逃物語
それはつかの間の出来事であり、誰もが予想し得なかった状況となったが、しかし、兵士たちは誰しも安堵し、大きく息を吐いた。
戦う約束を交わされた平太郎ただ一人をを除いて。
「ヘータロー様!」
サーリがよろよろと立ち上がり、平太郎の側へと駆け寄る。
「ご無事ですか!?」
「あ、ああ……うん」
サーリに引っ張られるようにして、平太郎はどうにか立ち上がる。
足は今でも震えていて、立つことさえ覚束ない。
「サーリは、だ、大丈夫?」
「私は平気です。ありがとうございます」
「よく、あんなのと話が出来たね……」
平太郎の本心だった。
グリウルという怪物を目の前にして、あんな駆け引きが出来る自信など全く無い。
「王国に生きる人たちを守ることが、私の務めですから。その為ならば、私に出来ることは、どんなことだってやってみせます」
サーリはそう言って、土埃で汚れた顔をそのままに、小さく微笑んだ。
強い。
この人はなんて強いのだろう。
それに比べて――平太郎の中に、自虐の念がふつふつと湧き出す。
「さあ、準備を」
「ちょ、ちょっと、待って。あいつと戦うなんて、無理だよ」
「大丈夫です」
「いや、大丈夫じゃ……」
「ヘータロー様は、馬には乗られますか?」
「え? ああ、いや、乗ったことは無いけど」
「分かりました」
サーリは頷く。
「ヘータロー様は、私と共に冀求の門へ向かって頂きます」
「……へ?」
サーリの突然の申し出に、平太郎は目を丸くする。
そんな平太郎を横目に、サーリは杖を掲げ、言葉を風に乗せた。
「アリアス、聞こえますか。サーリです。正門の内側に、馬を一頭用意してください。なるべく急いで、お願いします」
「……馬に乗って、どうするんだ?」
「話は下で。行きましょう!」
サーリに腕を引かれ、二人は城壁の階段を降り、正門へと向かった。正門の内側には、疲れた顔をした兵士たちが体を休めていた。サーリが側を通るたび、彼らは彼女の名を呼び、そして、平太郎をまじまじと見つめる。
「サーリ様!」
やがて、アリアスが駆け足で正門へとやって来た。
その横には、黒々とした逞しい馬を引き攣れた従者が付き添っている。
「無茶をなさらないでください! 何をお考えですか!」
「お叱りは後で。今は、時間がありません」
「しかし……」
アリアスもまた、平太郎の格好を見つめる。
そして、こんな体格で大丈夫なのか、と言わんばかりに眉を顰めた。
「今から私とヘータロー様とで、グリウルを王国から引き離します。その隙に、アリアスは王城にいる王族や、避難した住民を連れて、西の門から西国パソスへと向かって下さい。グリウルさえいなければ、可能なはずです」
「……一体、どういうことです?」
「グリウルには、ヘータロー様が戦うと言いましたが……いくらヘータロー様でも、十分な装備や対策もなしに戦って頂くわけには参りません。ですから、私とヘータロー様は冀求の門より異界へ向かい、一旦逃げ延びます」
「戦わない……のですか?」
「はい。嘘をついてしまいました」
額から汗を流しながら、サーリは小さく笑って見せた。
「なんと……あの状況で」
アリアスは驚き半分、呆れ半分といった表情をしている。
「グリウルは恐らくこの王国へ引き返してくるでしょう。しかし、住民がいなければ、被害は王城や家などの建造物だけで済みます。人々さえ無事ならば、王国はいつでも、再建出来るのですから」
「王国を、明け渡すと!? そんな馬鹿な……」
「選択の余地は無いはずです!」
サーリが声を荒げる。
その顔には多量の汗が滲んでいて、彼女こそ不安に駆られていることをありありと表していた。
「勇者様が敗れた今、グリウルに対抗する手段は、この国には残されておりません。兵たちの多くも、先の戦いで疲弊しきっています。これ以上、無駄な血を流すべきではありません!」
「…………」
アリアスは厳しい顔をしたままサーリの言葉を聞いている。
「こんな決定権が私などに無いことは重々承知しています。本来ならば父が――ファリグラート国王が采配を振るうべきなのでしょう。でも、父は伏せておりますし、宰相であるムルイも……、ムルイは、どうなりました!?」
突然、思い出したかのようにサーリは安否を尋ねる。
アリアスは小さく頷き、
「高所から落下したと聞きました。今は気を失われておいでですが、幸い、命に別状は無いようです」
「そうですか、良かった……」
サーリは胸に手を当て、ホッと息を一つ吐く。
「とにかく、状況が状況です。王城を明け渡すという罪は、後ほど私が背負います。ですから」
「私は、王国の重臣どもの尻を叩け、と言うことですか」
アリアスが小さく笑い、そして、居住まいを正すかのように堰をする。
「それと、城門前で陣を張っている兵たちと共に、民を守るための殿を」
「これはまた、随分と無茶なことを……」
「無茶は承知です。しかしアリアスならば、国民と兵士、その一人をも失わずに成し遂げられると、私は信じています」
サーリの眼差しを受け、アリアスは「う、む」と口ごもる。
しばしの後、意を決したかのように大きく頷いた。
「任されましょう。ただし、サーリ様にも護衛の者をお付けすることが条件です」
その提案に、しかしサーリは首を振った。
「今は、避難する側にこそ兵を割くべきです。私ならば大丈夫。伝説の英雄であるヘータロー様がいらっしゃいますから」
そう言って、サーリは平太郎の顔を見て、にっこりと微笑んだ。
アリアスはそれこそ不服なようだったが、しかし、一刻の猶予も無いことは明らかだった。住民が全て王城にいるかどうかは不明、王城にいる王族や重臣たちがサーリの提案に従うかどうかも不明、更に、それらを護衛し、逃げ延びねばならない。モンスターの追っ手が掛かる可能性はかなり大きく、それに対し、兵の数はあまりにも少ない。
アリアスは両手を合わせながら、思案顔になった。
その隙を突くかのように、サーリは平太郎の手を取り、馬の元へと向かう。
「サーリ様!」
ハッと我に返り、アリアスがサーリの名を呼ぶ。
「アリアス! 任せました! どうかご無事で!」
サーリはそう言いながら杖を背負うと、手綱を握り、鐙に足を掛け、一気に騎乗した。平太郎はそれに習おうとするが、初めての経験なのでなかなかうまくいかない。それでも従者に手伝ってもらいながら、どうにかこうにか、サーリの後ろ、馬の背に跨ることに成功する。
ズタ袋を背負いなおし、尻を小刻みに揺らし、体勢を整える。
「行きます!」
サーリが両足をキュッと締めると、馬は一ついななき、走り出した。
「ご無事で!」
後方でアリアスが声を上げる。
片腕を胸に当て、姿勢を正すアリアスの姿を見て、平太郎は再び感動を覚えた。
同時に、魔王と戦わなくて済むかも知れないと安堵した自分に嫌気がさす。
そして、馬が奔る。
馬上で平太郎とサーリが揺れ、石畳の町並みに馬の蹄の音が響き渡る。
町中には住民の姿が無く、閑散としていた。殆どの住民は王城へと避難しているのだろう。途中、倒れて動かなくなったワイバーンが横たわっていて、平太郎はそれをまじまじと見つめ、サーリは顔を背けていた。
「どうやって、グリウルを引き離すの?」
サーリの肩に手を置き、揺れる体をどうにか制御しながら、平太郎が尋ねた。
「ヘータロー様と私が北の山へ向かったことを、グリウルに聞かせれば、恐らくは追ってくるのではと思うのですが」
「サーリの魔法で?」
「はい。私にはそれしか出来ませんから」
サーリは前方を見据えたまま、手綱を強く引く。
「モンスターの中に、オーガの姿を確認しました。オーガの中には、人語を解する者がいます。彼らに伝令役になってもらいましょう」
「それで、グリウルが来るかな? もし腹いせに直接王国へ向かったら?」
「……こ、来ないですかね?」
サーリが振り返る。その顔は不安で一杯になっていて、平太郎は思わず「あ、いや、どうかな」と口篭る。
「俺とサーリの他に、勇者も一緒だ、ということにしよう。わざわざ勇者を追ってくるほどだから、流石に三人が逃げたとなれば、こっちに向かってくるかも。魔王も、まだまだ子供っぽい部分がありそうだし」
「名案です! さすがヘータロー様!」
サーリの顔が一瞬で明るくなった。
しかし、必要以上に表情を作っているのではないかと感じた平太郎は、サーリの肩を強く握った。
「ついでに悪口も言ってやればいいよ」
「悪口ですか?」
「チビとか短足とか、息が臭そうとか、子供のくせに変な言葉遣いだ、とか」
「それは、酷いですね」クスクスと肩を揺らしてサーリが笑う。
城の西側へ辿り着くと、守衛の兵士に門を開けてもらい、平太郎とサーリはそこから王国の外へと出る。
「ここから、少し大回りして、目立つように木々の少ない部分を通りつつ、冀求の門へ向かいます」
彼女は道程を指で指し示す。
なだらかな雪山の斜面に、細い街道が続いている。
サーリの言う通り、街道の脇は樹木が殆ど無く、サーリも平太郎も白い服を着ているとは言え、上空から見たならばかなり目立つだろう。
「それでは、これからグリウルに向けて発信します。ヘータロー様もご協力お願いします」
サーリは背中の杖を器用に抜き取ると、両手で握るように掲げ、目を閉じた。
「う、うん」平太郎は唾を飲み込む。
戦わなくて済んだとは言え、これからあの魔王に追われるのかと思うと、やはり気が気ではない。
彼女の持つ杖の先端が青く光り始める。
馬がぶるぶると顔を揺らし、小さくいなないた。
「全軍に通達します。これから、私は伝説の英雄であるヘータロー様と一緒に、西の門を出て、北西へと逃げます」
サーリが杖に向けて語り掛ける。
「グリウルと、なんて、戦ってられるか、っていうの」
平太郎はまるで棒読みだった。
「勇者様も一緒です。一緒に逃げます」
「ところで、この声、モンスター共に、聞かれてるんじゃないの? あっ、あいつら馬鹿そうだから、言葉が分かるわけ、ないかー」
「では、逃げます。西から逃げます。行きましょう」
「逃げろー」
平太郎は首を伸ばし、杖に向かって声を投げかける。
やがて、サーリが息を吐き出すと、青い光はフッと消える。
「全速力で参りますので、ヘータロー様、私の体にしっかりと捕まっていて下さい」
サーリは杖を背中の皮袋に入れると、手綱を握り締めながら言った。
「あ、はい」
平太郎は気後れしつつ、サーリの腰へと手を回す。厚手のローブの上からでも分かるほど、サーリの腰は細く、そして柔らかかった。
「では、行きます!」
サーリは上体を起こし、軽く手綱を引いた。
馬はゆっくりと、そして次第にスピードを増し、リズム良く蹄の音を鳴らしながら、街道を駆け始める。
サーリは言葉無く馬を走らせ、平太郎もまた、ずっと無言だった。
これからどうなるのか、本当にうまく行くのか、頭の中に幾つもの疑問が浮かぶけれど、答えなんて出るわけも無い。
山頂を左手に見据えながら、ぐるりと回りこむように山を登っていく。
平太郎の想像以上に馬のスピードは速く、そしてかなり揺れた。馬の背が上下する振動が、少しずつ痛みに変わっていく。思わず顔を顰めるが、この状況では、ひたすら堪え続けるしかなかった。
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