Log.2 「Immigration」

Act1

 ぴんぽーん、と気の抜けるチャイムの音が、静かな家の中に響いた。その音を聞いた久遠は重い腰を挙げ、判子と財布を片手に玄関へと歩いていく。部屋の中の密閉されたような空気が、息苦しくて仕方がない。

『こんにちは、配達便です』

「あー、ご苦労様」

 玄関前に居たのは人間ではない。人間の形を模したロボット、アンドロイドだった。本来アンドロイドの普及はもう二十年先と予想されていたらしいが、このご時勢だ。日本の企業は急遽製造を開始して、そしてあっという間に普及していった。

配達アンドロイドの持っているダンボールを受け取り、証明の印鑑を用紙に押した後、現金を渡す。少し時間が経った後、取引は正式に受理された。

『ありがとうございました、またのご利用を』

 サンプリングされた音声でそう言われ、久遠はアンドロイドを見送った。手元に残ったダンボールはずっしりと重く、しかしその中身はすぐに無くなってしまうという事を、既に久遠は知っていた。

「兄さん、誰か来たの?」

 そう、寝ぼけ眼を擦ってふらふらと近づいてきた妹――雪花は、久遠が抱えるダンボールに目を向ける。そして思考をめぐらせたのか、妹は近づいてきて両手をこちらに伸ばしてくる。

どうやら、持ち運びの手伝いをしたいらしい。久遠はその姿を見て苦笑した後、その手伝いをやんわりと断った。

「今週の食材が届いたんだよ。何とか冷蔵庫に収めようか」

 久遠はそう言って、居間に置いてある冷蔵庫の前にダンボールを置く。中身はやはり随分と詰まっているようで、ずしん、と低い音と振動がフローリングに響いた。

横に居た雪花が表面に張られたガムテープを乱暴に剥がしたので、久遠はさっさと中の荷物を冷蔵庫の中にぶち込んでいく。保存の利くもの、利かないもの。乾物、生鮮食品。豊富なレパートリーのそれらだが、商品のパッケージにはことごとく日本語が駆逐されていた。

 ……ここ最近、日本語表示の商品を見た覚えが無い。というのも当然のことで、日本の工業は鼠のように湧くエネミーの影響で半ばストップしており、消費する物資の四分の三は外国に依存しているからだ。このままでは、日本がエネミーに壊滅されるよりも早く、借金で溺れてしまうのだが……その問題の光明は、まだ見えないでいる。

「まぁ、栄養食を齧るよかましかな」

「そうだね。兄さんの料理、私は好きだよ」

「それは嬉しいね」

 そんな会話を交わす頃には、冷蔵庫の中は食材と瓶詰めで一杯になっていた。瓶詰め食品はともかくとして、生鮮食品はすぐに食いきらなければ。久遠は頭の中で献立を考えると同時に、一つ、恐ろしい事を思い出した。

「……そうだ」

 久遠は呟き、冷蔵庫の隣、食器棚に置かれている長財布を手に取る。そこに入っていたのは福沢諭吉が肖像された紙幣が一枚と、野口秀雄が肖像された紙幣三枚。もう、大分少なくなっている。親の預金通帳を持ち出し、勝手に下ろした三万円。それが二回の買い物でここまで減るとは、久遠も予想していなかった。もう一度外に出てお金を下ろすか……しかしそれに命の危険が伴っている以上、下手に外には出られないのだ。

「兄さん、別に私は二食でも良いよ?」

 雪花の進言に、しかし彼はかぶりを振った。

「成長期の雪花にそんな事させたくないよ。もう少し、様子を見よう」

 その言葉を聞き、彼女は小さく頷いた。……どうすれば良いのだろう? 最適な答えが見つからない。久遠が助けを求めるように目線を動かした先にあったのは、庭に小さくポツンと置かれた母親の墓だった。

沈黙。居間を包む空気は重く、循環しない空気が鬱陶しい。この雰囲気を何とか変えようと、久遠はおもむろにテレビを点ける。

「……今回我々を襲った未曾有の事件ですが、これに襲われたのが日本だけと知ったときは愕然としましたね」

あの日・・・に亡くなった犠牲者は国民のおよそ六分の一。今回海外へ免れた国民も数えると、およそ全国民の半分が日本から居なくなった、と考えていいと……」

「そうですね、エネミーと名称されたモノの実体はVR体だ、という調査にも驚きましたが、今回伝えられた事実には頭を殴られたような感覚を覚えましたよ」

 自分の気まぐれをグーで殴りつけたくなった。もはや狙ったようなタイミングでテレビに映った情報番組は、居間の空気をさらに重く、冷たくするに至った。久遠は頭を抱え、雪花はテーブルに頭を伏せる。

……空の変容。それはこの地域だけに限らず、どうも全国でも同じ出来事が起こったそうだ。当初は混乱に混乱が重なり、中々調査も進まなかったが、時間が経つにつれてその事件の形が明らかになったらしい。

しかし解明したのは、酷く単純なたった一つの出来事。全世界に点在、配置されてあるVR統括装置が一斉に暴走した。ただそれだけだった。

しかしその出来事はあまりにも重く、そして人類を混乱に導く。……単なる暴走だけなら、空の色が変わる程度ならまだ良かった。だけど、それで終わる訳も無かった。

壊れたラジカセが不快音を吐き出し続けるかのように、暴走した制御装置もまた、人類に牙を向くモノを生み出したのだから。あの日のトカゲもまた、その一体。エネミーと名づけられたそれに人々は牙を突き立てられ、次々と絶命していった。

「生き残った国民の中から、黒服の青年や少女がエネミーを殺していた、という報告をまばらながら確認することが出来ましたが……」

「そんなの妄言ですよ。現に人類は、奴らに対する武器を持っていません」

 その言葉に、久遠は食いついた。――永久以外にも、エネミーを殺せる人物が居る? これはどういうことだ。永久の去り際の台詞に、何か関係があるのか? 今の久遠には、何も分からない。

「しかし不思議ですね、エネミーに襲われてしまった方々の身体には、しかし傷の一つも付いていない」

「それは、ヤツらがVR体だからですよ。ヤツラは物体――人間の身体に干渉出来ず、人間の精神に干渉するんです。ですから、襲われてしまった不幸な方々は、絶命の直前に総じて心肺停止、まるでショック死してしまったようになってしまうんですね」

「自分は死んでしまったのだ、と脳が錯覚してしまうのでしょうか?」

「そこはまだ分かりませんが、今回の事件による人的被害は『侵食性虚構知覚症』と命名されました。決して病気と決まったわけではありませんが、裸眼でVR体が見える、というのは明らかに人体における異常ですのでね。

あと、少なくとも扉の閉められた建物内にはエネミーは入ってこない、という事は判明しています。ヤツらは無機物体に干渉できず、すり抜けるような事も出来ないのですから」

 テレビに映る人々の討論を聞き、久遠は一つの場面を思い出す。

「侵食性、虚構知覚……」

母親を含む、犠牲になった人々。皆の骸には傷の一つも負わず、ただ静かにその身を横たわらせていた。今だ脳裏に焼きつく、あの日・・・の光景である。

嫌なものを思い出した、と久遠は歯軋りする。しかし同時に、忘れてはならないという事も思い出し、彼の心の中に小さく、黒いもやが立ち上がった。

 その時、視界の端で立ち上がった一枚のARディスプレイ。MIDGALによるそれに写されていたのは、どうも見た事のないメールアドレスと一通のメール文章。

 そして、そのメールアドレスの中に入っている『night-birds』という単語。彼は一切の躊躇いを捨てて、新着のメッセージを開封する。タイトル欄に打たれている『約束』という単語が、久遠の心臓を強く叩いた。

『LFINがLeavateinnのβ版を発表したそうですね。

これで準備は整いました。そう遠くない未来は、もうそこまで訪れています』

 文末に書かれていた永久の名前が、このメールは本物であると教えてくる。まるで上昇気流に吹かれたかのように、久遠は心が昂ぶるのを感じた。

 そしてその瞬間、点けられていたテレビが一つのニュースを吐き出す。

「……え、速報? LFIN社が、エネミー駆除のVRアプリケーションを開発!?」

 無意識の内に、久遠はテレビの前へと走って行った。そして食いつくのはテレビのディスプレイ、そこでは今まさに『エネミー駆除のVRアプリケーション』についての説明が行われている。が、その説明が彼の頭に入っていく事はなかった。

「やっとか」

 そう呟き、ただ興奮した。身体が震えた。久遠は自分でも訳の分からない衝動に駆られ、ARのディスプレイを展開したまま握りこぶしを作る。その感情は喜びか、それとも。

 しかし、その速報を快く思わなかった者もまた当然、ここに居る。

「兄さん、やっとか、って……何が?」

 雪花は低く、唸るような声で久遠に問いかける。その若干掠れた声から、一体何を問おうとしているのか、しかし久遠は一瞬で理解する。――だからこそ、久遠は真っ直ぐと妹に向き合って。

「アプリケーションの開発は、俺も知っていたんだ。それのβテスターに、俺は登録されている」

「――馬鹿言わないでよ!」

 机を強く叩き、勢いよく立ち上がる雪花。その歪んだ表情からは、恐怖と怒りが強く強く読み取れた。口の端をわなわなと震わせ、目を雫で光らせている。まるで、いつ起爆してもおかしくない……いや、彼女の爆弾はとうに起爆していた。

「何を、何を言っているの!? あの化け物を殺しにいくの!? 冗談! 自殺したいの!?」

「な、ちょっと、落ち着けよ雪花!」

 彼女は久遠に詰め寄り、半狂乱で叫びながら彼の首元を掴む。しかしその目つきは、どこか嘆願するような、黒く苦しいもので満ちていた。

 苦しい。久遠はそう思った。首が絞まり、呼吸が出来ないこの状況も。雪花がいつにもなく取り乱して、こちらを止めようとする思いも。――だが、ここで退く事だけは、絶対に許されないのだ。朧気な頭を必死で回転させ、彼は言葉を紡ぐ。

「ようやく、ようやくなんだよ! 母さんを殺されて、日常をあっという間に奪われて! 悔しいんだ、俺は! 分かるだろう!?」

「分かるよ! けど兄さんは分かってないよ! 仮に戦ったとして、勝てる保障がどこにあるの!? 死にに行くようなものだよ!」

 お互いの叫喚は続く。

「願いだった! 望みだったんだ! 雪辱を晴らす為に、俺は戦いたい!」

「私は怖いんだよ! お母さんが目の前で死んで、お父さんは帰ってこなくて! 

 もしこれで兄さんまで無くしたら、私はもう!」

 互いが息を呑み、居間に静寂が訪れる。今すぐ部屋に逃げ込み、篭りたくなるほどの重圧。しかし久遠は逃げず、真っ直ぐ妹の瞳を見つめる。慣れ親しんだ、黒の色。涙で光るそれは宝石のようで、久遠の決意を強く捻じ曲げてくる。

 無音。……それでも、久遠は剣を取ると決意したのだ。雪花もそれを察したのか、彼から身を離し、涙を流しながら溜息を吐く。

「兄さんの馬鹿、私が幾ら止めても聞かないんでしょう?」

「もう、決めた事だからな。……ごめん、相談も何もなくて」

「いいよ、それが兄さんだもん。ただ、ね」

 そこで、雪花は言葉を切った。中途半端さに久遠は喉がつっかえるような不快感を味わい、おもむろに首を捻る。

 そして、深呼吸する妹。

「死なないで、なんて言わないよ。兄さんが死んだら私も死ぬからね」

 涙交じりの笑顔で放たれた言葉。そのプレッシャーは如何ほどか、想像するまでもない。久遠は思わず笑いながら、冷や汗が背中を流れるのを強く感じた。やはり、重かった。

 だが、重圧を投げかけながら、彼女も壊れそうな心を必死で推しとどめているのだろう。

「仕方ないなぁ、背中を押してあげるよ、兄さん」

 そう宣言した雪花の笑みは、涙と震えで歪になりながらも綺麗で、しっかりとこちらを励ましてくれるのだった。

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