Act3

 ひたすら走った。大して長い訳でもない道程、それが随分と長く感じたのは、身にまとわりつく緊張のせいなのかもしれない。とにかく酷い感覚だった。心臓が強く握りつぶされそうな感覚と、それに抗うために心臓がぱっつんぱっつんに膨らんだような感覚が、ごちゃごちゃに混ざって気持ち悪い。

 だが、それを感じる事はもう無い。コンクリートジャングルを抜け、路地の十字路を何度も曲がり、近道しては迂回して、ようやくだ。

「ようやく、あなたの家に着いたんですか……」

 永久も疲れたようにそう言って、小さく息を吐いた。流石に彼女も、気を張って長い道を走り続けるのは堪えたらしい。持っていた大剣を目の前の家の塀に立て掛けて、アプローチに設置された階段に腰を下ろす。

「……ありがとう、無茶を聞いてくれて」

 空を眺めている彼女に向けて、久遠は小さく頭を下げる。それに反応し、顔を向けた永久は、

「全くですよ。これこそまさに出血大サービスです」

 はは、と小さく笑って、永久は空中で手をひらひらと舞わせた。彼女の言葉は手厳しいが、それの口調は柔らかく、責めるようなものでは無かった。

「さ、早く行ってください。家族が心配なのでしょう?」

「あぁ、そうするよ。……本当に、ありがとう」

 そう言い残して、久遠は急いで家の玄関の扉を開ける。家族からの返信は未だ一つも無い。その事実は恐ろしい事に変わりないが、それでもどこか安心している自分がいる。

 なぜなら、自分が無事で帰れたのだから。

 バタン、と音を立てて扉が閉まる。薄い壁ともいえない壁に阻まれて、永久の呟きが彼に届くことは無かった。無常感から一人、彼女は天を仰ぐ。

 ――ここで、誰かが喰われた臭いがします。

 空の海面は斜陽に照らされ、陰鬱に赤く、暗くなっていた。きっと、海面の上には雲一つないのだろう。この空が素直に夕焼けを照らしてくれれば、あるいはその光景に心を躍らせることも出来ただろうに。

 だが、今の空は、心を躍らせるには少々重苦しかった。


 ただいまを言う暇すらない。久遠は家に入ってからも走り、荒くリビングへの扉を開く。酷い音を立てて開いた扉。目に飛び込んでくる蛍光灯の光。その事実に、久遠の胸が強く跳ねた。

「母さん! 父さん! 雪花!」

 手当たり次第に家族の名を呼び、リビングを見回す。いつも通りのテーブル、いつも通りのテレビ、しかしそこに団欒は存在しない。佇んでいるのは静寂と、重い空虚のみだ。 

 当然、久遠も団欒が消えた事ぐらい承知している。こんな日だ、いつも通りに明るく行こうという方が無理な話。重苦しい空気が漂っていた程度で不安になる程、彼もおめでたい人間ではない。

 それでも、呼び掛けをしたというのに返答が無いというのはどういう事だ?

「……だ、誰かいないのか?」

 そう声を出しても、先程と同じように返答する人は誰も居ない。それはとても不気味で、背筋をゆっくり逆なでされるような感覚を久遠は覚える。なんだ、どういう事だ? 先程と同じような疑問と不安を、もう一度強く抱く事になった。

 そして、その不気味な静寂の理由を、久遠は思ったよりあっさりと思い知る事になる。

 家の中をバタバタと走り回り、辿り着いたのは二階へ通じる階段のすぐそばにある母親の寝室。その部屋の扉が、無造作に開け放たれていた。――それを見た瞬間、久遠は自らの心臓が跳ね上がる音を聞いた。

 声にならない悲鳴を上げて、久遠は母親の寝室へと駆け込む。誰かが、家族がいる。その事実は疲れた体を再び奮い立たせ、彼の表情に笑みを浮かべさせた。

「母さん!」

 笑みを浮かべ、そう声を出した久遠。言葉にならない喜びは、しかし次の瞬間、音を立てて崩壊した。

「……あ」

 誰かが息を呑む音がする。それはもしかしたら、自分の出したものだったのかもしれない。だけどそんな事は、目の前の事実に比べたら些細な事だった。

 部屋の中には妹――雪花がいた。彼女は母親のベッドの前でぼうっと座り、虚ろげな眼でこちらを見ている。鴉の濡れ羽色のショートカットはつやを失い、彼女の身体は縮こまって見えた。

 そしてその奥にベッドに横たわっているのは、紛れも無い、久遠の母親。

「……兄さん」

 小さな声で、雪花が呟く。その呼びかけに久遠は居ても立ってもいられなくなり、呼吸を忘れて二人のもとに駆け寄っていく。妹は生きていた。だが、そこで力なく横たわって目を閉じている母親は? 嫌な予感を考えないようにしながら、彼は母親の顔に手を触れる。

 ――小さな悲鳴を上げてしまうほどに、母親の身体は冷えていた。

 馬鹿な、と心の中で呟いた。身体には傷一つも無いのに、こんなにも健康的に見えるのに。

 母親の息は、生きている証は、もう既に。

「せ、雪花。何で母さんは、こんなに冷たいんだ?」

 声が震えているのが自分でも分かる。踏み込みたくないのに、その領域を知らなければいけないと心が背中を押す。考えたくもない事実を、今、目の当たりにしてしまった。

「兄さん」

 雪花の声も、同じように震えていた。表情はすっぽりと抜け落ちているが、それでも内の激情は抑えがたいようで、口の端をひどく震えさせていた。

 そして、もう一度彼女が口を開く。

「私はまだ泣いてない。お母さんが泣いちゃダメって言ったから、泣いたら動けなくなるから、目の前で『静か』になっても泣かなかったよ」

 けど、もう限界――。話している最中、雪花の瞳からはボロボロと大粒の涙が零れていく。今までギリギリを保っていたダムが一気に決壊するように、台風で土砂降りが訪れるように。彼女の声は、最後のほうは言葉にすらなっていなかった。

 どのような言葉を掛ければいいのだろう。兄だというのに、妹を慰める言葉が何も見つからない。情けないこと甚だしく、心苦しく悲しい事この上ない。目の前が暗く、光が潰えていくような感覚に囚われそうになったとき、突如温かい感覚が身体を包む。

 妹が抱きついてきた。ただそれだけなのに。

「匿って。お母さんに見られたら、怒られちゃう、から……!」

 そう言うなり、雪花は体を大きく震わせる。同時に、久遠は服の真ん中辺りから温く、湿ったものを感じる。それは間違いなく、妹が吐き出した感情の結晶。

 それを理解した瞬間、久遠もまた、涙を流したのだった。


 玄関から外を眺めると、何故か未だ永久が玄関アプローチの階段に腰を下ろして、空を眺めていた。塀に立てかけていたはずの鉄塊の大剣はその姿を消して、影も形も名残も無い。

 久遠は彼女の左隣に座って、ぼぅ、と空を眺める。暗い空だ。たゆたう海面はその姿を隠し、同時に星をも覆ってしまった。かすかに見える月は、その身を揺らして鈍く輝いている。

「心中、お察しします」

 永久は空を眺めながらそう呟く。そこの言葉に久遠は若干身体が冷えるのを感じ、

「……なんで知っているんだ?」

「外まで、泣く声が聞こえたので」

 そうか、と久遠は呟き、大きく息を吐いた。下げた視線に映るのは、自分の小さな手と、その手に握りつぶされる後悔。震える手を眺めて、久遠は音が立つ程に強く歯を食いしばった。

「あの化け物達が憎いよ。俺は弱い人間だけど、奴らを殺して、復讐したくてたまらない」

 その久遠の声は、彼自身も自分の声とは思えないほど暗く、冷えていた。双眸はギラギラと飢えた獣のように輝き、大地を突き刺さんとばかりに強く睨んでいる。

「永久、君はあの化け物を、いとも容易く殺してみせた。俺もその力が欲しいよ……!」

 話を聞く永久の表情は、少し歪んでいた。それは笑みか、怒りか。それとも愉悦か。それを理解するほど久遠には余裕がなく、ただ自分の感情を晒し続けていた。

 そして、永久が鼻で笑って言葉を一つ。

「惨めですね」

 その言葉は確かな起爆剤となり、久遠の感情を爆発させる。

「あぁ、あぁ、惨めだよ。酷く惨めだって自分でも分かるよ! 何も出来ないガキが、目先の力に渇望する姿はさぞかし滑稽で見ていられないだろうさ!

  ……だけど、俺だってこのまま黙っていられないんだよ! このまま奴らに怯えながら生きていくなんて、そんなの真っ平ごめんだよ! それこそ本当の惨めだろう!?」

 そう一通り絶叫した後、久遠は顔に右手を重ねる。そして力を込め、今日の痛みを刻み込むように、五本の指で顔を強く圧迫した。涙が流れてきても、それを拭いはしない。それも、今日受けた痛みなのだから。

「あの化け物達を殺したい。この痛みを、奴らも思い知るべきだ……!」

「……素晴らしい」

 そう、永久は呟いた。皮肉にも聞こえるが、彼女は今、満面の笑みを浮かべている。そしてその笑みは、あの化け物を殺した時の笑みにひどく似ていた。

 永久はゆっくりと立ち上がり、未だ腰を下ろしている久遠の前に立つ。

「素晴らしい才能です。万人は、たとえ力を手に入れたとしても、それを振るうために二つの才能を必要とするんですよ。それをあなたは、既に持ちえている」

 そう言って、永久は久遠に顔を近づけた。彼女の赤い瞳を間近で見て、久遠は息を呑む。

 まるで、血が髄まで染み込んだような水晶体――それが抱える畏怖と狂気。

 永久は笑みを浮かべたまま、彼の目を見て語りかける。

「狂奔と渇望ですよ。その二つさえ持ってしまえば、剣を振るう事などとても容易い」

 そう言って、永久はクスクスと笑い、一歩後ろへと退いた。そしてこちらに手を伸ばし、久遠の手を取って立ち上がらせる。まるで魅入られたかのように、久遠は永久を見つめ、小さな声で呟いた。

「……俺も、戦えるのか」

「もう少し、時間が掛かります。力は、私の『Leavateinレーヴァテイン』はまだα版、デバッグも済んでません。ですが、機能の実装はほぼ終わり、間もなくβ版が試行される……」

 そこまで語ってから、永久は急に神妙な顔つきになった。そして耳元に手を当て、「はい、永久ですよ」とおもむろに声を出しながら踵を返す。

 久遠は不審がり、聞き耳を立てる。……永久の声だろうか、ぶつぶつと小さな声が聞こえてきた。どうやら、MIDGALで誰かと通話しているらしい。

「えぇ、えぇ。……は? セタガヤのC2区域でエネミーの大群? そっちで片付けられないんですか? ……二人じゃ無理? 人手が足りないと。てんてこ舞いですか。何ともお笑いですねー、はっはっは。……あぁ、冗談ですよ。優秀なナイトバーズの面子を、私はひじょーに強く信頼していますとも。

 えぇ、分かりました。今からC2区域に向かいますね。えぇ、はい。了解です」

 その言葉を最後に、通信と思わしき永久の会話は終わった。

 振り返り、再びこちらに顔を向ける永久。その表情は、焦りというよりも呆れに近い感情を浮かべているように見えた。久遠もそれを察し、小さく笑みを浮かべる。

「はは、ちょっと急用が出来ました。全く人使いの荒い」

「そっか……大変そうだね」

「本当ですよ。私にとってはあんな木偶の坊、ゆるいダンスの相手も務まりませんがね」

 そう吐き捨てて、永久は久遠に背を向けた。どうやら、そろそろ彼女は行くらしい。彼女が虚空に手を伸ばし、一つ指を鳴らすと、そこには既に鉄塊の大剣が現れていた。一瞬の出来事、久遠は我が目を疑う。

「……そう遠くない未来。そう遠くない未来に、私達『ナイトバーズ』は今日の雪辱を晴らしてみせる。

 その時に、あなたが私の隣に立っていることを祈ります」

 その言葉を聞き、久遠は思わず永久のほうに手を伸ばした。

 彼はまだ、聞きたい事がたくさんあった。何故あいつらが現れたのか。永久が持つ力、Leavateinとは何なのか。様々な疑問と恐怖が織り交ざり、結局何を言えば良いのか分からなくなる。

 そして、ひどく混沌とした気持ちを抱えたまま、久遠は何も言わず永久を見送った。現れた時が突然だったように、去る時もまた、突然、はたと居なくなるのだ。――まるで、最初から誰も居なかったかのように。

 酷い夢を見ているようだった。しかしこれが夢でない事も、嫌というほど思い知らされてきた。全身から力が抜けて、代わりに入ってきたのは重たい悲嘆と吐き気。それを間一髪で耐え、嚥下し、MIDGALを起動する。

『明日の天気は晴れ、気温も程よく、丁度良いお出かけ日和となるでしょう……』

 自動的に流れてくるお天気情報は、相変わらずのほほんとした機械声で明日の天気を告げてくる。向こう一周間は晴れが続き、陽気が戻ってくるらしい。

 しかし、そんな事があるものか。世界は海に沈み、空に月も浮かばない世の中なのだ。

「これが夢なら、殺してでも覚ましてくれよ……」

 夜の帳は完全に降りきり、辺りを包む静寂と暗闇。街頭が点滅し、付近に小虫や蛾が飛び回っている。

 既に何も映らない空を眺めて、久遠は今一度、一筋の涙を流す。

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