第21話 フクロウたちの涙
ドアに鍵を差し込んだその時私の身体は震えはじめた。ドアを閉め、保安装置を解除する私の口から嗚咽が漏れる。仕事部屋に直行した私は崩れるように椅子に腰を落とした。もういい。ここなら誰にも見られない。絶望が涙と共に噴き出した。机に肘をつき、顔を覆って号泣した。
私はブライダルチェックの結果を聞きに産婦人科を訪れた。彼に要求されたわけじゃない。六年ほど前にも受けたけれど、今の自分が元気な子供を産める安心が欲しかった。初老の担当医は真面目な顔で私に告げた。問題になる病気は一切ない。が、子宮に少し問題がある。妊娠しにくいかもしれないと。
前に受けたときはなにも言われなかった。検査技術が進歩したのか。それとも十年以上セックスしなかったから?
私は避妊してもらえなかった。でも大丈夫だったのは三回だけだったから? それとも妊娠が難しい身体だったから? 思い出したくないけれど思い出せ。最初のレイプの時は……その後呼び出しされて生理を理由に断った。しつこく呼び出されて、諦めて行ったらまた無理矢理。
パソコンを立ち上げながら更に記憶を辿る。そう、終わって四日か五日経ってからだ。検索ウィンドウに『妊娠可能時期』と入力してエンターを叩く。
自分の生理周期と平均生理日数を入力する。表示された二ヶ月分のカレンダーに呻き声が出た。生理が終わって数日の安全日があり、その後は危険日が続く。生理終了後四日か五日経つと危険日そのもの。
うろたえながらページの説明を読んだ。卵子は一日、精子は三日ほどの寿命だそうだ。生理日数を前後一日ずらして再計算すると危険日は変わる。でも精子は活動中。
車でレイプされたときは……危険日ど真ん中だ。古い忌わしい記憶だけど、生理を心待ちにした当時の記憶は確か。
優さんと始めてセックスしたあの日は? あの二日だけは避妊しなかった。ああ、安全日だ。医師は言葉を濁したんだ。私を絶望させないように。
不意に肩に手を置かれて私は飛び上がった。涼音が心配気に私の顔を覗き込んでいる。外は真っ暗だ。
「声かけても気付いてくれないから……どうした、祥子」
彼女に相談していいのか。彼女だって今問題を抱えている。私の躊躇いに涼音が気付いてしまった。
「私でよければ、話してみない?」
頷いた拍子に涙が零れた。屈み込んだ涼音が私の両手を握ってくれる。その温もりが私の自制を壊してしまった。
優しく私の手をさすり続けてくれた涼音に励まされて、私は何とか話し終えた。
「セカンド・オピニオンを受けなきゃ。それに絶対産めないと言われたわけじゃないよ。決めつけちゃ駄目。子供は神様からの授かり物なんだから」
「でも、彼も子供欲しがっているし、私も……」
始めて彼とセックスしたあの日の会話を話した。彼は避妊の用意がないからと躊躇した。でも彼の子供を産みたいからと御願いした私に、もし生理が止まったら直ぐに入籍しようと彼は言ってくれて、そして……結婚時期と誕生日の差に子供が気付いて悩まない為に今は避妊している。けれど私は。
「よく聞いて、祥子」
私を見上げる目は真剣だ。そして労りに溢れている。
「先ずはセカンド・オピニオン、そして彼と相談。違うかな」
そうだね、そうだよね。
二週間後、別の病院に私は結果を聞きにいった。
「同じだった」
涼音が一瞬無表情になった。必死に言葉を探しているのがはっきり解る。
「絶対出来ないって言われたの?」
そうは言われなかった。けど、もしもの時はって不妊治療の説明を。つまりそれは……。
「結論を急いじゃ駄目だよ。彼とよく話し合って……私もいるからさ」
暖かい言葉に私は泣きたい気持で頷いた。
でも考えれば考えるほど、私の辿り着く結論は……。
作業室で真剣に作業する彼を、開けたままのドア越しに見詰める。アルミ粉入の特殊エポキシ接着剤を塗った灰色のストックに、剥離剤を塗った銃の機関部を慎重に収めた。続いて弾倉穴前と用心金後ろの二カ所に太いネジをこれまた慎重に締め込んでいく。ベディングという作業で、機関部とストックのがたつきを限りなくゼロとして命中精度を上げる作業だそうだ。脇からはみ出した接着剤を綿棒で注意深く排除する彼の横顔を私は脳に焼きつける。接着剤が半分固まったら繰り返すので、彼は今夜仮眠以上は無理らしい。合体したライフル銃を万力で挟んだまま安置した彼は石鹸で丁寧に手を洗い、ペーパータオルで水気を拭き取った。
大好きな笑顔を浮かべた彼が椅子に座る。
「お待たせ。二時間空いたよ、足りるかな」
大丈夫と応えつつコーヒーカップを渡す。
「有り難う。それで?」
微かに緊張している声だ。心が疼いた。
「話の前に確認したいことがあるの。いい? あのね、子供欲しいよね」
頷いた彼がテーブルの上の煙草を指さして首を傾げて見せた。ううん、禁煙じゃない。
「なんだろう」
ずっと考えた私が辿り着いた答えは簡単だった。
「えとね……別の人を探して」
声が震える。頭は氷を詰められたように冷え切っている。
彼は目を瞬き、なにか言おうとした。でも言葉はでなかった。ごめんね。
「私、あなたが大好き。大好きだから今言わないと駄目なの。病院で調べて貰った。病院を変えて検査しても、妊娠は難しいって言われた」
冷え切った頭に心臓の鼓動だけが大きく響く。ちゃんと伝えないと。
「私、来年三十だよ。二軒目の病院で早めに不妊治療を始めるべきかもって言われた。男女とも高齢になると子供に影響が出る確率が上がるからって。でも治療しても解らないのが現実だって……」
深呼吸をした彼が口を開いた。
「難しいと出来ないは違うよね」
「解っているよ、でも出来なかったらどうするの? 責められるのは嫌」
彼の顔が強張った。言っちゃいけないことを言ってしまった。彼が大きく深呼吸する。覚悟した。
「よく聞いて。私は責めないし、不妊治療を強要もしない。約束する。子供が欲しくて君を選んだんじゃない。純粋に愛したからだ」
予想と正反対の落ち着いた声。私の大好きな声。でも何故そんな事を言うの。
「でも子供が欲しいんでしょう? さっきもそう言ったよ」
沈痛な表情で黙り込んだ彼に心が冷えた。もう取り消しは効かない。言葉は弾丸と同じ。放ったら相手を破壊するだけだ。でも、どっちもどっちだよね。
「あなたを愛してくれる若くて健康な人を探して。いっぱい考えた私の結論」
ゆっくり首を横に振る彼に苛立った。なぜ解ってくれないの!
「違──」
「私、あなたに逢えて、心を通じ合わせて嬉しかった! あなたには本当に感謝している。御願いだから私の気持ちもわかって! あなたに憎まれたくない!」
彼は駐車場まで来てくれた。窓を開けて彼を見上げる。
「ありが――」
私は最後まで言えなかった。彼の目に盛り上がった涙を見たから。
唇を引き締めてアクセルを踏む。
これが一番いいんだ。彼が不幸になるのは嫌だ。私は十分彼に与えて貰った。その思い出と共に私は生きていく。
信号待ちで煙草に火を付けた。禁煙の準備をしていたけど、もう無意味。フクロウが刻まれたジッポをポケットに収めたが手を離せない。彼はどうするのだろう。また北海道のどこかに眠らせるのかな。シャングリラなら私……。
窓越しに五月晴れの空を見詰めていた私は、後続車のクラクションで我に返った。ジッポとともにハンドルを握る。
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