10


「寒いでしょ、中、入りなよ」


 と、何のためらいもなく窓を開けた真維を見て、智己は意外そうに目を見開いた後、嬉しそうに笑った。


「うん」


 言いながら彼女は、真維をつかもうと右手を伸ばして――、


「ストップ」


 けれど、手首を押さえて止められる。


「話、しましょうよ。知らないままじゃ、何も決められない」


 真剣な目で見つめられ、智己はそれを受け止めながらも尋ねる。


「話すって、何を?」

「智己のこと」


 手首をつかむ手に握力がこもって。


「それから、あたしのこと」


 ふたりは秒針が三つ鳴る間しっかりとお互いの目と目を合わせて。


「……うん」


 と、智己が頷いてふたりは部屋の中に入った。すぐに窓は閉められたけれど、わずかな時間で入ってきた夜の空気が部屋を冷ましていて、自然、ふたりの距離は近付く。ベッドの上に並んで腰かけた。

 左手で智己の右手をつかんでいた真維は、ゆっくりとその手を離す。


「いいの?」

「うん」


 今度は、真維が頷く番だった。智己は静かに自分の右手を握って、足の上に置いた。


 静かな部屋だった。

 あるいは、あの桜の園よりももっと。


「……たくさん、聞きたいことがあるの」

「……うん」

「なんでいなくなったの、あの場所は何なの、なんであたしの手を取ったの。これからどうするつもりなの、どうしてそうするつもりなの、それから……」


 真維の唇から漏れた吐息が少しだけ白く色づいて、すぐに暗い部屋に溶けて消えた。


「あたしたち、友達だよね、とか」


 小さな部屋で、言葉は大きかった。それしかないように、響いた。

 真維の隣で、智己はかすかにうん、と呟く。


 窓から射し込むうっすらとした月と星の光が、部屋を薄く照らし、影を濃くする。


「ねえ、智己」


 優しくかすかな声が部屋に浮かんで。



「永遠って、何?」



*



「あの……、大丈夫なんですか、これ?」


 悠里は不安げにベッドの上の幸太郎を見上げた。部屋は暗く、幸太郎の表情は悠里には確認できない。


「なんとかなるさ。ならなかったら適当に俺に押し付けて逃げろ」


 不安だ。その気持ちはより強くなった。


 時刻は夜の十一時を回っている。未だに悠里は幸太郎の病室にいた。


 一緒に行く、と告げた後、幸太郎から、なら夜までここにいろ、と言われた。

 それはすなわち面会時間を過ぎても病室に居座れ、ということで、さらには中学生に夜を過ぎても家に帰るな、ということでもあり、そのことを考えただけで悠里は無理なのではないか、と思ったが、そこからの幸太郎の行動はよりひどかった。


 まず家への連絡。悠里の携帯で電話をかけさせて、『今日は真維先輩の家に泊まっていく』と親に伝えさせて、しかも途中で電話を代わって、真維の父のふりをして挨拶をした。

 平然と大嘘をつく幸太郎の大胆さに悠里は驚愕した。「大丈夫なんですか?」と尋ねると、「バレなければいい。バレても……まあ、そのときはそのときだ」との答えが返ってきて、自分とこの人の心臓は素材も製法も違うのではないかと思った。


 面会時間を過ぎてから。八時に面会時間が終了して、そこから消灯時間の九時まで、さらにそこから三十分はトイレの個室で過ごした。

 その後「上手いこと病室まで来い、別にトイレに居続けてもいいが」との作戦通り、幸太郎のいる病室まで見つからずに悠里は戻ってきた。初めの頃は見つかるリスクを考えて本当にトイレに居続けるつもりだった悠里だが、夜の病院にひとりきりという恐怖に耐え切ることができず、挙動不審な動きで廊下を通って病室まで隠れ歩いた。


 そこからさらに二時間弱。すなわち現在。ベッド周りのカーテンの中に隠れて座っていたが、十一時を回ったあたりで「そろそろ巡回が来るはずだ」とのことで、ベッドの陰に隠れるようにかがみこんで待機している。


 巡回避けの作戦は特にない。「さっと開けてさっと見て帰っていくだけだろうから何とかなるさ、たぶんな」との幸太郎の言葉をどのくらい信用していいのかわからず、悠里はびくびくしながら巡回を待っている。


「不安なんですけど……。さすがにバレますよこんなの……」

「来てるぞ」


 幸太郎の何気ない小声に、ひぃっ、と喉からせり上がってきた空気を悠里は無理やり飲み下す。心臓がばくばくと高鳴って、その音を閉じ込めるように、できるだけ小さく丸まる。

 そして悠里にも聞こえてきた。巡回する看護師がやってくる足音が。それは段々近付いてきて、この部屋で止まる。

 戸が開く音がして、うっすらと部屋に光が入ってきた。看護師は少しずつベッドの方に近付いてくる。


 心臓を止めるような、ごく小さな音が鳴って、カーテンが開いた。


 悠里は身体の動きをびったりと止めた。呼吸まで止まった。横のベッドからは幸太郎の静かな寝息が聞こえた。本当に寝ているようにしか聞こえず、その呼吸音を二度聞かない間に、もう一度カーテンの音が鳴った。


 静かに足音が遠ざかっていく。戸の開閉音が聞こえ、看護師の足音は聞こえなくなった。


 そこでようやく、悠里は呼吸を再開した。


「う、上手くいっちゃうんですか、こんなの」

「上手くいったな」


 幸太郎の言葉を聞いて、ようやく巡回をやり過ごした安心感がやって来て、未だに高鳴る胸を押さえながら悠里はベッド横の椅子に座った。


「この後はどうするんですか?」


 病院を抜け出すんだろうな、と思いながら悠里は尋ねたが、しかしそこで疑問が生じた。どうせ病院を抜け出すつもりなら、自分は初めからここで隠れたりせずに外で待っていればよかったのでは。それ以前に、いくら何でも病院のベッドで寝ている人が移動できるのだろうか、と。


「日付が変わるまで待つ」


 またか、と思ったのが顔に出て、幸太郎は苦笑して「後少しだ」と付け加えた。


 ふたりは無言のまま時が過ぎるのを待つ。

 これまでの時間のほとんどをふたりは何も話さずに過ごした。初めの頃こそ悠里は、何か聞こう、何を聞けばいいかわからない、邪魔だと思われていないだろうか、と居心地の悪さを感じていたが、以前の『話すのが苦手』という言葉を思い出し、本当にそれだけなのだとわかってからはすっかり慣れた。



 そして、十二時が過ぎる。


 携帯でそれを確認した幸太郎はベッドから降り始めて、悠里は動揺する。


「先輩、怪我大丈夫なんですか?」

「もう消えた」

「え?」


 幸太郎は腕に巻いた包帯を無造作にほどいて、怪我したはずの場所を悠里に見せるように掲げる。


 まっさらだった。打撲の跡すら残っていなかった。


「ど、どういうことですか?」

「まとめて説明する。外に出るぞ」


 やっぱり外に出るのか。困惑しながらも悠里は幸太郎の後をついて病室を出る。

 ここからどうやって誰にも見つからないように外出するのだろう、と疑問を持った悠里だが、しかし幸太郎は廊下に出てどちらに進むでもなく踵を返した。


 それから病室のネームプレートを指さす。


「見てみろ」


 と、つられるままに悠里が視線を向けると、


「名前が消えてる……!」


 病室前にかけられていたはずの『佐立幸太郎』のネームが消えている。ここに来て、悠里はこの現象に心当たりがあった。


「智己先輩のと同じ……」

「だろうな。この中の方がきっともっとすごいぞ」


 そう言って幸太郎が病室の戸をスライドすると、悠里はさらに信じられないものを見た。


 先ほどまで自分たちがいたはずの病室が、初めから利用者などいなかったようなまっさらの空き部屋の状態に戻っている。

 中途半端に閉まっていたはずのベッド周りのカーテンは今や完全に開け放たれ、幸太郎の寝ていたベッドの布団と、飲み干して棚の上に置いていた空きペットボトル、それから幸太郎がついさっきベッドの上に放った包帯すらも、影も形もなくなっている。


「十二時できれいさっぱりか。津嘉山先生たちが覚えていたのを考えるともう少し条件がありそうだが……、まあ、わからんな」

「あの、どういうことですか……?」

「あの神社に関連した出来事は、時間経過で痕跡がぱったり消えるってことだ。だから俺の怪我も入院していた事実も消えた。泉谷が忘れられたのと同じ理屈が働いている……と思う」

「はあ……」


 相槌を打ちながら、けれど悠里は引っ掛かりに気付く。


「でもじゃあ、なんで真維先輩の腕は動かないままなんですか?」

「……何となくは想像はついてるが、いまいち説明しにくいな。これも後で」


 説明しにくい、と言われると悠里としてはそれ以上聞くこともできない。口で説明されてもまるで信じられないだろうということが自分でもわかっているからだ。

 今だって目の前でマジックのように怪我が消えたり物が消えたりしなければ、幸太郎の『痕跡が消える』なんてことを言われてもイメージがつかなかっただろう。


 悠里が頷いたのを確認すると、幸太郎はゆっくりと扉を閉める。


「じゃあ、病院から抜け出すんですか?」


 悠里が小声で尋ねると、幸太郎は首を横に振った。それを意外に思って、目を丸くすると、幸太郎は今さっき閉めた扉を、もう一度ゆっくりと開けて言った。





 病室へと続くはずの扉を開けた先には、あの桜の園があった。



*



「……『暗い部屋』と『明るい部屋』があるの」


 ぽつり、と智己が口を開いた。


「真維に会うまでは、ずっと『暗い部屋』にいたんだ。私、昔はとにかくどんくさくて……。話す人がいないわけじゃなかったけど、友達もいなくて。いっぱいいる中のひとり、みたいな。ねえ、真維は自分のこと好き?」


 智己は窺うように真維を横目で見て、真維は少し考えて、ゆっくりと答える。


「うん、好き」

「そっか、そうだよね。」


 智己は頷き、続ける。


「私は……、好きじゃなかった。嫌いでもなかったけど、自分のどこを好きになったらいいかわかんなくて、周りの人たちもそうだったんじゃないかな。だから、そういうの当たり前だと思ってたんだけど、ずっと……、ずっと、『暗い部屋』の中で、少しだけつまんない人生を送ることになるのは、想像するのも、やっぱりちょっと悲しかった」

「……うん」


 少しずつか細くなっていく智己の声に、静かに真維は相槌を打つ。


「それで、小学校はずっとそんな感じで、こっちに引っ越して遠い中学校に通うことが決まって……」


 智己が中学から引っ越してきたのは、真維も知っていた。何度かその話題になったことがあった。


「……嬉しかった」


 噛みしめるように呟いた智己の言葉を聞いて、胸のあたりが温かくなるような心地を真維は覚えた。


「最初はね、中学でも友達なんてできないって思ってたの。本当は引っ越しのことも言い訳にちょうどよくて、新しい場所に行ったから友達ができないんだ、仕方ないって、そういう風に思ってやっていくつもりだったんだけど」


 だけど、と。そこで智己ははっきりと横に座る真維の顔を見つめた。


「あなたがいたから」


 見つめる瞳は、夜のように澄んでいて。


「最初に会ったときのこと、覚えてる?」

「……うん」

「……真維から話しかけてくれた。そのとき、本当にびっくりしたんだ。何でこんなに綺麗な子が私に話しかけてくれるんだろうって」

「そんなこと、」

「あるよ。嬉しかった。私がおろおろしてたら、ちゃんと返事を待ってくれて、それから、気付いたら最初の友達ができてて、普通の人みたいに部活したり、勉強したり、友達と遊んだり……」


 智己はそこで、真維から目線を外す。


「『暗い部屋』がいつの間にか『明るい部屋』になってた」


 窓から射し込む明かりに描かれた、壁紙の四角い模様を見つめて言う。


「私が変わったわけじゃなかった。だからそのときわかったんだ。『暗い部屋』と『明るい部屋』っていうのはほんの些細なことで切り替わるって。あなたに会ったから、あなたが話しかけてくれたから、あなたがいてくれたから、それだけで変わるものなんだって。でもさ、真維……」


 少しだけ、目線を合わさないままに話す智己の表情が強張って。


「私のこと、好き?」

「うん、好きだよ」


 真維は迷いなく答えるけれど。


「じゃあ、佐立くんと私、どっちが好き?」

「――え?」


 次の質問には、すぐに答えることはできなかった。どっちが、なんてことを、好きに順序をつけるなんてことを、真維は想定したことがなかった。

 その反応に、智己は悲し気な表情に変わる。


「やっぱり、佐立くんの方が好き?」

「そ、そんなことないって。ふたりとも同じくらい、」

「なら、私と同じくらい好きな人は何人いる?」


 焦る真維の答えを遮るようにして、智己は質問を重ねる。さらにその質問への答えも待たず。


「高校では陸上部に入るつもりだった?」

「う、うん」

「大学はどこに進もうと思ってる?」

「まだ考えてないけど……」

「そっか」


 今度は答えやすい質問を続けた智己だが、真維の言葉を聞くたびに、表情に寂しさが増していく。


「高校でクラスが別れちゃったら、クラスで一番仲が良いのは私じゃなくなる。私が故障でもして陸上部にいられなくなったら、目指す大学が違ったら」

「そんなこと、」

「あるよ。真維は好きな人をたくさんつくれるもん」


 真維は隣に座る智己の顔をじっと見つめるが、智己はただ壁の光を見つめるばかりで、真維とは目を合わせない。


「『暗い部屋』は簡単に『明るい部屋』になった。だったら、『明るい部屋』から『暗い部屋』になるのもきっと簡単なんだ。些細なことで始まるなら、些細な終わりだってある」


 静かに、夜の水のように語る智己の声を聞きながら、真維は考えていた。

 こんなことを智己が考えていたなんて、まるで知らなかった。なのに、智己は自分のことを、自分以上に知っていた。それはなんだかとても残酷なことに思えて。

 ずっと一緒にいられると思っていた。けれど、智己の言葉を聞いてしまえば、それはただ未来のことを考えていなかっただけの、子供じみた楽観に思えてしまって。


 言葉に詰まる真維に、ゆっくりと智己が顔を横に向けて、視線を合わせた。


 その瞳は、真維がこれまで見たことがなかったような、まっすぐな目で。


「あなたが好き」


 呟いた唇の小さな動きとは裏腹に、言葉は強く響いて。


「未来なんていらない。ただ、今のままずっと、ずっとずっと、あなたと一緒にいたい」


 そして彼女は、ようやく答えを口にした。




「それが、私の永遠」

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