第17話 孤独

 ソファに腰掛けた編集長と担当の飯田さんに私は和やかにお茶を差し出す。が、私の笑顔は作り笑いだ。私如きの家に編集長が足を運ぶ。絶対神が玉座から降りて市井のボロ家を訪問するのに等しい。絶対あり得ない。二人の笑顔が私に覚悟しろと囁いている。

 好評だからと枠を与えられ、私は自然保護問題の追加記事を三回書いた。それに対する評価は高かったはず。私はミスをしたのだろうか。スポンサーからクレームがついたか。だとしたら思いつく企業は……。

 お盆を抱えてソファに座った私に斉條さんが微笑みかける。

「そんなに身構えないで。今日の話は個人的なものだから」

 無理だ。有能で隙の無い美人の微笑みほど怖いものはない。それに部下を引き連れて個人的なって。よし、「え? そんなに緊張してみえますか」と和やかに笑って返すぞ。

「すみません。よくないお話のようですので、緊張してしまって」

 く……!

「私一人でとも思ったのだけど、飯田にも勉強になるからね。彼は空気よ、空気」

 飯田さんが斉條さんの脇で屈託無く頷きながら微笑む。揉めずにライターを切り捨てる実践講座か。そりゃいい機会でしょう。ああ、終わった。

「回りくどいのは苦手です。どうぞばっさり」

 お世話になった編集部を相手に、みっともない真似はしたくない。

「早まらないで。ちょっと指導に来ただけよ」

 やっぱり私はなにかやらかしてしまったんだ。

「このお茶美味しい。飯田君もいただきなさい」

 百グラム六八〇円税別です。

「あなたの記事、二回目の記事が載ってから急に妙な反応が出てね」

 斉條さんの目から微笑みが消えた。来た。

「どこかからクレームが?」

「まあね。でも記事絡みじゃないんだな」

 記事に対するクレームじゃないのに、編集部に?

「あなたの私生活を弾劾する内容のね」

 私の私生活? あのストレス発散を誰かに見られたか。でもアレなら奇人変人くらいでは。小学生とかが偶然見て怯え、親が編集部に怒鳴り込んだかな。

 考え込む私を余所に斉條さんはブリーフケースからフォルダーを取り出した。そして飯田さんに頷く。音楽プレーヤーを取り出した彼はイヤフォンを耳に装着した。斉條さんがスイッチを入れ、ボリュームを弄る。シャカシャカ音が私にも聞こえるほどになった。

「これでよしと。これが編集部に来た手紙のコピー。オリジナルは社で保管している。一通り読んで」

 テーブル越しに手渡されたそれを、少し躊躇しつつ受け取った。嫌な予感が胸を締め付ける。

 フォルダーをテーブルに置く私の手は震えていた。誰がこんな事を。何故!

「その告発は本当?」

 斉條さんに話す必要あるの? でも編集部に届いた手紙だし……深呼吸してから口を開いた。

「二つは本当です。私が同性愛者と結婚したこと。それと……性交渉が出来ないことは」

 悔し涙が零れた。なんでこんなことを。

 飯田さんは私から顔を背けたが、斉條さんは少し身を乗り出した。

「他の指摘二つは知らない、関知しないんだね」

 頷くしか出来なかった。保険金殺人に売名行為。

「保険金殺人の元容疑者と書いてある」

 歯ぎしりする私を斉條さんは瞬きせずに見詰めている。

「離婚届を出したその朝、事件を知りました。届けを終えて区役所を出たとき、警官が来たので同行しました。三日聴取を受けましたけれど、夜はビジネスホテルに宿泊していました。解放されても警察からはなにも説明は……保険会社はスムーズに保険金を支払いましたし、向こうの遺族も異議を申し立てませんでした」

「同性愛者との結婚については?」

「なにも知らずに結婚しました。新婚旅行中に知ってすぐ離婚しました。弁護士に作って貰った覚え書きがあります」

 斉條さんが唇を曲げた斉條さんが考え込む。私が何度も布巾で涙を拭う時間彼女は黙考を続けた。

「よし、明確な名誉毀損だ。文体を変えているけど文章の癖を隠しきれていない。書いたのは同じ奴だ。泣き寝入りは絶対駄目。戦いなさい。黙っていたらあなたが潰される。そんなの個人としても社としても許せない。どう?」

「訴えたいです。でも、どこの誰か」

「あなたの過去を知る人。その周囲の誰かでしょうね」

 まさか。

「あなた最近とてもいい顔しているね。彼氏が出来たのかな」

 何を言いたいんだろう。

「……ええ、おります」

「その人の周りが怪しいかもね。翠川さんが選んだ人だから、その人じゃないと思う。でも彼がうっかり話した事を周囲の人が、というのは考えられる」

 まさか。

「ネットも調べてみた。ちょっとした有名人だよ」

 ブリーフケースから新たに取り出したプリントアウトを渡してくれた。ヘッダに記載された複数のアドレスはどれも巨大掲示板のもの。

「同じ奴が煽ってる。弁護士は編集部で紹介するからね。弁護士経由でIPアドレス情報を開示させて……」

 斉條さんの言葉が耳に入らなくなった。


 携帯のメール着信音で我に返った。真っ暗な部屋で携帯のランプが煌めいている。が無視して寝室に向かい、冷たいベッドに潜り込んで泣いた。オカマ野郎の事件を知っているのは? 親類縁者そして式に招いた友人。彼等から聞いた人を含めたら把握出来ない数になる。セックス拒否を知っているのは? 私が話したのは涼音と彼だけだ。

 涼音は恋愛に積極的だ。彼も健康な男だし、涼音と彼は初対面から意気投合していた。あの二人は付き合っている? クリスマスにキスした彼が? そんなのあり得ない……でも二人以外に……。


 二日後、私は編集部に紹介された弁護士事務所を訪れた。私の担当は壮年女性だ。男性でなくて安堵する。秘匿義務を負う相手だからといって、男に喋りまくれるわけはない。

 彼女は情報発信者を特定するのを最優先し、誰が情報を漏洩したかは後回しでよいと助言した。情報を知る者は二人しか思い当たらないと聞いた彼女は満足げに頷いた。

 事態を知ってから身体に不調は出たかと問われたので、不眠と情緒不安定になったと応えた。傷害罪の適用が可能だからと説明され、病院に連れて行かれた。面談と血液検査も受けた結果、神経衰弱との診断書が出された。

 その足で警察署に行き、刑事課で刑事告訴の手続きを終えた。そして注意された。「一切ネットでの反論などしないこと」と。

 日々悶々と私は過ごしている。仕事が忙しい彼はメールを送ってくる。が、私は返信する気にならない。心配する彼のメールが苦痛で、インフルエンザで寝込んでいると嘘をついた。返信を要するメールが減ってほっとした。が、涼音から届いたお見舞いメールで疑惑が確信に変った。

 巨大掲示板のスレッドも三日ほどで千コメントを超え、新しいスレッドが立つ。私の大学時代のエピソード。結婚そして離婚。保険金殺人の容疑者となったが証拠不足で釈放された疑惑の女。その女は環境問題をネタにメジャーデビューを狙っている。これがネットで喧伝される私だ。私の自宅住所も晒された。夜になると勢いづくスレを歯がみしながら見るだけだった私の意識が少しずつ変っていく。悲しみを怒りが凌駕するのを憶えた。


 二月十三日、以前約束した終猟鍋パーティーの開催日。助手席で賑やかに話す涼音に私は短く相槌をうつ。今日私が二人に会うのを弁護士は知らない。

「いろいろ情報収集しているんだ。ほら、借りたツーリングマップを片手にネットの掲示板で質問したり」

「うん……いろんな人がいるからね」

 ああ、やっぱり。

「文殊の知恵の現代版だよね。案外親切だし。そうだ、流氷だけどさ……」

 パーティーなんか行きたくない。流氷なんてどうでもいい。別の意味で騒ぎたい気分だ。彼と涼音が揃うこと、そして彼の自宅だから他人に迷惑をかけずに済む。どちらか、もしくは二人とも失う。でも私は泣き寝入りなんてしたくない。厚木の料金所を過ぎた。いよいよだ。


 二人の素振りにおかしな点はない。今日は彼が伊豆で仕留めてきた猪鍋だ。二つのカセットコンロに載った土鍋が湯気を吹き上げている。一つは普通の猪鍋、もう一つは猪のもつ鍋。グラスを合わせて宴会が始まった。

 涼音と彼は旺盛な食欲でお代わりを繰り返す。食欲が無い私はそれぞれ一杯を食べるのが限界だった。ビールも飲みたくない。

「祥子さん、口に合わない?」

 彼が心配げに私を見る。涼音も声をかけてきた。

「まだ調子悪いの?」

 私は……何でここにいるんだろう。

「ちょっと……ごめんね」

 なんで私が謝るんだ。二人が目を見合わせた。

「うどんを煮ようか。それなら口当たりも柔らかいし」

「休む?」

 なんだ、この息の合ったフォロー。やっぱり二人は。頭ががんがんしてきた。

「違う……」

 俯いて目をつぶって堪える。私、何かした? 

「すこし横になった方がいい」

「そうだね。ベッドの用意出来てる?」

 私はいつもされてばかり。私はきっと誰も傷つけていない。なのになぜ!

「うん。祥子さん、歩ける?」

 邪魔者を排除して、二人楽しくお食事の続きか。怒りがわき上がった。

「ねえ」

 私が何をしたの。何故私を貶めるの。何が楽しいの?!

「お芝居やめようよ」

 怒りがたぎっているのに、なんでこんなに声が小さいんだろう。

 顔を上げて二人を見る。右横の彼そして正面の涼音を。

「芝居?」

「祥子、どう──」

 二人の表情が激情の堰を切った。なんだ、その唖然とした顔は!

「私、全部知ってる。何が面白いの? 言いなさいよ」

 やってやる。ボイスレコーダーは作動中。

「ええと、何を怒っているのか全然解らない。落ち着いて話してくれる?」

 今日は深呼吸がどうのっていわないんだ。あ、そうか。編集部や企業に手紙送ったんだから、時間の問題と思っていたわけだ。

「どうしたんだよ、祥子。何いってんのか全然解らないよ」

 顔色ぐらい変えなよ、涼音。

「私がセックスできないと知っているのはあなたたちだけ。私は二人が秘密を守ってくれると思ったから話した。それをネットでばらまいたり、編集部とスポンサーに手紙を送った人がいる」

 一息入れた。二人の表情は凍り付いている。

「昨日の夜掲示板のスレッドを見ていたらね、私の彼氏を名乗る奴がマサってコテハンで書き込みはじめたよ。祭りになった。セックス出来ない私を笑っていたよ。私をからかうと面白いってね」

 二人は微動だにしない。いつまでそのポーズが続くやら。

「私の親友を名乗る奴まで出てきた。スーってハンドルでね。二人仲良く暴露し合って笑い転げていた。オカマの元旦那は私が殺したって! 保険金殺人は証拠不十分で不起訴になっただけ、完璧な計画だったなんて大嘘を! これだけ知っている人って誰!」

 テーブルを思い切り殴った。食器や鍋が躍った。

 拳は熱くなっただけで痛みを感じない。

「捻りのないハンドルだな」

 呟いた彼が涼音を見る。もっと気の利いたことを言ってみなよ。

「祥子、落ち着いて。先ずは落ち着け」

 なんだか言い方がむかつく。睨み付けても涼音は目を逸らさない。

「ちょっと待って」

彼が水のボトルを持ってきたけど、私は温くなったビールを続けて呷った。

「ビールでいいなら祥子さんはそれで。私は水にする。スズさんは?」

 彼女も水を所望した。ふん、仲がいいね。

「まず私から話す」

 正直に話して。

「一切知らない。私は昨夜アメリカ時間に合わせて仕事をしていた。電話で部品の詳細を打ち合わせる必要があったからね。風呂から出て飯を食ってからだから二十三時から朝の四時頃までだ。その間、そいつは書き込みしていたの?」

 ビンゴ。

「ええ、二人して九時過ぎから朝の三時までね」

 彼が涼音を見る。

「家で映画見てた。寝たのは二時過ぎ。インディジョーンズのクリスタルスカルとハムナプトラの一と二」

 それで?

「私のネット環境は寝室と事務所の二台だけだ。IPアドレスを調べれば解るでしょ」

 あなたのスマホは!

「調べています。弁護士を通してね」

「なら直ぐわかる。スズさんは?」

「調べて。私を騙るとはふざけた奴だ。私も訴える」

 私を取り調べた警官の気持ちが少しわかった。

「私は誰にも話していない。スズさんともその件で話してもいない。そもそも二人で電話したりメールしたり殆どしないから」

「そうだ、携帯見る?」

 人を子供扱いして。インフル情報を流したくせに! 

 いや、落ち着くんだ。

「固定電話で話しているとしたら?」

「電話会社に記録があるさ。要求すれば月単位で明示してくれる」

「それも調べて。私も潔白を証明しなきゃ」

「同意してくれたならやらせて貰う」

「この際何か他に思うことがあるなら話してくれるかな」

 じゃあはっきり言ってやる。

「あなたたち、付き合っているんでしょ」

 真剣な面持ちの二人が同時に頭を振った。

「ないよ」

「祥子にぞっこんだもの。割り込むとか無粋な真似しない。人のものを取るのは絶対許せないし」

「そう。じゃあ、後は法廷で」

 最後のチャンスだ。どうする?

「わかった。それは別として、どこに書き込まれているか教えて」

 上等じゃない。

「いいよ。どこのパソコンを使う?」

「事務所で。ちょっと気になる事がある。移ってから説明する」

「先に説明して。嫌なら寝室のを先に履歴チェックする」

「わかった。ちょっと待って」

 彼が固定電話の脇からメモ帳を持ってきた。唇に指を当ててからボールペンを走らせた。

 書き終えたそれを私に手渡す。

『盗聴の可能性。話さず書いて』

 息が詰まった。でも誰がどうやって? ペンを借りて彼に問う。

『解らない。祥子さんの家には防犯システムがない。ここはある。だから事務所』

 書かれた文字を二度読み直した。何か頭に引っかかるけど、何だったか思い出せない。


 彼がリモコンで暗証コードを入力する。どこからか短いアンサーバックの音が返った。シャッターと鋼鉄のドアが開かれた。

 中に入った私達にもう一度唇に手を当てた彼は、騎乗したカウボーイが疾駆する絵柄のタペストリーを捲った。シャッターフレーム脇にランプの点ったパネルがあった。警報システムのコントロールパネルか。

 机の抽斗からメモリーカードを取り出した彼はパネルの脇に挿入してテンキーを叩くと小さな電子音が応えた。私は黙って作業を見守る。

 パソコンを起動し、カードスロットに先のメモリーが挿入された。

 椅子に座った彼の後ろに私は移動する。

 メモ帳代わりに使っているらしいリングノートを彼が開く。日付と曜日そして様々な書き込みが為されたノート。画面には数字の羅列が並んでいる。よく見ると年月日と時間らしい。彼は画面とノートの記載を見比べている。

「ここ四ヶ月で不審な警報解除記録はない。ここは安全だと思う。ビデオ記録に誰かが写っているかもと期待したんだけどね」

 十分ほど経ってから彼が口を開いた。涼音も私も溜息をついた。

 お茶の支度をするからパソコンを確認してくれ、と彼は席を私に譲った。マウスを握った私はブラウザを開く。まずは履歴から。

 居心地よかったはずの応接椅子なのに、今はどうにも落ち着かない。彼は一般のブラウザでなく専用ブラウザで掲示板にログオンしているが、私を中傷する板には出入りしていない。彼の興味はニュース関連と野生動物関連だけで、一切書き込みしていないとも解った。

 正直私は困惑している。ネットカフェからアクセスしたのかも。いや、昨夜は事務所で仕事をといっていた。ノートには米国とのやりとりが走り書きで残っている。公衆無線LANでアクセス情報をごまかしたとか。でも地下室だと無理か。このパソコンはルーターと有線接続されている。

「盗聴って機械とか必要でしょ?」

 掲示板を見る彼の後ろで、覗き込みながらコーヒーを啜る涼音が問いかけた。

「前にテレビで見た。通信販売や店頭販売で買える。身分証明も求めないとか」

「なにそれ。犯罪を奨励してどうするよ」

 画面を見る彼が苦く笑う。

「持っているだけじゃ罪にならないんだとさ。甘いよ。銃器と同様、所持禁止の扱いにすべきだね」

 銃器犯罪を憎む彼は理由や結果を問わず、極刑に処すべきだと公言している。盗聴器は所持すら禁じろと言いたいのだろう。でも、私の追及の直後に盗聴を考えるのは不自然だ。

「盗聴を疑う理由は?」

 これも録音しておこう。

「話していないことを知るならどうやったのかと考えた。だから掲示板で確認したかったんだ。まだ途中だけど、今解る時点では」

 画面から私に視線を動かした彼を見詰め返した。

「クリスマスの夜、祥子さんの家で交わした会話が書き込みされている。でもその後、この家でそれを話題にしたかも知れない。だからまだこの家が安心とは限らない。スズさんも祥子さんの家を何度も訪問したと思う。その時、私の話題も出ただろう? 二組の会話を組み合わせれば、かなりの情報を入手できるよね」

 涼音が頷いた。まあそうかもしれないけれど。

「掲示板には一つだけ書かれていない事がある。私がそれを聞いたのは北海道の野湯でだ。以後一切話題にはしていない。それを探して書き込みを遡っても見つからない。検索もしたけどヒットしない。一度でも話題になったら、ネット雀は決して忘れないよ」

「それって何? はっきり言って」

 彼が淡々とワンフレーズ呟く。私の顔は引き攣った。

「知れば書いたはずだ。些細な情報を得々と書く奴が、これだけは書かない理由は? 知らないからだ。なぜ知らない? 俺もスズさんも決して口にしないからだ! 盗み聞きで聞けなければ書きようがない!」

 彼が初めて感情をむき出しにした。その表情は神の子池で見たものだ。でも予想していたなら言い逃れに使う気で温存していた可能性はある。それがなくても世間には十分インパクトを与えている。

 なにも応えない私から目を離した彼は、画面に目を戻してスクロールを続ける。

 集中していた彼が顔を上げたのは、二時間近く経過してからだった。

「ない。次は盗聴器を調べる。祥子さんは上のパソコンを調べて」

「え、ええ。でも怖い……」

「ここに運ぼう。祥子さんも脇で見ていて」

 当然のように収穫は無かった。


 朝の挨拶もぎこちない。ダイニングを中心に盗聴器を捜索したが、何も見つからなかった。保安設備を居住区にも流用しているから仕掛けられなかったのかもと彼は言う。でも私は疑心暗鬼だ。

 仮病で仕事を休んだ涼音も彼の車に乗って私の家に向かった。

 家の前で待っていてくれた弁護士の伊能さんはうさんくさげに彼と涼音を見た。警察官を呼ぶべきだと彼は主張するが、疑い程度では警察は動かないと彼女は首を横に振る。

 彼は私と自分の車を指さした。

「GPS発信器と思われるものが私達の車に付けられているんですけどね」

 伊能さんに見詰められて私は頷いた。朝、私と涼音が立ち会って調べた結果、二台とも何かが付けられていると判明した。私はその箱に見覚えがある。セローに付いていた謎の箱とそれが同じ物だとは二人に言っていない。なぜエンジンルームまで調べる気になったのか。疑いは盗聴器だったはずなのに。

「翠川さんも一緒に確認したの?」

 反応を見よう。

「ええ。去年の夏、私のバイクに同じものが付けられていました。意味不明だったので捨てちゃいましたけど。バイクショップの整備士さんは覚えていると思います」

 伊能さんの眉が寄った。涼音はきょとんとしているが、彼の表情は徐々に険しさを増す。

「ちょっと……伊能さんと翠川さんの判断に任せますが、これから話す事は出来れば公にして欲しくないんです」

 伊能さんが頷いた。何だろう。

「去年の夏、祥子さんは北海道で暴漢に襲われました。公にして欲しくないというのは私が過剰防衛気味に介入したからです。問題はその暴漢がGPSアンテナの付いたカードとパソコンを持っていた点です。ラップトップをカーナビがわりにしていると私は思った。でも間違いだった。携帯電話がパソコンに繋がれていたんです。バイクの位置情報を得るためだったんだ」

「解りやすく説明してください」

 首を傾げたのは伊能さんだけじゃない。私もだ。涼音は目を瞬き続けている。

「一般的なナビは、衛星の電波から計算した自位置を地図の緯度経度に合致させて表示します。マップマッチングという技術で本田技研が実用化しました。でもGPS発信器の情報は表示できません。発信器は測定した自位置を発信します。それを受信してマップマッチングさせる専用の受信装置が必要です。この箱は自位置情報を携帯電波に乗せて発信している筈。携帯電話基地局アンテナは電柱に設置されているから、小さな出力で十分です。受け手はその情報を専用ソフトで解析して画面で把握する。わかります?」

 ああ、と伊能さんが頷いた。

「暴漢は携帯をパソコンに接続してデーターを受取り、翠川さんを追っていたと」

 彼が苦々しげに頷いた。連中は私を狙っていた? でも彼の話だけでは。

「あなたのお話だけで警察は動きません。証拠が足りませんから。私達で調べ、家の中で一つでも発見できたら警察を呼びます」

 誰からも異論はでない。

 と、手を上げた彼に皆の視線が集中する。

「最初にブレーカーを落としましょう。調べた限りでは、家庭用電源から電源を取るものが殆どでした」


 ダイニングのコンセントに刺さっていた電源タップを分解した彼が見つけた。小さな基板が中にある。

「伊能さん、あれを呼んで下さい」

 携帯を握って伊能さんは慌ただしく庭に出る。盗聴器とドライバーを床に置いた彼は、薄手のゴム手袋を外しながら窓の外を見た。獲物の解体で使ったゴム手袋と同じものだ。

「本当にあったね」

 囁くように涼音が言う。

「この窓から見える範囲に犯人はいるはずだ。盗聴器はFM波の電波を使うらしいけど、それは見通せる範囲にしか届かないし出力も小さい。この近くだ」

 二人の会話に怖気が走った。いつ誰が仕掛けたのか。何を聞かれたのか。携帯や電子メールも覗かれたかもしれない。訳のわからない恐怖に身体が細かく震える。

 機械を使って探した警官は、仕事部屋と私の寝室そして客間に盗聴器とカメラのセットを一つずつ、そしてダイニングと浴室でカメラを探り当てた。

 警察官と伊能さんが相談した結果、寝室と浴室のカメラ、そしてダイニングと寝室の盗聴器を撤去した。残りはそのままだ。盗聴器が見つかった周辺の指紋を採取した警察は、私だけでなく彼と涼音にも比較用として指紋採取を要請した。手袋をしていた彼だが涼音と同じく文句も言わずに応じた。これがまた私の疑惑を掻き立てる。

「車の発信器もそのままとします。犯人に首を捻らせたいものでね。犯人が受信機を稼働させる時間が長いほど、逆探知の可能性が高まります」

 淡々と告げる警官に私はじれた。購入者情報はどうした。

「犯人が受信機の電源を入れている間に近くにいれば、ですよね」

 彼がぽつりと呟いた。チンプンカンプンな私だけど、詳しすぎると思う。警官がまじまじと彼を見詰めた。ああ、私だけじゃない。

「そうです。よくご存じですね」

「アマチュア無線の資格を狩猟のために取っていますからね。少しは解ります」

 肩を竦めて応えた警官は私に目を向ける。

「家の周囲を集中パトロールさせます。翠川さんはどうなさいます?」

 急に私に振られても。どういう意味だろう?

「安全な場所に避難させます。警察は家の中で待機するべきです。犯人がパトロールを見て逃げたら無意味ですよ」

 伊能さんの意見に私も頷いた。そのほうがいい。自由に使って下さい。

「申しわけありません。現段階では軽犯罪なんですよ。罰金十万程度の犯罪です。人員も限られているので、常駐は無理です。仕事部屋のテレビと灯を付けっぱなしにして下さい。在宅中と思わせて、犯人に受信させなくてはね」

 震えっぱなしだ。安全だったはずの家……私は居場所をなくした。

「いつ仕掛けたんだろう。かなりの手間だと思うけど」

 涼音が少し大きい声で尋ねた。警官たちが揃って肩を竦める。

「北海道ツーリングで長く家を空けたよね。その時か。もしくは北海道ハンティングのときか。GPSと盗聴器を同時に仕掛けたかどうかはね」

 首を傾げながら応じた彼に全員の目が集まる。伊能さんも警官も納得気味だ。

 でも。北海道に行っている間に仕掛けたとしても、彼が無関係だと証明されたわけじゃない。涼音がいる。それこそ私の行動予定は完璧に知っていた。そして技術にもあかるい。うちのインターホンを取り替えてくれたのは涼音だ。誰も信用できない。

 皆帰った。これからどうするか、伊能さんと庭で相談する。ここは安全だと思うけれど、二人とも囁き声しかだせない。

「ホテルで暫く滞在してもらいますが、外部との連絡は基本駄目ですよ」

 そうですね……着替えとか用意します。

 僅かな着替えをバッグに詰めた私はブレーカーを戻して家を出た。


 携帯電話には着信もメールも届かない。

 テレビでバラエティ番組を流しても全くくつろげない。笑えない。ビジネスホテルの一室で、一人過ごす夜は潰れそうに重い。

 壁を乱暴に叩かれた。嫌々テレビを消して毛布を頭から被る。

 声に出して私は泣いた。今日は特別な日だったのに。生まれて初めてチョコレートを作ろうとしたのに。


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