8
そこにいたのは、間違いなく泉谷智己だった。背後からかけられた声に振り向いた幸太郎と津嘉山はそれを認識し、遅れて警官ふたりもそれに気が付き、幸太郎たちの近くまで寄ってくる。
「泉谷、お前今までどうして……」
津嘉山の問いに智己は軽く礼を返すだけで、その目は幸太郎に向いている。
「なんであなたが来るのかな。関係ないよね?」
明確な敵意が感じられる口調に、動揺したのは津嘉山だった。こんな智己の話し方を、彼は知らなかった。
一方敵意を向けられた幸太郎自身は、それに動じずに応える。
「確かに関係ないが、この場所を案内するには俺が適してたからな」
幸太郎も温度の低い声色で智己に尋ねる。
「で、どうする泉谷。大人しく帰るか?」
「本気でそんなこと思ってるの?」
「そうしてもらえると手間が省ける」
「ふうん……」
ふたりの間に漂う不穏な雰囲気に、津嘉山が割り込んだ。
「おいおい、どうしたんだお前ら。そんなギスギスしたって仕方ないだろ。佐立も、泉谷も。泉谷、親御さんも心配してるぞ。俺たちと一緒にとりあえず家に戻ろう、な?」
「もう覚えてませんよ」
「え?」
津嘉山も警官ふたりも、智己が何を言っているのか理解できなかった。けれど。
「これだけでわかっちゃうんだ。やっぱり、そういうところがムカつくなあ……」
智己は昏く笑いながら、幸太郎を見た。彼の表情は、何かを察したように歪んでいた。
「で、どうするの? ちなみに私のおすすめはあなたたち全員何もせずに帰ること。手間が省けるから」
「……泉谷」
幸太郎が唸るような低い声で呼びかける。
「右腕を元に戻す方法を教える気はあるか?」
その言葉を智己は鼻で笑って。
「言うわけないじゃん、バーカ」
「そうか」
次の瞬間には、幸太郎は智己の顔面を殴りつけていた。
「うおっ!」
全く予備動作のなかった幸太郎の動きに津嘉山は驚愕の声を上げたが、それよりも異常な結果が生じていた。
幸太郎と智己の身長差は二十センチ近い。その幸太郎の、明らかに体重が乗った殴打を受けてなお。
「そういうの、昨日やればよかったのにね」
智己は微動だにしていなかった。
幸太郎は拳を引いて距離を取るが、その右拳は固いものを思い切り殴りつけたように赤くなっている。智己はそれをせせら笑う。
「そんなに真維のことが心配だった? 真維の前で私を殴って嫌われたくなかった?」
智己はゆっくりと右腕をこちらに向けて上げていく。その手のひらの、真っ赤な花弁を幸太郎に向けて。
「臆病者」
ぞわり、と。
視界内の桜の樹から、真っ白な人間の手が生えてきた。
ひとつの桜の樹につき数十本ずつ、淡く白く光る腕が人間の腕が生えている。手のひらに赤い花びらの印がついたそれは、あたかも桜の樹に人間のパーツが無理矢理埋め込まれたような不自然さで、うようよと重力を感じさせない気味の悪い動きで宙をかく。
「――ひ」
声を上げたのは誰だったか。これまでの風景とはまるで様子が異なる。何かを求めるようにうねる腕は、これまでの超現実とは比べ物にならないほど生々しく、それはまるで――。
呪いの、かたまりのように見えた。
「撃て!」
叫んだのは幸太郎で、しかし警官はすぐにはそれに反応できない。
「しかし――」
「いいから撃って!」
警官ふたりは腰の拳銃に手をかける。けれどそれを抜くことはできなかった。理解できなかったのだ。今自分たちがどういう場面に立たされているのか。銃を抜くべき場面なのか。仮に抜いたところで、それが通用する状況なのか。
逡巡には、時間の空費が伴う。
ずるり、と。産み落とされるように桜の樹から人間が這い出てきた。
何人も。
何人も。
何人も。
視界内の桜の樹だけではない。どんどん増えている。集まっている。あっという間に百人以上が彼ら四人を取り囲む。
年齢も性別もバラバラの人間たちが。ただひとつの共通点を持った人間たちが。
手のひらの真っ赤な花弁をこちらに向けながら、迫ってくる。
「う、うおぁああっ!?」
もはやここに至っては理解不能は恐慌に変わる。津嘉山の叫びを合図に、四人は先ほど入ってきた鳥居を抜けて逃走を図るが――。
「うぐぁっ!?」
通り抜けられない。激突だ。
透明な壁に阻まれているかのように、見えている鳥居の向こうに、彼らは足を踏み出せない。
夢中で彼らはその見えない壁を叩き、それでも何ら変化がないと見るや、年若い方の警官はとうとう銃を抜いた。
銃声が一発、二発。それでも壁は破れない。その間にも、緩慢ながらどんどん花弁の人間たちが迫ってくる。年長の警官もそれに倣い拳銃を抜こうとして――。
それを幸太郎が奪い取った。
彼が銃を向けたのは、鳥居下の透明ではなく。
「――!」
人垣の向こうに佇む智己を、はっきりと狙った。
銃声が五発、立て続けに響いた。
幸太郎と智己を結ぶ直線上、人垣の何人かが倒れ、そして。
泉谷智己も、銃弾が命中したのかその場に倒れ伏し――。
「今!」
と幸太郎が叫んで、鳥居の前に立ち尽くす年長の警官を背中から蹴飛ばした。しかし彼は、見えない壁に阻まれることなく、その鳥居をくぐることができ――。
それを見た津嘉山ともうひとりの警官も慌てて鳥居の外に出る。幸太郎も背後を警戒しながら続いて脱出する。
「おいおいおいどうなってんだどうなってるってんだよ!」
「佐立、なんなんだあれは! 泉谷は!?」
「とにかく離れて!」
混乱する三人に幸太郎は叫び返す。
そして、昨夜の焼き直しのように彼らは神社から逃げ出した。
*
「真維、結局なんなんだ。昨日何があったんだ!?」
「説明してもわかんないわよ! いいから早く駅まで行って、南口!」
事情が呑み込めずに質問する父に構わず、とにかく真維は急いでくれ、と頼み込む。
徒歩三十分かかるとは言っても車ならあっという間だ。けれど、学校を通り過ぎたあたりから交通量が増え始める。
駅付近に近付いても、同じ信号待ちで進まず三回青から赤への切り替わりを見た真維は痺れを切らし、歩道側後部座席のドアを開けて飛び出した。
「走っていく!」
「な、おい、ちょっと待て!」
「真維!」
「わ、私が追いかけますから!」
思わぬ真維の行動に声を上げる運転席と助手席に座る父と母。後部座席に乗っていた悠里が慌てて真維に続いて降りる。
普段だったら本気で走る真維に悠里が追い付くことはできないが、今の片腕が動かない真維であれば、その限りではない。並走しながら悠里は尋ねる。
「せ、先輩。どうするんですか」
「どうするって!?」
「佐立先輩探しに来て、それで、えっと、神社の中に入ってたらどうするんですか!?」
「そのときはあたしも入るわ!」
真維の迷いない返答に悠里は焦る。
「む、無茶ですよ! だって、先輩それで昨日、」
「怖いなら悠里は外で待ってて!」
ああ、と悠里は心の中で嘆いた。
そもそも幸太郎が神社の中に向かったのかどうかすら悠里にはわからない。真維の勢いにつられてここまで来たが、本当に自分に告げた通りに幸太郎は食べ物を買いに行っただけという可能性だって残っているのだ。昨日あんなに必死で逃げ出したところに、次の日起きてすぐに向かうなんて、普通の人間だったらまず考えない。
それなのに真維は幸太郎が神社に向かったということを全く疑っていない。昨日あんな目に遭った場所に、いるのかどうかわからないはずの人間を迎えに走っているのだ。
神社の中に誰がいるのか、いないのか、なんてことは神社の外からではわからないし、それどころか中に入ってみてもすぐにはわからない。つまり、真維の勢いに押されるままに走っていくと、幸太郎がいない神社に自分から意味もなく飛び込んでいくことになるのだ。一度入ってしまえば出られるかどうかもわからない、意味不明の空間に。何の策もなく。
せめて昨日のうちに、佐立先輩にあそこからどうやって出たのかだけでも聞いておくんだった――。
そんな後悔をして、また目尻に浮かび始める涙を自覚する悠里。踏切もタイミング悪く開いたままで猶予もなく、ここで無理にでも真維を止めるべきか迷っていた悠里の思考を遮ったのは、隣を走る真維の声と――。
「あっ!」
「――! なんでここに来た!!」
今現在、一番求めていた人物の姿だった。
「佐立先輩! それから――」
悠里はその姿を見て安堵した。津嘉山先生に警察官がふたり、踏切の向こうから走ってくる。たったひとりで神社に向かっていたわけではなかったのだ。大人の介入は悠里の心を一気に軽くさせた。
けれど――、
「三橋に上沢……? お前らも来たのか! どうなってんだ、泉谷はどうなったんだ!?」
「智己先輩……?」
踏切の前で合流した彼らにできたのは、困惑の共有だけだった。津嘉山の声音を聞いて、悠里も気が付く。三人の大人も、昨日の自分と同じだ、と。理解不能な事態に直面したときの、いや、それよりも。
「い、行ったんですか、あの中に!」
頷く津嘉山から感じられたのは、もっと強い。恐怖、怯え。そしてそれは悠里にも伝播した。もしかして、もうどうしようもないことになっているんじゃないか。そんな認識が芽生え始めて、心臓が締め付けられるような感覚が悠里を襲った。
「さ、佐立せんぱ――」
「話は後だ! とにかく遠くに!」
一も二もなく、悠里は頷く。何が起こったのかさっぱり事情はわからなかったが、とにかく切羽詰った様子の幸太郎の言葉に従うことを選んだ。津嘉山も、警官ふたりも。情報はあまりに少なく、誰かに判断を委ねたがっていた。
真維以外は。
「ちょっと――」
「話は後だって言っただろ! 上沢、どうやってここまで来た!?」
「え、あ――、車! 車です!」
「そこまで戻るぞ! どこで待ってる!?」
「途中で降りちゃって……」
悠里の言葉に、一瞬だけ幸太郎は顔を歪めて考え込み、すぐに答えを出す。
「……北口の方に回る! 真維、電話して車回してもらえ! 先生たちはそっちでタクシー拾うなりしてください!」
「ど、どこまで逃げればいいんだ!?」
「とにかく遠くに! 安全圏はわかりません!」
真維は複雑そうな顔をしながらも即座に電話をかけ、一方幸太郎の言葉を受けた大人たちは不安げに表情を曇らせる。
「冗談だろ……」
「しかし、それでもとにかく逃げるしか――」
「幸太郎、南口にいるって!」
真維の言葉に、再び幸太郎は一瞬だけ考え込み――
「仕方ない、俺たちは少し戻って南口に向かう! 先生たちはそのまま北口に!」
「だ、大丈夫なのか!?」
「何とかするしかありません! 走って!」
その言葉とともに、幸太郎がいち早く踏切を越えて十字路の方に走り出す。大人たちはそれを見て、仕方ない、と逆方向に走り去っていく。そのとき急に遮断機の警報が鳴り始め、悠里も真維も慌てて幸太郎に続いて走り出した。
コンビニ、飲食店を抜けて十字路を左に。また複数の飲食店が並ぶ通りを、三人は走る。駅に向かう歩行者たちに、危なっかしいと言いたげな視線を向けられたが、それどころではなかった。
「せ、先輩! 何から逃げてるんですか!?」
比較的体力に余裕のある悠里が叫ぶ。何かから追い立てられるような雰囲気だけは最初の接触で感じ取ったが、肝心の追跡者の姿は全く見えない。一体幸太郎らが何と出会って、何から逃げているのか全くわからなかった。
その問いを投げられた幸太郎は、何かを言おうとして、しかし上手く言葉を選ぶことができなかったのかそのまま飲み込んでしまう。
それを悠里は不安に感じながらも、けれどこの場ではとにかく幸太郎についていくしかない。
通りを抜けると駅前のロータリーについた。北側と比べればかなり小さいながらも、ちょうど通勤・通学の時間帯ということもあってか交通量は多く、一見しただけでは目当ての車を見つけ出せない。
「どれだ!?」
けれど、幸太郎が尋ねれば真維はすぐにあたりをつけて駅横の歩道橋下の停車スペースを指さす。
「あそこ!」
と、その言葉にすぐに幸太郎は動き出し、悠里と真維も続く。
タイミング悪く、歩道橋の上から多くの人間が降りてきた。幸太郎たちが走っている間に、さきほどの踏切を通った電車がホームに到着して、そこから降りた乗客たちと鉢合わせになってしまったのだ。
その人混みをすり抜けながら進んで、どうにか車まで辿り着く。
幸太郎が一番先に車まで近寄り、けれど真維と悠里に先を促す。真維からドアを開けて乗り込んで、次に悠里。それから最後に幸太郎が乗り込む。あまりに勢いづいて車に乗り込んできた三人に、運転席と助手席のふたりは驚き振り向く。
「なんだ、どうした! 何があったんだ!」
「いいから、車出して! それでいいのよね!?」
真維が悠里を挟んで幸太郎に問いかけると、幸太郎は無言で頷く。真維の父も、とにかく緊急であるということだけは三人から伝わってきたので、不服そうながらも車のエンジンをかけて――。
後部座席の窓ガラスが突然、激しい音を立てて割れた。
幸太郎が座る側、三人が乗り込んで来た側の窓ガラスが突然割れ、前方に座るふたりも何事かと咄嗟に振り向く。
真維と悠里もすぐに割れた窓ガラスに注目して、そして見てしまった。
手に持った工具ハンマーを車内に向けて振り下ろす人間の姿を。
「――ひ」
「お父さん! 早く車出して!」
「一体何が――」
真維が咄嗟に叫ぶが、父の反応は遅れ、車の発進は間に合わない。工具ハンマーは力いっぱい振り下ろされ――。
幸太郎が、窓の外に身体を乗り出してその打撃を腕に受けた。そのままその男の肩を両手で突き飛ばして叫ぶ。
「早く出してください!」
二度目の言葉に父もようやく車を出す。窓から身体を出していた幸太郎も、崩れ落ちるように車内に身体を戻してきて、慌てて悠里がその背中に手を添えて支える。
「ちょっと、幸太郎大丈夫!?」
と、真維の声を背中越しに聞きながら、悠里は幸太郎のやけに重い身体を、しっかりと座席に座るよう補助しようとして――。
そして、見てしまった。
幸太郎の腹部に、柄までぐっさりと刺さった工具ドライバーを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます