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 自転車が死んでいた。具体的に言うと車輪の部分が。


「どうした、頑張れ。お前の根性を見せてみろ」


 ひしゃげた車輪をべしべしと叩いてみるけれど、自転車は家電ではないので一向に改善の兆しは見られない。


「しっかりしろ。お前はこんなところで終わるのか?」


 それでも自転車は死んでいた。うんともすんとも返事をしなかった。

 自転車に話しかけていた佐立さたち幸太郎こうたろうは、それを確認すると、うん、と清々しい顔で頷き、立ち上がり空を仰いだ。春の気配を纏い始めた陽光に眩げに目を細め、頭上に右手を翳した。吸い込んだ空気には冬の残り香が感じられ、肺が清められたような気分になる。


「帰るか」

「帰るか、じゃないでしょ!」


 べしん、と不意打ち気味に背中を叩かれて幸太郎はよろける。

 振り返ると、幸太郎の隣の家に住む同級生、三橋みはし真維まいがいた。怒り半分、呆れ半分の顔で。


「たかが庭先まで出てきただけで満足してんじゃないわよ。ほら、学校行くわよ」

「無理だな。自転車が崩壊してる」

「歩いて行きゃいいでしょ、まだ八時前なんだから。だいたいあんたのその言い訳もう十回近く聞いたわよ」

「タイムリープでもしてるのか?」

「してないわよ! あんたが先週から自転車壊れてるの放置してるだけでしょうが」


 ほら行くわよ、と踵を返してすたすた歩き始める真維。幸太郎も自転車の前カゴに突っ込んでいた鞄を手に持って、そのあとを小走りで追いかけ、すぐに隣に並んだ。


「あんたは本当にほっとくとすぐ学校サボろうとするんだから」

「だけど実際もう行く必要ないだろ? 高校決まってもう後は消化試合みたいなもんだし」

「残り少ない貴重な中学生活を精一杯楽しもうとか、そういう気持ちはないわけ?」

「全然」


 ない、と何食わぬ顔の幸太郎。真維はじとっ、と幸太郎を横目で見る。


「血も涙もないやつね」

「他人のために流さないだけだ」


 ふたりの通学路は時間帯にも関わらずほとんど人通りがない。家から学校まで徒歩二十分。学校から駅までは徒歩十分。家から駅までは徒歩三十分。幸太郎たちが住むのはあまり大きな街ではなかった。駅の周りに新興市街地はあるけれども、学校より奥に入っていくとかなり人気ひとけは少なくなる。

 閑静と言えば聞こえは良いけれども、実態としては開発から取り残された地域である。学校から駅へ出るバスは一時間に四本ほど。一方こちらの住宅地に出るバスは一時間に一本が良いところ。基本の移動手段は徒歩か自転車。代わりにやたらと家がでかい。


 ふう、と真維が鼻で小さく溜息をついた。


「あたしたちももう卒業か……。なんか、早いもんね」

「そうか? 長かっただろ」

「あんたはもうちょっと人に意見を合わせようとか思わないわけ?」

「そうだな。全然ない」

「言っておくけどそれは『意見を合わせる』のうちに入らないからね」


 ぺし、と真維は手の甲で幸太郎の胸を軽く叩く。


「あんたは大体普段から協調性ってもんが」

「ない」

「そんなんじゃ社会に出てやっていけ」

「ない」

「よくわかってんじゃ」

「ない」

「何で今変な合いの手入れた?」

「わから」

「ない。いや自分でやったんだからわかりなさいよ」

「楽しいかなと思った」

「まあ確かにコントみたいになってたけど……」

「そうか?」

「協調性!」

「ない」


 こら、と自分の肩を幸太郎にぶつける真維。幸太郎は、うお、と小さく呟いてよろける。


「なんかいつの間にかあたしより身長高くなってるし」

「お前が俺より背が高かった時代なんてなかっただろ」

「あったでしょ。昔はあたしの後ろちこちこついて回ってたくせに」

「わかったわかった。そういう時代もあったんだな。お前がそう言うならそういうことにしておこう」

「なんであたしの方が現実認められてないみたいになってんのよ!」


 口を尖らせる真維。静かに笑う幸太郎。


 三月初頭。春の予兆と冬の名残が混ざる季節。ふたりとも同じ高校への進学も決まり、中学校生活も二週間後の卒業式を残すのみ。


「あんたとは一生こんな感じなのかもね」

「どうかな」



 穏やかな時間が流れていた。



*



「真維、おはよう」

「おはよー。って、あ……」


 昇降口に上がると、真維はすぐにその場に居合わせた友人の泉谷いずみや智己さとみと挨拶を交わし、しかしその直後何かを探すように視線を巡らせた。

 探しものは幸太郎だった。昇降口の扉を開けるまでは一緒にいたはずなのに、一瞬の間に先に行ってしまい、すでに階段へと向かう背中しか捉えられなかった。


「佐立くん?」

「あ、うん。あいついっつもひとりで先行っちゃうんだもん」

「ああ……」


 智己も真維の見つめる方に視線を合わせ、


「ちょっと変わってるもんね」


 と、やや冷めた口調で言った。真維はその言葉の温度をうっすらと感じ、取り繕うように苦笑して言う。


「いや、確かに変わってはいるけど、悪いやつじゃないのよ? ただ昔っから人見知りが激しいっていうか、ひねくれ者っていうか……」

「おっはよーございまーす!」


 どん、と背中に衝撃を受けて真維はよろめいた。たたらを踏んで振り返ると、上沢かみさわ悠里ゆうりが腰にしがみついていた。真維は笑って挨拶を返す。


「はいおはよー」

「悠里、あなた朝練は?」

「……えーっと」

「サボったの?」


 目を釣り上げる智己。うう、と呻いた悠里は真維を盾にするようにして隠れる。


 真維と智己は今では引退しているものの、夏までは陸上部に所属していて、それぞれ部長と副部長を務めていた。悠里も陸上部の所属で、彼女たちのひとつ下の後輩である。


 詰め寄ろうとする智己と縮こまる悠里。間に挟まれた真維は、両手を胸の前まで持ち上げて、まあまあ、となだめる。


「たまにはそういう日だってあるわよ」

「真維はいちいち甘やかしすぎ」

「そんなことないって。智己が厳しすぎ。別に毎日サボってるわけでもないんだし。ね、悠里?」


 首を倒して悠里の顔を見る真維。しかし悠里はその言葉と視線を受けてびくり、と震えると、大袈裟に視線を逸らす。


「いやー、あはは……。まあ毎日はたまにのエブリデイみたいな……」

「あなたまさか、」

「そ、それより! 先輩たち何話してたんですか!? 私のことよりそっちの方が気になるなー、みたいな!」


 危険な空気を察知した悠里が強引に話を逸らす。真維は苦笑しながらも、その誘導に従って話題を転換してあげることにした。


「別に大した話してないけどね。幸太郎……、佐立がちょっと変わったやつだって話」

「ああ、あの! そういえば佐立先輩が社会人と付き合ってるって噂聞いたんですけど本当なんですか?」

「え!?」

「悠里、声大きすぎ。ここ昇降口だからね」

「あ、ごめんなさい……」


 朝の昇降口には当然ながら彼女たち以外の人影も見える。智己にとがめられ、声を潜める悠里。内緒話をするように口の横に手を当てて、真維に再び尋ねる。


「で、どうなんですか? 真維先輩って佐立先輩と仲良いんですよね?」

「どうも何も……。いったいどこからそんな話が出てきたわけ?」

「嘘なんですか?」

「嘘でしょ。そんなとこ見たことないし」


 真維の答えを聞いた悠里は、なーんだ、とつまらなそうに呟く。


「なんか佐立先輩ってクールっていうかミステリアスっていうか、そんな感じだから本当なのかなーって思ってたんですけど、がっかりです」

「クール、ミステリアスねえ……?」


 真維は自分の知る幸太郎と、噂を作り出したらしい他者評価との乖離に、何とも言えない気持ちになった。ろくに本人を知らなければそういう風に見えるのだろうか。


「頭もめっちゃ良いって聞きますしー。って、先輩たちもですけど。ふたりともシロイチ受かっちゃうし」


 悠里の言うシロイチとは崎代さきしろ第一高等学校の略称である。このあたりの公立高校では最も偏差値が高く、真維らが通うこの中学から進学する生徒は毎年十人程度しかいない。


「いいなー。私もシロイチ行きたいです」

「よく言うね、その成績で」

「い、言うほど悪くないですよ。定期試験毎回350くらいは取れてますし……」

「全然足りない。あと100点は上げなきゃ」


 智己にばっさり一刀両断された悠里は、がっくりと肩を落とす。


「えー。私も先輩たちと同じ高校行きたいです」

「嬉しいこと言ってくれるわね」

「可愛い後輩でしょー?」

「調子に乗らない」

「乗ってませんー」


 ぐりぐりと真維の背中に頭を押しつける悠里。真維は笑いながら、智己は呆れながらそれを見ている。


「寂しいですー。卒業しないでくださいー。特に真維先輩」

「おうおう、可愛い後輩だこと」

「可愛くない後輩の間違いでしょ」

「だって智己先輩厳しいんですもん」

「これも愛よ、愛」


 だからこれも愛の拳、と軽く握りこぶしをつくって振り上げる智己。きゃー、とふざけてまた真維を盾にする悠里。

 そこでキンコンカン、と予鈴が鳴り響いた。


「ありゃ、話しすぎちゃった」

「悠里のせいね」

「時間が流れるのが悪くないですか?」


 唐突に壮大な責任転嫁をした悠里。しかし智己は意外にも真剣そうな顔で頷く。


「確かに、一理あるかも。悠里もたまにはいいこと言うね」

「天才ですか?」

「調子に乗らない」

「ほら、いいから早く行こ。遅刻しちゃうって」


 真維は悠里を背中から引き剥がし、智己の腰のあたりを鞄で軽く叩き、昇降口を抜けて階段の方に向かって行く。智己も悠里もそれに続く。


「時間の流れと言えば」


 階段を上っている途中で、悠里がふと思い出したように口を開いた。


「何?」

「いや、噂なんですけど。聞いたことないですか? 永遠がある神社って話」

「聞いたことない。ていうかそれ噂? 都市伝説って言わない?」

「ていうか怪談っぽいタイトルよね」


 かわるがわる口を挟むふたりの先輩に、悠里は少し不満そうに唇を尖らせる。


「もしかして私の話に興味ありません?」

「そんなことないわよ」

「そんな馬鹿な話に振り回されるくらいなら勉強したら?とは思ってる」

「もう! なんで智己先輩はいつもそういうこと言うんですか!」

「愛だよ、愛」


 からかう智己に、憤る悠里。そんなことをしているうちにすぐに三年生の教室がある階に着き、ふたりは悠里に別れを告げ、廊下の奥に入っていく。ふたりはどちらも一組の所属で、教室は一番奥にある。時間にはもう少し余裕があるし、そもそももう三年生は多少の遅刻はとがめられない時期になっているけれど、他に歩いている生徒はいなくて、ふたりの歩みは自然と早足気味になる。


「ねえ」


 口を開いたのは智巳だった。


「ん?」

「真維は、永遠って欲しい?」

「ええ?」


 思わぬ智己の発言に、真維は怪訝な表情をする。智己がこういう類の発言をするイメージは、真維の中になかった。基本的に智己は現実的な考え方をする人間で、怪談だとか占いだとか、そういうのとは縁遠いと思っていたし、感傷的な言葉を使うような場面もほとんど見たことがなかったからだ。

 真維は小さく戸惑いながらも答える。


「うーん、あんまり考えたことないかも。あたし、毎日普通に幸せだし」


 この答えでいいのだろうか、と智己の表情を窺うと、彼女はどこか寂し気な表情で微笑んだ。


「そう、だよね」


 と。それだけ言われてしまうと、なんだかフォローしなければいけない気がして。


「まあでも、あたしたちの友情は永遠、みたいな?」


 少し茶化すようにして返す。すると智己の笑みが深まったので、真維は安心した。


「なにそれ、恥ずかし」

「先に恥ずかしいこと言ったのはそっちでしょ」


 お互いが肘で脇腹をつつき合う。


 案外智己も不安に思っているのだろうか、と真維は思った。新しい環境に移ることには誰だって多少の緊張が伴うだろうし、自分の目からは大人びて見える智己だって、ごく普通に不安がっても不思議なことじゃない。

 けれど進学先は同じ高校。順当に行けば中学と同じく一緒の部活。そんなに怖いことはないと思う。ふたりで一緒に行くのだから。せっかくだから来年は悠里もシロイチに来てくれればいい、来年になったら受験勉強を見てあげようか、と。


 そんなことを考えているうちに教室に着いて、また今日も、残り少ない、いつも通りの中学校生活が始まった。



*



 天気は午後から雨になった。


 少し長引く帰りのホームルームの間、やけにそわそわしている真維に、智己が不審そうに話しかける。


「どうかした?」

「いや、雨降って来ちゃったから……」

「何? 傘忘れたの?」

「あたしは持ってきてるんだけど、」


 言いかけたところで教壇に立つ担任が、「んじゃ以上。解散」とホームルームを締めた。がさがさと教室の生徒たちが動き出すと、真維はいち早く立ち上がる。

 真維は智己に向かって軽く手を上げて、


「ごめん。あたし先帰るわ!」


 と言い残して教室を後にする。


 走りと歩きの中間くらいの速度で、真維は昇降口へと急ぐ。

 一階に下りると、階段横でジャージ姿の悠里がアキレス腱を伸ばしていた。


「あ、先輩」

「お、悠里早い。えらいえらい」

「まあ智己先輩に言われたその日くらいは気合出そうかなー、と。でも階段練キツイから嫌なんですけど。先輩、雨止めてくださいよ」

「無茶言わない」


 練習を始める前からすでに疲労したような様子の悠里に真維は苦笑しながらつっこむ。実際のところ、雨の日の練習はかなりきつい。グラウンドが使えない日は校内の階段をダッシュで上り下りする練習をするのだけれど、いつもの練習よりもかなり短い時間で終わるはずなのに、むしろ普段の練習よりも疲労が濃くなっていることもある。雨の日はこの世の終わりのような表情をしている部員すらいる。


「って、こんなことしてる場合じゃなかった」

「こんなことって何ですかひどくないですか」

「ごめんごめん。頑張れ後輩!」


 ぽん、と悠里の肩を叩いて激励し、今度こそ昇降口へと向かう。


 すぐに幸太郎を見つけた。鞄を肩がけにして、下駄箱をつかんで、靴を履くために爪先でトントンと床を叩いている。真維はその姿に安堵して近付く。鞄から折りたたみ傘を出して、それで幸太郎の背中を触れるように、ぽす、と叩いた。


「あんた、どうせ傘持ってきてないでしょ」

「……ああ」

「それでなんでさっさとひとりで濡れて帰ろうとするわけ? あたしを待つって発想はないわけ?」

「ない」

「なんでよ」

「いや、お前は他のやつと帰るのかと思って」

「友達みんな駅の方に帰るし。ていうか別にそのときだって他の子と一緒に帰ればいいでしょ」

「いや、」

「そういう遠慮はい、ら、な、い、の! はい、傘はあんたが持つ」


 ぐい、と押し付けられた傘を受け取る幸太郎。真維はさっさと靴を履き、ふたりは玄関に出る。

 幸太郎が傘を開き、その下にふたりは並んで入る。


「もうちょっと傘下げてよ。身長差で濡れるじゃん」

「ああ」


 そう言いながら膝を折り曲げて真維と同じになるまで目線を下げた幸太郎。真維はその太ももの裏を軽く膝で蹴りつけた。


「嫌味か! 誰が身長合わせろって言ったのよ!」

「よかれと思って」

「嘘つけ!」


 笑いながらも、今度は普通に自分の頭頂部ぎりぎりまで傘を下げて持った幸太郎。少しだけ傘を左に立つ真維の方に傾けて、幸太郎の制服の右肩がじわりと雨に打たれて変色していく。それを真維は横目で見ていた。

 いまだに冬の香りを残す冷たい雨が、かえって隣に立つ熱を繊細に感じさせた。


「幸太郎」

「ん?」

「さんきゅ」

「……いや、俺の方こそ」


 ありがとう、と呟いた声は、強まり始めた雨に吸われて、隣に立つ真維以外の誰にも届かずに消えた。




 三橋真維が泉谷智己の失踪についての連絡を受けるのは、この六時間後のことになる。

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