第20話 支え合い
湯気を吹き上げる鍋を挟んで座った涼音は、口を挟まずそして真剣に私の話を聞いてくれる。大学時代、この手の話題は大の苦手だった私なのに。いろいろとかわったなと感慨深く思いつつ私は話を終えた。
「いろいろおめでとう、乾杯!」
相好を崩して喜んでくれる涼音に頭を下げた。私のせめてもの贖罪。これで済むとは思わないけど。
「涼音の励ましのおかげ。本当に有り難う」
涼音が手をひらひらと振った。彼の真似らしい。
「だからこのライターの出番か」
照れ笑いしながら頷いた。大事に仕舞っていたフクロウのジッポだ。あ、でもそろそろ禁煙しなくちゃ。彼も一緒に止めてくれると言ってくれたんだよ。
「かーっ! まじ幸せ者だなあ。禁煙ならアドバイスできるよ」
頼りにしてます。
「水炊き食べよ? で、まずは同棲、それとも早速?」
将来の話を二人ではじめたけど、どちらも家を離れられない。そう話すと涼音が頷いた。
「最初は通い婚でいいんじゃない。二人とも一人暮らしの生活リズムが出来ているからさ、すぐに同居するとぶつかるかもしれない。時間をかけて更に理解と愛を深めると」
ふむ、通い妻か。二人の時間を少しずつ増やしながら愛し合って、そして子供が生まれたら……いいかも。
「怪しく笑いながら呟きおって。この幸せ者!」
腕を伸ばした涼音が私の頬を突く。顔が熱いけど、早く言っておかなきゃ。
「あのね、もしかすると赤ちゃんがね。だからお酒は控えめにするけど、勘弁ね」
「ほーっ!」
発音そのままで口を開いたまま涼音が私を見詰める。思わず目を逸らした。
「彼は準備してないからって言ったんだけど。でも私はあの夜じゃなきゃ……今思い返すと、彼の覚悟を探ったみたいでよくなかった」
「そんなことないよ。ある意味一番自然でしょ。覚悟がないならセックスしちゃいけないよ。そう高校時代の私を説教したいね」
耳まで熱い。でもこれからはちゃんとする。
水炊きを突く涼音が私に笑いかけた。
「よかったね、そういう人に巡り会えて。んじゃ普通の四倍に薄めるよ」
そうしてくれる? ゴメンね。
「かまへん、かまへん! では早速。栄養とりながら待っててね」
気軽に席を立った彼女は通りざま私の肩を軽く叩いた。その感触はとても暖かかった。
キッチンから戻った彼女は妙な形の土瓶と小さな杯を二つテーブルに置いた。空飛ぶ円盤にグリップと注ぎ口を付けたような黒光りする土瓶。ジョカという芋焼酎専用のお燗用具だそうな。最近凝り出したらしい。
思ったより香りも口当たりもいい。気に入った。でももしかするともしかするから気を付けなきゃ。
水炊きを元気に平らげる彼女がそうそう、と声を上げる。
「さっきの話、この家をシェアするのはどうよ」
きょとんとした私に涼音は自分の鼻を指さした。
「私が立候補しようかなってね。丁度引っ越しを考えていたんだ」
「分譲マンションなのに……近隣とトラブルとか?」
「トラブルだけど、お隣さんとかじゃなくてね。男」
最後の一言を吐き捨てるように言った涼音に私は思わず目を瞬いた。
「ぶちまけていい?」
私でよかったら。優さんにも絶対話さない。
「友よ!」
堅く握られた手を激しく振られる。私は泣きそうになった。
「一昨年から付き合った男が実は既婚でさ……ううん、知らなかったんだ。結婚前提にって本人が言っていたから、当然独身なんだと。でもね」
芋焼酎を手酌でやりながら彼女は話し始めた。私も適当に杯に口を付けつつ相槌だけで聞き終えたが、なんと言っていいか解らなくなった。
要約すると、取引先の男に結婚前提で付き合ってくれと申し込まれて付き合いが始まった。去年の春、匿名電話で相手は既婚で子供もいると知らされた。激怒した涼音は別れを宣言したけれど、男が涼音の会社にまで押し掛けた。愛人になれと言われていると知った涼音の上役も激怒し、相手の会社も巻き込んでの大騒動になっている。今もしつこくマンションに押し掛けてくるので極秘裏に転居したい、会社も辞職しなくてはならないだろうと。
第三者の私こそ冷静にならなければと思うのだけど。
「ごめんね、こんな話しちゃって」
大きく杯を呷った涼音がうな垂れる。私は焼酎のお燗を理由に席を立った。もう一度考えよう。冷静に。
作業を始めた私に声が掛かる。極弱火のガスで直に暖めるんだよ、ミネラルウォーターと焼酎を半々にするのが普通だから焼酎一の水四だよと。手間の掛かるお酒で助かる。
熱燗を付ける間にいくつか気付いた点を戻ってから聞いてみる。
「梅雨頃に家電の番号を変えたよね。それが理由?」
「うん。最初はコード抜いていたけど、携帯に集中攻撃されてさ」
「携帯の番号を変えたのも?」
「そ! 一日にメール三桁近く。着信受信拒否したら、公衆電話や会社からからばんばん。仕事しろっての!」
涼音がうちに泊まることが多くなった時期と合致する。
夏に彼女が吐き捨てるように言った言葉。あの時なんで気付かなかったんだ。
「まさか会社に特攻されるとは……いや、私が甘かった」
淋しげに笑う涼音に胸が切り裂かれるような痛みを覚えた。
「ごめん……ごめんね、涼音」
堪えようとしたけれど、駄目だった。彼女はシグナルを発していたのに、私は。
「なんで泣くんだよ、祥子」
大変だった涼音に相談ばかり持ちかけて。私は何も気づけなかった。情けない。
「ごめん。本当にごめん……私、あなたに甘えてばかりだ」
席を立った涼音が背後から私を抱きしめる。
「いいんだって。友達なんだから」
号泣した。辛かった。
冷えた肴を突くが口に運ぶ気分じゃない。喉を通るのは熱燗だけだ。よし。
「ここに引っ越して、直ぐに。ご両親に挨拶に行くよ」
役所と勤務先には実家を転居先にすればいい。後はそいつが会社にいるときに私が監督して引っ越し作業しよう。
「ほんと? いいの?」
「当たり前でしょ。私だって涼音の役に立ちたいよ」
「ありがとう、祥子……ありがとう」
泣くより呑みなさい。仕事を辞めるとしたらいつ?
「ケリを付けてから。会社が弁護士手配してくれてね、明日私も一緒に向こうの会社に行くんだ。一応こっちが上位だし」
ああ、仕事も絡むとなれば。うん、徹底的に叩き潰してやりなさい。結婚詐欺しておいて愛人なんてとんでもない。あ、そうだ。
「証拠は残ってるんだよね」
涼音が大きく頷いた。携帯とパソコンのメールをバックアップして、音声ファイルもあると。
「後で知ったんだけど御曹司だったのさ。さっきの愛人うんぬんは、役員秘書に雇ってやるって意味」
はあ?!
「祖父が会長、親父が社長、奴は次期取締役確定の部長。正確に言えば別姓だけどマスオさん」
私も涼音も連続で杯を干した。全然酔えないのは薄いからだけじゃないだろう。私は兎も角涼音は、と未使用の急須にミネラルウォーターを注ぎ、電子レンジであたためて焼酎を注ぎ込んだ。基準値濃度のそれを涼音に渡す。
「すまないね。ありがと」
おちょこに注いで早速呷る涼音にもう一杯注いだ。
「もしかして、会長も社長も似たもの同士?」
涼音が首を横に振った。結構堅い人だとか。なる程、馬鹿が暴走している訳か。それにしても無茶が過ぎる。会社を巻込んでどうなる?
「個人的には奴を潰したい。けど、あの会社の代替がなくてさ。私の上司は徹底抗戦を主張して経営陣と対立始めちゃったし。困った」
そうか、その立場を最大限利用しようとする馬鹿に、涼音の上司は増長するなと!
上司さんの気持ちは解る。涼音は有能だ。入社当時受付に配属されそうになったけれど、学校成績と研修中の飛び抜けた企画力と行動力を評価されて対外交渉部とかいう第一線の部門に引き抜かれ、二十七歳で課長補佐に抜擢された出世頭だ。猫を被らずに仕事に励む涼音は部下にも人気がある。以前渋谷で呑んだとき、偶然離れたテーブルに彼女の部下がいた。微妙な距離感で挨拶した彼等に彼女はボトルを二本差し入れてこう言った。「失敗しないと勉強できないこともあるさ。めげてる暇はないよ。楽しく呑んで、憂さはトイレで吐き出しちゃえ。」彼等の盛り上がりは凄かった。怒った張本人が私だからさ、と舌を出した彼女は笑ったっけ。
「気に入っている仕事なのに……」
溜息を吐いた涼音が急須を傾けるが空だ。
二人してキッチンに。私は目刺しを焼き始める。相手にも相応のペナルティを科すべきだ。それが認められないのなら、女の立場……いや、それも涼音の会社も動く理由かも。
私用となったジョカに手を当ててお燗の塩梅を探る涼音を邪魔しないように黙考を続ける。会社にとって落としどころは? 馬鹿の会社に身の程を再確認させて、涼音の誇りもそれなりに、かな。
目刺しを頭からボリボリ囓る涼音が「わたの苦みが美味い」と笑う。そのサッパリした笑顔に少し安堵した。
「慰謝料で貰ったマンションだからさ、潔く売り払って再スタートしようと思うんだ。親もそうしちゃえって納得だし」
「お金は大事にしなよ。翌年税金どっさり掛かるし。あ、家賃なんていらないから」
「駄目だよ、ちゃんと払う」
「ううん、家の維持を涼音にも手伝って貰うから相殺。どう?」
尻尾まで口に押し込んだ涼音が考え込んだ。急須から芳香をあげる液体をぐい飲みに注いでやる。リフォームは済ませたから当座の用はないけど、こう言わないと納得しないだろう。
一口啜った涼音が首を横に振った。
「有り難いけど、甘え過ぎはよくないよ」
友達でしょ、いいの。
「せめて光熱費とかは私に持たせてよ。頼むよ」
「確定申告がややこしくなるもん。絶対いや。勘弁してよ」
面倒で毎年ぎりぎりまで放置プレイする。会社でやってくれる涼音がいつも羨ましかった。目を瞬いている涼音に微笑みかける。何変な顔してるの。あなたも自分でやることになるんだよ。
「それより引っ越しの作戦立てないと。感づかれたら元も子もない」
「うーん、夜逃げじゃ駄目かなあ」
「それが一番だよね。でも居抜きで買う人なんていないでしょ。手伝うからやろう。住民票は実家に移したけれど実際の新住所は極秘だ、と公言すればご両親に迷惑掛からないでしょ。大きな荷物は実家に預かってもらうか、思い切って処理しちゃうか」
「処分する。使える物があったら言って。親にもそうしてもらう」
近日ご両親と打ち合わせしよう。今夜からうちに泊まりなよ。
「すまないねえ」
「あ、そうだ。会社から帰るとき、ストレートにここに来ちゃ駄目だよ。尾行されたらやばい」
「解った。慎重に行動する。はあ、安心したらお腹減った」
「うどん入れようね。沢山食べてよ」
濡れた肩を海風がなぶる。遙か下で断崖に打ち寄せる波の音、湯船に流れ込むお湯の音そして微かな風の音を楽しむ私は涼音の溜息を聞き取った。
「いいなあ……生きているねえ」
心に響く呟きだね、と笑うと彼女も微笑み返した。でも、どことなく寂しそうな横顔。立ち上がった涼音は湯船を形作る岩に腰掛けた。彼女の身体から立ち上る湯気は一瞬で風に吹き消される。
「お湯ってこんなに暖かかったんだなとか、祥子がいてくれてよかったとか、太陽ってあんなに大きかったっけとか。なんだろね、しみじみ感じる」
思わず涼音の裸体を頭の先から湯の中のつま先までじろじろと見る。
「急になに。まさか不治の病でとかいわないでよ」
「二十二世紀をこの目で見るつもり。バイクで来たからかな……ほら、走り出すと何も話せないからさ、ずっと祥子の背中を見て走ったんだ。何を考えているのかなと思いながらね」
身体についた水滴を紅く輝かせる涼音がいつもに増して綺麗に見えた。タオルから零れた髪の毛が首に張り付いた様は、女の私が見てもセクシーだ。私も彼女の横に腰掛けた。でもどこも隠さない。彼が褒めてくれたから。
「車と全然違うよね。走り出したら一人。音楽も会話もない。でも愉しい」
二度大きく頷いた涼音が笑顔になった。
「それが凄く新鮮。次に止まるところでこれを話そう、あれも話そうと思うんだけど、どうでもよくなっちゃって。きっと祥子もマッシーも同じような事を感じたはずだからって」
「確かに。別々に走っているのになぜか一緒なんだよ」
「不思議な感覚。なんていうか……ええと」
彼の背中を見詰めて走ったあの日を私は思い出した。
「近寄りすぎず、離れすぎず?」
「それ! 素敵な距離感なんだよね。走るにつれてどんどんそう感じてくる。マッシーが後ろにいてくれるのも安心出来たし」
解るよ。言葉は大事。でもそれだけじゃない。一番大事なのは傍にいてくれることなんだろうな。
「……ねえ、祥子。本当にいいのかな」
彼女の問いかけの意味が掴めず首を傾げた私に、涼音は言いにくそうに口を開いた。
「祥子は彼との時間を大事にしなくちゃ。私、邪魔だよね。祥子の家に転がり込んでごめん。今更気付いてごめん」
声を震わせはじめた涼音に思い切り首を振った。
「私はあなたも彼も好き。どっちが大事なんてない。片方だけなんて選べないよ。馬鹿なこと言わないで!」
「……ありがとう。でも、彼はそう思わないかも」
私達に気を遣って身を引く積もり?
「彼は一切そんな話はしないよ。今夜聞いてごらんよ」
「え? そんな……私には無理だよ、聞けないよ」
俯いた涼音の睫が震えている。少し安心した。涼音は私達と一緒にいたいんだ。でももしかしたらと思って怯えている。気遣いの人だから。
「じゃあ、私が水を向けてみるよ。ほら、そんな顔しない」
自然と彼女の頬に触れた。彼への思いとは少し違う愛おしさ。他に人がいない事に感謝した。涼音が私の右手を両手で包む。見つめ合った。
男湯から微かな鼻歌が聞こえる。彼も一人きりらしい。でも声を掛ける気はない。今は涼音と私の時間。私が涼音を支える時だ。
「風邪引いちゃうよ」
お湯に浸かり、二人肩を寄せ合って夕陽を眺める。涼音が肩に頭をもたせ掛けてきた。私も彼女の頭に。
涼音の引越祝いツーリングだ。伊豆松崎の旅館に入った私たちは、賑やかに飲みつつ山海の幸に箸を延ばし笑い合う。私も普通に呑んでいる。あの日、私はナプキンをあてながら少し残念にも思い、それに気付いて幸せだった。窓の外で揺らめく湯気は家族露天風呂の湯けむり。広々とした和室の畳は真新しい。
「桜も綺麗だったし、美味しい食事に美味しいお酒。生きているって実感するね」
元気を取り戻した涼音は忙しく箸を動かし杯を空けている。
「そして温泉三昧。最高だよ」
私も合いの手をいれた。彼と親友と一緒に食べる料理は最高に美味しい。片付けも無用だし。
「あの断崖絶壁のお風呂も素敵だった。そうだ、伊豆って混浴露天あるの?」
最近の彼女は混浴露天に興味津々だ。
「平六地蔵風呂が近いね。広くて立派な風呂だよ。熱めのお湯がどばどば注がれているんだ」
「やたっ! 徒歩何分?」
涼音が熱い視線を彼と私にむける。ウィンクされてはたと気付いた。
「車で二十分ほどかな。だけど飲酒運転は駄目だし、冬期は閉鎖されてるはずだよ?」
引っかかった! 私の番だ。
「この部屋に露天風呂があるじゃない」
「ですねだよね。よーし、三人で入ろう!」
にんまりと涼音が笑い、彼は手をぱたぱた振った。
「二人で入りなよ。私は遠慮する」
涼音が私にちらりと視線を送った。オッケー、釣り上げようね。
「三人で入ろうよ。明かりを消せば問題なし!」
彼の目に微かな狼狽が走る。涼音だって恥ずかしいんだぞ。
「カムイワッカで真っ昼間、男女で入ったってどこぞの熊殺しは言ったよね」
伝説となった知床の滝壺温泉を涼音が引き合いに出した。
「赤の他人だと真っ昼間でも構わない。でも友達とは夜でも嫌って変だよ」
ね、と二人して狼狽する彼に微笑みかける。
私たちがガラス戸を引き開けると、彼は背中を向けて湯船の一番端にいた。二人揃ってかけ湯をし、髪の毛を纏めたタオルを押さえながら湯に浸かる。個室露天は狭いところが多いけれど、ここのは足を伸ばして寛げるし胸のうえまでちゃんと浸かれる。家族露天風呂付個室謳うならこうでなきゃ。昔匿名取材で訪れた宿のそれは庭に埋め込まれたFRP製の金魚池。思わずフロントに電話をして確かめたっけ。写真を見た編集部も絶句して……没になった。
「ええと、こっち向いていいよ」
涼音の口調に微かな緊張を聞き取った。図々しいと思われがちな涼音だけど、本性は違う。恥ずかしいと思うなら恥じ入る。計算して思ってもいない感情を演じて見せ、相手の気を引こうとは絶対しない。
私も声を掛けてようやく彼は横向きになった。まあよしとしよう。
満月に近い月夜だ。眼が慣れ始めた今は十分明るい。
「紳士だなあ。そこも祥子の高評価ポイントでしょ」
思わず照れ笑いした。欠点もある。なかなか心中を明かしてくれない。自分で問題を抱え込んで解決するタイプの人だ。
「……恥ずかしがり屋なだけだよ」
「祥子と二人っきりで入りたかったよね……ごめん」
胸に痛みを覚えた。私が口を開く前に彼が話し始める。
「そんなことないよ。どういったらいいかな」
言葉を切った彼は少しして私達に身体を正対させた。揺れる水面に反射する月明かりで、彼の表情ははっきり解る。
「三人でツーリングできて、一緒に風呂にも。楽しいし嬉しいよ」
穏やかな目で私達を見る彼がゆっくり続けた。
「余り人に心を開けなくてね。学校を卒業して数年経つと友人だったはずの人の顔も忘れちまう。人と接するのも正直苦手なんだ。何かの障害かと悩んだ時期もあった」
氷とビール瓶を入れた洗い桶に彼が手を伸ばす。グラスを私達に手渡した際、彼の中心が見えた。
「前の仕事でお客だった人と町中で顔を合わせても、名前と顔が一致しない。懐かしそうに挨拶されても……仕事を超えた付き合いをした人は大丈夫だけど」
グラスをゆっくり飲み干した彼が手酌で注いだ。泡立つグラスを見詰めて黙り込む。
自動車ディーラー勤務当時は営業が辛かったと聞いた。その一方、千台以上を販売したとも聞いている。思い込んでいるだけじゃないのかな。そういえば、お見舞いに来た友人は一人きりだったっけ。高校大学を通じての親友だと紹介された。
「多分、心を開けた相手だけに付き合いを限定しちゃうんだ。友達は船長の他に一人だけだった。ほら、見舞いに来てくれた下山。その下山がバイク仲間と飲むから来いよと誘ってくれても行く気にならない」
今迄を回想してみれば、人付き合いが悪いとは思えない。そう思い込んでいるだけだ。でも今、私が口を挟んじゃいけない。
「私と下山の飲み会に、彼の知り合いが来るのは全然気にならない。人の輪に自分が入ると思うと駄目なんだ。無理して知り合いにならなくてもいいやと思っちまう。今の若い世代とは正反対なんだ」
常時人と接していないと辛い、寂しいと悩むタイプと正反対。事務所で一日誰とも会わず籠もっていても苦にならないと以前聞いたっけ。
私は? あのトラブルで多くの友達との縁が切れた。今は涼音と彼しか心を開ける相手はいない。でも寂しくない。顔見知りを友達だと錯覚していたのかな。
彼が涼音を真っ直ぐ見詰めた。涼音から緊張が伝わってくる。
「スズさんは気取らない人だ。そして距離を置いて私に接してくれる。最初から絶妙な距離感でね。とても居心地がいい。安心出来る。だから心を開ける。スズさんは船長や下山と同じ」
よかった、私の大事な友達を受け入れてくれていた。安堵してグラスを干した。涼音も一気に飲み干した。彼が私達に注いでくれる。
「今もとても気分がいいよ。心を許せる人と一緒に風呂。大事な、そして素敵な時間だよ」
「これからも三人一緒でいいよね」
「是非そうして。僕達は友達……親友だよ」
「有り難う、マッシー、祥子」
睫を震わせる涼音が絞り出すように呟いた。
「スズさんが祥子さんと一緒に暮らしてくれて私も嬉しいし安心できるんだ」
引っ越しについて彼はなにも聞かなかった。教えてくれれば手伝ったのにと言っただけ。それも大事な距離感なんだ。
「二人とも姉妹以上に仲がいい。私が割り込んで申し訳ない……」
あ、そうは思わないで。
「涼音とは支え合う仲なの。これからもそれは変わらないよ」
「でも、私と祥子さんが……影響しないかな」
困った。涼音の次は彼だ。彼も気を遣いすぎている。ここでうやむやにしたら後々大きな問題になりそうだ。さて困った。
「そっちは意識していなかった。けど確かにそうかな」
ふむ、と考え込んだ涼音に私は当惑し、少し腹が立った。
考え込んだ涼音がひょいとグラスを突き出すと彼は無言で注いだ。それをちびちび飲んでいた涼音が、一気に残りを飲み干した。
「お兄。うん、それがいい」
「はい?」
彼と私から同じ言葉が飛び出した。
笑顔で涼音が説明する。涼音の立ち位置が微妙になっている。三者三様でそれに気付いているから涼音は軽々しく振る舞えない。でもそれは肩が凝る。だから涼音は兄として彼と接すればいいだろうと。
「冴えてるね」
肩を叩くと彼女は満足げに笑う。彼も納得顔だ。彼女はあらかじめこの答えを用意していたのではと気付いた。流石だ。
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