『蟹地獄』

『蟹地獄』【地】




『蟹地獄』








 ――東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる


                         (――石川啄木『一握の砂』)




【初めて蟹を見たこと】


 ――――幼い頃の記憶がある。

 私の最も古い記憶。それは昔、私がまだ外国に住んでいた頃の記憶だ。

 自分にとっての原風景とも言えるその光景を一言で表すのなら――――


 『蟹』


 だった。

 奇麗な海だった――と思う(記憶が美化されているだけなのかもしれない)。

 浜辺に打ち上げられ、死んでいた。

 蟹。

 数えきれないほどの、蟹の死体。

 小型の蟹が、数百匹、いや、ひょっとしたら、千匹くらいか――。

 なぜ、浜辺の一箇所で、あんなにも大量の蟹が死んでいたのか、その理由は知らない。

 ただ、私が蟹という生物を見たのは、それその時が初めてのことだったはずだ。

 私は幼さゆえの好奇心から、死んでいる蟹を、一匹つまみ上げてみた。

 それを、同じく浜辺に漂着していた流木の上に置き、近くに落ちてあった手頃な石を拾い上げる。

 ――なぜそんなことをしようと思ったのか、今となっては分からない。きっと、子供特有の、無邪気さと残酷さがそうさせたのだろう。

 私は、既に死んでいる蟹に向かって、石を打ち下ろした。

 何度か叩き付けてみたが、小さな子供の力では、甲殻類の頑丈な外殻を砕き割ることはできなかった。

 やわそうな見た目だと思っていたのか、予想外の硬さに驚かされたことを覚えている。

 私は、宝ものを手に入れた気分で、それをポケットに入れて持って帰ろうとしたが、母親は

「捨てなさい」

と言った。

 渋々、蟹の死体を諦めた。


 ――――これが、私と蟹との出会いだった。







 両足八足大足二足、横行自在にして眼、天を差す時如何――――。


                        (――妖怪【蟹坊主】の問答)





 段々と暖かくなり、春の陽気も感じられそうになってきた三月。僕――カイン・イワザキは、王先輩と一緒に、見知らぬ街の見知らぬ道を歩いていた。

「ふぉぐ…んむ…牧俊君の情報によると……もぐもぐ…■■県■市F町――この街で間違いないんでふよね、ヤツが潜んへいる街ふぉいうのは……ごっくん」

「ああ。あのパソコン小僧が調べてきたデータには、そう書かれてる。脱獄犯はこの街に潜伏してると見て間違いない……っていうかなお前、喰うか喋るかどっちかにしてくれねえか? 行儀わりぃな……」

 特警御用達の天才少年ハッカーこと牧俊君の用意してくれた書類に目を通しながら、先輩は呆れ返った顔でそう言った。

「しかもお前、食べ歩くにしてもカロリーのメイト的なやつとかならともかく、蟹ってお前……」

 確かに僕は今、手に持ったカニ足を頬張りながらの捜査活動を行っている――。

 でもですね? 僕だってですよ。なにも好きでカニの足をむしゃぶりながら街を練り歩いているわけじゃないんですよ。

「いや、だってほら、さっき通った商店街で、魚屋さんのおばちゃんが味見味見ってしつこく押し付けてきて……でもこのカニ、結構美味しいですよ? ちょっと筋っぽいですけど」

 現在僕らは、指名手配中の脱獄犯を追って、東都を離れ、やっとのことでこの辺鄙な町に辿り着いたところである。「辺鄙」とは言ったものの、そこは極端に田舎というわけでもなく、「近代的な部分」と「牧歌的な部分」が混在した、不思議な都市だった。

 その地域色は非常に特殊で、繁華街やビル群のある中央都市を少し離れてしまえば、郊外には山々の裾野から草原が広がり、牧場なんかもある。

 一方、中央都市では古い歴史を持った地元ヤクザに対抗し、最新鋭のマフィア、ギャング連中が群雄割拠。文字通りシノギを削り合っているという、暗く危険な面も見え隠れしている。だが、そんな剣呑な地に住んでいるわりに一般住民はどこか呑気で、陽気な人たちばかり。そのせいか、あまり深刻さを感じさせない。

 きっちりと裏社会と表社会、その住み分けが出来ているような、何度も言うが、本当に、不思議な町なのだ――。

 ちなみに県の北側は海にも接しており、特産物は、近年からその湾口でなぜか大量に獲れるようになった、よく分からない種類のカニだそうだ。

 今まさにその「よく分からないカニ」をモシャりながら歩いている僕の隣りには、おこぼれを頂戴しようと思っているのか、太った三毛猫が並んで歩きながら、足元にすり寄ってくる。町中、妙にノラネコが多いのも、漁業が盛んなせいだろうか。

 先輩が、「ハァ……」と溜め息を吐く。

「そうかそうか、美味いか。そりゃあ良かった。じゃあな、ひとついいことを教えといてやる」

「ふぁい?」

「お前、この街の年間犯罪率、全国でもワースト3の常連なのは知ってるよな?」

「あ……確か、むぐむぐ。ギャングやらヤクザやらの縄張り争いが過激なんですよね、むしゃむしゃ……」それにしてもこのカニ足、たっぷりぎっしり詰まった中の身が固く筋張っていて、なかなか噛み切れない――。

「そう。んでもって、この街で出る行方不明者は、毎年述べ250人以上。そのほとんどが、それら暴力団関係者だ。警察はホント、何やってんだか……」

「おっかないですよね。でも不思議なことに、異能犯罪はほとんど起こっていないのでしたっけ」

「まあな、表に出てないだけかもしれんが。行方不明者も、ほとんどがそういった裏社会絡みでのトラブルが原因だそうだ。おおかた、重りでも付けられて、海に沈められてるんだろうよ」

「海……」

 僕は、少し嫌な予感がして、手に持ったカニの足を見つめた。先輩は意地の悪い笑みを浮かべて、「で、本題――」と遠慮なく続けた。

「海の蟹っていうのはその大多数が所謂いわゆる〝腐食性〟のスカベンジャーでな。海底に沈んだ魚やら何やらの屍肉を漁って食ってるのよ。もちろん、ドザエモンだって例外じゃない。それどころか、人間様の水死体なんざ、ヤツらにとってはまたとない――言っちゃまあ、食い出のある御馳走みたいなモンよ」

 え。つまり、このカニさんたちが食べてたかもしれないモノって……。

「うっぷ……」食欲滅殺、吐気強襲。僕はカニ足を食すことを即刻中止した。

 残ってしまったカニはどうしようか悩んだ末、さきほどから足元で物欲しそうな視線を放っていたノラネコに献上することにする。

 が、

「オイオイ、猫に甲殻類食わせるのはあんまりよくねえな。食べ過ぎたらチアミン欠乏症になる」

 と先輩に制止された。

 ……へぇ、詳しいですね。というか、あんたの話で気分が悪くなった後輩のことよりも、お猫様のほうが心配ですか、そうですか。

 僕はノラネコの目の前にカニの切れっ端を置こうとしていたのをとりやめて、立ち上がった。物悲しげな顔で僕を見上げていた彼には申し訳ないが、まあでも、よくないものは仕方ない。近くに手頃なゴミ箱等も無いので、仕方なく証拠品回収用のビニール袋に入れて、胸ポケットに仕舞い込んだ。しかし上着のポケットに食べかけのカニ足が入っているというのも、なんだか妙な気分だ。気持ちが悪い。

 そんな僕の気持を知ってか知らずか、


「まあ、カニの話はそこまでにしといてだな。問題は、オレたちの追ってるほうの〝蟹〟だ」


 先輩は、急に真剣な顔になって言った。

 僕達の追っている〝蟹〟――――異能脱獄犯、妖怪【蟹坊主】こと蟹澤かにざわ いさりのことだ。

 先月、京で起こった『百鬼夜行事件』。その首謀者による〝白澤騙りハクタクガタリ〟から造り出された即席異能者たちの一人――それが蟹澤だ。「異能ハザード」と呼ばれるほどの騒動の中、まるで荒廃した世紀末に水を得たモヒカン族のように暴れまわり逮捕された、有象無象のうちの一人である。

 そしてその即席異能者たちのほとんどが、力の本元――首謀者【白澤】の死亡により能力を失ったのにもかかわらず、少数ながらも、発現した異能を失くさずに「自分のモノ」にしてしまったレアケースがあった。蟹澤は、そのレアケースのうちの一人でもあるのだ。

「蟹澤は京において十八もの傷害事件、二十五件の窃盗、三十四件の器物破損事件を起こして、異能者刑務所に収監された。だが先月末、拘束を解かれた一瞬の隙に、看守二名に重傷を負わせ、鋼鉄製の扉と牢を『切断』して逃亡した。看守たちは腕や足をバッサリやられて、扉や牢も、みんな見事に真っ二つだったそうだ」

「破壊に特化した異能――」

 しかも、生体に対しての殺生力がかなり高い能力らしい。

「政府の異能監査部門に登録されたデータベースによると、ヤツの能力は〈触れたものを『両断』する〉こと。能力名は〝鋏手男シザー・ハンズ〟。これは通常の刃物による攻撃、またはカマイタチ系の能力に代表されるような、いわゆる『斬撃』とは違って、物体の構造や硬度を無視して『切断』という概念・現象自体を引き起こす、実質防御不可能の能力だ。本人の直接戦闘能力は高くはないが、触るだけで致命傷を負わせることのできる能力ゆえ、戦闘の際は一撃必殺の可能性にも注意されたし。異能者としての危険度はC+ランクに相当――か」

 先輩は書類を読み上げ、「ふん」とつまらなさそうに鼻先であしらった。

「こんな危険度ランクなんて、現場に出ない役人さまのこしらえた基準だ。クソの役にも立ちゃしねえ。いいかカイン、もし戦闘になったら油断するなよ」

 毒づきながら、書類を僕に渡してくる。

 僕も何度か目を通した書類だが、改めて見てみると、そこに添付された蟹澤の顔写真は、やっぱりなんだか偏平で目が離れていて、それこそ本当に――――カニのような顔をしていた。

「まあ、そうは言っても、俺たちなら問題なく勝てる相手でしょう。接触によって能力を発動するタイプの異能者には、遠距離からの攻撃が非常に有効ですし」

 僕は戦闘中、主に回転式拳銃リボルバーを用いて戦う。こういった接近戦を好む手合いとは、どちらかというと、相性がいい。

 ちなみになぜ、弾数も多くリロードも簡単な自動拳銃オートマチックを使わないのかというと、ずっと前、異能者と交戦中にオートマのハンドガンがジャム(弾詰まり)を起こし、本気で死にかけたことがあったからだ。それがトラウマになって以来、ジャムの危険性の無いリボルバーを愛用している。

 そして王先輩のほうはというと、さらなる変わり種――彼はなんとこの現代社会で、空気も読まずに日本刀を引っ提げている変態抜刀警官だ(一部語弊あり)。

 取り締まる側がこの有り様では、きっと廃刀令や銃刀法だって泣いているに違いない。

 しかし、流石というべきかまたは当然というべきか、腰に提げているその名刀も、無論、それを扱う剣士としての腕前も、伊達ではない。古流の流れを汲む剣術の達人であり、神速の居合い使い。それだけに留まらず、体術も特殊警察中トップクラス。並の武芸者では歯が立たないほどの強さを誇る、頼りになる先輩だ。そのうえ、古今東西、科学からオカルトに至るまでの博覧強記の知識を持ち、おまけに奥さんも美人ときたものだから、ここまで来るとある意味チートキャラにさえ思えてくる。

 接近戦を得意とし、今回の蟹澤のような異能者とは相性が悪いかもしれない先輩だが、剣だけでなく、ヒョウという手裏剣のような飛び道具も使えるのが、心強い。ただ、射撃も一流なのに、頑なに銃を使いたがらないのは、何か深い理由がありそうな気もするのだけど――。

 まあ、今はそんなこと、置いとくとして。

「確か、牧俊君の調べてくれた住所だと、この辺りですよね。蟹澤が身を潜めているというのは」

 我らが特警本庁御用達の天才少年ハッカー牧俊君は、Nシステム(自動車ナンバー自動読取装置)などから蟹澤が逃亡に使った盗用車の行方を追跡、そして全国の駅構内、街角、サービスエリアなどの防犯カメラの録画データをハッキング・収集して、あっという間に蟹澤の居場所を突き止めてしまった。普段は歳相応の14歳児にしか見えないのに、こういう時の手腕を見るたび、ホントに恐ろしい子だと思う。

 そんなこんなで、メモに書かれた番地を確認しつつ、僕たちは目的地へと向かっていた。

「蟹澤の目撃情報はこの街で途絶えている。幸いまだ、一般人に被害は加えていないようだが……楽観視はできねえ状況だ。どんな小さなヒントも見逃さないようにしねえとな」

「これだけ特徴的な顔だと、そうそう見逃しようもないと思いますけどね……」

 蟹澤のカニのような顔は、忘れようにも忘れられないインパクトだ。

「いや……本庁で増田さんから聞いた話だが、裏の筋じゃあ、蟹澤の野郎が〝整形屋〟に接触したという情報も伝わってるらしい。というか、その『整形』のために蟹澤はこんな離れた所まで逃げてきたと言ったほうが正しいかもな。顔を変えてる可能性も高いから、先入観は捨てておけよ」

 増田さん……か。あの人も、牧俊君とは違った意味で苦手な人だ。けど、裏社会に知り合いの多いらしい彼が拾ってくる情報には、それなりの信憑性もある。

 先輩が今言った〝整形屋〟とは、裏社会では有名な闇医者兼逃がし屋で、〈人の顔面構造を造り変えてしまう〉異能を持っていると言われている。その力を使って逃亡中の犯罪者や、国外から潜入した諜報機関員などの顔を〈整形〉し、荒稼ぎしているのだそうだ。最近は東都で噂を聞かなくなっていたが、まさかこんな所に稼ぎ場を移していたとは――。

「なるほど。じゃあもし、牧俊君が着き止めてくれたこの住所がもぬけの殻だったりしたら、厄介なことになりそうですね。整形を済ませて市井に紛れ込んでしまった可能性が高い……」

「うむ。だが、聞き込みしてみた結果を見ると、どうも腑に落ちねえんだよな」と、王先輩。

「ああ、例の、『何でも屋』……でしたっけ?」

 F町に着いてから、牧俊君の調べ出してくれたこの住所について聞き込みをしてみたところ、どうやら、蟹澤と思われる人物は、名前を変え、「何でも屋」として商売をしているらしいのだ。それも、(儲かってはいないそうだが)評判は結構いいらしい。

 地域住民たちの証言は、以下のようなものである――。


『――えーと、この住所は……ああ! ハリマさんのところだね!』

『――ほら、何て言うの? 何でも屋さん? 便利屋っていうのかしら……あんまり羽振りは良くないみたいなんだけどねぇ』

『――頼めば、草むしりでも犬の散歩でも、何でもやってくれるらしいぜ。でも確か、何でも屋のほうは副業でやってるとか何とか』

『――本業のほうは……なンか物騒な仕事じゃって言っとったかいのう?』

『――うちも、屋根の雨漏り修理でお世話になったことがあるんだ。まあ、変人だけど、悪い人じゃないよ』


 ――などなど。おじちゃんおばちゃん連中が面白そうに語っていた。

 この奇妙な展開に、先輩も不信感を隠せないようだ。

「よく聞き取れなかったが、播馬はりまさん? とか呼ばれてたっけか? 偽名まで名乗って商売して、一体何がやりてえのか……」

「潜伏しているはずの脱獄犯が、商売だなんて目立つ行動をとるのも、納得がいかないですしね……っと」

 ――そうこう言っているうちに、目的地に到着する。

 二階建ての、小さなビル。

 一階は窓に貼り紙があり「テナント募集中」となっているが、中は荒れたい放題で、長期にわたり一人の借り手も付いていないのは明らかな様子だった。どうやら、事務所を構えているのは二階らしい。

 僕と先輩は、無言で頷き、足音を殺して、階段を上がる。

 緊張しながらドアの前まで来ると、そこにも貼り紙が――――。


◆◇◆◇◆


『暮後警備』

 身辺護衛とか、ボディーガードとか喫茶店とか。

 ウソだよ! 喫茶店なんかやってねーよ!

 あ、でも、何でも屋はやってますたーヨーダはジェダイ最強っていうか?

 まあとにかく犯罪以外なら何でもやるので、お気軽に依頼してネ!

※今月の注意事項※

 第5地区での夕方以降、痴漢被害が多いようです。みんなも気を付けよう。

 あと、「皿うどん」と「サラウンド」は似ている。みんなも気を付けよう。


◆◇◆◇◆


 ……なんとも、緊張感を削がれる文面だった。

「くれ…ご…けいび? なんて読むんでしょうかこれ? とにかく表向きは警備会社として経営してるみたいですね」

 僕はズリ落ちた眼鏡を押し戻しつつ、気を取り直して、拳銃を構えた。

「ああ。しかし間抜けな文章だなオイ。えっと……何度も言うが、その……油断するなよ?」

 先輩はまるで自分にも言い聞かせているかのようだった。

「分かってますって」

「よし、じゃあ、3、2、1で突入だ。いいな?」

「了解」

「3――――」


『うわぁぁああああああああっ!!!』

 まだひとつも数え終わらないうちから、先輩のカウントは、ドアの中から響く突然の悲鳴によってかき消された。

 聞こえてきたのは、少年の叫び声だった。


「――って、いきなり何だっつんだオォォォイ!!!!!」

 出鼻をくじかれた先輩が、大声で叫びながら、半ばヤケクソにドアを蹴り破った。

 スリーカウントなんて待っていられない。僕たちは仕方なく、し崩し的に突入を決行したのだった。

 ぶち破ったドアの向こう――――そこで見た、光景とは――――。






【蟹について思うところ】


 ――蟹という生き物は、素晴らしい。

 私はその生物に、強く心惹かれた。

 キチン質の鎧に覆われた頑強な躰躯と、機能美に満ち溢れた随所のデザイン、そして洗練されたフォルム。

 タラバガニの攻撃的なイガイガ、毛ガニのずんぐりした体付き、ズワイガニの美脚。頭でっかちなサワガニも愛嬌があるし、滑らかでバランスもとれたアシハラガニの装甲は勇ましくも芸術的だ。変わり種のカラッパ類は面白おかしく、スベスベマンジュウガニも、嗚呼……まるで、すべすべしたまんじゅうのよう――。

 蟹のことを考えているだけで、十八時間は暇を潰せる。

 かの有名な作家――防衛省本庁に置かれた自衛軍駐屯地でクーデター扇動の演説を起こし、割腹自殺を遂げたことで有名なユキオ・ミシマは、極限なまでに蟹を嫌い、『蟹』という漢字を見ることさえも嫌悪していたというが、私には、とても信じられない。

 八本からなる足を巧みに動かし、横這う姿はいくら見ていても飽きないし、一対の鉗脚かんきゃくを器用に使って食事をする様など、まるで慎ましい姫君の晩餐を思わせる。

 何より、煮ても焼いても、刺身にしても、美味いというのが、すごい。もはや反則級の完璧超人……いや、完璧超甲殻類だ。濃厚なミソや、歯ごたえのある腹肉にまで、余すところなく舌鼓を打てる。

 私は、そんな蟹が大好きで大好きでたまらなかった。

 幼い頃から、海や沢で遊ぶたびに蟹を捕まえて帰り、よく母を困らせたものだ。

 私は部屋に沢山の水槽を並べ、その中で蟹を飼った。エサもちゃんと自分で用意したし、毎日川や海まで、奇麗な水を汲みに行って、世話をした。

 歳相応におもちゃをねだったりはせず、いつだって蟹と遊んでいた。お絵かきをしても、蟹の絵しか描かなかった。大人に「将来の夢は?」と聞かれれば、満面の笑みで「蟹っ!!」と答えた。

 そのような息子を見て、母はさぞや頭を痛めたことだろう。

 なにより、そこまで蟹が好きな私が、蟹料理を美味しそうに食べ、喜んでいるのを見て、不気味に思ったに違いない。私はあの味も含めて蟹という存在が好きだったのだが、どうもそれは、理解されなかったらしい。

 中学生の頃、(さすがに蟹にはなれないと悟って)将来の夢を、「蟹工船の乗船員」に変えたら、母には本気で泣かれた。ちょうど中二真っ盛りでプロレタリア文学にかぶれていた、若気の至りだった。

 それでも私は止まらなかった。

 大学、大学院と進んで生物科学・水産科学を専攻し、新種の蟹の発見や、蟹甲に含まれるキチンやキトサンの医療利用効果の増幅方法を確立し、これが学会に認められ、ついには博士号の修得にまで至った。

 ……しかしというか、やはりというか。この御時世に研究者として食べていくことは当然難しく、結局、研究と称し毎日のように水辺に繰り出しては、石川啄木のごとく泣きぬれながら蟹と戯れつつ、ニート同然の生活が二年以上も続いた。

 そんな私の生活態度にいよいよ激怒したのが、父親だった。父のつてにより、私は無理矢理職就させさられることとなるのだが、その職業が何だったかといえば、しがない一介の警察官であった。私の父は警察官であり、厳格で正義感も強かった。ゆえに、息子の私にも同じ道を歩ませようとしたのだろう。全く煩わしい。人間どうしで、やれ法を破った、破ってない、などと下らないイタチごっこを繰り返している様など、はっきり言って、蟹の泡一粒ほどの興味のカケラも無い。

 故に、それからの私の人生も、それまでと何ら変わらず。嫌々仕事をこなしながらも、ひたすらに蟹道楽まっしぐらだった。

 部署の新人歓迎会で、コメツキガニのウェービング行動と泥団子作りのモノマネをした時は、誰にもウケなかったどころか、会場が凍り付いた。

 飼っているタラバガニをわざわざ蟹の本場ホッカイドウ(エゾ地)にまで連れて行って食べた時は、「何の意味があるんだ」と同僚に本気で心配された。

 有給を取って、カニ歩きでフジヤマを登頂し、山頂で「独りカニ鍋パーティー」に興じたこともある。登山途中の休憩食にはもちろんこれ、「かにぱん」。見た目も楽しい、ほんのり甘くておいしいマイ・ソウルフード。この頃すでに、私の周りの人間は皆、私と距離を置くようになっていた。

 その後、謎の老師から蟹の拳法を学び始めた段階に至ってはもう、家族、友人、同僚からも完全に見放されていた。

 それでも、蟹を愛で、蟹を食すことよって、私の悲しみは簡単に和らげることが出来た。

 しかし、安らぎの日々は、そう長くは続かなかった。

 そう、まさか――我が最大にして最愛なる心の支え、「蟹」にまで冷たく突き放される日が来ようとは、私はその当時、考えすらもしていなかったのだった。




※1【コメツキガニのウェービング行動】…いわゆる求愛行動であり、八本足ですくっと立ち上がりながら両ハサミを振り上げるその様は、そこはかとなく可愛らしい。

※2【コメツキガニの泥団子作り】…これは採餌の際に見られる習性で、砂の中の有機物やプランクトンを濾過採食した後に、残った砂を団子状にして捨てるのだ。ああ、何と器用で可愛らしいことか。







 僕と王先輩が、ドアをぶち破って突入した先――その先にあった光景とは。

 少年と、その上に覆いかぶさる、裸の男(かろうじてトランクスは穿いている)。

 ……へ?

 一瞬、思考が停止しそうになった。


「け、警察だっ! 今すぐその子から離れて――……」


 先輩も、しどろもどろになって警告を与えようとした、が……


「「これは違うんだ!!!!」「これは違うんです!!!!」」


 加害者らしき裸男と、被害者らしき少年が同時に叫んで、ますます状況が意味不明になった。

 一体何が違うっていうんだ?


「一体何が違うっつうんだコラ!? どう見たって完璧言い逃れ不可能なペドショタ変態野郎のギンギンな犯行現場以外の何物でもねえじゃねえかっ!!」


 あ。やっぱり先輩も同じことを思ったらしい。

 言うや否や、居合抜きとともに斬りかかる先輩。

 相手の男――おそらくは蟹澤と思われる――は「チッ」と舌打ちし、自分がのし掛かっていた男の子を横に突き飛ばした。これによって、敵の行動は一手遅れた。チェックメイトだ。回避は間に合わない。

 次の瞬間に、一閃。――――刀身がはしった。


「っとと……! っぶねえなもう!!」


 なんと、回避不可能――完全に胴体を捉えたかと思われたその斬撃を、敵はタンッと床に片手をついたや否や、腰にひねりを加えて上体を無理矢理にねじり起こしながら逆立ちし、開脚した足を扇風機のように回して、軽やかに躱していた。

 起き上がった彼の顔に改めて注目してみると、やはり写真で見た蟹澤の顔とは似ても似つかず、全く別人のものだった。既にもう、〝整形〟済みということか――。

 相手は一足飛びで、部屋の奥の木製机(大きくてどっしりとした、外国の推理小説の探偵事務所に置いてありそうなやつだ)の上まで後退し、その上にあった何かを、手に取った。

 マズい――武器か!?

 僕は先輩をサポートするため、蟹澤が手に取ったその物体を、すぐさまリボルバー銃で撃ち抜いた。

 パキャッ――!!

 変な音がして、割れた。

 飛び散るペースト状の物体。弾け飛ぶプラスチック容器の破片。

 それはどうも武器などではなく、何か食べ物――のようだった。

 蟹澤は、「あ……」と、呆気にとられた顔をしていた。だが――次の瞬間、その表情は、激しい憎悪と憤怒の混じり合ったものへと変わっていた。

「よくも……よくもやってくれやがったな、このヤロォオオオ!!!!」

 相手は、突然怒り狂って、こちらに向かってきた。狙いは間違いなく、僕――――って

「……え、ちょ、お、俺ぇ!?」

 あまりのスピードとド迫力といきなりさに、度肝を抜かされた。僕は、突進してくる蟹澤に向かって、連続で拳銃弾を発射する。5発。

 あ、駄目だ。全弾避けられた。ちゃんと狙ったのに。

 ハッキリ言って反応速度がおかしい。誰だよ蟹澤の資料に「直接戦闘能力は高くない」とか書いたやつ……!!

 蟹澤の放った、射ち出されたバリスタ砲のような力強く鋭い蹴りが、完全に僕をロックオンしている。まるで怒り狂うブルース・リーの如く容赦なき飛び蹴りだったが、さすがに僕だって、これだけモーションが大きく直線的な攻撃を喰らうほど間抜けじゃない。冷静を保ちつつ、最小限のスウェーで避ける。それでも、敵の蹴り足のかかとがギリギリで頬を掠ったときの風圧と切れ味には、正直ゾッとした。

 すれ違い、蟹澤が壁を蹴り、反動で空中転回。着地と同時に振り返りざまのヒジを、僕の腹部に打ち込んできた。

「う゛え゛っ…!」吐きそう。

 ピンチ(主にゲロっ吐きな意味で)に陥りかけたところで、先輩が助けに入ってくれた。

 抜き身の刃が斜めに閃く――右片手持ちでの袈裟斬り。

 蟹澤は、己の左肩に向かって振り下ろされてくる刀を、上体を屈み込ませ、剣閃の内側へ潜ることによって回避。袈裟斬りを躱された先輩は、その斬撃に続けて回転し、左の廻し裏拳を繰り出す。蟹澤も同じく、腰をひねって袈裟斬りを避けた動きに合わせ、左廻し裏拳を繰り出す。二人の手の甲どうしが、「ガキッ」とぶつかり合った。

 そこへ再び、先輩の日本刀が翻る。身を反転し、左手で柄尻を押さえながら、返す刀での平刺突ひらづきだ。

 その反転のわずかな隙、敵の手がさっと先輩の腰元へ伸びて、コートの内側から何かを抜き取った――ように見えた。

「あ! あれは――!!」

 次の瞬間、敵の喉元へと真っ直ぐに突き出されたはずの切っ先は、なぜかカッチリ、鞘のうちへと納まっていた。相手は鉄拵えの鞘をその手に持っていて、先輩の刺突を包み込むかのように受け止め、強制的に納刀させてしまっているではないか。あれは間違いない、先輩がいつも携えている愛刀の鞘だ。

「コイツっ……いつの間に鞘を盗ってやがった!?」

 先輩が驚くのも無理はない。高速の攻防のさなか、相手のコート内のホルスターからぶら下がっている鞘を拝借するという、プロのスリ師も真っ青の芸当。さらに、先輩の鋭い刺突を正確に〝点〟で見切り、細い鞘の入り口で「おかえりなさい」と受け止めてしまう神業――。

 ちょっとコレ、完全に油断していたというか、本格的にヤバイんじゃないかと思う。

 そして僕たちの緊張が伝わってしまったのか、僕の隣でも、さきほど男に襲われていたばかりの少年が、怯えた様子で、袖をぐいぐいと引っ張ってくる。

「ねぇ、あの……。ちょっと、聞いてます……? っていうかあなたたち、さっきから一体なんなんですか?」

 それはそうだろう、気持ちは分かる。見たところ、十歳から十二歳といったところか――こんなに幼い子供が、今現在、この状況についていけるはずがない。でも、混乱しているところ大変申し訳ないのだけれど、今はかまってあげられる暇がない。

「ここは危険だ、君はとにかく逃げて! 巻き込まれたら大変だから!」

 そう叫びながら、少年を後ろ手で背後へと押しやった。

 僕はなんとかして先輩を援護しようと銃を構えるが、先輩の背中がこちらを向いた状態で、しかも長身の向こうに相手の姿が隠れてしまっているため、撃とうにも撃つことができない。

「こなくそっ……!!」と先輩も叫ぶ。蟹澤は鞘を持ち、先輩は柄を持って、お互いに押し合っている均衡状態。完全に刀を封じられている。先輩が強く押せば、相手は鞘ごと後ろに受け流せばいいし、かと言って、引こうとすれば、それに歩を合わせて攻め込んでくるだろうという、この状況。

 先輩は仕方なく愛刀の柄からぱっと手を離し、つんのめった敵が握っていた鞘の先を、つま先で蹴り上げた。

 鞘に納まった状態の刀が、くるくると、上方に弾き飛ばされる。

 両者、無手になったその瞬間――――それは、拳撃の応酬の始まりだった。瞬時に構えをとった対戦者同士の間で、ギラリと視線が交わされる。

 瞬撃。

 王先輩に向かって、無数の手技が浴びせられる。

 軌道八方向からの、飛燕ひるがえすが如く鋭敏にして、旋回自在なる拳技。非常に回転の速い、連環した打撃である。

 もちろん、先輩だって負けてはいない。どっしりと構え、敵の拳撃を迎え撃つのは、複雑に枝分かれするようにてきぱきと動く、二本のかいな。さながら、飛ぶ鳥の行く手を阻むように生い茂る樹木の如く。

 互いが、捌く、捌く、避ける、打ち返す、捌く。

 蟹澤の攻撃は、キックボクシングスタイルのようなオーソドックスな打撃に、突如、中国拳法のような幻惑的な動きからの突きや蹴り、古流武術のような投げ技を織り交ぜ、ものすごく読みづらい。達人だ。躰の総てが、迅く巧みに、滑らかに動き、それが「打」・「投」・「極」の隅々にまで行き渡っている。

 ――僕は、気になった。

 一体、蟹澤がどこでこのような格闘技術を身に付けたのか、そして、なぜ先ほどから、異能を使おうとしないのか――。

 あ。そんなことを言ってるうちに、先輩が敵のミゾオチに双掌打(先輩の遣う南拳だと確か『胡蝶掌』って云うのかな?)を打ち込んで、突き放した。ドン、と壁の隅のほうにぶつかる蟹澤。

 チャンス――!!

 宙を舞っていた刀が、落ちてくる。それをキャッチする先輩。

 閃光的に、居合が発動。

 鞘走りによって加速された斬撃――

 敵は部屋の角に追いやられているし、後退することも横に逃げることもできない。今度こそ、決まりだ。

 なんて思ったら、特にそんな事もなかった。

 蟹澤は、今にも抜き放たれようとしていた刀の柄尻に、リーチの長い前蹴りを打ち当て、いざ鞘から抜き出でんとする刀身の行進を、足の裏で無理やり押し止めたのだ。

「何ィッ!?」

 先輩の抜刀は、不発に終わる。

 なるほど、「抜かせない」――か。居合を封じるには、こういう手もあるのだ。しかしやっぱり真に驚くべきは、先輩の神速極まりない居合抜きよりも早く前へ出て蹴り込もうとするそのスピードと度胸、そしてそれを実行しうるだけのクレイジーさ加減、だろう。

 ……っと、感心してる場合じゃないな。

 先輩が、危ない――――

「HuuUUuuAAAaaaAAAAAAAA!!!!!」

 敵は謎の奇声を発した。

 その甲高い声とは裏腹に、テンポよく奇麗な連撃が、王先輩の急所を下から上へ、一直線。


 睾丸、左熊手掬い上げ。

 丹田、左裏拳。

 腹部、右縦拳。

 鳩尾、左縦拳。

 胸骨、右横掌打。

 胸板、左裏拳突き打ち下ろし。

 鎖骨頭、右鉄槌横打ち。

 喉仏、左肘打ち。

 顎、右掌底打ち上げ――――。


 正中線を駆け昇るような連環したコンビネーションが、九撃。面白いように決まっていく。

豪瀧ごうろうのような荒々しさに息を飲まされながらも、同時に鱗を輝かせながらしなやかに跳ねる鯉の如き美しさすら感じさせるその動き。技の流れ。それはまるで、大陸に伝わる故事――鯉が激流の滝を登りきって龍へ姿を変えるという、かの伝説の様を思わせる。

 ――よし、僕はこの連続技を『登龍門九連撃くれんげき』と名付けよう。

 九撃目の最後、さながら昇り竜のようなアッパー掌底を喰らってのけ反る先輩。敵はそこからさらに、組み合わせた両手をハンマーのように打ち下ろして、先輩の頭頂部を強打した。フフ、こちらはさしずめ、落雷のように振り降ろされる雷神の槌――『雷神降破鎚ミョルニール・クラッシュ』とでも言ったところか……。

 『登龍門九連撃』から『雷神降破鎚』の必殺コンボで、ほぼ戦闘不能状態の先輩。これが漫画か格闘ゲームだったら、多分、頭上にピヨピヨとヒヨコでも回っているところだろう。ゲーム好きな牧俊君は確か、「こういうときはレバガチャで復活するんだよ」とかよく分からないことを言っていた。いや、よく分からないけど。

 先輩は、前屈みにがっくりと頭を下げ、よろけている。その、掴みやすい位置にある頭部を、敵はヘッドロックするように脇に挟み込んだ。――まさか、異能を使ってくる!? その状態から能力を発動して、先輩の首を断頭台ギロチンの如く『切断』するつもりか!?

 しかし、その予想は外れた。

 敵はそのまま、先輩のズボンのベルトを掴んで、ひょいっ。まるで、タワーのように高々と担ぎ上げる。

 あっ。この技は、知ってる。ひょっとして――――――うっぉおおおお!!! 凄っげえ!! ブレーンバスターだ!!!! ヤバイ。実戦でこんなに奇麗に決まるところ、初めて見たよ!!

 しかも、プロレス試合のような「魅せる」動きではなく、桁外れに――速い。乱暴に「投げる」のではなく、垂直に「落とし」て相手を壊すそれは、もはやショーマンのパフォーマンスなどではない。立派な殺人技だ。

 その殺人技で、先輩は硬い木製デスクの上に叩き落とされた。デスクは衝撃により、真っ二つに大破。うっわぁ……痛ったそう」

「いや、あの……『痛ったそう』ってあなた。助けに行かなくて、いいんですか?」

「えっ……?」

 僕が振り返ると、少年がジト目でこちらを見ている。

「なっ……!! 君、なぜ今俺が思っていたことを!? まさか〈テレパシー使い〉の異能者!?」

「はぁ? 何言ってるんですか? 声に出てましたよ……『登龍門九連撃』の辺りから、しっかりと」

 ……不覚。赤面。

「でもまあ、助けに行く必要も、もうないみたいですけど――」少年は、落ち着いた口調でそう言った。

「へ? どういうことだい? 王先輩はあんな大技で大ダメージ喰らってるし、しかも敵はピンピンしてるはず……」

「いえ、相討ちです――」と、少年はさえぎった。

「――あの剣術使いのオジサン、けっこうすごいですよ。ほら、見てください」

 少年が、机をぶち壊して床に倒れ込んでいる二人のほうを指差す。完全に白目を剥いて泡を吹いている王先輩。なるほど。たしかにすごい形相だ……。って、いや、そうじゃなくて。よく見ると、先輩のぶっとい腕が、敵の首に巻き付いているのが分かった。そして、蟹澤(いや、ひょっとしたら蟹澤じゃなさそうな気もしてきたけど……)も一緒に気絶している。

「本来プロレス技というのは、ご存知の通り、受け手側の協力があってこそ成り立つ技が多いんです。とくにブレーンバスターの場合は、実戦で使おうと思ったら、受け手の両手が自由になってしまうという欠点――スキがあります。だからあのオジサンは、そのスキをついて、ブレーンバスターをかけられる途中、真っ逆さまに釣り上げられた状態から冷静にも自分の腕を相手の首に回して、チョークを極めていた」

「なるほど。それで、インパクトの瞬間、より強く絞まったそのチョークによって、相手の男も気絶してしまった――すなわち相討ちというわけか」

 それにしても、この少年……一体何者だろう? くすんだ色のふわふわの白髪と、つぶらな赤目も相まってなんとなく白兎っぽい外見は、タダモノではなさそうな雰囲気だ。

「さて――と」

 少年は、僕のコートの袖をくいくいと引っ張って、奇麗な紅い瞳で見上げてきた。

「なにボケーっとしてるんですか? 片付け、手伝ってくださいよ?」

「えっ?」

「当り前じゃないですか。人の事務所にいきなり殴り込んできた挙げ句、チャンチャンバラバラバラ発砲祭りな大乱闘やらかしたんですから。本当ならここがアメリカじゃなくても訴訟モノですよ?」

「えっ?」

「あ。申し遅れました。オレはここで働いてる、助手のイオって言います。で、あちらであなたの先輩と一緒にノビているのが、うちの社長のハリヴァさん――」

「えっ?」

 シャッチョ……? ジョシュ……? 君、襲われていたわけじゃなかったの? そもそもやっぱり、あの男の人(播馬じゃなくて、ハリヴァだったか)は、蟹澤じゃない――??

 ヤバイ。盛大に、やらかしてしまった。これはちょっと本格的にヤバイ。ヤバすぎて始末書どころで済む話ではない。

 そんな感じで思考が追い付いていない僕の手をぐいぐい引っ張って、助手の少年――イオ君は、先輩たちが倒れているほうへと、歩いていく。

 部屋の中(おそらくは、来客用の応接室だったに違いない)を見渡すと、

 ――弾痕だらけの壁。

 ――部屋中に散乱した書類や小物。

 ――ひっくり返ったソファー。

 ――粉々になったガラス窓。

 ――真っ二つの木製デスク。


「少しばかり散らかっていて、申し訳ないですけど――」と、イオ少年。


 ……ぐうの音も出ない。大変、申し訳ない。

 けれども、彼は、この惨状の中、恨んでいる様子も怒っている様子もなく、僕に向かって、にっかりと笑った。


「――アフターダーク・セキュリティへ、ようこそ!」









【蟹とアレルギー】


 ――まさかの、蟹アレルギーだった……。

 私は医者からその症状の説明を受けたとき、絶望という名の巨大なカニバサミに身を引き裂かれ、一気に奈落の底まで突き落とされたかのような感覚を味わった。


 事が起こったのは、突然だった。

 ある日、私はいつものように蟹の身をほじくり出してむしゃぶりついている最中、何やら身体に異変を感じた。

 ――痒い。

 そう、痒いのだ。

 鏡を見た。驚いた。

 口のまわり、耳、そこから皮膚全体へと広がる発疹。

 腹痛と、それに伴う下痢。

 そして、微かな息苦しさを感じる。

 嫌な予感がした。急いで病院に駆け込んだ。

 すると案の定、医者は診断結果を、簡潔に、「甲殻類アレルギーだ」と告げた。

 彼が言うには、どうやら蟹類の食べ過ぎで発症してしまったのだという。人にはそれぞれ、生涯摂取可能なアレルギー物質に対する許容範囲があるらしく、摂取し続けたアレルギー物質がこのキャパシティを超えた時、今までは平気だったのに、それを境に突然アレルギー症状が発現することがあるらしい。つまり同じものを大量に摂取し続けるほど、その成分に対するアレルギー発症の確率が高くなる――のだそうだ。これを「コップが溢れる」、または「アレルギーコップの概念」などと云う。

 そんなバカな――――納得など出来るものかッ!

 なぜ、私が!? この世界でこんなにも蟹を愛している人間が、他にいるというのか!? その私が、なぜ……ッ!?

 あまりの仕打ちではないか。

 人間どもは、皆私から離れて行った。今となって私の心の支えになり得るのは、「蟹」という存在だけだったのだ。

 その蟹からさえも、冷たく突き放された――いちどはそうも思った。


 だが、私に蟹を愛でることをやめるなど、当然出来なかった。

 やはり、飼っている蟹たちだけが、私の唯一の癒しであったし、嫌なこと全てを忘れさせてくれる蟹の味は、まるで麻薬のように、私の心を捉えて離さなかった。

 悪いのは自分だ。彼らが私を裏切ったわけではない。私の躰が、勝手に彼らを拒絶してしまっただけなのだ――――そう思うことにした。

 その後も、私は我慢できずに、何度か蟹を食した。

 そのたびに、病院に運ばれた。

「いい加減にしないかこのカニ野郎」――緊急搬送が十二回目にもなると、さすがの医者もブチギレて、頭を抱えていた。

 その頃私のアレルギー症状はどんどん酷くなってきており、すでに重度のアナフィラキシーショックと、激しい呼吸困難を伴うまでになっていたのだ。蟹に触るだけでも、全身に蕁麻疹が発生するほどだった。

 医者には、「もし次にカニ類を摂取したら、本当に命の保証はない」とさえ言われた。

 誤って少量のエキスや、アレルギー成分が入っている食材をうっかり食べてしまっただけでも、命が危ない。私は、抗アレルギー剤、ステロイド内服薬、アドレナリン注射を常時携帯するよう、担当医から厳重に言い渡された。

 私が地獄の苦行――「蟹断ち」を決心することになったのは、この時からだ。

 いっそ、海に沈んで死んでやろうかとさえ思った。そうすれば、私の水死体は、肉食性の蟹さんたちが啄み、やがては奇麗に喰い尽くしてくれるだろう。

 いや、もしどこかの部位が残ったとしても、腐肉は海の藻屑となって分解され、砂に溶け、デトリタス食性の蟹がしっかりとし取って栄養にしてくれる。また、それらの養分が蟹に渡らず、昆布や海藻の根に吸われてしまったとしても、今度はちゃんと植物食性の蟹さんたちが(以下略)

 嗚呼、なんと素晴らしいんだろう。

 蟹。

 私はアレルギー反応という形で、彼らを拒絶してしまったというのに。

 蟹蟹!

 彼らはそんな私を、余すことなく受け入れてくれるのだ。

 そう思うだけで、私は涙が出るほど嬉しかった。

 蟹蟹蟹!!

 水底で腐ってゆき、蟹の鉗脚でついばまれる己の屍体。たとえ妄想とはいえ、その光景を想うたびに、私は救われ、恍惚の世界に浸ることができた。

 蟹蟹蟹蟹……!!!


 希望だ。

 死ぬ時は、海で。

 そして、生まれ変わるのならば、今度こそ、蟹に――――私はそう夢見ながら、もう少しばかり、生きてみることにした。






(【畜生道】へ巡る――)


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