魔王と勇者と高校生

 平太郎は時折振り返り、どんどんと小さくなっていくファリグラート王国の様子を窺ったが、誰かが追ってくる素振りも無く、国が襲われているような様子も無かった。


 本当に伝わったのだろうか。

 このまま追っ手が掛からなかったら、どうなるのだろう……不安はますます募っていく。


 しかし、それは杞憂だった。

 王国の南側から黒い影が飛び上がるのを、平太郎は確認した。その黒い影は、まるで二人の位置が分かっているかのように一直線に向かってくる。


「サーリ! 来たぞ!」

 平太郎は叫んだ。

「はい!」

 サーリが答え、踵で馬の腹をパシンと蹴った。

 それに応えるかのように、馬が更に速度を上げる。

 同時にサーリは腰を浮かし、前傾姿勢を取った。


 平太郎とサーリを乗せた馬は、街道をひたすらに走り続ける。

 かなりのスピードが出ているにも関わらず、振り返るたび、グリウルの影はますますその大きさを増していた。


「追いつかれる!」

 平太郎はサーリの背中に声を上げる。


 背後から、まるで大型の獣が叫んだのかと思うほどの咆哮が響いた。

 その声は怒りに満ち、平太郎は耳を塞ぎたくなる衝動をグッと堪える。

 グリウルの咆哮で、馬が少しよろめいた。

 サーリは素早く手綱を操作し、バランスを取り、直進させる。風を切る音が近づいたと思った瞬間、サーリは馬の頭を左へと振った。


 直後、グリウルが急降下し、直進していれば平太郎たちがいたであろう場所に落下する。重たい衝撃音と共に、地上に積もる雪が高々と舞った。


「うわっ!」

 平太郎は危うく振り落とされそうになり、慌ててサーリの腰を強く掴む。

 前方から「ひゃっ」と小さな悲鳴が聞こえた。


 馬は街道を離れ、樹木が乱立する山道へと向かう。

 木々の間を縫うように、サーリは右へ左へと舵を切りながら走り抜け、グリウルの攻撃を交わす。

 初めのうちは、尖った木の枝を嫌がるように避けていたグリウルだったが、やがて太い幹をなぎ倒しながら二人に迫って来た。


 そして、業を煮やしたように、グリウルは大きく右腕を振り上げた。

 腕を鞭のようにうねらせ、振り下ろす。


 轟音と共に巨大な青白い火球が発射された。


「サーリ! 右!」

 平太郎は思わずサーリの体を右へと倒す。

 それに反応し、サーリは手綱を引き、馬の軌道を強引に変更した。


 火球はサーリが駆る馬の比ではないほどのスピードで迫り、馬のわずか左前方の地面に着弾し、周囲の木々を粉々に砕きながら爆発した。

 爆風により地面が抉れ、飛び散った炎の残滓が平太郎とサーリの肌を焼く。


「あんなの当たったら、ひとたまりも無いぞ!」

「もうすぐ冀求の門です!」

 サーリは懸命に手綱を操作し、馬は必死でそれに従う。

 そして、ようやく、見覚えのある谷間へとやってきた。

 ここは先日、平太郎が初めてこの世界に足を踏み入れた場所だ。


 前方に聳える切り立った岩。あそこまで行ければ!


 その一瞬、平太郎はグリウルから目を反らしていた。

 だから、グリウルが再び火球を放つ動作をしていたことに対する反応が僅かに遅れてしまう。


 グリウルが射出した火球は、平太郎たちに当たることこそ無かったものの、馬の眼前で爆発を起こした。その爆風を避けようと、馬はいななきと共にその身を翻す。


「うわっ!」

「きゃああっ!」


 二人はしがみつく暇すら無く馬から投げ出される。

 自分の視界に白い地面が迫ってくるのを、平太郎はやけに冷静に感じていた。そして体中に衝撃が走り、雪の上を勢い良く転がっていく。


 瞬間、平太郎の意識は飛んでいた。

 気が付くと、顔の半分が雪に埋もれていて、平太郎は慌ててその身を起こす。


 全身に痛みを感じつつ振り返ると、平太郎から少し距離を取るようにして、サーリもまた雪まみれになって倒れていた。意識はあるようで、二本の腕を雪面に突っ込むようにして、どうにか起き上がろうとしている。

 そのすぐ横、先ほど二人が跨っていた馬が、サーリの身を案じてなのか、ゆっくりと近づいていく。


「サーリ! 大丈夫か!?」

 平太郎は呼びかける。

 彼女は朦朧としているのか返事が無い。しかし、サーリの目は大きく開かれていて、命に別状は無いようだ。


 安堵の息を吐いたのもつかの間、低く唸るような声が周囲に響き渡る。


『ようやく捕まえたぞ、鼠』


 黒いローブをはためかせながら、グリウルはサーリに向けてゆっくりと降下する。

 魔王の接近に、サーリの側にいた馬が我を忘れるように駆け出した。


『儂を欺こうとするとは、小賢しい鼠だ。貴様にはそれ相応の痛みをくれてやる』


 グリウルがサーリの後頭部に手を翳す。

 もし、その掌から炎が上がれば、サーリの体は業火に包まれてしまうだろう。


「や…………やめろおおおぉ!」


 平太郎は叫んだ。

 叫ぶと同時に、全速力でサーリの元へと駆け出す。

 雪に足を取られ、もつれそうになりながらも、平太郎は必死に地面を蹴った。


 そして、グリウルの小さな身体にしがみつく。

 その身体は熱く、触っているだけで火傷をしてしまいそうなほどの痛みを感じたが、それでも平太郎はその腕を放さなかった。


『伝説の英雄とやらは、こんな虫ケラのような力しか出んのか』


 グリウルは呆れたように言うと、途端、その身体からバチバチと紫の閃光が走る。

 平太郎が必死に掴んでいた腕は容易く解かれ、そのまま宙へと跳ね飛ばされた。

 そして、雪面を滑るように転がり、隆起した岩の角にしたたかに背中をぶつけ、ようやく止まった。


「うぐっ……!!」

 瞬間的に平太郎の呼吸が止まった。

 痛みに声も上げられず、平太郎は動くことさえ出来なかった。


『虫ケラ。お前はそこで、この小娘が焼け焦げていく様を見ているが良い』


 グリウルが嘲笑う。

 そして、掌に青白い炎を纏わせ、ゆっくりとサーリに近づけていった。


「や……やめ……ろ……」

 平太郎は必死に右腕を伸ばす。


 しかし、その腕がサーリに届くはずも無い。

 あまりにも距離がありすぎる。

 平太郎には、何も出来なかった。

 自分の無力さをありありと感じるしか無かった。

 なんで、動けないんだ。

 なんで、この手は何も掴めないんだ!

 俺が伝説の英雄なら、こんな時にこそ、その力が発揮されるんじゃないのか!?


 サーリの白いローブが、炎に当てられ黒く焦げ始める。


 俺は……俺は……所詮、ただの、高校生なのか――。


 平太郎は絶望した。

 グリウルの言う通り、自分は虫ケラでしかない。この手は、誰も守らない。


 そこへ、馬の蹄の音が響く。

 岩場を駆けているのか、谷底にそれはこだました。


 さっき逃げ出した馬? 帰ってきたのか?


 確かに、一匹の馬が、グリウルに向かって近づいている。


 いや――あれは……、


 馬から、何かが飛んだ。


 赤い髪。赤い鎧。

 赤の勇者――フリウだった。


「グリウルッ!」


 フリウが叫ぶ。

 空中で高々と振り上げた剣を、グリウルの首元目掛け振り下ろす。

 グリウルが反応し、身体を反転させた。しかし、フリウの剣は更に速い。


 峻烈なる一振りがグリウルの身体を捉えた、と思うや否や、グリウルの周囲でバチバチと音が鳴り、飛び込んでいったはずのフリウの身体が、反対に弾き飛ばされた。

 フリウは空中でその身を回転させ、雪上を滑るように着地、再びグリウル目掛けて駆け、その剣を横へと薙ぐ。


 しかしやはり、グリウルには届かなかった。

 まるで岩でも叩いたかのように、フリウの腕は跳ね飛ばされてしまう。


『そう言えば、貴様も逃げ出していたのだったな』


 グリウルはフリウへと体を向ける。


「ここで決着を付ける!」

 フリウは己を滾らせるように、剣を前へと突き出した。

『儂に一太刀も浴びせられず、おめおめと逃げ出した割に、良く吼える』

 グリウルが歩み出た。圧されるように、フリウは一歩、二歩と距離を取る。


 確かに、フリウの剣は、グリウルに掠り傷一つ負わせていない。

 けれど、彼は勇敢だった。

 勇者という称号に恥じぬ勇敢さが、フリウには備わっている。

 一歩として動くことが出来なかった平太郎は、赤の勇者が、無謀とも思える果敢さでグリウルに立ち向かう姿を見て、自分との差を感じずにはいられなかった。

 そして同時に、比べること自体がおこがましいと自嘲する。


 勇者と魔王が距離を取ったその最中、木の陰から二人の人物がサーリの側へ颯爽と飛び出して来た。


 三角帽子の魔法使いと、斧を担いだ巨体の戦士。 


 魔法使いがサーリを抱き起こし、戦士がそれを背に立ちはだかる。

「貴女、起きられる? 走れる?」

 魔法使いはサーリの顔を叩いた。

 サーリはハッと我に返ったようで、魔法使いの顔をみるなり、大きく頷いた。

「二人は早く逃げなさい!」

「で、でも、あなた方は……」

「この場所なら、大丈夫。いざとなったら逃げ出せるから」

 魔法使いは小さく片目を瞑った。そして、サーリの体を押す。


 突き放されるようにして、サーリはよろよろと平太郎に向けて走り出した。

 その姿を一瞥した後、魔法使いもまた、杖を掲げグリウルと向き直った。

「もって十秒よ!」

 魔法使いが誰かに向かって声を上げる。

「ヘータロー様!」

 サーリが駆ける。平太郎は、痛む体に鞭打ちながら、岩を支えにどうにか立ち上がると、サーリに手を取られながら目的の場所へと向かう。


『貴様らァァッ!』

 背後でグリウルの咆哮。

 平太郎とサーリは、振り返ることなく岩場を走り抜けた。


 剣戟の音、爆発音、誰かの猛る声。


 もう少し、あと少し、早く、速く!

 体の痛みも分からなくなるほど無我夢中で、岩場を蹴り、跳ね、着地し、そして駆け――、


 ようやく二人は冀求の門の前へと辿り着いた。


「いきます!」

 サーリは杖を両手に持ち、目を閉じる。

 不思議な語感を持つ呪文を唱えると、杖の先端に備わった水晶が淡く光り、やがて巨大な一枚岩に黒い楕円が浮かび上がった。


 彼らはどうなったのか、不安に駆られた平太郎は振り返る。


 すると、先ほど勇者たちが交戦していた場所に魔王の姿は無く、気が付けば、グリウルが猛然とこちらに向けて走り出していた。

 噛むように地面を蹴り、近場の岩を砕きながら、グリウルは物凄い速度で迫っていた。


「サーリッ!!」

 平太郎は叫ぶ。

「いけます!」

 サーリが答えた。


 そうして、二人して冀求の門の中へ駆け込む。


 真っ暗な闇に包まれたかと思うと、突然、目の前に緑色の壁が現れた。

 あまりにも現実的な、間抜けにも思える緑色のフェンス。


 これは――図書館裏のフェンスだ!


 帰って来た!

 帰って来られた!


「ヘータロー様!」

 サーリが平太郎の体にぶつかり、二人は横倒しに倒れこむ。


 グァオオオオオオッ!!


 けたたましい吼え声が響き、グリウルの片腕が図書館の壁から這い出してくる。


 ボゴオオォォォンッ!


 グリウルの掌から放出された炎は、二人の体ではなく、図書館裏のフェンスを吹き飛ばした。人が一人通れるほどの冀求の門の小さな隙間に、子供みたいな小さな腕だけが突き出している。グリウルの力で無理にこじ開けようとしているのか、バチバチと音が鳴り響き、門の周囲に稲妻が発生した。しかしそれでも、門は開くことなく、僅かずつ狭くなっていく。


『貴様ら……よくも儂を虚仮にしてくれたな』


 グリウルは青白い炎を吐き出ながら、低く唸る。


『儂はこの地にて、貴様らが戻ってくるその時を待っていてやろう。百年、二百年でも! 儂の軍勢を従え、いつまでも!』


 怨嗟の念が篭ったグリウルの言葉は、冀求の門が閉じられると同時に、図書館の壁の向こう側へと消えていった。


 そして辺りは、しん、と静まり返る。


 平太郎とサーリは、冀求の門が閉じられた白い壁を、しばらくの間じっと見守っていた。

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