第3話 三族

 他の騎馬民族南下の報は、寧安の宮廷人にとっては青天の霹靂でも、ズタスにとっては予測された事態であり、覚悟の上のことでもあった。

 彼としては本来、この事態を避けるために、まずは北方を一つにまとめてから長城内へ南下したかったのである。しかしそれはかなわなかった。それゆえにズタスは一時、庸への侵攻をあきらめていたのだ。だがそこへ、張堅の長城内への手引きの誘いがあった。彼としては迷った。あまりの好機の到来に飛びつきたい衝動に駆られたが、今それに乗って庸へ侵攻しても、他の部族もコナレ族に追随し、庸内へなだれ込んでくることは必定であった。その結果が激しい勢力争いであることも、既定の未来と言っていい。

 庸の宮廷や軍隊だけでなく、他の民族とも同時に戦わなければならない。しかもそれがどのような戦いになるか、まったく予測できない。

 ズタス迷った。だが彼の野心は逡巡を上回る大きさであり、自信は野心を後押しした。

「どのような混乱が起ころうと必ず乗り越えてみせよう。そしてわしがすべてに勝ち、コナレ族が央華を征服するのだ」

 自身の野心と自負とに背中を強く押させ、彼は一歩を踏み出した。それは地獄のような戦いへ、止まることのできない一歩であったが、彼はすでにその業火を恐れてはいなかった。



 ズタスが北方守備のための庸軍を壊滅させてしまったため、庸の北部は無政府状態に陥り、長城は防衛機能を失った。長城はいかに堅固であっても、それだけではただの土の塊である。長城を活かし、守る者がいてこそ鉄壁を誇れるのだ。ゆえに守備隊もほとんど壊滅し、残っていたとしても他の部隊との連携も取れず孤立した彼らでは、意気揚がり南下する騎馬民族たちを抑えることはできなかった。騎馬民族は無防備になった宝の山へ向け、よだれを垂らしながら長城を越える。


 最初、コナレ族が長城を越えて庸内へ侵入したと聞いた時、他の騎馬民族たちは「虚報か、過大になった誤報であろう」と、あまり本気にしなかった。彼らにとってもそれほどに長城は難攻不落だったのだ。

 だが徐々にそれが事実であるとの報が伝わり、しかもコナレ族が長城を越えたのみならず、北河以北を攻略し始めたと知ると、「こうしてはいられん!」と彼らもあわてて侵入の準備を始めた。このままではコナレ族に宝を独り占めにされてしまう。庸の豊潤な果実を欲しているのは、彼らとて同じなのだ。

 それにしてもなぜコナレ族はこうもあっさり長城を越えられたのか。今さらながらそのことを疑問に思い始めた他部族だが、コナレが庸に内通者を得たこと、しかも内通者の方からコナレへ接近してきたからだと知った時には、馬を南へ走らせながら天に向かって吼えざるを得なかった。

「なぜそやつは我らのもとへ来なかったのだ!」

 まったくコナレ族は幸運だった。幸運なだけだった。もしその内通者が自分たちのところへ来ていれば、誰よりも早く庸へ侵入し、好き放題できたであろうに。

 現に今、自分たちはコナレ族に大きく遅れてしまっている。どれだけの美果がすでにコナレ族の手に落ちてしまっていることか。いずれコナレ族が手に入れた物も力ずくで奪ってやろうと考えてはいるが、コナレは有数の大族である。戦ったとて勝ち目は薄い。それだけに彼らはコナレ族の幸運を、歯ぎしりしながらうらやむしかなかったのである。


 だがコナレ族は決して幸運なだけではなかった。庸に対して比較的近い場所を根拠地としていたのは幸運だったかもしれない。しかし張堅がコナレ族を手引きする相手に選んだのは、彼らが強大であったからだ。

 強大でなければ宦官を脅かせるはずがないと張堅は考え、それは確かに事実であった。その考えが甘かったことはすでに証明されつつあるが、コナレ族をこれだけ強大にしたのはズタスの意志と能力と器量とによるところが大きい。ズタスが長になる以前のコナレ族は、強勢ではあっても強大とは言い切れなかった。ありふれた中規模の族の一つでしかなかったのだ。

 それがこれほどの大族へ育ったのは、いずれ北方の騎馬民族を統一し、南下して央華大陸を征服してやろうというズタスの野心ゆえであったが、それがかなわない望みだと薄々感じ始めたところへ張堅の申し出である。

 信心深くはあっても現実的なズタスですら、なにか天命のようなものを感じずにはいられなかったが、とにかく座していただけで幸運が舞い込んだわけではないのだ。

 それを他部族の大部分は気づかず、己の不運とズタスの幸運を恨むばかりであったが、中には彼がただの幸運児でないことを察する者もいた。そのように切れる者、あるいは聡い者は、コナレ族に互するほどの勢力を持つ大族の長や指導者層に多く、それゆえに大族を率いる能力と資格があると知れる者ばかりである。

 彼らこそが、当面ズタスが戦うべき真の敵であった。



 ズタス率いるコナレ族は、益から周囲に向けて勢力を広げ始めた。腰を据える場所ができただけにその動きは有機的になり、また目的も明確なため、彼らの勢力圏はまたたく間に広がってゆく。これには自分たちの領地を侵略されるがままの庸だけでなく、後からやってきた他の騎馬民族たちも焦った。

 彼らはコナレ族と違い、いつも通りの略奪のための用意しか整えずに長城内に侵入してきたのだ。侵略し、征服するためではない。だがコナレ族が庸の領土を浸食してゆく様子を見て、あわてて方針を変えた。それは長期的な展望があってのことではない。コナレ族の略奪品があまりにも質量ともにそろっているのを見て、同じことをしなければ取りっぱぐれると思ったからである。

「コナレ族ばかりにいい思いをさせてたまるか!」

 他の騎馬民族たちは、故地に残っている自分の部族に急ぎ南下してくるように指示し、彼らを待った。

 その間なにもしないわけではなく、略奪はおこなった。だがコナレ族に比べて規模は小さく、奪うものも貧弱である。かといってコナレ族へ戦いを仕掛け、彼らが庸から略奪してきたものをさらに奪い取ることもできない。彼らの方が数が圧倒的に多く、また精強でもあったからだ。

 そして彼らの大多数はまだ気づいていなかったが、コナレ族の略奪や侵略は闇雲におこなわれていたわけではなかった。長城内へ侵入してくる以前から、ズタスが長い年月をかけて練りに練った戦略に基づいて攻略しているのである。

 どこの城を奪えば効率よく兵を動かせるか。どこの土地を奪えば食糧に事欠かなくなるか。どことどこのみなとを奪取すれば水運を確保できるか。それらについて韓嘉から助言を受けつつ、ズタスは考え続けていたのである。

 張堅による内通は確かに幸運ではあったが、ズタスはその幸運を最大限に活かすための準備も努力も怠っていなかったのだ。

 ズタスとその他大多数の部族の長との差は歴然だった。それだけに豊富な略奪品を持って帰陣するコナレ族を見て、「見ておれ、我らの部族がやってきたら、すぐにでも叩きつぶしておぬしらが奪ってきたものを手に入れてくれる」と、歯噛みしながら考える程度の部族長たちではズタスの視野は持てない。この後はじり貧となり、結局はズタスのコナレ族に吸収されてゆくだけの運命が待つのみであった。


 だが彼らのすべてがコナレ族に吸収されたわけではない。出遅れはしてもコナレ族に対抗できる勢力を持つことができた部族や、それを率いる優秀な族長もいた。コナレ族ではなく、それら優れた部族に吸収された弱小部族も多かったのである。その族長や指導者層たちには、ズタスのやっていることが見え、それだけに彼の恐ろしさを知り、その彼に対抗する手段を考えつくことができたのだ。


「叔父上、これはちょっとどうしようもありませんな」

 スンク族の族長の甥であるタクグスは、コナレ族の陣地を偵察に来て、半ば呆れ気味に天を仰いだ。タクグスはこの年二十六歳。やや細身ながら若く精悍であり、族長である叔父のバジュの片腕として有能さを示していた。

「そうだな、ここを襲撃しても返り討ちに遭うのが目に見える」

 叔父の方はズタスより年上の五十代半ば程度。ただし白んだ髪と髭以外は頑強であり、目は鋭さと重厚さを醸し出している。今もその目の色は変わりなく、悔しさをにじませながらも現実を見る冷静さは失っていない。コナレ族の陣営地は防御も考慮されており、奇襲を仕掛けられてもすぐに立て直し、逆撃できるよう組織立っている。

 なにより数が多い。連れてきたスンク族の全軍より遥かに多数であり、これではこちらが大怪我を負うのは目に見えている。

「さりとてこのままここをコナレ族に押さえられては、我らの闊歩する余地がなくなる。どうにかやつらを壊滅させる方法はないものか…」

 馬上で腕を組んで考える叔父に、甥はさらりと提案した。

「ここはもうあきらめましょう。初動で遅れた以上、この場にこだわっていては得る物より失う物が大きくなりすぎます」

「しかしここは央華大陸北部の交通の要地だ。ここを押さえられなければ我らの獲物は貧弱なものにならざるをえんぞ」

 スンク族も大族である。連れてきた軍を食わせるだけでも難事であるのに、豊富な略奪品も兵たちには分配せねばならぬ。そうでなければ彼らはいつ離散するか知れたものではないのだ。

 これはスンク族が特別というわけではなく、騎馬民族全体の性行と言えた。コナレ族とて例外ではない。彼らにとっては現実的な物品の寡多が忠誠の基準なのだ。これは確かに文明的とはいえないかもしれないが、彼らの生まれ育ってきた環境を考えれば無理もない。格好をつけたおためごかしにこだわっていては、あっという間に野垂れ死にしてしまうのが彼らの住む土地なのである。生き方も考え方も、なにもかもが実際的になるのは自然なことであった。

 それだけにバジュとしてはなるべく多くの略奪品を手に入れる必要があるのだが、この要地をコナレ族に抑えられていてはなにもかもがままならない。そんな叔父に甥は提案を続ける。

「西へ参りましょう」

「西?」

 タクグスの言うことにバジュは意外そうに目を見張った。

「はい。確かにここは央華北部では最も栄えた場所ではありますが、西にも充分に大都市はございます。そして央華北部全土は現在ほぼ無防備状態。そちらへ攻撃を仕掛けても抵抗される心配はほとんどございません。刈り放題奪い放題かと」

 言われてバジュも気がついた。たしかにここ益は北部の首都と言っていい街ではあるが、西部にもいくつも街はある。益ほどではないにしても略奪品はいくらでもあるだろう。長城が活きている時はその街にすら手出しはできなかったのだ。それを思えばこれほどの好機もないだろう。

「そしてできればその街を橋頭堡として庸とコナレに対峙したい。私はそのように考えております、叔父上。一つ一つの街は益に及ばずとも、いくつかの街を陥とし、それらを糾合すれば充分コナレにも庸にも対抗できるかと」

「なるほど、確かにそうだ。その方がよかろう」

 誇りは高くとも騎馬民族であるバジュは実際家である。いつまでも過ぎたことにこだわっていては命に関わる人生を歩んできたのだ。その思想が特に優れているからこそ、バジュは大族の長を努められている。甥の案に理を見れば、それを受け入れるのにためらいはない。そんな叔父の表情を見たタクグスは付け加えた。

「ならば急ぎましょう。我らと同じことを考える族がいないとは限りませぬし、西方に直接乗り込んでくる族がいないとも限りませぬ。長城はいま、全線に渡って機能していないのですから」

「確かにそうだ。よし、急ぎ本隊へ帰り、西へ向けて進軍する」

 力強くうなずいたバジュは、タクグスの返事を待たずに馬腹を蹴る。叔父が疾走しはじめたのを見たタクグスも馬首をひるがえし、振り向いてコナレ族の陣営地をもう一度見た。

「一年後か二年後、もう一度おぬしらに相まみえる。その時はこの地も我らのものだ。そのこと忘れるなよ」

 つぶやくように宣言すると、タクグスは叔父の後を追って愛馬を疾走させはじめた。



 スンク族はコナレ族に匹敵するほどの大族であったが、彼らより小さな族といえども、欲望や野心まで同じように小さなわけではない。その大望や大欲ゆえに、機会さえあれば大利を得たいと考えていた族も多い。その機会が今であると知り、誰よりも敏速で適切な行動を取った族もある。ギョラン族がそれであった。

 ギョラン族はコナレ族やスンク族に比べると規模はやや小さく、彼らの三分の二程度である。常に彼らに圧迫され、しかし屈することなく自主と自立を保ってきていたが、それも苦しくなってきていた。他の二族、特にコナレ族の拡大力が抑えがたいものになってきていたのだ。

「このままでは我が族は押し潰されて吸収されるしかない。どうすればよいのか」

 ギョラン族の族長はスッヅという。年齢は六十一歳。この時代からすれば充分に老人であり、実力主義の騎馬民族では引退しているのが普通の年齢である。だが彼は文字通り「実力」で族長の地位を守り続けている。彼に息子がいないわけではなかったが、長子から三子までが独立したところで、彼の跡を継ぐべき末子が突然病死してしまった。息子の死を哀しむ親の情は彼を満たしたが、それと同時に族長としての責任感はより強く彼を突き動かした。末子の息子、スッヅにとっては孫にあたる男子を新たな後継者とし、彼が成年に達するまで自分が族を守ってゆく。その意志のもと、あと十年、十歳未満の孫・オドーが遜色なく部族を率いてゆけるようになるまで老体である自分を忘れ、自身に鞭を入れて生きながらえることを決意したのだ。

 老人とはいえスッヅの体は頑強で、並の男であれば若者や壮年ですらかなわない。また年輪からくる威圧感と眼光は、多少の精神力を持つ相手もひるませずにはおかなかった。敵が凡庸であるのなら、彼一人で十年族を持ちこたえることは可能であっただろう。だがこの時代の彼の敵は、凡庸には程遠い野心と力を持つ男であったことが不幸だった。

 スッヅの思考は充分に柔らかく、知も経験も鋭いものがあったが、残念ながらそれは騎馬民族の域をでるものではなく、ズタスの広さには及ばなかった。そしてその差がギョラン族の勢力をコナレ族に削られる原因となる。そのことを薄々ながら察していたスッヅは、屈辱に歯噛みする思いであった。

 だが、スッヅもまた凡庸ではなかった。並の男、というより老人であるならばこのような事態に陥ったとき、思考に硬直を起こして逆上し、現状をさらに悪いものにしてしまうところだったが、スッヅは違った。自分が劣っていることを認めてもそれを老いのせいにはせず、そこから自らを省み、一からすべての考えをあらためる覚悟で臨んだのだ。

 具体的にはコナレ族を観察し、自分たちにない彼らの良い点を吸収しようとしたのである。

「口惜しくはあるがズタスは優秀だ。しかし見ておれ、オドーの代には我らがおぬしらを打ち負かし、平原の覇者となってやる。そのためにならば、わしは捨て駒になっても構わん」

 族長としての責任感と自負、そして孫への愛情と希望が、彼が自ら築いてきた誇りにしがみつく愚を犯させなかった。人は老いたから成長が止まるのではない。成長する意志を止めたときに老いるのである。スッヅは自覚なくその愚を避け、部下のため、孫のために己を改革し、部族を作りなおしていった。

 

 部族の改革は、反対者も多数出たが、スッヅの命を賭したような迫力に押さえつけられ、強引でありつつも順調に進んだ。

 だがそれでもコナレ族には追いつけない。コナレ族はスッヅ=ギョラン族にとって師ともいえる族になったわけだが、それだけに自己改革の推進力は彼らを上回る。追っても追っても追いつけず、それどころかさらに離される現状に、さすがにスッヅの意志も折れそうになってきた。

 が、ここでコナレ族が長城を越えて庸内に侵入したとの報が入る。長城を越えたことは衝撃とはいえ、それでも騎馬民族のほとんどは、コナレ族の目的は略奪だけであり、すぐにでも故地である北の平原に帰ってくるだろうと考えていた。彼らが急いでコナレ族の後を追ったのは、自分たちにとっても略奪の好機と見たからであり、コナレに獲物のいいところをすべて奪われてしまうわけにはいかなかったからである。

 だがここで、スッヅだけは天啓のようにズタスの真意を悟る。それができたのはコナレ族をつぶさに観察してきたためであり、老年になってなお思考と心を柔軟にする努力を怠ってこなかったからでもある。

 絶望へしかつながらないとしか思えなかった努力が、スッヅに起死回生への一手を打たせた。

「東だ! 我らは東へ直進せよ!」

 他の部族がコナレ族を追って真っ直ぐ南下するのを尻目に、スッヅは東南へ向けて集めた兵を疾駆させた。

 コナレ族、ズタスは一時の略奪を企図しているわけではない。恒常的な央華大陸の支配を構想しているのだ。そのことにスッヅは気づいた。そしてこの時点でズタスの意図に気づけていたのは、騎馬民族の中では(庸の中でも)彼だけであった。

 ズタスは庸内へ侵入させた兵を帰すことはない。それは庸を混乱させ、他の騎馬民族も巻き込まずにはおかないであろう。

 だがコナレ族の後を追っただけでは彼らの後塵を拝するだけで、略奪品にしろ領土にしろ、コナレ族が奪わなかった出涸らしのような物しか手に入らない。それではギョラン族の現状を覆すどころか、より衰退する流れにしかならない。

 ゆえにコナレ族が手をつけていない場所を攻め取る。ギョラン族の根拠地は、北の平原の東寄りだったこともあり、スッヅはその方向へ流れて長城へ迫った。コナレ族の侵攻箇所から離れてはいるが、それでも長城を守備する兵たちに動揺はあるだろうし、うまくゆけば彼らもコナレ族撃退のために中央部へ駆り出されているかもしれない。そうであるならさほどの準備をしていない自分たちでも長城を打ち破って越えることができる。

「できなくともやる。ここが我が族の生死の分かれ目だ」

 スッヅは悲壮な覚悟を持って愛馬を走らせ、その族長の想念を感じたか、ギョラン族の兵たちも猛然と彼に続く。そしてその勢いのまま、東を守る長城に突撃した。

 長城には当然守備兵がいたが、スッヅの予想通りコナレ族撃退のために中央部に徴集され、通常の半分程度しか残っていなかった。加えてこの場に残された守備兵には、長城が破られたことへの動揺はあっても、自分たちのいる場所が戦場だという意識が薄かった。また残された兵はコナレ族へ向かった兵に比べて質が悪く、死に物狂いで襲ってくるギョラン族の猛攻に耐えきれなかった。

 それでも不得手な攻城戦である。ギョラン族も少なくない損害を出したが、彼らはついに守備隊を破り、長城を越え、庸領内へ侵入することに成功した。

「さあ、さらに突撃だ! 目指すはかくぞ!」

 傷だらけの自軍に、スッヅはさらなる叱咤を浴びせる。郭は庸の東北域で最も栄えた街であり、中心都市といってよかった。そこを抑えられればこの地域を手中に納められる。その後はコナレ族や庸、そしてその他の勢力たちとの兼ね合いだが、とにかく「力」を得れば状況を作れる。

 スッヅは乾坤一擲のこの勝負に賭けていた。猛然と郭へ向けて突進を開始する。途中の邑々が焼き払われ、略奪され続けたのは、コナレ族たちが侵入してきた地域と同じであった。



 コナレ、スンク、ギョラン。この三族の騎馬民族を中心に、北河以北は地獄と化した。西のスンク、東のギョランはまだ横へ領域を広げ、コナレ族に負けない勢力を作ろうとしていが、最初から準備が整っていたコナレは、波濤というより溶岩さながらの勢いで央華の大地を放射線状に浸し、焼き尽くしてゆく。

 北河の南に在る帝都・寧安すら、すでに安泰とは言えなかった。

「陛下には一刻も早く玉体を安全な場所までお運びいただかなくては」

「しかしそれでは陛下が北狄から逃げたと見られかねん。民が動揺し、北狄に寝返ったらどうするつもりだ」

「すでに降る邑は降っておる。もし降らないにしても、そのような邑は北狄に焼き尽くされておるわ。降る者は助ける、降らない者は殺す。それのみが北狄の法なのだからな」

「北河以北のことだけを言うておるのではない。華南も含めた全土の民の動揺のことを言うておるのだ! もしここで陛下が玉座をお移しになれば、我が大庸の根幹が崩れかねんぞ」

「ではこのまま陛下に寧安におとどまりいただいて玉体にもしものことがあったらいかがする。そのような事態になれば、我が大庸は滅亡するぞ!」

 巨大な敵の出現に、宦官派と士大夫派の争いは多少減った。だが議論が紛糾し、結論が出ず、方針を決定することが出来ない。軍隊が弱いこと以上に、これこそが庸の最大の弱点であった。


 結局のところ「とりあえず陛下には寧安へおとどまりいただく」ということで話はまとまった。というのも北河以南の庸全土から、続々と編成を終えた軍が北上を始めたからである。

 弱兵とはいえ軍隊は無力ではないし、数から言えば自国内である庸軍の方が圧倒的に多い。しかも今回は、自国の防衛どころかすでに国内へ侵入されての存亡の危機である。大量の窮鼠が猫に挑むようなもので、しかも猫の方は分裂したままである。各個撃破は充分に可能である。しかも集結した庸の兵力は、三分して三方を同時に攻めてもコナレ・スンク・ギョラン三部族をそれぞれ圧倒できるだけの数があった。

 コナレ族約八万、スンク族約四万、ギョラン族約五万。これに対し庸の全軍は約六十万。三族合計の三倍以上である。

 通常であれば庸の兵数も三十万か四十万が限度であったかもしれないが、今回はどの群県も兵の供出を渋ることなく、なにより徴兵される民たちが積極的であった。このまま南下されれば彼らの住む土地まで侵略されてしまうかもしれないのだ。必死さという点で庸の全土は、騎馬民族に勝っていた。

「これだけの兵があれば北狄を長城の北へ叩き出すことができるぞ」

 と宮廷が考えたのは当然であるし、それは決して夢物語ではなかった。


「ついに来たな」

 庸軍六十万集結という報をズタスが受けたのは、長城を越えて三ヶ月が過ぎた頃であった。常であれば腰が重く動きの鈍い庸が、これだけの大軍をこれだけ素早く動員してきたことが、彼らの本気度を示している。

 ズタスは自軍の強さに絶対の自信を持っていたが、過信することはなかった。その冷徹な目で見た現状は、破竹の勢いに見えるコナレ族とて弱点が多々あることを知らせてくる。

 コナレ族は長城の中央付近から庸国内へ侵入し、放射状に進撃、北河北岸にまで達するほど占領地を広げた。

 しかも闇雲に軍を進めたわけではない。北河以北の重要な街、交通や戦略上の要地、鉱山、耕地など、占有した後に有利になる地を選んで攻略してきたのだ。

 たった三ヶ月でコナレ族は、広さにして北河以北の半分近くを占領してしまった。しかも種々の要地を多数含めてである。凄まじい戦果だった。だがあくまで「広さにして半分」であり、しかも左右(東西)に敵を持ってしまったことが不安要素である。

 西はスンク族、東にはギョラン族。コナレ族に比べ、出遅れた上に準備不足の二族だけに、それぞれの族が占領した広さは北河以北の四分の一でしかない。だが出遅れではあっても遅れすぎはしなかった。

 四分の一でも領有できたのは、二族の族長や指導層の有能さの証明である。なにしろ他の族はコナレ族の尻馬に乗るだけで、彼らがすでに略奪し尽くし、焼き尽くした地に入り込むしかない。略奪という目的を果たせないだけでなく、その場でコナレ族に叩かれ、吸収されるばかりであったのだ。コナレ族が他の二族に比して兵力が多いのは、そういう事情もある。

 その危険を感じたからこそスンク族は西へ、ギョラン族は東を侵し、コナレ族ほどではないにしても充分に広い領地を手に入れることができたのだ。

 しかも偶然ではあったが、二族でコナレ族を挟む形に領地を得たことも大きかった。スンク族とギョラン族は決して同盟を結んでいるわけではなかったが、強大なコナレ族に対して「敵の敵は味方」の論理が成り立つ可能性は大いにある。いくら精強を誇るズタスとコナレ軍とはいえ、スンクとギョランから挟撃されては分が悪い。加えて北上してくる庸軍も迎え撃つとなれば三方を同時に相手取ることになり、分が悪いどころの話ではなくなってしまう。


 が、こうして自分たちのみが不利であるという思考で固まらないのがズタスであった。

 彼は東西にいる敵族の長たちの能力を認めていた。力強さだけでなく、知性や理性という点でも。それゆえ打開策はある。

「好みではないがな」

 というのは力を第一とする騎馬民族の一員であれば誰でも思うであろう。凡百な族長であればその感情に絡まれて自滅するしかないが、苦笑で済ませて抑えられるのがズタスであり、他の二族の長たちであった。


 ズタスはしばらく待った。庸軍はすでに北上の準備を始めている。ゆえにそれほど時間はなかったが、できれば自分からより相手から申し出がある方が望ましい。そしてそれは充分に期待できた。

「でなければ興醒めでもあるからな」

 ズタスに限らず、騎馬民族は待つより動く方が性に合っている。速攻こそが彼らの本領であり本懐なのだ。それだけにズタスも苛立ちを覚えないではなかったが、その時間は短くて済んだ。やはりより追いつめられているのは、自分たちより彼らの方なのだから。

「来たか」

 待っていたものがやってきたことにホッと笑みをこぼし、ズタスはスンク族の使者を迎え入れた。

「長はズタスどのとの会談を求めております」

 使者は単刀直入に自分たちの族長であるバジュの希望を告げた。

 会談の目的は聞くまでもない。庸軍に対する共闘である。このまま庸軍をそれぞれの族軍で迎撃するのはあまりに厳しい。庸内にすでに相当確かな根拠地を得たコナレ族でさえそうであるのだから、まだ足場すら固めきれていないスンクではなおのことであった。


「なぜわしらがズタスに頭を下げねばならん。共に戦うというのであれば、向こうから来るまで待てばよいではないか」

 当初、タクグスがコナレ族との共闘のために使者を送るようバジュに頼んだとき、叔父は甥の頼みを真っ向から拒絶した。騎馬民族の性向は、やはり直情型が多いのだ。それを多少なりとも抑え、広い視野を持つ者が族長となりうるのだが、それでも持って生まれた性向はなかなか変わらない。ズタスでさえその傾向はあるのだから、タクグスのように柔軟で、一歩間違えば軟弱と取られかねない思考や性向を持つ者は騎馬民族ではめずらしく、またそれだけに貴重であった。

 彼はこのまま単独で庸軍と戦う不利を叔父に説いた。

「叔父上、庸軍の規模はまだはっきりとはわかっておりませぬが、我らよりはるかに多いのは必定。いかに弱体である庸軍とはいえ、数で押されれば不利はまぬがれませぬ。ましてここは敵地。我らは一応はこの地を手に入れることはできましたが、いまだ完全に掌握できたとは言えませぬ。この地に数多く残る庸人が、庸軍の攻撃とともに反旗を翻せば、我らには北へ引き返すしか道はありませぬ」

 庸の地を領有したとはいえ、そこに住む人間を皆殺しにしては、なんのための支配か意味をなさなくなる。その土地にいる人間を支配してこそ、支配は支配の名に値するようになるのだ。スンク族にしろコナレ族にしろ、電撃的な攻撃により庸の地を攻め、民を服従させはしたが、それが表面的なものでしかないことは自覚している。自分たちの軍事力に陰りが見えれば、それだけで容易に重石がはずれ、庸人たちは叛乱を起こすであろう(彼らにしてみれば叛乱ではなく正当な解放運動であろうが)。

 そして今の状態で庸軍の攻撃を受ければ、確実にそうなる。

「ゆえにまずは庸軍を確実に撃退する必要があります。それを為した後、あらためてこの地を根拠地として固め、コナレ族に戦いを挑みましょう」

 タクグスの言うようなことを他の者が口にすれば、騎馬民族の間では「口先ばかりの臆病者」という蔑視を受ける可能性が高い。事実、つい弱気になって後ろ向きなことを口にしたがために叛乱を起こされ、暗殺された族長もいるほどである。

 だがタクグスは不思議と他人の心に負の感情を芽生えさせないものを持っていた。央華の民であれば「徳」という言葉で表したかもしれないが、とにかくタクグスの言うことなら、気性の荒い騎馬民族の男でも素直に聞くのである。またタクグスにはこれまでの武勲もあった。力と徳が備わった者が口にすることなら、他者は聞く耳を持つものだ。

 それはバジュも例外ではなく、彼は聡明なこの甥に敬意すら持っていた。それでも質さなければならないことは多々ある。

「しかしこの機にズタスが攻めてきたらどうする。庸軍とコナレとに挟撃されれば、さすがに我らといえど厳しいぞ」

「いえ、それはございますまい。仮にズタスが庸軍を無視して我らを攻撃してくれば、コナレ族の方が横腹を庸軍にえぐられることになります。そのような愚行をあの男が犯すはずもありません。またズタスは庸軍を自分たちだけで受け止めるのは得策ではないと気づいてもいるはずです。あるいはコナレ族だけでも庸軍を迎え撃つことはできるかもしれませぬが、そのためには全軍を庸軍に向ける必要があります。が、それでは今度は我らに横腹をえぐられます」

 コナレ族の現状を明確にしつつ、タクグスは続ける。

「また仮に庸軍が三方に分かれて我らを各個に撃破しようとした場合、正直、我がスンク族は持ちませぬし、東方に割拠するギョランも同じく持ちますまい。それほど庸軍と我らの数は違いすぎます。あるいはコナレ族は持ちこたえられるやもしれませぬが、とすればコナレ族は庸軍に南、東、西を包囲されることになります。そうなってはいかにコナレ族といえど、これ以上の進撃は難しくなりましょう。それどころか北へ帰った我らが長城の北に陣を敷けば、四方を囲まれることになります。こうなっては庸への進撃どころか滅亡の危機でしかありませぬ。ゆえにとにかくまずは、全力をもって庸軍の撃退。それは我らもズタスも変わりませぬ」

「なるほど…しかしやはりズタスからの使者を待つ方が…」

 理を持って説かれると、バジュにも事情は飲み込める。だがやはり感情として、他者に、しかも本来であればほぼ同等の力を持つ――上位ではない――相手に物を頼むのは抵抗があるのだ。そのような叔父の気質を知っているタクグスは笑って提案した。

「では叔父上、私の一存でズタスに共闘を申し出たという形にするのはいかがでしょう。叔父上の預かり知らぬところで甥が勝手に事を起こしたということで」

「なに?」

 甥の言うことに意表を突かれ、軽く目を見開いて驚くバジュに、タクグスは続ける。

「臆病者の甥が叔父の許可も得ずにコナレ族へ使者を送るのです。当然私は叔父上に叱責され罰も受けますが、たとえ部下が勝手にやったこととはいえスンク族の名においておこなったことに責任を取るのが族長の責務。そのような形でズタスと会談をおこない、共闘を獲得なさいませ。さすれば叔父上の誇りは傷つきますまい」

 笑って言うが、それはタクグス自身の誇りが傷つけられる提案である。彼にとってはスンク族存亡の危機であれば、己の面子にこだわる意志が薄いということなのだろう。

 だがそんな甥にバジュは自身の狭量を見た。彼は小さく笑うと甥の提案を指先で弾くように軽く却下する。

「わしの誇りがその程度で傷つくと思うてか。どうせ最後にはズタスもコナレも我が膝下に入るのだ。今こちらから共闘を求める程度、どうということはない」

 いささかみっともなさを自覚しながらも、バジュは本心からそう宣言した。表情に陰りはなく、叔父が真実そう口にしているのを悟ると、タクグスはうれしげに頭を下げた。彼は実際に提案通りにしても構わないと考えてはいたが、叔父の器量を信頼してもいたのだ。少しのきっかけさえあれば、叔父の器量はズタスにも劣らない。それを確認できたがゆえに、タクグスは新たな信頼とともに叔父に低頭したのである。


 こうしてコナレ族とスンク族の会談は実現する運びとなったが、この件にズタスもバジュもタクグスも、ギョラン族のスッヅを誘うようなことはなかった。とはいえ、自分たちが会うことを隠しもしなかった。それどころか積極的に噂は流したのだ。これだけでスッヅとしては一人置き去りにされる危険を悟らざるを得ない。

 そして噂はギョラン族がいる東方だけでなく、庸がいる南方へも流した。これにより庸軍が、それぞれの部族への各個撃破が難しくなると感じてくれれば、それだけで相手への圧力になる。くみしにくしと見て北上をあきらめてくれれば一番だが、国土回復の戦いである以上、これはありえない。彼らが迷って動きを鈍らせてくれればそれだけで充分である。その分自分たちは迎撃の準備を整えることができるのだから。

 あるいはコナレとスンクの同盟を阻止するために急ぎ北上してくるかもしれないが、そこは賭であった。

 

 そして今この段階で最も迷っているのはスッヅである。この老族長も騎馬民族なのだ。バジュ同様、他者へ頭を下げるのを潔しとする性格ではなかった。

 しかし彼は、この時期には様々なことを諦観できるようになっていた。

「わしはズタスにはかなわぬ」

 その自覚がある。器量においても、視野の広さにおいても、野心の大きさにおいても、志の高さにおいても。これは自分が老いて力が落ちたからというわけではない。若い頃のスッヅでさえ、庸を侵略し、征服してしまおうとまでは考えなかった。せいぜい誰も為し得ぬほど大量に略奪してやろうという程度が関の山で、基礎的な部分は他の騎馬民族と変わらない。

 この時期にはズタスの野心は央華大陸と北方の平原に住む人々全員の知るところとなっていた。攻められる庸側だけでなく、同じ騎馬民族の大部分にとってすら驚愕するしかない、コナレ族長の大志である。

 そして彼の行動に驚いた人間は、その驚愕ゆえ彼に届かないことを自動的に証明していた。

 スッヅも大多数の一人である。その現実がある以上、スッヅは深刻な敗北感を覚えずにいられなかった。弓や剣の戦いに負ける以上の敗北感である。彼はズタスに素直に臣従すべきかとすら考えもした。戦いに負けた者は勝った者に従う。それが弱肉強食の世界に生きる者の掟なのだ。

 が、スッヅはそうはしなかった。彼には逆転の希望もあったのだ。

「見ておれズタス。オドーが力をつけた暁には、貴様など追い落としてくれる」

 スッヅが見つめる先には、彼の跡を継いで族長となるべき孫・オドーの姿があった。彼はいまだ十歳未満でしかない。だが「これは」という資質が見え隠れしはじめているのだ。

 騎馬民族らしい勇ましさと、多数の人間を統率する器量。個人の勇猛と、部族全体の力を発揮させる力量が、幼い孫には内包されている。これは祖父の欲目ではない。老いたとはいえスッヅは大族の長であり、自身と身内を冷厳に見る眼力は衰えていなかった。

「オドーが成長し、わしの代わりにギョラン族を率いて平原も央華も征服する。その礎を作るためならば、わしは喜んで捨て石になってやるわ。恥をかく程度、どうということもない」

 人間は未来に希望があれば現在の絶望には耐えられる。スッヅはズタスとバジュのもとへ自ら出向き、会談に加わることを決めた。彼らではなく庸と謀り、コナレとスンクを挟撃することも考えたが、それでは結局庸の領内で孤立し、滅亡させられてしまう。スッヅの現実把握能力も衰えてはいなかった。



 三族の長は、それぞれ多少の兵を引き連れただけで北河のほとりにある賀広がこうというみなとに集まった。そこはコナレ族の支配地ではあったが、東西からバジュとスッヅが集まるには中央であるコナレ族のいる土地にやって来ざるを得ない。また現状ではコナレ族が最大勢力を誇っているのも事実であり、バジュやスッヅにしてみれば、悔しくはあってもズタスの勢力圏内で会談を行わざるを得なかった。三族のどの勢力圏にも属さない場所でとなれば、それは庸の勢力圏となり、いくらなんでも危険が過ぎる。

 また彼らは互いによる暗殺の危険も考えないではなかったが、これもまた現状においてなかなかありえないと踏んでいた。もし互いの誰かが誰かを殺したとして、それぞれの族が黙っているわけがない。ただちに報復に出て相争い、その混乱の中を北上する庸軍に攻撃されるだけである。その程度のことがわからない彼らではなかった。

 そして「その程度のことがわかる」という意味で、彼らは互いの理性と能力を信頼していた。でなければそもそも協定を結ぶ価値もない。最終的に雌雄を決することになるとしても、今は――能力的には――信頼のおける味方候補であった。


 賀広はコナレの勢力圏とはいえ、根拠地である益からはかなり離れている。安全は確保されているとはいえ、このような場所を選ぶあたりにズタスの気遣いも感じられ、バジュやスッヅから見ればズタスの協定への意思が本物であるとの確認要素の一つとなった。

「久しいな、コナレ族の長」

 会談はバジュによって口火が切られた。三人とも、連れてきた兵は百長(百メートル)ほど離れた場所に待機させ、この場にいるのは彼ら族長だけである。三人とも馬上にあり、降りる様子はなかった。彼らは騎馬の民であって、族内の会議も馬上で行われることはめずらしくなく、それは彼らの誇りでもあった。異民族の土地であってはなおのこと、彼らは自らの誇りを貴重に思うのだ。

 バジュに対し、ズタスもうなずく。

「六年ぶりだな、スンク族の長よ。ゲン族の身の振り方についての調停以来か」

 ゲンとはスンク族に属する一族であり、当時コナレ族との間にいざこざがあったのだ。血気盛んで力に対する信奉度は央華の民以上の騎馬民族であったが、常に戦いのみで事を決してきたわけではない。彼らとて無駄に血が流れるのは避けられれば避けたかった。

 ゆえにこの時のいざこざは、それぞれの族長の間で話がつき、大きな争乱につながらずに済んだのだ。

「スッヅ翁も久しぶりだ。壮健のようでなにより」

 ズタスはスッヅへも声をかけた。央華の民ほどではないにしても、騎馬民族とて年経た者への敬意は欠かさない。ただし「弱き者」にまで衰えた老人に対しては、本当に形だけしか礼は払わない。彼ら騎馬民族にとって、やはり力ある者こそが正義であり上位者なのだ。

 スッヅはまだそこまで老いてはいない。それどころから自分たちと同等の力を保持している。衰えるはずの力が衰えず、老いてなお盛んな者は、騎馬民族内においては、より敬意を払われるに値するのだ。

 それだけにスッヅもズタスには鷹揚に対した。

「壮健も壮健よ。なんならおぬしの娘を一人くれ。子を産ませておぬしに孫の顔を拝ませてやるぞ」

 あながち冗談とは取れないことを笑いながら言うスッヅに苦笑を返してから、ズタスは表情をあらためた。

「さて、今日ここに集まったのは雑談を交わすためではないが… 否か、諾か?」

 ズタスはそれだけを尋ねた。話題に入るどころの話ではなく、いきなり本題であり、本題の内容すら告げなかった。その必要もなかったからだ。彼らの性向に婉曲や修飾の文字は薄かった。

 ゆえにバジュとスッヅも短く答えるのみであった。

「諾」

「諾」

 これで三族の共闘は成った。共闘といってもこの機に乗じて互いが互いを攻めないというだけのものであり、連携などは考えていなかった。それぞれの族が攻め上がってくる庸軍を弧軍で撃破すべし、というだけである。

 これは誉めた話ではないかもしれないが、互いが連携して迎撃するとなれば、指揮系統をはっきりさせる必要がある。つまり誰かが誰かの指揮下に入るということで、これは彼らの自負心が許さなかった。気持ちの部分を置いておいても、指揮を執る族が他の族を危険な場所へ追いやり、より大きな被害を与える可能性もあるのだ。彼らは互いを、そこまでは信用していなかった。

 ズタスは腰に下げる皮袋に詰まった酒を一口飲むと、それをバジュに放る。受け取ったバジュも一口飲む。さらに酒はスッヅの手に渡り、彼も一口飲むと、ズタスに投げ返す。

 これが調印の代わりであった。

 皮袋に詰まった酒はヴォル酒といい、北方で作られた濁り酒である。神事において使われる酒で、神が宿るとされていた。これを飲みながら誓約に背く者は、現世において騎馬の民から追放され、死後において神から見放され永劫に不毛の荒野をさまようとされている。

 これで協定は完全に成った。彼らはもう一度互いを見、ニヤリと笑うと馬首をめぐらし、自分たちの兵の元へ帰っていった。

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