Act2

 少年は走っていた。道はコンクリートで舗装され、自然の情緒はどこにも無い。喉が詰まってしまいそうな逼迫感を、極度の緊張と共に受け止めながら彼はひた走る。

「これで、何回目だ……!?」

 少年――久遠は全力で市街地を駆け抜けながら、チラリと背後に視線を向ける。……そこに居たのは、およそ現実には存在しないであろう『何か』だった。

 あまりにも時代錯誤アナクロな体格をした、二足歩行のトカゲのような何か。もっともピンと来る例えは小型の肉食恐竜のそれだが、しかし体表面を覆っているのは鱗ではなく、ツルリと無機質な漆黒の板。直線的なフォルムに、チラリと見えるのは機械的な関節たち。

 間違いない、と彼は確信した。それは現実の生き物でもないし、だからといって人間が作り出した兵器というわけでもない。正体はさっぱり掴めないが、この化け物がこちらを殺そうとしているのだけは分かる。こちらを射抜く緑の眼光が、久遠には何とも禍々しく見えた。

 訳が分からなかった。少なくとも今まで慣れ親しんだ環境では、このような何かに襲われる事などなかった。夢のような出来事だが、しかし夢ではないのだ。

「どっちに、どこに逃げれば……」

 少年は悪態をつきながら、ひたすらに足を動かす。視界の中に浮かぶのは『MIDGAL』によって展開されたARの小型マップ。少年はそれと土地勘を最大限に働かせ、化け物の追跡を振り切ろうと画策していた。……しかし、いくら振り切っても新しい化け物が襲い掛かってくる。あまりの非情さに、怒りを通り越して悲しくなる久遠だった。

 混乱に陥った学校に、突如侵入してきた化け物たち。そいつらの姿を見るや否や、散り散りになって逃げた生徒たち。久遠もその一人である事に間違いはない。だからこうして逃げているのだし、なんとか命からがら生きているのだ。

 もし、あの場で震える足を動かさなければ。

「みんな、俺は、死にたくない……!」

足音を立ててこちらを追いかける化け物たち。そいつらが逃げ遅れたクラスメイトに牙を剥き、食い殺したのをこの眼でしかと見たのだ。何も出来ずに逃げ出した自分が酷く恨めしかったし、だが死んで詫びるなんて殊勝な考えも無かった。故に、彼はコンクリートジャングルを走り回る。

 周りに人影は無い。屍ならば腐るほど横たわっているが、人間の生気はどこを走っても見つかる事は無かった。蔓延しているのは停滞と、死の空気である。

 ふと、マップの方に目が行く。そして同時に、久遠は自分の顔が青ざめるを感じた。

「行き止まり……!?」

 少年が走っていく道の先には、行き止まりが示されている。細い道はおろか、抜け道すら存在しない。極度の緊張で細かな所に目が行かなかった、初歩的で最悪なミス。……止まったら死ぬ、進んだら囲まれる、かといって引き返すのは自殺行為としか言いようがない。絶望しか見えない状況下は、まるで強行される処刑のようだ。

 そして、マップの宣告どおり行き止まりに辿り付く。最近のマップは高性能なようで、民家に囲まれた通路には細い道一本も走っていない。予想通りの結果だが、その無慈悲さに、久遠は思わず地面に膝を付く。

 ふと後ろを振り向けば、追跡者とばっちり眼が合った。どうやら向こうは余裕をかましているようで、こちらに恐怖を与えるようにじりじりと距離を詰めてくる。その時の化け物がしたり顔をかましているようにも見え、久遠は恐怖と同時に怒りが込みあがってくるのを感じた。

(悔しい、悔しい、悔しい! こんな所で終わりたくない!)

 心の中で叫べども、体の震えは声を出すのを許さない。強張り、詰まる喉は声を出そうとも咳き込み、そのうち呼吸も難しくなってくる。

(殺られる……!)

 目の前で開かれる化け物の顎。その奥の闇を見た瞬間、久遠は反射的に目を閉じる。

 化け物の咆哮を聞いて次に耳に入ってきたのは、自分の身がどさりと地面に倒れこむ音――

 いや、違う!

「ふぅ、何とか間に合いましたね。もう大丈夫ですよ」

 心地よい耳触りの、少女らしき声。それを目の前にいた化け物のものと考えるのは土台無理な話であって、つまりは第三者が介入した何よりの証拠。そしてそれを理解した事が、自分が生きている何よりの証拠だった。

 だとしたら、先程の倒れこむ音は一体? 疑問に駆られ、久遠はゆっくりと目を開く。

 ――少女がそこに居た。季節外れの無垢のワンピースを纏い、プラチナブロンドの長髪を靡かせた少女だ。低い身長も相まって、その風貌は良く出来た人形と言われても疑わない程なのだが、彼女が両手に握る『鉄塊を荒々しく整形したような、ギラギラと輝く片刃の大剣』が、可憐な印象をぶち壊しにしている。

 そして、少女の向こう側で倒れ伏しているモノ。それは正しく、先程まで命がけの鬼ごっこを繰り広げた『何か』だった。強靭な顎を横一門に両断され、それは物言わぬ骸になって転がっている。

 その光景は、久遠に多大な安堵と更なる混乱を生み出させることになる。

(何が起きた? この女の子が、あの化け物を殺したのか?)

 目を見開き、久遠はごくりと唾を飲み込む。あまりの展開に頭が付いて行けない。自分が助かったのは事実で、目の前のエネミーが死んでいるのもまた事実で。しかし、この白いワンピースの少女が化け物を屠った、とは到底結び付けられそうにないのだ。

 そんな混乱を知ってか知らずか、白いワンピースの少女は鼻歌を歌いながらこちらの方に振り向く。――彼女の赤い瞳から、眼光が走る幻覚を見た。

「あなたも私も運が良かった。後もう少し遅れていたら、でしたね」

 彼女は軽々と大剣を肩に担ぎながら、こちらの方に手を伸ばしてくる。傷一つ無い、白く、小さな手だった。彼女の末恐ろしい台詞に肩を震わせながら、久遠は恐る恐るその手を取って立ち上がる。

「ありがとう、助かったよ、えっと……あの」

 礼を言おうとしても、唇が振るえ、思考も落ち着かないのでまともな事を喋れない。しどろもどろな久遠を見て少女は小さく笑い、

「まずは落ち着きましょうか。幸い、もう周りにヤツらは居ないですから」

 その声音は、子を諭す母のような優しいものだった。

 耳を澄ましても、人々の悲鳴はもう聞こえなかった。それがどんな意味を持っているのかは考えたくないが、まぁ、そういう事なのだろう。久遠は小さく溜息を吐いて、自分が思っている以上に落ち着きを取り戻した事を知る。

 そしてそれは、向こうの少女にも伝わっているようだ。

「もう、大丈夫そうですね」

 プラチナの長髪を揺らし、少女は久遠に向かってにこやかに声を掛ける。その言葉に久遠は小さく頷き、繋いでいた彼女の手を離した。瞬間、風が吹き、繋いだ手の平が瞬く間に冷やされていき、その感覚に久遠はどこか寂しさを感じた。

「……名前、教えてなかったね。僕は遠野久遠。さっきはありがとう」

「久遠君、ですか。私の名前と似ていますね」

「尋ねても?」

「えぇ、私は『永久』と呼ばれています。苗字はありません、ただの永久です」

 少し驚いた。それは名前が似ていた、という事ではなく、彼女――永久の言う『苗字が無い』という点についてだ。家族が居ないのか、どういう経緯になれば苗字を失うのかは全く想像がつかないが、しかしそこを突き詰めても何の得になるだろう? だから、久遠はただ驚くだけに留めていた。

「確かに似ているね。これも何かの縁なのかな」

「さて、もしかしたら必然かもしれませんよ」

 口元を隠しながら笑う永久の姿は、しかし無理して大人ぶった子供には到底見えなかった。しかし実際の見た目は幼い少女のそれなので、彼女が一体どういう人なのか、久遠にはさっぱりと理解する事が出来ない。まぁ、初対面でどのような人なのか見切りを付ける方が難しいのだろうが。

 そうこう会話をしている内に、久遠は急に背筋が寒くなるのを感じる。それは他でも無い、家族の安否の懸念。今まで自分の事で頭が一杯だったが、その問題が解決した事により、逆に家族への不安が膨らんだのだ。当然彼は居ても立ってもいられなくなり、その姿を訝しんだのだろう、永久は小さく首を傾げて、

「お花摘みですか?」

 その物言いに、久遠は思わず肩を落とした。そして少々のイラつきから彼は頭を掻き、

「違うよ。家族の事が心配になったんだ。……助けてくれてありがとう」

 そう言って、久遠は元来た道へと顔を向ける。MIDGALのマップは健在、家への最短ルートは未だマップ上に赤線で表示されている。道のりは少し長いが、全力疾走すれば、奴らに遭遇する前に家へと辿り着けるかもしれない。彼は頭の中でそう踏んで、足を踏み出そうとする。

 が、それを永久は良しとしなかったようだ。彼女は久遠の袖を掴み、真紅の目で彼を睨みつける。

「馬鹿を言わないで下さい。確かにこの周囲にヤツラはいませんが、今のこの都市の状況で、もう一度路地に身を出すつもりなのですか? 

この近くに、私達の拠点があります。今はそこに身を隠してしのぐのが安全――」

「俺が天涯孤独の身だったら、それも良しだったかもしれないよ。だけど、俺には家族が居る」

 家族からのメールは未だ誰からも送られてこない。その事実が、彼を更に焦らせていた。早く会わなければ、早く行かなければ。そのような言葉が彼の思考を埋め尽くし、そこに蔓延るリスクなんぞ考える暇も無かったのだ。

 だから、彼は。

「――助けてくれてありがとう、そして恩知らずな少年でごめんなさい!」

 彼は走り出した。永久の制止を振り切り、久遠はもう一度走り出す。

 なんと身勝手なのだろう。なんと自己中心的なのだろう。ふと、そんな後悔に駆られる久遠だったが、そんなものは横切る風に吹かせて投げ捨てた。

「あぁもう、馬鹿ですね貴方は! 行動に移すほど意思が堅いなら、私を説き伏せる事も出来るでしょうに!」

 ふと、隣から声が聞こえた。永久の怒鳴り声だ。幼いその声音で怒鳴られても別段怖くはないが、その小さな手に握られた鉄塊の大剣はおぞましい事この上ない。それを両手で引きずるように持ちながら、久遠に余裕綽々で併走できるというのだから、一体この少女は何で出来ているのだろう? そう、久遠は思わずにはいられなかった。

 そして、同時に感謝の気持ちも湧き立ってくる。

「……放っといても良かったんだけど。もっと、助けを求める人はいるだろう?」

「どうせ、もう助けるべき人は誰もいませんよ。……進行ルートは任せます、なるべく楽な道を頼みますよ」

「了解。けど、ナビの自信は無いんだけどね」

 少年達はコンクリートを駆ける。静寂の海に沈んだ、東京の一角を少年達は走っていく。

 人が倒れていた。傷は無かった。けど心臓は止まっていた。死んでいた。……『化け物』に食い殺された、ただそれだけ。何回も見た光景だ。もう、いちいち反応してはいられない。

 地獄と言うには静かすぎる。久遠はそう思った。人の屍がそこら中にあるというのに、周囲からは悲鳴の一つも聞こえはしない。

交 通機関だって麻痺しているのだ。これを形容するなら、時が止まったという他はないだろう。その中で自分は時が動いているのだから、気持ち悪い事この上ない。……だが、それでも動きを止める訳には行かないのだ。

 駅を見た。ビル街を見た。住宅街を見た。全て時が止まっていた。人の生きている気配など何処にも無かった。

 久遠はどうしてか泣きたくなった。だが一向に涙は流れ落ちてこない。滑稽な顔を浮かべながら、ただ家へ向かって走るだけ。その様子を見ていたのか、並走する永久がぷっ、と噴き出す。

「全く、酷い顔ですよ、久遠君。いきなりどうしたんですか?」

「分かんないよ、永久さん。一体どうして、涙を流せないのかが分からないんだ」

「……良い事じゃありませんか。今、泣いてしまったら前が見えなくなりますよ」

 少し経ってから、そうだな、と久遠は釈然としないように呟いた。そしてどうやら、その複雑な心境は永久にも伝わったらしい。

「納得できませんか?」

「泣けるときに泣け、と母さんから教わったからね。それが今までの常識だった」

「もう、常識なんて何処にもありませんよ。空の色も、そして――道行く人の容姿も、ね」

 その言葉が何を意味しているのか、久遠はすぐに悟った。悟ってしまった。

 化け物がそこにいた。無機質な黒を湛えた体表面を持つ、時代錯誤のトカゲが二体。そいつらの赤い眼光を見た瞬間、久遠の背中に悪寒が走る。先程の決死の鬼ごっこを思い出す。

 だが、その恐怖は隣の少女にも伝わっていたようで。

「安心してください。このために私がいるのですから」

 きっぱりと言い切ったその言葉は、その姿にそぐわない戦士としての風格を備えていた。

 鉄塊の大剣を構え、化け物たちを強く睨みつける永久。その瞳はあくまで冷静さを湛えており、盤上を眺める軍師のようにも見える。後ろから眺めているだけに留まっている久遠も、一寸先も未来が想像出来ない事に恐れを感じながら、しかしいつでも行動を起こせるように身構えていた。それだけしか、彼に出来る事は無い。

 冷たい汗が久遠の頬を伝う。この場で一番死に近いのは自分だと、彼自身も認識していた。音を立てて唾を飲み込み、目線を二匹の化け物に強く注ぐ。――時間にしてほんの一瞬の均衡。その停滞を打ち壊したのは化け物達の方だった。

 この世のものとは思えない、酷く不快な金切り声を上げて、化け物の片割れがこちらに飛び掛ってくる。その動きはいつぞやか見た肉食獣のそれであり、しなやかで素早い。

「ちっ、まだそっちが動くには早いのに……!」

 そう永久は舌打ちしながら、大剣の面の部分で化け物を迎え撃つ。俊敏な動きを見せるトカゲだが、永久はそれを確実に捉え、的確に横薙ぎの殴打をお見舞いした。その衝撃でトカゲは元居た場所へと吹っ飛ばされ、ズドンと派手な接地音を立てる。

 彼女は小さく舌を打ち、

「時間稼ぎは十数秒……久遠君、聞いてください。

 と言っても単純に、私が合図をしたら、前方に思いっきり走ってください。そして化け物が向かってきても、決して立ち止まらないように」

「な、何を言って……!」

 久遠の困惑の言葉は、驚愕で塗りつぶされた。既に化け物が一体、再びこちらに向かってきている。どうやら、うだうだ言っている暇は無いらしい。

「さぁ、久遠君」

 いつの間にか大剣を抜刀術のように構えていた永久が、こちらに小さく目配せをする。お互いに言葉を掛ける余裕は無い。久遠も小さく頷き、ただひたすらに彼女の合図を待つ。

 そして、化け物がこちらに肉薄し、その強靭な顎でこちらに喰らい付かんとした時――

「――走って!」

 永久の大剣が横一文字を描く。荒く、それでいて研ぎ澄まされた一閃は、大きく開かれた化け物の顎をいとも容易く砕き、そして真っ二つに切り裂いた。返り血なんてモノは吹き出ない。断末魔なんてものも挙げてこない。真っ二つになった化け物はそのまま地面に倒れこみ、只々粒子となって消えていくだけだった。

 そして、それだけで彼女が止まるはずも無い。永久の『合図』を聞き、走り出した久遠は後ろを振り返る事もなく、それでも背後から死神の殺気が迫るのを感じた。

 前方の化け物が唸りを上げて迫ってくる。それでも不思議と、恐れは感じない。 

 彼女の殺気に傍からでも当てられてしまった以上、化け物の金切り声など犬の吼え声程度にしか聞こえないのだ。

「あはっ」

 どこからか聞こえてくる、少女の小さな笑い声。間違いない。永久のものだ。彼女は鉄塊の大剣を引き摺るように両手で持ち、久遠をあっという間に追い越す。常識では考えられない程のスピードのそれは、最早跳躍と言うべきだろう。彼女は燕のように大地を駆け、

「――死ね」

 冷たい一言と同時に、その鉄塊の大剣を逆袈裟に振り上げる。弧月の軌道を描く剣閃は、堅牢に見える黒色の体表面に強くぶつかり、酷く耳障りな音を立てた後にその体表面を両断した。

そして空間に残るのは、元は化け物だった緑色の粒子。風に流され消えていくそれは、あまりにも呆気ない、そして確かな死の形だった。

 滑る形で地面に着地し、荒々しい音を立てて静止する永久。先程の彼女とは似ても似つかない、表情に浮かぶ獰猛な笑顔は、威嚇かそれとも素のものか。その答えを久遠は悟る事が出来ないが、どちらにしても恐ろしい物なのには変わりないだろう。久遠は引き攣った笑みを浮かべ、

「素晴らしい腕前だね。その笑顔も素敵だ」

「好きこそ物の上手なれ、ですよ。久遠君」

 当たり障りのない称賛に、永久は笑みを浮かべたままだった。

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