第10話 北へ帰る

 帰るというズタスは、どこへ帰るつもりだったのだろう。ひとまずは寧安へ戻ることを全軍に命じていたが、その先はわからない。

 寧安で英気を養い、周辺をまとめ、あらためて戦力を増強し、再度の侵攻を企図していたのだろうか。

 それとも北河を渡り、騎馬民族の支配下にありながら韓嘉の統治のもと、徐々に秩序を取り戻しつつあった北河以北全体を自分たちの地歩として、そこで新王朝の始祖にでもなるつもりだったのだろうか。

 あるいはさらに長城も越え、自らの故郷へ帰り、そこで静かに余生を送るつもりだったのだろうか。

 だがそれは、生きて在る者には永遠の謎となってしまった。

 帰途についたズタス自身が、疫病に冒されてしまったのだ。

 それは突然のことだった。頑強な外見のみならず、内面においても強靱さを誇っていたズタスは、これまで病などにかかったことはなかった。いくさ場で負傷し、それが元で高熱を発したことはあったが、それは純粋な病とは言えない。それがここに来て突然である。

 が、ズタスに近しい者は、その理由をおぼろげながら感じていた。彼らの族長の中で、何かが切れたのだ。人生のすべてを懸けて突き進んできた事業が終焉を迎えたのである。それも騎馬民族どころか央華の歴史を含めてでさえ空前の大事業である。そのほとんどすべてを独力で敢行してきたズタスの心身にどれほどの負担がかかっていたか、理解できる者は近臣どころか歴史上にもほとんどいなかっただろう。それが中途で遮られた今、凄まじいばかりに疲弊した彼の体が、病魔を退けられなかったとしても無理はなかった。


 それでもズタスは、寧安に戻るまで常に馬上に在った。日中進む間、馬から降りることはなく、野営地にたどり着くと崩れるように天幕内の寝台へ倒れ込む。近臣がどれほど言葉を尽くしても、あらためようとしなかった。

「輿に乗って進むような姿を見せれば、それだけで叛乱が起こるであろうよ」

 とは、高熱と下痢とによって日に日に蒼ざめてゆくズタスが苦笑しながら言ったことである。それは、極端ではあったが間違いではなかった。すぐに脱走や叛逆が起こるとは限らなかったが、その素地は必ず出来てしまう。ズタスは自分が死んだ後のためにも、弱った姿を見せるわけにはいかなかったのだ。

 だが、それが焼け石に水の行為であることも、ズタスは知っていた。ズタスには息子がいる。その息子は、勇敢で勇猛ではあっても、父親ほどの器量を持ち合わせていなかった。彼が容れられるのは、長城の北にいた頃のコナレ族程度のものでしかなかったであろう。今現在、他の部族を吸収し、央華の半ばを征すほどに巨大化した騎馬民族を掌握出来るとは思えなかった。


 それはズタスだけでなく、他の将軍や兵たちにも見抜かれていた。ズタスが死んだ後、どんな事態になるかは確定されているようなものである。

 そしてそれゆえに、ズタスにも意地があった。彼が死ぬまでの騎馬民族は、なんとしても一枚岩にしておく。央華征服を成し得なかった上、死の直前に勢力が解体するようなことになっては、天上で彼が倒して来た者たちに嘲笑されてしまうだろう。

 それだけはズタスの誇りが許さなかった。


 ズタスが病にかかったことは箝口令が敷かれ、兵たちには知らされていなかった。それでも人の口に戸は立てられない。彼らの中で「族長が疫病に」との噂が立つのは仕方がなかった。

 それが噂の域から出なかったのは、馬上のズタスがまったくその素振りを見せなかったからである。

 背筋を伸ばし、常と変わらぬ厳めしい表情は、いくさ場に在る彼らの総大将そのものであった。近くまで寄れば顔色が蒼いことには気づくかもしれないが、それもほんのわずかで、よほどに注意しなければわからない範囲である。

 ズタスの凄まじいまでの精神力は、最後までその姿を崩させなかった。それはこれまでの庸軍とのどの戦いよりも困難で苦しいものだったが、ズタスは寧安の城門をくぐるまでやりおおせてしまったのだ。


 寧安の宮城へ入ったズタスは、そのまま皇帝の私室に置かれた寝台へ直行した。最初に陥落済みの寧安にやってきた時にも入った部屋だったが、その時と様相はまったく違う。

「落ち着かぬ。もっと硬い寝台はないか」

 寧安に到着したことでさらに何かが切れたか、ズタスの衰弱は一気に進んだ。頑強な筋肉はしぼみ、頬はやつれ、目はくぼみ、顔色も黒くなってくる。明らかに死相であったが、それでも表情と口調は常と変わらぬ。ズタスの中では肉体と精神が分離しはじめたのかもしれない。豪奢で柔らかすぎる寝台に不平を述べ、戦場での寝台を求めたことからも、その印象を周囲の者たちに与えた。

「なりませぬ。本心から治癒をお望みなら、体に負担をかけるような真似はなさいますな」

 ズタスの要求を医師はたしなめる。

 この医師は庸の宮廷医師である。寧安に騎馬民族が乱入した時、幾人もの医師も殺され、生き残った者でも騎馬民族に使役されることに耐え切れず自害した者もいた。彼もその中の一人になりたいと考えもしたが、寧安の惨状に、ほんのわずかであろうとも自分の医術で庸の民を救いたいとの想いが湧いたため、屈辱と恥辱とにさいなまれながらも、野蛮な異民族に統治された寧安で生きる道を選んだのだ。

 その彼がズタスの治療を引き受けたのは脅されたからではない。いや、実際に脅されはしたが、そのことを恐れたからではなかった。断れば殺され、寧安の民の治療が出来なくなるからである。

 ズタスを治療の折、この好機に敵の首魁を毒殺してしまおうかとも考えたが、それは彼の医師としての誇りが許さなかった。なにより、寝台に横たわるズタスを見て、彼の余命がほとんどないのをすぐに見て取れたことがこの考えを捨てさせた。だがそうであっても、彼は治療に手を抜くつもりはなかった。


 騎馬民族に医師がいないこともなかったが、彼らは占い師や呪術師に近いところがあり、実際の役にはほとんど立たない。文明度や技術力で騎馬民族は、央華民族の足下にも及んでいなかった。

 すべての騎馬民族がそうとは言えないが、ズタスは自分たちが央華民族に劣るところは劣っていると素直に認めていた。ゆえに庸の医師の治療は素直に受けたが、彼が彼であることをやめる気もなかった。

 医師の勧告は、静かに、断固として拒絶した。

「いや、これでは寝るに寝られぬ。その方が体に悪いであろう。北狄には北狄に似合いの寝台というものがあるのだ」

 語調はわずかに弱いが、それ以外は何も変わらないズタスの言は、北狄という蔑称を使っていることから自嘲とも取れるが、医師にその感情は伝わってこなかった。それどころかごく自然にすべてを納めてしまっているズタスに、異民族を蔑む央華人の傲慢さをさらされたようで、戸惑いと羞恥とを覚えてしまう。

「…わかりました、では手配しましょう」

 それをなんとか隠しつつ医師は応じ、準備の指示をしながら「これでは我らが負けるのも当然だ」との想いを強く感じた。そこには屈辱感や敗北感もあったが、納得の思いが最も強く、そのことが医師の敗北感をさらに強めさせた。


 それでもさすがに陣営地の下級兵たちが眠るような寝台ではなく――そもそも彼らは寝台でなく床に敷物を敷いて寝る――、簡素ではあっても頑丈なものが用意された。敷布や掛布も一枚の布ということはなく硬くなった綿が積められたものだったが、それでこそズタスは落ち着いて眠れたようであった。


 好みの寝台でそれなりの睡眠が取れたからというわけではないだろうが、寝所でズタスは一つの宣言をした。

「国を建てる」

 それは歴史的な一言であった。央華大陸が最初の統一王朝である曹(そう)にまとめられるまで、かの地はいくつもの国が乱立する戦国時代であった。

 だがそれらの国ですら、まったくの異民族が国を建てたことは一度もなかった。いや、南方でそのような国があったにはあったが、当時の彼らとて思想的・風習的にはほとんど央華化しており、純粋な異民族国家とは言えなかった。それゆえすでに亡んだその国の領域も、今は完全に央華文明の一部として庸に取り込まれ、そこに住む者も混血が進み、自分たちが異民族を祖先に持つことすら忘れたかのように庸国人と同化して生を営んでいる。

 それがまったく央華化していない異民族によって一つの国を建てられるとは、広い央華大陸の一部のこととはいえ空前の決断であった。この点でもズタスは央華史の先駆者として歴史に名を残すことになる。

 が、このズタスの宣言に近臣者たちは戸惑いを見せる。彼らの中に「建国」という概念は薄い。それどころか「国」という枠を作り、その中で暮らす央華人を蔑む感情もあったのだ。遊牧騎馬民族は、部族という集団は作っても土地に縛られることはなく(また出来もせず)、常に移動を旨とし、そのことに誇りを持っていた。

 それゆえ族長のこの宣言は彼らを戸惑わせたのだが、続いての宣言にその感情はかすかにやわらいだ。

「国号は謝(シャ)とする」

 「シャ」とは、北方、彼らの故郷における騎馬民族の聖地の名であった。コナレ族を含めたすべての騎馬民族にとっての聖地である。「謝」は当て字で、どんな文字でもよかったが、庸人への印象も含めてズタスはこの字を選んだ。


 騎馬民族にも宗教があった。それは太陽や大地を対象とする素朴なものであったが、彼らの精神の基となっていることに変わりない。シャは、その信仰における聖地なのである。太陽と大地が交わる場所とされ、彼らがなにがしかの祈願を為すとき、この地を訪れるか、さもなければこの地がある方角へ祈りを捧げる。

 一神教のように絶対的ではなく、多神教よりゆるいものではあったが、力以外で唯一、すべての騎馬民族に通じる存在がシャだったのだ。

「なるほど、庸人どもの上に我らが君臨するにふさわしい名だ」

 族長の真意を察したような気になり、彼らはズタスの建国を受け入れはじめる。どうせ建国など形だけのこと。することは変わらないのだ。彼らはこれからも、攻め、奪い、殺し、また攻める。それを繰り返すつもりでいた。


 が、ズタスの真意を本当に察することが出来る者は、やはりほとんどいなかった。彼は真実、国を建てるつもりだったのだ。

「我らも変わらざるを得ぬ」

 ズタスはそのことを知っていた。

 騎馬民族がこれまで通りでいられるとすれば、央華大陸などに居座らず、殺すだけ殺し、奪うだけ奪った後、そのまま長城を越えて故郷へ帰るしかない。

 だが、変わるつもりのない者でさえ、すでに故地へ帰る気はなくなっていた。央華大陸の、少なくともこれまで征服した北河以北・北河流域を捨てるつもりはなく、そこを根拠地としてさらなる南下を企図していたのだ。

 これだけでもう、従来の騎馬民族ではありえない。この地には彼ら以外の者、央華民族が住んでいるのだ。しかも人がいるだけでなく、文明・文化も完全に根付いている。

 そしてそれは、人の意志のみで作られたものではない。その土地の風土に起因し合致するものゆえに生み出され、定着したものなのだ。

 騎馬民族の峻烈な気性や戒律とて彼らの性向によってのみ作られたわけではない。厳しすぎる気候、苛烈すぎる風土によるところも大きい。寒く、乏しく、広く、少ない。そんな世界で生きるには、強くなければならなかった。それがゆえに力への信奉が育ったのだ。

 そして央華の地で生きていく以上、騎馬民族とて「央華化」しないわけにはいかない。いくら尚武を旨とする騎馬民族のままであろうとしても、風土がそれを許さない。庸人、央華人に対しては絶対無敵の騎馬民族とて、風土に勝てないことは、侵略も半ばに引き返さざるを得なかった近い例でもはっきりしている。ズタスはそのことをあらためて痛感していた。


 それゆえの建国である。

 央華の地に在る以上、騎馬民族であっても「国」という概念から逃れられるはずもない。大半の騎馬民族がそのことを理解しておらずとも、無自覚にそうなっていく。だが自覚してからでは手遅れになるし、そもそも最後まで自覚出来ない可能性すらあった。

 だからこそ、ズタスは断行したのだ。騎馬民族が自分たちの変容に気づこうと気づくまいと関係なく、彼らを守るために。

 その断行が有効であったことは、北河以北の占領地で、ズタスの宣言がほとんど混乱なく受け入れられたことからもわかる。彼らとてズタスの建国は「庸人への嫌がらせ」と考えてはいたし、その想いが触媒になったことも確かだが、自分たちでも気づかぬうちに央華文明に順応しつつあったため、受け入れる素地が早くも出来上がりはじめていたのだ。

 ズタスは、そのことを確認してうなずきつつ、同時に寂寥を覚えてもいた。いかな先見性を持つズタスであっても、騎馬民族である誇りはやはり強い。彼らの変容、つまり騎馬民族性喪失の最大の責任が自分にあるとわかってはいても、薄れてゆく民族の性向や誇りに寂しさを消すことは出来なかったのだ。

 そして、ズタスほどの先見性と視野の広さを持つ騎馬民族は彼以外にほとんどおらず、寂しさを共有出来る者がいなかったことも、彼の寂寥を深めさせていた。


 建国の宣言にズタスは続けた。

「遺言を、遺しておくべきであろうな」

 たくましかった筋肉は削げ落ち、全盛期の半分になってしまったかというほどの肉体になりつつも、ズタスはいささか皮肉な笑みを浮かべながら言う。「族長、そのような」となだめる者もいたが、ズタスは意に介さなかった。

「ここから生還するのは、央華を一人で征服するより難しいであろうよ。とにかく、わしの遺志を遺しておく」

 そう言ったズタスは、一呼吸置いて、遺言した。

「好きにせよ」

「…は?」

 それを聞いた近くにいた者たちは、思わず首を傾げた。それを知ってか知らずかズタスは続ける。

「誰かを奉戴しようが、互いに相争おうが、好きにせよと言っているのだ。わしが死んだ後のことは汝らの思うようにやれ」

 その言葉に困惑さを覚える者もいたが、戦慄を覚える者もいた。ズタスの真意を察したのだ。

「賢明にまとまって央華大陸を支配するか、愚かにも分裂してせっかくの好機を潰すか、どちらでも好きな方を選べ」

 と、ズタスは言っているのである。

 後継者を決めるのも支配者の責務と考える者は、この遺言を無責任とそしるかもしれないが、ズタスに言わせれば大の大人がいちいち指図を受けなければ最善の途を選べないという方が情けない。自分(たち)は央華大陸を支配できるだけの実力者だと自負するのなら、なおさらである。

「わしは誰にも指示されなかったし、誰からも譲られなかった」

 その自負がズタスにはある。それは央華の半ばを侵略したことのみでなく、生まれた時から今までの人生すべてにおいてである。コナレ族の族長の座を得たのも、央華のことを学んだのも、長城を越えることも、越えた後に他部族を従え統一した騎馬民族軍で征服行を続けたのも、すべて彼の意志と、身につけた実力においてであった。

「わしの成し得なかったことが出来るというのであれば、その程度のこと、やってみせよ」

 ズタスは、死の寸前まで甘くはなかった。


 そうは考えつつも分裂が必至であることはズタスもわかっていた。だが彼は、その分裂がこれまでの征服を無にすることのないよう手を打つことも忘れてはいなかった。それが建国の目的の一つである。

 ただ分裂するだけなら、互いに争い、勝った者が央華大陸の手の届く範囲を蹂躙し、略奪品を持って北へ帰るだけになるかもしれない。

 だが央華化が始まっている騎馬民族に国という「枠」をはめたことにより、彼らはその中でのみ領土の奪い合いを始めることだろう。勝利し、奪った後、北へ帰ってゆく「族長」ではなくその国の「国主」になることを望むだろう。仮に分裂したままであっても、それぞれが「国」を建て、それぞれの領土を治めながら戦い奪い合う「央華風の戦争」に移ってゆくことだろう。

 ズタスは死の床にありながらすら、これからの歴史を創造し続けていた。



 ズタスの死期が近づいていることで心揺らされぬ者は、騎馬民族に限らず、当時の央華大陸にはほとんどいなかったであろう。

 口裂けサガルもその一人であった。若き勇将であり、騎馬民族内では英雄視されている彼であるが、それはまだ「敬意を伴った人気」でしかなかった。

 人気と人望は似て非なるものである。彼は若く未熟だったが、そのことをわきまえる知性はあった。ゆえにサガルは、自分がズタスに取って代わろうとまでは考えていなかった。その実力は、今の自分にはまだない。

 そうであるのに、ズタス亡き後の自分がどのような行動を取ればいいかがわからない。正確には、誰に付けばよいかがわからなかったのだ。

 これは一部の去就がはっきりしている者以外全員が迷うことであったが、サガルの場合、彼の「人気」を取り込もうと、様々な有力者たちから誘いがある。それもまた若いサガルの戸惑いと困惑に拍車をかけていた。

 中には脅迫じみた勧誘をおこなう者もいたが、これは逆にサガルの心を離す結果にしかならなかった。彼は脅迫に屈するような脆弱さは持ち合わせていなかったし、仁義に欠けるやり方に不快感を覚える性質でもあった。ズタスに対する恩は生涯忘れることなく、それだけに彼がまだ生きているというのに自立を画策するような連中を好きにはなれなかった。それが生き残るために、野心のために必要ということが頭ではわかるのだが。

 それだけに、サガルは考えつつも動くのをやめた。この時期に動くのはズタスへの忘恩だと気づいたのである。たとえそれで出遅れたとしても、彼は構わなかった。シン族内で部下たちにはそのことを話し、彼らに了解を得たこともあるが、何よりたとえ初動が遅れようと、すべてを乗り越えてすべてをつかみ取る自信がサガルにはあったのである。

 若き勇将は、野心と自負の大きさではズタスにも負けていなかった。

 

 寧安にも不穏な気配が漂い始めた。この都市に住む人たちの中で最も数が多いのは、当然ながら庸人である。だが支配者は騎馬民族であり、最大の力――軍事力を持つのも彼らだった。支配側が不安定で不穏な状態になれば、寧安すべてがそうなるのも必然である。

 すでに街中では治安が乱れ始めていた。騎馬民族に法は通用しない。彼らにも法はあるが、それは大都市を統べるものではなく、高原での生活と戦場を律するために用いられるものであった。

 そして彼らにとって最大の法は、支配者個人の力量であった。支配者が「ならん」と言えば、それは無形の鞭となって彼らを御せるのである。

 が、その支配者の力が弱ってきた。病に倒れ衰えること、それ自体が罪となるのが騎馬民族である。老衰や事故死すらが罪であった。彼らには道理ではなく、力のみが効力を持つのだ。

 それがただの病どころか死病に侵されたとなれば、重石としてのズタスの存在も軽みを覚えてしまう。寧安帰還の途上はズタスの騎馬姿があったため彼らに対して重石の役を果たしていたが、宮城の奥に引っ込んで姿を見せなくなってはそれも不可能である。かといって寧安に帰ってからのズタスは衰弱が著しく、そのやせ細った姿を兵に見せても逆効果であることは明らかだった。

 さらにズタスの後継者は定まっておらず、新しい重石もないのだ。

 すでに悪循環は始まっていた。


 不穏さと不安定さは、寧安の内部のみで収まりはしなかった。北河流域から以北にかけてが今の騎馬民族の支配地だったが、この領域すべてに広がったのだ。

 それも当然である。それらすべてをズタスの存在が抑えていたのだ。ましてズタスがいる場所から離れれば離れるほど威光が薄れるのも当然であり、各領域の統治を任されていた者たちは、ズタスによって抑え込まれていた野心を急速にふくらませはじめていた。


「ズタス罹患」の報は、遅ればせながら紅都にも届いた。実際、確認が取れたのは相当に遅く、ズタスが寧安の皇宮に病身を横たえた頃である。騎馬民族たちはズタスの病を隠してはいたが、さほど強固な箝口令でなかったことは、寧安へ帰還する頃にはすべての兵たちが知っていたことからも明らかだった。

 だのにこれほど確報を得るのが遅れたのは、要するに庸が騎馬民族を心底から恐れて近寄らなかったからである。戦争をする以上、相手の情報を得るのは初歩の初歩であり絶対の基盤である。庸軍はそのことを、少なくとも頭では騎馬民族たちよりよく知っていた。

 しかしこれだけ負けに負け、しかも大敗に次ぐ大敗を続けると、どうしても及び腰になってしまう。まして北河を渡り、寧安を占拠してからの騎馬民族軍の南下は怒濤と言ってよかった。央華大陸をすべて覆ってしまうほどの天災とすら感じられ、庸人としては逃げる以外に対策がなかったのだ。

 が、それでも庸唯一の味方――広い大地――がその大波を跳ね返してくれた。それは逗河の手前で騎馬民族が軍を返したことからも明らかであり、その報告が届いた日の紅都は、急遽祝日になったほどであった。皇帝も、宮廷人も、民衆も、あまりの安堵に人生で初めてと言えるほどの狂態を示したものである。


 その騎馬民族の後を、庸の斥候たちは恐る恐るついて行った。あまりに離れてついて行ったため、本来の目的である情報がほとんど得られないほどであったが、それでもちらほら聞こえてくる「兵だけでなくズタスも疫病にかかった」という噂は、彼らの全身に電流を走らせた。

 それでもすぐには紅都へ知らせなかったのは、彼らにもさすがに自分たちの情報収集に疎漏があることを自覚していたからである。

 緊張感のありすぎる期待と願望に苛まれつつも、彼らは騎馬民族軍の後を追い、少しずつ情報を仕入れ、そしてついに確報の手応えを得ると、まず彼ら自身がその事実に狂喜した。

「天は正義を見捨てたまわず!」

 自分たちは何一つ悪くなく、ゆえに正義である。これは、古今東西侵略された側の自然な感情であり、概ね間違ってはいない。が、今回は、自分たちの内紛を、騎馬民族を招き入れることによって解決しようとした愚行があるため、彼ら庸人にまったく罪なしとは言えなかった。が、そんなことにこだわる余裕は今の彼らにはない。

 歓喜の想いを全身に満たし、引き続き騎馬民族を探索するための数騎をとどめ、残りは紅都へ馬を走らせる。ほとんど不眠不休での強行軍だったが、そのことで疲労を覚えることもなかった。が、紅都へ到着し、ズタス罹患の報告をした途端、全員が倒れた。張りつめていたものが切れ、歓喜に忘れていた疲れを思い出したのだ。内一名がそのまま死亡してしまったことからも、彼らがいかにズタスの病に狂喜したかわかろうというものであった。


 ズタス罹患の報は、紅都の宮廷に生色をよみがえらせ、そしてさらなる躍動も生んだ。

「このまま一息に北狄どもを長城の外へ押し返そうぞ!」

 宮廷で叫ぶ高官がおり、それに賛同する声は無数に湧いた。

 喉元すぎれば熱さ忘れるという面もあるが、戦略として間違っているわけでもない。騎馬民族が巨大な個によってしか一枚岩を保てないというのは、庸に限らず央華人であれば誰でも知っている。その要が倒れたのだ。騎馬民族が分裂するのは目に見えている。そこに攻撃を仕掛ければ、いかな弱兵である庸軍でもきっと勝てる。そう考えるのは無理もなく、正しくもあった。

 が、当然反対意見もあった。

「今の我らはまともな軍隊を持っておらぬ。これから徴兵して訓練をするにしても、すぐに北伐というわけにはいかぬ。それにズタスは病に倒れたが、まだ死ぬと決まったわけではない。そのことを確かめずにのこのこ北上すれば、病の癒えたズタスに率いられた北狄に、またも壊滅させられるぞ」

 それなりに真っ当な意見ではあるが、目の前に放り出されたあまりに甘美な好機は、凄まじいまでの恐怖感と閉塞感が取り払われた紅都の宮廷ではほとんど取り上げられなかった。これまでの敗北と劣勢を一気に挽回し、正しき央華の主人としての立場と誇りを取り戻せるかもしれない。その誘惑と渇望に逆らえる者など皆無に等しかったのだ。

 それは宮廷人だけでなく民衆も同様である。まだ遙か北の脅威ではあるが、自国を侵略されて喜ぶ者などまずいない。それに北から逃れてくる数万、数十万の難民は、彼らの同情心と愛国心を強く刺激していた。

「北狄許すまじ」は、すでに南方に住まう庸人の総意になっていたのだ。


 それゆえ、緊急の徴兵にも、民は進んで応じた。「北狄の首魁が死にかかっているそうだぞ」という噂は、すでに紅都から他の地域にまで広がっている。あまりの朗報のため隠すに隠せなかったし、宮廷としてもそのつもりはなかった。ここで一気に逆転してしまわなければ、自分たちは央華大陸から追い落とされるか、滅亡させられてしまうかもしれないのだ。起死回生、乾坤一擲のために挙国一致体制を敷く、最後の機会なのである。それを民衆に伝えるためにも、ズタスの罹患は隠すべきではなかった。

「これに勝てばすべてが覆る」

「これに勝てばすべてが終わる」

 という思いから、

「戦いもこれが最後だ」

 という思いに変わるのは自然であり、そして最後であれば民衆も積極的に全力を傾ける。

 官民が真に一つになった、庸にとって本当に最後の、死力を尽くした反攻が始まろうとしていた。



 庸がまとまったのに比べ、騎馬民族は縛っていた紐がゆるむように、徐々に分裂を続ける。

 が、その紐が切れることはまだない。切れるのは、ズタスが死んだ時であろう。そしてその日は刻々と迫っていた。

「…あと数日も保ちますまい」

 その日の診察を終えた医師は、複雑な沈痛さを込めた表情で近臣の者たちに告げた。庸の宮廷医師だった彼にとって、北狄の首魁の死は諸手を挙げて喜ぶべきことだったが、それをためらわせる心情が育っていた。それはどんな患者であろうと死を喜ぶことを許さぬ彼の医師としての誇りもあるが、同時にズタスに対する心服の想いが湧いてきていたためだった。一月に満たぬつきあいでこれである。北の族長の人格的影響力の凄まじさは、彼の指揮能力、支配能力の上をいくものであったかもしれない。

 が、とにかくあと数日で一つの歴史が終わり、一つの分岐点がやってくることになった。医師の見立てがはずれるにしてもそれはわずかな誤差でしかなく、これから先ズタスが何年も生き続けることはありえない。近臣たちの思惑は様々に乱れ始めた。


 逆にズタス本人は、死の瞬間が近づいて来れば来るほど心穏やかになってゆく自分を感じていた。肉体の衰弱と苦痛を越えるほどの安らかさに、ズタスは返って自分の死を実感していた。彼にとって人生は、炎のような猛々しさと暴風のような荒々しさをもって駆け続けるものであった。その炎がやみ、風が止まる以上、彼には生きている意味と価値がなかった。少なくともズタス自身はそう思っていた。

「族長…」

 目をつぶっての穏やかな呼吸は、眠っているようにしか見えない。それを確かめるように控えめにかけられた声に、ズタスは静かに目を開けた。

「おお、師よ…」

 そこにいたのは、ズタスの人生におけるただ一人の師である韓嘉だった。彼は北河以北の領土を治める「族長代理」として激務をこなす日々を送っていたが、ズタス危篤の報せに、激務をさらなる激しさをもって片づけてほんのわずかな時間を作り、弟子に会いに駆けつけたのだ。

 そのことを言葉によらずして知ったズタスは、まぶたに熱さを感じつつ力の入らない体を起こそうとする。が、そんな彼を韓嘉は押しとどめた。

「そのままで、族長。構いませぬ」

「…申し訳ない、師よ。このように情けない姿を師のお目にかけ、礼を失して応対するなど許されぬことでありましょうが…」

 謝意を告げながら再度寝台に深く横たわるズタスの横に、韓嘉は断ってから腰掛けた。その椅子もズタスの寝台同様粗末なもので、部屋の雰囲気は彼らが真に師弟の関係であった当時と変わらない。

 そのためかはわからないが、ズタスは韓嘉に、違う理由でもう一度謝った。

「師よ…不肖の弟子をお許しください。いや、謝って許されることではありませぬが、師の教えや頼みをことごとく無視したこと、謝る以外に出来ることがございませぬ…」

 韓嘉は「略奪は最小限に」と何度も念を押していた。だがズタスはそれを止めることは出来なかった。いや、止めるどころか煽った。略奪と士気が直結する騎馬民族を率ている以上、ズタスにとっては仕方ない話だが、韓嘉には耐えがたいことであり、師に対する違約と感じたことだろう。

 ズタスは、死を目前にしての破門と罵声とを覚悟していた。それは他の者が考える以上にズタスにとってつらいことだった。彼の韓嘉への敬意と感謝は本物であり、それゆえに師への違約は、常に彼の心を傷つけていたのである。

 が、韓嘉はそのどちらもおこなわなかった。死に至る弟子を静かに見つめながら、言う。

「…謝られることはありません。いや、私の方が謝らねばなりますまい。私とて最初からわかっていたのです。族長にも止めることなど出来はしないと…」

 韓嘉にもわかっていたのだ。騎馬民族の猛々しい血を制御する方法は、殺戮と略奪という手段以外存在しないということを。

 それでも彼には頼むことしか出来なかった。同胞を殺し、同胞から奪うことを、どうしてがえんじえることが出来るだろう。

 それでいて韓嘉は、民族最大の裏切り者になってしまった。ズタスに央華の真髄を教え、彼に協力して同胞を侵し、そして今は統治している。韓嘉にとってその目的は、少しでも同胞の被害を減らし、守るためである。そしてそれは、実際にその通りであった。彼の統治や制御によって死なずにすんだ庸人は、数万人におよぶであろう。

 だが周囲はそう見ない。特に支配されている庸人のほとんどから、彼は侵略者におもねって故郷を蹂躙する汚物同然の存在としか思われていなかった。

 韓嘉は、そのことを知っていた。そうなることも知っていた。ズタスの望みを受け入れて、彼の師となったときから。

 それでも彼は庸人であった。庸人であることをやめられなかった。それゆえ今の彼は発狂してもおかしくないほどに懊悩していたが、だがそんな彼を救っているのもズタスであった。故郷への想いと罪悪感と、ズタス個人への心酔は、天秤のように彼の心の均衡を保ってくれていたのだ。

 韓嘉の人生を狂わせ、同時に救う。ズタスは韓嘉にとってあまりに複雑で、あまりに重い存在であった。が、韓嘉は、ズタス個人を嫌ったことは一度もなかった。それは、それこそ彼と初めて会ったときからただの一度もなかった。韓嘉は、ズタスと出逢えたことそれ自体には、心から神に感謝していたのだ。


 だから死の床にある弟子の枕頭に座る彼の想いは、純粋な悲しみに満ちていた。ズタスも師のその想いは感じ取っている。それだけに、彼の師への罪悪感と感謝も、あふれんばかりであった。

「師よ…」

「もうなにもおっしゃいますな、族長。私はあなたの師になるために生まれてきた。そのことを後悔しておりませぬし、恨んでもおりませぬ。それだけは絶対でありますよ」

 ズタスの想いを感じ取る韓嘉は、すっかり細くなった彼の手をやさしく握り、ズタスの謝罪をすべて受け入れた。韓嘉には韓嘉の生き方と戦いがあり、それを全うする覚悟もとうに出来ていた。そこに踏み込む資格は、ズタスも含めて他の誰にもない。これ以上の謝罪は、韓嘉の人生と覚悟を侮辱することになる。ズタスもそれを悟った。

「師よ、私もあなたの弟子になれてよかった。天上でもあなたの弟子になりたい。今度は侵略のためではなく、ただ純粋に。あなたがいらっしゃったとき、門下に加えていただけるだろうか」

「喜んで。族長」

「ありがとう存じます、師よ」

 歴史に巨大な楔を打った二人は、そのようなものと無縁の師弟になることを、あらためて誓った。



 そしてその日がやってきた。

 時刻はまだ朝の範囲である。夜、静かに眠っていたズタスは、夜明け頃に目を覚ますと、近くに侍っていた者たちに告げた。

「おい、そろそろ死ぬぞ」

 その言葉に、近侍の者たちは戸惑った。族長の声は弱かったが常の明晰さがあったため、彼が冗談を言っているのかとも思ったのだ。だが今のズタスにとって、冗談にしては深刻すぎる内容である。それもあって咄嗟に反応仕切れなかったのだ。

 が、目を覚ましたばかりのズタスがすぐに目を閉じ、そして呼吸がこれまでにない早さと苦しさを伴ってきたのを見て総毛立つ。

「い、急げ! 医師と、主立った方たちを呼ぶのだ!」

 彼らは蒼ざめた表情で、医師たちを呼びに走った。


 近侍たちの報告に、主立った者が駆けつけてきた時、ズタスはすでに昏睡状態に入っていた。

「このまま目をお覚ましにならないかもしれません」

 呼ばれて来た医師は沈痛な面持ちで告げた。

 ズタスは、死ぬに際して、すべきことはすべて終えていた。それだけにこのまま亡くなったとて構わないかもしれない。だがそれほど単純な想いですますには、ズタスの存在は巨大すぎた。

 ここは寧安。今ここにいる者たちの大半は、つい先年までこのような場所にいるなど考えることも出来なかった者ばかりである。北の、寒く、乏しく、鋭く、厳しい、だが広く、雄々しく、力強さと誇りとに満ちた平原で、大自然と他族とを相手に戦う日々に何の疑問も持たない、苛烈ではあっても素朴な者たちばかりだったのだ。

 それが今、央華帝国の帝都というだけでなく、大陸全土でも有数の大都・寧安にいる。それも捕虜や客分ではなく支配者としてである。

 そんなありえない事態を引き起こし、彼らを巻き込んできた男がズタスであった。

 騎馬民族には歴史への造詣は浅い。だがそんな彼らであっても、いま死に瀕している自分たちの族長が、一つの歴史を作り、これからの歴史に巨大な影響を与えたことは漠然とわかっていた。その理解が彼らの中に新しい感情を生み、戸惑わせている。

 その感情の名は畏敬という。彼らは神や自然に対してはそのような感情を持っていたし、強力な指導者に対しても抱いていた。だが、その畏敬とこの畏敬はどこか違う。そのことが彼らにもわかり、戸惑わせていたのだ。


 そんな中で、戸惑いも見せず畏れの感情を受け入れている男もいた。

 韓嘉とタクグスである。韓嘉は歴史の民である央華人ゆえ当然だが、騎馬民族であるタクグスの理解は奇異と言ってよかった。彼もまた、ズタスと違う意味で時代の鬼子であり申し子であった。


 全員が押し黙り、無言のまま立ち尽くす。相当の長い時間だが、ほとんどの人間は気にしていない。表情はそれぞれの気持ちに応じて微妙に異なるが、笑顔は一人もいなかった。当然といえば当然だが、中には内心、この後にやってくる権力闘争に思いを馳せ、ズタスの死を歓迎している者もいるかもしれない。しかしそんな者にすらなにがしかの感傷を与えずにおかない。それがズタスの人生であった。

「あ…」

 と、誰かが小さく声を漏らした。ズタスの呼吸が止まったのだ。「崩御か?」と誰もが思ったが、そうではなかった。ズタスが目を見開いたのだ。

 全員がズタスを注視し、彼も全員を見た。

 そして小さく笑みを浮かべると、また目を閉じた。

 それからしばらくして、ズタスの呼吸は本当に止まった。

「…ご崩御なさいました」

 医師が脈を取り、瞳孔を調べ、その死を確認した。

「…族長」

 全員が、その名を呼んだ。全員の感情は、重なるところもあり、そうでないところもあった。だが重なる部分だけはまったく同質で、それをより濃く感じる者たちは、哭泣を始めた。



 ズタスの死はすぐに全騎馬民族に公表された。隠していても仕方がないし、そもそも隠すことで得られる利点がなかった。正確には、利点を独占出来る者がいなかった。

 ズタスの後継者は確定されていない。公的には彼の息子であるクミルだが、真の後継者、実力による支配者は決まっていなかった。もしクミルがそこまで含めての後継者候補であったなら――それでもズタスの支配力には及ばないであろうから――ズタスがまだ生きてた頃から、「真の支配者」への道を円滑に進むことも出来たかもしれない。

 だがそうではない以上、誰か一人がズタスの死を独占することは出来ない。族長の死をさっさと公表して「次の支配者はおれだ!」と行動で示すしかなかったのだ。


 それは寧安にいる者たちだけではない。むしろ北河流域から以北に到る各地を治めている将軍たちの方が有利であった。なにしろ治めている地域をそのまま自分たちの地盤とする「軍閥化」が可能なのだから。当然彼らもズタスが死病にかかったことは知っていて、その時点で軍閥化の準備は始めている。

 中には不正出発(フライング)気味に事を起こしかける者もいたのだが、実際はほぼ全員が自重した。いかに力が絶対の騎馬民族であっても、やはり族長は族長であり、その権威と権力は強大だった。ましてズタスは歴代の族長の中でも飛び抜けた実力と実績がある。露骨な抜け駆けは他の将軍たちに「族長への叛乱だ!」との名分を与え、袋叩きにされてしまう危険性があったのだ。そうなればその者の地盤は他の将軍たちに根こそぎ奪われ、自身は殺されるか、よくて北へ逃げ出すしかない。それではあまりに馬鹿らしかった。

 それだけに彼らは自重に自重を重ね、準備を進め、ズタスの死を待っていたのだが、ついにその時が来た。

 騎馬民族が支配していた領域は、一気に決壊した。



 ズタスの死を待っていたのは同じ民族だけではなかった。むしろ彼ら以上に待っていたと言っていい。

 紅都を中心とした南庸の民は、「ズタス死去」の報に狂喜した。が、宮廷人たちは爆発する喜びに浸ってはいられなかった。

「陛下、いま少し、いま少しですぞ」

 興奮を抑えがたい重臣たちに言われるまでもなく、皇帝・陳戎は玉座で、彼ら同様紅潮した顔を上下させた。

「わかっておる。首魁を失って混乱し、分裂必至であろう北狄を討ち払い、我らが故地を取り戻そうぞ!」

「御意!」

 皇帝の息せき切った宣言に、臣下たちは勢いよく答えた。

 彼らとて騎馬民族の性向はよくわかっている。強力な指導者がなければまとまるなど不可能なのが彼らなのだ。そしてズタスと同水準の指導者は今の騎馬民族には存在しない。

 それゆえ彼らは待っていた。人の死を望むのは人倫としては許されないことだろうが、彼らにはそれを望むだけの理由があった。

 そしてその時がやってきたのだ。この機を逃せば騎馬民族の中から新たな指導者が現れ、再度まとまり、彼らを圧迫し、侵略を再開するに違いない。絶対につかまねばならない好機だった。

 それは宮廷人だけでなく、南庸の将兵全員にもわかっていた。彼らは自分たちが弱兵であることを知っていた。それゆえ騎馬民族に勝てるのは、彼らが最も弱い状態であろう今をおいて他にないと、強く自覚していたのだ。

 そしてここで負ければ、滅亡への坂道を転がり落ちるであろうことも。

 それはただ国を失うというだけではない。民族としての存在を失うということであり、ただの王朝交代以上の切実さがあった。

 絶対に負けられない戦いだった。

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