第19話 吐露

 冬の終わりを告げる風が吹き抜ける中庭を、私と彼は二人寄り添って散歩する。三月になった東京は春の息吹に満ちている。先月までは屋内に籠もっていた入院者も、この陽気に誘われてそぞろ歩きを楽しんでいる。私が差し入れたガウンを着た彼もゆっくりと足を進める。必要ないかも知れないけれど私は彼の左腕を支える。経過は順調だ。もうすぐ退院できる。

 彼が赤い花を咲かせる椿の前で足を止めた。

「メジロがいるよ。ほら、あの透き通った鳴き声。椿の蜜を吸いに来たんだね」

 耳を澄ませると、短いが風音に負けない綺麗な声が。何度も繰り返される声を頼りに小鳥を探し当てた。目の周りに白い縁取りがある可愛い鳥だ。なるほど、メジロだ。

「メジロの鳴き真似が親父は得意でね。庭に来たメジロに呼びかけるとメジロが鳴き返したよ」

「鳴き真似ってどうやるの?」

「口笛だよ。私も練習したけど上手く出来なかった」

 彼が数回口笛を吹く。……ああ、お世辞にも似ているとは。肉厚の葉を茂らせた枝の間を飛び回る小さな姿も全く反応しない。

「この程度だよ。親父のは聞き分けできないほど似ていたのにね」

 彼の話にはお父様が度々登場する。かなり影響を受けた様子だ。自然に興味を持つようになったのも、お父様が小さい頃から彼を山に連れて行ったからだそうだ。

「猫の鳴き真似だけは自信があるよ。自称海老名猫又」

 今度は真に迫っていた。思わず褒めると盛りの猫の真似を始める。雄猫の決闘シーンをありありと再現する彼に私は笑いが止まらない。ベンチで携帯を操作していた娘さんも肩を震わせている。

 喘ぎながら彼を見上げる。髭を剃った彼はとても凜々しい。剃ったのは私。こんな凜々しい人が盛り猫を……どうにも笑いが止まらない。この人が私の大事な人。病院での一幕が私たちの距離を縮めてくれた。

 完全看護なので私に出来る事は皆無。それが不満だった。彼の役に立ちたかった。手始めはひげ剃り。彼はカミソリに拘っていた。でも右手を負傷している。なので私が名乗りを上げた。熱いタオルで顔を蒸しながら石鹸を泡立て、安全カミソリで丁寧に剃る。サッパリしたと喜ぶ笑顔がとても嬉しかった。

 その次は尿瓶の世話。彼は抵抗したけれど、私は首を横に振った。恥ずかしかっただけで嫌悪感は全く覚えなかった。蒸らしタオルで後始末すると反応する。顔を赤らめた彼を真っ直ぐに見詰める事が出来た。二人揃って照れ笑いしたあの時、多分私達は恋人になった。なぜならその後見舞いに来た友人に私を恋人だと紹介してくれたから。それはつまり……しみじみと幸せを実感した。

 でも彼が起き上がれるようになって二人だけの儀式は終わってしまった。入浴の手伝いもしたかったが、それは許可されなかった。ならば、と私は密かに決意した。


 帰宅した彼は事務所に籠もった。私が彼のパソコンを操作して臨時休業のお知らせとお詫びをホームページにアップしてあったけど、それでも結構なメールが届いていた。キーボードを操作する彼の右手がミスタッチを繰り返す。それに気付いて私は少し落ち込んだ。

 見るに忍びなく、私は居住区に上がった。今夜は涼音も呼んでの退院祝い。ダイニングテーブルを見て胸が痛んだ。二人は許してくれたけど、私の罪の意識は消えてはいない。償わなくちゃと思うけれど、どうしたらいいのか解らない。

 ささやかな宴会はタクシーの到着で幕が下りた。「勇気を出して」と囁いて乗車した涼音に、私は小さく頷いた。

 ほんの少しビールを飲んだだけなのに、ずっと禁酒を続けていた私達は驚くほどアルコールが廻った。二人でお茶をお代わりして休む間に身体のほてりは収まった。でも、胸の鼓動が徐々に高まる。

「祥子さん、先にお風呂に入ってよ」

 心臓が大きく跳ねた。涼音の囁きが頭の中で反響する。

 さりげなく首を振ると彼が私を見詰める。鼓動が痛いほどになった。

「い……ええと、一緒に入りましょ」

 何度も一人でリハーサルしていたのに、最初で躓いた。

「もう一人で入れるよ」

 首を横に振る。強く、そして大きく。ああ、顔が火照る。怪訝な顔で私を見詰める彼が小憎らしい。ああ、もう。

「病院ではやってもらっていたでしょ。でも、私……私は、その。私だって」

 声は徐々に小さくなるのに、火照りは増していく。看護師さんにさせたなら私にもさせて、と言いたいんだけど言えない。私はへたれだ。それも極度の。

 沈黙が怖い。

「お願いしようかな」

 躊躇していた彼が恥ずかしそうに微笑んだ。

 彼の背後で脱衣を手伝う。生々しい傷跡が残る裸体を晒した彼は、浴室の照明を付けずにドアを閉じた。

 深呼吸しながら私も脱ぐ。洗面所の鏡に映る姿に不安が募る。脱いだパンツを手にして躊躇った。かけ湯代わりのシャワーの音が聞こえる。早く行かないと。下着を脱衣の上に置いて、もう一度深呼吸する。私の裸体を見た彼は失望するかも。

 願ったところで今更バストが嵩を増すわけはない。

 覚悟を決め、湯気が立ちこめる浴室に足を踏み入れた。胸が苦しい。洗面所の灯が彼の背中をおぼろに照らしている。

「先に暖まる? それとも身体を流してから?」

 心配していたほど声が上ずらなかった。よし、この調子で。

「ええと……先に洗いたいかな」

 振り返らずに彼は答えた。

 椅子に腰掛けた彼の背後でナイロンタオルを泡立てる。でもナイロンタオルは肌によくない……思いついて泡を手に取り、掌で洗う。彼がくすぐったそうに身を捩るけれど、宥めつつ泡を作っては背中を洗う。まだ生々しい傷跡は一層丁寧に。

 前は自分で洗うと遠慮されたが、なだめすかして背中から手を回した。

 洗うにつれて私の胸が彼の背中に密着する。私の胸の高鳴りを知られるのが恥ずかしい。暗がりに慣れた今、彼のたくましい裸体がはっきり見える。大雪の露天風呂で彼の全てを見たのに、今は兎に角恥ずかしい。でも彼の胸も激しく鼓動している。

「あの露天風呂以来だね」

 恥ずかしさを紛らわせようと話しかけた瞬間、彼の下腹部を覆ったタオルが私の手に当たった。病院で馴れたはずなのに、私は恥ずかしさに震えた。

「また行こうね」

 彼の返事は少し上ずっていた。私だけが恥ずかしがっているわけじゃないと知って少し落ち着いた。

 無心に手を動かすうちに彼が身を捩った。

「ごめん、痛かった?」

「あ、いや……その逆」

 その一言に息が詰まった。

「ごめん……あとは自分で洗うよ」

 慌てて頭を振る。ちがう。

「いいの、気にしないで。一度石鹸流そうね」

 石鹸を流してから身体の向きを変えてもらい、タオルを取りのけて足を洗う。目を瞑っている彼の顔と身体をちらちら見つつ私は手を動かす。

 不思議だ。嫌悪感はない。愛おしくも恥ずかしい。看護師さんの入浴介護は仕事。私は彼が愛おしいから、彼といつも一緒にいたいから。

「もしかして病院でもこうなっちゃったの」

 目を瞑ったまま小さく頷いた彼に一瞬私は腹を立てた。

「……正直に言うとね、考えを変えたんだ」

 彼の脚を太腿に乗せて足の指を洗う私は眉を寄せた。それってどういう。

「君が洗ってくれているって考えるようにして、開き直った。そう考えないとやりきれなかった」

 そう。それならいい。

 足をシャワーで流し、もう一度泡を作る。

今彼が見ているのは私だけ。始めて愛おしいと思った人。ずっと一緒にいたい人。彼の全てが愛おしい。苦しいほど心臓が鼓動している。でもそれが心地いい。

 手首を押さえられて我に返った。息が荒い彼が首を横に振る。何でこの人はこうまで……泣きたくなる気持を堪えて彼の目を見詰めた。

「あなたを愛してるの」

 自然と唇から飛び出した。見詰め返す彼の唇が震えるのを私は見た。

「愛してる、祥子」

 切ない痛みが胸に走り、彼の顔がぼやけた。

 彼の手が私の肩に触れ、背中に回る。抱き締められた。

 軽く触れた彼の唇。私は目を閉じてその温もりと柔らかさに集中する。徐々に深く激しくなるキスに私も応えた。後頭部から全身に痺れが走る。

 彼の首に両手を回し、私は幸せに酔った。


 ふんわりと目覚めた。彼は私の上体を抱え込むように腕を回し、静かに寝息を立てている。包み込まれる温もり。私は目を瞑った。愛おしい。素肌に感じる彼の温もりも、臭いもすべてが愛おしい。満ち足りた気分で私は彼の胸に頬を当てた。

 彼は優しく導いて私の怯えを取り払ってくれた。声に出さず泣きながら私は全てを委ねた。

 不感症でなくてよかった。そうだったのかもしれないけれど、彼が変えてくれた。愛しさがこみ上げ、私は頬を擦りつける。彼の鼓動がはっきり聞こえる。

 と、私の奥底に妙な感覚が生じた。なんだろうとそれに意識を集中させる。

 徐々に強まるそれは疼き。私は彼を欲している。耳まで赤くなった。

 私は彼のために何が出来るんだろう。

 彼が安らげる家庭を、喜んでもらえる食事を。そして二人の確かな証として……子供を。もしかしたら今すでに。そうならとても──。

「おはよう、祥子」

 目を細めている彼に慌てた。恋人となって迎えた初めての朝なのに。

「おはよう……あなた」

 言ってから赤面した。また聞かれちゃったかもしれない。でも彼は微笑んでキスしてくれた。

「綺麗だ……とても」

 思わず身を捩る。私みたいな不細工に何故そんな嘘を。

「私なんて」

 私の髪を撫でる彼がゆっくりと頭を振った。

「自己評価が過大な人も困るけど、過小評価はよくないよ。祥子は凄く綺麗だ」

 お世辞を言っているとはおもえない彼の目。信じていいの? 本当なの? 

 彼は暖かい微笑みを目に浮かべてくれた。その目を見詰めたいのにぼやけてしまう。それなら、と私は彼にキスをした。優しい応えは緩やかに、そして言葉を伴わずに私に彼の意思を伝えてくる。そして彼の要求を。

 私は考えるのを放棄した。言葉にできない情熱を彼に晒した。


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