Log.1「Invitation」

Act1

 

 それはまだ、空が清浄だった時の事。そして誰もが忘れる事の無い、世界が電子の海に沈んだ日。桜が完全に散り、空気が湿り始めた頃の話。

 穏やかな日差しに包まれた、東京郊外のとある高校。北鷹高等学校と銘打たれたその校舎の教室一角に、遠野久遠は居た。昼休みの時間、クラスの殆どの人が学生食堂か中庭などで寛ぐ中、彼は教室で昼食を済ませる少数の内の一人である。

 弁当を机に広げながら、彼はふらふらと脇の空間で手を遊ばせていた。過去の感覚で見れば不審者扱いされる事は間違いないだろうが、今となっては当然の光景だ。扱っているものが他人には見えないのだから、必然的に手は宙を漂う形になる。

「……あれっ、見つからない。確かここら辺のストレージに入れといたのに……」

 そうぶつぶつと呟きながら、久遠はせわしなく右手を動かし続ける。しかしどうも、彼の探す物は中々見つからない。――久遠の視界に映るのは一枚のディスプレイ。宙に浮き、重さも厚みも質量も感じない、奇妙としか言いようのない電子のディスプレイ。

 彼の目にしか映らないそれには、様々な書類の詰まったファイルがずらりと並んで整頓されている。そのファイルを片っ端から展開して、そして目当ての物が見つからずにそっと閉じる。その行動を何度も繰り返し、彼は遂に重く溜息を吐いてしまった。

「ん、どうした久遠? MIDGALの不調か?」

 そう後ろから声を掛けられた事に気付き、久遠は宙に展開したディスプレイを手元まで下ろしながら、ゆっくりと席を後ろに向ける。そこに居たのは、黒色の髪を寝癖で跳ねさせたしかめっ面の少年。どうやら声を掛けてきたのは、後ろの席に座っていた久遠の友人だったみたいだ。

「そんな訳じゃないよ、真壁。……そのしかめっ面は相変わらずだね」

「ほっとけ、もう直らんよ。もう癖みたいなもんだ」

 真壁はさも当然のように呟き、久遠と同じように宙に手を遊ばせる。きっと、彼も電子のディスプレイを扱っているのだろう。ただ、こちらにはそのディスプレイは見えないのだが。

 ……MIDGALと呼ばれたデバイス。それこそ、この世界の現実と仮想現実の境界を曖昧にした元凶とも呼べるもの。数十年前に発案された『Google Glass』を始めとする、AR拡張現実の技術を全面的に取り入れた身体着用型コンピュータのハイエンドモデル。その機能にはARだけではなくVR仮想現実の技術も組み込まれており、ユーザーの展開速度はそれまでの情報端末機器、スマートフォンやタブレットPCを瞬く間に駆逐してしまう程だった。

 種類は様々にあるが、一般的に使われるのはCPUとディスプレイが一体となった眼鏡型と、CPUとディスプレイを分離して同期させるコンタクトレンズ型の二つだけ。しかし最近になってからは、コンタクトレンズ型の方が主流になってきたように感じる。現に、久遠も真壁も、コンタクトレンズ型のMIDGALを身に付けていた。

「しかし、このタイプはいかんな。いざ使うとなると目が疲れて仕方が無い」

 真壁は溜息を吐きながら手を下ろし、左手で眉間を揉み解す。その時の彼の表情はいつにも増してしかめ面で、半分はその機器のせいではないかと久遠が勘ぐってしまう程だ。

「ま、君は元から目が疲れやすいらしいしね。視力に気をつけて」

「この前、少し落ちたばかりなんだよ……」

 どうやら、彼の心配は少しばかり遅かったらしい。気遣いが遅い自分に苦笑しながら、久遠は自分の物探しを再開する事にした。ARで構築されたディスプレイをなぞると、それに応じてディスプレイがスクロールし、様々な文字の羅列が上へ下へと流れていく。……しかし、その中にも彼の求めるデータは存在しない。

「さっきからどうした、久遠? お前こそしかめ面が酷いぞ」

「いや、技術の宿題のデータをここら辺に入れといた筈なんだけど…… まさか消えた訳でもないだろうしなぁ」

「おいおい、技術の授業は次の時間だぞ? 宿題のデータはコピー出来ないように細工されているんだ、見つけないとまずいぞ」

「分かってるよ、うーん…… やっぱり一度、データの整理をしなきゃだなぁ」

 ごちゃごちゃになったファイルの集まりを眺めると、自然とそのような考えが浮かんでくるのは人として当然の事。それを実行に移す移さないは別として、久遠はスケジュールにその旨を書き込んでおく事を心に決めた。

 向こうから、真壁の事を呼ぶ声が聞こえる。男子生徒、真壁の友人だろう。リーダーシップを持ち合わせて面倒見の良い彼は、色々と交友関係も広いそうだ。

「まぁ、ご愁傷様だな」

「まだ見つからないとは決まってないよ」

「はは、どうだか」

 去っていく彼の後姿を一瞥して、ARのディスプレイをスクロールする。目的の文書は見つからず、もう一度ディスプレイをスクロールする。指の動きを感知して、親機にデータを送信する指輪型のセンサーが、少し暗く光っていた。

「ん……?」

 その時、久遠は小さな疑問に駆られた。見たことも無い名前のファイルが、勝手にディスプレイ上に映っていたのだ。『 』と言う、ぱっと見れば無題のファイル。しかしこのようなファイルを久遠は製作した覚えも無いし、ネット上からダウンロードした覚えも無い。となったら一体、このファイルはどこから来たのだろう? ……その疑問を、久遠が考える事はなかった。

「寝ぼけて、このファイルの中にぶち込んじゃったのかな?」

 そう思い、久遠は何気無く出所不明のファイルを展開する。それはコンピューターを扱う上では恐ろしく危険な行為なのだが、焦りから来る縋りに、もう久遠はなりふり構っていられなかったのだ。疑わしきは調べろ、という言葉があるように。

 しかし、展開されたファイルの中には、小さな文書媒体が入っているだけだった。タイトルからして探している物とは似ても似つかない文書。久遠は落胆し、それでも一応と言う事で文書を開く。

 その中に書かれていたのは、本当に短い文章。

――どうして貴方達は、私達を愛してくれないの?

「えっ?」

 久遠は小さく声を漏らし、絶句した。その文章が語りかけてきたのだ。比喩ではなく、実際の声として。MIDGALに付属された片耳イヤホン、そこから突然流れてきた若い女性の声に聞き覚えは無く、一体これはどうした事かと久遠は混乱するばかりだ。

「おい、久遠。お前、今なんか言ったか?」

 後ろの席に座る真壁が、久遠の方を向いて疑問の声を漏らす。その困惑の表情と、彼の言葉から察するに、どうやら真壁にも今の声が聞こえたらしい。……もし、あの不明のファイルに音声が封入されているのだとしたら、本来聞こえるのは久遠一人だけの筈。どういう事かと久遠は再度混乱し、不安感から辺りを見回す。

 その瞬間、聞こえたのは先程と同じ声。

 ――だれも、私の問いに答えてはくれない!

「なっ……!?」

 少女の叫びが、小さな世界に満ちた。教室に居る生徒の多くが痛々しい叫びに耳を塞ぎ、呻き、地面に蹲る。久遠もその一人だ。反射的に片耳のイヤホンを外し、地面に投げ捨てながら頭を抑えた。

 ――それでも、少女の号哭は止まらない。

 もう、その少女の声は声になっていなかった。子供が泣き叫ぶように、その声も意味を成さない音の塊となって周囲に響いていく。……MIDGALを通した音声だった筈、何故イヤホンを付けていても声が聞こえるのか。そのような疑問を考えているほど、今の久遠に余裕は無い。

「何だよ、これっ! 頭、痛ぁ……!」

 久遠は強く歯を食いしばり、獣のように低く唸った。まるで麻縄で頭を縛られているようだ。突如襲ってきた激痛に思考もままならず、目の前すらぼやけてくる。

「おい、空が!」

 誰かが、そのような言葉を叫んだ。朧気な思考で掴んだその声は驚愕に満ちており、尋常で無い事が起きている、というのが察せられる。久遠は頭を抑えながら、その『尋常で無い事が起きている』であろう空に、目を向けた。

「あ、あ……!」

 雲一つ無いスカイブルーの空が、深い海色に塗り替えられていく。まるで津波に飲み込まれる大地のように空が侵食され、太陽が空の蒼に溺れてその身をくねらせていた。まるで、水底から空を仰ぎ見たように。……気が付いたら、頭痛は治まっていた。悲鳴もぷつりと途絶え、意識は大分はっきりしている。

 MIDGALの電源を落とそう。そう、久遠は真っ先に思った。もしこれがAR、もしくはVRエンジンの故障だとしたら、電源さえ落としてしまえば空は元通りの色に戻る筈なのだ。こんな異様な光景を、いつまでも見ていたいとは思わない。

「ははは……たちの悪い冗談だな?」

 そんな希望は、儚く散った。

 デバイスの電源を落としても、コンタクトレンズ型のディスプレイを外しても、たゆたう海色は無くならない。空は既に染まり、そのあり方を完全に変えている。

 何故かは分からない。頭がおかしくなってしまったのかもしれない。でも、これが夢でない事だけは確かなのだ。

 この地表は、完全に海の底に沈んでしまった。

 

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