騎馬の最大の長所である速度は殺されている。だがそれはお互い様である以上、あとは力強さのみが勝敗を決するのだ。

 だが勢いも機先も完全にコナレ族のものであった。全体的な戦力はコナレの方が多いとはいえ、決定的な差ではない。互角の状況での押し合いとなれば簡単に優劣はつかなかっただろう。しかし虚を突かれ、守勢に回ったギョラン族にコナレの猛進を押しとどめ、押し返す力はなかった。騎馬民族はもともと守勢に回ると極端に弱いのだ。

 なにより、族長の有無が大きかった。中心であり核である族長は、騎馬民族の力量を決める絶対の要素とすら言ってよかった。コナレ族にはズタスがあり、ギョラン族にはスッヅがいる。だがギョランの族長はたった今、若き少年族長に斬られ、負けた。生死は全軍に定かではないが、戦意のみならずすべての拠り所としての盤石さは消え去った。ギョラン族は心の核をへし折られ、急速に解体していった。


 人馬が入り乱れる中、サガルは大の字に倒れたまま荒い息を繰り返していた。突然の味方の大群に驚いたシン族だったが、我に返ると自分たちの族長へ駆け寄り、安否を確かめる。

 が、若き族長はそんな彼らを怒鳴りつけた。

「なにを、している! 早く、ギョラン、に、向かえ! 武勲、を、他の部族に、奪われる、ぞ!」

 命令が途切れ途切れになるのはまだ呼吸が整っていないためである。それでも全身全霊を使いきり、顔中を自らの血で、全身をスッヅの返り血で染める族長を置いて戦いへ赴くのはためらわれる。

 そんな部下たちにカッとなったサガルは、一人の部下の腰から短剣を引き抜くと、それを当の部下の喉元に突きつけた。

「おれの、めい、が、聞けないので、あれば、死ね! シン、族、に、臆病者、は、いら、ぬ!」

 喘鳴の隙間から苛烈すぎる命令がほとばしる。彼自身まだ動けないのだが、その烈しさは、それでも部下たちを圧するに充分すぎるものだった。

「…族長、お先に!」

「、おお! すぐ、に、追いつ、く! おれの、分、を、残して、おけ、よ!」

 族長を振り切るように、あるいは彼に押しやられるように、シン族たちもギョラン族へ突進してゆく。それを見届けたサガルは、天に目を向け、今度こそ必死に体力の回復をはかりはじめた。

 わずかに頬が痛み始める。それまでまったく麻痺していた痛覚が戻りはじめているのだ。それほどまでに彼は疲労し、スッヅとの戦いに集中していたのである。


 そのサガルの視界に一つの騎影が映った。彼を見下ろしてはいるが、怒りは湧かなかった。それはサガルを見下ろしていい、数少ない人物の一人だったからである。

「…族長」

「見事だ、サガル。シン族の族長にふさわしい戦いぶりだったぞ」

 戦いの怒号と喧噪が満ちる中、自然な剛毅さとともにズタスはサガルに褒詞を与え、少年族長は瞳に誇りと鋭気をもって答えた。

「族、長、感謝、する。あんたに、見逃してもらって、はじめて、戦え、た。シン族、の、ため、に、感謝、する」

 途切れ途切れのサガルの言に、ズタスはいまさら驚きはしなかった。自分がわざとシン族の突出を黙認したと、サガルならば見抜いているとわかっていたのである。智勇兼備のこの若者を、さらに評価せざるを得ないズタスであった。

「感謝はいらぬ。わしは汝らを見殺しにするつもりでもあったのだからな」

「それも、わかって、る。であって、も、やはり、感謝、す、る。我らの、誇りは、族長の、おかげで、保たれ、た。その程度、の、こと、意に介さ、ぬ」

 徐々に呼吸は収まりつつあり、その中でサガルはさらにズタスに言い募った。その言葉に嘘はなく、これもまた彼が族長にふさわしい冷徹さを持っていることを示し、ズタスは深くうなずいた。

「さて、どうする。汝はすでに巨大な武勲を起てた。ここで治療に専念して戦線を離脱しても、誰も汝を臆病者とはそしるまい」

 今宵、体力のほとんどを使い、顔に重傷を負っているサガルだ。このまま戦いに参加すれば、それだけで死んでしまうかもしれない。だがサガルの鋭気と闘志は一人後方に下がるをよしとすまい。ズタスとしてはサガルを死なせたくはないのだが、傷と疲労を理由に戦場を去るのも彼らしくない。

 そのようにズタスが軽く逡巡を覚えていると、サガルはゆっくりと身を起こした。胡座をかいて座る呼吸はまだ荒いが、相当に収まっている。疲労に震える腕にも回復が見える。

 サガルはその腕を伸ばし、近くに落ちていた矢をつかんだ。なにをするのかといぶかしむズタスの前で、サガルは矢を地面に置くと、剣の柄でやじりを砕く。そして砕けた金属片の中から最も細いものを選び出すと、今度は服の一部を切り裂き、繊維の一本を引き出した。

 と、ここでズタスはサガルのやろうとしていることを察し、目を見開いたが、声は出さない。そのコナレ族族長の目の前で、サガルは、なんと自らの裂けた頬を縫い始めたのだ。細く砕いた鏃といっても極太の針より太く、繊維といっても本来の糸よりずっと太い。裂けた傷口が縫い合わされていく代わりに新しい傷口を作っているようなものだ。糸(というより紐)は見る見る血に染まってゆく。

 が、サガルはまったく意に介さない。裂かれた頬に新しい傷も加わり、凄まじい激痛が襲っているであろうに、闘志に満ちあふれた表情からはそんなものは欠片も感じさせなかった。

「……これで問題はない。族長、おれもゆくぞ」

 縫い終え、すでに整った呼吸とともにサガルは立ち上がる。彼の顔面は不自然に縫い合わされ、太い糸が剥き出しになっており、見る者に異様さを与えずにはおかない。まして彼の顔面から全身は、自分と老族長の血にまみれているのだ。しかも彼自身の血は、いまだ頬からしたたり続けている。その様は衆を圧するほどだった。

 それでもズタスの目に映るサガルには、奇妙な清廉さも感じられた。それがなにかはわからないが、ズタスは小さく笑うと自分の腰にあった剣をサガルに放った。

「スッヅとの斬り合いで汝の剣は使い物にならなくなっておろう。持ってゆけ」

 ズタスの剣は、全軍の司令官であり全コナレの長のものだけあって名剣であった。しかも飾り物ではなく、何人斬っても刃こぼれどころか血脂さえつかないと言われるほどの業物である。コナレのみならず騎馬民族の勇者ならば誰でも欲するほどで、当然サガルも「手に入れられるものならば」と考えること一再ではなかった。

 それゆえ鞘ごと放り投げられた剣を反射的に受け取ったサガルは一瞬目を見開き、動きを止めて手の中の名剣に見入ってしまった。そんなサガルに小さく笑うと、ズタスは馬腹を蹴り、戦場へ向けて疾駆しはじめた。

 族長のその動きに我に返ったサガルは、手の中にある剣に若者らしい喜笑を浮かべると、よく鍛えられた愛馬に跳ねるようにまたがり、剣を抜き、左手で手綱をつかんで喊声かんせいを挙げながら、戦場の最激戦区へ向けて突進した。

「シャアッ!」

 それは先ほどまでの喊声と同じであり、どこか違うものになっていた。彼はすでに、ただの少年族長ではなくなっていた。


 ギョラン軍は混乱していた。正面からコナレ軍が襲ってくる以上反撃は必須であるし、当然それは全力でおこなっている。

 が、彼らは見てしまった。彼らの族長であるスッヅが斬られるところを。後方にいて実際には見ていない者たちも、前方から伝わってくる「情報」で知ることになる。その情報は彼らの根本をへし折るに充分な衝撃であったが、しかし直後に流れ込んできた新たな情報は、不可思議な静けさと別種の動揺をともなっていた。その「情報」は言葉ではない。一人の人間の形を持っていた。

 スッヅその人である。

 片腕を失い、胴から胸にかけては大きな傷がある。そのどちらからも血は噴出しているのに、スッヅの表情も剛毅さも変わらない。いや、血の流出に従って顔色は青ざめていっているのだが、半月の薄闇の中、そこまでは周囲の騎馬民族たちには見えなかった。

 傲然としたまま馬を歩ませるその姿は、人であることを越え、どこか神格めいたものを彼の部下たち感じさせる。すぐにも絶命しかねない重傷だと部下たちにもわかるのに、スッヅの剛毅さを見ていると、死すら彼を屈服させることはできないのではないかと思わせ、静謐さと深い畏敬をともなった動揺が、全軍へ波及していっているのだ。

 部下たちは自然とスッヅをよけ、道を作る。誰の指示にもよらず作られた花道をスッヅは静かに進んでいたが、にわかに止まると、近くにいた兵に命じた。

「オドーと呂どのをここへ連れてこい」

 スッヅの声に弱々しさはない。だがこれまでとどこか違う。その差違の詳細まではわからなかったが、兵はおののくように点頭すると、急いでスッヅの孫と、新参の高貴な投降者を呼びに走った。

 それを待つ間、コナレ族との死闘が生み出す阿鼻叫喚の中、スッヅは佇立したまま動かない。しかしその間にも傷口からは血があふれ出て、近くにいる者たちをも蒼白にする。

 そしてしばらくして、ようやくオドーと呂石が馬に乗って走ってきた。

じじ!」

 満身創痍の祖父を見てオドーが悲鳴に近い声をあげる。彼はまだ十歳だが馬を操ること自分の足以上であった。これは彼が特別なのではない。騎馬民族とは幼い頃よりその名の通りの存在なのだ。

 オドーの後ろから走ってきた呂石もスッヅの姿に声を失う。

 だがスッヅは、自分を見た孫の、身内として当然の驚愕に、鋭く叱責を加えた。

「なんとみっともない声をあげるか! 立場をわきまえよオドー」

 全身を激痛に乱打され、体内から血が抜け続けている老人のものとは思えない大声たいせいに、オドーは全身を硬化させる。彼の祖父は孫を心底から案じ、大切に思っているが、それだけに接し方も厳しさをともなっていた。

 ギョラン族は騎馬民族の大族である。それは一つの「国家」と同程度の規模と人口を持つのと同義であり、齢十歳でそれほどの大族を率いる運命を背負わされた少年を甘やかして育てることは、スッヅには許されていなかった。そしてこれからは、どのような形でも彼を育てることはできない。

 祖父に雷喝され、文字通り雷に打たれたように全身を硬直させるオドーを見やると、スッヅは視線を呂石に移す。

「呂どの、頼みがある。いや、わしの汝への唯一の命令だ。受け入れてもらいたい」

 互いに違う理由で蒼ざめた顔を見合わせながら、スッヅは呂石に言う。

 要請でありながら同時に命令であるそれは矛盾しない。呂石はまだ正式にスッヅの臣下や部下ではなく、だが捕虜となった兵たちを無事帰還させることを条件に、彼に忠誠を誓うと宣言した身なのだ。

 呂石も当然そのことを忘れておらず、厳粛に頭を下げた。

「あなたへすべてを捧げた身です。どのようなご命令でも必ずお引き受けいたします」

 その呂石の謹直な答えにうなずいたスッヅは、敗軍の将へ対する唯一で最後の命令を告げた。

「オドーを頼む。汝の力によってズタスを越える男に仕立ててやってくれ。そしていつか、孫をもって北の高原と央華の大地を征服させてやってくれ」

 その言葉に激しく反応したのはオドーであった。目を見開いて呂石を見、そのまま祖父を見やり、抗議のため口を開こうとする。彼にとって呂石は敗残の身であり、唾棄すべき無能者であり、軽蔑すべき軟弱な央華の民なのだ。それはオドーに限らず、一般的な騎馬民族の感情そのものであった。

 が、その孫を強い眼光で押さえつけると、スッヅは再度呂石へ向き直った。

「…汝へは過酷すぎるめいだとわかっておる。しかし、わしには汝しかおらぬのだ」

 スッヅの声は、このようなことを頼まねばならぬ自身への無念と、呂石の心情を思いやってのこと、苦渋に満ちていた。それはそうであろう。老族長の頼みは呂石の故国を亡ぼす男を育てよということなのだ。聞いた瞬間、頭を垂れたままの呂石の体が小さく痙攣するように震えたのを、スッヅは見逃していなかった。

 だがスッヅには彼しか頼れる男がいなかった。オドーをただの騎馬民族の族長として育てるだけならば、族内にいくらでも適任者がいる。しかし今ギョラン族が戦っているのは、騎馬民族の枠を大きく越えた巨大な男なのである。彼に対抗するには、彼以上の巨人になるしかない。オドーをそのような男に育てられるのは央華の民しかおらず、今スッヅの手元にある央華人は呂石しかいないのだ。もちろん他にも幾人、幾百人と技術者として捕らえてきた央華人はいる。しかし教養があり、実践経験があり、成功と失敗と挫折とを身内に刻み込んだ人格を持つ「師」としての存在は、彼だけであった。スッヅは呂石を捕虜にしたときからそのことを考えていたのだ。

 ズタスと自分とは根本が違う。器量が違った。それを認めることはスッヅにとって死よりも耐えがたい屈辱であったが、認めねば前には進めない。そしてこの屈辱を未来でそそぐため、オドーに央華人の師をつけることをひそかに決めていたのである。

 実はスッヅは、ズタスにも央華人の師がいることを知らなかった。それでもズタスと同じ結論に達したところに彼の進歩は表れていたのだが、しかしやはり、何もかもが遅すぎた。

 スッヅも本心を言えば、もっと時間をかけて、呂石と同等かそれ以上の男を探すつもりでもあったし、オドーや他の部下たちもじっくりと説得して自分の考えに感化させてゆくつもりであった。だがその時間がスッヅにはもうない。すべてが時期早尚とわかっていながらも、強行するしかなかった。


 答えはしばらくなかったが、長い時間ではなかったかもしれない。

 周囲は叫喚と怒号と剣戟の交わされる音、馬蹄の入り乱れる音と、戦場の混沌にあふれていたが、彼らの周囲だけが無音であるようだった。

 それら激音と無音の中、ついに呂石は答えた。

「…謹んで、お受けいたします」

 この言葉をつむぐまでの時間、呂石がどれほど懊悩したか。口にするためにどれほどの激情を抑え込んだか。スッヅにはわかった。この場にいた中ではスッヅにしかわからなかった。

 それゆえスッヅは安堵のため表情をゆるめ、申し訳なさのため表情を暗くした。

「そうか。頼む」

 言葉も、少なかった。おのれの野心のために、過去も、未来も、存在すらも捨てさせた男に対してかける言葉を、スッヅは持ち合わせていなかった。

「……」

 無言が続いた。スッヅだけでなく他の者たちも押し黙ったままだった。

 その無言に全員が不自然さを感じはじめた時、ハッとして顔を上げた呂石は、馬上にまたがったまま事切れているスッヅを見た。

「爺!」

「族長!」

 呂石に半瞬遅れてそのことを知ったオドーや部下たちが、声まで蒼白になって彼らの族長を呼ぶが、馬上に傲然とまたがったままのスッヅはなにも言わない。

 だが彼らは見た。死してなお敗北に屈しない、誇り高き老族長の姿を。

 ギョラン族の歴史と誇りを体現した族長スッヅは、志半ばにして、死んだ。



「…爺の仇を討つぞ! 爺を斬った奴を連れて来い!」

 馬上、剛毅な死体と化した祖父を凝視していたオドーは、全身を小刻みに震わせながら叫んだ。その声はかすかに濡れ、瞳には実際に涙が浮かんでいた。そこで泣き出さず、祖父の復仇を果たそうという気概は、確かにスッヅの孫にふさわしかった。

 が、静謐でありながら、聞く者には聞こえる情動をにじませた声が、幼すぎるギョラン族新族長を諫止した。

「それはなりませぬ。このような状況でスッヅどのを斬った男を探し出すなど不可能。それどころかこのいくさ、すでに負けでございます。すみやかにお退きになりますよう」

 呂石のこの進言に、少年はカッとなって怒鳴りつけた。

「黙れ! 汝などに指図されるいわれはないわ! この臆病者の卑怯者が! 死すのが怖ければとっととね! わしに汝など必要ない! どこへなりとも行って勝手に野垂れ死ね!」

 オドーはここまででたまっていた激情を、すべて呂石へ叩きつけた。

 央華の大地へやってきて以来、ズタスのコナレ族に押され気味であること、祖父が無能で卑劣な庸の将軍を厚遇すること、その男を自分の師としたこと、そしてなによりむざむざ祖父を死なせてしまったこと。自分が幼くさえなければ。せめてあと五年あれば、ズタスなどに好きにさせはしないものを。祖父の代わりに祖父を斬った男と戦って勝利したものを。

 無自覚ながらオドーは無力な自分に最も腹を立てていたのだ。そして自覚がないゆえに、その怒りを蔑視に変えて、呂石をこれ以上ないほどおとしめ、罵倒したのである。

 が、呂石はその雑言を聞いても顔色一つ変えず、静かに剣を抜いた。呂石のその行為に、オドーも近臣たちもギョッとしつつ剣の束に手をかける。が、それより早く、呂石は剣の平でオドーの頬を殴りつけた。その殴打は強烈で、少年の奥歯を折り、馬上から大地へたたき落とす。

 だが少年も、近臣も、あまりのことに一瞬自失し、目を見開いて呂石を凝視するだけであった。オドーに至っては、打ちつけた体や頬、歯の痛みに気づかないほど驚いている。

 そんな彼らに構わず、呂石は据えた目で馬上からオドーを見下ろしつつ、剣先を少年の眼前へ突きつけた。

「よいか小僧よ。このいくさはすでに負けだ。なぜだか教えてやろうか。それは汝が未熟だからだ」

 冷たさと底知れぬ重さをにじませながら、呂石は剣先を突きつけたまま少年へ冷然と告げる。今までにない呂石の重厚な迫力に、オドーは気を飲まれて声も出ない。

「汝の祖父は死んだ。実際に亡くなったのはたった今だが、致命傷を負ったことは幾人もの人間が目撃し、すでに全軍に知れ渡っている。それを隠しおおすことなど出来はせぬ」

 呂石の言うことは理にかなっており、オドーも他の者たちも何も言えぬ。が、それにかまう風もなく、呂石は冷然と続けた。

「それでももし、スッヅどのの跡継ぎにギョラン族の勇者すべてを押さえつけられる力量があれば反撃も可能かもしれん。だがそうではない以上もう持ちこたえることはできぬ。わかるか。汝だ。汝に力がないゆえに、これよりギョラン族は解体する」

 遊牧騎馬民族の団結に必要な唯一無二の条件は、強大な指導者である。それさえあれば、どれほどの大族であれ一つにまとまることができる。だがその核がなくなれば、あっという間に分裂し、解体してしまう。単純であり脆くもあるが、それが現実だった。

 ゆえに呂石が冷然と告げる内容は正しい。だがいくら正しいとはいえ、わずか十歳の少年にすべての責任を押しつけ、叩きつけるとは、無慈悲と思えるほどの酷薄さであった。

 が、指摘された少年はハッと気づき、そして烈火のような瞳で呂石をにらむが、口に出してはなにも言わぬ。言えぬこと、言う資格が自分にないことがわかっているのだ。自分が祖父に遠く及ばないことは、いかに未熟な少年であっても自覚している。

 だが誇りを傷つけられ、踏みにじられた怒りは拭いがたい。

 そんなオドーを見て、呂石は内心でうなずくと、続けた。

「ギョラン族の央華侵略はこれで仕舞いだ。この戦いに負け、分裂し、長城を越えて北の故郷へ帰り、そこで終わる。だが汝にはそこで立ち止まる自由はない」

 呂石の眼光は鋭さと強さを増し、オドーを押さえつけ続ける。

「汝は成長し、力をつけ、新たにギョラン族を大族としてまとめあげ、央華へ再侵略を果たさねばならぬ。それが汝の祖父の悲願であり、遺志である。わしは汝がそれが為せる男に育て上げることを汝の祖父に命ぜられた。汝には是が非でもズタスを越えてもらう。そして央華を支配してもらう。もしそれができぬ男であれば、わしは汝を斬る。そしてわしも死ぬ。祖父の遺志を果たせぬ孫も、主の命を果たせぬ臣下も、どちらも生きるに値せぬ不孝者、不忠者だからな」

 呂石の眼光はオドーに突きつけた剣先以上に鋭く、凄絶だった。それは呂石を侮蔑していたオドーにすら伝わり、彼を戦慄させる。央華の敗将は、オドーが考える以上に凄まじい男であったのだ。


 だがこの呂石はスッヅが生んだとも言える。彼に請願――命令されるまで呂石は精神的に半死人であった。皇帝からあずかった軍を敗滅させ、故国を裏切り、敵軍の中に身を置くことは、たとえ覚悟の上であっても心身に澱がたまる。が、スッヅの命がけの頼みは、呂石にすべてを捨てさせ、すべてを覚悟させた。

 彼にはもう戻る道はない。ゆく道はあれど、それはすでに正道ではない。無能者として前半生を否定され、裏切り者として後半生を生きていくしかない彼に、ただの騎馬民族ではなく、大陸の歴史に名を残すほどの男であるスッヅが最も大切な存在を預けてくれた。意気に感じぬわけにはいかなかった。

 ゆえに彼のこれからの人生は、この少年にすべて捧げる。それは困難極まりない道のりであり、目的を達成するには、不断の努力と、人として限界に近い能力、そして万に一つの幸運すらが必要であろう。

 しかもその目的――野望が達成されるということは、彼の故国が滅ぼされるということである。それは単純に庸という国が滅ぼされるだけでなく、央華という一つの巨大文明が終焉を迎えることかもしれないのだ。歴史における自分の罪科は、どのように償っても償いきれるものではなくなるだろう。

 だが呂石は、もうこの道を歩く以外にない。永遠に失われたこれまで。自分を捨てて生きるこれから。

 スッヅと自分と、二人の男の人生と存在と野心とをすべて託された少年に、今はその重さも峻烈さもわかるまい。

 しかし漠然とはオドーもそれを感じている。ゆえに彼は凝然と呂石を見つめているのだ。そのオドーに、呂石はすべてを込めて尋ねた。今の呂石に、昔日の優柔不断さは欠片も残っていなかった。

「どうする、オドーよ。わしと共に祖父の遺志を継ぐか。それともこの場で無謀にも敵軍に斬り込み、不孝と無能をさらして死ぬか。どちらでも好きな方を選べ」

 オドーにはすでに、突きつけられた剣は見えていなかった。それほどに呂石から発せられる迫力に圧せられているのだ。だが、それでもすべてを潰されてはいない。経験も、人格も、能力も、意志も、何もかもが圧倒的な上位者に対して、最後の最後で踏ん張って見せた。

「…汝についてゆけば、わしは爺を越えられるのか」

「それも汝が決めよ。わしは弟子を選ぶ。汝も師を選べ」

 呂石はオドーの中に希望を見た。それはスッヅが見たのと同じものだった。望みのない弟子を教える師は、師として不完全である。そのことを呂石は知っていた。呂石はオドーを弟子として認めたのだ。そしてオドーにも自分が師としてふさわしいか測らせた。スッヅを継ぐ男であれば、たとえ幼少であってもその程度はやってのけねばならない。呂石は、オドーにはそれが出来ると確信していた。でなければ、弟子にする価値もない。

 そしてオドーは、呂石とスッヅの期待に応えてみせた。

「…認めよう。わしは汝とともにゆく。そして爺の志を継ぎ、ズタスとコナレ族を倒し、央華を我が物とする!」

 力強いオドーの答えに、呂石はわずかに胸の奥をうずかせる。彼はどこまでいっても央華の人間なのだ。だがそのうずきを胸奥で踏みにじると、呂石は強くうなずいた。

「では立ち上がれ、長よ。汝はたった今からギョラン族の族長だ」

 呂石は剣を収めながら続ける。

「だがこれより汝はすべてを無くす。そして何も持たぬ身から再度すべてを得るための戦いを始めるのだ。その戦いに勝ち抜くために、長としての自覚を持て、オドーよ」

 呂石はオドーの師として最初の教えを授け、オドーは弟子としてその教えに従った。立ち上がり、小さな体に満身の力をこめて、呂石を、鋭くも侮蔑とは逆の視線で射るように見たのだ。その目は、スッヅのそれとうりふたつであった。


 狭い場所で大軍同士が正面から押し合っている。後から考えれば単純でおもしろみに欠ける戦いであろう。彼ら騎馬民族は馬を駆り、風を戦友として戦うのが本懐なのだ。このようにせせこましい場所で力のみを頼りにぶつかるような戦いには、爽快さの欠片も覚えない。

 が、たとえそうであっても戦っている今現在は、文字通り命がけであった。

 そしてその均衡も限界だった。互いの戦力にさほどの差はない。しかし核となる部分に決定的な違いが出来てしまっているのだから。

「…もう駄目だ」

 誰かが口にしたわけではない。しかしどこかからその声が聞こえたような気がした。あるいは全員が思っていて口に出さなかった言葉を、全員が無意識に聞いたのかもしれない。

 ギョラン族。彼らの族長であるスッヅは死んだ。彼らはスッヅが死んだところを見たわけではない。致命傷を負うところを目撃したのだ。その後の彼の傲然とした姿に神格めいた畏怖をおぼえたのも確かだが、その思いが薄れてくると、現実が彼らを浸食しはじめた。

 あれで助かるはずがないと。あるいはスッヅが今、生きて精気あふれる姿を見せてくれればより強い神格と士気とをおぼえ、一気にコナレ族を押し返し、潰乱させることもできたかもしれない。

 しかしスッヅは現れず「やはり」という絶望感が濃くなる。その想いは対峙するコナレ族の圧力と彼らの族長であるズタスの姿を見れば、薄れるどころか増大するのみであった。

 どこかが、崩れた。彼らの心の一角のように、ギョラン族の一角が崩れた。その場所を正確に見極めることはほとんどの兵にはできなかったが、堤に開いた一穴はうがたれると同時に亀裂に変じ、次の瞬間、一気に崩壊した。

「もう駄目だ!」

 今度こそ誰かが本当に叫んだ。それが最後の一石としてギョラン軍を瓦解させる。崩壊が全軍へ波及する速度は驚異的ですらあった。

「駄目だ! もう駄目だ! 逃げろ!」

「降伏する! コナレ族へ帰順する!」

「走れ! 走れ! 早く逃げろ!」

「邪魔だ! 死にたいなら勝手に死ね! おれは逃げるぞ」

「おれたちは降る! 受け入れてくれ!」

 全軍の士気は霧散し、崩れ落ちてゆく。瓦解するギョラン軍各部隊、各兵の行動は様々だった。逃げる者がいれば降伏する者もいる。いや、明らかに降伏する者の方が多かった。「強大な指導者がいなければ崩れ、いればまとまる」という遊牧騎馬民族の特徴が最も端的に現れる状況である。スッヅという巨大な指導者を失った彼らは、ズタスという別の巨大な指導者へ帰順し、あらたな富貴を得ようというのだ。央華の思想からいえばありえないほどの変節ぶりで、他者の侮蔑を買わざるを得ない行為だが、騎馬民族はこのあたり、素朴であり正直であり、なにより現実主義者であった。

 彼らは自然環境を筆頭に、あまりに過酷な世界で生きている。まずおのれが強くなければ生き残れない。だが屈するときは屈せねば、やはり生きてはゆけない。強大な敵手は大自然の脅威と同じである。彼らにとってすべての優劣と高低、そして行動原理は、純粋に「強さ」のみが基準なのだ。

 死したスッヅには、もうなんの力もない。残った彼らに他に強大な指導者がいなければ分裂するのみである。が、今目の前に、スッヅ以上の巨人がいる。彼に従わねば殺される。それゆえ降る。

 騎馬民族にとってこれは恥ではなかった。もしズタスに力がなくなれば、彼らは彼も見捨てる。それだけの話であった。

 そのことはコナレ族の兵たちもよく理解している。当然であろう。彼らの大部分も似たような経緯でズタスに臣従するようになったのだ。降ってくるギョラン兵たちの心情は、文字通り、我がことのように理解できたのである。


 そしてこれこそがズタスの望む最高の結果だった。彼はギョラン族を全滅させる気など毛頭なかった。そんな無駄なことはできない。彼は兵が欲しかった。いくらでも欲しかったのだ。

 そのためには「強さ」を示す必要があった。それは相対的に敵を「弱く」することでもかなえられる。むしろその方が効率もよく、味方に損害が少ない。そして騎馬民族を「弱く」するのに最良の方法は、彼らの指導者を消してしまうことだった。たとえ指導者を殺したとて、彼に強力な後継者が存在するのであれば、集団の結びつきが壊れることはないが、スッヅにそのような跡継ぎはいない。ゆえにこれはギョラン族とスッヅに対して最も有効な手段だったのだが、そこまで自分たちにとって都合のいい事態が起こるはずもないだろうとズタスですら考えていた。

 だがその「最も都合のいい事態」を、若き族長であるサガルが実現してのけたのである。彼の勝利は、万の敵を独りで破る以上の武勲であったのだ。


 急速に戦気が収まってゆく。続々と帰順者が相次ぎ、降伏が連なって「敵」がいなくなってゆくのだから当然である。

 騒然とした空気と混乱とはまだ収束しきっていないが、いずれすべてが収まるだろう。

 そんな軍中を馬で歩むサガルの姿に、敵味方、いや味方と「新たな味方」は、ともに畏敬の目を向けた。

 この戦いを作り、終わらせたのは彼である。これほどまでにわかりやすく、騎馬民族の心をつかむ戦いと勝利を得る者もまれであった。

 今のサガルの姿は壮絶だった。全身は返り血に染まり、赤黒く汚れていない場所などないほどである。

 そしてなによりその顔。口の左端から耳にかけてが大きく切り裂かれ、しかもそれを無理矢理に縫い合わせている。頬からの流血は、これほどの重傷でありながらなぜか止まっていた。異常な興奮状態や、強烈な意志の力で自ら血止めをしてしまう例が人間にはあり、今のサガルにもそれが作用しているのだろう。

「…口裂け!」

 どこからともなくサガルへ向けて声が挙がった。

 確かにサガルの左頬は、大きく裂けた口のように見える。それが耳へ向けて斜め上に走っているため、片頬で笑っているようにも見えるのだ。といってそれは冷笑や嘲笑の類ではない。不敵な笑い。それも通常ではありえないほどの「大きな」片笑いであるため、勇猛さと不気味さを見る者に与える、人外の笑いであった。

 ゆえにサガルの姿は、味方にも新しい味方にも、どこか信心めいた畏怖を与えていた。それは死の直前、片腕を斬り落とされ、体を斬り上げられながら死を傲然と見下ろすスッヅの姿を覚えている者には、より顕著であった。あの神々しさすら覚える凄惨な姿の老人と互角に渡り合い、勝った男なのだ。いかに現実主義者ばかりの騎馬民族とはいえ、信心深さから自由になれるほど時代は下っていない。サガルもまた見る者に、神格化された畏怖を与えるのは自然なことであった。

「…口裂け!」

「口裂け!」

 最初に挙がった声に触発され、そこかしこから同様の声が挙がる。それはサガルの姿が見えない兵にも波及し、巨大な歓呼となった。

「口裂け! 口裂け!」

 奇妙な呼び名である。だがそこには無限の畏怖と敬意があった。自分を称える大歓呼にやや驚いた様子のサガルだったが、すぐに順応した。彼は兵に向かって片手を上げたのだ。それを見た兵は、騎馬民族の心にある最も根源的な激情を爆発させられた。

 連呼の声が吠え上がる。

「口裂け! 口裂け! 口裂け! 口裂け!」

 そしてその激情が飽和した次の瞬間、凄まじいまでの勝ち鬨が全軍を覆った。

「オオオオオオオォォッッーーーー!!!!」

 峠にあふれる怒濤のような勝ち鬨の中、「口裂けサガル」は英雄になった。



 ギョラン族の傘下にいた部族のうち、ズタス率いるコナレ族に降った数は八割を越えた。残る二割のうち一割弱は戦死や行方不明で、逃走したのは一割強である。彼らはコナレ族へ帰順しても処刑されるだけのことを彼らにした者もいるし、勢いで逃げてしまった者もいる。そして中にはギョラン族に純粋に忠誠を誓う者もいた。だがそのような者たちは珍しく、彼らの数は絶対的に少なかった。

 その少数派の中に、オドーと呂石はいた。

 命がけの師弟関係を築いてから間を置かず、彼らは遁走へ移ったのだ。そのことにオドーは激しい屈辱とためらいをおぼえたが、呂石に強くにらまれたため、折れた奥歯を噛みしめながら素直に従った。もし呂石がオドーの尊敬を得るのにもう少し時間がかかっていたり、遁走までの決断を遅らせていたりしたら、彼らの身柄はコナレ族に捕獲されていたかもしれない。彼ら二人を含む百騎弱の脱出直後からギョラン族による雪崩のような帰順が始まっただけに、その可能性は高かった。それまで彼らを守っていた味方が、すべて敵に変わったのだ。彼らにしてみれば前族長の孫を捕らえてズタスに差し出せれば、これ以上の手土産はない。

 オドーの彼らの変節に対する怒りは、強くはあっても深くはなかった。強い者、勝った者に従うのは騎馬民族にとって本能に刻み込まれた摂理といっていい。オドーの心身にもすでにそれは刻み込まれており、そして彼はおのれの無力さを知っていた。

 ゆえに帰順者への怒りは浅いが自分の無力さに対する怒りは深かった。

「おのれ裏切り者ども。必ずまたわしの膝下に敷いてやるからな。五年後、十年後を見ていよ…!」

 自らの屈辱と祖父の無念を晴らすには、それしか方法はなかった。数十騎の、しかしそれゆえにギョラン族に対する忠誠は疑う余地のない精鋭とともに北へ向けて馬を走らせながら、オドーはおのれの心と、祖父の霊と、ギョラン族の神々へ、悲願の達成を強く誓った。

 そしてふと思い出したように、かたわらを走る呂石に尋ねる。

「爺を直接討った者の名は、わかるか」

「聞きおよんだところでは、シン族族長だそうだ。名は、確かサガル。汝と十も違わん年齢らしいな」

 まだ敬語をうまく使えない――使う意志もなさそうなオドーへの教育は後回しに、呂石は弟子の質問に答えてやった。その答えにオドーは軽く目を見張った。

「それほど若い男に爺はやられたのか」

 十歳の少年が言うには滑稽さがにじむ言葉だが、さすがにオドーにも事の異常さはわかった。祖父ほどの猛者を倒したとなれば、さぞ名のある男であろうと考えていたのだ。特に片腕を斬り落とされ、胴から胸にかけてを斬り上げられたあの姿を見れば、ズタス本人と一騎討ちをしたと言われても信じるほどである。それがまだ二十歳にも満たぬ男が相手とは。

「爺はそれほどに衰えていたか」と反射的に考えてもしまったが、それはないとすぐに思い直す。祖父の最期を見ている以上、あの剛毅さを疑うなど出来ようはずもなかった。

「…それほどの男か、サガルとは。よかろう、わしが直々に、必ず倒してのけてやる」

 サガル本人に対して怨恨はない。堂々たる一騎討ちでの勝敗や生死は、たとえ負けたとしても戦士の本懐である。

 が、それとは別に祖父の仇は必ず討たねばならない。孫としての心情と、新しい族長としての責務として、必ず。

「それまで死ぬなよ、サガル」

 祖父の死から、失ったものの巨大さに反比例するように、オドーは急速になにかを得ていた。彼は、スッヅが血統ではなく非凡さを見込んで選んだ後継者である。そのことをこの短い時間ですでに証明しつつあった。

 そのオドーに呂石は、自身の過酷な運命を忘れるほどに、なにがしかの高揚感を覚えていた。

 北へ走る百騎弱は、太陽を右手に見ながら、央華からひとまず退場し、長城を越えて故地へ帰る。

 数年後、十数年後の捲土重来を誓って。

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