『顔を忘れた男』
『顔を忘れた男』【前】
『顔を忘れた男』
※
「変装の名人――ですか」
オレの向かいに座ってる後輩は、あどけない表情で目をぱちくりさせながら、そう聞き返してきた。
――この童顔の後輩は、名前をカインという。
歳のわりに抜けきらない幼さを隠すように掛けられた、アンダーリムの眼鏡。長すぎない程度に伸ばされた黒髪は、日の光に透けると、かすかに青く艶光りする。ぱっと見ただけだと、事務室の奥でパソコンと向き合っているような仕事が似合いそうな奴。
だがこう見えてなかなか、現場での機転も利き、腕も立つ、優秀な相棒だったりする。もうコンビを組んでから一年近くになるか。性格が少々真面目すぎるのが玉に瑕だが、そういう所もからかい甲斐があって面白い。
「ああ。名人どころじゃねえ。声や体格、指紋――果ては現場に残ったDNA情報まで別人の物だったっていうんだから、驚きだろ?」
――オレ達は今、都心の大通りに面したカフェテラスの、人通りがよく見える屋外席に、向かい合って座ってるところだ。
澄んだ冬の初めの空は晴れ渡っており、天気は良好。季節の割に寒さは感じず、道行く人々も厚着をしている者は少なかった。
往来を眺めながら、オレはゆっくりと熱い珈琲を啜った。
……って、なに優雅なコーヒーブレイクみたいな雰囲気になってるんだ。
誤解されないように言っておくと、オレ達だって何もこんな平日の昼間っぱらから野郎二人でお茶するほど暇人なわけじゃない。今は「張り込み」という、歴とした任務の真っ最中なのだ。
怪しまれない程度に行き交う人混みを見つめるが、ターゲットと思しき人物は見当たらない――そもそも人間が多すぎるのだ。
各要点を張り込んでいる別働隊からの定時連絡も、ずっと代わり映えの無い「異常なし」一点張りだ。
「……とにかく、今回の
オレはカインに視線を戻した。
「しかし
カインがオレの名を呼んでから、そう続けた。
オレは職場ではもっぱら「
とまあ、そんなことはどうでもいいんだ。問題は、目下オレ達が張っている男の話である。カインの今しがた言ったように、そいつの特技である『成り代わり』は、「高度な変装術」というだけでは到底説明のつかないスキルなのだ。
「だろうな……。そこまで精巧に化けられちゃ、こっちだって探しようがない」
そう、探しようが無い。そんなヤツ相手に、張り込み任務もクソもあるのだろうか? だから、オレ達が少しばかりだらけてコーヒーブレイクを楽しんでいるように見えてしまうのも、致し方のないことであろう――。
カインは言った。
「誰も見分けられないほどの変装――それじゃあ犯人はきっと、アルセーヌ・ルパンみたいな奴ですかね」
なるほど確かに。このルパンという男は、誰もが知ってる有名な怪盗だろう。何せ、己の目で鏡を見ても、そこに映る姿が自分だとは信じられないくらい――それほど精巧な変装の技術を持っていたらしい。
そしてオレはもう一人、希代の変装の達人の名を思い出した。
「怪人二十面相だってそうだぜ? こいつは何でも、――賊自身ほんとうの顔をわすれてしまっているかもしれない――なんて言われてるほど、様々な顔を持っていたらしい」
「自分の顔を、忘れてしまった男――」
カインはそれがちゃんとそこに存在することを確かめるように、そっと自分自身の顔に手を触れた。
「ハハ。心配しなくても、顔ならちゃんとお前さんのメガネ掛けに貼り付いてるぜ?」
「人の首から上を眼鏡飾るための置物みたく言うのはやめてくださいっ」
オレのからかいに対してむくれっ面をしたあと、
「でも、自分の顔を持たない人間って、いったいどんな気分なんでしょうね……」
カインはいつになく真剣な表情で呟いた。
「俺たちが『顔』と呼んでいるのは本来、人間の頭部の――特に五感を感知するための器官の配置の差異にすぎないのに、ヒトは個人を識別するとき、その差異を見て『顔』として認識し、重要な情報として記憶していますよね……」
「そりゃそうだ、首から下しか写ってない指名手配犯のポスターなんて作っても意味ないしな」
と、オレは職業病的な冗談で返したあとに、こう続けた。
「そうだな……やっぱよ、見る、聞く、語りかける――そういったコミュニケーションのためのパーツが集中してるから、自然と意識も向いてしまうんじゃねえのか。本来、感覚器が一つ所に集まっているのだって、それぞれが入手した感覚情報のタイムラグをなくすことと、首の稼働だけでそれらを一斉に動かせるというメリットを追求したうえでの進化の結果に過ぎないんだ。もしかするとオレ達は『顔』ってもんに必要以上に感情移入しすぎてる……ってこともあるのかもしれんな」
こんなことを話していると、目、耳、鼻、口、髪型や輪郭――そういったパーツを全部ひとまとめにして『顔』という概念で括ってしまうこと自体が、少し不思議に思えてきた。例えば、病気や事故でいずれかのパーツを失ってしまったとしても、今まで『顔』だったものがいきなり『顔』じゃなくなってしまうわけじゃない。美人や男前の定義だって、少し時代が変わるだけで曖昧模糊。考えれば考えるほどゲシュタルト崩壊を起こしそうだ。
まあ、その、つまりは、あれだ。結論。人間、顔じゃねえ――ってことだな。うん。
「どのみち、『顔』なんてもんは気軽に取っ替えたりできるもんじゃねえし、していいもんでもねえんだ」
だからこそ、今回オレ達が追っているターゲットは異質であり、不気味なのだ。
幾つもの顔を持ち、しかしその本当の顔は誰も知ることのない、〝無貌の暗殺者〟――そんな者が市井にまぎれてるかと思うと、ぞっとする。
「ですよね……。あ、顔を取り替えるといえば、子供向けのアニメでそんなヒーローがいたような気もしますけど」
そんなことを言いながら、カインがポケットをがさごそと探って取り出したのは、包装された
……あれか。それがお前の新しい顔か。愛と勇気だけが友達か。
「ちょっと、脳に糖分を……」などとのたまいながら、餡パンの袋を開けるカイン。
オレは流石に呆れてしまった。
「――っていうかお前、また餡パンかよ。いい加減にしとけって……」
「張り込みにはアンパンと、相場が決まってるものでしょう?」
カインはそう言うと美味そうにパンの生地に齧り付いた。
「おま……古い刑事ドラマの見過ぎだぞ、それ」
刑事と言っても、オレ達はただの刑事ではない。不可思議な能力を犯罪に用いる『異能者』を取り締まるべく設立された、通称『特警』こと『特殊警察 対異能者用出動部隊』の隊員なのだ。その捜査員である一人がこんなドラマかぶれのミーハー発言しながら小動物のようにもくもく餡パンをかじっている様は見るにも堪えず――――……ってよ、オレの言いたいのはそういう事じゃあないんだ。
普通ならオレも、餡パンの一個や二個でいちいち文句なんて言わない。
カインの前には、テーブルの上に山と積まれた、
「……お前、それもう十個目ぐらいだろ。いったい幾つ喰うつもりなんだ、見てるだけこっちが気分悪くなってくる」
「違いますよ、まだ八個目です」
カインはムスッとして訂正した。
「あ……?」
オレにとっては十個も八個も変わらない。摂取する餡子の量を想像するだけで胸焼けがした。
「うるせえ。任務前にそんなに喰うから、いつもゲェゲェ吐く羽目になるんだよお前は」
こいつが大食いなことは署内でもそれなりに有名だし、この際置いておいていい。だが悪い意味でそれよりも有名なのが「吐きグセ」である。もう二年近く特警で刑事をやってるくせに、死体を見るたびに吐く癖が全く治らない。それゆえに、事件後の現場にカインを入れる時は、鬼太郎袋を持たせるのが暗黙の了解になっているほどだ。
「で、話は戻るがな、今回のホシの――」
「スヴァリィ・キーパー、ですね」
オレが皆まで言う前に、カインが標的の名前を言った。
「そうだ。フリーランスの殺し屋で、裏社会ではかつてシュレデェンガーとシェアを二分にしていた程の使い手だ。シュレディンガーを〝最凶〟とするなら、スヴァリィは間違いなく〝最強〟の殺し屋だな」
最強の殺し屋――まるで漫画みたいな話だ。
だが実際に、スヴァリィ・キーパーの犯行とされる殺人事件・暗殺は達成困難と思われる難易度の物ばかりで、そのターゲットも政治家、資産家、マフィア、軍人、果ては辺境の独裁軍事国家の大統領まで――と多岐にわたるが、いずれも大物ばかりだ。殺害数ではシュレディンガーに劣っても、殺しの精度はスヴァリィのほうが上だろう。
「だがな、スヴァリィの本当の恐ろしさは、その正確無比な暗殺技術だけじゃない。ここ十数年、ヤツは巧みに『変装』――いや、むしろ『変身』と言った方がいいな――を繰り返して、全くの他人に成りすまし、ターゲット殺害圏内への潜入、そして殺人から逃亡までをやり遂げてる。一説には、ヤツの持つ顔のレパートリーは軽く百を超えるらしいぜ――」
そう、それこそがさっきから、大の男二人で「ルパン」だの「二十面相」だのと言い合っていた理由なのだ。オレの言葉を受けて、カインが口を開く。
「確か、自分より小さい子供や老人、そして女性にも化けることが出来るんでしたね。そこまで来ると、もはや異能者の能力とした方が納得いくのは分かりますが……」
だからオレ達『特警』に仕事が回ってきたのだ。どちらにせよ、普警(『普通警察』のことだ。『通常警察』なんて呼ぶ場合もある)のフットワークで捕えられる相手ではない。
「――で、その例の……〝顔剥ぎ〟ですか? スヴァリィは今回も必ずそれをやると?」
カインが、不快そうに眉を吊り上げながら言った。
〝顔剥ぎ〟――――殺し屋として依頼された殺人とは別に、スヴァリィが個人的に繰り返している猟奇殺人の事である。
奴は依頼で訪れた地域で仕事を終えた後、少なくとも二、三人の無関係な人間を手に掛ける。そして被害者の顔面を鋭利な刃物で切り取り、そのまま持ち去るという奇行を繰り返しているのだ。残された死体は顔面を剥ぎ取られているため、最後の表情すら残すこともできず、「顔」という個性を失った只一個の死体に成り下がる――。
この〝顔剥ぎ〟こそが、スヴァリィが最も恐れられる所以なのだ。
本来、決して目立ってはいけない「プロの殺し屋」という職業。にもかかわらず、スヴァリィが「業界最強」「職業暗殺者の最大手」などと呼ばれ広く知られているのは、ヤツ自身の奇癖のせいで、その存在が知れ渡ってしまったという面も大きい。
狂ってると言ってしまえばそれまでだが、依頼された殺人に関するスヴァリィの手腕や、綿密な作戦を立て計画を実行に移すその冷静沈着さ――それらからは、どう考えても結びつかない行動。やはりこのようなリスクを冒すのは、不条理すぎる。
「やるだろうさ。奴が今まで仕事の後に〝顔剥ぎ〟をやらなかったことなんて、ただの一度もねえんだ――」
スヴァリィはここ十数年、他人の顔を奪い続けている。それはそう、まるで何かを探し求めてでもいるかのように――。
「しかし、特警の隊員が多数監視・巡回しているこの状況で、そんな危険を冒すとも思えないのですが……」
「そうか? 相手にとっちゃ、それほどの脅威でもなさそうだがな。何より、スヴァリィの顔剥ぎに対する執着はかなりイッちまってる領域だ」
そう、その〝顔剥ぎ〟――それこそが今回、相手があの「顔剥ぎスヴァリィ」だと分かった要因だったのだ。
話は三日前にさかのぼる――。
※
――三日前。
その日はオレとカインも護衛の担当だった。
保護対象はウィルコ・ゾーゲンヴィッツ。政界の重鎮と一目置かれ、巨大な財閥《劉グループ》とも少なからず関わりをもつ男。頭も切れ、やり手と言われる政治家だ。そしてやり口がえげつないため敵も多い。
ウィルコは大戦で活躍した陸軍大佐を父に持ち、また自身も知性と野性味を兼ね備えた容貌をしている。そして何より、「狼狩り」と称して政敵を執拗に追い詰め失脚させるその手腕により、政治家連中からは大層恐れられていた。父親の威光と狼狩りの猟犬にちなんで、〝
だが、オレ達が護衛任務に就き、ウィルコと対面した時には既に、普段のインテリ且つ精悍な顔つきは見る影もなくやつれ、そして憔悴しきっていた。
それも当然だろう。何せここ一ヶ月で彼の信頼していた腹心の側近、部下達が次々と殺されてしまっているのだ。殺害方法こそ、遠距離からの狙撃、ナイフによる刺殺、斬殺、ワイヤーでの絞殺――と様々だが、それらが並外れた熟練の技術を用いて行われた事は明らかだった。先日にも、海外からわざわざ呼び寄せたシークレットサービスや本国SPが結託した必死の護衛もむなしく、彼の秘書が殺されている。
そのような経緯で精神的に追い詰められてしまったウィルコは、なんと自らの財産をほとんど投げ打って、対軍クラスのセキュリティを誇るビルを丸々一棟買い占め、その中に引き籠ってしまったのだ。
ちなみに殺し屋を雇った黒幕は、既に警察と検察の手により検挙、起訴されている。この被告人はウィルコと敵対する政党の一員だったのだが、おそらくはもっと地位の高い者が依頼したのだろうから、捕まったそいつはスケープゴートと思われる。下っ端に罪をかぶせてトカゲのしっぽ切りたあ、政治屋なのにまるでヤクザのやり口だ。
そのせいか有用な情報も得られず、オーダーされた殺し屋についても、この時点では「その筋のツテに頼んで探してもらった」ことと、「どうやら異能者である」ということしか引き出せていなかった。
情報こそ少ないが、相手が『異能者』と分かった以上は、当然オレたち特警の出番になる――。
ウィルコのいる部屋だけでも現在、オレとカイン、そして特警一の女傑である「
廊下や階下にも、新人含め、複数名腕利きのメンバーが巡回しているし、このメンツならたとえ軍一個小隊が攻め込んできたとしても、ウィルコを守りながら応戦することくらいは充分に可能だろう。
「姿も名前も分からない殺し屋一人相手に出動させられる羽目になるなんて……。上層部も普通警察も、公安調査庁の連中も、一体俺たち特警を何だと思っているんでしょうかね?」
カインが不機嫌そうに窓の外の夜景を眺めながらぼやいた。高層階のため、なかなかの景色である。
ウィルコは部屋の中央のソファーに膝を抱えながら座り込んでいる。爪を齧りながら聞き取れないほどの小声でぶつぶつと何かを言っていた。どうやら、相当参っているようだ。
「――まあこの警備では賊も手出し出来ませんよ、議員。安心してください」
オレが声を掛けたが、ウィルコは相変わらずの様子で返事をしなかった。護衛だけじゃなく。
「そうですよ、それにほらこれ。この強化防弾ガラス、並のライフルではビクともしないですよ」
カインが窓ガラスをコツコツと叩く。黙って見ていた姐さんが溜め息をついた。
「いいから真面目にやれって、お前ら。この護衛任務の責任者はアタシなんだ。しくったらアタシが隊長に怒られんだよ」
姐さんが呆れた声で言った。この女傑は
女性にしちゃかなりの高身長で、露出度皆無の黒いロングコート姿に、柄の端まで鉄拵えで造られた重厚な鉄槍を背負っている。もともと古流を汲む長槍の使い手で、それに加え様々な国の槍術、棒術を修めたその実力は、他の男性隊員が数人がかりで挑んでも軽く叩き伏せられてしまう程だ。
いつも組手の訓練ではこてんぱんにやられているカインが、どやされた途端、緊張したように気を付けをした。どうも姐さんには頭が上がらないらしい。
「やれやれ……」オレは無線を手に取り、外からの監視を担当しているペクに連絡を取った。
「ようペク、そっちは異変あるか? どうぞ」
ノイズと共に相手の声が返ってくる。
『異常ナシ。安心しろ、ソコから半径2キロ以内にお前らの居る部屋を狙撃できるポイントは存在しない。そのビルに籠城してる限り、ウィルコ議員の命は保証されてるよ』
だそうである。
「ペクさんが言うなら間違いありませんね。下手人が捕らえられるまでこのビルに立て籠もっていればいいだけの話ですよ」
カインが安心するのも無理はない。何せペクは、特警――いや、この国の警察機構きっての超特A級スナイパーである。総合的な射撃技術ならば何気にカインが特警トップの実力を誇るが、長距離間からの狙撃――ことスナイパーライフルの取り扱いに関しては国内でもペクの右に出る者はいないだろう。元傭兵というだけのこともあり、傭兵時代に渡り歩いた世界各地の部隊でも「俯瞰視」「ミスター・ヘッドショット」などと呼ばれ大層畏れられていたらしい。
だが、ペクに言われるまでもなく、このビルに閉じ籠っている限りは、到底ウィルコの殺害など不可能に思えた。現にオレ達が護衛任務を開始してもう一週間になるが、これといった異変も起こっていない。別の場所で保護されていた、彼の部下達が殺された以外は――。
――それから一時間ほどが経っただろうか。
再びペクと定期連絡をとるべく、無線を手に取った。
「おいペク、そっちはどうだ、異常あるか…?」
当然のごとく『異常ナシ』と声が返ってくるものと思っていた。だが、無線の向こうから言葉は返ってこなかった。
無言――ノイズ音だけがやかましく続いている。
いくら呼びかけても返事はない。
「妙だな……」オレは姐さんに目配せして、警戒態勢の強化を促した。そしてカインには無線で階下の連中と連絡を取るよう指示する。カインは自分の無線をコートのポケットから取り出した。
「カインです。下の方では何か異変はありましたか? どうぞ」
『いや、ないなぁ……。あ、そういえば清掃員の爺さんが階上に行きたいって言うから通したけど……それくらいかな。どうぞ』
「清……掃員?」
カインは訝しげな顔をしてオレの方を見た。
「おかしいですね……清掃員の勤務時間は確か夜二十時までですよね?」
時計を見ると、なるほど、既に二十一時を回っている。
オレは嫌な予感がした。すぐさま階下と部屋の外の連中に、清掃員を見かけたら身柄を確保するように指示を出そうとした―――その時だった!!
重く、大きく、金属質な銃声が、部屋中の空気を
「発砲音!?」
――どこから!?
いや、外からしか有り得ない。部屋の中に居る特警隊員達の視線は、全て窓ガラスに注がれた。
強化防弾ガラスがひび割れ、穴が空いている。弾痕だ。
そしてオレ達が次に視線を向けたのは、護衛対象のウィルコだった。――いや、さっきまで護衛対象だったもの――と言った方が正しいか。
気付くことすら出来ないほどの、一瞬の出来事だった。ウィルコは死んでいた。
おそらくは痛みを感じる暇もない即死だったろう――。
冷静な思考が戻ってくると、オレ達はすぐさま窓辺から離れ、近くの遮蔽物に身を隠した。狙撃手が何処かから視ているとなると、非常に危険な状況だ。
だが、その中でカイン一人だけが、まるで当然のように割られた窓ガラスに向かって歩み寄って行った。
「おいカイン、窓に近寄るな!! 狙撃されるぞ!!」
「先輩、聞いてなかったんですか? ペクさんは『狙撃ポイントは存在しない』と言ったんですよ? 彼でも不可能なスナイピングを、一体どこの誰がやってのけるっていうんですか?」
カインは強化防弾ガラスの弾痕に顔を近付け、じっくりと観察している。そして信じられないというように首を横に振った。
「なんてこった……」
「一体どうしたって言うんだ!?」
「ワイヤーですよ、外にぶら下がっています。殺し屋は、ビルの屋上からワイヤーで滑り降りながら、もの凄いスピードで通り過ぎ様に、この部屋の中のウィルコ議員を撃ち殺したんですよ」
なんだって……? そんなバカな真似をできる人間が存在するはずが無い。
「そもそも、一発の弾丸でその強化ガラスを撃ち破ってウィルコの脳天ぶち抜くなんて不可能だろうが!!」
「一発じゃありません……タップ射撃。それもかなりの速射です。銃声が一発に聞こえる程の……」
「タップ……? ダブルタップか?」
ダブルタップというのは、同一の目標に向けて素早く二発撃ち込むことにより、一発目に対する着弾位置の修正を行うとともに、殺生力を上げる射撃技術だ。
「いえ、ガラスを破るのに使われた弾丸は三発――なのでトリプルタップとでも言うべきでしょうか。しかも、全ての弾丸を寸分違わず同じ位置に着弾させる高等技術。さらには開いた穴に四発目の弾丸を通して、ウィルコ議員の額を撃ち抜いています。自動的なバースト射撃だとここまでの速さと精密さを引き出すことは出来ないでしょうし、威力から見ても違法に改造されたオーダーメイドのハンドガンでしょうね」
――バカな。たった三発で特注の強化防弾ガラスを突き破るほどの威力の銃だ。反動が強すぎて、そんな精密射撃など出来るワケが無い。カインはオレの表情から読み取ったのか、険しい表情をつくって言った。
「――神業、ですよ」
その顔には、卓越した殺害技術への隠しきれない感嘆と畏怖、そして犯人への静かな怒気が入り混じっていた。
姐さんはそれを聞くと、矢も盾もたまらず部屋から飛び出していった。殺し屋を追うつもりだろうが、相手はもうとっくに着地して逃走を図っているに違いない。恐らく捕獲は不可能だ。
姐さんと入れ替わりに、階下の担当だった新人隊員が部屋に入ってきた。
「大変です! 監視カメラのモニタールームに居た隊員二人が、何者かに殺されています! どうやら、賊がこのビルに侵入した模様――」
そいつはそこまで言いかけて、ウィルコが既に殺されていることに気が付いた。
「うわあ!! な、何で、いつの間に……!!」
驚愕する新米隊員をよそに、オレは考えた。敵がモニタールームに寄ったということは、おそらくそこでターゲットの居る部屋と、内部の人間達の位置を確認したのだろう。
「驚くのは後だ。とにかく現状の把握と情報の伝達を急げ!
ここに居ても仕方ないな……。カイン、オレ達も外に出るぞ! お前らは残って、後から来る増援部隊に状況を説明しろ!!」
オレは残りの隊員達にそう告げると、カインと一緒に部屋を出た。何より今は、無線から返事の無かったペクが心配だ。エレベーターを使わず、非常階段をほとんどすっ飛ばし気味に駆け降りる。オレ達の体力なら、昇降機を待つ時間を考えるとこっちの方が断然速い。ビルの外に停めてあった特警の偽装装甲車に乗り込み、真っ先にペクの担当だった展望ビルを目指した。
すぐに目的地まで辿り着き、その屋上へと上がったオレ達の目に入ったもの――それはうつ伏せに倒れるペクの姿だった。
まさか――
「ペクさん!!」
カインが駆け寄った。倒れているペクのその首に手を当てる。カインはオレの方に向き直ると、沈痛な面持ちで首を横に振った。
「死んでます。背後から刃物でひと突き――相当な手練ですね。ペクさん、接近戦では携行していた
「殺し屋はオレ達の居たビルの屋上に出て、壁面を伝って犯行を行った。その際は、もちろんあのビルを外から見張っていたペクが邪魔になるはずだ。だからまず、最初にペクを見つけて始末した――という事だろうな……」
オレはペクの死体に歩み寄りながら、周囲を注意深く見回した。――争った形跡も全く無い。恐らくは外傷も、その「背後からの一突き」によるものだけだろう……。
任務中――つまりペクは集中状態にあった。凄腕の狙撃手の、その最も感覚の鋭敏に研ぎ澄まされた状態を、全く気取られる事無く背後を取る……。そんな事、オレにだって――否、他の誰にだって不可能だと思いたい。
「こんなバカげたことがあるか……?」
そう言って、うつ伏せだったペクの死体を裏返す。しかし、オレとカインはペクの顔を見て、さらに驚くことなる――。
「……な、何だぁ、こりゃあ!?」
オレは叫んだ。
カインは亡骸の凄惨な姿から目を逸らし、その場から数歩離れて激しく嘔吐した。
――死体には、顔が無かったのだ。
ペクの顔面は、すっぱりときれいに剥ぎ取られていた。まるで、お面を取り外したかのように――それがあらかじめ取り外し可能なパーツだったのように、丁寧に切り取られている。残っているのはわずかな筋繊維と、その間から覗く、血のこびり付いた骨、そして虚ろな穴の空いた眼窩だけだ。
――こんなものは、人間の死に様じゃあ、ない。
「か、顔剥ぎ――まさか……――」
オレがそう呟くと、カインが不思議そうな目でこっちを見てきた。
護衛対象はみすみす殺され、隊員二名と貴重な狙撃手を失った。これを完全敗北と言わずして何と言うのか。
オレは新人時代、先輩刑事から聞いた、ある殺し屋の話を思い出した。
そう、「〝顔剥ぎ〟のスヴァリィ」――相手は本当にバケモノだったのだ。
※
オレは事件当時の回想を終了した。
同僚の、顔のない死体――それが頭から焼き付いて離れない。
ペクはいい奴だった。あんな殺し方をしやがったスヴァリィは憎いし、もちろん仇は討ってやりたい。実のところはオレだってカインだって、腸が煮えくり返るくらいに怒り狂っている。
だが、それ以上に今回の相手は私怨で深追いするには危険すぎる標的なのだ。国外でも、スヴァリィをマークしていた腕利きの捜査官や特殊工作員が何人も行方不明になっている。全員殺され、顔を剥がされてしまったのだ――なんて話もまことしやかに囁かれている。
正直言ってオレは恐かった。できれば、スヴァリィにはもうこの国を出て行ってもらっている方が有難いくらいだ、とさえ思った。
「しかし、本当にまだ居るんですかね……スヴァリィは。それも、こんな人が多いところに?」
カインは怪訝そうな顔をした。
「それは確かな話だよ。何せ特警御用達の情報屋、とびっきりの天才ハッカー様からのネタだからな」
「
あの人は苦手なんですよ――カインがそうぼやきながら、食べ終えた餡パンの袋を全部ひとまとめにして、近くのゴミ箱に突っ込んだ。
「そういえばお前、あいつに酷い目に遭わされたんだってな、しかも初対面で」
「酷いなんてもんじゃないですよ、気が付いたらもうヘトヘトでしたからね……」
カインは「思い出したくもない」というように、渋い顔で頭を抱えた。
「まあ、何にしても非番を返上してまで出張ってるんです、絶対に捕まえてやりますよ。でないとペクさんも浮かばれない……」
カインは様々な人の行き交う往来を、きつい目つきで睨め付けた。そういえば、こういう奴だったか。ホントくそ真面目な野郎だ。
オレはとにかく、任務に私情を挟むなよ、とだけ念入りに釘をさした。真面目な後輩は、「分かってますよ」とだけ返事をした。
……と、会話も一段落したところ、オレはカインの真剣な横顔の向こうに、少し離れた所でホットドッグ屋の車が停まったのを発見する。
そういえば今朝から何も食っていない。ちょうど空きっ腹にコーヒーばかり流し込んでいたもんだから、空腹通りこして気持ち悪くなってたところだ。ここいらで腹に何か詰め込んでおくのも、悪くはないだろう。
「さて、オレもお前さんを見習って腹ごしらえでもするかな……」
そう言ってオレが立ち上がるのと同時に、カインは後ろを振り返った。
「あ、ホットドッグですか、いいですね。先輩、俺の分も買ってきて下さいよ」
……おいおい、こいつ、まだ喰うつもりなのか?
オレは餡パンを八個も喰らっておきながら、その上ホットドッグまで要求するこの野郎の胃袋に、何か恐ろしいものの片鱗を見た気がした。
――それに、その言い方だとまるでオレに奢れと言ってるように聞こえる。
「やだよ。食いたきゃ自分で買って来い」
「……なるほど、非番返上で頑張っている可愛い後輩に奢ってやるような懐の余裕は無いと……」
「非番非番ってお前な……。そういやお前、休日とか一体何やって過ごしてるんだ?」
「えっ?」
オレの問いかけに、カインは意外そうな顔をした。
「トレーニングと事件の調べもので一日潰れますけど。暇があれば読書ですかね。先輩は違うんですか?」
……聞くんじゃなかった。まるでそれが当たり前――とでも言いたいような口ぶりだ。
しかし実際、こいつほど滅私奉公している公僕も、天然記念物に指定してもいいくらい貴重だろう。
一度こいつの部屋に上がったことがあるが、セキュリティの厳重な高級マンションに住んでる割には、中には盗る物なんて何も無いというほどの殺風景で、ある物と言えば、簡素なベッドに、トレーニング器具や天井からぶら下がったサンドバッグ、窓辺には申し訳程度の観葉植物――そしてあとはノートパソコンと文庫本が数冊、床に直接、整然と置かれているだけだった。
棚やテーブルといった必需品も無く、生活感の無さにうっすら寒気すら覚えたもんだ。
酒も煙草もギャンブルも一切やらねえのはもちろんのこと、出会いだとか彼女が欲しいとか、そういった浮いた話も一ミリも聞いたことがない。けっこう整った顔だし、うちのかみさんも「あの子スタイル良くてコートが似合うのねぇ」なんて褒めてやがったから、眼鏡をコンタクトにでも変えて、服もオシャレすれば、そこそこモテそうなもんなんだが――そうそう、こいつ、黒髪のせいで気付きにくいけど、よく見ると綺麗な深い青の瞳をしてるんだよな。
オレは何だか、急にこの後輩が不憫に思えて仕方なくなった。ホットドッグなんかでよければ、いくらでも奢ってやろう。もっとも、こいつが遠慮せずに本気で喰えば、今のオレの財布の中身など簡単にトんでしまう可能性もあるが……。
「休日といえば、沙帆ちゃんは今頃どうしてますかね? 先輩の奥さんと一緒なんでしたっけ」
ああ。そういえばあの子も今日は非番だったか。
沙帆ちゃん――
戦闘を生業とするオレ達にとっては、大変貴重な能力だ。だが、彼女が前線に出てくることは、滅多にない。何故なら、沙帆ちゃんの異能は他人のどんな怪我でも治せても、自分の怪我はさかむけひとつさえ治すことが出来ないからだ。このように課せられた制約も恐らくは、彼女の過去や生い立ちに深く関わったものなのだろうが――。
故に、彼女を失う事をなんとしても避けるため、よほどの事情がない限りは、危険な任務には同行させないようするのが常だ。
ちなみに今日沙帆ちゃんは非番のはずだが、いつ怪我人が出ても大丈夫なように、休日でも常時待機命令が出ているはずだ。
「きっと今頃オレの家で、いつもみてえに女房と一緒に菓子やら何やらでも作ってるだろうさ。――二人とも料理が好きだからな」
沙帆ちゃんはなんというか、オレの女房と「姉妹か?」と疑いたくなるほど仲がいい。そんなこともあって、今日はオレの出勤と入れ替わりに家に来てもらって、朝から女房の相手をしてもらっているのだ。
有事の際に居場所も把握しやすいし、すぐに出てきてもらうこともできるから、職場的に何かと都合がいいことも事実だが、オレとしては、沙帆ちゃんが純粋に女房と会うことを楽しんでくれていることが、何より有り難かった。何せ、仕事が忙しいとはいえ、いつも家を空けていることが多いダメ亭主だ――。
「へぇ――『いつもみたいに』? じゃあ、あの美人な奥さんと沙帆ちゃんの手料理をしょっちゅう食べてるってことなんですね、先輩……」
カインが少し恨みがましそうな顔でオレの方を睨む。
「普段の行いが良いからな――」そう言おうとしたが、カインの腹が威嚇するような唸り声を上げたので、やめておいた。
「わーったよ、ホットドッグだろ? 好きなだけ買ってきてやるよ、くそっ……」
半ば呆れつつ腰を上げたオレは、席を離れさっさとホットドッグ屋に向かった。雑踏に目を配りながら、移動販売の車まで早足に歩いた。まあ、あれだけ餡パンを食った後だ。おそらく五本ほど買ってやればあいつも満足するんじゃなかろうか。というか、それより先はカインの遠慮に期待するしかない……。
屋台までの短い道のりを歩きながら、オレは改めて往来を見回した。
この区域はやはり、特に人通りが多い。近くに広い公園があるせいか、ぱっと見ても、こんな昼前の時間帯に老若男女、外回りのサラリーマンや買い物途中と思われる子連れの主婦、散歩している爺さん婆さんまで、一通りの人間が揃っているように思えた。
だが、ホットドッグを入手するまでのほんの十メートル少しといった道のりで、途中、オレは人混みの中にとんでもないものを発見してしまった――。
見間違えようはずもない。
――ペクだ。
死んだはずの特警スナイパー、ペクが歩いている。
それは、他人の空似にしては似すぎていた――いや、似すぎていた、なんてもんじゃない。容姿、雰囲気、身のこなし、歩き方。それら全てを含めても、最早ペクそのものと言った方が正しかったのだ。
しかし――否。そんな筈はない。ペクは三日前に殺されているのだ。そう、スヴァリィに顔を奪われて――。
オレはカインとアイコンタクトを取ると、こっそり立ちあがるように手でサインを送った。
カインはオレの視線の先を見つめ、ペクの姿をした何者かを視界に認めたようだ。一瞬驚いたような表情を見せたものの、すぐにポーカーフェイスを取り戻し、黙って頷いた。
カインが無線で連絡を取ろうとするのを、オレは無言で制止した。ペクの姿をした男は、耳にアコースティックチューブ(シークレットサービスなどが無線通信に使用している、透明なチューブイヤホンのことだ)のようなものを装着していた。ひょっとすると、無線の傍受、もしくは盗聴用かもしれない。
オレは愛用の日本刀が、ロングコートの裏地に縫い付けられた隠しホルダーに挿し込まれていることを、しっかり確認した。この携帯方法だと隠匿性には優れるが、その代わり、いざなった時の居合抜きが使えない。だが、この人混みの中、腰に刀など差していれば目立ってしまって仕方ない上、動きづらい。選択の余地は無いだろう。
オレとカインは人混みの中に紛れ込み、それぞれ別方向から少しずつ対象に接近した。
後ろから付けていると、その男――ペクの姿をした何者か――が、いかに隙の無い所作であるかを思い知らされた。その上、まるで先の尖った鋭利な刃物をうなじに当てられているかのような殺気を、誰彼構わずに放っている。
――こいつ、誘っているのか?
緊張しながら、そっとコートの内側に手を潜り込ませ、刀の柄を握る。「チャキッ」と小さな鍔鳴りの音がした――。
次の瞬間、奴は恐ろしいスピードでオレの方を振り返った! まさか、雑踏の中あんな小さな音を聴き付けられるとは思わなかった――不覚を取った。
相手はこちらの反応も許さないほどの速さでハンドガンを抜き、オレに向かって銃撃してきた――それもこの人混みの中で、だ。
かなり大きめで、ごてごてとした肉厚の、シルバーの銃身。
そこから発射された弾丸は通行人二人の頭をスイカでも叩き割るかのようにように貫通し、それでもなお威力の衰えを見せず眼前に迫って来る。何とか首を曲げて弾丸を躱したが、弾はオレの右耳を掠めて、その肉をほとんど持っていった。なんて威力の銃だ――。
「全員伏せろぉお!!」
オレはあらんかぎりの声を張り上げた。まさか、相手がこの人混みの中、一般人への被害を度外視して戦闘行為に及ぶなど、考えてもいなかった。
ペクの姿をしたその男――恐らくは変装しているスヴァリィか?――は、ニヤリと不敵な笑みを見せると、そのまま、混乱しながら逃げ惑う大量の通行人の中に紛れ込んだ。
「ま、待てっ!!」カインが叫び、そして追う。オレも後を追い、群衆を押し分け、人波の最中に分け入った。
くそっ、どこに居る――!? 分からない。完全に見失った。
辺りを見回すため後ろを振り返ると、そこに居た女に肘がぶつかった。
「きゃっ……!」
倒れそうになった女の腕を素早く掴んで引き戻す。
「すまねぇな。ここは危険だ、はやく逃げ――」
最後まで言う前に、女は短剣を取り出してオレに斬りかかってきた。
「うぉっ!?」咄嗟に避ける。湾曲した刃が首の横――頸動脈すれすれの所を通り過ぎて行った。追撃の切り返しは、コートに納めていた日本刀を鞘ごと取り出し、それで受ける。
「先輩、大丈夫ですか!?」
カインが駆け寄ってきた。
「何がなんだか分かんねえよ!!」オレは鞘と柄を握っているその腕に力を込め、渾身の力で押し返した。
女は弾かれたように跳んで離れながら、手に持つ短剣で、自らの手首に深い傷をつける。腕を大きく振り、その傷口から吹き出す血が、周囲に勢いよくばらまかれる。すると、道路に飛び散った血だまりや、血液の付着した通行人の衣服が、一瞬のうちに発火した。あちこちで火の手が上がり、見る見るうちに炎の壁を作り出す。
「異能者――!?」
「自身の血液を媒介にして発動する超常発火現象みたいですね」とカイン。
オレは慌てて抜刀、道路脇に設置されていた地上式消火栓をぶった斬った。ものすごい勢いで水道水が噴出し、広範囲を鎮火。人的被害も最小限に喰い留める。
「血が燃料代わりとは、珍しいタイプの
なんとかして大規模な炎上は避けることができた。だが、白昼堂々の発砲事件から、続けざまに突然の放火、さらには消火栓からの派手な噴水とあっては、大通りはもう、阿鼻叫喚の大混乱だ。
そしてこちらが自由に身動きできないのをいいことに、敵はそのまままた、入り乱れる群衆の中へと消えてしまう。
……何てこった。こんな真っ昼間から、人のあふれ返った街なかでの戦闘など、特警の訓練には存在しなかった。裏社会に生きる異能者達は普通、人との関わりを避け、闇夜に闊歩する者たちが大概だからだ。
虎視眈々、敵の
「飛び込むのは得策じゃねえな。待ち構えてやがる――」
「明らかに罠ですね……」
死んだはずのペクが現れたと思ったら、今度は見ず知らずの女に襲われる。そんな事があっては、こちらも迂闊には動けない。何より、あれらがスヴァリイの「変装」――いや、「変身」だとしたら、それはもはや異能以外の何物でもない。
しかし、敵はどうやらオレ達に手をこまぬいている暇すら与えないつもりのようだった。混乱する雑踏の中から悲鳴が聞こえる。一人、また一人と通行人が倒れていく。
「きゃぁっ!!」
「痛い!!」
「あがぁああ!! 足が、俺の足がぁあ!!」
人混みに紛れ込んだ敵は、なんと無差別に通行人を攻撃し始めたのだ。倒れている被害者は皆、足の腱をナイフで深く切り付けられていた。
「くそっ……! 選択の余地なしかよっ!!」
オレ達二人は有無を言わず再び雑踏の中に飛び込まされた。
そこでオレは見た。両手にナイフを持ち、素早く通行人の間を縫いながら接近してくる、小さな人影を。あれは――――子供か!?
三歳児ほどの体躯に合わせたクリーム色のスーツをぴっちり着こなし、山高帽を目深に被っているのがひどくアンバランスだ。
「うぁっ……!」
カインの短い悲鳴。高速ですれ違うと同時に、腰のあたりを切り付けられたようだ。そのとき、ようやくオレにも相手の姿をしっかり見ることができた。
相手は子供なんかじゃあなかった。その男は、身長は七十――いや八十センチにも満たないのに、顔だけはひどく老けた中年男性の顔をしていたのだ。
その小さな躰が、驚くほどの高機動で接近してくる。
敵が足に向かって切り付けてくるのを、オレは身を引いて躱す。乱れた人混みの中、周りを走り回る人間がこんなに多くては、抜き身の刀を振り回すことなんて出来やしない。
オレは安全のため仕方なく刀身を鞘に納め、柄尻をしっかりと掌で押さえながら、そのまま鞘で
だが、敵さんも相当に素早い。オレの刺突は相手を捉えることなく、鉄拵えの鞘の尖端がアスファルトの道路を打ち砕いた。横に跳んでオレの攻撃を避けたその小男は、着地と同時に再び地面を蹴って飛び掛かってきた。両手に持ったナイフでの連撃。鉄の鞘でその鋭い斬撃を全て防御する。身長差がありすぎて、やりづらい。そのくせ相手は正確に手首や足首、内太腿の動脈を狙ってくる。
しかし、こうも手数を繰り出されちゃ、目も段々慣れてくるってもんだ。オレは相手の攻撃し終えた隙を見て、渾身のローキックで蹴り飛ばしてやった。小男は両腕で蹴りをガードし、そのまま飛び退きながら蹴りの威力を逃がしつつ、カインの方へと接近した。
「カイン! そっちに行ったぞ!!」
オレが叫ぶよりも速く、カインはリボルバーの銃口を相手に定めていた。引き金をひき、弾丸が発射される。敵は空中で身を捻り、地面に片手をついて体勢を変え、弾を避けた。流れ弾は道路に着弾し、この入射角ではあわや跳弾するかとも思われたが、インパクトの瞬間、チョークのように粉々に砕け散る。
――フランジブル弾。主に銅やスズなどの粉末を押し固めて作られた弾丸で、跳弾防止のため、金属やコンクリートといったハードターゲットに当たると弾丸のほうが破砕するように設計されている。市街地、人混みでの戦闘を見越してカインが用意していたのだろうが、いかにもあいつらしい配慮だ。
カインが続けざまに二発、三発と発砲するが、素早く左右に動きながら接近する小男には命中しなかった。奴はその矮躯を利用し、前転しながらカインの股の間を潜り抜けると、通り抜けざまにナイフで
「上だ!!」オレが叫ぶ。敵は通行人を踏み台代わりに駆け上って、上空から奇襲を掛けてきたのだ。カインはすぐに上を見上げたが、敵は日光を背に受けて落ちてくる。逆光を利用した目眩ましだ。
太陽光に目をしかめながらも、なんとか当たりを付け、中空の敵を狙撃するカイン。相手はそれを両手のナイフを交差させて防いだが、小さな躰は弾丸の威力で弾き飛ばされた。
激しく回転しながら落下した小男は、それでも猫のように器用に着地した。
――よし、少なくとも戦闘の邪魔になる範囲に、無関係の通行人はもういない。刃物や銃器で派手にドンパチやってる輩がいるのだから、離れていくのも当然だろう。これで幾分かやり易くなった。
敵は周囲の状況を確認し、「チッ」と軽く舌打ちし、素早く横に走りだした。通りから出て、車道の方に向かうつもりのようだ。オレ達二人もすかさずそれを追う。
大通りからビルの隙間の横道に逸れ、それを抜けて狭い歩道に。そこから敵は四車線の道路に飛び出し、行き交う車両の下を潜り抜けながら反対側の歩道へと渡って行った。多数の一般車が小男の姿を隠し、カインの銃でも狙いを付けられない。
「器用だな……ゴキブリみてぇな奴だ」
「生憎アースジェットは持ってませんけどね」
カインがガードレールに足を掛けて跳び上がった。オレも後に続く。そのままオレ達は走行中の車両の上を飛び移りながら、向こう岸に渡った。
小男が走りながら電柱を横切る――すると次の瞬間、その姿はボサボサの黒い長髪で黒スーツ、サングラスを掛けた長身の青年に姿を変えていた。
「……今の見たか!?」
「早着替えですね……」
手品師さながら……といったところか。
オレ達も歩道に辿り着き、黒スーツの青年を追う。
――が、速い。
若干獣じみた走りだが、
オレは仕方なく手に持った愛刀を抜き放ち、鞘の方を地面すれすれに回転させながらぶん投げた。鉄拵えの鞘は低空飛行しながら男の足にぶち当たり、そのまま足の間に絡まって敵を転倒させた。
「よっしゃ!!」オレは一足飛びに間合いを詰め、上空から刀を突き刺すべく飛び上がる。
相手は寝転んだ状態から仰向けになり足を旋回させ、オレの落下しながらの刺突を蹴り払う。「ガキン」と金属音。そのままネックスプリングで起き上がるとともに、右腕をオレに向かって振り下ろしてきた。
刀身でそれを受け止めると、またもや金属音が鳴り響いた。どうやらこの男、服の下には鉄甲を両手両足にはめ込んでいるらしい。
打撃の重さで、刀が弾かれる。敵はそこから腕を振り下ろした勢いで飛び込み前転し、四足獣のような体勢から、オレの空いたどてっ腹に突き蹴りを叩き込んだ。かなりの威力だったため、オレは自ら後ろに跳んでダメージを軽減する。
突き飛ばされたオレの躰を躱し、今度は入れ替わりでカインが素早く前に出た。
銃撃。男が犬のようにお座りして躱す。カインは踏み込み、軽く跳び上って空中で胴廻し回転蹴り。敵は鉄甲の両腕を交差し、大上段で受け止めた。そのまま押し返される力に任せてカインが反転し着地、今度は水面蹴りを繰り出すのを、相手がバック転でやり過ごし、距離をとる。それに合わせカインは右手に持った銃で発砲。男はやはり獣じみた動きで深く上体を反らし、その弾を避けた。
間髪入れずにカインが接近するが、相手の鋭い蹴りがその進行を妨害した。右ハイ――ガードしたようだが、鉄甲を付けた足での蹴りだ。相当重いに違いない。カインが踏ん張って
敵は後ろに跳び、四つん這いで着地する。その瞬間を見計らってリボルバーの弾丸をぶち込もうした刹那――カイン首の付け根から血が飛び散った。
「うっ……!」
「大丈夫か……!?」
オレが駆け付けると、カインは首筋の傷を押さえながら、敵の左手を指差した。
「大丈夫ですよ、浅いです……頸動脈には達していません。それより奴の手、見て下さい」
カインが指差した敵の左手を見てみると、まるで獣のように鋭利で頑丈そうな爪が、十数センチばかりも伸びていた。さらに視線を移してみると、右手にも同じように太い爪が生えている。
相手は「はぁあああ」と深く息を吐くと、野性の獣のように歯を剥き出した。その犬歯も、まるで狼のように長く鋭く、尖っていた。
「肉体強化系か……?」
「でしょうね。さっき蹴りを入れた時ですが、あの感覚はボディーアーマーを着込んでます。鉄甲が四つに防弾着――その装備であんなに速く動けるんですから、並の人間ではまずあり得ない」
カインがそう言い終えるや否や、黒スーツの男は恐ろしい程のスピードで間合いを詰めてきた。常人なら眼で捉えることすら不可能だろう――。
だが――
オレは突進してくる男をひらりと躱しつつ、逆手持ちの刀を相手の太腿に突き立てた。カインも同じように身を躱しざまに、反対側の太腿をリボルバーで撃ち抜く。
「だが――この程度じゃあとても〝最強〟なんて呼べねえな」
両足を貫かれた敵さんは、オレとカインの間に倒れ込み、そのまま盛大にすっ転んだ。
「――同感ですね。これなら例え能力無しでもシュレディンガーや摘出者の方がずっと強い」
この程度の異能者だったら、オレ達が今まで相手をしてきた犯罪者の中にもゴロゴロいた。〝最強〟と呼ばれ恐れられるには、どう考えたって役者不足だ。本当にこれがあの、スヴァリィ・キーパーの実力なのか?
「クシャァァアア!!」
黒スーツの男が吠えた。常人では歩けないほどの怪我にもかかわらず、派手に転んだ勢いそのまま起き上がり、走り出す。
「逃げる気か――」
オレとカインは再び男を追い掛けるはめになった。
それにしてもあいつ……痛覚が無いのだろうか? どうせなら骨か腱を断っておくべきだった。
「さっきからなんだか追いかけっこばかりしてる気がしますね――」
カインがぼやく。確かに、激しい疾走と戦闘を繰り返し、オレ達も疲れを見せ始めてきている。これ以上変なことをされる前に、そろそろ決めにかかりたい――。
敵の背中を追い、オレとカインの足が、強くアスファルトを蹴って踏み出した――。
※
(【後】に続く――)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます