4

「……なに、これ」


 呟いた言葉は響かなかった。まるで、空の闇と花の光が、音を吸い取ってしまったように思えた。

 その幻想風景に導かれるように、真維の足がふらりと前に――、


「待て!!」


 今度の声は響いた。幸太郎だった。踏み出しかけた真維の腕をつかんで、引き戻す。もう片方の手は悠里を抑えていた。彼女も真維と同じように、前へ歩みを進めようとしていた。

 引き留められたふたりは、突然夢から醒めたように意識を取り戻して幸太郎を見た。彼の顔に浮かんでいたのは焦りだった。


「どう見たっておかしいだろ。引き返すぞ」


 おかしい、と。真維は、言葉に出されてようやく脳が理解に追いついた。そうだ、今この状況は『おかしい』と形容するのだ、と。


 先ほどまで鳥居の外から見えていた風景は何だったんだろう。いや、そうじゃない。今自分が見ている景色はなんだ? 唐突に降りてきた夜。この世のものとは思えない輝きを放つ桜の花。そしてその異常な数を。周りにあった建物はどこへ消えた? あったはずの本殿は? それから、それから。いったいどこに、神社のどこにこんなに広大な土地があったのだろう。ありえないほどの、まるで水の流れのようにどこまでも連なる、数千本どころか万本にまで届きそうな桜の樹が、この街の一体どこに隠れていたのだろう。


 そうだ、これはおかしい。おかしいのだ。


 だからこそ。


「『永遠がある神社』……」


 確信が。


「離してください!!」


 次に声を響かせたのは悠里だった。悲鳴のような声を上げて、幸太郎の手を振り払う。

 そして俯いて、前髪に表情を隠したまま。


「やっぱり、私が、あんなこと」

「おい、待て!」


 止める間もなく、桜の波の奥へと走り去ってしまう。幸太郎は苦々しい表情で真維に呼びかける。


「真維、追うぞ!」

「……あ、え」

「早くしろ! こんなところで見失ったら不味い!」


 言うが早いか、幸太郎は駆け出す。真維はその言葉と背中を認識して、けれど未だ事態に思考が追い付かず、間抜けな言葉を幸太郎に投げる。


「じ、自転車! どうしたらいい!?」

「置いてけ! 使えないだろ!」


 言われて気付く。不規則に樹木が配置されたこの場所では自転車を使ってもかえって遅くなるだけだと。そしてようやく思考が現状に追いついて、真維も走り出す。桜に隠れ始めた幸太郎の背中をめがけて。



*



「離して! 離してって!」

「いい加減……、大人しく、しろっつの、この……」


 真維が追い付いたときに見たのは、幸太郎が悠里の腕をつかんでいる姿だった。

 捕まっている悠里はがむしゃらにその手を振りほどこうとしていて、一方幸太郎は全力疾走の疲れから息も絶え絶えだった。


「悠里!」


 叫ぶと、悠里は真維に視線を向けて、かえって一層強く暴れはじめた。幸太郎の体力は傍から見ても限界を迎えていた。真維は急いで悠里に近付き、抱き留めた。


「離して、離してくだ、さ……」


 しばらく暴れ続けていた悠里だったが、だんだんと声に涙が混じり、やがて真維の腕の中で大人しくなった。


「私の、私のせいです……。私が、あんなこと言わなければ、智己先輩は……」

「大丈夫、大丈夫だからね」


 大丈夫、大丈夫、と言い聞かせながら真維は悠里の背中を撫でる。げほ、と幸太郎が咳をした。未だに息が荒い。前髪が一房、汗で額に貼りついている。膝に手をついて、すう、はあ、と深呼吸して息を整えている。

 真維はそれを見て苦笑しながら言う。


「サンキュー幸太郎。やっぱり陸部入ればよかったのに」

「冗談、だろ。吐きそうだ」


 言って、幸太郎は上体を持ち上げて、今度は空を見上げるように首を曲げて深呼吸。ふう、と息をついて、真維を見た。


「よし、戻るぞ」


 と。けれど。


「……おい、どうした?」


 真維は瞑目して。少しだけ沈黙して。


 首を、横に振った。


「……おい」

「絶対ここには智己の手がかりがある。探さなくちゃ」

「そういう問題じゃ、」

「そういう問題よ」


 幸太郎の反論を真維はぴしゃりと塞ぐ。


「もしあたしが行方不明になっててこんな場所見つけたら、あんただってここ調べるでしょ。そういうことよ」

「…………」


 幸太郎は口を開けて、何事かを言おうとしたけれど、結局溜息しか出てこず、投げやりに首を振った。


「……もう次はそいつが逃げても知らないからな」

「あたしは追いかけるわよ」


 そしたら?と言いたげに幸太郎を見る真維。幸太郎は、もう一度深い溜息をついた。


「とにかく、一度入口まで戻るぞ。大体の現在地は把握してるつもりだけど、結構走ったからな。あまり複雑な経路は取りたくないし、拠点ははっきりさせたい」

「うん、賛成」


 その間にそいつをどうにかしろよ、と目で訴えてくる幸太郎に、真維は泣きじゃくる悠里を抱きしめながら、視線で感謝を返した。



*



「……おかしい」


 と、突然先導する幸太郎が歩みを止めたのは、ちょうど悠里が落ち着きを取り戻し始めたあたりだった。

 不穏な幸太郎の言葉に、真維は尋ねる。


「どうしたの?」


 そう言った幸太郎は、数多ある中の一本の桜の樹を見つめていた。何の変哲もない、というわけではないが、周囲の樹木との特別な違いがあるとは思えない樹だった。

 少しばかり余裕を取り戻した悠里が不思議そうに尋ねる。真維の服の袖はつかんだままに。


「えっと、迷った、ってことですか……?」

「いや、違う」


 幸太郎は険しい目つきで樹木を観察しながら。


「迷うわけがない。ただ来た道をそのまま戻ってきただけだ。間違える要素がない」


 そう言い切った幸太郎。悠里は、そうなんですか?と問いたげに真維の顔を見る。真維も頷いて。


「幸太郎がそう言うんならそうなんでしょうけど……。じゃあなんで入口が見つからないわけ?」

「なんで、と言うのもナンセンスな気がするけどな」

「どういうことですか?」

「おかしな場所で起こるおかしな出来事に、それらしい理由を求めるのも馬鹿げてるってことだ」


 そう言いながらも、幸太郎は何事かを考えるように眉間に皺を寄せている。


「って言ったって、わからないものはわかりませんじゃどうしようもないでしょ」

「独特の移動法則があるのか、それとも出口は使い切りだったか……。後の方だったあ最悪だな」

「うーん……」


 真維も同様に考え込み始める。しかし、まるで取っ掛かりがない。なぜ夜になったのかとか、なぜ桜がとか、そもそもなんでこんなに広いところにいるのかとか。ひとつも仕組みの想像がつかないのだ。想像の及ばないことについて頭の中で考えたところで、ひとつも前に進むわけがない。


 ひょっとしたら出られなくなったのではないか、と。一瞬そんな考えが頭を過ったが、不思議なほどそれは真維の頭に響かなかった。未だに幻想風景との遭遇に、頭がショックから抜け出ていないのかもしれない。


 硬直した状況の中で。


「……あ」


 と声を出したのは悠里だった。きょろきょろと辺りを見回していた彼女は、真維と幸太郎が見つめるのとは別の樹を見て、声を上げた。


「どしたの?」

「あ、大したことじゃないんですけど」


 これ、と悠里が指さした先。真っ白な幹に一ヶ所だけ赤い雫が垂れたような跡があった。


「何ですかね、これ」


 と悠里は近付いてその雫へと指を――、


「触るなっ!」

「ひうっ!」


 再び幸太郎の鋭い声が飛んだ。怯えた悠里は涙目で真維に隠れるようにしがみつき、幸太郎はハッとしてバツの悪そうな顔で言う。


「不用意に周りのものに触れない方がいい。植物の中には触れただけで死ぬような毒を持つものもある。これだって一見桜に見えるけど、実際にそうかはわからないぞ」


 その言葉を聞いた悠里は、さらに蒼白な顔になり、慌てて樹から距離を取る。

 幸太郎はそれと入れ替わるように、けれど一定の距離を保ちながらその雫を観察する。


「ただの染みか……?」


 と小さく呟き、近くにある別の樹木の方へ向かっていく。

 一方で真維はふと違和感を覚えた。それは先ほどの幸太郎の話を聞いたときに芽生えた感覚。少し考えて、その正体に気が付いた。


 花弁が落ちていないのだ。


 これだけ盛大に桜の花が咲き誇る中、一枚の花弁も地面に落ちていない。


 桜の花を見上げた。その浮かび上がるように輝く白の花を。


 ――これは本当に植物なのだろうか。


 そんな考えが浮かんだところで、幸太郎が傍に戻ってきた。


「あの赤い染み、他の樹にも一ヶ所ずつ付いてるな。同じ形をしてるし、何かのマークなのかもしれない。花弁の形に見えないこともないけど……」

「この樹、たぶん普通の植物じゃない。一枚も花弁が落ちてない」

「……ああ、そうみたいだな」

「あ、ほ、ほんとです」


 悠里は驚いたように、幸太郎は嫌そうな顔で地面と花を見比べる。

 それから再び何かを探る目つきで三人は周囲を観察したが、特にそれ以上の手がかりは発見できなかった。

 沈黙が集中ではなく停滞を意味するようになったころ、真維が軽く手を叩いた。


「とにかく、調べるしかないわよね」

「……そうだな。とりあえず拠点はここにしよう。ここを中心に周囲を探索する」

「悠里も、それでいい?」

「はっ、はい! 頑張ります!」

「うん、それじゃあまずは――」


 そうして、桜の園の調査が始まる。



*



「何も、見つからないですね……」

「そうね……」

「……」


 調査方法はごく単純なものだった。というより、それ以外には浮かばなかったと言ってもいい。

 真維の歩幅を七十センチメートルと仮定し、まずは一方向に百メートル移動。見つからなかったら、スタート地点まで帰還して、今度は別の方向へ。四方を終えたら、今度は二百メートル、三百メートルと増やしていく。


 現在は三百メートルの三方向目。すでに二キロ近くの距離を歩いている計算になる。


 収穫はふたつ。ひとつ目は、携帯電話が使えないということ。ふと真維が歩行距離を確認しようといつもの癖で携帯を取り出したときに、携帯電話の存在がはじめて思い出された。何とも間抜けだ、どれだけ気が動転していたんだ、と思いながらも、表示は無情の圏外。それ以前に、時計機能すらも生きていない。幸太郎の携帯も同様だった。

 ふたつ目は、物を置いて、それが視界に入らなくなる程度に離れると、どこかへ消えるか、認識できなくなってしまうということ。スタート地点に幸太郎が上着を、二百メートル探索時三方向目の行きの途中に真維がマフラーを、三百メートル探索時一方向目の行きの途中に悠里が同じくマフラーを置いたけれど、すべてその場所に帰って来たときには消えていた。そう言えば自転車も気付いたら消えていた、とそのとき思い出した。


 まとめると。


「本当に、これ……」

「何もないですね……」

「……」


 そんな中、最初に音を上げたのは、声を上げなくなったのは幸太郎だった。会話が自分と悠里の間でしか交わされていないことに気付いた真維が幸太郎を見て、慌てて声をかけた。


「ちょっと、あんた顔真っ青じゃない!」

「………………いや」

「唇まで白くなってるし……、もう!」


 なんでこんなになるまで我慢するかな、と真維は幸太郎の肩に手をかけて、休憩を促す。


「……だけど、やす、んでる、暇は」


 と、そこまで言った幸太郎の身体が傾いで、咄嗟に真維が受け止める。


「……なんか言うことある?」

「……悪い」



 家から学校まで自転車で五分ちょっと。学校から神社まで徒歩で十分。それからこの場所に来てすぐに全力疾走。それからだいたい三十分くらい休みなく歩き回っている。真維と悠里はともかく、中学三年間を帰宅部で通し、普段から登下校くらいの運動しか行わない幸太郎は、体力の限界だった。


 三人は近くの多少開けたスペースに座り込んだ。幸太郎はほとんど病人のような顔色で体力回復に専念していて、それを真維は心配そうに、悠里は申し訳なさそうに見ていた。


「大丈夫?」

「……いや、まだキツイ」

「それは見ればわかるけど……。大丈夫? この後歩けそう? 背負おうか?」

「無理言うな……。昔とは違うんだぞ……」


 頭痛をこらえるような顔で真維に背中をさすられていた幸太郎だったが、やがて少しずつ顔色が良くなってくる。ようやく話せるくらいにはなってきた頃に、意を決したように悠里が声をかけた。


「あ、あの! すみません、佐立先輩。私があのとき、ひとりで勝手に走り出したせいで……」

「いや、別に」


 その謝罪に対し、幸太郎は心底どうでもいい、という表情で手を払うように振って答えた。


「そういうのはどうでもいい」


 口にまで出した。謝罪すらも拒否された、とそう捉えた悠里はまた泣きそうな顔になる。それに対し幸太郎は、げっ、と言う顔をして、真維に背中をつねられながら、


「別に俺が体調不良起こしてるのはお前のせいじゃなくて、単に俺が運動不足だからだし、お前が気に病むことじゃない」

「いや、でも……。そもそも私がこんな噂を、」

「それもどうでもいい。俺をここに連れてきたのは真維だし、この場所を見つけたのは俺だし」


 言いながら、あ、と。嫌なことに気付いてしまった、という顔で。


「ていうか直接原因はここを見つけた俺だし、誰が悪いって話になると遡り直近の俺が一番悪いことになるし、俺は謝りたくないからお前も謝らないでくれ。お前が謝ると俺も謝らなくちゃいけないみたいな流れになるだろ。謝罪合戦はストレスにしかならない」


 唐突にぺらぺらと話し始めた幸太郎。その言葉を投げられた悠里は困惑の表情で。その間にさらに幸太郎は言葉を差し込む。


「それから俺は話すのが苦手だから緊急事態と重要事項以外は真維と話してくれ。以上」


 話したらまた疲れた、と幸太郎はとうとう地面に寝そべり始める。回復体位で。それを悠里はぽかん、と口を開けて見て、真維に視線を移して。


「……変わってますね。佐立先輩って」

「……悪いやつじゃないんだけど」


 たぶん、と。付け加えた真維は苦笑して返した。

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