第18話 お尻愛の情念

「二人が任意提出したパソコンの履歴もプロバイダーのIPアドレス等も、掲示板のそれと一致しないんだって。相手はプロクシを刺して書き込みしているらしいね」

 プロクシを刺すってなに? そんな食材……いや、書き込みするに串焼きも串揚げも関係ないだろう。全然解らない。ああ、怠い。

 ハンドルを握る伊能さんが滑舌よく話すのを聞きながら、私は眠気を必死に耐えていた。

 ホテル暮らし五日目。寝不足で正直頭が回らない。でも今は伊能さんが横にいてくれるから安心出来る。車内は心地よい温みに満ちている。黙ってくれれば居眠りできるのに。

「というわけで、二人は第一列から外れたみたい。仕事が出来なくなると困るからって大鷹さん、警官に指示してバックアップしたんだって。顧客情報やメールとかね。私は外付けハードディスクに頼っているけど、やっぱりやっとくべきかな。壊れないって保証もないし」

 今日は伊能さんに付き添ってもらって一時帰宅。慌てた私はパソコンも仕事の資料も忘れてしまった。どうせ眠れないなら仕事をしようと回収を彼女に相談した。掲示板のくだらない書き込みは夜間に集中している。犯人は昼間は仕事をしている様子だ。それ故平日昼間なら安全だと伊能さんが判断した。

「大鷹さんも来るよ。警察から預かったものがあってね」

 思わず身体が強張った。先に言ってよ! 会いたくない。

「バックアップに足りない部分があったんだって。そのロムを警察から預かってね。受け渡しが終わったらすぐに帰るから、そんなに緊張しないで」

「なんで私の家で?」

 世田谷警察に直接行けば済むじゃない。もしかして伊能さんが。

「二人とも自分の意思で即日パソコンを提供したの。あの日戻った彼はすぐにノートパソコンを買いに行き、鳳笙さんは会社に行った。その間の昼休みに奴は書き込みした。盗聴器の電波も二人の家まで届かないし……彼と鳳笙さんの略称で書き込んだ点が私は引っかかるんだよね。あなたを揺すぶる目的なんじゃないのかな」

 伊能さんが私をちらりと見た。やっぱり。

「私が相手するから、翠川さんは気にしないで」


 久しぶりの我が家。周囲には警官らしい人は見当たらない。本当にパトロールしているのか疑問だ。「私はここで大鷹さんを待つから、あなたは支度を」と伊能さんは言うけれど、自分の家でも一人で入るのは正直怖い。

 ぐずぐずしていた私に隣家のベランダから奥さんが挨拶してきた。これ幸いと雑談を交わす。天気の話題、そして彼女が呼ぶところのミイちゃんの話題。と、当の猫がブロック塀を歩いてきた。有り難い。時間が稼げる。

 ティッシュを撫でていた私はバイクの排気音に気付いて手を止めた。彼のCBだ。

 やっとの思いで振り返る。今日の彼は革ジャンでなく、ぶ厚い防寒ジャケットとパンツをきている。この場から逃げ出したい気持ちと葛藤する私に、ヘルメットを脱いだ彼が短く挨拶した。口ごもり気味に挨拶を返す、が空気が重い。

 隣家のベランダから降り注ぐ好奇の視線が私の背中に突き刺さる。どうしようと思ったその時、尻尾をぴんとたてたティッシュが彼の足に身体を擦りつけはじめた。

「この子が噂のティッシュ? こんちは、遊びたいのか」

 内心私は驚いた。人懐こい子だけれど、それは顔見知りに限るはず。現に撫でたがった伊能さんには身を巧みにかわして触れさせなかった。なんと、横たわってお腹まで晒している。

「男の人の方がいいのね、この子。大鷹さん、これが預かったロムです」

 声に落胆を滲ませた彼女は、ビジネスバッグから取り出したケースを差し出した。礼と共に受け取った彼は内ポケットにCDロムを収め、すぐにヘルメットに手を伸ばす。私の口が勝手に動いた。

「私が荷物を準備する間、伊能さんとお茶でも」

 彼の背中がぴくりとした。伊能さんが意外そうに私を見詰める。

「怖いんです。そのほうが伊能さんも安心ですよね」

「それもそうね。大鷹さん、よろしければご一緒下さい」

 彼は小さくだけど頷いてくれた。

 尻尾を揺らすティッシュが先頭に立って玄関を潜る。廊下の中程で先頭を歩くティッシュが急に足を止めた。尻尾の毛が逆立つのを見た瞬間、肩を強く叩かれて思わず立ち止まる。無理矢理すり抜けて前に出た彼が真剣な顔で囁く。

「外に出て。急いで!」

 意味がわからずに戸惑う私達を彼は遠慮無く玄関に押しまくる。

「何?」

 私たちを追い越したティッシュが玄関ドアから表に飛び出した。

「違う煙草のにお──」

 彼が急に言葉を切った。背中を押していた掌の感触もきえる。

 振り向くと唇を引き締めた彼の後ろに誰かがいた。

 みたこともない男。私の心臓が飛び跳ねる。

 うなり声をあげた彼は振り向きざまに男の両肘を掴み、相手の顔面に頭突きを入れた。鋭い悲鳴が耳に突き刺さる。伊能さんが私の腕を思い切り引っ張った。

 転げるように外に出た私達を喚き声が追いかける。竦み上がったその時、ガラスが砕け散る凄まじい音が響いた。庭の辺りだ。思わず伊能さんにしがみつく。

 音は一度きりで止んだ。震えながら庭の方角と玄関を交互にみる。と、家の角から作業服姿の男がよろめき出、私たちを認めて足早に近寄ってきた。その顔面は血まみれ。乱れた髪の毛に絡まったガラスの破片が太陽に煌めく。私たちを睨み据えるその目には狂気と殺意が。

 男は赤く染まったナイフを握る右手で血を滴らせる左腕を庇っていた。

 無言で近づく男から目が離せない。伊能さんと抱き合ったまま私はへたり込んだ。腰がだるくなって身動きできない。殺される。

 凄まじい悲鳴が呆然としていた私を覚醒させた。

「強盗! 誰か警察! 強盗!」

 私達の頭上を睨んだ男は歯をむき出して何か喚き、そのまま門に突進して走り去った。振り向くとお隣さんがベランダの柵にしがみついて悲鳴を上げ続けている。助かった。伊能さんも私も震えるだけだ。あの強盗はどうして私の家に……彼はなぜ出てこない!? 

 伊能さんを引き剥がし、這いずるようにして玄関から中を覗き込む。廊下の先に誰かが倒れていた。あの防寒ジャケットは!

「優さん!」

 夢中で彼の傍に行く。ダイニングから彼の所まで、モップで塗りたくったように血の跡が続いている。背中が血に染まった彼の肩を揺すっても反応が無い。怖々と仰向けにすると、ジャケットの裾から流れ出た血が床に広がる。跪いた膝に生暖かさを感じた瞬間、凍り付くような恐怖が全身に走った。

「救急車、救急車を呼んで! 早く!」

 玄関に向けて絶叫した。

 何度叫んだか。私の手が弱々しく握られた。彼がうっすらと目を開いて何か言っている。慌てて口に耳を寄せ、薄紅の泡を吹いた口からの微かな声に聞き入った。

「俺じゃない……スズさんも……裏切らない」

 口から泡が滴り落ち、言葉を切る度に血に塗れた胸の辺りからコーヒーサイフォンのような音がする。それでも彼は必死に話す。泣きながら頷く私の脳裏に船長の言葉が閃いた。

「ごめんなさい! 疑ってごめんなさい!」

 微笑んだように見えた彼はそのまま目を瞑ってしまった。私は泣きわめきながら必死に彼の頬を擦った。


「自宅に逃げ込んだ犯人を確保しました。その際警官が……確保しましたから安心して下さい」

 長いすに腰掛けた私に誰かが話しかける。適当に頷いてやり過ごそう。今はそんなのどうでもいい。

「翠川さんのお友達が来ています。会いますか?」

「友達は……なくしました」

「え。えーとね」

 警官が一瞬戸惑った。

「鳳笙涼音さんって人だけど。知らないの?」

 ああ……。

「では案内させます。私達はこれで」

 制服警官二人と私服警官一人は漸く姿を消した。ドアの向こうは静まりかえっている。

 神に祈っていた私の肩を誰かが軽く叩く。やっとの思いで面を上げる。

「祥子」

 真剣な目の涼音が。来てくれたんだ。でも。

「何で?」

「ニュースで知って、警察にお願いして教えてもらったんだ。大丈夫?」

 横に腰を下ろした涼音が手を握ってくれた。その温もりが私を苦しめる。

「ごめん……涼音、ごめん!」

「いいんだよ。彼はきっと大丈夫。タフな熊殺しだよ。でしょ」

 優しい言葉が胸を抉る。思わず涼音に抱きついた。なんでそんなに優しくしてくれる。私はあなたたちを。あなたたちを!

 抱き締め返されて私の心は壊れた。


 彼はまだ目覚めない。腹部と胸部そして背中を刺され、腸と肺が傷ついた。腸は二カ所を切断縫合、肺も縫合を受けた。右手の指を深く切られ、腱と神経を縫合している。

 薄い布団からのびた二本のドレンチューブが別々のバッグに繋がっている。一つには紅い液体が、もう一つには濃い黄色の液体が溜まっている。血と尿。彼は生きている。頑張っている。巻かれた包帯に血が滲む右手には輸液のチューブが、そして左手中指にもクリップ状の何かが取り付けられている。私は彼の左腕をさすり続ける。無精髭が血色の薄い肌を際立たせてる。

 私のせいで彼は殺されかかった。聴取に来た警官は教えてくれなかったけれど、伊能さんから聞けた。吉兼貴之、四十二歳。私の家から二百メートルほど離れた中層マンションに住む男の部屋で、私の家の盗聴器と周波数が合致する受信装置一式等が発見押収された。パソコンなどに記録された画像と音声も。

 血痕を辿った警官に吉兼は拳銃を発砲して一人を射殺、残り二人にも重軽傷を負わせたが現行犯逮捕された。私への恨みつらみとともに武田淳の名前が愛慕を込めて日誌に綴られていたそうだ。武田淳。私の夫だったあのホモ野郎。

 伊能さんは次のように推理した。吉兼は武田と深い付き合いをしていた。その武田が私と結婚して吉兼は私を憎んだ。武田が刺殺された一件も吉兼が関係していたのでは、と。

「武田を殺した犯人は、吉兼にそそのかされた?」

 思いがけない名前を聞いて混乱した私は、精一杯の当てずっぽうを言ってみた。彼女が首を微かに傾げる。

「武田を殺した下国は、風呂場で西洋カミソリで頸動脈を掻ききって果てた。でも無精髭風の髭を下国は自慢していたそうでね。気になって事務所の髭自慢に聞いたの。そうしたらね、無精髭風はアタッチメントを付けた電動シェーバーでトリミングするのが普通なんだって。ヒゲをある程度伸ばす人はカミソリで縁を整えるわけね。無理心中なのに現場から離れたのも妙な話だよ。刺殺に使ったナイフが部屋にあるのに、わざわざカミソリをつかったし、全裸でシャワー出しっ放しというのもね。犯人が自殺しました、と言われてもいろいろ引っかかる」

「他殺なら全て説明がつく、のかな」

 伊能さんが小さく頷く。

「無理心中だと判断された理由は、武田の恋人の一人だったこと、下国が裏切られたと恨んでいたこと、そして凶器のナイフが下国の部屋で見つかった。だめ押しに下国には防御創が一切無かったから自殺判定された。シャワー浴びているところにカミソリ持った他人が押し入ったら普通抵抗するからね。でも、押し入ったのが下国が好き物心を踊らせる相手で、これから始まるセックスに期待していたら警戒しない。それが吉兼だったとしたら話は繋がる」

 はあ。

「吉兼は復讐を遂げて一度は満足した。でも時間が経つうちに脳内で自分と武田を正当化し、翠川さんを狙い始めたんでしょ。あっさり殺すならナイフでも拳銃でも良かったはず。でもあなたを苦しめぬいてから殺そうとした。結果あなたは助かった」

 淡々と話す彼女に思わず身震いした。

「ええと、下国と吉兼には面識があった? そして武田とそれぞれが関係があった?」

「そう考えるのが単純明快でしょ。武田は女役だったそうだから、下国と吉兼の両方が男役になる。私の推測だとこの点だけおかしい。吉兼が武田を殺し、下国に女役の振りをして近づいて殺したとすれば成立するけどね」

 相関関係を脳内で描いた私は吐き気とめまいに襲われた。

「ですね……私、また疑われるんだ」

 保険金目当ての、ええと、委託殺人?

「それなら警察は喋らないよ。幾ら今回の件で立場が悪くてもね。日記が鍵なんでしょ」

 ほっとした。そしてそんな私自身が嫌になる。そうだ、聞かなくちゃ。

「殺されたお巡りさん、ご家族いらっしゃるんですよね」

 答えは無かった。


 午後遅く、彼が目覚めた。ナースコールを押しつつ彼に呼びかける。

 ぼんやりと天井あたりに視線をさまよわせていた彼だが、やっと私を見てくれた。

「ねえ、解る? 私が解る?」

 彼が小さく頷いた。私をじっと見詰める目から涙が零れる。握りしめた彼の左手に思わず頬ずりした。ああ、神様……。

 医者の質問に、彼は頷いたり首を横に振って応える。痛みを訴えた彼に鎮痛剤の投与間隔が狭められた。

 間もなく彼は眠った。笑顔で部屋を出る医師と看護師に深く頭を下げた。

 私は神様に感謝しつつ、眠る彼に口づけをした。乾いた唇と酸素チューブの感触に胸が疼く。生きている。明日も明後日も私の大事な人は生きる。身体中に満ちていく安堵と愛おしさを噛み締めた。

 でも、お巡りさんとそのご家族は……。


 完全看護の病院なので、彼の意識が戻ってからは居続けは無理だった。家の掃除、サッシの修理そして防犯設備工事が終わるまで涼音のマンションに泊めて貰う。

 修理が終わっても怖かったが、涼音が泊まりに来てくれた。その優しさが胸に痛かった。

 意識が戻って六日後、伊能さんを伴って警察が家に来た。吉兼が自殺したと聞いても驚かない自分に呆れた。

「昨年夏、北海道であなたを襲った四人組の件も立件したいのですが、特定できませんとね。覚えていることを教えて下さい」

 日記の記載は詳細でないらしい。発言に気をつけて、外見とバイクの種類そして東京のナンバープレートだったと思う、とだけ伝えた。

「有り難うございます。大鷹さんも似たり寄ったりな証言でした。その時に届けてくれればねえ」

 黙り込んだ私をちらりと見た伊能さんが口を開いた。

「弁護士の立場から言わせてもらいますけど。警察の事情聴取が酷すぎるからですよ。なんで被害者に根掘り葉掘り聞くんですか。女性ですよ、被害者ですよ。なのにその立場は考慮しない。挙げ句に親告罪だから訴えないと警察は動けないとか」

「いや、今回の件は四人──」

「二人以上の集団強姦は非親告罪ですよね。でもね、市民は恥ずかしさが先に立って届け出を躊躇うの。レイプ犯もそれを知っているから口止めするんですよ!」

 黙り込んだ警官は、四人揃って目の前の茶碗を居心地悪そうに見詰める。

「それで、武田淳の件はどうなったの?」

 煙幕を張ってくれた伊能さんが話を変えた。警官は明らかに安堵する。

「吉兼が二人とも殺したと自供しました。申し立てた理由は支離滅裂でしたけどね」

 吉兼はなんと?

「翠川さんが武田をたぶらかし──」

「アイツから交際も結婚も申し込まれたのに!」

「承知しております。昔担当した者から詳しい事情を聞きました。武田さんは吉兼との関係を続けるつもりで偽装結婚の相手にあなたを選んだ。その意思が吉兼に十分伝わっていなかったんでしょう。それで殺した。無理心中の相手とみられていた下国春正は武田さんの遊び相手でした。吉兼にとっては恋敵だから下国も殺した。それで一旦落ち着いた。

 でもその後新しい恋人が見つからなくて苛立っていたと日記から読み取れます。その苛立ちが武田淳の思い出とダブって、全ての憎しみをあなたに向けた。昨年春頃から付け狙っていた様子です。あなたの家の近所に引っ越したのも春でした」

 溜息が出た。騒動の種を蒔いたのは武田だ。あの馬鹿があっちこっちでホモったから。お前も優さんに謝れ、馬鹿たれ!

「あなたの強姦映像をネットで拡散して貶め、それに絶望してあなたが拳銃自殺する、というシナリオを描いていました。ほら、今度の件でもネットを使いましたよね。違法銃器で自殺することで、社会的にも完全に抹殺する腹だったようですな」

 彼は一言も言っていなかった……彼が処分してくれたんだ。

「でも失敗した。だからあなたの行動をより詳細に監視してネタ探しをし、ネットで中傷した。実に危ないところだった」

 良かったとはとても思えない。

「あの、被害に遭われた方にお詫びしたいのですけど」

「お気持ちだけで十分です。僕達は日々覚悟を決めて勤務していますが家族はね。ご遺族はそっとしてあげて下さい。悲しみが変な方向に向いてしまう事もありますから」

 でも。

「遺族や撃たれた本人が憎むのは吉兼だけ。それがいいんです。お願いします」

 いいたい事は何となく解る。でも、それでいいの? 

 肩を叩かれた。伊能さんが私を見詰めて頷いている。でも私は割り切れない。


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