6

 真維と幸太郎が病院から家に戻ってきたのは夜八時過ぎのことで、さらに真維が自室に戻ったのは夜十時前だった。


 ベッドに身体を投げ出した真維は、左手で右腕を握り、何事かを考えるように天井を見つめていた。その状態が十分くらい続いて、結局彼女はカーテンを開けて、窓からベランダに出て――。


 向かいの窓の向こうに、着替え中で上半身裸の幸太郎の姿を見た。


「おおう……」


 と、思わず声が漏れ、幸太郎の方はと言えば、気にした様子もなくそのままシャツを着て着替えを終わらせてしまう。

 それからカラカラ、と窓を開けて、幸太郎もベランダに出てくる。


「そっち行っていい?」

「いや……」


 問いかけに幸太郎は困ったような顔で、真維の右腕とベランダとベランダの間の隙間を見て。


「……危ないだろ」

「あ、そっか。そうよね、うん」


 言われてから気付いた、という風に真維は頷いて、今度は幸太郎が。


「俺がそっち行くか?」

「いや、あんたは倒れたんでしょ。危ないって」

「……そうだな」


 沈黙が降りてふたりは見つめ合う。


「じゃあ、」


 と真維が口を開いた途端に、少し強めの冷たい風が吹いてふたりは同時に身をすくめる。


「外じゃ寒いか」

「……風邪引きそうだな」


 真維はふにゃっとした笑顔で、幸太郎は薄い笑みでお互いを見る。


「んー、それなら……」


 真維は踵を返して、自室の窓をもう一度開ける。


「電話、するから。ちゃんと取ってね」

「ああ」


 そう言って中へ引っ込む。後ろ手で窓とカーテンを閉めた。


 テーブルの上に置いてある携帯を左手で取って、幸太郎にかける。ワンコールも鳴り終わらないうちに繋がった。


「お、早い」

『そりゃな』


 携帯を耳に当てながら、真維はベッドに倒れ込むようにうつぶせで乗る。ぼす、と空気を含んだ音がした。


「えーっとさ。今日ありがとね。それとごめん。病院送りにしちゃって」

『別にいいよ。点滴入れてもらってむしろいつもより元気出たくらいだ』

「何それ」


 冗談めかした幸太郎の言葉に、真維はふふ、と笑う。それから寝返りをうって、仰向けになる。携帯を握り直す。視線が浮くように動いて、天井と壁の継ぎ目のあたりに止まる。


「それから、えーっと。あ、明日はあたしまた病院だから。原因わかんなかったから再検査だって。あんたは何か言われた?」

『もっと健康に気を遣いましょうってさ』

「よく検査してもらったみたいじゃん」


 はは、と通話口の向こうから笑い声が漏れてきた。また真維は携帯を握り直して、視線を泳がせる。


「あ、それからさ。それから……」


 握る力を強めて、弱めて。


「えーっとね。えーっと……」


 泳いでいた瞳を、瞼の奥に閉じ込めて。



「なんで、こんなことになっちゃったんだろ」



 携帯の向こうからの応えはない。


「全然わかんなくて。腕もこんなことになっちゃったけどさ、全然実感ないの。『これ受験前だったら大変だったなー』とか、そんなどうでもいい感想しか出なくて。あの場所も、どうなんだろうね。あんな感じの観光地とかさ、外国にならあるかもしれないしとか。関係ないか。まあその、全然わかんないっていうか。こう、起きてから夢を思い出してるみたいな。わかる? あ、そうだ。現実だって思えないって、そんな感じ。でもやっぱり、あそこにいたのは智己に見えたし、なんていうか、それだけじゃなくて。うん。それだけじゃなくて……」


 依然として携帯は無言のままで。


「それだけじゃなくて……」


 瞑った瞼を、ぱちりと開けた。蛍光灯の光が、やけに強く感じた。


「…………なんか、寂しい」


 口にしたら、目元から一筋冷たい感触が降りていくのを感じた。もう一度瞼を瞑ってそれ以上を閉じ込めようとしたけれど、かえって瞼の上に浮いてしまって、また冷感が顔を伝った。


『……大丈夫』

「そうかな」

『ああ。大丈夫だ』

「……うん」


 しばらく沈黙があって、じんわりと真維の頭に眠気もやってきて、じゃあ、と電話を切ろうとしたところで、その指を止めた。


「あのさ」

『ん?』

「あー、いや、何でもないや。おやすみ」

『……ああ、おやすみ』


 眠るまで電話を繋いだままにしてほしい、なんて。

 そこまで子供じみたことは、言えなかった。



*



「お、おはようございます」

「……おはよう」


 次の日の朝、まだ薄暗いうちに玄関を出た幸太郎が見たのは、自転車を手に家の前に立つ制服姿の悠里の姿だった。挨拶とともに吐く息は白い。怪訝な顔で幸太郎は尋ねる。


「……なんで出待ち?」

「ま、真維先輩が心配で……。早く会いたいと思って来たんですけど、流石に朝早すぎるし、インターフォン鳴らせなくて、そしたら佐立先輩が来て……。あ、先輩は大丈夫ですか!?」

「俺は別に。それよりこの時間はもうあいつの家みんな起きてるだろうし、インターフォン鳴らして大丈夫だと思うぞ。ただあいつ今日は病院だって言ってたから学校には行けないと思うけど」

「あ、そうなんですか。ありがとうございます」


 頷きながら、悠里は幸太郎の服装を見た。自分と違って私服姿の。


「佐立先輩も病院ですか?」

「いや、飯買いに行くだけ。学校は行く気ないけど、冷蔵庫に何もなかったからな」

「はあ……」

「もういいか?」

「あ、はい。すみません引き留めちゃって。昨日はほんとに、」

「いいよ、俺は。それよりまあ、その……」


 幸太郎は言いにくそうに。


「あっちの方、気にしてやってくれ。ちょっと落ち込んでるみたいだから」

「は、はい! もちろんです!」


 背筋を伸ばして元気に返事する悠里に幸太郎は笑って、よろしく、と手を上げて立ち去って行った。


 悠里は幸太郎が角を曲がって姿を消すのを見送ってから、『三橋』と書かれた表札横のインターフォンを、おそるおそる指で押した。



*



「おう、佐立! こっちだこっち!」


 と、声をかけられたときにはすでに幸太郎は津嘉山を視界に入れていた。それから脇に立つふたりの警察官も。

 場所は学校に入ってすぐのロータリー。人影はその他にはない。校舎の時計は七時を少し過ぎたくらいで、未だ部活の朝練に訪れる生徒の姿もない。

 幸太郎は津嘉山の呼びかけを受け、軽く走ろうと足に力を入れたが、すぐに蓄積された疲労を感じて脱力し、ゆっくりと歩いて彼らの下へ向かって行った。


「すみません。遅れました」

「いや、時間よりも早いくらいだ。お前、ちゃんと朝起きられるんだな。いつもこのくらいちゃんと時間を守ってくれるといいんだが」


 はは、と幸太郎は合わせるように力なく笑う。それから改めて頭を下げて。


「今日は朝早くからすみません。よろしくお願いします」

「いやいや。朝早くから出てきてもらってこっちこそありがたい。あんまり学校側も警察の方々も、生徒を不安がらせたくなかったからな。人目につかない時間帯の方がよかったんだ」


 津嘉山の言葉に頷く幸太郎。横に立つ警官のひとりが、それじゃあ、と声を出して。


「案内してもらえるかい、佐立くん。君たちが昨日倒れたっていう場所に」




 幸太郎の行動に迷いはなかった。


 昨夜すでに、病院で体力を回復してから、真維と悠里が周囲にいない間に、津嘉山に情報を提供していた。


『泉谷智己を探しにいったところ、どうもそれらしい場所を見つけた。そこで何か手がかりがないかと思い、三人で中に入ったところ、突然気を失ってしまい、目を覚ますと真維は右腕が動かなくなっていて、自分は著しく体力を消耗していた。このままここにとどまるのは危険だ、と考え、走ってその場を後にして、そこで津嘉山先生たちと遭遇した』


 と。


 自分でも全く何があったのかはわからないが、という前置きの下、以上の内容を告げると、津嘉山はそれを警察官にも相談し、ならその場所を調べに行こう、という方針が決まった。


 ではその場所はどこにあるのだ、という問いに対し、幸太郎は携帯を取り出し、その場所の地図を表示して、


『地図が古いのか表示されていないけれど、このあたりだった。わかりにくい配置になっているので、できれば明日すぐにでも案内したい』


 幸太郎の体調を心配して渋る津嘉山らに対して、真維はもちろん、近しい先輩ふたりに身の危険が及んでいるであろう悠里よりも、自分の方が精神的余裕があり適任であることを納得させて、今朝の状況に持ち込んだ。




「ところで佐立、親御さんには本当に連絡しなくていいのか?」


 駅への道中、四人は無言で歩いていたが、不意に津嘉山が幸太郎に尋ねた。幸太郎は頷く。


「はい。俺自身はただの貧血って診断でしたから。わざわざ連絡するほどのことでもありません」

「そうか? 病院まで行ったんだし、こっちから電話くらい入れても……」

「あっちも忙しいですから」


 そう言うなら、と引き下がる津嘉山。警官の若い方が、少し興味ありげな表情で幸太郎を見たが、隣を歩くもうひとりの警官が、幸太郎の死角で肘で小突いてそれを諌めた。


 カンカン、と踏切の音が聞こえてきた。


「この先だよな?」

「はい」


 そこから少し歩いて踏切の前まで来たが、タイミング悪くまた遮断機が閉まってしまい、四人は立ち止まる。他にも数人が横断待ちをしていて、スーツ姿と作業着姿は半々だった。前者が駅利用者、後者はすぐ近くの工場に勤める人間のようだった。


「あー」


 と、津嘉山が口を開いた。会話の糸口を探る、調子を整えるような声だった。


「……三橋は、どうだった?」


 おそるおそる、といった口調で尋ねる。それに対して幸太郎はごく冷静に。


「落ち込んでますね」


 バッサリ断定されて、津嘉山の肩が震える。しかし幸太郎はさらにそこに付け加える。


「時間があったらでいいので、顔でも見に行ってあげてください。あいつ、人と会うと元気出るタイプなので」


 津嘉山は意外に思った。彼は三年になって幸太郎の担任を務めていたが、こうしたフォローをするような印象を幸太郎に対して持っていなかった。良く言えばクール。悪く言ってしまうと。


――少なくともこうした言葉が出るような子供ではないと、そう思っていたが、認識間違いだったのかもしれないな。


 津嘉山がそんなことを考えているうちに踏切が開いた。

 幸太郎は迷いない足取りで進んでいく。その背に向かって年長の方の警官が声をかけた。


「佐立くん。その、倒れた場所っていうのはどんなところなんだい?」

「神社です」


 思わぬ返答に警官は疑問を覚えた。このあたりに神社なんてあったか? そう目線でもうひとりの方に問いかけてみるが、首を振るばかり。続けて視線を向けられた津嘉山も、知らない、と首を振った。

 不思議に思いながらも、幸太郎が嘘をつく理由も思いつかず、とにかくその案内についていく。


 踏切を抜けて、コンビニと飲食店を通り過ぎ、十字路を右に曲がる。高架下をくぐって、すぐに左に曲がって――。


「ここです」


 と、幸太郎が右手の方を指さして、残りの三人は少なからず動揺した。


――あんなものがさっきまであったか?


 馬鹿げた疑問だ、と津嘉山は頭を振った。仮になかったとしたらどうだと言うんだ。いきなりその場所に生えてきたとでも言うのか。


「……こんなところがあったのか。知らなかったな」

「入りますけど、準備はいいですか?」


 幸太郎の言いぶりに三人は身構えたが、元々理由もわからず気絶した、と聞いていた場所だ。頷く。


「じゃあ行きますよ」


 と。幸太郎の言葉に合わせて神社に足を踏み入れた瞬間。



 冬の朝から、春の夜へ。

 高架横の神社から、広大な桜の園へ。



 何もかもが一瞬で変化して、唖然として三人はその幻想風景に見入ってしまって。


 静かに、幸太郎の声が響いた。



「すみません。少し、嘘をつきました」



*



「本当にいいの、悠里ちゃん? 学校行かないで」

「はい! やっぱり心配ですから!」

「ありがとー、悠里」


 三橋家リビング、午前七時半。ソファに座るのは真維と真維の母、それから悠里。


 七時前に訪れた悠里を三橋家は、心配してありがとう、と快く受け入れた。それから真維の自室に上げられた悠里は、顔を見るなり謝罪を始めたが、『昨日散々謝られたし、そもそも私が自分から行ったんだから、悠里が謝ることじゃない。気にしないで』との言葉を受け、しかし結局また泣いた。


 それから真維に宥められた悠里は、真維の母がそろそろ病院に向かう、と告げに部屋に来たときには『私も真維先輩についていきます! ……迷惑じゃなければ』との覚悟を固めていたのである。


 今は三人で、有休を取った真維の父が車庫から車を出して玄関先まで持ってくるのを待っている。


「そういえばさっきそこで佐立先輩に会いましたよ」

「幸太郎に?」

「はい。ご飯買いに行くって言ってました」

「あー、昨日帰るの遅くなったから……」


 それにしても朝早くに珍しい、流石に昨日はあまり眠れなかったりしたのだろうか、と真維は考える。昨日は散々理解不能な場面に遭遇したわけだし、神経が昂ぶって自分のように眠りが浅くなったのだろうか。


「……智己のことも何とかしなくちゃね」

「……はい」


 真維の言葉に、悠里は真剣な、しかしどこかもどかしげな表情で頷く。『何とか』。真維も悠里も、この『何とか』をどうすればいいのか、まるで見当がつかないのだ。

 もう一度あの場所に――、それしかないとわかってはいるが、動かない右腕がそれを引き留める。あの場所は何処で、何時で、そして智己は何故――。何もかも不明な中、確かに持ち帰ったのは、ただこの――、


 バタン、と車のドアが閉まる音がした。父が玄関先まで車を移動させて、それから自分たちを呼びに来たのだ。


 検査がどのくらいかかるかわからないが、考える時間くらいはあるだろう。真維は思考を中断してとりあえずは目先のこと、と腰を上げたが、しかしそこで気が付いた。母が何やら不安そうに自分を見上げていることに。


「どうしたの、お母さん?」


 聞いてから、これほど答えのわかりきった質問もない、と反省した。自分の子供が理由もわからず右腕を動かせなくなり、これからその検査に向かうのだ。不安にならない方がおかしい――、と。そう思って、どうせ大した効果は生めないだろうが、と、それでも気休めの慰めを口にしようとしたとき、母の方が先に口を開き――、



「智己ちゃん、って誰? 昨日のことに関係あるの?」

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