1日目 「モノクロ」

1日目 「モノクロ」


 300円を見えないように握りしめて、その女性に近づいた。頭上の立体歩道橋の影が顔に重なり、彼女の顔の特徴がはっきりしない。彼女の前に立ち、意を決して声を出すが、顔を見ても全く無視されているので話しづらい。


「あのー・・・」


 女性は何も返事を返さない。通り過ぎる人々の視線が気になり、恥ずかしい思いが頭をよぎる。弘の問いかけにも関わらず無表情で顔色一つ変えない。あまりにも無反応のため、自分を否定されているみたいだ。次の会話をどう繋げようかと一抹の不安を感じた。落ち着こう。いや、そうは言っても、どうしても冷静になれないぞ。そうだ、この状況を受け入れて、単刀直入に夢を300円で購入する質問をしてみるのがいいだろう。


「このボードに書かれている、『あなたの夢』って、この私の夢のことですか?」

「そうです」


 彼女の短く、素っ気ない声は、周囲のざわめきとは対照的に、どこか不気味なクールさが際立つ。


「私の夢を300円で買えるのですか?」

「はい」

「えっ?」


 そんなバカな! 夢は叶わないから夢であって、たったの300円で夢が叶えられるはずなどない。しかし、その瞬間、うつろだった彼女の目はどこか確信めいたものに変化したように見えた。彼女の目の焦点がいつの間にか定まっている。


 なんてこった、どうすればいいんだろう。なんとか会話を続けなければ。そうだ、とにかく夢の話を具体的に進めてみよう。


「うーん、夢ってのは何だろうね。光り輝くもの、それが人それぞれの夢なんじゃないかな。それに、夢は美しい色をしているイメージがあるよね?」

「色は、時が経てば、いつしか消えてモノクロになります」

「えっ?」


 その予想外の哲学的な返答に、弘は戸惑いを隠せなかった。


「で、でも、夢ってのは形があるはずだよね?」


 と続けた。彼女の目が向けられ、弘を鋭く見つめているように感じられた。


「はい・・・、形となるあなたの夢は何ですか?」


 弘は、ここへ来るまでに愛犬ダイの思い出に浸っていたため、すぐに答えることができた。ダイはミニチュアダックスフンドだ。その中でもブリンドルワイヤーという犬種で、毛は太く、鋼のように硬く縮れ、藪に触れても毛は引っ掛からず抜けない。巣穴にいるアナグマを狩る小さな狩猟犬だ。毛並みは虎のような縞目がある。昼の陽射しの角度によって、縞目が綺麗に浮び上がってくるのが自慢だった。大きな声でよく吠え、気が強く、喧嘩っ早い奴だったが、喧嘩はからっきし弱かった。でも、冒険好きで何にでも興味を示す存在感のある愉快な犬だった。


「ミニチュアダックスを飼っていたんだ。去年、亡くなったんだけど。もう一度逢って、家族と一緒に暮らすことかな・・・」


 女性は黙っている。感情が伝わってこない。人間ではなく、まるでアンドロイドのように思えた。弘は沈黙に耐えきれず、


「300円で、その夢を買えるのですか?」

「はい」


 この短い返事には、内心驚きを隠せなかったが、ここで会話の終わりが見えた。躊躇せず握っていた金を差し出し、


「じゃあ、買います」

「ありがとうございます」


 女性はあっさりと返答し、金を受け取ると首から吊るしていたボードを地面に下ろし、しゃがみこんだ。彼女の足元には、大きな黒い鞄が置かれていた。彼女は鞄の中に手をごそごそ突っ込んで何かを取り出す様子だった。そして、突然、すっと立ち上がり、弘の方に向き直った。彼女は両手で本を挟むように持ち、弘に差し出してきた。


「あなたの夢がここにあります。もうじき、第8の航海が始まります」


 第8の航海? 言っている意味が分からず本を受け取ると、その古びた本の表紙には「船乗りシンドバッドの物語」という本のタイトルが読めた。何だこれは? 第8の航海と弘の夢に一体どんな関係があるのだと驚いた。女性が占い師とは思えず、周囲の視線が気になりこれ以上の会話は難しいと感じた。ただ、手にした本の存在が、彼の興味を引き込んだ。船乗りシンドバッドの物語・・・どうしてこんな本が、自分の夢に関わることになるのだろう?


 思わず買ってしまった恥ずかしさを振り切るように、弘は本を受け取ったお礼も言わずに、急足でその場を離れた。しかし、押し寄せる疑問と不思議な感覚はなお残っていた。第8の航海? 違う、シンドバッドの航海は7度目で終わっている。その古びた本を手に握りしめ一度落ち着こうと、彼はどこか静かなカフェに向かうことに決めた。道すがら、彼は本のタイトルを何度も繰り返し呟きながら、その謎めいた出来事に思いを馳せていた。


 カフェに入り、落ち着いた場所で本を開いた。古い紙のページをめくる音が、静寂を切り裂いた。しかし、その最初に開いたページには文字が一切なかった。ただの白いページが目に飛び込んできた。驚きと共に、弘はざっくりと真ん中のページを開いた。そこにも何もなく、その空白のページをじっと見つめるしかなかった。無言のまま、この不思議な本の存在について自分に問い正した。どのページにも何も書かれていない。ただ、船乗りシンドバッドの物語という文字だけが表紙と背表紙のみにあるだけだ。


「これが、俺の夢の答え・・・?」


 弘は静かに本を閉じ、店の窓を通して外の景色を見つめた。先ほどの彼女は本当に実在していたのだろうか? その目に映るものが、現実なのか、それとも夢なのか、今や区別がつかなくなっていた。同時に、彼の心には未知の不安と、謎めいた出来事への疑問が交錯していた。でも、なぜか何かを期待している自分に気づくのだった。

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