第4話 昏晦平原の戦い

 庸軍は三方に分かれることはなく、六十万の大軍のまま北上を続ける。コナレ、スンク、ギョランへそれぞれ二十万ずつ振り分けて同時に攻撃を仕掛けることを提案する者も多く、これだけの戦力差があるのなら、それも決して間違いではなかった。

 だが全軍を指揮する呂石は、この案を取らなかった。

「北狄には全軍をもって一つの族に当たる。戦力を分散することはせぬ」

 これは英断だった。呂石は、今は寧安において軍全体を司る司馬(軍務長官・防衛大臣)の職に就いているが、つい三年前までは北監(北方防衛隊総司令官)であり、現場をよく知っていたのだ。

 そうであればこそ、普段なら功を求めて自ら指揮を執りたがる宦官派も、彼らに対抗して同じように前線に出たがる士大夫派も、彼を対騎馬民族迎撃軍総司令官に推すことに賛成した。それほど今回の危機は大なるものなのだ。宦官派にしてみれば、本物の前線に出ることは恐ろしいという理由もあったが。

 そして現場を知る呂石は、騎馬民族の戦闘力を身に染みてわかっている。正面から戦って勝てる保証はどこにもなかった。彼も武人であり、本心を言えば彼らとほぼ同数で正面から戦い、その上で打ち破ってみせたいという衝動はある。

 だが今度の戦いは絶対に負けるわけにはいかないのだ。今の自分が敗北すれば、北河以北は完全に北狄の手に落ちてしまう。そうなれば彼らから、かの地を奪還するまで、どれほどの時間と兵力と労力が必要となるか。そしてその間、北河以北に残された庸の民は、どれほどの苦しみの中を生きなければならぬのか。いや、生きてゆければまだしもで、どれほどの数の民が死になねばならぬのか。

 ゆえに呂石としては、必勝の戦法を取らざるを得なかったのだ。

「数で押し潰す」

 一人一人の兵の戦闘力に劣り、将の質でも劣る庸軍としては、数に恃むしかなかった。

 これは恥でも卑怯でもない。戦力と補給を整えるのが戦いの大前提なのだ。言い換えればこれさえ整えていれば大負けをすることはほとんどないし、仮に大敗したとしても、すぐに軍を立て直して反撃に移れる。無限の回復力を誇る軍隊に勝利するのは、騎馬民族どころか歴史上の名将にすら困難なことであった。

 そのことをよくわきまえる呂石は、まずは西に割拠するスンク族へ全軍を叩きつけることにする。様々な情報から、スンク族の兵数は約四万で、コナレやギョランに比して最も少ないとわかったからだ。兵の数で戦力の絶対を測れるものではないが、それでも四万に対して六十万である。十五倍の敵に対してでは、どれほどに精強な軍であっても抗しきることはまず不可能であろう。

 そしてスンク族を殲滅、あるいは長城の北へ撃退した後、そのまま余勢を駆って東へ転じ、コナレ族を撃つ。コナレ族が最も数が多く精強な軍であるが、(スンク族に苦戦せず戦力を維持できれば)敵の兵数は七分の一である。加えてスンク族に勝利し自信を得た庸軍であれば、コナレ族を押し切ることも可能であろう。

 そうしてコナレ族にスンク族と同じ運命をたどらせた後、最後に残るギョラン族も押し潰す。戦略というには大雑把であるかもしれないが、大軍に細かなそれは返ってマイナスになることもある。呂石は数で押し切ると決めた以上、それを前面に出して押し通すつもりであった。騎馬民族に劣るところが多い自軍の、唯一と言っていい有利な部分でとにかく攻める。決して間違っていなかった。

 だが呂石の戦略は、彼ら三族が分裂したままであることが前提であった。それがゆえに各個撃破が可能だったのだ。


 呂石は騎馬民族をよく知っていた。知っていたがゆえに、彼らが自らの力を恃むこと大であり、他族との共闘にあまり積極的でないことも知っている。強大な敵に対して一時的に手を結ぶことはあるし、庸の大軍に対して彼らがそうする可能性もあると考えてもいたが、仮に三族が共闘するにしても、連携は万全になりえないだろうとの予想もしていた。

 なんといっても彼らにとってここは敵地である。地の利はなく、連携どころか連絡にも事欠くことは必定なのだ。

「ゆえに速攻だ。北狄どもに共闘の隙を与えてはならぬ」

 その考えもあって呂石は可能な限りの行軍速度で北上する。

 状況のほとんどは呂石の予想通りであった。だが一つだけ、三族の族長や上層部の能力が、彼の予想能力を上回ったことだけが誤算であった。


 庸軍六十万は北河の渡河を始めた。何艘もの巨大な軍船の他に何百艘もの中小の船を集め、それらに兵を分譲して乗せてゆく。

 これについては特に支障はなかった。北河南岸の庸人にしてみれば、自分たちのすぐ近くに暴虐無残な騎馬民族がいるのだ。撃退してくれる庸軍への協力は積極的なものになるのは当然である。船はわざわざ徴発するまでもなく、自分から提供してくる者も多かった。特に北河を使って水運業を営んでいる者は、船だけでなくその他にも様々な便宜を図ってくれた。

 支障がなかったもう一つの理由は、騎馬民族側からの妨害がなかったことである。

 渡河の最中に攻撃を受けるのは致命傷につながる。特に軍の半ばが渡り終え、半ばがまだ渡河の最中である時に襲われれば大打撃はまぬがれない。それがゆえに渡河には細心の注意と警戒が必要で、呂石もそれを怠らなかったのだが、実はこれは無要の配慮だった。騎馬民族の方で彼らを襲撃する気がなかったのだ。正確には気がなかったわけではなく、することができなかったのである。


 騎馬民族は水が苦手であった。北の平原はそもそも水が乏しく、泳げない者も珍しくない。河や湖がないわけではないが、北河や南江のような大河はなく、彼らには操船技術もなければ船の建造技術もない。地上では無敵の騎馬民族も、水の上では央華民族に抗し得ないのである。

 それでも渡河途中の庸軍を襲うことはできたかもしれないが、水が近いことそれ自体が彼らにとって脅威であったし、水辺での戦いは庸軍の方が慣れている。

 また庸軍は六十万であり、渡河地点は北河の西寄り。最初の攻撃目標、スンク族の勢力範囲である。「担当」となるスンク族四万の十倍以上の大軍なのだ。いくら渡河途中の襲撃が好機であっても、これほどの戦力差があり、しかも地の利も庸軍にあるとすれば、バジュやタクグスであっても無理に攻撃を仕掛けるわけにはいかなかったのだ。

「口惜しいが連中の上陸を阻むわけにはいかぬか。だが見ておれ、平原での戦いであれば負けはせぬぞ」

 バジュは悔しさを苦みに変えて言葉に乗せる。

 だが今回は平原での戦いも厳しい。数の差があまりにも大きいのだ。それでも彼は負けを考えてはいなかった。それだけ自らの力に自信があるのだ。が、今回はそれだけが強気の理由ではなかった。

「ですが叔父上、やはり渡河途中の庸軍の攻撃はしておきましょう」

 考えながらタクグスは叔父にそう進言する。

「なぜだ。無駄に兵が犠牲になるぞ」

「いえ、本格的に攻撃を仕掛ける必要はありません。兵に北河近辺での戦いを経験させること、多少なりとも庸軍の戦力を削いで彼らの力を測っておくことが目的です。水辺での戦いは、今回だけの話ではありませぬから」

 バジュの問いにタクグスは答え、それを聞いた叔父は不敵にうなずいた。

「なるほど、確かにその通りだな」

 彼らは央華を征服する。少なくともせっかく奪った北河以北を庸に返す気はなく、また他の騎馬民族に譲る気もなかった。そのためにこれからも戦いは続き、その戦いに勝利するためにも、今後戦地となるべき場所を知っておくのは重要であった。

 バジュにしろタクグスにしろ、目の前の戦いに全力を注ぎつつ、これからのことも忘れてはいなかった。

 スンク軍は遠めから矢を射る形で渡河中の庸軍を襲い、彼らに百人程度の損害を与えた。大軍ゆえにそれは微々たる損失であったが、タクグスたちは庸軍の様々なものを見ることができ、収穫はあった。

 スンク軍の損害は、調子に乗って庸軍に近づきすぎた部隊が矢を受け、二人が戦死、三人が負傷であった。これもまた、彼らに今のところ自分たちに出来ることと出来ないことをわきまえさせる経験となった。



 庸軍六十万は被害らしい被害もなく全員渡河を終え、兵たちの士気を大いに揚げた。六十万の渡河は一つの会戦の勝利に等しい大事業なのだ。

 そのことがわかっていたバジュたちも、本音を言えば彼らの渡河を阻止したかったのだが、能力的に不可能事だったのだから仕方がない。代わりに出来ることはすべてやることにした。

 その「出来ること」の一つが呂石に報告される。

「閣下、この近辺の城や邑のほとんどは焼かれ、農場や畑も潰されております」

「食糧の補給はままならぬということか…」

 呂石は腕を組んで眉間に皺を寄せる。

 大軍を擁することは戦いにおいて最大の利点ではあるが、弊害もある。その最たるものが食糧の確保であった。人が多ければ多いほど、必要になる食糧は膨大なものになる。将軍の仕事で最も重要なものは、戦闘の指揮より食糧の確保であると断言してもいいほどであり、兵の数が増えるほどその困難度も増大するのだ。

 当然彼らは自分たちでも食糧を大量に持参してきたが、それもいつまでも保つものではない。絶えず北河以南から運ばせることもできないではないが、その補給線を北狄が狙ってこないとも限らない。いや、このような焦土作戦を取ってくる敵である。必ずそうするはずであった。

 そこを待ち伏せて迎え撃つという戦いも考えられるが、速攻を得意とする騎馬民族相手ではうまくいかないかもしれない。まして相手は会戦ではなく、単に補給の邪魔をするためだけの嫌がらせの攻撃に終始する可能性もあった。そのような小部隊の奇襲を完全に防ぐことなど不可能であるし、結果、補給がとどこおれば、会戦以前に食糧が不足し、「敵地」で立ち枯れである。

「ここはやはり、さっさと敵の本拠地を目指すが得策だな」

 上陸後二日をかけて全軍の布陣を整えなおした呂石は、当初の予定通り、スンク族が本拠地としているえいという街を目指して北上を開始した。

 連中とて仮とはいえ本拠地を奪われては、敵地で根無し草となってしまう。その後のスンク族の選択や運命は、庸側からしてみれば、長城外へ帰るもよし、長城内に居座って溶けてゆくもよしである。

 まして騎馬民族は攻城以上に守城は苦手なのだ。

 数の大差から堂々と会戦もできず、籠城も不得手とあっては、スンク族は手詰まりである。庸軍にとって、充分に勝機のある戦略であった。


 が、北上を開始して二日目。呂石は思いもかけぬ報告を受ける。

「スンク軍四万、半舎先に布陣! 我が軍を迎え撃つようです!」

「なんだと! 連中は正気か!?」

 呂石は目をむいて怒鳴った。軍が一日で進む距離を一舎という。その半分の距離にスンク軍のほぼ全軍が布陣しているというのだ。六十万を四万で迎え撃つ。しかもこのあたりには狭隘な土地もなく、広い平原しかない。大軍を正面から受け止めるしかないのだ。呂石としては喜ぶ以前に彼らの正気を疑って当然であった。

 だが同時に、連中が正気だとすれば、なにかこちらを撃退する秘策があると考えるべきであろう。スンク族のほぼ全軍が正面にいる以上、伏兵は考えにくく、そもそも小細工をする余地はこの平地にはほとんど存在しない。

 であればこの場合、注意すべきはコナレ族とギョラン族である。こちらのあずかり知らぬ間に、彼らは共闘を図ったのかもしれない。

 彼らの軍をあわせても、庸全軍の四分の一程度でしかないが、それでも後背を襲われたり包囲されたりすれば、庸軍にとって充分な敗因になりうる。四倍どころか十倍以上の敵に勝ったという史実は、さほど数は多くないが戦史の至るところに転がっているのだ。ましてや騎馬民族は強く、庸軍より機動力もある。兵数に頼ってあなどる愚は犯せなかった。

「コナレ族とギョラン族を探りに行かせた斥候を呼べ」

 呂石は上陸前と上陸後に、それぞれコナレ族とギョラン族の様子を調べるために斥候を放っている。彼らの報告はすでに受けていたが、もう一度確認する必要があった。

「なるほど、コナレ族もギョラン族も、動く様子はなかったか」

 呂石はやってきた斥候たちに、二族の様子を事細かに尋ねた。ギョラン族を探りに行った斥候は二日前、コナレ族のそれは三日前に、それぞれ帰ってきていたが、どちらも敵に動く気配はないという報告であった。

「は、連中にとっては敵地でありますし、常に軍は緊張感を持っておりましが、それでもすぐに出撃するという様子は見られませんでした」

「コナレ族も同様であります。軍の訓練等はおこなっておりましたが、スンク族を支援するために出動する気配は見せておりません」

「そうか、わかった。下がれ」

 その他にも前回は聞かなかった細かな部分まで確認した呂石は、斥候たちを下がらせ、再度腕を組んで考えた。

 コナレ族やギョラン族が援軍に来る可能性はないらしい。だとするとスンク族の意図はなんなのか。このまま開戦となれば自殺行為にしかならない。スンク族の首脳たちも、その程度のことがわからぬほど無能ではないはずだ。つい数年前まで騎馬民族と対峙していた呂石は、彼らを侮る気にはなれなかった。

 だがどう考えても相手の意図が見えない。せいぜい「庸軍恐るるに足らず。六十万とて四万で充分である」と、こちらを見下してのこととするしかないが、これも違うような気がする。

「あるいはわしを惑わせ、決断や判断を鈍らせ、その心理の隙を突いてくるつもりかもしれぬな」

 うがちすぎとの自覚はあるが、呂石はそのようにも考える。だが結局のところ、いくら考えても埒は明かなかった。

「いずれにせよ、我らは大軍で押し切るのみだ。北狄どもがなにやら画策しているとしても、その余地を与えず力で押し潰してくれる」

 呂石はそう結論付けた。それは当初からの戦略であり、戦いの本道であり王道でもある。決して間違ってはいないはずであるし、確かに間違ってはいなかった。

 だが正しい道を歩いていたとしても、敵がより正しい道を歩いていた時、敗北は前者に訪れてしまうのもまた確かなことであった。


 一日が過ぎ、庸軍六十万はスンク軍四万が布陣する昏晦こんかい平原に到着した。

「本当に四万全軍か…」

 呂石は遠望できる距離で実際にスンク軍を見て、やや茫然とつぶやいた。報告を信じていなかったわけではないが、それでも目の前で見ると信じがたさが増す。あるいは北からスンク族の援軍がやってきて、どこかに伏兵があるのかとも思うが、あらためて実見するこの平原では兵を隠す場所もなさそうである。それにいかに援軍が来たとしても、六十万の相手に互せるほどの数はありえない。

 庸の情報収集能力は往時に比して低下していたが、それでも騎馬民族の大まかな勢力くらいは把握している。最大級がコナレ族であることは確認しており、それに匹敵する兵力がスンク族にあるとしても現在の倍程度が限度のはずだった。

「八万であっても少ないよの… 伏兵も不可能となればこの場に眼前以上の兵力があるとも思えぬし…」

 呂石としては不可解さが先立つが、それでもさらに一日をかけて六十万の布陣を終える。大軍であるゆえに陣をくも一苦労なのだ。

 その間にスンク族が襲ってこないとも限らないが、庸軍の前衛は彼らの倍以上の兵力で真っ先に布陣を終え、むしろ敵襲があった方がありがたいくらいの堅牢さを誇っていた。先制攻撃を迎え撃ち、敵の勢いが削がれたところで全軍を叩きつけるだけで事は済む。この場合、勢いと時機タイミングが最も大切なわけで、布陣が不充分であってもスンク軍を押し潰せるはずであった。

 だがそれを知ってかスンク軍も動かない。庸軍が布陣を構築してゆくのをじっと見ているだけである。

「布陣が完成してしまえば、ますます勝機は遠ざかろうに…」

 呂石としては不可解さが増すばかりだが、味方に有利な状況が出来上がってゆくことに否やがあるわけではなかった。

「勝ちを譲ってくれるというのなら、素直にもらっておこう」

 布陣を終え、しかしこの日は日が暮れたため開戦はせず、スンク族も陣営に戻ってゆく。夜戦は乱戦になり、状況判断が難しくなるため内部崩壊の危険が強い。それを懸念してのことだろう。

 庸軍もあえて追わず、陣営地を築く。夜襲には最大の注意を払ってのことで、呂石は隙を見せない。それゆえかスンク族も動くことなくその夜は過ぎた。

「明日が決戦か」

 夜襲もなく、あるいは夜陰に乗じてスンク族が逃げ出すかとも思ったが、その気配もない。どうやら彼らは本当に自分たちと正面から雌雄を決するつもりらしい。

 であるなら呂石としても退くつもりはなかった。明朝はあらためてスンク軍を撃滅してくれよう。

 あれこれ考えるのをやめた呂石は、天幕の中で眠りに落ちた。


 その夜のスンク族の陣営地では、族長とその甥が会話をしている。

「予定通りだったな。決戦は明日か」

「さようですな、叔父上」

「連中ののろまさのために、慣れぬことを押しつけられた。あとで詫びを入れさせんと気が済まんな」

 布陣しつつも戦うことなく時間の経過を待っていたバジュは、わざとらしく凝った肩をほぐすような仕草をして、冗談とも本気ともつかないことを口にする。そんな叔父に、タクグスは微笑した。

「我らだけではなく、庸軍も含め、すべての者たちにおいて現状は慣れぬことの連続でしょう。しかしおそらく今は歴史の転換点。最後の勝者となるためです。多少の忍耐はしのびましょう」

「そうさな。我が族が地上最強であることを満天下に知らしめるためだ。この程度のことは耐えようか。だが明日は何一つ我慢せぬぞ」

「もちろんでございます。明日はこれまでの鬱憤を存分に晴らすことといたしましょう」

 バジュの強い言に、今度はタクグスも同調する。騎馬民族には珍しい智将である彼とて、己の体に流れる血を誇りとすることに変わりはない。時機さえ間違えなければ、その血の熱さを解放するに、ためらいはなかった。

 そんな甥をバジュは満足げに見てうなずくと、再度庸軍を見た。

 決戦は明日。庸軍とスンク軍の総司令官二人が暗黙のうちに示し合わせた以上、開戦は確定である。

 それはつまり、北方を吹き抜ける身を斬るような厳しい風に鍛えられた血を持つ者たちと、深く分厚い年輪によって醸成された血を持つ者たちの、どちらかが勝者となり、どちらかが敗者となることも決まったということであった。

 その結果により、歴史の天秤の傾きも大きく変わってくるのだ。



 次の日の朝。庸軍とスンク軍は同じ場所で布陣を終えた。どちらも昨日と同じ陣容である。

「変更はなしか…」

 それを見て呂石は眉間に皺を寄せた。この兵力差を縮めるために、スンク族はなにか違う手を打ってくるかと考えていたのだ。だがなんの工夫もないらしい。伏兵を敷いた様子もなく、罠を仕掛けた気配もない。正面からぶつかるだけのようだ。

「真実、我らを軽侮しているだけか」

 ここにきて、ようやく呂石はそのことを確信し、ついで怒りを覚えた。六十万の兵に四万の兵で正面からぶつかり、勝てると思われていることが彼の誇りに傷をつけた。

「その思い上がりを後悔する間もなく天界へ送り込んでくれよう」

 すでに各軍の将軍や各部隊の隊長へは基本的な戦い方は伝えてある。兵士も戦気にはやっており、呂石の仕事はその戦気を解き放ってやることだけであった。

 呂石は右手を挙げる。それを見た彼の近くにいる幕僚たちは、息を詰める。そして彼は、上げた手を振りおろした。

「突撃!」

 短い指令が半鐘や銅鑼の音を通して全軍へ届く。

「突撃!」

「突撃!」

 各将から各隊長へ、そして各兵へ命令が伝達され、喚声とともに全軍がスンク軍へ向けて突進を開始する。

 六十万の突撃は、意思ある怒濤となってスンク軍へ襲いかかってゆく。


 だがその命令を出した直後、驚天動地の報告が呂石へもたらされた。

「右方向に騎影確認! 数、十万以上!」

「なんだと!?」

 進み始めた自軍の流れの中、呂石は目を剥いて右を見、そしてすぐにきつく閉じた。北を向いて布陣していた庸軍の右方向は東で、朝日を直視してしまったのだ。

 それでもまぶしさにくらんだ目をなんとか薄く開いてもう一度見る。

 そこには確かに馬群の上げる砂塵が見えた。砂塵の大きさからいって十万以上という数は大袈裟ではない。だがよく見ると、それらは一つになっているわけではなく、大きい馬群と小さい馬群に分かれていた。小さいといっても四万から五万はありそうだが、その数に呂石はハッとする。

「コナレ族とギョラン族か!」

 五万はギョラン族のほぼ全軍、そして大きい馬群の数はおよそ八万くらいで、それはコナレ族のほぼ全軍であった。だが同時にそれは、呂石と庸軍にとってありえない光景でもあった。

「なぜだ! なぜここにコナレとギョランがいる!?」

 疑問を口にして叫んだところで現実の状況は変わらない。それでも呂石は叫ばずにいられなかった。あれだけ何度も確認し、コナレ族とギョラン族の参戦はないと結論づけただけに、それも無理はなかった。


 呂石にとっては不可解極まる事態だが、事は単純であった。コナレ族とギョラン族は、庸軍の斥候が帰った後に、全軍をもって出撃したのだ。両族とも庸軍の斥候をはっきり確認したわけではなかったが、彼らが自分たちの陣から離れるまでのだいたいの時期は予測できる。その予測から、さらに斥候が庸軍へ帰り着くであろう日時を予測したのである。それがほぼ正確だったのは、呂石の驚愕からも明らかだった。


 そしてもう一つ、呂石は騎馬民族のことをよく知っていたが、騎馬民族の方も長年戦ってきた呂石の性格をかなり正確に把握していた。

「呂石は慎重であり、確認すべきことは何度でも確認し、容易には決断しない。だがそれだけに、一度決断すればそのことに集中し、他のことは脳内から消す。何度も確認してのことだからそれは正しくはあるが、ゆえにその確認と決断の隙を突けば効果の大きい奇襲ができる」

 ズタスもスッヅもそのことをわきまえており、一度自分たちのことを斥候に探らせ、呂石に「危険なし」と判断させる。そうすれば彼らの存在は呂石の意識から消えるとわかっていた。

 その間隙を、二人ともが的確に突いたのである。


 それにしても両軍の移動は速すぎた。呂石にしても斥候の帰営には余裕をもっていたのだ。斥候が帰った後に両族が出撃したとしても、スンク族との会戦には間に合わない程度には。

 だがズタスとスッヅはこれを上回った。

 突然行軍速度が上がったわけではない。彼らは自分たちの「新領土」を、徹底的に調べ上げていたのだ。庸にある地図を手に入れ、支配した庸人を脅したり案内させたりして実地でも調べ、戦いその他に滞りがないよう調査を繰り返していたのである。


 それは韓嘉の指示でもあった。新領土はコナレ族にとって未知の土地である。そして庸軍は必ずこの地を奪還するために大軍を仕向けてくる。その際、なんの準備もなければ「地の利」は庸軍にこそあるのだ。韓嘉はそれをズタスに指摘し、ズタスもそれを正しいとして、かなりの数の部下を調査のために割いたのである。

 戦いのためとあれば、コナレ族の兵たちも調査に力を入れる。

 また韓嘉にしてみれば、統治のために必要なことでもあった。その証拠に韓嘉はズタスを通じて全軍に、その土地の戸籍や農地についての文献は焼かせないように厳命させてもいた。

 これらの調査は行軍のために必要な道路についても知識を与え、コナレ族の行軍速度を増大させたのである。


 ギョラン族の方は最初はそこまで領土調査を徹底させていなかったが、恥も外聞も誇りも捨ててコナレ族のすることを模倣すると決めているスッヅは、彼らが新領土を熱心に調査するのを見て、自分の配下にも同じように調査をさせはじめた。

 そのことにより彼もコナレ族の意図を悟り、そこからはより力をこめて調査をさせるようになる。行軍についてはコナレ族の領内を通ることになるが、それについてズタスは、今回に限り黙認することにしていた。

「しかし長よ、それではギョラン族に我らの地の知識を与えることにはなりますぞ。将来の禍根になりかねませぬが」

 幕僚の一人がズタスに懸念を示すことに、族長はうなずきつつも答える。

「たしかにな。だが今回ばかりは仕方がない。庸軍を撃退せねば、我らも北へ帰るしかなくなるのだ。そうならないためには、ギョラン族の戦力も必要だからな。それに連中に見せるのは連中が通る道路だけだ。もしそこを利用して連中が我らを攻めてくるとなれば、返ってそこに罠を仕掛ける余地ができる。そう悪い話ばかりではないさ」

 ズタスは不敵な笑みを浮かべてそう言い、そして不敵さをさらに増して続ける。

「それにだ、わしはギョランが攻めてくる前に連中を攻め滅ぼすつもりだ。おぬしもそのつもりでおれよ」

 族長のその気宇に、幕僚は頼もしさとともにうなずいた。



 それら様々な見えない箇所での準備や駆け引きの結果、コナレ族とギョラン族は戦場に間に合ったのだが、最も驚くべきは、この「作戦」が三族の間でまったく相談も示し合わせもなかったことである。

 スンク族は庸軍が六十万の大軍をもって自分たちへ向かってくることを知りながら、コナレ族へもギョラン族へも救援の要請はしなかった。コナレ族とギョラン族も、スンク族へなんの連絡も取らなかった。彼らが互いに誓ったのは「おのおの勝手にやる。干渉するな」だけである。互いに協力して庸軍に立ち向かうなど、一言も言っていない。

 ゆえにスンク族が他の二族へ救援を求めれば、それは対等な立場での要請ではなく、下の立場からの懇願になる。そんなことがバジュに耐えられるはずもなかった。

 コナレ族とギョラン族も同様である。ここで「自分たちが助けに行ってやろう」とスンク族へ告げても、それは恩を着せることにならない。自分たちから申し入れる以上、「共に戦わせてください」と頼んだことになるのだ。相手――この場合はバジュ――に「一人で戦うのは怖いか。いいだろう、おぬしらを守ってやろう」と嘲笑されるだけである。

 この三族は誇りにかけて互いに連絡は取れなかった。

 だが同時に彼らは現実を直視する強さも持っていた。

 庸の大軍を前に、それぞれの族が単独で戦っていては各個撃破されるだけである。そのことはわかりきるほどわかっており、彼らは自分たちが共闘する以外、庸軍を撃退する方法がないこともわかっていた。


 ゆえにこの場に彼らは出現したのだが、スンク族と意思の疎通を欠いていた二族が、どうしてこの地にこの絶妙の時機タイミングで現れることができたのか。

 彼らはおのおのが考えたのだ。

 庸軍がスンク族を襲うとすれば、どの道筋を取って北上してくるか。その時スンク族はどういう行動に出るか。そしてどの地に、どの日時に到達し、どこで戦端を開くか。六十万の大軍が陣を布ける広い大地など、いかに広大な央華大陸とはいえさほど多くはない。まして戦場に適した場所となれば、さらに候補は絞られる。それらの要素を加え、バジュの性格、そして庸軍の総司令官である呂石の人となりや性向もすべて計算に入れた上で「この月この日のこの朝、昏晦平原において戦端が開かれる」との結論に達し、それにあわせて軍を動かしたのである。


 ここで「バジュの性格」を考慮に入れていることも重要である。気に食わない相手ではあるし、いずれ雌雄を決する敵であるとしても、バジュも優秀な男である。連絡を取らずとも自分たちが「救援」に現れることは考えているはずで、であるならそれに適した場所や日時に庸軍を「誘導」するはずであった。

「その程度のこともできねば、バジュも大した男ではないな。共闘する価値もない」と、ズタスやスッヅは思うが、バジュの方でも「この程度の狙いもわからねば連中も先が見えるな。わしの下で使ってやらねば天寿をまっとうすることもできまいよ」と甥に憫笑していたからお互い様である。

 彼らは互いを嫌っていたが、その能力は信用していた。


 その信用が、今報われはじめた。

 庸軍はいきなり右方に現れたコナレ族とギョラン族にうろたえ、スンク族への突進を鈍らせる。それどころかいくつかの部隊が右へ向きを変えるような動きまで見せはじめてしまった。呂石を長とする司令部からはなんの命令も出ていないのだから、このまま前進するのが当然である。また訓練の行き届いた軍であれば、鉄の意志をもって思わぬ敵襲の恐怖に耐えることもできる。だがこの庸軍は、数をそろえるために徴集したばかりの兵もおり、訓練の不充分な者が多かったのだ。

 恐怖に乱れ、新たな敵へ向かおうとする兵を、各指揮官が必死に抑える。だが前進する兵の数が六十万もあるだけに、わずかなよどみも混乱を招く。止まろうとする兵と、止まるに止まれず前進を続ける兵とが入り交じり、「渋滞」が起こり、よどんだ河の流れのように全軍に乱れが生じた。中には周囲の兵に押され、地に倒れ、止まれない味方の兵に踏みつぶされて死んでゆく者まで現れる始末である。

「止まれ! 全軍一時停止!」

 自身の動揺は一瞬で納め、呂石は全軍に一旦立ち止まり、態勢を立て直すように命じる。だがそれすらも困難であり、場所によってはさらなる混乱を招くのみであった。


「よし、庸軍が乱れたぞ。全軍つづけ!」

 庸軍の混乱を見て取ったズタスとスッヅは、自軍にそう命じると、馬速を落とさずに庸軍の背後へ回る。だがそのまま突撃するわけではない。彼らの周囲を走りはじめたのだ。それは庸軍と対峙していたスンク軍も同様で、彼ら三族は、スンク族、コナレ族、ギョラン族の順に庸軍の周囲を弧を描くようにまわり、そのままスンク族の先頭がギョラン族の最後尾に近づくことで、完全に円で庸軍を包囲した。

「射よ!」

 走る円と化した騎馬民族連合軍は、族長たちの命令一下、庸軍めがけて矢を射はじめる。数万の矢が庸軍外部へ降り注ぎ、兵たちを削ぎはじめた。


 ズタスにしろ他の二人にしろ、族長である彼らは無駄に兵を殺すつもりはなかった。いくら不意を突いたといっても、庸軍の数は彼ら三族を合わせたとて、まだ五倍以上あるのだ。まともに突撃をしかけても容易には撃退できず、味方への被害も無視できない大きさになったはずである。

 ゆえに彼らは、安全な距離から、一方的に庸軍を削ってゆく戦法を取ることにした。

 これも彼らは相談はしていない。各族長がおのおの考えた結果である。いちいち符号する互いの考えに不愉快さは覚えるが、この時この場ではやむを得ないとも思う彼らであった。


 庸軍の方はたまらぬ。むしろ突撃してきてくれた方が乱戦に持ち込めて、数において押し返すことができたかもしれない。攻め込まれるままに潰走に移ってしまう可能性も高かったが、外側の兵から射殺されてゆく様は恐怖であった。まして相手には一兵の被害もないのである。

 それでも各部隊、あるいは各兵が独自の判断で矢を射返し反撃に出る。また盾でこらえ、持ちこたえる部隊もあった。なにより中央に位置する呂石の司令部までは矢は届かず、冷静さを取り戻しつつあることが反撃の端緒になりうるはずだった。

「北狄め、誤ったな」

 機先を制された庸軍であったが、騎馬民族が兵を惜しみ、本来の積極性を失った攻撃に出てきたことが、呂石にその言を吐かせた。

「各軍、各部隊、おのおの盾で矢を防ぎつつ陣形を再編。敵の輪を断ち、逆に包囲するぞ」

 呂石は混乱する自軍に命令を伝達する。矢をこらえながら陣形を立て直し、周囲をまわる騎馬軍へ突進。輪を断ち切り、そのまま彼らを包囲する形へ作り直す。兵の損耗はあるが、それでもなお騎馬民族全軍をあわせたより庸軍の兵は多いのである。再編が早ければ早いほど勝機は高まる。総司令官である呂石が腹をくくると、その覚悟は庸全軍へ染みてゆき、指揮官や兵たちは矢の雨にさらされながらも歯を食いしばり、再編を急ぎはじめた。


 庸軍のその動きを見たズタス、バジュ、スッヅは、しかしあわてなかった。

「やれ、仕方ない。ここはわしが大人になってやるか」

 小さく笑みを見せながら言ったのは、大人どころか老人であるスッヅだった。彼は庸軍の再編途中、敵の南側で全軍を止めると、わざと薄く陣を敷いた。矢は射かけ続けさせているが、徐々にその数を減らし、矢が尽きかけているように装う。

「ほう、老人が引き受けたか」

 南側で停止したギョラン軍に合わせ、西側で軍を停止させたズタスは、意外そうに笑った。それは東側で軍を停止させたバジュも同様である。

「スッヅ老は最も利かぬ気があるかと思ったがな。わしかズタスに押しつけるかとばかり」

「なにか心境の変化があったのでしょう。あるいは最前において庸軍を撃滅したいのかもしれません」

 笑うバジュにタクグスはスッヅの心情を忖度そんたくし、そう答える。

「なるほど、ありえるな。ではわしらはそれに遅れぬようにせねばな」

 甥の意見に笑いながらうなずくと、彼は停止した自軍に矢をさらに射かけさせるように命令を発する。ほとんど同じ時機にコナレ族からも矢の雨が強くなり、庸軍は左右から矢の豪雨にさらされはじめた。


 庸軍は必死だった。兵の必死さはおのれの命を守るためのものだったが、司令官のそれは、なんとかこの状況を打開するために傾注されている。

 と、自分たちの周囲を廻り、こちらに攻撃の的を絞らせなかった騎馬民族たちが、動きを止めた。

 北への道だけを開け、東、西、南から矢を射かけてくる。これはこれでもちろん痛撃をこうむるが、包囲を破るきっかけにはなり得た。もちろん呂石は騎馬民族たちのこの行動に、なにかの罠があるのではないかと疑いはしたが、今はそれを精査している余裕がない。とにかくどこかを突破し、包囲を破らなければ、全滅である。

「北か、南か」

 東西の陣容は厚い。陣を立て直し突撃をしかけても、容易には破れそうにない。破れるかもしれないが南北に比して兵の損耗は大きく、時間も取られてしまうだろう。その間に後背から攻撃を受ければ被害はさらに大きくなる。得策とは言えない。

 では北はどうか。がら空きであり、最も突破がしやすい。部隊も大半がいまだに北を向いており、再編もしやすいかもしれない。だがあからさまに開放されているだけに、その方向への進行はためらいがあった。騎馬民族にしてみれば、自分たちが北へ走り始めれば当然背後から襲ってくるだろう。その攻撃に味方が大きな被害を受ける可能性は高く、それどころか壊滅の恐れすらある。

 また北は彼らの故地に近く、罠も張りやすいだろう。伏兵の存在はありえないが、要所に落とし穴などが掘られていたら、全軍がつまづいて倒れ込んでしまいかねない。そうなればあとはなぶり殺しである。

「やはり南か」

 南なら自分たちが進撃してきた道であり、落とし穴などの罠がないことは確認してある。それに南は自分たちの現在の本拠地への方向であり、兵たちの志気も保ちやすい。いや、逆に故郷へ逃げ帰る意志が強くなりすぎて、北へ向かうより潰走しやすくなってしまうかもしれないが、だとしても逃走先に希望があるだけ、逃げきれる兵の数は北へ向かうより多くなるはずである。その兵を再編して雪辱戦を挑むことは可能であるはずだった。また敗残兵であってもその数は、騎馬民族より、なお多いはずでもある。

 とにかくここまで庸軍は騎馬民族軍に先手を取られ続けているのだ。じり貧になる前に、一度すべてを最初から構築し直した方が勝算は上がるはずであった。

「全軍、南へ向けて再編! 急げ!」

 呂石は陣容の薄いギョラン族へ向けて全戦力を叩きつけるべく、命令を発した。


「よーし、南へ向かう気になったな」

 庸軍の動きが南へ向いてのものになりはじめたのを、ズタスは馬上から遠望しつつうなずいた。

 ここまでは彼らの思惑通りである。あるいは北へ突進する可能性も考えてはいたし、そうなればなったで戦いようはあるのだが、やはり南へ向いてもらった方が様々にやりやすくなる。

「機を見誤るなよ。ここからは速度と勢いとがより大切になるからな」

 矢を射かけさせつつ、ズタスは庸軍の動きを注視する。一瞬が生死を分けるというほどではないが、それでも絶好の機を得られれば、庸軍六十万を蹂躙できる可能性が高いのだ。ズタスにその好機を逃す気はなかった。


 南へ向かうための再編を、庸軍は必死におこなう。騎馬民族にしてみれば庸軍の再編の間、攻撃を控えてやる義理も義務もないのだ。むしろ相手からの反撃が減る分、より苛烈な攻勢が可能になる。情け容赦ない飛矢が庸軍を襲い、外辺を削ってゆく。騎馬民族の中には、突撃して直接の白兵により庸兵を斬り倒してゆく部隊すらいた。血の気の多い騎馬民族にしてみれば、そちらの方が性に合っているということでもある。


 が、そのようにほぼ一方的に攻め立てながら、それでもなお庸軍の兵数は圧倒的であった。多大な被害を負いつつ南への再編が終わった時は、まだ五十万以上の兵が呂石の手元には残っている。

「よし、突撃!」

 それを見た呂石は意気を盛り返すと、全軍に自分の気を送り込むかのような命令を力強く発した。その命令は鐘の音とともに庸軍全体へ伝えられ、彼らは命懸けの突撃を敢行する。ここで騎馬民族軍を突破して安全な場所まで逃げきらなければ、故国とはいえ今は敵の領地である「異国」の土に帰らなければならないのだ。中にはこの地方出身の兵もいたし――むしろ故地を取り戻そうとする彼らの数の方が志願兵の中には多かった――、このような形で故郷に埋もれることを望む者は少なかった。

「突撃! 突撃! 北狄を踏み潰してゆけ!」

 呂石は全軍に命令を下し続ける。それは命令というより扇動であったが、数の上で圧倒しているだけに、この場合、勢いが最大の武器になることを呂石は知っていた。

 兵たちもそのことはわかっていて、目の前の薄い壁でしかないギョラン族へ、無造作に、しかし全力で突進してゆく。


 が、その瞬間を待っていたように、ギョラン族は左右に分かれた。最初からこのことあるを予想して、全軍でしめしあわせていたのだ。

 突進して突き破るはずだった扉がいきなり開いたことで、庸軍はつんのめるように動きが乱れる。前衛の兵の多数が本当に地面に転がり、後ろからやってきた味方の兵に踏み潰され、地と肉の塊になってしまう。

 だが全軍が全力で突進をはかっていただけに、後方の兵は止まれず、さらに均衡を崩す。それでもなお勢いは止まらず兵の犠牲は増大した。

 が、なんとかつんのめった体を立て直しつつ、庸軍はさらに前方へ走り抜けようとする。


 しかし、それを狙っていたのがズタスとバジュの軍であった。

「突撃! 後ろからいいように殺しまくってやれ!」

 ズタスの命令も呂石同様扇動であったが、二者の状況の差は圧倒的であった。突破すべきギョラン族が消え、倒れ込みそうになる体(軍)をこらえ、その時点で兵たちの戦意はどこへ向いていいかわからなくなっている。コナレ・スンク両軍による後背からの大攻勢は、その隙を突くように始まったのだ。

 巨体ゆえ、前方へ走り抜ける以外の動きができない庸軍は、ほとんどの兵の思考が一気に一つの形に固まった。眼前に敵はなく、後方から敵は迫り、味方は混乱している。

「死にたくない! 逃げろ!」以外の選択肢は、彼らにはなかった。


 大潰走である。すべての指揮系統が一瞬で霧散した五十万からの兵が、命からがら駆け始めたのだ。その勢いは土石流にも似て、空飛ぶ鳥の視点があれば圧巻だったに違いない。だがこの土石流が飲み込むのは、民家でもなければ木々でもなく、自分たち自身であった。

 全力で走っているはずなのに、後ろの兵に押され、地に倒れる。そうなればもう彼の肉体は無数の兵靴に原型をとどめぬほど踏みにじられるしかない。

 その運命をまぬがれようと思えば、死ぬほどの勢いで駆け続けなければならないが、それは長距離を短距離の速度で、しかも甲冑を身にまとったまま脚を動かし続けなければならない地獄であった。多数の兵がせめて少しでも軽くと、走りながら甲冑をはぎ取り投げ捨てるが、それに蹴躓いて転倒する者も出てくる。

 そして極めつけは、騎馬民族の怒濤の追撃であった。背中を見せ、甲冑も脱いだ彼らは、後ろから好きなように斬り立てられ、自国の野に屍をさらしていった。


 騎馬民族にしてみれば、これはもう戦闘ではなく狩猟であった。それもなんの危険もない、安全で簡単極まりない狩りである。

 それでも彼らは容赦しなかった。五十万以上の兵をどれだけ殺せるか。敗残兵にどれだけの恐怖を刻み込めるか。それは次以降の戦いに大きな意味を与える。それゆえ、ズタスら族長たちの命令も苛烈を極めた。

「一人も生かして返すな! 視界に入る庸兵を一人でも逃した者は、わしが斬る!」

 このズタスの凄まじいばかりの命令は、雷電のごとく全軍を通撃した。ズタスは本気だと知ったのだ。ゆえにコナレ軍の兵たちは、おのれの命を守るためにも、庸兵を狩って狩って狩りまくった。

 そのコナレ軍の凄惨なばかりの追撃戦は、スンク族と、彼らの後ろから追いついてきたギョラン族の黒い闘志にも火をつける。

「襲え! 一兵たりとも北河を渡らせるな!」

 バジュもスッヅも血に酔った。族長の意志に打たれたスンク族とギョラン族も、同様に酔った。

 ここから先の虐殺は、いかなる画家でも描けぬ地獄絵図となった。



 庸軍六十万は全滅まではしなかった。だが後背から押しこまれるように削られ、揉み潰されていった。離散し、個々にちぎれた部隊や個人はなんとか目こぼしてもらえたが、主力はほとんどすべてが潰され切ってしまった。

 総司令官の呂石は生き残った。だが逃げきれなかった。ギョラン族に捕獲され、捕虜となってしまっていた。ギョラン族が呂石を生け捕ることができたのは幸運が理由だった。彼らの攻撃が集中した位置に比較的近い場所に呂石がいたことと、彼が落馬して足を傷め、馬を操ることも歩くこともままならず、部下の馬に相乗りしていたため、馬も速度が出せなかったことなどが要因であった。

「素直についてきてくれてうれしく思うぞ、呂石。自死などされてはかなわぬからな」

「それも考えたが、汝らにも我が朝廷に対する交渉材料が必要であろう。わしにその価値がないと朝廷が判断しても、汝らの不満のはけ口として殺される者は要るはずだ。こうまで無能をさらしたわしには、すでにその程度しか存在価値はあるまい。他の者には類を及ぼすな。わしだけで満足せよ。それだけがわしの要求である」

 呂石は長年騎馬民族と戦ってきた男である。央華民族の言う「北の蛮族」の中には、その名にふさわしい野卑な者がいることを呂石は知っていた。しかしスッヅはそれらの者たちと一線を画す男だということも知っていた。ゆえに自分を「生け贄」に差し出すことが有効と考えたのである。彼自身これほどの大敗を喫した以上、生にしがみつくつもりはない。自分の死を、多少でも同胞の役に立てたい。そう思っての降伏であった。

 そして呂石がスッヅを知っているように、スッヅもこの敗軍の将のことはよく知っていた。

「なるほど、汝はそういう男であったな。では汝の望みどおりにさせてもらおう」

 そううなずくと、スッヅは配下の者に命じて呂石を後方へやり、獄につないでおくように指示した。

「決して拷問にかけたりするなよ。あくまで丁重にあつかえ」

 そう釘を刺すことも忘れなかった。


 総司令官を失った庸軍は、敗残兵をまとめることもできなくなった。全員がてんでばらばらに、個人個人で、あるいは部隊ごとに、ただただ南へ向かって走るだけである。中には兵を集めて騎馬民族へ逆撃を加えようとする将軍もいたが、精強な兵が優秀な将に率いられ、しかも勢いをもって襲ってくるのである。焼け石に水の成果も挙げられず、無惨に散ってゆくだけであった。

 生きて北河へたどり着けた者も、この大河を渡って本当に安全な場所まで逃げきるのは至難だった。有能な指揮官が近くにいた兵は、近隣から船を接収し、安全に北河を渡る幸運にめぐまれたが、中には一艘の小舟に数十人が乗り込もうとして転覆し溺れ死んだ兵たちもいたし、少ない舟を奪い合って味方同士で殺し合う兵もいた。

 そんな惨状を見、渡河をあきらめ、どこかへ行方をくらます者も多数おり、このとき無事に北河を渡って庸の勢力圏まで帰り着けた者は、十万人弱しかいなかった。

 最終的に生き残った数は三十万から三十五万程度だと言われている。推定なのは逃げたまま帰らない兵が多数あり、正確な数がわからないからだ。実際に逃げきり、再度庸軍に組み込まれた兵の数は、十二万というところであった。

 ここに庸軍の大規模な組織的戦力はほぼ壊滅に近い打撃を受け、北河を越えて騎馬民族と戦う力を失った。



 後世「昏晦平原の戦い」と呼ばれるこの会戦により、北河以北は完全に騎馬民族の領土となった。庸が奪還作戦を実施するにしても、失った兵力を立て直し、兵を鍛え、訓練を施し、これまでと同水準の軍を整えるのに、少なく見積もっても十年以上はかかるだろう。

 それどころかこれからは、北河を渡って攻め入ってくる可能性の高くなった騎馬民族を撃退することに集中せねばならず、にもかかわらず、それすら困難な状態に追い込まれてしまったのだ。下手をすれば騎馬民族に、北河を越えられるどころかさらなる南下を許し、央華大陸全土を蹂躙され、征服されてしまうかもしれない。それは自分たちの存在も、歴史も、なにもかもが失われるほどの恐怖であった。

 だがその心配はなかった。少なくともすぐに彼らが南下を企図することはなかった。

 なぜなら彼らも忙しかったのだ。央華北部の覇者となるべく、他部族を服属させるための戦いに。

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