被験者

 質素な空間だった。


 室内の広さは、高校の教室と同じくらいだろうか。天井も壁も床も青藤色一色に染まっている。部屋の中央に鉄製の椅子と机、部屋の隅に一台のベッドが置かれている。ベッドの壁側には大きなモニターが掛けられているが、その画面には何も写ってはいなかった。部屋の片隅に小さな本棚があり、様々な大きさの本が無造作に積まれている。入り口から見て右奥側に一つ扉があるが、そこが何の部屋なのか、開けてみないことには分からない。


 中央の椅子に、その少女は座っていた。


 パラパラと文庫本を捲っていて、こちらには一切視線を送ってこない。

 頬の辺りで切り揃えられた黒い髪の毛は、蛍光灯の光に照らされてつやつやと輝いて見える。本を読むために伏せられた眼が、時折瞬き、長い睫が揺れる。内容が面白くないのか、それともいつもそうなのか、口元は堅く閉ざされていた。彼女が着ている青色のセーラー服は、この上に建っている高校の制服とは、全く違うものだ。


 山乃葉マリ。

 学校に通っていれば、俺と同じく高校三年生になったばかりだ。


 彼女はゲストであり、この機関の最重要研究対象である。二年前、まだこの場所に施設も上の高校も建てられていない頃……こことは別の場所で、俺とほぼ同期だったコウスケが彼女の担当になり、研究は順調に進んでいるかに見えた。


 しかし、それから半年も経たない間に――、


 不意に、彼女の顔がフッと上がる。黒い瞳が大きく開かれ、そして、


「誰」


 彼女はとても冷淡な声でそう言った。

 それは、例えば深影美薗とは比べ物にならないほど暗く、澱んでいる。


「ああ、俺は……」


 コウスケの知り合いで、と言おうとしたが、やめた。「だから何?」と、彼女のようなタイプならばそう返すだろうと思ったからだ。そしてそれは、その後の場の空気を悪くする結果に繋がってしまう。


 分析結果によれば、以前の彼女はA-8-Ⅷと判断されていた。


 陽気で、外向性が高く、活力に溢れた女性だったのだろう。

 それが今では、C-1-Ⅰと変更されている。

 陰気で、極度に排他的で、生気がまるで無い。人間はこうも変わるものだろうか。

 勿論、その日の気分だったり、人前にいる時とそうでない時とで、差はあるものだ。それは俺も理解している。

 しかし、それでもここまで大胆は変化をするものだろうか、と、レポートを見た瞬間、驚愕してしまったのも事実だった。


「コウスケの、知り合いでしょ」


 彼女は、真っ黒の瞳で俺を見て、小さく言う。

 あまりに人と話すことが無いからなのか、その声は細く、今にも消えてしまいそうだ。


「……え? どうして」


 彼女とは初対面のはずだ。勿論、この機関に属しているのだから、知り合いであったことは予測出来るとはいえ、彼女の口から彼の名が出たことに驚いてしまう。


「別に。つまらない顔をしているからよ」そう言って、彼女は本に目を落とす。

「つまらない顔……か」


 自分の頬や鼻に触れてみる。

 面白い顔と言われるのもどうかとは思うが、つまらないと面と向かって言われると、多少は気にしてしまう。


「……何を読んでるんだ?」


 俺は、彼女が手にしている文庫本を指差した。

 彼女はそれを畳むと、タイトルを伏せるようにして、机の上に放り投げる。


 その時、彼女の腕で、ジャラ、と重たい金属音が鳴った。

 見れば、彼女の両腕、そして両足とも、太い鎖で繋がれていた。本を読んだり、歩くのに不自由はしない程度の長さではあったけれど、その金属が放つ鈍い光に、俺は息を飲んだ。


 それから、しばしの沈黙。


 この部屋は一切の物音がせず、服の布ズレの音までが響き、不安感を煽り立てる。

 こんな部屋に一年半も閉じ込められていたら、人なんてすぐに変わってしまうのではないか……そんな思いすらこみ上げてくる。


「あいつ」と彼女は呟いた。


「……あいつ、本当は生きているんじゃないの? どこかでまた、下らない顔をして笑ってるんじゃないの?」


 彼女は、机の上の文庫本の背表紙を見つめている。

 その口調は平坦で、言葉の内容とは反対に、何かを知ろうとする欲求のようなものすら見えず、彼女の内側にどういった感情が渦巻いているのか、全く掴めない。


「……死んだよ、一年半前に。俺が直接見たから、間違いない」

 酷なこととは知りつつも、俺は答えた。


 担架の上で、まるで眠っているようだったコウスケの顔が、ありありと思い出される。彼女が能力を発揮した瞬間、コウスケはあまりにも彼女の近くに居たために、その被害を体全身で蒙ることになった。

 それは、恐ろしいほど高い密度の、電磁波のようなものだったらしい。

 俺には良く分からなかったが、それによって、コウスケの心臓だったり、重要な器官がボロボロになってしまったということだけは、何となく理解出来た。


「そう」と彼女は、やはり平板に呟き、それから、


「いつか、あんたも殺してやるわ」

 山乃葉マリはその黒い瞳で俺を見ると、そう言った。


 本心だ、と思った。

 彼女は本気で、俺が死ねばいいと思っている。


 今までキャストとして生きてきて、ありとあらゆる暴言を吐かれたものだけれど、ここまで直接的に、負の感情をぶつけられたことは無かった。

 人間が他者と接し、己の感情を伝えようとする際、望む、望まざるに関わらず、ある種のフィルターが掛かってしまい、伝えようとする内容の意味を薄めてしまうものだが、彼女の場合はそうではなかった。

 一年半という長い月日がそうさせたのか、それとも、コウスケの死を知った瞬間そうなったのかは分からないが、そんなフィルターなど、とうに無くなってしまっているようだ。


「あんただけじゃない。この施設にいる奴ら、皆、殺してやる」


 彼女はそう言い捨てると、再び文庫本を手に取り、ページを捲り始める。


 俺はそれ以上、何を口にすることも出来なかった。

 彼女に見せ付けられた負の感情に、あっという間に体中を支配され、脳と体とが切り離されたような感覚だった。


 俺は無言で立ち上がり、扉の外へと出る。

 背後で扉が閉まった瞬間、大きく息を吐いた。

 心臓の鼓動が、随分速くなっていることに、そこでようやく気が付く。


「素晴らしい」


 モニタールームに入るなり、布永室長が感嘆の声を上げる。


「あれだけ会話が出来るとは、想像以上だったよ」

「殺す、と言われただけですが」

 俺は苦笑いを浮かべ、答える。

「それも立派な感情だ。儂には勿論、この三上にだって、感情の類を見せたことは無い。例のアレが起こった当初は、そうとう取り乱してはいたものだがな。ここ最近は、それこそ機械のようだったのだよ。与えられた飯を食い、本を読み、映画を観て、風呂に入る。行動こそ人間そのものだが、そこに喜びや悲しみは一切無い。そういう人間だったんだ」

「……はあ」

「それが、ただ一度会っただけでこの進歩だ! いや、流石は一度に三件の任務をこなせる男と言ったところか。あるいは、君とコウスケ君が似ていることも、一つの原因なのかも知れないが……」


 そこで、所長の篠川が一つ咳払いをする。


「いや、失敬。しかし、本気で君を研究したいと思ってしまうな」

「やめてくれ。彼は貴重な人材なのだ」

 篠川が制し、布永はつまらなそうに口をすぼめた。

「今日は私と室長が立ち会ったが、今後は君の自由にして貰って構わない。面会する時間も、君の自由だ。会話と映像はすべて記録させて貰うが……それで良いかな、室長」

 篠川の問いに、室長は大きく頷く。

「勿論、構わんよ。毎日でもデータを取って欲しいくらいだ。あの扉の鍵は、この三上が持っている。こいつはここに常駐しているから、いつでも言ってくれ」

 室長が言うと、三上は無言で小さく頭を下げた。この女性も、何を考えているのかが見え辛いタイプである。しかし、そうでなければ、あの状態の山乃葉マリの身辺の世話など出来ないのかも知れない。


「さて、面白くなってきたぞ。あの糞連中、遊んでいられるのも今のうちだ」

 布永はねっとりとした笑みを浮かべ、椅子に座ると、夢中でキーボードを叩き始めた。


「では、我々はここで失礼しよう」

 篠川に促され、俺と彼女はモニタールームを離れる。

 ふと、山乃葉マリが閉じ込められている扉を振り返ってみたが、大きな鉄の錠前があるだけで、何が漏れ出しているということもない。


 ただ、俺の頭の中だけが、もやもやと霧が掛かったような状態になっている。

 一体これは何なのか、自分でも何一つ分からぬまま、エレベーターに乗り込んだ。

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