3日目 「乗船簿」
3日目 「乗船簿」
翌日の朝早く、弘は目が覚めると、純子を起こさないようにそっと体を外に寄せてベッドを出た。静かに服を着替え、リビングに行き、書棚に収めた「船乗りシンドバッドの物語」を小脇に抱えて玄関を出た。外は雲が少しあるが快晴に近く、朝日が眩しい光を放っていた。こんな日のダイは、
「今日は散歩日和だ!」
といった感じで、弘が握るリードを元気よくぐいぐい引っ張って、渚公園へ向かったものだ。元気いっぱいのダイは、公園に足を踏み入れると、まるでスーパスターがコンサートのステージに登壇するかのようにさらに元気よくリードを引っ張り、他の仲間の犬たちに歓迎の挨拶に向かうのだった。彼は挨拶の後、嬉々として周囲を駆け回り、時折は息を切らせながらも、陽気に散歩を楽しんでいた。周囲に目を配り、
「いつもおやつをくれるおあばちゃんが、今日はいるのかな? かわいい彼女は来ているのかな?」
という気持ちがリードを通じて弘にしっかりと伝わってくる。しかし、今はダイが亡くなり、相棒なしで一人で公園へ行く自分が、なぜか自分が他人のようで不思議な感覚だった。
角を曲がり、あとは直線の一本道となり渚公園の入り口が見える。あともう少しだと、弘は本をぐっと握りしめ、早足になった。顔を上げると、この先に誰かが入り口で立っていることに気づいた。白いワンピース姿の若い女性だ。どこかで見たような…。突然、弘は鳥肌が立った。彼女だ! ターミナル駅通りにいたあの若い女性ではないか。弘が「船乗りシンドバッドの物語」を300円で購入した謎の女性だ。
彼女はすっと立ったまま微動だにせず、力なくうつむいている。同じくボードも首から下げている。近づくにつれてボードにくっきりと書かれた文字が見えてきた。
「乗船受付」
彼女の足元には大きな黒い鞄が地面に置かれている。弘はなぜ彼女がここにいるのか全く理解できず、彼女の前で思わず立ち止まってしまった。何と話せばよいのだろうか? 二人の間に何とも言えない気まずい沈黙が漂った。その瞬間、彼女はゆっくりと顔を上げて目を開けた。虚無的な目から一気に目力が強まり、何らかの強い意思表示のオーラが感じられる。そして、彼女は弘に向かって透き通るような声を発した。
「お待ちしていました」
「え?」
弘はなぜ彼女がここにいるのか分からず、冷たい汗が背中を流れるのを感じた。
「あのー、なぜ、あなたはここにいるのですか?」
「ここは、あなたの夢の特異点です」
「え?」
「乗船簿を見せていただけますか?」
「乗船簿?」
「お渡したシンドバッドの本を見せてください」
そう言うと、彼女は弘が握りしめていた本に手を伸ばした。手が本に触れると、その瞬間指にピリッとした痛みが走った。思わず指の力を抜くと、彼女はそのまま本を取り上げて無造作に開いた。その開いたページには、弘が愛犬ダイと再会したいと夢を書き綴った箇所だ。彼女は視線を手元の本に落とした。実際には数秒だが、弘にはその間の時間が永久に止まっているように長く感じた。彼女は確認が終わったかのように、本を開いたままゆっくりと弘に返した。
「あなたの夢が乗船簿に記されています。この渚公園に隣接する海岸の沖合に停泊している帆船があります。もう間もなく乗船できます。ここから先はシンドバッドがあなたを導きます」
弘は思わぬ成り行きに動転して、彼女の言っている意味が飲み込めなかった。彼女が戻した本には、弘が万年筆で書き込んだ夢の願いと、昨日貼った写真が見えた。いや、待てよ! この写真には・・・純子の足が写っていないぞ。純子の足元にいたダイだけが写っている! 純子の足は写っていたはずなのに、なぜか写真からは消えてしまっている。なぜだ? 純子は無事に家にいるのだろうか? この信じ難い事実を前に頭が真っ白になった。
これを察した彼女は弘を落ち着かせるかのように弘に話した。
「あなたの奥様にも間もなく逢えます」
「・・・」
弘は何とも言えない恐怖が胸に広がるのを感じた。自分の身に何か大きな変化が訪れることを予感し、背中に冷たい汗がさらに流れだした。雲で覆われていた太陽が突然顔を出して眩しい。強烈な日差しで周りが白く見える。このまま、何も言わずに急いで家に帰ろうと思った瞬間、公園の海側の遠くから手を大きく振りながらこちらへ向かってくる人の姿が見えた。真夏の日差しが逆光となりよく見えない。弘は足がすくみ動けなかった。その人物は日に焼けた大柄な男でゆっくりと近づいてきた。白いワンピース姿の女性はボードを地面に下ろし、弘に向き直り、静かに彼に告げた。
「心配することはありませんよ。間もなく第8の航海が始まります」
そう言うと彼女は謎の男の方へ振り向いた。金縛り状態の弘は彼女を見つめるだけで返す言葉がなかった。そして、その男が近づいて来る。運命の航海が始まる瞬間に弘は立ち尽くしていた。
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