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智己が帰っていない、と。
真維がその電話を受けたのは午後十時を回る頃だった。
「帰ってきてない、って」
『そうなの。塾に通ってた頃はこのくらいの時間になることも珍しくなかったけど、ほら、もう受験も終わったでしょう? だからどうしたのか心配で……。真維ちゃん、何か心当たりない?』
「えーっと……。今日はあたしが先に帰っちゃったんで、ちょっとわからないです。由夏とか明奈あたりの方が知ってるかもしれません。あの子たち帰る方向一緒ですから。あたしの方から連絡しましょうか?」
『ああ、いいのよ。私の方から聞いてみるから。ごめんなさいね夜遅くに』
そうして電話は切られた。切られた後も、真維は受話器を持ちっぱなしで考え込んでいた。
自分のような街の奥に住む人間と、駅周辺に住む人間とでは、夜間外出に対する感覚が違う。駅周辺では午後十時と言っても未だに街はそれなりに人通りがあるし、塾帰りの中高生がうろついているのは珍しくない。一方で奥の方になると、午後十時は闇の世界だ。街灯もほとんどないし、ひとりで歩くのは漠然とした身の危険を感じることもある。
智己の母の口調が心配げながらも落ち着いていたのでなんとか真維も平静を保てたものの、夜の十時を回っても家に帰らないというのは、彼女にとってはかなりの異常事態に思えた。ましてやその理由に自分が一切思い当たらないということを考えれば。
電話の前でじっと考えをめぐらす真維の姿を不審に思った母親が声をかけた。何の電話だったの、と聞かれて、智己が家に帰っていないらしい、と返すと、彼女を知る母は大きく驚いた。
「大丈夫なの、それ? 警察とかに連絡するの?」
「わかんない。あっちの方に住んでる子は結構この時間でも結構普通に外出てるみたいだけど……」
けど、と。やはり心配だった。『警察』。母が口にしたその単語が一気に話を生々しくさせた。「ちょっと連絡入れてみる」と告げて二階の自室に戻った。
中学では携帯の校内持ち込みは禁止されている。この規則を守っている人と守っていない人の割合は半々くらいだけれど、真面目な智己がこの規則を破っているところを見たことは一度もない。それでも一応、と。携帯を取って電話をかける。
コール数が三回、五回、十回。十五回目を聞いて切断した。やはり出ない。そもそも電話が繋がるようなら智己の家族がすでに連絡を入れているだろうし、予想できた結果だった。
ベッドの上にスマホを置いた。こうなるとどうしようもない。心当たりもないし、連絡もつかないのだ。他の友達への聞き込みは智己の家族がやっているみたいだし、そもそも単に自分が心配し過ぎという可能性がほとんどだろう。駅側には奥側と違って夜でも色々入れる施設があるし、普通に他の友達と遊んでいて、たまたま家への連絡を入れ忘れているだけなのかもしれない。
しかし一度不安になってしまえばなかなかそれを拭い去れない。だから真維はいつもの行動を取った。
窓を開けてサンダルを履いて、ベランダに出る。夜の風が冷たくパジャマの隙間を通り抜けて、身震いをした。柵を乗り越えて、その向かい側の、別のベランダに乗り移る。こんこん、とガラスをノックすると、中のカーテンが開いて、部屋着の幸太郎が姿を見せた。幸太郎は何も言わずに窓を開けて、真維を中に招き入れる。サンダルを脱いだ真維が部屋に入ると幸太郎は、寒、と呟きながら、からから音を立てて窓を閉めた。
真維は幸太郎のベッドに寝転がり、それを見た幸太郎はクッションを足元の床に敷いて、その上に座った。幸太郎は何も言わずただ真維を見ていた。しばらく黙って部屋の天井を見ていた真維だったが、しばらくして、ごろん、と寝返りを打って幸太郎の顔をじっと見つめて、口を開いた。
「友達がさ」
「ああ」
「まだ家に帰ってないんだって」
「そうか」
「心配にならない?」
「なってるんだろ?」
「なってる」
なるのよねえー、と今度は逆向きに寝返りを打って幸太郎に背中を向ける。その背に幸太郎は言葉を投げかける。
「別に大したことじゃないだろ。あっちの方のやつらは夜でも歩き回ってるし」
「いやあ、そうなんだけど、そうなんだけどさあ……。やっぱり一度気にし始めるとさあ……」
「ていうかお前も家に帰れよ。もう十時回ってるぞ」
「あんたの部屋はあたしの部屋の一部だからいいの」
なんだそりゃ、と苦笑する幸太郎。枕元にある動物のぬいぐるみをつかんで宙に振り回す真維。真維の手にある以外にも部屋に点在するぬいぐるみは、幸太郎の部屋に真維が置きっぱなしにしているものであって、確かに幸太郎の部屋は真維の部屋の一部と言えなくもなかった。
真維がひょい、と空中で手を離してぬいぐるみがベッドの上に落下して跳ねる。そのときのぼすっ、という音を合図に、真維は勢いよく起き上がる。
「よし、眠くなるまでゲームするわよ! ゲーム機出して!」
言いながらパンパン手を叩く真維。幸太郎は重たげに腰を上げる。
「ええ……、めんどくさいな。押し入れにしまってあるんだけど」
「なんであんたは毎度毎度ゲーム機しまっちゃうわけ?」
「お前が来たときくらいしかやらないしな」
ごそごそと押し入れの上の棚からゲーム機の入った収納ボックスを取り出す幸太郎。ゲームソフトの束を、選んで、と真維に手渡し、テレビに配線を繋いでいく。真維は対戦ゲームを選び取って、ベッドに寝そべったまま横の机に置く。置いたその手でリモコンを取ってテレビを点けて、入力切替。配線を繋ぎ終わった幸太郎がソフトをセットして、コントローラーを持って真維のベッドの方にやってくる。コントローラーを真維に手渡して、自分は床のクッションの位置を変えて、ベッドに寄りかかるようにしてテレビに向き合う。
「よし、ボコボコにしてやるからね」
「あんまり気合入れると寝れなくなるぞ」
*
目が覚めたのは僥倖としか言いようがなかった。
寝ぼけた真維は、枕に顔をこすりつけながらううん、と唸って、ぼやっとした記憶を探った。結局心配と白熱が入り混じった深夜に寝るタイミングはつかめなくて、確か戦績は最初は勝ち越していたのに段々判断力が鈍ってきたのかミスが出るようになってから幸太郎に逆転されて、最後に、午前三時を回ったのは覚えていて――、
「今何時!?」
「七時」
がばり、と起き上がるとベッドの横から幸太郎の声が聞こえた。ベッドに寄りかかったまま、携帯につないで音楽を聴いていたらしいイヤホンを外した。
「よ、よかった……。寝過ごしたかと思った……。学校行かなきゃ」
「行ってらっしゃい」
「あんたも行くのよ」
「無理。俺は寝る。お前が俺のベッド占領してたせいで身体バキバキになったし」
う、と真維はたじろぐ。確かに押しかけた幸太郎の部屋のベッドですやすや眠ってしまったのは自分の落ち度だ。偉そうに説教できる立場でもない。
「べ、別にあたしの部屋のベッド使えばよかったじゃん」
「馬鹿か?」
「それじゃないならこのベッド大きいんだしふたりで詰めても、」
「もっと馬鹿」
いいからさっさとどけ、と幸太郎は立ち上がって、しっしっと手を払う。真維は唇を尖らせながらベッドから降り、入れ替わりに幸太郎がベッドに入る。
「学校……」
「気が向いたらな」
「向かないんでしょ」
「向かないな」
もう、と言いながらも今回ばかりは仕方ない、と大人しく引き下がり、ベランダへと続く窓を開ける。けれど、思い留まるように後ろを振り返り、
「ありがとね」
「んん」
もうほとんど寝入ってるような曖昧な返答に、真維は小さく笑った。
*
教室に入った瞬間に、いつもと空気が違うことがわかった。
「おはよー……?」
と、なんだか異様な雰囲気の中クラスメイトに話しかけると、皆がこぞって真維の方を振り返る。十を超える数の眼光を一気に向けられてぎょっとした。
「ね、真維聞いた?」
と。その声色だけで良くない知らせだとわかってしまった。そして、その良くない知らせが関連しているだろう出来事に、心当たりがあった。
「昨日から帰ってないんだって、智己」
授業が始まる前に情報は交換された。わかったのは、誰も智己の放課後の動向を知らなかったということだけ。いつも一緒に帰る友達も、『昨日は気が付いたらいなくなっていた』とのことで、誰も智己の行方を知らなかった。
夜遅くまで出歩く生徒はそこまで珍しくないけれど、朝になっても帰って来ないなんてことはほとんどない。ましてや智己のような優等生が連絡なしで、なんていうことは。
妙な熱気があった。穏やかな生活の中心に火種が放り込まれたような。口々に心配と推測が飛び交って、何か浮足立ったような雰囲気があった。
朝のホームルームに訪れた担任が智己の詳細が不明であることを告げて、「誰か何か知ってるやつはいないか」と情報を求めると、前の方の席に陣取る生徒たちがかわるがわるクラスで共有された情報を伝えた。生徒側も何か知らないかと担任に尋ねたけれど、やはり「何もわからない」ということ以上の情報は得られなかった。
その日の授業は、元々受験後でもうほとんどちゃんとした授業にはなっていなかったけれど、みんなさらに上の空だった。近くの席の友人とこそこそと話をしていて、教室内は秘密めいた空気があふれていた。
その中でひとり、真維は考え込んでいた。
あの子はどこに行ったのだろう、と。他の生徒たちと同じことを、もっともっと深く。
*
気が付いたら六限目の終了のチャイムを告げる鐘が鳴っていた。
帰りのホームルームが始まるより先に、教室に入ってきた担任は生徒たちに囲まれて質問攻めにされた。返ってきた答えは変わらず「わからない」。落胆して席に戻る生徒たち。けれどひそかに真維には心当たりがあった。望み薄かもしれないけれど、当たってみるのはタダだろう、と。
ホームルームが終わって、しかしクラスメイトが誰も帰ろうとせず智己の話を続ける中、真維は一足先に教室を出た。
向かった先は二年生の教室。目的は悠里に会うためだった。
昨日の悠里はいち早く部活の階段練習に集合していた。昨日の智己は真維よりも遅く教室を出たのだから、真維と階段で遭遇した悠里なら、そのあとに智己に会っていたとしてもおかしくはない。
教室に着くと、ちょうどホームルームが終わったところだった。
入口近くの生徒に呼んでもらおうか、と考えながら教室のドアから覗き込むと、呼んでもらうまでもなく、すぐに悠里が見つかった。窓際一番後ろの席。入って行こうとしたところで、悠里も真維の存在に気が付いた。目が合って。
ぼろっ、と悠里が涙を流した。
その涙に驚いている間に、悠里が駆け寄ってきた。真維に正面からすがりついて、涙声を絞り出すように口を開く。
「ま、真維先輩……。わた、私のせいなんです……」
手がかりを得た、と思うのと同時に、悠里を心配する気持ちが湧いた。『私のせい』という言葉が、どうか彼女の責任感がもたらした過剰な表現であるように、と真維は祈った。
*
「練習が始まってちょっとした頃に、智巳先輩が来たんです」
泣く悠里を宥めながら向かったのは空き教室だった。この状況で学校側に報告しないのはそれなりの理由があるのだろうと真維は判断していたし、まずは自分ひとりで聞くつもりだった。
空き教室に着いてからも悠里は泣き続け、しばらくしてからようやく口を開いた。
「それで、ちょっといつもより帰るの遅いんじゃないですか、って。そう言ったら、朝の話に興味があるって」
「朝の話?」
「永遠がある神社の……」
「ああ」
少しだけ納得した。確かにあの朝、智己は永遠という言葉について何か感じるところがあったようだし、あの都市伝説めいた言葉に興味を惹かれていたのかもしれない。
「それで、私、話しちゃったんです。その神社は、高架下の踏切を抜けた先にあるらしいって。それで、その神社を本当に求めてる人にしか見えないらしいって」
高架下の踏切。あまり駅の方の地理には詳しくないけれど、これはすぐにわかった。駅のホームが肉眼で見えるくらいの近いところにある踏切。市街地とは駅を挟んで反対側にある踏切だけれど、何度か通ったことがある。
それから?と真維は話の続きを待っていたが、悠里はえぐえぐと泣くばかりで何も話さない。
「……それだけ?」
「そ、それだけです……」
なんだ、と。情報の少なさにがっかりしながらも、けれど悠里が深刻な関わり方をしたわけではないということに安堵する気持ちもあった。泣きじゃくる悠里の背中を撫でながら語り掛ける。
「その後は?」
「『そう』って。『興味あるんですか?』って聞いても『興味ない』って言って、そのまま帰っちゃって、私もそれからは練習してたんですけど……」
「わかった。じゃあとりあえず先生に報告しよう。とりあえずあのあたりに行ったのかもしれないって情報だけでも」
「あの、あの……」
「大丈夫。悠里のせいなんてことないよ」
「でも……」
その先をなかなか言葉にできずに、泣き続ける悠里。真維はそれを慰めながら考えていた。事件だろうか、と。あのあたりに行ったんだとしたら、きっとその可能性は低いんじゃないかと思った。あそこまで駅に近い場所ならば夜になっても人通りがあるし、誰にも見とがめられることなく事件に巻き込まれたとは考えづらい。そうなると、智己が行ったのが高架下の踏切とは別の場所なのか、それとも事件とは全然違う事情が生じたのか。皆目見当はつかないけれど、とにかく智己の居場所を知る何かの取っ掛かりになればいい、と考えていた。
少し落ち着き始めた悠里を椅子から立ち上がらせる。職員室に報告に行こう、と肩を支えながら空き教室を出ようと、そうしたところで悠里の足が止まった。
「悠里?」
と声をかけるけれど、彼女はうつむいたまま肩を震わせていて、顔を上げない。けれど、何かを伝えようと唇が動く気配がして、真維はその言葉を待った。
「もしも……」
「……うん」
「私が、言ったせいで、私のせい、で。智己先輩が」
「永遠に、なっちゃったら」
それは、まるで真維の脳裏に浮かんでいなかった可能性だった。
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