7
「……おいおいおい。どうなってんだこりゃ」
津嘉山は幾万本の桜の樹に視線を泳がせながら、ひとりごとのように呟いた。
唐突に切り替わった風景。温室にでも入り込んだような気温の変化。空の色すら変わったことを、果たしてどう理解すればいいのか――。魔法、なんて長いこと忘れ去っていた言葉が、津嘉山の脳裏に過った。
「嘘、とは?」
いち早く状況に復帰したのは、年長の警官だった。周囲に気を配りながらも、じっと幸太郎を見つめて、問いただすように尋ねる。
「ここで気を失ったというのは嘘です」
平然と答える幸太郎に、警官ふたりは身構えた。嘘。いったいそれが意味するのは――。ネガティブな想像が警戒をもたらす。
しかし幸太郎は続ける。
「ただ、この場所に来たせいで危険な目に遭ったのは本当です。嘘をついたのは、こんなことを言ってもまず信じてもらえないと思ったので……、実際に見てもらった方がいいと思ってそれらしい嘘をつきました。すみません」
「確かになあ」
それに応えたのは津嘉山だった。感心したように周囲の桜を見回しながら溜息のように言う。
「こりゃ、実際に見てみなくちゃ信じられん。佐立、ここはどうなってんだ?」
「『永遠のある神社』と、そう噂されてるみたいです。詳しいことは俺も知りません」
「『永遠』……」
随分ロマンチックな表現だ、津嘉山はそう思いながらも、目の前の光景に釘づけになっていた。
妖しく光る花に春の夜の凪いだ空気。この街の狭小から遥かに解放されたようなこの空間。『永遠』と、題することも大げさではないように感じた。
「俺たちは昨日、泉谷智己を探してこの場所を発見しました。そして散々迷った末になんとか彼女を発見したんですが――、」
「なんだって?」
ぎょっとして津嘉山は幸太郎を見た。幸太郎は落ち着いた表情のまま変わらない。
「泉谷を見つけた? ここで?」
「はい。それで連れて帰ろうとしたんですが、どうにも様子がおかしくて」
「おかしい? どんな風に?」
「俺も普段の彼女を知っているわけではないので上手く言えませんが……。とにかく泉谷は普通ではない雰囲気でした。三橋の腕が動かなくなったのも泉谷が原因です」
「待て待て待て。それはつまり、泉谷が……三橋に、その」
「危害を加えた。そう言っていいと思います」
津嘉山は愕然とする。彼の目から見た真維と智己はしっかりした優等生で、関係も良好だった。それが、身体が動かせなくなるような、そんな争いが――。
「それはどうやって?」
思考を断ち切ったのは年長の警官の質問だった。
確かにそうだ。津嘉山は考えた。腕が動かなくなったとはいっても、外傷は存在していなかったのだ。いったいどんな手段で、と。
そこで気が付いた。彼は思い出した。自分たちが今、どこにいるのか、ということを。自分たちが今、いかなる非常識と対面しているのか、ということを。
その考えを後押しするように幸太郎が告げる。
「この樹を見てもらえますか。絶対触らないようにしてください」
言われて三人は、幸太郎が指し示す先に注目した。
「この赤いマークが見えますか」
津嘉山と若い警官は即座に頷き、年長の警官は顔をしかめるように目を細めて、ゆっくりと頷く。
「泉谷の右手にもこのマークがありました。そして、その右手で三橋の右腕をつかんだんです」
「……それだけか?」
「それだけですが、」
一拍置いた幸太郎は、どういったものか、とここまでの流れにしては珍しく言葉に悩むように首を軽く傾げて。
「その瞬間に、握った場所から、そこに咲いているのと同じ花がぶわっと右腕全部に咲きました。それでその花は一瞬で砕けてしまって……。それから夢中で逃げたんですが、もう三橋の右腕は動かなくなっていたみたいです」
幸太郎が淡々と言い終えると、急に痛むような沈黙が流れた。沈黙はごくわずかな時間でも恐怖を育てる。三人は、春の空気の中、何か薄ら寒いものを背中に感じていた。
信じらんねえ、と。呟いた年若い警官は、しかしその表情は真剣で、何か恐ろしいものを見るように、桜の樹の赤い花弁のマークを見つめていた。
否定できるはずがないのだ。
その話がどんなに荒唐無稽に聞こえても、未知の領域においては判断の材料は非常に少なく、本来こうしたものを否定するための『常識』は、この神社の鳥居を跨いだ時点で、新しい形に作り変えられ始めているのだから。
『それはこうであった』と、断言されてしまえば、そうではないと、否定することはできなくなっていた。
今彼らにとって、『あらゆることはありうる』のだ。目の前の『ありえない空間』の実在が、『ありえない』という思考を封じていた。
「どうしますか、これ。私たちの手に負えますかね」
年少の警官が、もうひとりの警官に判断を仰ぐ。尋ねられた方も、ううん、と難しい顔で唸る。
「……この場所ひとつ取っても報告する価値はあると思うが、どう言ったものか。佐立くん、ここはどうやって見つけたんだい?」
「わかりません。三人で探していたんですが、なぜか俺だけが発見できました」
そうか、と頷いて、警官は腕を組んで考え込む。その間に、今度は津嘉山が幸太郎に尋ねた。
「なあ佐立。泉谷はまだここにいるのか?」
「……さあ。俺にはわかりません」
と、素っ気なく幸太郎は、しかし、
「いますよ、先生。ここに」
その質問への答えは、最も明確な形でやってきた。
*
誰も智己のことを覚えていない。自分と悠里以外の全員が、と。そう確信を得られたのは、調べ始めてからそう遅くない頃だった。
「ねえ、真維。どうしちゃったの? 検査に行きましょ、ね?」
「ごめん、もうちょっと!」
部活でも、家に遊びに来たときも、智己と何度も顔を合わせていたはずの母が、まるでもう彼女のことを覚えていなかった。
名前も、顔も、行方不明になったことも。自分の代の陸上部の副部長について尋ねても、返ってきたのは別の生徒の名前だった。
友人たちに確認を取ろうとして、その前に携帯の電話帳から『泉谷智己』の名が消えていることに気が付いた。固定電話の横に張り付けられたクラス連絡網は、智己を抜いて再構成されている。
引っ張り出したアルバムに収められた写真も、侵食されるように智己の姿は様々な人物と入れ替わっている。自分の携帯に収められたメモリーも、悠里の携帯もそうだった。
『信じられない』という気持ちは、すぐに『信じたくない』に変わった。
「アルバムは見た、携帯も見た。あとは、あと……、ねえ悠里。他に何かない? なんでもいいの。何でもいいから、智己の、智己の……」
「先輩、でも、もうこれって……」
「ねえ、真維。智己ちゃんって誰なの? 昨日のことと関係ある子なの? それならちゃんと警察に言って、」
「もう言ったよ!!」
八つ当たりのように声を上げた。真維の父母は、普段は見ない子供の錯乱した姿に困惑した表情で、悠里は真維を落ち着かせるように、悲し気な顔で真維の肩を撫でる。
「真維先輩……」
悪い夢を見ているようだった。
初めから、一連の事件について、実感が湧かなかったのだ。
智己が姿を消したことも。それに妙な噂が関連しているらしいということも。ありえないような場所に踏み込んだことも。そこで奇妙な体験をして腕が動かなくなったことも。
生きているうちに、そんな現象が目の前で起こるなんてことを想像すらしていなかったし、目の前に起こる出来事を、どこか遠い国で起こっているように、そんな風に感じていたのだ。
けれど、これは何だろう。
記憶と記録の消失。
先ほどまでのような、現在と未来にわたる夢を見ているのとは違うのだ。
あったはずの過去が、思い出が、目の前で霞のように消え去ってしまう。悪夢が過去すらも蝕んでいく。
それは、まるで。
ありうべからざる想像だが。
――まるで初めから、何もかもが嘘だったかのように。
「一体、何が本当で……」
その先は、声にならずに膝から崩れ落ちた。悠里がそれを慌てて支える。
憔悴した様子の真維の顔を見て、咄嗟に。
「わ、私はここにいますよ!」
と。真維の左腕が悠里の身体に回され、強く抱きしめるように力を込められた。んぐ、と悠里は一瞬苦し気に呻きながらも、同じように自分の腕を真維の背中に回して、慰めるように撫でる。不安げに見つめる真維の父母の視線を受けながら、とんとん、と軽く背中を叩く。
「その……、確かに何が何だかわからないですけど。でも、私も真維先輩も智己先輩のこと覚えてるんですし、まだ何とでも……」
なる、と。断言するだけの自信は悠里にはなかった。今の彼女はただ、普段頼り切りの先輩が混乱している、という状況下で自分の分の混乱を棚上げしているような状態で、気休めの言葉すら自分では上手く使えなかった。
「それに、佐立先輩もいるじゃないですか」
だから、彼女はその気休めを外側の存在に求めた。
佐立幸太郎。悠里の目から見れば、その人物は真維や智己のような先輩たちと同格の存在で、昨夜の危険を乗り切れたのもほとんど彼のおかげに見えていた。
よく知らない、というのもかえってこの場ではプラスの評価に繋がっていて、彼ならばきっと上手くやってくれるのではないか、という根拠のない期待が悠里の中にはあった。
「幸太郎……。そっか、あいつも覚えてるかも……」
真維はその言葉を受けて、ゆっくりと悠里から離れる。
智己の記憶と記録が消えていく理由はわからないが、智己の記憶を保持できる理由が、昨日の遭遇によるものだったとしたら。
自分と悠里は智己のことを覚えているのだから、幸太郎が覚えている可能性も高い、と。そう考えた真維は携帯を取り出す。
「ちょっと聞いてみる」
と悠里に告げて、携帯の電話帳を開く。
『佐立幸太郎』
昨夜見たばかりの文字列を確認して、真維は無意識に安堵の息をつく。それから通話ボタンを押して、耳に携帯を当てて――。
通話口の向こうから聞こえてきたのは、圏外を伝えるアナウンスだった。
「電源切ってるんですかね?」
漏れ聞こえる音に悠里が反応した。先ほど幸太郎と会っていた悠里はごく普通の調子で尋ねたが、しかし真維は何か考え込むように携帯を握ったままで呟く。
「電源……? いや、それよりも……」
真維は悠里の方に向き直って尋ねる。
「このあたりで圏外の場所って、どこを思いつく?」
「ええ? えーっと、確か駅前の地下駐輪場が……。他には、えーっと……、あ」
と。記憶を探って、悠里も思い当たった。ごく最近にあった、圏外の場所。
「あの神社……」
「あいつ、ひとりで……! お父さん、駅まで連れてって!」
悠里の言葉に弾かれるように真維は父に呼びかける。父はまるで話が飲み込めず、反応できずにいる。
「おいおいおい、なんだ。幸太郎くんがどうか、」
「昨日の場所にひとりで行ってるの! いいから車出して、お願い!」
昨日の場所、と。その言葉を聞いて、事情はわからないなりにただならぬ状況であるらしいと理解した父は剣幕に押されて思わず頷く。それを確認した真維は、とにかく早く、とリビングから出て玄関に向かう。悠里もそれに続いた。
「でも、先輩、まだ佐立先輩がひとりで行ったって決まったわけじゃ……」
「それでも行かなきゃ、何か起こってからじゃ遅いの!」
『何か起こってから』と。そのフレーズを聞いた悠里は、無意識のうちに真維の動かなくなった右腕を注視してしまい――、
「――あ」
「……? 何、悠里?」
何かに気が付いたような声を上げた悠里を不審に思って、真維は振り向き、そしてその瞳が向く先に気が付いて――。
そして、見てしまった。
手のひらにある、赤い花弁の印を。
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