『百鬼夜行』【壱】
※
翌日、仮宿である寮舎から出勤したカインと王は、その日の午前中もほとんどの時間を膨大な資料との格闘に費やしていた。
――何せ量が量である。とても一日で片付けられるものではない。
エリゼかもしくは櫓坂隊長が、重要事項だけ口頭で説明するか、データを渡すなどすれば簡単に済む話かもしれない。しかし、どんな小さな事柄でも事件に関係する限り、それに目を通すことによって生まれる閃きというものもある。その「気付き」こそが、事件解決に繋がることだってあるのだ。他の特派員達も、きっと同じように資料の読み込みをさせられたに違いない。これは今回の捜査に関わるための「洗礼」のようなものなのだろう――王やカインも必要な作業だと理解しているからこそ、紙と埃の臭いの漂う資料室に閉じ込められていることについて、一言たりとも文句を言わなかった。
それに今日は、昨日と比べて随分と作業が楽になり、情報の整理もはかどっているのだ。
一体何が昨日と最も違うのかといえば、やはり、カインたち二人に加え、スティフナズ兄妹も作業を手伝ってくれていることだろう。ユリィとエミリアは、時系列、関連事項ごとのファイルの仕分けや、カインたちが読み終わった資料の片付け、それだけでなく、気になった内容に対するネットでの検索など、かゆい所に手の届くサポートをしてくれる。
ある程度まで情報の飲み込みが進んだところで、カイン、王、ユリィ、エミリアの四人は、遅めの昼食をとることにした。
王とカインは旧皇都支部より支給される弁当(洋食・和食の選択可)を胃袋へと掻っ込み、湯呑に汲まれた温かいお茶でようやく一息つくことができた。デザート代わりのお茶請けには、旧皇都名物である「生八つ橋」がチョイスされている。
王は八つ橋のニッキ味をつまみながら、
「いやぁ、エミリア嬢ちゃんにユリィの
エミリアは王に対し、小首を傾げて微笑み返す。
「どういたしまして。でも気にしなくていいのよ、仕事なんだから」
ユリィは聞いているのかいないのか、返事もせずに弁当の白米を一粒一粒、恐ろしいほどの速度で
そんなユリィを見て、王は苦笑する。ユリィはこの他にも、休憩時間のたび支部内の蛍光灯や窓の数を端から全部数えだしたり、隊員全員の年齢の合計を四則演算で±ゼロにする方法を一通り、それも自動書記機械のようなスピードで紙に書き連ねたりといったことを、誰かに止められるまでずっと繰り返している。これらは、旧皇都支部のメンバーや特派員たちの間でも既に周知となっているユリィの奇癖だった。
無論そういった部分を差し引いても、(自発的な行動は少なく、エミリアの指示に従っているのがほとんどではあるものの)仕事中のユリィは有能と言って差し支えなく、王も兄妹二人の目覚ましい働きぶりを実際に見て、大いに感心していたのだが。
「……それにしてもアンタら、よくあんなにテキパキ動けるなあ。エリゼのやつが優秀だって言ってたのも、納得がいくよ」
それにはカインも同感だった。エミリアは誇らしげに胸を張った。
「当然! 資料の内容は全部頭に入っているわ。どのファイルをどういう順番で読めば分かりやすいか、他にも、関係性のありそうな事件どうしの繋がりだって、全部覚えているもの。それにこのくらいの情報量、私でも半日とかからないけど――兄さんだったら、たった三時間で全部インプットしてしまうわよ」
「……三時間!! あんた、半日かからねえってのも凄いが、三時間ってのはまた……おったまげたな」
「私のは、単なる速読法なんだけどね。兄さんの場合は……――ねえ、あなたたち〈サヴァン症候群〉って知ってる?」
エミリアの突然の問いかけに、カインは「いえ……」と首をひねったが、王は覚えにあったらしく、口を開いた。
「サヴァン症候群――もともとは〈イディオ=サヴァン〉――〝白痴の賢者〟――とも呼ばれていた症例だろ。知的障害、もしくは自閉症障害を持つ者が、ある特定の分野じゃ驚異的な才能や能力を発露したり、信じられないほどの集中力を発揮したりすることだ。確か、異能とも深い関係があると見られていて、近年、研究機関や学会でも色々調べられていると記憶してるが……」
それらの症例には、「小学生レベルの勉強が満足に理解できない」「当たり前の社会常識が欠如している」「根本的な他人とのコミュニケーションがとれない」といったケースが多く見られる。その一方で、一瞬にして複雑な数式や数十桁の暗算を解いてしまったり、膨大な円周率や、一度読んだ書籍の内容を一字一句違わず正確に暗唱したり、また、ぱっと見ただけの風景をあとから思い出して精密精緻な絵に描き起こしてしまったり――そういった驚くべき能力を持つ者達が存在するのだという。
「そう、それよ! ワン、あなたってけっこう物知りね! 兄さんは見ての通り――その、なんていうか、極端にコミュニケーション能力が低くて、社会常識も全く分かってないけど、頭だけはすごくいいの。お医者さまはサヴァン症候群かもしれないって言ってた。まっ、私だってこう見えて物理と数学が得意だし、小学生に入るころには一流大学レベルのテキストを解いてたくらいだから、世間一般から見れば、いわゆる天才児とか神童っていうやつなんだろうけど……あ、別に自慢じゃないわよ? でも、兄さんに至っては全く次元が違うわ。特に、ここにある九千枚近い犯罪資料の膨大な情報量を三時間で読破――いえ、取り込んでしまったのも、一瞬で視覚に映っている情報をすべてインプットして細部に至るまで記憶する、〝瞬間記憶能力〟と〝絶対暗記能力〟のおかげ。しかも、その情報を即座に整理して適切に処理できる頭脳を持ってるの。どう? すごいでしょっ!!」
相変わらずよく喋るエミリアだが、そこには嫌味な様子も、また自分たちの優秀さを鼻に掛けて他人を見下すような傲慢さも全く見当たらなかった。ただ純粋に兄の自慢が出来ることが嬉しくてたまらないというように無邪気に笑っている。まるで小さな女の子のようだなと、カインは思った。
王も、はしゃいでいるエミリアに調子を合わせるように、その「お兄ちゃん自慢」に乗ってやった。
「そりゃすげえな! 捜査にだって役立つ能力だし、心強いぜ」
「やっぱりワンもそう思う!? そうよね? そうよね! それなのに兄さんってば、いつもあんな調子で自分の能力を活かしきれないし、私や母さん以外の人とはまともに会話すら出来なくて……。でも私たち、これからどんどん偉くなって、兄さんのことを『自分の面倒すら見きれない
やる気満々に目を輝かせるエミリア。
だが兄ユリィのほうはというと、自分の話題が挙がっている最中にもかかわらず、弁当の白米と漬物の計算をとっくに終えて、今はただ黙々とミックスベジタブルを箸でつまんで素早く選り分ける作業に没頭している。赤・緑・黄色、三色それぞれに分別しないと気が済まないようだ。それを見てエミリアは「もう、兄さんったら! 食べ物で遊ばないでっていつも言ってるでしょ!」と子供を叱るような口調だ。
とにかく喋りまくるエミリアと、ひたすら無口で行動の読めないユリィ。マイペースなスティフナズ兄妹に、カインも王も若干押され気味だった。
そんな休憩時間――束の間の団欒も終わり、カインたちは再び資料の読み込み作業に戻る。
カインは、王から回された、異能犯罪逮捕者リストの今月分に目を通す。
リストには、異能犯罪者たちのプロフィール、経歴、それぞれが犯した罪などが記載されている。そのような情報の他にも、資料に挙げられている妖怪一匹一匹について、(果たしてここまで念入りに調べる必要があったのだろうかとカインが疑問に思ってしまうレベルの)詳しい解説がされてある項もあった。
「(なんか、すごいな……一体誰がこんなに詳しく妖怪について調べたのだろうか……)」
しかし、その逮捕者リストを読み進めるうち、彼はやがて、ある不審な共通項に行き当たったのだった。
「先輩、おかしいですよね、これ……」
「……カイン、やっぱりお前も気になったか」
二人の会話に、エミリアが「なになに? どうしたの?」と喰い付いた。それに王が答える。
「京の事件で逮捕されてる異能者連中の大多数に、ある共通点が存在するってことだ」
「共通点って……?」
「それはな、『自分は生まれついての異能者である』という供述をする輩が、やたらと多いということさ。
本来、生まれつき異能を持っている連中っていうのは、それこそ才能を持って生まれた連中、血統書付きの異能者一族だとか、他には戦時下、未開の地、もしくは親に産み捨てられたとか、特殊な環境下で生を受けた連中が多いんだよ。つまり、珍しいんだ――――特に、今のこの国のような平和ボケした場所ではな。その代わりと言っちゃ皮肉だが、『ストレス大国』なんて呼ばれてるぐらいだ、いわゆる〝現代人の心の闇〟ってやつか? 後天的に異能を発生させるケースは、逆に増えていってるらしいけどな」
長年異能者と対峙してきた王は、何とも複雑そうな表情である。
「先天性の異能者――確か、『ジーニアス』ってやつね。そういえば、『ジーニアス』の異能者はレアケースだと聞くわ」
エミリアは、下唇にそっと指を当てて、何かを思案しているような仕草をした。
今彼女の言ったように、異能関係の研究機関では先天性能力者を
『TYPE:ジーニアス』
と呼んで識別している。それに対し、後天的に発生した能力は
『TYPE:アポステリオリ』
と呼ばれ、その中でも特に、たゆまぬ修行や長年の職業生活の中で開花したような能力は
『TYPE:エフォート』
とカテゴリー分けされていた。これらの呼称は、最近研究が盛んになってから出てきたもので、異能関連に深く関わる者以外には、まだそれほど広まっていない。
エミリアの言葉の後を、今度はカインが継ぐ。
「――そんな少数派の『ジーニアス』の異能者が、まるで時期を見合わせたかのような大量発生……しかもその全員が、今まで周囲の人間に能力を気付かれることなく過ごしてきて、異能登録申請もせずに政府の目を誤魔化してきたなんて、普通ならあり得ない。この国の政府の異能監査統括部門は発足してまだ歴史が浅いですが、そこまで無能じゃないはずです」
この国では、異能者であるという事実が発覚した者に、秘密裏に異能者登録証を交付する、『国家異能登録申請制度』なるシステムがあり、彼ら異能者の情報は政府の巨大なデータベースで管理されている。登録者には定期的な健診やカウンセリング、また異能監査官による視察なども実施されている。それだけでなく、過去に異能犯罪で逮捕された者もまた、このデータベースに加えられ、能力や思想の危険度ごとにランク分けされているのだ。
カインの同僚である医療班所属のヒーリング能力者
「……あなた達の言う通りかも。私も資料やデータを見たけど、『百鬼夜行事件』で逮捕された異能者たちは、そのほとんどが暴力団関係者か、チンピラとか不良とかね。もしくは以前に通常の犯罪で逮捕された前科のある人たち。でも、彼らの中に異能犯としての過去を持つ者はいなかった。そして、それ以外は普通の、一般人がほとんどだったわ。特殊な環境下で産まれたという条件に該当するケース、家族や先祖に異能者がいたなんてケースも、なかったはず。それなのにみんながみんな、一様に『ジーニアス』を
「彼らに異能が発生した理由や状況について、何か言ってはいけないことが隠されているというわけですかね……。となると、何者かによって口止めされていることもあり得るわけですが……。でも現段階で出揃っている情報だけでは、逮捕者どうしの交友関係どころか共通の関連人物や事件を探すことさえ難しいかも……ですね」
そして、カインがもう一つ気になること――――『百鬼夜行事件』の逮捕者リストに目を落とす。
そこには、妖怪変化の名を冠した異能者たちが列挙されている――。
『京・旧皇都異能犯罪者連続襲撃事件 逮捕者一覧』
(資料より、重要部分のみを抜粋)
◆
【けらけら女】周囲の人間の中枢神経系に作用し脳内物質を分泌させ、強制的に笑わせる能力。
◆ユン・イェンチェイ…二十九歳。元消防士。現在はチャイニーズマフィアの構成員。
【
◆
【
◆
【小豆洗い】一度聞かせた音を、相手の脳内で幻聴として繰り返し再生させる能力。術者が意識を失うか能力を解除するかしない限り、音はどんどん大きくなっていく。
◆
【ぬらりひょん】
鍵や錠前、電子ロックなどを『開錠』する能力を持ち、また、『他人の領域』に侵入している時に限り、「自身の存在感を極限まで薄くする」能力が発動する。
◆
【
◆
【たんころりん】植物の種子を萌芽させる、または植物の成長を促進させる能力。
◆
【枕返し】相手が眠っている間、頭部に長時間触れることで発動する。起床直後から数時間~数日の間、対象の感覚や神経伝達を〈逆転〉させる精神干渉系能力。干渉できるのは「方向認識」「明暗」「音量の大小」「温度」「味覚」など多岐にわたる。
◆
【一反木綿】風に乗って舞い上がることができる、疑似的な飛行能力。無風の場所では使用できないが、ビル屋上など高所から「滑空」することは可能。
◆林田 三平…三十歳。異能を用いて相手の意識を混濁させ、人けのない場所におびき寄せ、金品の強奪などを繰り返した容疑。
【
◆ヘイル・シュガロット…三十六歳。マフィア関係者専門のボディーガード。精神鑑定では
【
◆
【白うねり】凄まじい悪臭を放つ能力。また、能力者に触れられた者にも臭気が移り、いくら体を洗っても三日は臭いが取れない。
◆
【アマビエ】予知能力。しかし、水に関係した未来しか予知できない(本人の談だと、雨天、洪水、津波、落水事故、配管の水漏れ……など)。
◆
【雪女郎】触れた生物の体温を下げる能力。
◆イ・ソンドク…二十五歳。フリーター。後記の原塚 興人と共に、異能を行使したテロ行為を起こし、逮捕。イベントの人混みの中で能力を発動、旅行者や一般市民の四十六名が重軽傷を負った。
【
◆
【ひだる神】伝染的に周囲の人間を耐えがたい飢餓状態にさせる能力。さらに長時間に渡り効果を及ぼすと、栄養失調などの症状を引き起こす。
◆
【すねこすり】念じた相手を転ばせる(
◆
【べとべとさん】
「相手の後ろに立っている限り絶対に存在を気付かれない能力」と、「離れていても尾行しているターゲットの居場所を感知できる能力」の二つを持つ。
(――以下、略。)
以上、特に危険度の高い異能者、もしくは脅威となりうるような能力をピックアップしてみたとしても、せいぜいこの程度である。政府の異能犯対策マニュアルに照らし合わせてランク付けするとしても、危険度C~Eランクが関の山といったところだろう。つまり、ほとんどが大したことがない能力者ばかりなのだ。
異能力の形成は、本人の育った環境や精神状態に大きく左右される。そのため、戦闘向きの能力や殺傷能力の高い危険な能力を発現させる異能者という存在自体がレアケースであることも確かなのだが、それを差し引いても、ここに挙げられた者たちの能力は精度も干渉力も低いものばかりだった(無論、そうは言っても、異能というものは使い方次第でどんな能力でも脅威になりうるので、決して侮ることは出来ないのだが――)。
そしてもう一つ――――
逮捕者の生い立ちや境遇に関するデータをまとめた資料と照らし合わせて、引っ掛かったことがあった。
例えば、【けらけら女】江美野幸恵は、幼い頃両親に虐待されていたという過去があり、その際に暴力を振るわれても決して泣くことを許されず、常に〝笑顔〟を強要されていたのだという。このことは無理矢理にでも忘れようと、彼女の心の片隅に追いやられていたそうだが、成人した後も常にぼんやりとしたトラウマとして残っていたそうだ。彼女の異能と充分に深い繋がりを感じさせる過去である。
他にも、【煙羅煙羅】のユンには消防士時代、大火事の中で煙に巻かれ一酸化炭素中毒で死にかけて入院した経験があり、裏社会で強盗稼業をしていた【駮】こと洪遼傑も、中華の武将を先祖に持つ彼の家では、代々、剣難の守護獣である【駮】を崇め祀っていたといい、同業者間のトラブルや喧嘩などで銃よりも頻繁に使用される刃物を、極端に恐れていたともいう。
また、自らの職業や生活と密接するような能力――【たんころりん】の畑や【アマビエ】の坂池などの例はもちろんのこと、【常元虫】のイ・ソンドクも部屋いっぱいの虫かごにゴキブリからカブトムシまで飼育しているような、重度の昆虫マニアだったそうだ。
そして、【さとり】【一反木綿】【ぬらりひょん】【べとべとさん】などに至っては、本人の行う犯罪にお誂え向きな――――まるで、その犯行をサポートするために生まれたかのような、都合のいい能力。
そう、どれもこれもが、いかにも「取って付けたような能力」ばかりなのだ――――。
カインは思う。
「(確かに異能者たちはそのほとんどが、強い想いや、死に近づく体験、強烈なトラウマなどから異能を発現させることが多いし、リストに挙げられた彼らの境遇と異能の関係についても納得がいくといえばいくけれど――……でも、僕が今まで見てきた異能者たちと比べてみると、今回の逮捕者たちには状況の特異性や絶対的な生命の危機、絶望……それらが圧倒的に足りていないような気がする……)」
動機付けが、弱い――と。
仮にこの程度の原因で異能が開花するのなら、今頃、世の中は異能者だらけになっているだろう。
何よりの問題点は、彼らが今になって、湧いて出てきたかのように、しかも「京の都」という限定領域内だけで異能犯罪に手を染め始めたことなのだ。
「(ひょっとすると――――――)」
一瞬、厭な直観に囚われたカインだったが、その不吉な予感は、資料室のドアを開けた何者かの声によって掻き消された。
「どう? 進んでるかしら――?」
そう言って、部屋を覗きこんできたのはエリゼだった。王が作業を中断し、ドアのほうを振り返る。
「ああ。エミリアとユリィのおかげで、随分と捗ったよ。この調子だったら、今日の夕方までかからないと思うぜ?」
「そう、よかったわ。それと四人とも、もうお昼は済んでるわよね? これから組手による実戦訓練があるから、今の作業は一時中断して、胴着に着替えてから訓練場まで来てちょうだい」
エリゼが言うには、旧皇都支部での訓練組手は毎週火曜と木曜に行われているらしく、特に今回は、派遣されてきた捜査員の実力を見定めるための顔見せ的な意味も強いらしい。それとは別に、各地方から集められた特警隊員たちに親睦を深めてもらおうという思惑もある。
「今、京には様々な武術や格闘技を修めた腕利きの捜査員が集まってるから。ま、技術交流っていうやつかしらね。王、久々の手合わせ楽しみにしてるわよ」
挑戦的な笑みを浮かべてそう言い残し、エリゼは部屋を出ていった。王のほうはというと、同じく楽しそうな様子で、顔面を綻ばせていた。
「なんだ、面白れえイベントもあるじゃねえか――」
物騒な笑みを浮かべながら急に活き活きとしだした王を見て、カインは苦笑する。
積み上げられた資料を一旦片付けてから、カインと王、そしてスティフナズ兄妹は署内の訓練用道場へと向かった。
※
旧皇都支部・実戦訓練道場。
胴着へと着替えたカインが正座して見守っている――その目の前で、エリゼの躰が勢いよく畳に叩き付けられた。
受け身をとった時に平手で畳をはたく音が、「パァン!」と道場に響き渡る。
たった今、柔道の「肩車」のような技でエリゼを投げ飛ばした王は、胴着の襟元を正しながら彼女を見下ろしていた。
「――これで、オレの三本目だな」
現在、訓練道場では五十人以上もの捜査員たちが幾つかのグループに分けられ、ペア自由、時間無制限の乱取り稽古を行っている。カインのグループでは、王とエリゼが急所攻撃のみ寸止めルールでの自由組手で技を競い合っていた。今のところ、エリゼが二本、王が三本を取っている。すべてが接戦、ほぼ互角の好勝負だ。
「(先輩、相変わらず誰が相手でも容赦ないな……)」
すぐそばで観戦中のカインは、自分も今まで散々この先輩にしごいてもらったことを思い出し、訓練で流した汗とはまた別の変な汗をかいていた。
「まだまだっ……!!」
すぐさま起き上がったエリゼが、奇麗な弧を描く右ハイキックから左の上段後ろ突き蹴り、向き直りながらの踏み込み、左エルボーと右フックで畳み掛けた。
王はダッキング、スウェー、と躰を振って右ハイと後ろ蹴りをスカし、エルボーには右掌を合わせて押し止め、フックを左手の甲で払い受けた。そこから右のミドルで反撃。
エリゼがこれを、高く上げた左膝で防御。華奢な彼女は体重の乗った蹴りの威力に負けないよう、左肘で膝横を押し返すように支えながら受け止める。
王のミドルキックはしかし、攻防の切れ目なくローキックへと移行する。中段から下段へ、変則的な二段蹴り。ガードのために上げられたエリゼの左脚の下を
「くぅ……ッ!」
一瞬ガクンと膝が落ち、体勢を崩しそうになったエリゼだが、すぐに持ち直した。しゃがみ状態から躰を起こす勢いで繰り出した掌底が、王の顎を打ち上げる。
「ふがっ」
間の抜けた声を上げる王。彼が苦し紛れに繰り出してしまった反撃は、上から振り下ろした鉄槌打ち。頭上から顔面に落ちてくるそれを、エリゼは左手で「ぱしっ」と受け止めた。王の肘は、伸び切らずに曲がっている。その肘に、エリゼが右手の平をガッと添える。左手で包んだこぶしは下へと引き込み、右手では肘を押し上げるようにしての制圧術。ねじ極められた王の腕が背中へと回され、肘を押し上げていたはずの掌底は今や、上から体重をかけて抑え付けるそれへと変わっている。自然と、エリゼが上に、王が下に――立場は逆転。今度は王の躰が、畳にねじ伏せられた。
だんっ、と鈍く響く音。
王はすぐにタップしてギブアップした。
「これで三対三。同点ね」
得意気に手を差し伸べるエリゼ。その手を取って起き上がり、「さすがに腕を上げてるみたいだな」と、嬉しそうに王は言った
――両者の壮絶な組手を見ていたカインから、思わず、呆気にとられた声が漏れてしまった。
「よくやるなぁ、二人とも……」
その呟きに、横に座っていた老刑事、明満も同調する。
「ほんとですねぇ。若い人は元気があっていいですねぇ」
そう言って、にこにこしながら辺りを見回す明満老人。
六十畳以上はある広い道場の中、至るところで屈強な隊員たちが拳足を交わし、汗を流している。
現在、訓練の内容は櫓坂隊長の指示で五、六人ごとの班に分かれ、その中からペアを自由に選んで一対一での乱取り稽古を行うという形を取っていた。芒山隊長と櫓坂隊長は、道場内を歩き回って組手の様子を見ながら、隊員たちに指導を与えたりしている。
カインも先ほど菅原との組手を行って、七本のうち四本を取った。訓練とはいえ思っていたよりも実戦に近く激しい運動だったので、今はタオルで汗を拭いながら
――それに対し、明満はやはり歳なのか、訓練開始早々から誰とも組まずに、見学ばかりしているのが、カインには気になった。
「明満さんは参加されないんですか? 組手」
「ええ。もう躰が思うように動いてくれませんしねぇ。こうやって見ているだけでも息が切れてしまいそうですよ」
はは、と弱々しい笑い声をあげてから、明満は続ける。
「それに、普段は若い子に技を教えて差し上げたりもしているのですが、どうもやはり、近代格闘技を学んでいる方というのは『実戦における古武術の実用性』というやつに対して懐疑的でして……。どうせ年寄りの言ってることだと、真面目に聞いてはもらえませんのですよ……」
とぼとぼと寂しげに語る明満の横顔を見て、カインも「そうですか……」と気の毒そうな顔になった。
「……俺は以前、恐ろしく強い古武道の使い手と戦ったことがあるんです。その男には、王先輩と二人掛かりで戦って、ようやく勝てました。彼は異能者で、犯罪者でした。事件の末、追い詰められ、最期には自らの意思で命を絶ってしまいましたが……もしあのとき一対一であの男の前に立っていたら、きっと俺は為す術なく惨殺されていたと思います」
「……その男が遣うのは、何と云う流派だったのです?」
「
カインがその名を告げると、老いた古武術家は「おお……」と感嘆の声を漏らした。
「ご存知なんですか? 密教との関わりで生まれた流派なので、武術界でもほとんど知られていないのだと、先輩は言っていましたが……」
「ええ。私も、師から聞いたことがあるくらいです。もっとも師でさえも、伝聞のみでその存在を知ったようなので、直接に技を見たことは無かったそうですがねぇ」
私のツテでしらべてみたところ――と、明満は続けた。
「凰明流の興りは少なくとも古式神道が仏道と習合して以降、行脚行者が旅の護身のため武術を修めたのが始まりだとか、信心深い武家が武術に神秘性を求めたのが始まりだとか、諸説伝わっております。様々な流派に散り別れた後も、彼らは人なる身で荒魂・和魂の如き力を宿すには人智を超えた強い躰こそが必要だという教えを共有し、修行の末に神通力――いわば異能のような力を持つ者も現れたとも謂われていますが……」
「極めれば異能者にも至り得るほどの修行――ですか」もしそれが本当であれば、怖ろしいことを考える者達がいたものだ、とカインは思う。
「月ノ宮の一派は、その中から派生した分派のうちでも新しい部類、山岳信仰から修験道のような体制を築いた一派だったと聞いています。もしその
〝摘出者〟――月宮瀧彦の異常なまでに研ぎ澄まされた闘いぶりは、カインにとって忘れたくとも忘れられないものだった。そして、まぶたの裏に焼き付いた、あの最後の嗤い顔も――。
「――俺はこの目で、奴の遣う技を見ました。古武術に造詣の深くない俺でも、それが永きにわたり人を殺すためだけの目的で研鑚され、磨き上げられたものだと、一目で理解できたほどです」
「そうですか……。道を過ったせいでまた一人、貴重な使い手が消えてしまったのですか……」
明満は遠い目をして憂いているようだったが、しかし、思い直したように、
「――いえ、今の社会、そのような技術は滅んでいくのが自然の成り行きなのかも知れませんねぇ……」
と小さな声でこぼしたのだった。
それを聞いて、カインも一層しんみりとした心持ちになった。
なにも古武術に限った話ではない。今自分が必死に鍛えている躰も、敵を倒すために覚えた技術も、このような仕事でもしていない限りは、決して世のため人のため役に立つ事などなかっただろう――。
しばらくの間、何を言っていいのかも分からなくて、カインは無言で正座していた。明満も、無理に話を続けようとは思っていないようだった。
そこへ、組み手勝負を終えたエリゼと王が帰って来た。
「あー、いい汗かいた」と、王は胴着の襟元をぱたぱた煽がせている。
「今回は勝負がつかなかったけど、次の機会があったら負けないわよ?」
エリゼもそう言って、胴着の袖で額の汗をぬぐった。
両者ともに白熱していたようだが結局、勝ち星の数は引き分けで終わったらしい。
「お二人とも、お疲れ様です」
カインは自分の座っている横に人数分置いてあったタオルと、ペットボトルのミネラルウォーターを差し出した。王とエリゼが礼を言って受け取る。
「それにしてもエリゼさん、さすがに副隊長を任されているだけあってお強いんですね……! 俺なんていつも、先輩やアキラさんと組手したらこっぴどくやられてますから」
「そ、そうお……?」
カインの素直な表敬に対し、エリゼは何でもなさそうに受け流そうとするが、まんざらでもないのを隠しきれないのか、少しだけ照れた様子を見せた。そして彼女はハッと気付いたように、いそいそと乱れていた襟を直す。もちろん胴着の下にはスポーツ用のインナーを着込んでいたのだが、それもピッタリと肌に密着しているうえ、さらに生地が汗で湿ったことによって、嫌でもスタイルの良さが際立ってしまう。
しかし王は、そんな乙女の恥じらいを見せるエリゼにもお構いなしに、ずけずけと割り込んできた。
「当り前だろうが。お前この嬢ちゃんがオレや姐さんと組んでた頃、なんて呼ばれてたか知ってるか? ……『黒い雌豹』だぞ? 油断してたらお前でもあっという間にのされちまうぜ?」
「……王。その呼び方、やめてもらえないかしら?」
うふふ、と微笑んでいるものの、エリゼはあきらかに怒っていた。どうやら彼女はその二つ名で呼ばれることを好んではいないようだった。
「私、ここではそんなふうに呼ばれたことないんだから、ね……?」
笑顔の裏の殺気に気圧され、王も「お、おう……」と引き下がった。
だが時すでに遅く、周囲の隊員たちからは「ああ、雌豹」「なるほど雌豹」「雌豹か……」などと、ボソボソ声が聞こえてくる。
エリゼが「キッ」と睨みつけるとそのひそひそ話は止んだが、きっと明日から彼女の二つ名は『黒い雌豹』になっているに違いない――とカインは同情した。
「っと、えー……で、確かお前は
事の発端である王は、話を逸らそうとカインのほうに話題を振った。もう馴れ馴れしく「スガちゃん」などと呼んでいるが、実際王と菅原は休憩時間やちょっとした合間によく
「菅原さん、今も他の方と組手やってますよ。ほら、あそこ」
カインが指差した先では、菅原が相手の屈強な刑事に背負い投げを決めたあと、下段正拳突き寸止めで一本を取っていた。「シャあッ!」とガッツポーズと取るその姿は、坊主頭も相まって体育会系男子そのものだ。
「日拳を長年やっているとおっしゃっていただけあって、打撃と投げのバランスがとても良いですね。剣道で培ったと思われる摺り足での体捌きも見事ですし、徒手空拳はもちろん、おそらく木刀でも持たせたら段違いに強いんじゃないでしょうか。あと何よりも、自衛軍仕込みのスタミナとフィジカルが驚異的です。彼、訓練開始から今までずっと動きっぱなしなんですよ」
「ほう、なるほどな……」
「いい着眼点ね、カイン君」
エリゼに褒められ、「いえ、そんな……」と今度はカインが照れ笑いしながら顔を逸らした。
「それに、エミリアさんやユリィさんの組手も見ていましたが、とても勉強になります」
カインがスティフナズ兄妹のほうへと目を向けると、エリゼと王、そして明満もその視線の先を追った。
――エミリア・スティフナズが、大柄な男性隊員と対峙している。彼女より頭二つは身長の高い相手だ。
互いの利き足が同時に前へ出て、間合いが詰まる。
エミリアは男性隊員の打ち出したストレートをすっと躱し、伸びた腕を捕る。そこから彼女の両足が跳ね上がり、サンボ特有の立ち関節技――「飛びつき腕十字固め」で関節を取ろうとする。
相手もそうはさせまいと、捕まった剛腕を強引に曲げて抵抗するが、全てはエミリアの計算通りだった。
飛びつき腕十字はフェイントだった。奇襲技に対し男性隊員は、過剰な腕力で、体重の軽いエミリアの躰を自らの顔面近くまで引き付けてしまう。結果、エミリアはそのまま相手の首を太腿と膝裏で挟み込んで、体重を乗せて手前に引き込み倒す。両脚できつく相手の首を絞める、トライアングルチョーク――三角絞めだ。
男性隊員はエミリアの下腹部に顔面を
「……へえ、巧いもんだ。そういえば確か、あの嬢ちゃんはコマンドサンボと柔道が得意だって言ってたっけな」
「ええ。事実エミリアさんは、自分よりウェイトや筋力のある相手から、全て関節や絞め技によってタップを奪って勝っています。打ち合いを極力さけているのを見ると、おそらく打撃は不得手なのかもしれませんが、それでも投げ技とサブミッションの技術には目を見張るものがあります」
「そして――」と、最後にユリィのほうを見るカイン。
ユリィ・スティフナズの組手はなんと、二対一で行われていた。ユリィは左右から襲いかかる二人の隊員を相手に、無駄のない完璧な立ち回りを見せている。相手方の連係プレーも見事なものだったが、その怒涛の連撃を、両手による捌きで華麗にいなし尽くしていた。
肘を支点に円を描くような動きを多用する印象的な捌き――その動きは、王でさえも「こりゃあ面白いな……」と声を唸らせたほどだ。
「ありゃおそらく、空手の捌きを基本に北派中国拳法の化勁(中国拳法における相手の攻撃を受け流すための技術)を取り入れた動きか。いくらか実戦的アレンジを加えてはあるが、あの球体を撫でるような
「それだけじゃないです。ユリィさん、もともと『眼』もすごく良いんだと思いますよ。俺の見ていた限り、今まで相手からの有効打を一撃たりとも貰っていませんからね」
「おいおい、マジかよ……」
「はい。これは単純な動体視力ももちろんそうですが、戦闘中にもかかわらず相手の動作のクセや隙を見つけてそれをすぐに覚えてしまう観察力。そしてこの際に発揮される並外れた集中力と記憶力は、おそらくエミリアさんの言っていた――――」
「〈サヴァン症候群〉――か」
王とカインがそんなことを話しているうちに、ユリィは相手の拳を下方へ逸らしながら引き込み、側頭部へのカウンターハイキック一閃で相手を沈めていた。倒れ込んだ相手は、完全に沈黙している。
続けざまに、反対足でのミドルキックを、残ったもう一人の隊員に喰らわせる。まるでバットを横殴りに振り抜くように
ユリィは不思議そうな顔で首をかしげながら、敗者を見下ろしていた。
カインは、悶絶級の蹴りを喰らってしまった男性隊員に同情しながらも、真剣な表情でこう続ける。
「――そしてあれです。蹴りの威力が凄まじい……特に一人目をノックアウトしたハイキック、あれは背足ではなく、つま先で側頭部を捉えていました。硬いブーツなどを履いて戦うことを前提とし、フランス式キックボクシングから発展した護身術、『サバット』に見られる蹴り技でしょうか」
カインの見ている限り、ユリィはこれまでの対戦相手全員を、蹴りのただ一発だけで戦闘不能にしている。モデルのように着痩せした見た目からは想像できないほどのパワーだった。
「……ああ。それに二人目の喰らったミドルは、腰を入れて脛で蹴る、ムエタイ式だった。サバットにムエタイ、どちらも蹴りが強力な格闘技だからな。おそらくユリィは、複数の足技主体の格闘技を修得しているとみた。化勁と手技で徹底的に防御を固め、それらと組み合わせた八卦掌の歩法によって相手の死角から威力の高い足技で攻略する――なかなか理に適った戦い方だと思うぜ」
そしてそのシステマティックな闘法を可能にしているのは、他ならぬユリィ自身の資質――特殊な症例――にあるに違いない。
「カインさんと王さんは、随分と武道や格闘技にお詳しいのですねぇ」
黙って聞いていた明満も感心していた。
「いやなに、商売柄必要になってくる知識ですよ」
本人では謙遜しているつもりであろう王に、カインは「先輩の場合ただの趣味じゃないんですか?」と憎まれ口を叩いた。
「お? なんだてめぇ、やるか?」と冗談でファイティングポーズをとる王。
「……まったく、王、あなたったらアキラとやんちゃやってた頃から全然変わってないわね。訓練の時はふざけないでちょうだい。それに、どうせもうすぐ訓練終了の時間だから」
エリゼが呆れながら道場の正面に掛けられた時計に目をやると、ちょうど放送用スピーカーからブザーが鳴り響いた。
「では、本日の稽古はこれにて終了――全員、黙祷」
櫓坂隊長のよく通る声が響き渡った。隊員たちは皆正座を組んで目をつぶり、そのあと礼をして、ようやくこの日の訓練が終わった。
「ふぃーっ。やっぱ思い切り体動かすと頭の中がすっきりするな。このまま今日中に資料の読み込み、終わらせちまうか」
背伸びをしながら、着替え用のロッカールームに向かう王。カインも後についていく。
資料室での情報整理はもうすぐ終わりそうだし、今日の夕飯は食堂で何を頼もうか――などと考えていた、その時だった。彼は背後から、粘り付くような何者かの視線を感じ取った。
「(見られている――?)」
そう思って振り返ってみたが、目の合う者はいない。
「(なんか、じっとりとした視線を感じた気がしたけど――気のせいかな)」
不思議に思いながらも、カインは道場を後にした。
※
(【弐】へ続く――)
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