9

「……なんで、あたしに言わないでひとりで行ったわけ?」

「……」

「……黙ってちゃ、なんもわかんないんだけど」

「……」


 市立病院の一室。

 少し古びた印象の白い病室に幸太郎と真維はいた。


 幸太郎は真維から目をそらして窓の外を見つめていて、真維は真維で幸太郎を見ず、自分の爪先あたりに視線を投げながら問いかけている。


 壁にかけられた無機質な時計は十二時を過ぎた頃に音もなく秒針を回していて、窓から射し込む太陽の光はどこか冷たく、病室の白を潔癖な色に変えている。


「……ねえ」


 語り掛ける真維の声もまた、光に温度を吸われてむなしく響く。


「どこにもいかないでよ」


 幸太郎は、何も答えない。

 それでも真維は、秒針が五周するまでじっと幸太郎の言葉を待っていて。


「……検査、行ってくるから。大人しくしてなさいよ」


 結局、そう言い残して、病室の扉を開ける。すると目の前に急に飲み物を三本抱えた悠里が現れて、びくっ、と驚く。悠里も同じ反応だった。


「あ、その、入るタイミングがわからなくて」


 あせあせ、と話す悠里に真維は優しく笑って、


「……ありがと。悠里、できればそいつが逃げないように見張っててくれる?」


 と言って首を傾けて、病室の中を指す。悠里は頷いて、


「はい。あの、飲み物買ってきたんですけど」

「検査終わったらこっちに戻ってくるから、そのとき貰うわ。お金もそのとき払うから、それでいい?」


 はい、と答えた悠里の頭を真維は軽く撫でて、病室の廊下を歩いて去っていく。その背中を見届けて、おそるおそるといった風に悠里は病室の中に入って行った。


 幸太郎は何も変わらない。ただ窓の外をじっと見つめていて、悠里に目を向けもしない。悠里はそれに居心地の悪さを感じて、拙いながらも話題を振る。


「あの、飲み物買ってきたので、よかったらどうぞ……」


 そう言うと、ようやく幸太郎は反応を示す。悠里が三本のペットボトルを抱えているのを見て、


「ありがとう。今はいいからそこの棚の上に置いてくれ。金は……」

「財布、棚の上に置いてありますよ」

「ああ……。じゃあそこから適当に抜いてくれ」


 言われて、悠里は棚の上に飲み物を置いて、棚の上の財布を取る。人の財布を手にすることに引け目を感じながらそれを開くと、中に一万円札が二枚入っているのが見えて驚き、けれど人の財布の中身を物色しているように感じて居心地が悪くなり、すぐに百三十円を引き抜いて棚の上に戻した。


「……」

「……」


 しかしそれきりで、また部屋には沈黙が満ちてしまう。悠里は真維はどのくらいで帰ってくるのだろう、早く帰って来てほしいけれど、目の前でふたりが口論し始めたらそれこそ気まずい、等と考えながら、会話の糸口を探す。


 思いついたのは、安直な始点だった。


「怪我、見た目より軽かったみたいでよかったですね」

「……ああ」

「そ、卒業式には出られそうなんじゃないですか?」

「……かもな」


 返事はそっけない。ほとんど壁に話しかけているのと変わらないような相槌だった。


「ええっと、あの……」


 とにかく沈黙を埋めたい一心で口から調子を取るような言葉が出て、けれど一体何を話せばいいのか、悠里にはわからなかった。


 聞きたいことはたくさんある。

 一体神社で何があったのか。どうしてひとりで……、これは正直なところ悠里には大体見当がついていたが。いきなり窓を割って幸太郎を刺したのは誰だったのか。何故だったのか。あのふたりの襲撃者が真維の父母には見えていなかった理由。智己が自分たち以外から忘れられている理由。


 幸太郎はすべてを知っているのだと、悠里には何となくそう思えた。すべてを知っていて、それで黙っているのだと。だからこそ、一体自分は何を聞いたら、何を聞くことが許されているのか、余計にわからなくなって。


「あの……」


 口をついた言葉は。


「『永遠』って、何、ですか」


 果たして意味があったのか。


 答えはすぐには返って来ず、ひどく静かな表情で、幸太郎は空を見つめていた。

 窓の外は晴天だった。隠された春をどこかに感じさせるような澄み渡る青。遠くに小学校が見える。今は給食の時間だろうか。幸太郎の目線を追った悠里は、なんだか自分がひどく遠いところにいるように感じた。


「言葉で表すのは、」


 どこか寂しげな声が、響いた。


「……ひどく難しい。上沢が受け取る『永遠』と俺が受け取る『永遠』は違う。泉谷も、真維も。その言葉を聞いたときお前にも何らかの直感的理解があったはずだ。それはお前にとっての真実であるし、一方それが他者と共有されない感覚である以上、決して真実ではない。『永遠』について考えるとき、語るとき、それは決して共有されていない。それはあるいは『永遠』についてだけでなくすべての物事に関して言えることで――、いや、違うな。これは俺の理解についての話になってる」


 幸太郎は言葉を切って、ゆっくりと悠里の方に向き直り、尋ねる。


「上沢、お前はこれからどうする?」

「え――?」


 唐突に質問者と回答者の立場が入れ替わり、悠里は戸惑う。


 これからどうする――? 考えないわけではなかった。けれど、悠里には何をすればいいのかわからなかった。

 最初の引き金は自分だと思った。だから罪悪感に動かされて、頼れる先輩と一緒に、消えた智己を探しに行った。けれど再会した智己の行動は悠里には理解できなかったし、それからの状況の進みはもっと。

 どうする、と問われても、どうしたらいいのかなんて、全く分からなかった。


「俺から提案できるのはふたつ」


 悩む悠里を見つめて、幸太郎が言う。


「ひとつ目、家に帰って飯食って寝て、明日も学校に行く。安心しろ、悪いようにはならない。ふたつ目、俺と一緒に来る。悪いようには……、まあなるかもな」

「……あの、それ、どういう」

「大したことじゃない。……本当に、大したことじゃない。どちらを選んでもいいし、どちらも選ばなくてもいい」


 幸太郎は穏やかに、何の強制も含まない口調で言う。悠里はその言葉にまた考え込むけれど、それでもすぐには答えを出せなくて、またじっと爪先を見つめた。


「……」

「……まあ、何でもいい。俺は少し寝る」


 そう言って幸太郎は、すっと目を瞑ってベッドに体重を預ける。まさか瞼を閉じてすぐに寝たわけではないだろうが、悠里にはもう眠ったようにしか見えなかった。

 窓から射す光は明るく、街から聞こえてくる声も、廊下、別の病室から聞こえてくる声も、何もかも遠く、自分から切り離されているように悠里には思えた。



 考えていた。


 けれど、決めることはできなかった。



*



「あたし、智己と話すわ」


 二時間後、検査から戻ってきた真維は開口一番そう言った。悠里は面食らって、一方幸太郎は平静だった。


「友達だから、ちゃんと会って、ちゃんと話したい」

「先輩、でも……」


 危ないんじゃ、と言い切ることは悠里にはできなかった。それを察した真維は、悠里に微笑んで言う。


「大丈夫、あたしが何とかするから。心配しないで」


 悠里の不安は消えなかったが、何を言えるわけでもなく、真維は悠里から幸太郎へと視線を移してしまう。


「幸太郎」

「……」

「……ごめん、頭冷やした。あんたに頼りすぎてたんだと思う。巻き込んでごめん」


 真維は悲し気に目を伏せ、けれど幸太郎は何も言わない。


「智己のことだから、友達のあたしがなんとかする。ちゃんと解決するからさ、あんたは心配しないで寝てて」

「……」

「……ごめん」


 それだけ言い残して、真維は踵を返す。病室から出ようとする真維に、慌てて悠里は声をかけようとするが、適切な言葉が思い浮かばず、しかし、


「……神社に行く必要はない」


 と、ようやく幸太郎が口を開いた。真維は歩みを止める。


「自分の家で夜まで待て。あっちからお前のところに来る」

「……うん。ありがと」


 振り向かないまま真維は立ち去る。

 再びふたりになってしまった病室で悠里は困惑して幸太郎に尋ねる。


「い、いいんですか? 危ないんじゃ……」

「もう、どうしようもない」


 胸に針を刺し込まれたような気持ちになった。どうしようもない、と。それは諦めの言葉に聞こえた。


「どうしようもない、って……。それってもう先輩たちは、」

「もうダメだ。踏み込むしかない」


 幸太郎は悠里の方を見ないままに続ける。


「触らない方がいいこと、知らない方がいいこと……。いくらでもある。けれど、もう……」


 幸太郎の表情は変わらない。けれど、その声は、今にも消えてしまいそうに悠里には響いて。

 ふっ、と言葉を切って幸太郎は悠里を見た。


「それにしても、あいつも雑だな。後輩を知らないやつのところに置き去りか」


 言われて悠里は、何となく帰るタイミングを外してしまったように思った。確かに悠里と幸太郎の間には直接の関係はない。たまたまこの状況に置かれて一緒にいるだけで、一室でふたりきりというのは本来から考えれば奇妙な状況なのだ。


「どうする?」


 ひどく短い言葉で、それだけで、悠里は選択を迫られたのだと感じた。

 決められなかった。先ほど幸太郎から提示されたふたつの選択肢。今なら真維について行って智己と話すという選択も考えられるだろう。

 目の前に提示された三つの選択肢を。自分がどれを選び取るべきかを。そしてその結果、どのような未来を望むのかを。


「どうすれば、いいですか」


 彼女は自分で決めることができなかった。


 自分に何かできるとは思えない。手に負える事態だとは思えない。けれど知らないふりを通すこともできない。なのに何も知らない。知りたい。知りたくない。会いたい、話したい。会うのが怖い、話しても何の意味もないように思えてしまう。


 だから――、


「俺と一緒に来るか、」

「はい」


 きっと『それとも家に帰るか』と続けようとした幸太郎の言葉を、途中で遮って、その意図に知らないふりをして、形だけの答えにして縋った。


 幸太郎は、少しだけ痛むような顔をして、けれど何も言わずに頷いた。重たげに身体を持ち上げて、ベッドから足を出し、棚の上に置いてあるペットボトルを手に取って、一口飲んだ。


「飲み物、ありがとう」

「いえ……」

「もう一本、貰っていいか?」


 頷いた悠里に、幸太郎は財布を取って、中から百三十円を取り出して渡す。


 悠里は、手の内の百三十円を、しばらくじっと見つめていた。



*



 三月、日没は未だ早い。


 六時を前にしてすでに空は黒く染まっていて、真維が心配する両親を後に部屋に戻ったときには、もう八時を回っていた。


 暗い部屋の中、ベッドに腰かけて真維は考える。

 夜とはいつからを指すのだろう。日が落ちてから? 多くの人が眠ってから? 答えの出そうにない疑問に、真維はただ待つことを選んだ。


 かち、こち、と目覚まし時計の秒針が音を立てる。一秒、一秒と夜が近付く、あるいは深まる。



 幸太郎のことを考えた。

 ずっと一緒にいたから、線引きが曖昧になっていた。どこまでも頼っていいような、そんな錯覚をしていた。

 けれど、幸太郎がひとりであの場所に向かったのを、それでひどい怪我をしたのを見て、違うんだと気付いた。


 自分は幸太郎に頼った。幸太郎は、それをひとりで解決しようとあの場所に向かった。


 結局のところ、ふたりでひとりだと、そんな風に自分だけが勘違いしていた。幸太郎はちゃんとひとりとして存在していた。あまりにも馬鹿な間違いだと、そう思った。


 次に会ったときは、ちゃんと謝ろうと、心の中で決めた。



 それから、智己のことを。


 考えようとしたけれど、きっと、自分の中だけで考えるよりも、ちゃんと話した方がいいんだろうと思った。

 どうして、なぜが多すぎる。そういうとき、自分の頭の中だけで根拠の薄い予想を立てるよりも、直接話を聞いた方がいい。


 けれど――。


 結局それはどこかで、智己のことを全然知らなかったのだと、そう認めているようで、真維は寂しくなった。


 時計を見つめて、真維はこれまでの時間を思った。

 ふたりで過ごした三年を、それだけでは、まるで足りなかったのだろうか、と。それとも自分の『理解しようという姿勢』が至らなかったのだろうか。


 立ち上がって、ベランダに面した窓の、カーテンを開けた。

 向かいの部屋には、明かりはない。


 ひとりだ。


 そんなことを思うのは、いつ以来だっただろう。



 ベッドに寝転んで、ただ時間が過ぎるのを待った。

 彼女は、彼女が来るのを待った。


 時計の長針が一周して、二周して。それでも未だ智己は訪れずそれでもじっと天井を見つめながら、彼女が来るのを待った。


 こん、と窓が鳴ったのは日付の変わる頃で、それはよく知る、部屋の中の人間に自分の存在を知らせるノックの音で。



「迎えに来たよ」



 窓の外、ベランダに、彼女が立っていた。

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