『百鬼夜行』【末】






                【白澤はくたく


      黄帝東巡 白澤一見 避怪除害 靡所不偏 摸捫窩賛。


                    (――鳥山石燕『今昔百鬼拾遺/雨』)




 深夜の旧皇都支部。

 真っ暗な廊下に、静かな足音と、衣擦れの音。

 老いた霊獣が、のそりのそりと進んでいるような、不気味な足取り。

 一匹の怪異と成り果てた男が、闇に溶け込み、徘徊する。

 その男はコートの上から、真っ白な着流しのような衣を羽織っている。長い裾が床に擦れて、するすると音を立てる。

 衣の背には、漆黒の墨で染められた紋が見えた。例の、「セーマンドーマン」――「桔梗紋」と「九字紋」――を重ね合わせた図形だ。

 男のかおに至っては、黒い漆塗りの御面で隠されており、年齢、容貌、その一切が不明。面の上には大きな紙の札が貼られていて、漢字四文字、


「白澤一見」


と達筆な筆書きでしたためられていた――。

 〝白澤〟。

 この男こそが、百鬼夜行を裏から操っていた異能者――【白澤】だった。

 彼は廊下を歩んで行く。

 首から提げた、小型のクーラーボックスのような容器を、大事そうに抱えている。両手で軽く持ち運べる程度の大きさのそれには、一体何が入っているのか――男の所作と衣装のせいか、遠目からだと、僧もしくは神官が、匣に封ぜられた神器か何かを恭しく持ち運んでいるかのようにも見えた。

 やがて【白澤】は、隊員たちのデスクのあるオフィス前まで来ると、ぴたりと足を止めた。

 オフィスに入ると、整然と並んだデスクの合間を縫って、「目的地」へとさらに歩を進める。

 広いオフィスの一番奥に、その部屋の扉はあった。

 そこは、今は亡き櫓坂隊長の執務室――。

 まだ事件の後始末が済んでいないのと、櫓坂の保持していた様々な機密事項を守るために、現在は厳重に封鎖されている。

 【白澤】はあらかじめ保管室から盗み出してきた鍵を使い、その扉に施されていた錠を全て外していく。

 これでようやく、長年夢見た「封印」を解く鍵へと、一歩近付くことができる――。【白澤】はいよいよ扉を開け、部屋の中に足を踏み入れた。

 目的のものへと、近付いていく。

 ――それは、櫓坂が使っていたパーソナルコンピュータだ。

 彼がパソコンの電源ボタンに手を伸ばそうとした、その時――。


「――そこまでです」


 後ろから、声がした。

 【白澤】はゆっくりと振り返る。

 そこには、真っ暗なオフィスに立って銃を構えている若い刑事――カインがいた。

 カインは銃口をしっかり敵に向け、「その机から離れて下さい」と警告する。

「櫓坂隊長のパソコンから、極秘裏に管理されている異能犯罪者特殊収容施設のデータを手に入れるつもりだったんでしょう?」

 鋭く睨みつけながら、カインは敵の目論見を看破する。

 対異能者用の特殊監獄――通称『インフェルノ』。かつては櫓坂が警備主任を担当し、その後も様々な形で関わってきたという。櫓坂のコンピューターには、施設の設計図から非常経路、警備マニュアル、能力者ごとに系統分けされた監獄の種類、そして危険度の高い異能犯罪者のリストアップまで、ありとあらゆる情報が記されているのだと噂されていた。


 異能者【白澤】は、無言でカインに向き合っている。仮面の下の表情は読めない。無慈悲に異能者たちの命を弄んできたこの男が、今どんな顔をしながら自分の話を聞いているのか、カインは知りたかった。

 だが、湧きあがる怒りを、カインは必死に押さえる。

「あなたはあの時、瀕死の櫓坂隊長を拷問して、『インフェルノ』に関する情報ファイルにかけられたロック解除のパスワードを聞き出した。衰弱した精神に付け込んで、暗示や催眠術で聞き出したんでしょう。そして拷問ついでに、隊長の眼球と指を切除し、持ち帰った。これは、パソコンに備え付けられたセキュリティである『指紋認証』と『虹彩スキャン』をクリアするため……――そうですよね?」

 カインは一瞬だけ、相手の持っているクーラーボックスに目をやった。あの中に入っているのは、おそらく――。

『――梵(オン)』

 異能者は、初めて口を開いた。複数の声が重なったような、生理的嫌悪感を覚える、作り物のような声――。

『オン、キリカ・ソワカ……オン、ダキニ・ギャチ・ギャカネィエイ・ソワカ――』

 その低くおぞましい声が、呪文のようなものを紡いでいき、詠唱に合わせて複雑に指が組まれ、印を結んでいく。

 だが、カインは全く怯まなかった。

 恫喝したり、怪しげな呪文を垂れ流したりするのは、陰陽師としては、二流三流がやること――。

「そんなこけおどし、もう俺には通用しませんよ。正体だって既に分かってます。仮面を取って、しっかり俺の顔を見て下さい」

 どうせ、漆塗りの面の向こう側には変声機ボイスチェンジャーでも仕込んであるのだろう。妖しげな呪文や手印だって、カインの動揺を誘うためのハッタリだ。

 カインはオフィスに潜んで待ち伏せしていた時から、その名を呼ぶ覚悟を決めていた。


「妖怪達の命名者……〝白澤〟とは、あなたのことだったんですね――――――


――――――明満さん」


 全身が脱力しそうになる感覚と、襲い来る吐き気に耐えながら、カインはしっかりと相手の名を――尊敬する老刑事の名を呼んだ。

 【白澤】は、少しの間、硬直したように動かなかった。だが、肚を決めたのか、

『――よく、分かりましたね」

 と、静かに仮面を外した。

 優しげな細眼、皺だらけの顔、ぱさぱさの白髪――そこに立っていたのは紛れもなく、老刑事、明満道晴その人であった。

「やっぱり私の言った通りだ。カイン君――あなたはとてもいい警察官になる」

 本当は、外れてほしい予想だった。

 嘘だと言ってほしかった。

「……なぜ!! どうしてなんですか、明満さん!! 俺は警察官として、人間として、あなたを尊敬していたのにっ!! 菅原さんだって……!!」

 カインのやりきれない思いが、爆発した。

 だが、【白澤】こと明満道晴は、笑顔を絶やさず、淡々とした口調で答えた。

「それは私が、化け物だからです。化けの皮ですよ。もののけとは古来より、常にヒトを欺いてきたモノなのです――」

「あ、明満さん……あなたは……」

 ごくり、と唾を呑む。

 カインの足は、自分でも気が付かないうちに、半歩ばかり後ろに下がろうとしていた。

 目の前のこの老人が怖ろしい――と、彼は心の底からそう思った。怒気も殺気もなく、まるで道端でばったり出会った知己と談笑でもしているかのような笑顔を向けてくる明満が、怖くて怖くてたまらなかった。

 だが、気圧されてはいけない。

「そうですか……すっかり騙されてましたよ。けど今となってはもう、あなたはタネの割れた奇術師と同じだ。ただ滑稽なだけで、誰も騙すことなんて出来ない」

 相手を追い詰めているのは、圧倒的に自分のほうなんだ――。若者は心の中で、気を強く保つように、自分に言い聞かせる。

 そんなカインの強がりを、老怪は鋭く見抜いている。そして、まるでこの状況を楽しむかのように、カインに問いかけた。

「一体何故、『シラサワ』なる者の正体が私だと分かったのですか――?」

 カインは答えてやる。

「……最初に引っ掛かっていたのは、あなたの普警時代の活躍です。完全管轄外の普通警察の刑事が、そう何人もの異能者を立て続けに逮捕できるはずがない。おそらくその五人の異能犯罪者は、あなたがで用意して、犯行を起こすように仕向けた。特警に入隊するためのマッチポンプだったんでしょう?」

「まさしくその通りで……」

 老人は何も否定しない。全て事実だからだ。

 自作自演。自分で火を付けて、自分で消す――それを繰り返すことによって、名誉を手に入れる。十年前の明満が立てた手柄は、陰陽師自らが放った式神を暴れさせ、それを自らで退治してみせただけの、茶番劇だったのだ。

「調べてみて、分かりましたよ。捕まった異能者は五人とも、『地域犯罪相談課』――明満さんが『特別相談員』を務めていたその部署で、あなた自身が担当していた人たちでした。そして、今回の〝百鬼夜行〟で妖怪ごっこに興じていた犯罪者の中にも、かなりの割合で……」

 前科者。犯罪被害者。非行少年。――ただでさえ、心に傷を負い、犯罪や暴力を身近に体験した者たちだ。そういった者たちに、警察機関という特殊な空間と特殊な状況下で緊張を強い、無意識化の刷り込みや暗示の繰り返しを与えてやれば……操るとまではいかずとも、ある程度の行動を指定するくらいは、明満の〝呪〟を使えば難しいことではなかっただろう――と、カインは想像する。そうすればあとは、積み重ね、積み重ねで、相手の迷いや鬱憤が犯行へと振り切るのを、明満はじっと待つだけでよい。

 この老人の悪意は、恐ろしく用心深く周到で、そして回りくどい――。

「あの警察病院の監視カメラの映像だって、あなたが仕組んだ茶番劇だ。菅原さんは、犯罪者でもテロリストでもない。あなたに騙された被害者だったんですよ。

 あなたはあの時、カメラが背後に来るよう立ち位置を調整して、あとから映像を見る俺たちには分からないように、菅原さんを……挑発したんだ。一体、彼になんて言ったんですか?」

 菅原の特技は「読唇術」――つまりあの場面で明満は、菅原に対し、声を出さずとも唇の動きだけで、言いたいことを伝えることが出来た。監視カメラに映されていた菅原と明満の乱闘、そして櫓坂殺害前の映像は、あとから人に見られることを前提として仕組まれた、巧妙な罠――陰陽師による眩惑の術だったのだ。

「別に、何も挑発などしていません。真実を語って差し上げたまでですよ。私が今回、事件の裏でしでかしたことを。そして菅原君を利用させて頂いたことをね。ただそれだけで、あの正義感の強い菅原君は、烈火のごとく猛り狂ってくれました」

 利用というのは、おそらく暇田組と安生組の取引の際、菅原の読唇術による解読で、特警の部隊を月読分社におびき寄せたことだろう。

 さらに境内での死闘で、異能者たちが菅原をあまり襲おうとしなかったことも、『百鬼夜行事件』の首謀者だという濡れ衣を着せやすくするためだったに違いない。

 尊敬していた仲間に裏切られ、そのうえ真犯人は、いつも自分の傍にいた。嘲うかのように弄ばれていた事実を知った菅原は、どのような気持ちでその告白を聞いていたのだろう。それを思うと、激怒に身を任せた彼の反応も、真っ当なものだったように思える。

「じゃあ、助けに入ってきた隊員を撃ち殺したのも……」

「揉み合っている最中に、小さな声で『ほら、私の仲間がきましたよ』と、一言。あとは混乱した菅原君が勝手に撃ち殺してくれました。怒りで我を忘れていたのと、既に警察内部からの裏切りが出ていたことにより、疑心暗鬼になっていたのでしょうねぇ。彼に〝呪〟を掛けることはとても簡単でしたよ。ユリィ君やエミリアさんという、優秀な特警隊員を『百鬼夜行』に引き入れていたことも、効果を発揮しましたかね」

 明満は相変わらず、にこやかな表情を崩さない。その淡々とした独白を受けて、カインがあとを推理した。

「――おそらく、櫓坂隊長の件も、何かこっそり耳打ちでもしたんでしょう。『これから隊長を殺す』とか。そのあとあなたは部屋から逃げ出したように見えましたが、菅原さんから見れば、それは櫓坂隊長を始末しに行ったように見えたはずです。だから彼は、急いで櫓坂隊長のいる緊急医療室に向かった。医療室からの映像、あれは菅原さんが隊長を殺しに来たんじゃなく、あなたの手からから隊長を守りに来ていただけだったんですね」

「そうですよ。私は部屋の外で物陰に潜み、彼が医療室に入っていくのを待った。あとは監視カメラの映像の通りです。偶然を装ってカメラを壊すのは難しかったですが、そのあと菅原さんを浅く締め落として、隊長から必要な情報を聞き出しました」

 あの【式神遣】の木札も、おそらく気絶させた際にこっそり菅原のコートに忍び込ませておいたものだろう。本当に、手品師じみた周到さだ。

「そして菅原さんの銃を使って自分を撃ち、櫓坂隊長にもとどめを刺した――ですか」

 今まで水面下でコソコソと糸を引いていた割には、やけに潔いな――と、カインは訝しがる。もう諦めて自首する気なのか、それとも口封じとしてカインを殺せばいいと思っているのか。

 監視カメラを使った、菅原への冤罪工作。そのからくりを語り終え、明満は少しだけ悲しそうな顔をした。

「菅原君のように強く真っ直ぐな若者は、実に操りやすく、それゆえに、壊れたときも一層脆いものです……儚いことですがね」

「なぜ、菅原さんを利用したんですか……あの人は、本当にあなたのことを……」

「偶然にも彼の母親の姓が『シラサワ』だったので、私のあざなである【白澤】と掛けた言葉遊びにさせて頂きました。ですが何よりもの理由は、彼にも〝資質〟があったことです」

「資質……ですか」

「そう、〝資質〟です――怪異をその身に宿す〝資質〟が、ね」

 カインは、「嫌な予感が当たったな」と思う。

「カイン君。貴方だって、そこまで解っているのなら、おそらく私の持つ異能についても大方見当は付いているのでしょう――?」

 カインは「ええ」と頷いた。

「今回の事件、百鬼夜行の妖怪たちは、すべて〝白澤〟が語ったまやかしです。明満さん、あなたの能力は――――」

 カインは一瞬、躊躇うように言葉に詰まる。まさか、こんな怖ろしい能力者が存在するなんて、考えたくもなかった。


「明満さん、あなたの能力は――――資質のあるものから異能を引き出すこと。だ」


「御名答――」

 老怪〝白澤〟は、醜く口の端を吊り上げた。

 百鬼夜行の妖怪行列は全て、【白澤】によって生み出された。彼はこの能力を用いて大量の異能犯罪者をプロデュースし、暇田麗司、ユリィ、エミリア――そして菅原からも無理矢理――異能を引き出したのだ。

 明満は遠い目をして、語った。

「……昔からのことです。昔から、学校でも道場でも職場でも、私の身の周りには何故か優秀な人間ばかりが集まりました。どのような分野でも同級生や、育てていた後輩にもすぐに追い抜かれてしまいますし、同僚たちも皆、才能を発揮してあっという間に昇進してしまう。また一芸に秀でた者は、その道で食べていけるようになる者さえいました。そんな才豊かな者達に囲まれながら、私はいつまで経っても何も変わらず、何一つの才能を授かることも無く、ごくごく平凡なままだった――」

 訥々と昔語りをしながら、老人はカインに一歩近寄った。

「――しかしです。やがて、私はあることに、気付いたのです。私の周りの才能に溢れる者たちは、皆、私が好意を向けていた相手ばかりだったということに。そう、その時私は確信しました。私には、相手の才能を引き出してあげることが出来る、不思議な力があるということを。私の力で、美しい花を育てることが出来るのだ、と――」

 恍惚の表情。だが、語るにつれて老人の顔は、暗く重たいものに一転する。

「――しばらくは、そのことが嬉しかったですよ。私に宿っている不思議な力が、誇らしくてたまらなかったです。けれどもいつか、私はこうも思うようになった――こんな素晴らしい能力を持ちながら、何ゆえ、己には一切の使用が出来ないのだ、と。

 そう思った瞬間、私は何だか、とても悲しくなってしまったのです……そして一瞬だけ、才能溢れる人たちのことが、羨ましく、妬ましく――思えてしまった。私の力なのに、私のおかげなのに、どうしてお前達だけ……と。今にして思えば、心の狭い逆恨みでしたけどね」

 明満は苦笑した。

「この時私は、まだ自分の持つ力の怖ろしさに、気が付けていなかった……。この能力は、誇るべきものなどではなかったのです」

 そう言って、明満は悲愴な顔で天井を仰いだ。

 カインは黙って、その語りに耳を傾けている。

「どうにも残酷なものですよ――私がちょっと恨み嫉みを向けただけで、その人たちは、開花させた才能を見る見るうちに失ってしまったのですから。輝きを失ってからの彼ら、彼女らの零落ぶりは、それこそ見るに堪えないものでした。全て私のせいだ。いたずらに才能を引き出し、弄び、それを奪って苦しめた」

 明満は、深く溜め息を吐く。

「――私の異能は、花を育てる能力などではなかった。育てた花を摘み取ってしまう能力だったのです……」

 表情の乏しいこの老人が、今、どのような心境でそれを語っているのか、カインにも分からない。

「悔やんで、いるんですか……?」と、若い刑事は訊く。

「いいえ。私は当時、罪の意識に苛まされるよりもむしろ、ただただ自分の力が恐ろしかった。私のせいで才能に溺れ破滅した者、中途半端に才能を引き出され枯渇した者、挫折して自殺した者――そういった人たちも、今まで嫌というほど見てきました。

 とどの詰まり、人を喰らう化け物と一緒ですよ、こんなものは。心底戦慄しました。私は化け物であり、化け物は決して人と係わってはいけないとさえ思った。孤独でした。だから私は――――」

 独白する老人は、下を向いて、目頭を押さえた。

 まさか、泣いているのだろうか――とカインの銃口がぶれる。


 ――――しかし。

 顔を上げた明満は、満面の笑みで嗤っていた。


「――――だから私は、どうしても仲間が欲しかったのです。私と同じような、忌まわしい力を持つ、化け物の仲間が」


「な――まさか!! たったそれだけのために……」

「そうですよ。たったそれだけのためです。私ただ一人だけが化け物だなんて、そんなもの耐えられない。同じように怯え、ひた隠し、疎外感を持ちながら、後ろ暗い『何か』を抱えていた人たち――私は、彼ら彼女らが決して飼い慣らすことの出来ぬその『何か』に、異能として、形を与えてみることにした。心に妖怪を住まわせている者たちを見つけ、私はそれを解き放ってあげたのです、私の能力を使ってね」

 子供のように目を輝かせながら、老異能者は語った。 

「異能も謂うならば、才能のひとつであることには違いありません。ならば、私の能力で意図的に引き出すことも可能なはず。私は、それまでは無意識下に発動し、止めることもできなかった力を、今度は確固たる意志と願望に基づき、ただ己の目的のために行使することを決めました。自分の他にも、同じような能力を秘めている輩は必ずいると――私は、絶対に、そう信じていましたから。そして一人でも多くの同胞に巡り逢うためには、異能者に深く関わるこの職場に就くことが、何よりも重要だった」

「人間の、することじゃない……」

 カインは激しい嫌悪と吐き気に襲われる。

「ええ。そうですとも。自らが化け物であることを認め、化け物を語り、化け物を広める。これはまるで、私が幼いころに心躍らせた〝白澤図〟――その一番最初のページにあった語り部、【白澤】そのものでは、ありませんか! 私はね、そのとき【白澤】になろうと決めたのですよ、カイン君――」

 カインはこれ以上、怒りを押さえていられる自信がなかった。

「分かりました――もういいです。もうこれ以上、あなたの話を聞きたくない」

 しかし、明満はやめない。まるで挑発するかのように、その口は動き続ける。

「まぁ、所詮私の作る異能者はインスタントでしたから。全然ダメでしたよ。いくら増やしても、一向に孤独は埋まらない。何せ彼らには、異能を持ち続けてきた苦悩も悲しみも、そして自らへの畏れも――何も無いのですから。ただ、おもちゃを与えられて喜んでいる子供のようなもの――」

「あんたがそのオモチャを与えたんだろうが!!」

 カインは明満の足下に向けて、発砲した。弾丸はタイルの床に当たり、火花を散らして跳ねた。

 明満の能力は、何も知らない子供に玩具を与え、それを気紛れに奪う、身勝手な大人そのものだ。開花させた異能を奪う――この与奪権があるからこそ、百鬼夜行の誰も【白澤】に逆らえなかったのだろう。そして明満自身、畏れることなく、特警刑事として、自ら作り出した怪異の前に立つことができた。

「仰る通り。失敗は失敗です、認めますよ。だから私は、これから本当の〝仲間〟に会いに行くつもりだった。あんな偽物の妖怪たちとは違う、地獄の奥底に閉じ込められた、本物の魑魅魍魎たちに――」

 それが、今回明満が画策した『百鬼夜行事件』の目的だったのだろう。全ては、対異能者用特殊監獄『インフェルノ』に収容された異能犯罪者たちを世に解き放つため。

 そのためだけに、即席の異能者軍団――百鬼夜行を作り上げ、騒ぎと混乱に乗じ、特警組織へ大打撃を与え、櫓坂の極秘情報を入手した。ついでに、今まで彼の能力によって生み出されたレベルの低い異能者どもを大量に在庫処分するバーゲンセールのようなものだったのだ。

 カインは、「無茶苦茶だ――」と呟いた。

「……そんなことをして、ただで済むと思ってるんですか。『インフェルノ』に収容されているのは浅い階層でも全員が危険度Aランク以上、異能犯罪者の中でも生粋に最凶最悪の部類です。あなたがこの京で起こした事件とは比べ物にならないほどの被害が出る……。明満さん、あなただってきっと、奴らを檻から出した瞬間に殺されるに決まってる」

 旧皇都のような、閉じられた箱庭の中でのとは、訳が違う。パンドラの匣から解き放たれた深淵の怪物たちは、瞬く間に東都から本国全土を混沌の渦にのみ込み、絶望をばら撒くことになる――。

「本望ですよ――それで真の『百鬼夜行』を創ることが出来るのなら。その結果、化け物どうし喰らい合うというのもまた、乙なものです」

「本気で言ってるんですか……?」

「本気です」

 うそだ――と、カインは言った。

「明満さん、あなたは嘘をついている。本当は、こんなこと……誰かに止めてほしかったんじゃないですか?」

 カインは懐から、ビニール袋に入った証拠品――暇田コンサルティングの社章であるバッジを取り出した。

「あなたの背中にもある、その紋章……百鬼夜行のシンボルマークのように使われていたこのデザインは、俺たちに向けられたヒントだったんですよね? セーマンドーマン、安倍晴明と蘆屋道満。晴明と道満を合わせて並び変えれば、あなたの名前――『明満道晴』になる」

 それに――とカインは続ける。

「異能者達から漏れた『シラサワ』という名前だって、明満さん――この前言ってましたよね、あなたの家には、原初の妖怪図鑑の写本が、家宝として伝わっていると。それって、ついさきほどもあなたの口から出てきた、大陸の伝説にある〝白澤図〟のことなんでしょう? どうして、結び付けられると疑われてしまうような情報を、俺たちに流していたんですか?」

 仮面を脱いでから初めて、明満が黙った。表情こそは変わらないが、言葉を探そうとしているのが、カインにも分かる。

 異様に長く感じた一瞬の沈黙ののち、「ただの――ゲェムですよ」と、しわがれた声が言った。

「これはゲェムだったのですよ、私にとってはね。ルールは公正でなければならなかった。だからこそ、貴方たちにも勝ちの目を残しておいた。そして見事、その目を掴み、真実に辿り着いたカイン君――あなたが今こうして、私の前に立っている。ただ、それだけのことです」

「だったら、もう――」

「いいえ、駄目です。王か玉、そのどちらかが詰み取られるまで、遊戯を終わらせることは出来ないのですから。ここまで盤上深く潜り込み、私に王手を掛けた貴方には、その義務がある――」

 明満が、止めていた足を再び動かして、一歩進んだ。

「ち、近付かないでください――」

 明満の進行に合わせて、カインも一歩下がる。

「近付いて来てほしくなければ、撃てばいいでしょう? 当てられれば、の話ですけどね」

「……この距離で、外すわけがない」

 カインは照準をしっかりと定め直す。

「だったら尚更、撃つべきです。私は今や犯罪者で、貴方は刑事。警告済みですし、この状況なら正当防衛だって成り立つ。一体何を躊躇うのです」

「くっ……!!」

「分かりますよ、貴方だって本当は当てる自信がないのです。拳銃というのは、引き金を引くことによって、あなたの殺意を乗せて飛ばす――これも立派な〝呪〟のひとつです。まじない逸らしは、術師の嗜み。術理への理解が深ければ深いほど、〝呪〟に対する防御力は上がります。貴方の使うそれは、撃針が雷管を叩き、その火薬の爆発で鉛玉を撃ち出す。撃ち出された弾は、受け手の体表面から挿入され、体組織を破壊する。分かりやすいですよね。そんな仕掛けの解りきった呪術が、私のような陰陽師に通用するだなんてよもや――貴方も思っていないのでしょう?」

 また、お得意の心理作戦か――とカインは警戒する。ハッタリに決まっていることは理解しているが、平然と近付いてくる明満を見ていると、本当に弾が当たらないような気がしてくる。

 カインの額を汗が流れ、彼は緊張した様子で、リボルバーのグリップを握り直した。

 その心の隙間――カインの心中に湧いた小さな猜疑心を、老いた陰陽師は見逃さなかった。

「今、一瞬でも『当たらないかもしれない』と思いましたね……?」

 虚を衝かれた。心臓の鼓動が、一気に速くなる。

 相手に詰め寄られるがままジリジリと後ろに下がっていたカインは、とうとう、背後にあったデスクに突き当たって、動きが止まってしまった。

 これ以上、近付かせるわけにはいかない――カインはそう判断し、明満の太ももの辺りに拳銃の狙いを付ける。

 手が、震える。

 自分の精神はこんなにも弱かったのかと、カインは動揺する。

 その動揺に付け込むかのように、敵は囁く。

「よく狙った方がいいですよ……一度ひとたび外してしまえば、もう何度撃っても当てられなくなります」

「(駄目だ、相手の言葉に耳を貸しちゃいけない……)」

 カインは拒絶する。呪文を聞くまいと意識すること自体がすでに、陰陽師の術中深くに嵌ってしまった証拠だとも知らずに。

 明満との距離は五メートルほど。外すわけがない――カインは引き金を引いた。

 銃声。血飛沫。

 だが――。

「え――」

 外れた。

 弾は掠っただけだった。ズボンが破けて血が流れているが、明満は歩みを止めない。

「――今ので完全に〝呪〟が掛かりました。私が『避けた』わけではありません。貴方が『外した』んです。もう、いくら撃とうともその銃が私に当たることはない」

「(そんな、バカな――)」

 カインの気が退しりぞいた次の瞬間、陰陽師明満は、大きく手を打ち鳴らした。


 パァン――――――――――ッ!!!!


 とても老人が打ったものとは思えない、厳かで力強い柏手かしわでだった。

 乾いた柏手の音が響き、その音に釣られてしまったかのように、カインはびくり、と反応した。驚きと恐怖心はそのまま引き金に掛けられていた指へと伝わり、つい、不用意な発砲をしてしまう。それも、二発連続で――だ。

 まるで、素人のような銃撃だった。

 銃口から弾が飛び出すが、当然のように、弾丸は明満に当たらなかった。先ほどと違って、今度は掠りさえもしない。

 発砲に合わせて、老躯がひゅっと前に出た。手に持っていたクーラーボックスが投げ付けられ、カインの手からリボルバーが落ちる。

 間合いを詰められた。

「(やるしかない――!!)」

 カインは素早く横に動き、デスクを背負った不利な体勢から抜け出した。明満の側面に回り込みながら、右のローキックを放つ。

 蹴りは老人の足を捉えた。移動中の相手の側面から、ふくらはぎ辺りを狙ったロー。横に振り抜くのではなく、斜め下へと叩き下ろすように蹴りつける。そのため、以前の訓練組手のときのように、足払いで透かされる心配もない。

「(よし。本調子には程遠いけど、躰は動く――)」

 カインは身体の稼働に問題が無いか確かめるように、キュッキュと革靴でステップを踏む。先日ユリィとの格闘戦でさんざん痛めつけられてから、まだ回復しきっていない満身創痍の躰だ。いくらかの心配はあったが、いざ戦闘となれば、悲しいことに職業病か――痛みを忘れて動いてくれる。

「(相手に付き合うことはない。ヒットアンドアウェイで翻弄して、地味に機動力を奪いながら、ダメージを蓄積させればいい)」

 若い刑事は老いた武人を相手に、近代格闘特有のフットワークで翻弄する。

 向き直ってきた明満が、手を伸ばして襟を掴もうとしてくるのを払いのけ、今度は反対の足に左のローキックを喰らわせる。

「づぅ……」

 老人の顔が、歪んだ。

 チャンスだ――カインが前に出る。

 ボディに左下突きと右フック、そして顔面への左ストレート。

 明満は両手を上下に並べて前に出した構えで躰の正中線を守り、どうにかカインのコンビネーションを防御する。やはり、老いた身でのスピードと反射神経では、剛く俊敏に鍛えられた若者の体術を捌ききることは難しいらしい。

 だが、それでもカインは慎重だった。

「(相手は古流合気柔術の免許皆伝――油断は禁物だ)」

 攻勢だが、決して気は抜けない。あまり深入りしすぎないように、バックステップで距離を取りながら、前蹴りを押し込んだ。

 明満は蹴りの衝撃で、背後にあったデスクに衝突する。

「かっは……!」

 老体が呻きを漏らしながらよろけたのを見て、攻撃が効いていると判断したカイン。敵顔面への掌底を放ち、いよいよ決めにかかった。

 本来なら投げか極めで確実に拘束したかったところだが、やはりどうしても、明満に組み付くことを敬遠してしまう思考が、彼の頭の中にあった。

 ――そのことは、きっと相手にも読まれていたのだろう。

 明満が、コートの内側から、を取り出した。

 カインの掌底は、明満が振り回したその「何か」によって、弾かれた。硬い物が当たった衝撃。手首の骨を金属の塊が直撃し、じんじんと痺れた。

 老刑事が懐から取り出したもの――それは警察官にとって非常に馴染みの深い仕事道具、「手錠」だった。

 手錠の輪っかの部分を握り込み、鎖で繋がれたもう一方の輪を、フレイルのように思いきり振りかぶる。遠心力で衝撃力を増した金属の輪が、カインの額をかち割った。

「ぐぁっ……!!」

 ぱっくりと割れた傷口から、出血。カインが思わず退がろうとする――――が。

 ガチャッ――――

 彼の左手には、いつの間にか手錠が嵌められていた。

「――これでもう、離れられませんよ」

 明満は、もう一方の輪を、自分の右手に掛ける。

 お互いの手が手錠で繋がれた。いうなれば、チェーンデスマッチの形だ。

 敵は、繋がれた鎖をぐいと引いてきた。為されるがまま、カインの躰は明満に引き寄せられる。

 それに合わせて明満の左手が、カインのコートの襟に伸びてくる。カインは組まれないよう、右手で、老人の手をはたき落とす。右手はそのままジャブのような裏拳へと繋がり、ぱしん、と軽快に明満の顔を打った。

 続けて、左の膝蹴りを打ち出すカインだったが、これは達人の足運びで、するりと躱されてしまった。

 明満は膝蹴りを躱す動きと同時に、手錠で連結されたカインの左手をねじり上げるように躰をきりもみしながら、流れる身のこなしでカインの背後を取り、背中合わせになった。

 己の右手と、そこに繋がれた鎖をぐいと引き、背合わせのまま「地蔵背負じぞうじょい」のようにカインの躰を背負い上げる。手錠を利用した、特殊な投げ。

 このままだと、頭から落とされる――――カインは投げに抵抗せず、両足を揃えて撥ね上げた。そうやって自ら勢いをつけ、明満の背中の上を後転し、向かい合った状態で着地。

 投げ技の直後、崩れた体勢を構え直し、明満と対面するカイン。そして、相手の大股が開いているのを、その目に捉える。

「(好機――!!)」

 素早く軽い右のジャブでフェイントをかけ、明満の意識を上段に逸らす。そこから即座に、下段の金的蹴りをかました。

 股ぐらを、思いきり蹴り上げる。

 完全に入った手ごたえを感じた。

『金的』は男性最大の急所――――老若を問わず、どんな豪傑でも、痛みに耐えられず必ず悶絶する。

 ――その……はずだった。

「あぐっ――!!」

 次の瞬間、悲鳴を上げていたのはカインのほうだった。

 なぜか、カインの足はへし折られていた。

 明満は急所への攻撃を全く意に介さず、両の内腿うちももできゅっとカインの蹴り足を挟み込み、膝の皿めがけて掌底打を打ち下ろしてきたのだ。

 老人の腕力とはいえ、下方へ体重を乗せながらの攻撃となれば、話は別――伸びきった状態で固定されていたカインの膝関節は、完全に破砕された。

 金的への隙は、蹴りを誘うためのフェイクだったのだと、カインは理解する。

「さすがに『骨掛け』まではご存じなかったようですね――」と、明満。

 古い武術家が使う技に「コツカケ」というものがある。腹筋の力で睾丸を吊り上げ、下腹部に仕舞い込むという、古武術の秘技。これにより、金的への攻撃を無効化する。

 明満はこの「コツカケ」でカインの金的蹴りを誘い込み、その足を砕き折ったのである。

 足を折られたカインは、まともに立つ事さえ出来ない。彼はその場に崩れ落ちそうになるのを、反射的に明満の襟を掴んで踏み止まった。

 そう、襟を掴んでしまった――否、――のだ。

「(しまった――)」

 カインはハッとする。

 考えも無く、武術家――それも達人の襟を取る。それがどれほど愚かしい行為かを、カインも重々理解していたつもりだった。この前の組手勝負でも、嫌というほど思い知らされたばかりだ。

 銃撃戦を封じられ、ミドルレンジでの打撃も封じられ、掴みと投げの距離に持ち込まれた挙句――カインはついに老怪の罠に陥った。地力で圧倒的に劣るはずの明満が、布石と策でカインを追い込んだ瞬間だった。

 明満は掴まれるのと同時に、己からも相手の襟と腕を取り、投げ技の体勢に入っていた。

 裏背負い――――。

 通常の背負い投げとは違い、肩を支点に相手の腕の肘関節を逆方向に極め、折りながら投げる技だ。柔道では当然、反則とされる。

「(無理だ、抜けられない――)」

 カインは諦めて、腕一本を差し出す覚悟を決めた。下方の床に目をやり、自分が投げ落とされるであろう場所を確認する。

「(よし――)」

 次の瞬間、カインの躰が浮いた。同時に左腕が折られる。これで右足に続き、左腕も使えなくなった。

「ばき」という音を聞きながら、カインは受け身を取らせない厳しい体勢で、背中から落とされた。

 衝撃が、背骨を伝わって全身を突き抜ける。腰骨と内臓にも深い痛手を負ったのを感じる。

 ――――完全に、勝負が決まったと思われた。

 片や、足一本と腕一本を失い、短時間では回復不可能なダメージを受けたカイン。

 片や、打撲などの軽症を負ってはいるが、五体満足の明満。

 もはや誰がどう見ても、明らかな決着だった――。


 けれど、今の一瞬の攻防で「決め手」を手にしていたのは、カインのほうだった。


「俺の勝ちです……。この密着状態でなら、今度は外しようがありません」


 ちょうど、投げの終わった姿勢――仰向けに倒れたカインと、その上に覆い被さるように屈み込んでいる明満。

 カインは折られずに残されていた右腕を伸ばし、その手に握ったリボルバーを明満の額に押しつけていた。

「ほぉ」思わず明満の口から、感心したような声が零れ出た。

 手品のように現れたその銃は、さきほどカインが取り落としたはずのリボルバー拳銃だった。

 カインはわざと左腕を犠牲にし、計算ずくで明満に投げられたのだ――そこに落ちていた愛銃を拾うために。

「やれやれ。計算高いといいますか、目敏いといいますか……流石ですね、カイン君」

「あなたにだけは、言われたくありませんよ」

 カインは自分を見下ろしている老獪な異能者を、睨みつけた。

 左腕も右足も、死んでいる。投げ落とされた際、首と背中、内臓も痛めた。軽く全治三、四ヶ月といったところだろう。まさかここまで追い詰められるとは、思ってもいなかった。

「でも、ここまでです。大人しく、降伏してください」真剣な目で老刑事を見上げながら、言った。

 だが――

「勝ちを逸るにはまだ早いですよ、カイン君――。銃を扱えるのは、何も貴方だけではありません」

 落ち着いた、明満の言葉。

 そこでカインも、ある違和感に気付く。自分の胸板に、何かが押し当てられている。

 カインは一瞬だけ、自分の襟を掴んでいる明満の手に、視線を移した。

 彼の胸に押し付けられていたのもの。それは――――

「ニューナンブとはまた、渋いですね……明満さんらしい」

 またも出し抜かれたな、とカインは冷や汗を流す。

 明満は「ふふ」と小さく笑った。

「銃器は官給品以外使わないというのが、私の警察官としてのポリシーでしたから」

 そう言った老刑事の手に握られていたのは、装弾数五発のリボルバー拳銃、「ニューナンブM60」。本邦における警察官のトレードマークとも言える、最もポピュラーな官用回転式拳銃だ。と言っても、自由裁量での兵器携行が認められている特殊警察においては、普警用のニューナンブを使っている者など、絶滅危惧種にも等しい変わり者だろう。

 老刑事明満は、背負い投げの際、カインに背を向けて、身を屈めながら懐に潜り込んだ。そのとき、死角となった懐から、相手からは見えないよう、こっそりとニューナンブを抜き出していたのだ。素早く襟を裏側から掴まれため、コートが明満の手にかぶさって、カインはそのことに気が付けなかった。

 人を化かすことにかけては、この老いた物の怪もののけのほうが一枚も二枚も上手なのだと、若者は痛感させられた――。

「なぜ、投げるのと同時に撃たなかったんですか? いや、むしろそれより以前にピストルを取り出して俺を撃っていれば、話はもっと早かったはずだ」

 自分を殺すチャンスはいくらでもあったはずだと、カインは思う。

「取引ですよ」と明満は言う。

 その言葉を聞いたカインは、眉間にしわを寄せた。

「まさか、見逃せとでも――?」

 だが、それに対し明満は首を横に振る。

「違いますよ。カイン君、貴方を殺すのは惜しい――だから、私の仲間になってほしいのです。今まで何人もの異能者を見てきた私には解る。貴方にもきっと〝資質〟がある。貴方が心から望むのなら……私は、それを貴方に与えてあげられる。貴方は、きっと――――」

 【白澤】は一拍置いて、くぱ、と笑った。


「――――貴方はきっと、素晴らしい化け物になる」


 ぞくり――。

 カインの躰の、うなじからつま先までが、一斉に総毛立った。

「俺を、異能者に……?」

「ええ。是非そうしたい。カイン君、私は貴方が大好きだ――」

 嘘は言っていない。それが老人の本心なのだと、カインにも痛いほど分かった。だからこそ、怖ろしい。鳥肌が治まらなかった。

「断る――俺は明満さん、あんたが大嫌いだ」

 カインはリボルバーの撃鉄を、親指で引き起こした。拒絶と決別の意思表示だった。

「そうですか――とても……とても、残念だ」

 明満は本当に、とても、とても、残念そうな顔をした。

 二人には、もう、語るべきことなど、何も残されてはいなかった。

 静かになった。


 ――――静寂。

 息を殺しながら睨み合う、カインと明満。


 沈黙。

 無言。

 そして――。


 静けさを引き裂くように、金属と火薬の音が、オフィスの中に響き渡った。

 銃声。

 二人が指掛けていた引き金が絞られたのは、全くの同時だった。


 やがて、明満の口から、ひぅ……と、吐息が漏れた。


「それで、いいのです……――――」

 絞り出すようにそう囁いた明満の皺だらけの眉間は、リボルバーの大口径弾によって撃ち抜かれていた。


 老人は目を見開き、自分を殺した若者の顔を、最期の光景として焼き付けようとする。

 そして、カインの躰に凭れかかるように、息を引き取った。


 今度こそ、まやかしなどではない。怪異の語り手――【白澤】は、死んだ。


 カインは、自分の上に覆いかぶさるようにして事切れた老人のむくろを、押しのけた。

 死に顔を見てみると、明満道晴は、生前と何ひとつ変わらぬ顔で、目を閉じている。そこには満足も後悔も、まして苦しみも悦びも無い。

 虚無―――「空っぽ」な人間の脱け殻だけが、そこに横たわっていた。

「明満さん……」

 あなたは本当にこれで良かったんですか――そう死体に問い掛けたくなった。だが、どうせ返事など返ってこない。

 そして、カインは思い出したように、自分の胸に手をやる。一体どこを撃たれたのか――。

「あれ……?」

 しかし、どこにも銃創など見当たらない。

「まさか――」

 彼は、死んだ明満の手からニューナンブをもぎ取った。

 シリンダーを開け、弾倉の中を確認する――。

「うっ……!!」

 そこに込められた「真実」を目にした瞬間、カインは顔を逸らし、その場で嘔吐した。

 ぜえぜえと喘ぎながら、自分が射殺した死体を見つめる。

 この老人に対して、怒ればいいのか、悲しめばいいのか、彼には分からなくなってしまった。


「こんなの……こんなのずるいですよ、明満さん――」


 ニューナンブの回転弾倉を開いてみれば、その中は「空っぽ」だった。明満の銃に、弾は一発も込められていなかった。

 老刑事が最期に選んだのは、カインを殺して目的を達成することでもなく、また、生き延びて罪を償うことことでもなかった。

 異能者として生き続けることに疲れただけなのかもしれないし、カインの言った通り、己の凶行を誰かに止めてほしかっただけなのかもしれない。

 そこにもう、化け物はいない――。

 ただ、寂しがり屋の老人の屍があるだけだ。


 あとは、窓から朝日が差し込んでくるのを待てばいい。

 如法暗夜を練り歩く、あやかしの列も遂には潰え、怪異は日輪の光に掻き消えん。


 京の都で語らるるは百鬼夜行譚。

 おどろおどろしい怪談も今宵、白澤の死により幕を下ろすことと相成った――。







語り仕舞いエピローグ



 ――カインと王、そして芒山の三人が東都に戻って来られたのは、二月も中旬を過ぎたという頃だった。

 若干の懐かしさすら感じさせる、いつもの座り慣れた自分のデスクに腰をつけながら、カインは空気の抜けた風船のようにぼおっとしていた。

 頭に巻かれた包帯、膝に取り付けられたギプス。首から三角巾で釣られた左腕もまだ痛々しい。

「しっかしまあ、大変な任務だったよな」と王が言う。

 彼はカインの隣のデスクで、報告書を打ち込むため、パソコンとの格闘の真っ最中だ。

「――それにまさか、ミチハルさんが黒幕だったなんてなぁ……」

「ええ……」

 カインが上の空で返事をした。

「捕まえた異能者どもが口を割らなかったのも、【目目連】と【天狗礫】――ユリィとエミリアから無言の圧力掛けられてたからだってな。そりゃ、警察に連れてかれたのに、そこに自分らのリーダーがいて睨み利かしてくるんだからビビるわな」

 あとから判明した話によると、明満は異能者たちに対しては正体不明の〝白澤シラサワ〟として決して素顔を晒していなったそうだ。そんな彼の代わりに、警察内部の情報を異能者たちに伝える役割を担ったのが、スティフナズ兄妹だった。

 しかしユリィにだけは、明満が〝明満道晴〟本人として直接『百鬼夜行』に勧誘していたという話も分かった。おそらく【白澤】は、ユリィの資質に、他の者とは違う「本物の異能者」の雰囲気を感じ取っていたのかもしれない。もし明満が放っておいたとしても、ユリィはいずれ異能を発現させていたのではないかと、カインも思う。

 そしてエミリアは、そんな兄から誘われ、『百鬼分隊』に仲間入りしたのだという。おそらくは、兄を守りたいとでも思っていたのだろうか。

 素顔をひた隠しにしていた明満とは違い、スティフナズ兄妹は『百鬼分隊』を率いるリーダーとして、何度も異能者たちと接触していた。もし捕らえられた異能者たちが取り調べで口を割ろうとすれば、いつでも命を奪えるぞという脅しをかけるには、うってつけのポジションだったわけだ。

 【牛蒡種】こと小玄間穿の取り調べのときも、傍から見ればただの尋問だったが、明満は穿に向けて、自らが〝シラサワ〟だというメッセージを、密かに送っていたに違いない。尋問中、一定間隔に机を指で叩くリズム、そして〝憑き物筋〟に関する講釈など、思い返してみれば妖しい箇所だらけだった。あらかじめ印象付けておいた癖を再現してみせたのか、もしくは以前語って聞かせた内容を、寸分違わず諳んじていたのだろう――。

 敗北して捕縛され、異能さえも失った穿にとっては、自らの首領が目の前に座って、刑事として尋問してくるあの状況は、発狂してしまいたいほどの恐怖だったに違いない。

 逮捕された異能者たちの証言によれば、明満が他者から異能を引き出す〝儀式〟は、まさに『対話』だったという。回数を重ね、時間をかけ、老刑事は相談者と打ち解け、彼らの得意なことや興味のある分野、生い立ちや環境、怖ろしい記憶やトラウマまで――根掘り葉掘りを訊き起こした。そして〝シラサワ〟として接触し、その人物に合致する妖怪の存在を、語って聞かせた。対象に妖異への興味を抱かせ、力を求めさせ、最後には〝呪〟を以てして、本人に「自分自身がその妖怪なのだ」とまで、思い込ませる術式――。〝百鬼夜行〟は、そのようにして陰陽師が作り上げ、京の都に放った、式神使い魔の群れだったのだ。明満は今回の計画に向けて、本当にこつこつと、気の長くなる時間をかけて、回りくどく準備してきたのだろう。

 ――だが、そんな種明かしでさえも、今のカインにとってはもう、どうでもよかった。

 正直言って、彼はかなり疲弊していた。

 旧皇都支部での明満との決着のあと、当然大騒ぎになった。

 事情を知らぬ者から見れば、味方殺しの現場である。カインは拘束され、尋問を受けたが、明満の遺書が見つかり、封入されていた【白澤】の木札とともに事件のことも全て書かれていたため、不問となった。

 明満は自分が負けた時のために、その遺書を残しておいたようだった。やはりあの老人は、本当は誰かに止めてほしくて仕方なかったのではないか――と、カインは改めて思う。

 カインにはまだ、明満の命を奪ったトリガーの感触が、忘れられない。

 明満の最期にしたこと。それはあまりにも無責任で自分勝手な、手の込んだ自殺だった。

 それでも、どうしても、カインには明満を恨むことが出来ない。

 死ぬ間際、見開かれた彼の細い眼の向こうには、寂しげな瞳があった。

「(あれは一体、自分に何を訴えたかったのだろう――)」

 老人の、円らな瞳を思い出す。

 まるで、群れから追い出されて怯えている、羊のような瞳だった――。


「――なんだ、シケたツラしてんなぁ!」


 出し抜けに明るい声が響き、カインの背中を強く叩いた。

「……あ、アキラさん」

 カインが振り返ると、そこには炎上寺アキラが立っていた。

「よせよ、姐さんの馬鹿力で叩いたらもやしっ子の怪我に響く」

 と、王が苦笑いする。

「こいつ、京の事件が終わってからずっとこんな感じなんだよ。今はそっとしておいてやって……」

 王が最後まで言いかける前に、炎上寺はもう一度、カインの背中をばしんと叩いた。

「アンタ帰って来てからまだ沙帆ちゃんとこ顔出してないでしょ? 怪我もしてるんだし、いいから行ってきなさいよ。あの子もちょうど研究機関での研修から帰ってきたところだからさ」

「いや、でも今は――」

 煮え切らないカインの態度を見て、アキラがばっと手を上げた。

 カインが思わず身を竦めるが、先輩の女刑事は、その手を優しくカインの頭の上に置いた。

「アンタもプロなんだから、感傷に浸ってる暇なんてないでしょうが。落ち込んでたって、その間次の犯罪者が待ってくれるわけじゃないんだからさ」

「はい……」

 アキラの言う通りだ、とカインは反省する。

 ここで落ち込んだりうじうじしたりするのは、やっぱり何か違う。死んだ菅原や明満にも、そんな姿は見られたくない。

「だったら、さっさと行って、気持ち切り替えてきなさい」

「ありがとうございます……」

 カインは立ち上がって、そばに立て掛けてあった松葉杖を手に取った。

「おいおい、一人で行けるか?」

 王が肩を貸そうとするが、アキラが制止した。

「いいから一人で行かせてやんなよ。それに王、アンタどう見ても軽傷じゃないの。サボってないで仕事しなさい」

「あ? オレのどこが軽傷者だよ。打撲傷多数、肋骨だって数本はイカレってるっての。それに久しぶりに沙帆ちゃんの顔だって――」

 しかし、王は全部言い切る前に、女傑が「あん?」とガンを飛ばして凄みを利かせているのに気付き、むにゃむにゃ……と気まずそうに口をつぐんだ。これは仕方ない。

「あー、くそ。行って来い行って来い。オレは一人寂しくデスクワークしてるからよ。階段、気を付けてな」

 相棒のぶっきらぼうな送り出しに、カインは「はは」と弱々しく笑った。

「じゃあ、すいません。行ってきます」

 アキラと王の二人に頭を下げ、カインは刑事部屋を出ようとした。そして、数歩歩いたところで思い出したように振り返った。

「――あ、そういえばエリゼさんが、アキラさんによろしくと言ってましたよ」

「ああ! 懐かしいな。エリゼ、元気してた?」

「ええ。まだこれからも、しばらく忙しくなりそうだとぼやいてましたけど」

「そう……京のほうも大変ね。またあっちであった話、聞かせなさいよ?」

「はい」

 それじゃ――ともう一度頭を下げ、カインは医務室へと向かった。

 杖をついて階段を下りるのは、少しばかり骨が折れた。すれ違った隊員たちには「またハデに怪我したなオイ」などとからかわれたが、みんな心配してくれているようだった。

 医務室に辿り着いたカインは、まずノックをしてみた。

「はい――」

 中から沙帆の声が聞こえてきたので、ドアを開けて入室する。

「やあ沙帆ちゃん――」

 と、来てみたはいいものの、実際何を言っていいかよく分からないカイン。とりあえず当たり障りのない話が口を突いて出てくる。

「えっと、部長と出張行ってたんだってね、お疲れさま。俺も昨日こっちに戻って、今日出勤したところだったんだ」

「あ、カインさん! お久しぶ……」

 振り向いて挨拶しようとした沙帆だったが、部屋に入ってきたカインの姿を見た瞬間、手に持っていた書類を取り落とし、絶句した。

「ちょ、怪我だらけじゃないですか……!! もしかして腕と足、折れてます!?」

 驚いて駆け寄ってくる沙帆。

「ああ、これ……京の任務で、ちょっとね――」

 カインは冗談めかして笑っていたが、沙帆の顔は真剣だった。

「どうしてもっと早く来てくれなかったんですか! とにかく、座って下さい!」

 別に命に別条があるわけでもなかったから――などとは言いにくい雰囲気になってしまった。カインは言われるがまま、診察台に腰を掛けた。

 まずは腕の包帯を外し、直接肌に触れ、折れた肘にヒーリングをかける。異能者である彼女は、〈身体の損壊を癒す〉という特殊能力を持っているのだ。

 沙帆の手を当てた箇所から、見えない力が送り込まれるような感覚がする。温かくて、気持ちいいな――とカインは感じる。彼女が十数秒も触れていると、骨折はあっという間に治ってしまった。

 続いて、右膝の複雑骨折、額の裂傷と、沙帆は手際良く治していく。

「――あの、他にも怪我があるかもしれませんし、シャツ、脱いでもらってもいいですか……?」

 彼女は能力を立て続けに使って、少し疲れているようだった。

「いや、もう充分だよ。沙帆ちゃん、いつもありがとう」

 カインが脱いであったコートを羽織ろうとしたが、沙帆は「ダメです!」と引き下がらなかった。コートを取り上げられてしまう。

「怪我を全部治すまでは、返しませんからっ」

 怒っているのか冗談なのか、いたずらっぽくそう言う沙帆に、カインは「敵わないなぁ」と溜め息をついた。

 服を脱ぐと、カインの鍛えられた躰が露になり、沙帆が少し照れたように目を逸らす。

 けれども案の定、その躰には打撲傷や刀傷など、軽傷とはいえないような傷がたくさん残っていた。

 沙帆はそれらも一つ一つ、丁寧に治療してくれた。

 他にも、沙帆と出会う前に付けられた、大小さまざまな古傷もあったのだが、もう癒着してしまった古い怪我については、沙帆の手では治せない。また、彼女の異能はなぜか、彼女自身が負った傷に対しても、その効果を発揮しなかった。強力な沙帆の治癒能力も、決して万能というわけではないのだ。

 怪我を治している間、沙帆はずっとおずおずとした様子で、何か聞きたそうな顔をしていたが、そのたびにカインと目が合って、黙り込んでいた。そしてやがて背中の傷の治療に差し掛かったとき、彼女はようやく口を開いた。

「あの、カインさん……背中の傷痕、あれからどうですか? まだ痛んだり、しませんか?」

 とても申し訳なさそうな声だった。

 それを聞き、カインは、自らの背中に残った大きな十字の傷痕のことを思った。

 去年の暮、クルス教系の宗教結社『十字背負う者達の結社』が事件を起こした。結社に属する異能者たちと交戦したのは、カインと王、アキラの三人だった。そして激闘の末、彼らが負った大怪我を治してくれたのが、医療班でただ一人のヒーリング能力者、須山沙帆だったのだ。

 だが、背中全面に渡って走っている十字架型の傷――敵の最期の異能によって付けられたその〈聖痕〉だけは、どんな怪我でも完全に治すことのできる沙帆の能力を以てしても、傷痕を消すまでには至らなかった。

 そのことを、彼女はまだ気にしていたらしい――。

「――うん。全然痛くもないし、だいぶ良くなってきたかな。沙帆ちゃんのおかげだよ」

 沙帆の視線を背中に感じながら、カインはつい嘘をついてしまった。本当は今でも、夜寝るときなどに傷痕がずきずきと痛む――。

 重くなってきた場の空気をなんとか取り繕おうと、カインは続ける。

「でも、戦闘慣れした異能犯罪者を相手に、傷も残さず勝とうなんていうほうが、もともと欲張り過ぎる話なわけだし……いつも怪我を治してもらえて、元気でいられるのも沙帆ちゃんのおかげだから、本当に感謝してるよ」

 そこで、沙帆がぴくりと反応した。

「それって、どんな怪我をしても、治せばいいってことですか……?」

「え……あ、いや」

 失言だったかなと、カインは一層慌ててしまう。

「ご、ごめん。いつも沙帆ちゃんの仕事増やしちゃって、た、大変だよね」

「そうじゃなくて……」

 下を向いた沙帆が、悲しそうに呟く。どうやら、さらなる地雷を踏んでしまったようだ。

 もう、こうなってしまうとカインにはどうしていいのか、分からない。下手に喋ると余計に相手を傷付けてしまうかもしれない――そう思うと、言葉も何も出てこない。

 あたふたしているだけのカインに代わって、沙帆が小さく口を開いた。

「……私、辛いんです。カインさんや王さん、アキラさんがいつもたくさん怪我をして帰ってくるのが……」

 カインが後ろを振り返ると、沙帆は泣いていた。

「こんなにひどい怪我してるのに、次も、その次も、ずっとずっと闘って……だから、任務のたび、いつか本当に帰ってこなくなっちゃうんじゃって考えると、すごく怖くて――」

 カインはそっと彼女の肩に手を置き、もう一方の指で、沙帆の瞳から零れる涙の粒を、優しく掬い取った。

「ごめん、俺が悪かったよ。でも、先輩も俺も、アキラさんも、絶対いなくなったりしないから――」

 カインが頭を撫でると、沙帆が涙を溜めながら「いえ」と笑った。無理に笑っているようだった。

「私こそ、ごめんなさい。いつも前線にも出ないくせに、カインさんたちの苦労も知らないで、こんなこと言っちゃって……」

 身長差で、ちょうどカインの胸に頭をうずめるような形になっていた沙帆。彼女が顔を上げると、カインの胸板に残った、一際大きい傷跡が目に付いた。相当に古いものだ。何かに抉られたような、大きな傷跡。おそらく、限りなく致命傷に近いものだったに違いない。

「その傷も、きっと痛かったですよね――」

 沙帆がその古傷にそっと触れ、カインが一瞬ドキッとする。

「――もっと早く私がカインさんと会えていたら、その傷だって治してあげられたのに」

 だが、カインは複雑な表情で、胸に刻まれた古傷を見ていた。

「いや、この傷はいいんだ……」

 今まで王にだって話したことが無かった。だが、沙帆にだったら、言ってもいいような気がした。

「僕の家族は十六年前、異能者に皆殺しにされた。十一歳の時だったよ。この傷は、僕がその時、犯人に負わされたものなんだ――僕は弱すぎて、父さんも母さんも、幼い弟も、守ってやることが出来なかった。だから、この傷は、忘れないために、戒めのために、残しておきたいんだ」

 沙帆が、そっとカインの眼鏡を外した。今度は彼女の細くてきれいな指が、カインの目元を拭った。

 カインは自分でも気付かないうちに涙が流れていたことを知り、はっとする。

「違いますよ――」と、沙帆も涙を溜めながら、優しい笑顔で言った。

「傷痕は傷痕です。体表組織の損傷が治癒した跡が残っているだけで、それ以上でも以下でもないです。そんなものが無くても、カインさんはお父さんやお母さん、弟さんのこと、忘れたりしないですよ」

 だって――、と沙帆は続ける。

「守れなくて、悔しくて悲しくて、苦しんでるのも怒ってるのも、全部、カインさんの心なんですから。傷痕は、ただそこにあるだけ……」

「そうか……そうだね。また俺が、間違ってたみたい――」

 カインは手の甲で自分の目をこすって、泣き顔を誤魔化した。

 そんなカインを見て、沙帆もぽつりと呟いた。

「私も、助けられなかったんです――」

 カインが「え――」と聞き返した。

「私のお父さんとお母さん、お兄ちゃんも、私の小さい頃、死んじゃったんです、みんな一緒に。車でお出かけしてるときに、事故で、大きなトラックが、突っ込んできて。ぐしゃぐしゃにひしゃげた車の中で、運良く生き残ったのは、私だけでした。多分、もう大切な人を目の前で失くしたくない――そう強く想ったから、こんな力が発現したのかもしれません」

 それは、沙帆が初めて話してくれた過去だった。だからカインも、真剣に聞いた。

 彼女と自分の境遇は、似ているのかもしれないと、カインは思った。

「でも、孤児院にいたとき、友達が大怪我したことがあって――そのときこの力を使って怪我を治したら、みんなに『お化けだ』って怖がられちゃったんですよね……それに、大人の先生たちからも。私、なんか悲しくて、どうしてみんな私を残して死んじゃったの、こんな力いらないから、お父さんお母さん、お兄ちゃんも帰ってきて! って、ずっとそう思ってました」

 えへへ、と沙帆が笑おうとした。無理に笑顔を作ろうとしているのが分かって、カインも、見ていて苦しかった。

 今まで必要以上に他人に踏み込まず、また踏み込ませようともしなかったカインには、こんなとき、どうしていいのか見当もつかなかった。

「だめですね、私……なんか、暗い話になっちゃった。せっかくカインさんが帰って来てくれたのに」

「そんなことないよ……話してくれて、ありがとう」

 カインは沙帆の頭を撫でるように、優しく手を置いた。自分は今、一体どうすることが正しいのだろう。

 抱きしめることも、優しい言葉をかけることもできない。自分には、そんな資格が無い気がした。

 沙帆は、カインにコートとシャツを手渡した。

「なんか、ごめんさい……二人で泣いちゃって、変な感じですね」

 彼女はくすくすと笑った。

「本当だ。アキラさんに見つかったら、よくも沙帆ちゃんを泣かしたな! なんて怒られちゃうかな」

 ――しかも、上半身裸のこの状態だ。

 もし変に勘違いでもされたら、殺されてもおかしくない。そう思うと、冗談を言っている場合でもなく、カインは急いでシャツを着た。

「あの……えっと、怪我、治してくれて、いつも本当にありがとう。じゃあ、また――」

 照れ臭くて何と言っていいか分からず、カインは逃げ出すように医務室を飛び出した。

 沙帆は、「はい、また――」と小さく手を振っていた。

 廊下を出てから、カインは黒のロングコートを羽織った。

 あんなに痛かった膝も腕も、まるで嘘だったかのように動かせる。

 カインは思う。

 刻まれた傷を見ていると、やっぱり、いろいろなことを考えてしまう――その傷が、大きければ大きいほど。深ければ深いほど。

 だからきっと、傷痕を残さずどんな怪我でも治してくれる沙帆の能力は、世界で一番優しい力なのだろう、と。

 そしてカインは、彼女が先ほど話してくれた過去のことを考える。

 人に拒絶されてもなお、彼女は人と関わることを、手を伸ばすことをやめなかった。誰かを助けたい、自分の力を役立てたいという想いで、こうやって今、自分や仲間たちを助けてくれる。そして特警のみんなだって、家族のように沙帆を慕っている。


 ――そんな沙帆のことを思うと、カインは、明満のことが、悲しくてたまらなかった。

 誰にも手を伸ばすこともなく、差し伸べられた手も振り払い、一人で、孤独に、化け物として死んでいくことを選んだ、あの老人のことが――。


 自分では、あの人を助けることなど出来なかったのだろうか――。

 明満は、カインの中に決定的な何かを残して、去って行った。それはひょっとしたら、陰陽師が散り際に放った、最後の〝呪〟なのかもしれない。

 心は残りて、人は去る。

 悔恨と思い出は、澱み、留まり続け、そうやって、カインの心の中で、明満は生き続ける。――呪いは、完成している。

「(こんなの、あなたの勝ち逃げみたいなものじゃないですか――)」

 結局、自分はあの老人に、ただの一度も勝つことが出来なかったんだな――。

 アキラにはああ言われたが、やはり吹っ切るには、時間がかかりそうだ。

 カインは母親の形見であるロザリオを握ろうと、コートのポケットに手を突っ込んだ。無宗教のくせに、その十字架を握っていると、なぜか心が落ち着く。


 だが、ポケットに手を入れた途端、彼は違和感に気付く。

 指先が、何かに当たった。


「ん――なんだこれ?」


 取り出してみると、そこにあったのは奇麗に包装された、小さな箱――。リボンが結ばれており、その間にカードが挟まっている。

 カインがそのカードを読んでみた。


『いつもお世話になってます!

 瞳さんに教えてもらって練習したけど、

 手作りなので、美味しくなかったらごめんなさい。

 よかったら食べて下さい』


 ――沙帆からだった。

 そういえば、二月十四日――バレンタインデーが過ぎていたっけ、とカインは思い出す。

 血なまぐさい事件ばかりで、そのようなイベントがあったことを、すっかり忘れていた。


 自然と、彼の顔から柔らかい笑みがこぼれてしまう。カインはその箱をそっと、大事にポケットにしまおうとした。

 そこで――ポケットの底に隠れていた物があることに気が付いた。

 何かと思ってつまみ上げたそれを、手に取って見たとき、カインの全身は粟立ち、思わず息をのんだ。

 【白澤】だ。

 〝白澤〟の彫られた、木札――。

 〝百鬼夜行〟どもの身に着けていたそれとは違い、一回り小さく、御守りサイズと言っていい大きさ。墨絵ではなく、手彫りと思われる彫刻で、〝白澤〟の姿がかたどられていた。端に開けられた穴には赤と白の組み紐が通され、そこに小さな鈴も付いている。

 確か、このコートは【牛蒡種ごんぼだね】と戦ってぼろぼろにされたので修繕に出して、東都に帰ってからカインの元に戻ってきた物だ。いつの間に入っていたのか、事件後のゴタゴタで今の今まで気が付かなかった。一度洗濯してしまったためか、木札からも微かに洗剤の香りがする。

 ――こんなものをコートの中に忍び込ませてくる人物は、きっと一人しかいない。

 遍く怪力乱神や災害への対策を語った白澤――その姿の描かれた物は、魔除け・厄除けの効果があると信じられてきたという。

 それは一人の陰陽師から、老人かれにとっての化け物――つまり『異能者』と戦うカインの身を案じて、贈られた物に違いない。だが、それと同時に若者にとって、「これから先も戦い続けなくてはならない」「決して降りることは許さない」と――そう強いているようにも感じられた。


 感情のろいを押し付け、去ってしまった者。

 身を案じ、癒ししゅくふくを与えてくれる者。


 まったく異なる二人から託された贈り物を手に、カインの足取りは以前よりも確かに強く、

 そして少しだけ、軽くなったような気がした――。







(―百鬼夜行―完)



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