『百鬼夜行』【弐】




 水曜日。捜査Bチームへと編入されたカインは、二人組での捜査活動にあたっていた。

 王と一緒に行っていた資料の読み込み作業は、なんとか昨晩のうちに片付けることができ、ようやく本格的に合同捜査に参加できることになったのだ。

 なお彼が本日一緒にコンビを組むこととなったのは王ではなく――老刑事、明満道晴だった。

 京の街はいくつもの道路が、いわゆる〝碁盤の目〟状に交差し、区画が分けられている。それゆえに、チームメンバーが分担して各々の捜査担当区域を決める作業もスムーズに進んだものだった。都の中心部で堂々と交差しているひときわ大きな「朱雀大路」と「四条大路」を境目にエリアを四等分し、

 →北東エリアをカインと明満、

 →北西エリアを王とスティフナズ兄妹、

 →南東エリアをエリゼ・菅原チームが担当することになった。

 そして残った南西エリアの警邏は、捜査Aチームの人員が行っている。

 〝鬼門〟を示す方角でもある北東――地図で見ると右上のエリアにあたるカインと明満の担当区画には、かつてミカドの住まいであったとされる『京御所』、禅宗京五山の第二位に列せられる『相国寺』、カンム天皇・コウメイ天皇を祀る『平安神宮』などが存在する。ちなみに、都を京に定めるにあたって陰陽師の意見を重宝したのがこのカンム天皇だ。

 他にも、室町幕府の八代将軍足利義政によって建てられた『東山慈照寺(銀閣寺)』、そして陰陽師でもある加茂氏の祭神を祀る『加茂御祖かもみおや神社(通称「下鴨神社」)』――などなど、このように明満・カイン班担当エリアだけでも、寺社仏閣、史跡の数は枚挙に暇がない。

 また、塀や建物、街灯のデザインなども観光地としての景観を壊さぬよう配慮されており、電柱等も存在せず電線は全て地中を通っているらしい。

 そんな旧皇都の独特の空気と匂いを嗅ぎながら、カインは自分よりも四十近くは歳の離れているであろう老人を隣に、和と近代建築の交錯する小洒落た街並みの中を歩いていた。


 ――まだよく知らない相手といきなりコンビを組まされて緊張しているカインだったが、とりあえずは捜査のこと、そしてお互いのことをよく知るため、世間話などをして間を持たせることにした。

「……しかし、先日は資料を見て、驚きました。ただでさえ奇っ怪な事件なのに、そのうえ報告書には妖怪の名前がずらずら……ときたものですから」

 明満はふふっ、と笑って答えた。

「この『京』の都には、案外ぴったりな事件かもしれませんけどねぇ。何と言っても、この街は平安の世からあやかしの噂が絶えることなく、魔都とさえ呼ばれていた程ですから」

 カインも、旧皇都に対するそのようなイメージは、何となく知っていた。

「妖怪――妖しく怪しい――とは言っても、我々人間にとって妖怪というモノが、理解不能な別世界の存在……というわけではないのです。電気すら通っていないその昔は夜の闇も濃く、そこに潜むモノを想像して畏れるだけの豊かな発想力と、ある意味での〝心のゆとり〟がありました。現在は科学で実証されてしまうような出来事も、当時では謎のままに終ることも多かった。そういった『分からないこと』、『畏れ』に対して姿かたちを与え、説明を付けて安心したいという気持ち……昔々の人達はそれを、『妖怪』という置換装置に置き換えるだけの遊び心があったのでしょう。そしてそれは、〝理解不能〟の現象を〝理解〟へと貶める――恐怖の克服でもあったのです」

「遊び心……ですか? それに、妖怪と言えば、普通、怖がるものじゃないんですか?」

「ほら、今の子供たちも好きでしょう? アニメや漫画、テレビゲェムだとかで、何と言いましたか、あの――なんとかモンスタァ……とか。ああいう感じで、江戸時代頃にはすでに『妖怪』がいわゆるキャラクタァ商法として確立されていたそうなんです。

 妖怪かるたなんていうのもありましたし、たとえば有名なところで言いますと、【豆腐小僧】。これは、大変人気な妖怪商法の看板キャラクタァとでもいうべき存在で、すごろく遊びや木彫りの玩具おもちゃなんかにもなったりしたのですよ。他にも、勇敢な武者が妖怪退治で活躍する講談本などはもちろん多く存在しましたが、黄表紙、絵草子――今で言うところ、若年層向けの軽めな小説や絵本のような位置にあった読み物に当たりますね――そういった創作物の中にも妖怪を主人公とした冒険譚が作られたりしました。例えば『東海道中膝栗毛』の作者として有名な戯作者・絵師でもある十返舎一九は、『化物見越松』『化皮太鼓伝』などなど、妖怪コメディといった趣の作品も残していたりするのですよ」

 普段の穏やかさから一転して饒舌になった明満と、彼の語る知識量に圧倒されるカイン。

「へぇ。正直途中からはもう、何が何だかですけど……明満さん、妖怪については随分と詳しいんですね」

 事件には直接関係ないことかもしれないが、カインは素直に感心してしまった。

「ははは。いえ――まあ、職業柄」

 職業柄――? と、カインは疑問に思った。明満は郷土史や民俗学の研究家でもなければ、加持祈祷の類にも見えない。どう見ても刑事――法執行機関に勤める警察官である。その刑事がなぜ職業柄、妖怪に詳しくないといけないのか。

 何だか気になったので、明満の過去の職場についても尋ねてみることにする。

「――確かこの前、明満さんはもともと普警での勤務だったと、おっしゃっていましたよね」

「ええ。捜査一課に所属する刑事でした」

 老人は穏やかに答える。

 捜査一課といえば、刑事部の中でも強行犯――殺人や強盗などの凶悪犯罪を捜査するための係であり、警官の内でもよほど豪傑か切れ者でもない限り勤まらない部署だ。

 それだけではない。チームメイトについての一通りの資料は渡されているが、明満の経歴には『地域犯罪相談課・特別相談員』という職歴も記されていたはずだ、とカインは思い出す。そのことについて、明満に尋ねてみた。

「――ああ、それですね。長年刑事なんて仕事をやっておりますと、はぐれ者や犯罪被害者の顔見知りも多くなってきますでしょう? 捕り物や犯人探しだけでなく、他にも何か自分に出来ることは無いものかと思いましてねぇ。それで、歳をとってからは『地域犯罪相談課』にも顔を出させてもらってましたのですよ。そこでは、市民の犯罪被害に対する相談や、未成年の非行防止、逮捕者や受刑者、元犯罪者の再犯防止・社会復帰のためのカウンセリングなどを担当させて頂きました……もちろん、本職ではないので真似事のようなものでしたけどねぇ」

 きっと、この土地で長年警察官をやってきた経験や顔の広さ、その温和な人柄を買われて任された仕事なのだろう――案外、明満にピッタリな職場だったのではないかと、カインも妙に納得してしまった。

「でも、そこから一体どういった契機があって、特警に身を移すことになったんでしょうか?」

「はい……。その頃はまだ、異能やそれを遣う者の存在を私、知らなかったのですがね。ある時、偶然にも異能犯罪者を逮捕したことがありまして。それ以降も、能力の危険度は低い輩ばかりでしたが、四人ほど、異能者を捕らえました。それがおそらく、特警の推薦機関に認められた一番の原因かと思います」

 普警の刑事が、五人もの異能者を捕らえる――――たとえ相手が戦闘向きの能力でなかったとしても、それは凄いことだ。と、カインは思った。

「それは、全員この『京』で捕まえたんですか? その異能者たちを……」

「そうですよ。私は生まれも育ちも京ですから。ずっとここで刑事商売をやってきました。それに『地域犯罪相談課』では、通常ですと警察には相手にしてもらえないような奇っ怪な事件や、中には心霊現象じみた相談まで持ち込んでくる人も居ましたからねぇ」

 少しばかり苦笑気味に、懐かしそうな笑みを浮かべる明満。

「ですが、そういった事件にこそ、意外と異能者の影が見え隠れしているものなのですよ」

 どんな場所にも異能犯罪の脅威は潜んでいる――ということか。

「京の街――東都と違って殺伐とした雰囲気がない。良いところなのに……」

「そうですか? 私にとってはやはり、何でもない、ただの住み慣れた街ですよ」

 やはりどんな観光名所でも、物心ついたころからその土地で暮らしていれば、生活の一部へと溶け込んでしまい、やがてはただの見慣れた風景へと落ち着いてしまうものなのだろうか。

 それでも〝部外者〟のカインにとっては、京の都を歩いているだけで、幾分か新鮮な気持ちになることができた。

「(っと、いけないいけない――)」

 はっとして、「観光に来たわけでもないのに」と自分に言い聞かせる。もっと注意深く、街を、そして人々を観察しなくては――。

 しかし、そうやって真面目に目を見張らせているうちに、彼はたびたび、気になるものに遭遇した。

 それは、至るところで見かける事ができた――。

 例えば。

 何でここに? と思うような場所に、おふだが貼られていたり。

 一見何の変哲もない岩だが、よく見ると目立たぬ程度に小さな紋章が刻まれていたり。

 また、場違いと思われるような場所にミニチュアの鳥居や燈籠が建てられていたり――などなど。

 そういったものなのだと割り切ってしまえば、風景と一体化してしまうような、些細な事柄だが、一旦不思議に思ってしまうと、次から次へと同じようなオブジェクトに反応してしまう。気になってしまうものはどうしても気になる――。

 そんな様子のカインを見て、明満老人は「ふふっ」と笑った。

「そうやって気にしてしまうのが、かえって術者の思うつぼになるのですよ――」

「え――」

 不意を衝かれたように、慌てて同行者のほうを振り返ったカイン。

「結界――ですよ」

 立ち止まって、明満老人は言った。

「結界……?」

 もちろんカインにも、〝結界〟の意味自体は分かる。とはいえ彼が一番にイメージしてしまったのが、「何やら怪しげな僧などが神秘の力で張り出す霊的なバリアのようなもの」だったので、その認識が正しいのかは些か疑問ではあったのだが。そして、その〝結界〟というのが、こんな身近に、街の中にふと見かけることができる代物なのか、という疑問も、彼の中にはあった。

 そんなカインを優しく諭すように、老刑事は続けた。

「結界――です。何も霊能者の用いる霊的な障壁や魔除けばかりが『結界』という訳ではありません。また異能者が使う空間拒絶系の能力とも違いますよ」

「それは分かりますけど……」

「例えば、北東の方角の隅に石を置いたり塩を盛ったり、もしくは小さな鳥居を作る。こういったものは、ほとんどは〝鬼門封じ〟と呼ばれるもので、『鬼門』から怨霊の侵入を防ぐために行われていました。『鬼門』というのは、丑寅うしとらの方角、つまりは北と東の間のことで、古来より、鬼のやってくるのはこの方角からだと信じられていました。あ、鬼のイメージが一般的に牛のようなツノと虎模様の腰巻きを履いている姿――というのも、実はそこから来ているのです。また、丑寅は時計に当てはめてみても、ちょうど幽鬼の活発にうろつくという『丑三つ時』の位置に当たりますよね。〝鬼門封じ〟はそういった俗信に基づくなかでも簡単かつポピュラーに実行できる魔除けで、現在でもこの京ではたまに見かけられる光景ですが、今私の謂う『結界』とは、同じようで少し違います」

「では、どういう……?」

 簡単なことです――そう言って、明満は足でアスファルトの地面に線を引くように、カインと己の間に見えない境界線を描いた。

 するとその瞬間、カインは何故か少しだけ――ほんの少しだけだが、嫌な気分になった。口では説明できなさそうな、本当に微妙な心境の変化だ。その表情を読み取ってか、明満はこくりと頷く。

「どうです、厭な気持になったでしょう? これが結界ですよ。二人の間に簡単な線を引くだけでも、それは拒絶の表れとなり、境界となる。物と物を仕切ればそこに自然と境界は生まれ、境界は自ずとその存在を主張し出し、異なる事象を分断したらしめる。是即ち、『結界』と成る――」

 カインとの間に引かれた架空の仕切り線をひょいと跨いで、明満は「こちら側」にやって来た。地面を見ながら話に引き込まれていたカインは一瞬、「己の領域」に這入って来た侵入者にビクリと体を硬直させた。

 明満はそんなカインの背後にゆっくりと回りながら、講釈を続ける。

「先ほどカイン君の気の取られていた例で言いますと、何やらよく分らないお札の貼られた板塀や、謎の紋が刻まれた岩に対して、立ち小便したり、いたずら書きをしてやろう、などとは中々思わないものでしょう? 本来『結界』とは、その程度のものでいいのです。そして、わざわざ目立たぬ場所に札を貼る、紋を刻むのも、それらが最初から大々的に人目についてしまうよりも、見つけた本人が自分でそれらの異常に〝気付く〟ことが大事であるからです。古くからの曰くつき、もしくは由緒あって神聖とされるような、伝統ある場所ならば話は別ですけれど、基本的に、人はあからさまに喧伝けんでんされているものに対しては眉唾で挑んで掛かりますから。ですが、これが己の〝気付き〟で見つけたものとなりますと、それをあたかも真理であるように錯覚する。『結界』とは、こうして言葉いらずして、対象に〝しゅ〟を掛けるための装置。と言った方が正しいかもしれませんね」

「しゅ――?」

「のろい。まじない。どちらでもいいですけどね。本来〝呪〟とは、言葉の力。暗示や催眠などといったような、大それたものでなくても構いません。何か言葉を発し、それに従って事象に干渉し、結果を得る事が出来れば、それは立派な〝呪〟です。恫喝したり、怪しげな呪文を長々と垂れ流すのは、二流三流のやることですよ」

 明満はカインの周りをぐるりと回って、再び前面にやって来た。一体どうしてこのような流れになったのかは分からないが、老刑事の話術に、若者はすっかり転がされてしまっている。

「――呪が巧ければそこにプログラムが組み込まれ、それに従って対象の行動を左右することができる。これを言葉で行わずに『結界』に置き換えると、そうですね――」

 明満は体ごと回して辺りを見回し、やがて前方の曲がり角に置かれた『この先工事中・通り抜けできません』の看板に目を付け、指差した。

「――あれを見て下さい。道の入り口に『工事中通行止め』の看板が置かれていますね」

「……はい、ありますね」

「くだらないことですが――もしあの立て看板が、何者かの思惑によって置かれた偽物の看板だったとして、カイン君、あなたにはそれをすぐに見破ることが出来ると思いますか?」

「それは、いったい……」

 そんなイタズラまがいのことをして得をする輩でもいるのだろうか? 看板の真偽の見分け方が、犯罪捜査や、明満の言うような〝結界〟に何か関係する事柄なのだろうか? ――カインがそんなことを考えているのもお見通しかのように、老刑事はにっこりとして続けた。

「例え話ですよ。よほどの事情でもない限り、看板を見た通行人の方々は、その道を迂回することになるでしょう? そのとき、ただの看板であったはずのモノが、それを踏み越えるだけの強い意志――『そんなもの関係ない、それでも私はこの道を通る』という気持ち――もしくは『そんなものは嘘だ、ここで工事など行われていないはず』という、正しい知識――を持った者しか越える事は出来ない『結界』と成り得るわけです。これがまさしく〝呪を掛ける〟ということであり、〝結界を張る〟ということなのです」

「えっ。そんな、誰にでもできる事じゃないですか……」

 カインは肩透かしを喰らった気分になった。

 自分の中の「呪い」や「結界」のイメージとは、かなり違う――若い刑事はそう思った。

「そう。本来、誰にでも出来る事なのですよ。藁人形だってそうでしょう? ルールさえ守れば、霊能力なんて必要がない。子供にだって使えそうな呪いです。それは自分の意志を、不可思議な力に頼ることなく、作用させたい相手に送り伝えるための〝システム〟なのです。そういった誰にでも出来ることを平安の世にはすでに〝術〟の域にまで高めていたのが、陰陽家や陰陽寮の博士達――いわゆる、本朝では陰陽師と呼ばれていた者達です。そして歴史とともに〝呪〟も『結界』も発展します。言葉を使わぬ〝呪〟、これがさらに高度なものになると――――例えば街並みを精神を落ち着かせる色で統一し犯罪率を抑制する。テーマパークで人に躁のを起こさせる音波をこっそり流し、利益率を上昇させる。風景の中に情報を少しずつ隠し、サブリミナル効果で暗示を掛ける。通行人を自然と一定の通路に導くような建設方式。――――このように、挙げだすと切りがありません。それどころか、現代はコンピュータなどに代表されるデジタルの中でさえ、〝呪〟や『結界』と呼べるようなモノが溢れているのだと、私は思っています」

 なんとなく当たり前のことしか言っていないような気もするが、そこはかとなく筋が通っているような気もする。

「さらに――」と、明満は口を休める気配を見せない。先日のエミリアのおしゃべりにも驚かされたカインだったが、明満の連ねる言葉はそれ以上だ。くわえて彼の弁論がエミリアの容赦ないマシンガントークと決定的に違っている点は、その言葉触りの優しさ、語りのペース、緩急の付け方、声質の使い分け――全てが巧みで、ついつい耳を傾けずにはいられないこと。

「大昔――それこそ平安の時代ともなると、精度の高い情報伝達共有技術を持ち得なかった分、現代などよりもはるかに『結界』の効力が高かったものと思われます。聖域と呼ばれる場所に必ずと言っていいほど仰々しくおどろおどろしい噂があったりしますのは、これもまた奇奇怪怪な流言蜚語を〝呪〟として『結界』を機能させていたという、何よりもの証拠。『あの山には天狗が住まう』『あの寺では鬼が出た』そういった噂話が飛び交えば、必然的にその場所に足を運ぶ者も少なくなるでしょう? 水脈などの生命線は自然と聖域とされ、そこを守護するために畏ろしい伝説が語られ、人の近付くことが忌避される……といった具合です。墓所や戦地の跡だってそうですね。当時はまだ医学も進んでおらず、死者も土葬の文化だったでしょう? ワケの分からない伝染病などから村人町人を遠ざけるには、怪談じみた戒めがもってこいだったというわけです。

 また、京に限った話ではありませんが、場所を仕切る境目――境界の付近に、そういった噂は特に多かったと言います。おそらくは侵入者、流出者を防ぐために、為政者が敷いた『結界』でもあったのでしょう。〝京を囲う境、そこに夜な夜な魑魅魍魎出没す。これ人を喰らうなり〟――そんな噂を流しておけば、誰も好んでは境目に寄り付かない。より『結界』の完成度を高めたければ、そうですね……辻斬り事件でも起こすか、もしくは死罪人でも殺して道端にばら撒いておけば、当時の人たちはあやかしの仕業だと大層畏れていたでしょうからね……。実際、ここ京の都の入口であった『羅城門』にも、鬼が出るのだという話が伝わっていました。

 つまり、境界を設けるとは、それ即ち境目の両側が〝異質〟であるということ。ヒトの文明の無くして妖怪の存在は産れませんが、ヒトが畏れ、おののく存在無き場所でもまた、妖怪は産れ落ちません。強大な大自然や、恨めしい敵国。蛇や毒虫に猛獣猛禽、野盗が潜む、暗闇の空間。朝廷と文明に背く、まつろわぬ民。〝妖怪〟という置換装置は、まるで着ぐるみのように、このような歴史裏の存在たちに着せ付けられる。ヒトが安住くら領域テリトリィと、そういった闇の空間が隣接するまさに境目、境界線こそが、魑魅魍魎を孕み育てる母胎なのです。

 仕切り、分かち、差別する――そこに怪異、〝怪しく異なるもの〟が産まれ出ずるのは、ある意味当然のこと。境目とは古来より、怪異――物の怪モノノケの湧く場所だったのですよ」

 何とか耳で追うことができ、そして咀嚼し理解する時間猶予も与える絶妙なペースで、その長い講釈は続いた。それゆえか聞き飛ばすこともできず、負担を感じ始めたカインの耳と脳が、段々と疲れてくる――。


 ――――パンッ!!


 頃合いを見計らったかのように、明満は大きく手の平を打ち鳴らした。

 カインは再び不意打ちを喰らい、驚かされる羽目になった。

「情報量の多さで聞き手の集中力と判断力を低下させる。大きな音などで驚かせた隙に暗示を刷り込む。――どちらも催眠術における初歩的なテクニックですから、気をつけて下さい」

 カイン君、あなたにも〝呪〟が掛かっていたようですね――明満はそう言って、相変わらずにこにこと笑っていた。

「明満さん、あなた……一体……」

 思わず、尋ねていた。

「ああ、そういえば自己紹介の時には言い忘れていましたね。実は私の家、代々京の都を守る陰陽筋の枝葉の先、その末端にあたる家系なのですよ――」

「オンミョウ……――」

「――ええ。つまり、まぁ先達に比べるとお粗末な未熟者ではありますが、私もまた一応は、陰陽師の端くれではあるというワケです――」

 陰陽師・明満道晴は、はは、と力ない笑い声を上げた。手を後ろに組んで、夕日を背負って佇んでいる。誰そ彼時たそかれどき――逆光でその顔は茫漠として知れず。


 ――――まさか、京の街で現代に生き残った陰陽師と出会うとは。


「(ちょっと、出来過ぎている気もするな……)」

 何はともあれ、カインの京での合同任務は、初日から驚きで一杯だった。






 ――捜査B班担当、旧皇都北西エリアにて。

 普警からの緊急出動要請を受けた王少天とスティフナズ兄妹の三人が、事件現場に到着した。

 寂びれた住宅街の片隅、公衆トイレの前に警官が立ち並び、入口には「KEEP OUT」と書かれた立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らされている。

「……ひでぇな、こりゃ」

 ――見るも無残な血溜まりへと変貌を遂げてしまった、男性トイレの個室。

 王は凄惨な現場を見渡しながらホトケの前にしゃがみ込み、目をつぶって手を合わせた。

 被害者の遺体は便座の中に首を突っ込むような形で放置されていた。清掃の行き届いていない黄ばんで黒ずんだ白い陶器製の便器からは、どろりと赤黒の血が溢れ返っている。

 ――――そして、その死体には、首から先が無かった。

「例の『首狩り』の仕業かしら。そうだとしたら、被害者はこれで六人目になるわね」

 狭い個室の外から、エミリアが言う。ユリィはその脇で、あたりを落ち着きなくキョロキョロと見回していた。

 王は自分たちより先に現場検証を行っていた普警から渡された鑑識ファイルと、現場の状況を交互に見比べつつ、

「首は持ち去られているようだし、その可能性は高そうだな」

 と、答えた。

 彼はさらに、犯人の斬首の手並みを拝見すべく、剣客独自の視点で首切り死体を検分し始める。

「切断面を見る限り、凶器は鉈のような肉厚の刃物、それを乱暴に何回も叩きつけるようにしてガイシャの首を断ち斬っている。資料で見た今までの『首狩り事件』の殺害状況と一致する」

 今、王によって語られた凶行があったことを裏付けるかのように、個室内の壁には、いたる所に血液が飛び散っており、血痕は天井にまで付着していた。壁には被害者の必死の抵抗を物語る血の手形や、血だまりの床をもがき、足でこすった跡も残っている。――荒々しい斬首の光景を想起させる、まるで地獄絵図のような有様だ。

 その出血量と現場の汚れ方から見ても、ここが単に死体遺棄現場というだけでなく、犯行現場でもあるということは明白だった。王は苦い顔をして、首の切断面を覗き込む。

「打ち込みの方向はバラバラ、刃筋は立ってねえし、切り口も汚ねえ。そのうえ断面の傷み具合の違いから見るに、時間もえらく掛かってるときた。どうやら犯人は刃物の扱いには不慣れなようだな。生きたまま首を斬られたとしたら、ガイシャは死ぬまでの間、相当苦しんだに違いない」

 それを聞いたエミリアは「お気の毒さま」と肩を透かしただけだった。

 彼女は死体にも怖気づいていないし、この惨状に対する嫌悪感も無いようだ。その反応を見て、王は少しばかり、危ういものを感じた。

「……嬢ちゃん、一つ忠告しといてやる。人の痛みを知れない奴は、この世界じゃ長生きできないぜ」

 エミリアはその言葉に、少しだけムッとした反応を示した。なまじ優秀なだけに、注意を受けることに慣れていなかったのかもしれない。

 もし今一緒にいるのがカインだったら、と、王は思う。あの後輩は、この首無し死体を見ただけで派手に反吐をぶちまけていたかもしれない――。

 しかし、スティフナズ兄妹は違う。兄のユリィは性格的にともかく、エミリアはこれでもまだ場数を踏んでいない研修中の身だというのだから、頼もしくもある。だがそれと同時に、王は彼女たち兄妹を危なっかしくも感じるのだった。恐怖と痛みを知らない者が、真にそれらと相対した時、立ち向かうことなどできはしない――。

 ――けれども今は、事件の解決こそを何よりも急ぐべきだ、と王は思った。つまらないことでチームメイトとの足並みを崩したくはない。

「……すまなかった、老婆心というよりは単なるオヤジの小言だよ。忘れてくれ」

 不機嫌そうなエミリアにそう謝ってから、王は現場の検分を続けた。普警の鑑識ファイルを参考にしつつ、細かな箇所を見落とさないよう、死体の隅々まで観察をする。

「しかし、不思議なのは、この……」

 彼が被害者の上着の袖をまくり上げると、そこには何かに強く噛まれたような歯形が残っていた。大きさや歯並びからして、人間によるものに間違いはないそうだ。

 ファイルをよく読んでみると、その咬傷はよほど強力な顎の力で噛み付かれたようで、被害者の腕には折れた犬歯と前歯が深々と突き刺さり残っていたのだという。そして現在、その歯は遺留品として回収され、「簡易遺伝子鑑定器」による鑑定が行われているらしい。

「噛み付かれた痕は、どうも一つだけじゃないみたいね……」

 エミリアの言う通り、深く肉に食い込んだその歯形は、両腕、そして左足のアキレス腱あたりにも見られた。全部で三箇所。暴行の痕――にしては、不可解だ。右足のふくらはぎには、犯人が足で踏み付けて押さえ込んでいた足型も残っている。

 さらに、後ろから個室を覗き込んでいたユリィが、その歯形を見て、ぼそぼそと呟いた。

「どれも、歯並びが違う……別人……か」

 どうやらユリィが言うには、三つの歯形は全て違う形で、別人のものに見えるらしい。

 歯並びの違う三つの歯型――それらが全て、同時に噛み付いたものだとしたら。つまり被害者は、便座の中に顔を突っ込むような形で頭と左足を押さえ付けられ、残りの両腕と右足は、三人の人間が噛み付いて拘束していたとおいうことになる。そのような不条理な状況で首を切り落とされたというのだろうか。

「待て待て……ってえことは、このせまっ苦しい密室の中におしくらまんじゅうよろしく三人――いや、暴れる相手に噛み付いたまま鉈を首に振り下ろすなんて芸当は不可能だから、四人か――しかも死体を入れたら五人……すし詰めのぎゅうぎゅうになって首切り作業に勤しんでいたっていうのか?」

 トイレの個室は、せいぜい人間二人入れたらいい程度の広さであり、その可能性は考え難い。仮にそうだったとして、そもそも何故、手を使わずにわざわざ獣のように口で押さえ付ける必要があったのか。

 不可解な状況に首を捻る王。その肩を、後ろからユリィがとんとんと指で叩いた。

 振り返ると、ユリィが今度は床を指差している。

「靴。歯形は三つ……足跡は一つ……」

 今はもう血はほとんど凝固しかけているが、犯人は犯行直後、血溜まりを踏んだ靴で現場から逃走している。トイレの床にはしっかりと足跡が残っていた。

「なるほど、確かに。犯行後ここから出ていったと思われる足跡は一人分だけ……か。こりゃ、ますます胡散臭くなってきたな」

 靴裏の型は一種類のみ。しかも個室から出口までのルートを真っ直ぐに出ていったと思われる足跡しか残されていない。犯人が下手にうろうろしていない分、それが非常に分かりやすい。

 王はこの不可解な状況、そして現場で得た情報を頭の中で整理するために、思案に暮れている。

「(『首狩り』は今までの被害者の首も全部持ち去ってるっていうが……まさか……)」

 彼が腕を組みながらあれやこれやと考えていると、背後から声を掛けてくる者がいた。

「王警部補――」

 その声は、エミリアでもユリィでもない。誰かと思って見てみると、外から黄色いテープを跨いで入って来た、普警の鑑識官だった。

「何でしょう」

 王はなるべく、丁寧で穏やかな口調を心掛け、返事をした。余所者の特警隊員が、その土地の普通警察と衝突してしまうと、なにかと面倒なことになり、よろしくない。

 鑑識官も、きわめて業務的な、抑揚のない口調で用件を告げる。

「被害者の体に残されていた歯の、簡易DNA鑑定が終了しました」

 警察組織が使用している簡易遺伝子鑑定器は、そのほとんどが海外企業《クヌーズ・ホルム・カンパニー》の開発品である。それなりに大型だが、特殊な車両に搭載すれば屋外でも利用可能なその鑑定器は、それまで海外の専門機関でしか行えなかったDNA鑑定を、従来に近い高精度で、しかも事件現場で迅速に行えるようにし、警察の捜査活動などにも多大な貢献をしている。

 しかし、それでも王にとって《クヌーズ・ホルム》の名は、どうしても好きになれないものだった。

 その最大の理由はやはり、昨年この国で事件を起こしたクルス教カルト武装テロ組織『十字背負う者達の結社』に、この企業が密かな協力と資金援助を行っていたことだろう。にもかかわらず、かの企業は、事件と関係していた末端の研究部署と社員だけを切り捨てて、その後平然と事業を再開しているのだ。それどころか、この国に進出してきた際に巨大財閥《劉グループ》と提携し、国内での勢力をどんどん伸ばしてきてさえいた。

 そのような会社の造った機械の世話になるのも嫌になるが、役に立つものは立つのだから、仕方ない――。

「――で、結果はどうだったの?」

 横からエミリアが問うと、鑑識官は少々困ったような顔をして「それが……」と口籠ったあと、奇妙な鑑定結果を報告した。

「……歯から採取したDNA情報はそれぞれ、首狩り事件の一番目の被害者、三番目の被害者、四番目の被害者のものと一致しました」

「ほう。それはまた、面妖な――」と、王は腕を組む。

 もはや、何が起きても驚かない。この『首狩り事件』、王は死体を一目見た時から、異能者による犯罪だと直感的に理解していた。特警刑事の勘――とでも言うべきか。

 だが、もしそのDNA鑑定結果が本当なら、以前に首狩り事件で殺されたはずの被害者の首が、今回の被害者の腕や足に、歯も折れんばかりの力で噛み付いていたことになる。胴体から離れた首が、宙を舞って人に襲い掛かったとでもいうのか。

「(宙を舞う首、か――)」

 王は、ふとあることを思い出す。

「(そういえば、中華のほうには空飛ぶ生首の妖怪がいる――なんて話を小さい頃、大陸生まれの爺さんから聞かされたことがあったな)」

 確か「ろくろ首」のアイデアはその妖怪が元になっているとかいう話で、名前は〈飛頭蛮〉だったか〈落頭民〉だったか――おぼろげな記憶を辿りながら、王は腕を組む。

 妖怪。

 当然、引っ掛かるキーワードだ。

「(あと、この国にも、似たような生首の妖怪がいたと思ったんだが……あれは何だったけか――)」

「――ねえワン、いったい何を考えてるの?」

 エミリアによって思考を中断された王は、はっと我に返った。

「ん……ああ、すまん」

 さすがに正直に「妖怪のことを考えていた」などとは言えず、王はバツが悪そうに、頬の傷をぽりぽりと掻いていた。

「なにそれ、変なの」とエミリアは首をかしげる。そして汚れに汚れた現場を見回した。

「……それにしても、全く隠す気も無い雑な死体処理に、足跡や遺留品まで現場に残しているこの迂闊さ。随分と間抜けな犯人よね……」

 彼女は「ふぅ」と溜め息を吐いた。

 もっとも、こういったケースは、異能犯罪者としては至極分かりやすいタイプでもある。常人には思いも及ばぬ力を持つ異能者は、その能力に自信と優越感を抱いている者ほど大胆な犯行を起こしやすい傾向にあるからだ。要は、警察を――いや、のだ。

「(捕まらねえ自信があるのか、それともエミリアの言う通り、ただの阿呆なのか――)」

 現場からは、修羅場を潜り抜けた異能者の凄みや、怖気を感じさせるような不気味さは、一切感じられない。ただ己の力を試したいだけの人間が、残虐な作業を楽しんでいた――それだけの印象だ。


「(確かに今、京で起こっている事件の中では群を抜いて凶悪。

 だが、この『首狩り事件』自体に大した深みは無いような気がする……。

 それでも、もしこれが一連の『百鬼夜行事件』に関わっているとするなら――――)」


 ――――ややこしいことに、なりそうだ。






 次の日、午前中・午後中の見回りを終え、カインたちは訓練道場に集まっていた。木曜日、週に二度目の訓練組手である。

 訓練の開始は午後六時から――。まだ時間にはなっていないため、道場に集まった隊員たちはそれぞれ、雑談やストレッチなどをしている。

 カインと王、そして菅原の三人は、昨日発生した首狩り事件のあらましについて、話し合っていた。

「――つまり、死んだはずの被害者の歯が、次の被害者の体に刺さっていた――ということですか?」

「ああ。けったいな事件だろ?」

「一気に、異能者による犯行である可能性が高くなったっすよね」

 首狩りは特に危険度の高い凶悪事件だから、早急に解決しなくてはいけない――と、菅原が息を巻いている。

「現在のところ、京で起こっている事件群の中で、積極的に一般市民に危害を加えているのは、『首狩り』と『くりぬき魔』ぐらいっすからね。この二件の犯人は迅速に逮捕しないと、どんどん被害者が増えることになるっすよ」

「くりぬき魔――確か、という」

 くりぬき魔によって殺された人間の体には、皆一様に奇麗な真円状の穴が貫通していたという。直径は最大で十センチほど、ぽっかりと空いたその穴は、まるで型抜き器でくり抜いたかのように見えるため、『くりぬき魔』などという呼び名コードネームを付けられているらしい。

 カインらが事件について語り合っていると、やがて訓練開始のブザーが鳴り、道場に櫓坂隊長が入って来た。

「本日は芒山隊長が会議のため不在、わたくし一人で訓練監督を務めますゆえ、よろしゅうに」

 そう言って上座に正座し、櫓坂は「礼!」と大きな声で合図をした。


 その日の訓練は、受け身や型の練習など、主に基礎の確認から入り、それから一対一、一対多数などを想定しての技の掛け合いと約束組手など、いかにも訓練然とした内容で前半までが経過した。

 そして後半にさしかかった頃、櫓坂は基礎錬を切り上げて、他の隊員たちを全員正座させた。壁に沿って道場内を囲むように正座している隊員たちの中央で、コワモテの旧皇都支部隊長は、少しばかり楽しそうなのを隠すように咳払いし、こう切り出した。

「これから極めて実戦に近い形での散打形式で、訓練組手を行おう思っとります。私がお相手務めさして頂きますので、我こそはいう方、どうぞ中央までいらして下さい」

 櫓坂のそう言ったあと、旧皇都支部隊員たちの間ではどよめきが走った。皆、お互い顔を見合わせたり、気まずそうに俯いたりしている。

「うはぁ。櫓坂隊長のタイマン稽古、また始まったすよ」

「特に今は全国支部から選りすぐりの腕利きが集まってるから。きっと技比べしたくてしょうがなかったんでしょうね、隊長」

「……あの人らしいっちゃ、らしいっすけどねー」

 菅原とエリゼが小声でそんなことを話していた。

 その後ろでエミリアが、ユリィの胴着を指でつまんで引っ張りながら、「兄さん、いってみたら?」というようなジェスチャーをしているが、彼女の兄は生憎、畳の目を数えるのに夢中で話を全く聞いていない。

 誰も名乗りを上げないのを見て、櫓坂は少し残念そうに、口をへの字に曲げた。そして、期待を込めた寂しげな瞳をカインたちのほうに向けてくる。まるで、人懐っこいサーカスの熊が遊んでほしがっているような風情だなとカインは思った。

 しかし櫓坂はそのあとすぐに、カインらのそばで固まって座っていた本庁上層部直属勤務のエリート組グループのほうに目を移して、言った。

「……どうですかな、今回の事件のために本場東都のほうからわざわざ駆け付けて来て下さった、警察幹部候補の皆さんがた――是非我々にご指導ご鞭撻のほど、お願いできまへんか?」

 不敵な笑みを浮かべる櫓坂に対し、エリート組の面々はぴくりと反応した。

 彼らの内から一人が、静かに立ち上がった。長すぎない程度に伸びた髪を整えて眼鏡をかけた、いかにも文官タイプの若い男だった。

 彼は座っている仲間に「持っていてくれ」と眼鏡を預け、櫓坂の前まで歩み出た。仲間の男たちも、口の端を歪めて笑っている。口に出さずとも「イナカモノに分からせてやれ」という侮蔑の本心が、彼らの目から透けて見えていた。

 ――さすがに親の七光りなど、警察組織内での世襲制は減ってはきたが、それでも現場を知らずに上層部への昇進を約束された彼ら温室育ちのキャリア組を、カインも王もあまり好ましく思っていなかった。

「(どうせこの事件に介入したのだって、出世してからじゃ現場に出られないから、今のうちに経歴に箔を付けておくために決まって……――)」

 カインがそんなことを思っていると、エリート組の男はピシッと背筋を伸ばし、

「東都特警総本庁公安課所属、尾根崎です」

 と名乗ったあと、奇麗な礼をした。

 尾根崎は「ハアッ!」と気合を入れて構えを取る。

「(……あれ? 案外ノリいいな、あの人……)」

 思わず、ずるっと正座の姿勢を崩してしまうカイン。

 相手のやる気を見て、櫓坂も喜色と闘気を隠さずに礼を返し、構えを取った――。

 尾根崎は相手に対して若干左半身になり股を開き、リラックスした状態で両腕を上げ、左手は前方やや下斜めに、右手を胴体脇に引きつけるような構え。少林寺拳法の中段構えに似ている。

 櫓坂は相手に正対し、利き足を前に、腰を非常に低く落とす。両手を空手の裏突き(手の甲が下を向くように拳を打つ事)のような形で躰の前へ並べた、独特な構えを取っている。

「ふ……ッ!!」

 吐息と共に、尾根崎が中段前蹴りを繰り出した。櫓坂が手の甲でそれをはたき落とすと、尾根崎の足は流れるように楕円の軌道を描き、斜め上から振り下ろされるブラジリアンキックに変化する。

 裏小手(腕の小指側の側面、内腕部)による受けでその蹴りを止めた櫓坂は、両の拳で怒涛の連撃を叩き込んだ。裏突きから捻り出すように打ち出される、恐ろしい速度の突き。

 その速さと手数に面喰った尾根崎が、両手を総動員してのパリングで防御に徹するが、とても捌きが間に合わない。まずみぞおちに右裏突きの一撃が入り、連打、連打、続いて左手で、喉仏を挟み込むように首を掴まれる。気道を押し潰そうとする櫓坂の親指と人差し指――それはまるで猛禽類の爪のようだ。

 急いでその〝鷹の爪〟を掴んで引き離そうとする尾根崎だが、それもかなわず、彼の手は櫓坂の右手によって払いのけられた。櫓坂の右手はそのまま「くん」と動き、親指からの三本指を立てた目突きの形をとり、人中・両眼の三点を捕捉――ピタリと尾根崎の顔面の寸前で止まる。

 寸止めだった。二本の指が、まさに両目の目前――それこそ眼球の1ミリほど手前で静止している様を見て、尾根崎はごくりと唾を飲み込んだ。

 ニヤリと笑って櫓坂が両手を離し、距離を取った。誰がどう見ても、明らかな実力の差だった。


 けれども、若いエリート刑事は潔く負けを認めることが出来なかった。「おおぉ!!」と叫んで自らを奮い立たせ、よせばいいのに果敢にも突っ込んでいく。

 尾根崎の右中段突き。櫓坂は舞うように避け、相手の突き出した腕が伸び切ったところで、尾根崎の肘関節をヘッドロックのように脇に挟み込み、その状態で側転宙返りをする。躰の回転に合わせ、尾根崎の腕が捩じれ曲がる。

 本来なら肘頭から前腕骨までが雑巾を絞るように砕き折られる恐ろしい技だったが、櫓坂は相手の躰を壊さないように途中でパッと腕を離し、軽やかに着地した。

「ぐっ……!!」

 尾根崎は呻く。極まりきる前に技を解いてもらったとはいえ、それでも肘の靭帯に多少の痛手を負ったらしい。彼はすぐには復活しそうにない右腕をぶらつかせながら、仕方なく左フックでの反撃を繰り出した。

 だが、それも当たらない。櫓坂は回転しながら屈み込んで華麗に躱し、地を這うような後ろ廻し水面蹴り――「後掃腿」へと技を繋げる。

 慌てて両脚で跳び上がって、何とかやり過ごした尾根崎。だが彼が着地したそのときには、櫓坂は背中合わせの状態で背後に回っており、背面を用いた体当たりを喰らわせてきた。

「ドンッ」と押されて体勢を崩した尾根崎は、よろよろと数歩進んで前につんのめったが、踏みとどまって、どうにか体勢を整え直した。

 その様が滑稽だったのか、見学していた他の隊員たちの間から、くすくすと笑い声が漏れる。

 かっとなった尾根崎が相手に向き直った時、すでに距離を詰めていた櫓坂が目の前にいた。

「うわ!」――尾根崎は驚いて、反射的に不用意なハイキックを出してしまう。

 櫓坂は楽々とその蹴りを受け止め、足の裾を掴み取ると、残った軸足の向う脛を刈り取るように払った。

 尾根崎がうつ伏せに倒され、そして背中に跨るようし掛かられたかと思うや否や、掴まれていた足首を脇にロックされ、極められてしまう。さらにダメ押し、うなじの辺りを膝で押さえ付けられて完全に動きが取れなくなったところ、顔面の真横すれすれに正拳が叩き下された。

 無駄のない、見事な制圧術だった。

 文字通り、目と鼻の先に叩き下されたこぶし。それによって畳がべこりとへこんだのを目撃し、尾根崎は「ま、参りました……」と弱々しく降参の声を上げた。

 櫓坂はすぐに技を解き、尾根崎を引き起こしてやった。

 手も足も出ないとは、まさにこのことだろう。若いエリート刑事はすっかり意気消沈している。

「そうガッカリしなさんな。あんさん筋はええんですから、机にかじりついてばかりおらんと、これからも精進しんさい」

 笑顔で対戦相手の肩をバシバシと叩く櫓坂。尾根崎は「はい」と力なく頷いたあと、「ありがとうございました」と強く礼をした。

 櫓坂も返礼すると、尾根崎が元座っていた場所へと戻っていく。彼の仲間達は「気にするなよ!」「お前はよくやったって!」などと言って励ましている。

 前言撤回、案外いい人たちなのかもしれないな――とカインは思った。


「さて、次の相手は誰にしてもらいましょか――」

 今しがたの散打で驚異の戦闘力を見せつけた櫓坂は、そんなことを言いながら、隊員たちをぐるりと見回した。

 ――自分たちの隊長の実力を知っていたからこそ、最初、旧皇都支部の隊員たちは誰も対戦相手として名乗りを上げなかったのだろう。

 しかし、そんな中、櫓坂の闘いぶりを見ながら、今にも飛び出しそうなくらいウズウズしている男が、一人だけいた。

 カインの隣で立て膝ついて勢いよく立ち上がったその男は――先輩こと、王少天。

「オレがやりましょう。いいですよね――?」

 王は先ほどの櫓坂と同じような不敵な笑みを浮かべ、中央に躍り出た。

「もちろん。実は私も、是非王君か芒山さんと手合わせしてみたいと思うておりましたんですわ」

「……芒山隊長とは、やめておいた方がいいですな。あれは化け物じみてるなんてもんじゃない。化け物の頭を踏み砕いて上から睨みを利かしてる不動明王みたいなもんです」

 いつも訓練で芒山の鬼のような強さを目の当たりにしている王は、その様子を思い出して苦笑する。

「ほほう」と櫓坂。王の言葉を聞いても、自信は微塵も揺らいでいないようだ。

 それより――と王は続けた。

「櫓坂隊長――あなたの戦い方、見ていてピンときましたが、あの見事な功夫クンフーは主に北派中国拳法のそれですな。最初の構えと手技は翻子拳のようですし、他にも北派特有のアクロバットな動きや、靠(体当たり)の技法がいくつか見られました」

「おお、分かりますか! 私はもともと軍特務課所属だったんですが、任務で大陸に渡った際、あちらの武術の多彩さに驚かされましてなぁ。主に手技を翻子拳、蟷螂拳に学び、足技とフットワークには秘踪拳ひそうけんからいくらか取り入れております。靠法には、形意拳、心意六合拳などから影響を受けました」

 派手な動きと足技に特徴のある北派中国拳法ではるが、まるでガトリング砲のように猛烈な連続突きで攻撃する「翻子拳」や、かまきりの動きを模した多彩な手技の「蟷螂拳」などの武術も存在する。「形意拳」、「心意六合拳」などはさらに地味で動きの少ない拳法ではあるが、頭突きや体当たりでの強力な当て身技が実戦的だ。

「ははあ。オレの家は本国の古流剣術を代々伝えてきた道場だったんですが、そこに婿入りしたうちのジイさんは、大陸南派の技を継いで来た道場の拳法家でもありましてね。オレの体術はそのジジイから叩き込まれたもんです。修行の際は南派少林拳を軸に据えて、他は詠春拳と洪家拳の技を修めました」

 北派の拳法に対し、南派の拳法には、派手な技や、いわゆる「魅せ技」のような大きな動きは少ない。その分、地味で実戦的な拳法が多いのが特徴だ。なかでも「詠春拳」といえば映画俳優であり武術家でもあるブルース・リーが幼少の頃から学んでいた武術として有名だろう。最短距離を直線で突く手技で接近戦を得意とする。そして「洪家拳」には船上での戦いを想定した低姿勢の構えからくる安定感と、站樁たんとうなどによる独特の鍛錬法で作り上げた身体から繰り出される、力強い攻撃がある。どちらも、飛んだり跳ねたりということをあまりしない、実戦重視の拳法だ。

「ほお。それはそれは――どうりで中国武術への造詣が深いわけですなぁ。特に南派の技とは実際手合わせしたことはありませんでしたから、これはまたとない貴重な技術交流になりますわ」

「もっとも、オレは専門が剣術ですから、拳法のほうはまあ、趣味みたいなもんですがね」

「(よく言うよ――)」

 いつも素手の組手勝負ではやり込められてばかりいるカインが、心の中で呆れている。


「――では、始めますか」

 王と櫓坂はお互い数歩ぶん歩み寄った。彼らは握りこぶしと掌を胸の前で組み合わせ、お辞儀をする。これは、〝拱手〟または〝抱拳〟とも呼ばれる「礼」の動作――。

 ――その静かな動きから戦闘が始まったのは、非常に唐突だった。

 櫓坂がダイナミックに仕掛けた。リズムよく跳び上がって躰を捻り、足を高々と掲げてふくらはぎを当てに行くような、空中での後ろ廻し蹴り。王は斜めに躰を傾けて躱す。

 空振りした右足は、畳に着地した瞬間再び跳ね上がって、ハイキックに変わる。傾けた躰を戻している最中の王に対しての、交差法カウンターだ。その蹴りに、肘打ちをぶつけて相殺する王。櫓坂は蹴り足を引っ込めて、同時に反対足でのミドル。王が重ねた両手で払うように止める。

 櫓坂の攻めは終わらない。止められた左足がまだ空中にあるうちに、再び繰り出される右ハイ。王が上段で受けたが、相手は滞空中に蹴りを振り抜くまま反時計回りに躰を回転させ、左足での突くような飛び後ろ廻し蹴りを放った。腹部を足の裏で突き押されるように蹴りをもらった王は、後ろに数歩下がった。距離が空く。

 しゅたっ、と低い姿勢で着地した櫓坂は、隙を見せずに奇妙な構えへと移行。二本貫手を親指で支えたような形の、見慣れない手つき。三本の指を使ったその手形しゅけいは、「蟷螂手」と呼ばれる、蟷螂拳独自のものだ。

 両手をかまきりのように構えながら、「かさかさ」と足音が聞こえてきそうな昆虫じみた足捌きで間合いを詰めてくる櫓坂。かまきりの手技だけでなく、猿の動きも取り入れた歩法を持つ蟷螂拳の運体は、なかなかにトリッキーだ。

 王は接近してきた相手を迎え撃つため、真っ直ぐに右の縦拳を突き出す。しかし彼の突きは蟷螂手の手の甲で「くん」と押し上げられ、上方に軌道を逸らされてしまう。懐に入られないよう、右の中段で蹴りつけるが、こちらも、もう一方の蟷螂の鎌で、払うように逸らされた。

 櫓坂が隙を見て、蟷螂手での打突。点穴を攻めてくる。

 王はそれを、至近距離での防御技術に長けた詠春拳の防御でブロッキングする。まるでお互いの腕が絡み合うかのような、複雑な攻防。

 密着状態の接近戦になっても、櫓坂は肩や躰全体を使った体当たり、頭突きなどを織り交ぜて多彩な技を見せてくる。しかもそれだけなく、王の蹴りに対して側宙で避けたり、両腕を広げながら屈伸運動に似た動きで恐ろしく低い体勢に沈む「仆歩ぼくほ」や、脇を潜り抜けるように背後に回ったりなどなど、緩急自在の回避運動で幻惑する。

「(くそっ、離れようにも中距離になると多彩な蹴り技と翻子拳の連続突きがある。やりづれえな……)」

 蹴り・突き・肘膝、全ての間合いオールレンジに対応してくる櫓坂の闘法に対抗するのは、困難を極めた。

「(しかも、足運びが――――見えねえ)」

 千鳥足というわけでもないのに、複雑な運歩――前へ踏み出していたと思っていた足が後ろに下がり、体重を支えていたはずの後ろ足がいつの間にか横へ斜めへと自由自在、それらが忙しなく入れ替わり旋回し、相対する敵を惑わす。「十面埋伏」「迷踪芸」とも謳われる、秘踪拳のフットワークである。その捉えどころのない歩法から、連撃がこれでもかと叩き込まれ、また、溜めも音もなく跳び上がったかと思うと、突然に鋭い蹴りが空を切り裂く。良いのをいくつか貰ってしまう。鍛え抜かれた硬い蹴りと拳骨は、たとえ軽く速い連環打でも、骨に痛々しく響いた。ガードの上からでもじわじわと体力・防御力を削り取るような攻撃――このまま防御に徹してもやり込められるだけで、美味しくない。

 王は左猿臂による攻撃をブラインド目隠しにし、連繋して下方死角から右腕を振り上げた。相手の喉元を狙っての攻撃を試みる。親指の第二関節、鶏頭けいとうと呼ばれる部位を用いての急所攻撃だ。

 しかし、櫓坂は冷静に二本の蟷螂手でそれを受け止めた。手首の関節可動域で挟むようにして攻め手の腕を捕らえるのは、「拘」と呼ばれる防御テクニック。まるでかまきりが獲物を捕まえるように、王の腕を拘束している。

 うち片方の蟷螂手がすっと伸びてきて、王の首を刈り取るように引っ掛ける。それとタイミングを合わせての、下段蹴り払い。蟷螂拳の得意とする、てこの原理を利用した足払いである。

 こかされそうになった王は、無理に抵抗することをせず、両手を畳に突いてバック転で体勢を立て直した。そのまま二連、三連、と連続バック転で距離をとる。雑技団のような軽やかな身のこなし。

「ふー、危ない危ない。軽身功もやっておいてよかったぜ」

 これで一旦、仕切り直しになる。

「ふふ、やりますな王さん!」

 櫓坂が嬉々として踏み出し、一気に距離を縮めてくる。爆発的な踏み込みからの、矢のように鋭く迅い突き。

 王はその拳打を、片膝が畳に付くくらい体勢を低めて躱すと、低姿勢のまま躰を旋回させて、逆水平に横拳を振り出した。そのこぶし――鉄槌横回し打ち――を、櫓坂の続けて繰り出そうとした下段蹴りにぶつけて、押し止める。

 すねと横拳がぶつかり合い、「ゴッ」と硬い音がした。

 王はその防御動作から連続して、よどみのない動きで下から跳ね上がる。

 一気に櫓坂の懐に飛び込み、洪家拳の胡蝶掌(両手を蝶のような形に合わせて打ち出す双掌打)を打ち込んだ。

 櫓坂も俊敏に反応し、両腕の背腕を押し出して防御したものの、威力を殺しきれずに後ろに吹っ飛ばされた。彼は宙で身をよじって、サイドスワイプのようなアクロバットで無事着地した。

 即座に再び戦闘態勢に入る二人。

 だが、しばらく対峙して睨み合っていたかと思うと、双方、腕を下ろし、構えを解いた。

「さすが、素晴らしい威力ですわ。クンフーもお見事、刀が専門だというのが信じられまへん」

「そちらこそ、変幻自在の技を持ってらっしゃる。中盤かなり危なかったですし、実戦だったらきっとオレが負けていました」

「まあまあ、ここは引き分けということでええやないですか。がははは」

 笑顔で歩み寄った王と櫓坂は、肩を叩いてお互いの健闘を讃え合った。激闘の行方を息を飲んで見守っていた他の隊員たちも、ようやく気が緩んだのか、皆「おおぉ……」と感嘆の声を漏らした。カインの横に座っている菅原も、目を輝かせて感動している。

「いやあ、すごかったっすねえ~。いいもん見れたっす。櫓坂隊長とあれだけ戦える人、エリゼ副隊長以外で初めて見たっすよ」

 カインは「あはは……」と苦笑いした。

「でも先輩、すぐ熱くなる質だから、どうなることかと心配しましたけど……お二人とも怪我なく終わって良かったです」

 などと安心していたカインだったが、

「あー、カイン君!」

 出し抜けに櫓坂から名前を呼ばれて、彼はギョッとした。

「は、はいッ! 何でしょう……?」

「どうかね、あんさんも。王君の相棒いうほどやし、カイン君も実際、相当な腕なんでっしゃろ?」

「へ……っ?」

 一瞬、櫓坂が何を言っているのか分らず思考停止しそうになる。まさか、たった今達人二人が繰り広げた強壮巧緻な戦いのあと、自分の腕を披露しろというのか? ――カインは突然に振られたその無茶振りに困惑した。

 たまらず王のほうに救いを求める視線を送ってみても、当の先輩刑事は呑気に「おう、やれやれ」などと言っている。

 ――マジでふざけんな。

 恨みがましく王を睨みつけるカインだったが、王も櫓坂も、そして観戦直後でヒートアップしてしまった他の隊員たちも皆、俄然ノリノリの様子だ。

「しかし、私はもう二連戦してますし、王さんとの勝負で充分ええ汗かかせてもらいましたからなぁ。ここはひとつ誰か、他のかたにお相手してもろうて――」

 カインの拒否権無く、勝手に話が進んでいく。とても辞退できる空気ではない。

「やっぱりエリゼ君あたりがええでしょうかねぇ……それとも――」

 強引な旧皇都支部隊長は、カインの対戦相手を選ぼうと、畳の上に正座している隊員たちを順々に見回していく。そうしていると、ある人物がすっと手を挙げた。


「――是非わたくしが。よろしいでしょうか」


 それを聞いて、櫓坂だけでなく、他の隊員たちも、驚いたように発言者のほうを向いた。

「よっこらしょ」と、重たそうに腰を上げた、その人物は――――――




 ――同じ頃。

 そこは都の外れにある、錆びれた廃工場だった。

 工場の中には、もう動き出すことは一生ないだろうと思われる機械類、何が入っているのかもよく分からない木箱、ぼろぼろになった作業台など――誰にも顧みられなくなった物たちが放置されている。

 人に長く使われた〝モノ〟には魂が宿り、やがて【九十九神つくもがみ(付喪神)】へと転ずるというが、ここに打ち棄てられた不用物たちはまだそれほどの年月を経たわけでもなく、ただただ悲愴な雰囲気を漂わせることが精一杯のようだった。

 本来ならば誰も寄り付かず、埃と静寂だけがすべてを占めるはずの場所――。

 しかしこの日に限って、そこは怪しい活気に満ち満ちていた。


 ――廃工場の中には、ガラの悪く不穏な連中が徒党を組んでたむろしている。

 それも五人六人という人数ではない。二十人、三十人からいる団体様である――。


「いよいよ明日だなァ。待ちに待った大暴れだァ」

「サツのお偉いさんを襲うんだろ?」

「しかも、オレらみたいな特別な力を持ったヤツばかりを専門に狩ってる警察なんだってな」

「警察だろうが何だろうが、関係ない。わたしたち異能者に勝てるものか」

「その通りだ。血祭りにあげてやるさ」


 明りも灯さず、暗く打ち棄てられた空間の中で蠢く者達。それぞれが勝手なことをうそぶいている。

 ――どうやら本人たちの談を聞く限り、この場にいる全員が、何かしらの異能を持っているらしかった。

 そして、一段と高く積み上げられた木箱の上に座っているリーダー格らしき男が、ガラガラとした濁声を張り上げた。

「オイてめえら――!! 分かってんだろうなぁ、今度のゴトはシラサワさん直々のご命令だ。今までやりたい放題やってきたチンピラ仕事とはワケが違う。ぜってえにしくじれねえ。そこんとこ、キモに命じときやがれ!」

 そう叫ぶ本人こそ、いかにもチンピラのような格好をしているのだが、誰も突っ込む者はいない。

 声を張り上げた男の名は、小玄間こげんま 穿うがつ――ついこの前まで時代遅れな不良グループを率いていた札付きのワルだったが、異能を発現させたことによって、最近はさらに調子づいていた。

 逆立てられた髪と、筋肉の引き締まった腕に彫られたタトゥーが目を引く。アクセサリには目玉がモチーフのピアスとネックレス。服装はタンクトップの上に羽織っただらしのないシャツに、腰までずらしたカーゴパンツ――。

 見た目からしても、この場に集まっている面子の中では相当若いほうだろう。それにもかかわらず、他の者たちは皆、自分たちより若いリーダーに対する恐怖を隠せないでいた。

 だが、一人だけ、臆せずに穿を睨み返す青年がいた。

「そんな事はね、言われなくても分かってんですよ。【牛蒡種ごんぼだね】さん――」

 穿は「ああん?」と不機嫌そうに顔面を歪めた。

「どうやら殺されてえみたいだな、てめえ……」

 殺気立つ穿に対し、青年のほうはいかにも冷静だった。

「そっちがその気なら、俺だってかまいませんよ。少しばかり強いからって、調子に乗らないほうがいい。みんな、アンタみたいなリーダーにはうんざりしてるんだよ」

 青年が四つん這いになって全身に力を込めると、彼の背中から、服が裂け、四本の巨大な昆虫の脚のようなものが生えてくる。五メートルほどの長さはあろうかというその脚の先端には、長い刃物のような鋭い爪が生えていた。どうやら肉体強化系の中でも珍しい、自らの身体を造り変えるタイプの能力者のようだ。

「これが俺の真の姿――シラサワ様からは【牛鬼】の名を頂いた」

 青年は大きな牙の生えた口元から、「ハァァア……」と紫色のガスを吐き出した。吸った者の体の自由を奪う、神経系の毒ガスだ。

 しかし――

「つまんねえ能力だなオイ」

 その恐ろしい異形を見ながらも、穿は全く怯んでいなかった。

「ほざけ。今に肉塊に変えてや……」


 ――きゅぱっ。


 非常に短い時間だった。穿が青年の挑発を最後まで聞き終えることなく、勝負は終わっていた。

 今にも獲物を見定めたハエトリグモのようなモーションで飛びかかろうとしていた〝牛鬼〟の額には、さきほどまでは無かった、大きな穴が。直径は十センチほど――まるで、掘削機で奇麗に掘り抜かれたかのような真円状の穴が、一瞬にして出現したのだ。

 トンネルが開通し、向こう側まで見えるその穴。そこから、ワンテンポ遅れて「どぽり」と血流が溢れ出す。異形の躰は前のめりに倒れ込んで息絶えた。

 おそらく穿の仕業――彼の能力なのだろうが、能力者本人は積み上げられた木箱の上から、一歩たりとも動いていない。

 一部始終を見ていた一人の若い男が、〝牛鬼〟の死体に歩み寄る。派手な水色の染髪に、蛍光色のライトグリーンマーブルのツルの眼鏡を掛けた、バンドマンじみた奇抜なファッションの男だ。

 彼は苦々しい顔をしながら、積み上げられた木箱の上に座るリーダーを見上げた。

「なあ穿、勘弁してくれよ……毎回死体片付けるほうの身にもなってくれ。今月に入ってもう五人目だぞ? それにコイツは新入りだったんだから、大目に見てやっても――」

「……黙れよ、速水――いや、【瓶長かめおさ】」

 穿が木箱のてっぺんから飛び降りて、青髪の男――〝瓶長〟こと速水流清はやみ りゅうせいの前に降り立った。

「――オレ様に指図すんのか? あ?」

 そう言って、穿は流清の頭髪をむんずと掴む。

「い、いや、そんなことは……」

「おめえは昔から変わらねえよなぁ、そういうトコ。いつも肝心なところでビビっちまうチキン野郎だ」

 態度から見て、二人はおそらく古くからの不良仲間か何かなのだろうが、両者間の力の上下関係は明らかなようだった。

 びくびくとする流清の顔面に、容赦ない膝蹴りが叩き込まれた。一発だけではない。何発も何発も。歯が折れ、鼻がひしゃげ、仕上げに胴体への廻し蹴りを喰らって、流清は積み上げてあった木箱に背中を打ちつけた。大量に流れる鼻血を、手で押さえ止める。

 穿は気にせず、とどめのトーキックをお見舞いしようとする。流清がギリギリで首を曲げて避けると、彼の寄り掛かっていた木箱は穿の蹴りで突き破られ、バキィ! と板や木片が飛び散った。

 穿はキックボクシングの経験者でもあるうえ、彼の履いているブーツは安全靴仕様で、つま先には鉄板が仕込まれていた。今この場に集まっている連中で、腕っ節にしても異能にしても、穿に敵う者は誰一人いない。

「俺が悪かったよ、穿……だから頼む、もう、やめてくれ……」

 それを聞いて、穿は「フン」と鼻息荒く笑う。彼が周りを取り囲む異能者たちを振り返ると、皆、畏怖と反感を含んだ視線を送ってきていた。

「……んだよ、文句あんのかよ、あ? なんならかかって来てもいいんだぜ? てめえらごとき下っ端のカス能力でオレ様に勝てると思ってるんならな」

 穿がガンを飛ばすと、見ていた全員が気まずそうに目を逸らした。

 不良少年、小玄間穿はこういう時、たまらなく優越感を感じるのだった。社会からのはみ出し者ばかりを集めた掃き溜めのような場所ではあるが、ここでお山の大将として振る舞えることこそが、彼にとって最高のストレス解消法だった。


「このあとはよぉ、シラサワさんの指示を伝えに【目目連もくもくれん】と【天狗礫てんぐつぶて】が来ることになってる。てめえら、あの二人が来る前に、この死体片付けとけよ」


 ――

 のどから出かけた、その言葉を飲み込む。

 穿は「チッ」と舌打ちしながら、自分が穿ち殺した青年の死体を、乱暴に蹴とばした。





(【参】へ続く――)

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