第16話 微笑み
「おめでとう、祥子! 目出度いなあ、オールでのもう!」
「うん、ありがとう!」
スピーカーから流れる賑やかな乾杯の掛け声を聞き流し、男はブライヤ製パイプの手入れに専念する。
「頑張ったね、ほんとに」
「ヒグマに感謝しなきゃ。でないと言えなかったよ」
ボウルを磨いたクロスをデスクに置き、マウスピースを丁寧に右に回して引き抜いた。ティッシュでだぼ部分のヤニを拭き取る。
「ヒグマもアイヌの人々には神様だってね。一応北海道関連資料読み漁ったわ」
「スズ……あんた努力の方向が斜め下でしょ!」
「うっしゃい! 神様が取り持ってくれた縁でいいじゃん! ほれ、乾杯!」
四台の小型モニターが脇の補助机におかれていた。画面は全て白黒だ。シングルベッドが映る画面が二つある。角度を変えているのでは無く、別々の部屋のようだ。残りは浴室そして書斎のような部屋が映っていた。ベッド画像だけ妙にコントラストが強い。
だぼ穴にブラシ状のモールを突き込み丁寧に往復させる男の顔に表情はない。
「そうだ、写真見る?」
「見せて! このノートでいいの?」
「うん、起動して。メモリー持ってくるから待ってて」
書斎のような部屋を映すモニターに、スリムな長髪の女性が現れた。机の抽斗から何か取り出す姿も表情も鮮明に見て取れる。男が別のレシーバーのボリュームを上げると、抽斗を閉める音がはっきり聞こえた。
「感度良好、混線もなし」
満足げに呟いた男はヤニで茶色く汚れたモールを屑籠に放り込む。ボウルにマウスピースを戻し、パイプが五本掛かったラックにそれを置く。
レシーバーから女二人の声が流れる中、男はアメリカンスピリットのパッケージから一本抜き取った。ロンソンのガスライターが碧い炎を上げる。革張り椅子に背中を預けてウィスキーを舐めながら煙草を燻らせつつ、レシーバーの声に聞き入る。
「ここがその露天風呂かあ。雰囲気いいね。連れてってよ」
「結構深いし、流れも速い川だからCBじゃ無理だよ。転倒して水没しちゃうってば。でも歩いて渡れる地点があるって彼が言ってたなあ」
「よし、あいつも誘おう。で、二人きりのお風呂はどうだった?」
「ヒグマのお陰で震えっぱなし。だから告白できたんだけど」
「ヒグマが取り持つ縁! 世界的に類がないだろ。テレビ局に売り込もうかな」
「おい」
「冗談ですがにゃ。それで?」
「背中を合わせても、嫌悪感が全くわかなくてね。幸せだった」
「男が側に来るから厭だって、電車に乗るのも嫌がるあんたがねえ」
「今でも厭だよ。彼は特別」
「かーっ、ご馳走さん! それで?」
「ん?」
「キスは? それとも最後まで? じらすなよ」
「なにもしてないよ」
「おい、ちょっと待て。その晩から同じ部屋だったんだろ」
「別々のベッドだよ。ヒグマのお陰で眠れなくてね。でも彼は安眠しててさ、殴ってやろうかと思ったよ。でもぶちまけたら次の夜、フェリーで彼が添い寝してくれて。背中合わせしたら凄く安心できた」
ふん、と鼻を鳴らした男はグラスを煽る。が、氷が鳴っただけだ。忌々しげに男は煙草をもみ消した。
「まあマッシーに心許せたわけだから、そのうちセックス恐怖症も克服できるよ」
グラスを手に立ち上がりかけていた男が、鋭い目でレシーバーを睨んだ。
「無理しなくていいって言ってくれたし。でも……でも十八からしてないからさ」
男の目に怪しい光が沸き、冷たい笑みを浮かべた。
「夏前には信じられない状況だ。でも現実だ。これは可能性を如実に示している。そう考えて、さらに発展させてみ。だろ? 次の課題は正面からのハグ、そしてキス! キスって大事だよね?」
「そうなんだ……出来るかなあ」
「二人の阿吽の呼吸だな。私だって始めての時は躊躇したし。てか今でもそうだし!」
「ふうん」
「おい! なんだその意外そうな顔!」
スピーカーから明るい笑い声が弾けた。
「なんと、淳はお前に汚されていないのか。そりゃ結構!」
冷笑を浮かべる男の呟きは徐々に大きくなる。
「でも淳を殺したのは貴様だ。楽しみにその日を待っていろ、売女!」
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