第15話 地獄のキューピッド
針葉樹と広葉樹の混成林の下生えである熊笹は霜に覆われ、そこを歩く物好きの身体に付着する。物好きの一人である私の腰から下溶けた霜でびしょ濡れだ。でも私の身体は火照っている。手配した発熱型兼速乾性の下着と保温インナーそして猟服のパンツが大いに役立っている。ウールのパンツとタイツ状の保温インナーには適度な隙間があるので、パンツが濡れても冷たさは左程伝わらない。パンツに付着した水は繊維を伝わって早々に裾から垂れてしまうし、中に籠もる筈の湿気は保温下着が放出するのみなので蒸れてもいない。二重にした靴下も同様だ。天然素材と科学の粋の勝利だな。
石狩岳の東方で車を捨てて、かれこれ二時間。原生林のただ中で私は悪戦苦闘している。熊笹が足に絡みつき、それを防ぐために押し潰すように歩くと滑る。そして起伏に富んだ山間だ。優さんが貸してくれた軽合金の杖がなければ転倒しまくりだろう。よくもまあエゾ鹿はこの中を走るものだ。絶対おかしい。そして人間の脚はここを歩くのに絶対適さない!
「もうすぐだよ。頑張れる?」
うん、と喘ぎながら応える。彼の足手まといになりたくない。夏の知床で認めてもらったのに、今ばててたまるか。
私の荷物は小さなザックと、ストラップに括り付けられた携帯GPSだけ。彼は大型リュックとライフル。それでも彼は左程疲れを見せない。杖を使わずに踏破している彼の背中を見て歩くのが精一杯だ。
ああ、喉が渇いた。多分私は顔面から湯気を立てているはずだ。彼は何を見せてくれるんだろう。期待をエネルギーに変えて絡みつく熊笹から足を引き抜き、前に出して垂直気味に下ろしつつ熊笹の根元近くを踏みつけて。邪魔な熊笹だけど、地面にみっちり根を下ろしている。表土流出を抑える役目もしているんだろう。草が枯れ、広葉樹が葉を落とし、下生えの草が枯れ始めた今、エゾ鹿はこの熊笹をも食べて満腹感を得ようとすると彼は教えてくれた。雪が深く積もるとそれすら口に出来ず、樹の幹を囓りはじめるのだそうな。夏聞いた話が繋がった。
かれは疲労困憊な私の気持を軽くするためか、少し喘ぎながらも北海道の開拓期の話をしてくれた。開拓使と呼ばれた入植者もこの熊笹に悩んだ。根を密に張り巡らせた熊笹を排除するのは容易ではない。焼き払ってもその年のうちに復活するそうだ。
そこで入植者が選んだのが蕎麦。表面の熊笹を焼き払ってから蕎麦の種を蒔く。すると当年は蕎麦と熊笹の勢力は拮抗するが翌年からはめっきり熊笹は衰え、三年目には蕎麦が圧倒する。そこで畑や牧場として整備するのを繰り返して農耕地を広げたのだそうだ。二年間入植者は蕎麦を頼りに命を繋ぎ、その後作物を増やした。以前見た蕎麦の白い花とその独特な臭いが私の脳裏に甦った。ざる蕎麦たべたい。十割の田舎蕎麦がいいな。ぷつぷつ千切れるけど香が素晴らしい。
「荒れ地でも蕎麦は収穫できる。自然の大地に手を加えて耕作地にするのはとてつもない根気が必要だ。樹を根ごと排除しなきゃ駄目だし石も全て掘り出すし。開墾後に地味を豊かにするのにも時間が掛かる。北海道でジャガイモ生産が盛んになったのはそれも絡むんだ。蕎麦並にタフな農作物なんだよ。入植者を餓死から救った作物が蕎麦とジャガイモね。まあ十分な整備ができないうちは小さいイモしか出来ないけれど、土付なら保存効くからねえ」
必死に彼を追いつつ、彼の荒い吐息混じりの説明に聞き入っていた私は耳を疑った。政府は彼らを支援しなかったの?
「維新後職を失った士族が屯田兵となったのは学校で習ったよね。明治政府の厄介払い兼北方防衛そして開拓目的の入植。この三つの役割があった。土地を与えただけというと語弊があるかな。鉄道と道路を整備したのは政府だし、支度金も僅かだけど出したから。でも基本は自活だよ。便利な土地は後から来た者には渡らない。やむなく不便な土地にいくわけだ。不作が続いて折角切り開いた開拓地を放棄したり、捨て値で売り払って故郷に帰った人も多い。それを富農が買込んで小作人に農作させるから負の連鎖だね。一昨日訪れたあの知茶布川ね。あの林道入り口付近にお墓と石碑がある。静岡は掛川から入植した人々が残した爪痕だよ。北海道はほんとに厳しい大地だよ」
え? 人家も畑もみえな……そうか。自然に戻っちゃったんだ。
彼が足を止め、汗を拭いながら私を振り返った。荒い息を吐く私の期待が高まる。
「お疲れ様。ここが境目なんだ。小休止しよう」
なんだ、まだか。
汗を拭いながら周囲を見渡す。ミズナラの巨木が白い枝を青空に広げ、まだ枝にしがみついている枯れ葉が風にそよいで立てる乾いた音と共に微かな水音が聞こえる。太い木々の枝からボロ雑巾のような物が垂れているのに気付いた。宿り木だよ、と彼が教えてくれる。熊笹のカーペットは密度を減じ、若木が下生えとなっている。それに紛れて首を突き出したエゾ鹿が私たちを見詰めている。地面に伏せて首だけ突出しているんだな。
「はい、水とキットカット。僕が殺気を放っていないから、エゾ鹿も逃げないわけさ」
殺気かあ。きょとんとこちらを見ていたエゾ鹿が顎を動かしはじめた。消化促進の反芻中らしい。水がとても美味しい。チョコスナックが身体に染みいる!
煙草を彼が取り出した。私も一服しよう。 辺りを見回しながら紫煙を楽しんでいた私は頭上で起きた激しいスタッカートにぎくりとした。アカゲラだね、と彼が笑う。ああ、あの赤頭脳震盪鳥。今日も餌の追い出し頑張れ。樹の皮に潜り込んで越冬を決め込んでいた虫は私以上に慌てるだろう。
「鹿がのんびりしているから、この辺りにヒグマはいないな」
それでずっとライフルを手にしていたのか。頼れる人だ。歩きにくかっただろうに。
携帯灰皿を仕舞った私たちは奥に進む。熊笹の密度が減ったから楽だ。斜面を登り始めた彼に遅れまいと必死に岩や倒木を乗り越える。ぶ厚い苔に覆われたそれらの表面は、うっすらと氷が張っている。
歩くほどに幻想的な景色が私の前に現れ始めた。大木から長く垂れ下がる宿り木。苔に覆われた倒木の下をせせらぎが流れる。その周囲の岩も鮮やかな緑の苔に覆われ、表面に付着した氷の粒が木漏れ日に煌めいている。樹幹を斜めに巻いて駆け上るエゾリスがこちらを見下ろす。ぼさぼさの尻尾と耳が、そしてまん丸の眼が可愛い。
私達を道案内するように飛ぶ鳥がいた。エゾライチョウだそうな。私が知る雷鳥と違って彼らは森に住む。鳩程度の赤茶色をした彼等は少し飛んでは木に止まり、私達が追いつくとまた飛ぶ。エゾライチョウは狩猟可能でとても美味しいよ、と彼は笑う。そういえば鳥はニワトリしか食べたことないな。いや、七面鳥も一度はたべたかも? どんな味なんだろう。鴨も美味し――。
「ライフルで撃てるのは熊と鹿そしてイノシシだけなんだ。ごめんね」
げっ、また口走ってしまった。でも優さんならいい。話を振ったのも彼だし。
カコンコポンという妙な音と共にエゾ鹿がのっそり立ち上がって私達から離れる。腹這いで寝ていた鹿が起きる際に膝関節から出る音だとか。
一頭の雄鹿に目が釘付けになった。驚くほど巨大な角と身体の持ち主だ。毛皮越しにもその逞しい筋肉が見て取れる。顎髭とたてがみまで生えている。その大きな黒い目を私はじっと見詰めた。哲学者の雰囲気を漂わせる目だ。
「この森の帝王だよ。始めて訪れたときからの付き合いなんだ」
「はあ……道理で堂々たる風格で」
私の直感も案外すてたもんじゃないと思いながら、悠々と歩み去る彼を見送る。
彼に導かれて歩き続け、周囲の水が集まって流れる場所に着いた。十五メートルほどの川幅の両岸は氷が張っている。ライフルをたすきに背負って流れに足を踏み入れた彼は手袋を外した。はて、何をするんだろう。
岩を退け、両手を差し入れて水中で何かしている。真似して素手を入れてみたが速攻で引き抜いた。無茶苦茶冷たい。紅くなった指を擦っても痛みは消えない。思わず口に含んだ。やれやれ、優さんはなにをはじめたんだろう。
彼は位置を変えて丹念に手を動かす作業を繰り返す。時々口に何かを入れている。もしやヒグマの真似をして虫を食べている? まさか……B級グルメの私でもさすがに引く。
見える範囲で上流に登っていった彼だが三十分ほどで戻ってきた。私の手前で足を止め、口の中のものを手に吐き出して両手を清流で洗う。なんだかもの凄く厭な予感がする。
「ねえ、虫を食べてみろとか言わないよね」
先手必勝。虫はB級グルメの範疇にない! ランク外!
「ちがうよ、ポケットに入れると濡れるから口に収めただけだって」
破顔した彼は赤い右手をグーで差し出した。私は戸惑いながら両掌を出す。彼が手を開くと何か落ちてきた。氷のように冷たくてずっしり重い。が身動きする気配はない。大丈夫かな。
手を戻してまじまじと検分する。木漏れ日に輝く十一個の大小の塊だ。小豆大のものもあればエンドウ豆程のものもある。その全てが山吹色に輝く。小学校の理科室で、これに似た岩石標本を見た覚えがある。でもあれは結晶体だった。丸みを帯びたこれとは違う。
「砂金だよ。大粒のだけを選んだ。粒金と呼ぶらしいよ。シャングリラからあなたへの贈り物」
心臓が大きく跳ねた。砂金。でも彼は平静そのものだ。トンボ玉だよ、という程度の感情しかこもっていなかった。
「砂金って……ゴールド?」
「そそ、エーユー。といっても携帯キャリアじゃない方ね」
平然と頷く彼に私は目を瞬く。掌のそれが急に重みを増したような。ああ、私って欲深い。
「なんで砂金が」
優さんが仕込んでしょ。あり得ない。
真っ赤な手を摺り合わせる彼がけらけらと笑う。
私の予想はあっさり外れた。以前は北海道各地で盛んに砂金採取がおこなわれたそうだ。この上の何処かに金脈があるんだね、と微笑む彼には欲が見えない。なんで平静そのもので話せるんだろう。
「優さんだけが知っているの」
「多分。この面積でこれだけ集めたんだから濃い金脈だろうね。でもここでゴールドラッシュは真っ平だよ」
ああ、そうか。沢山の人がほじくり返したら……。
「私に教えちゃっていいの?」
笑顔で頷かれた。
「祥子さんに見て欲しかった。この森を、この清流を。ここに暮らす動物も。ほら、あのエゾタヌキとか」
彼が指さす。十五メートルくらい先を一頭の中型犬みたいなのが歩いていた。足がちょっと短く、尻尾が太い。足が短く見えるのは毛深いからかも。私達をちらりと見たそれは足を速めるでもなく地面を嗅ぎながら姿を消した。夢だ。絶対夢だ!
「森が水を蓄える。水を漉す土壌は落葉樹を糧として地味を肥やす。流れ出した水は動物の渇きを癒やし、森と動物が互いを育てる。バランスが保たれた場所なんだよ。あなたはきっと大事にしてくれる」
素直に嬉しかった。泣きたいくらい嬉しかった。
「決して忘れない。決して誰にも言わない」
「ありがとう。それもシャングリラの一部だよ」
そう呟いた彼は照れたように周囲に目を向けた。シャングリラ。桃源郷とか楽園の意味だ。うん、確かに此処は――。
「おあ! あそこ!」
いつも冷静な彼らしくない。その視線を辿った私は目を瞠った。
「あっ!」
葉を落としたハルニレの太い枝で、眠そうな二対の半眼が私達を見下ろしていた。頭の羽が風にそよいでいる。美しい。ぱっちりと目を開いてくれた。
「コタン・コロ・カムイだ。神様といわれるのも解る風格だね」
二羽のシマフクロウは揃って私たちを興味深げに見る。ええと、お邪魔してます。
「気高いね……とても仲良しみたい」
「うん、夫婦だね。なまら羨ま微笑ましい」
彼の呟きに微笑んだ。そうか。あなたも寂しがり屋なんだね。
引き返す道すがら、私は何度も振り返る。後ろ髪を引かれるという言葉の意味を知った。素敵な場所だ。人が来てはいけない場という雰囲気もあったけれど、とても心穏やかに過ごせる不思議な場所。尾根が遮ったときは哀しかった。
車まであと数十分の位置で私はばてた。足を熊笹に取られないよう、ずっと太股を大きく上げてきた疲れが。二十分の大休止。それ以上だと身体が冷えて、足が攣ったりするらしい。
甘く熱い紅茶を飲みつつチョコレートを囓って一服。シマフクロウ夫婦がいい話題になった。人間は必ず水を確保できる場所に集落を作る。シマフクロウは魚が主食だ。二つの種が水辺を介在して暮らすから『集落を護る神』と呼ばれるようになったのかもね、と彼が推測した。自然といい関係を築くことも出来るんだね。
出発直前、私は尿意に襲われた。彼が少し下った場所の熊笹を円形に踏み倒してくれた。休憩地点に戻った彼は背中を向ける。
鼻歌で誤魔化しながらベルトを外し、下着に手を掛けたそのとき、すぐ側で爆発音が轟いた。息も心臓も凍った私は尻餅をつく。目前に飛び出した黒い何かが一気に巨大化した。真っ赤な口中と黄ばんだ牙。凄まじい咆哮が鼓膜だけでなく身体そのものを圧する。ヒグマだ。ヒグマに殺される!
ヒグマの巨体が急に屈み込んだ。大太鼓を激打したような音響が身体を揺さぶる。前足で地面を殴りつけている。腰がだるくて動けない。もう駄目だ、殺される。
私の涙で歪んだ視界は降ってきた何かで遮られた。オレンジ色のジャケットと茶色のパンツ。彼だ。彼が来てくれた。銃をヒグマに指向している。呪縛が解かれた私は思い切り息を吸い込んだ。
でも彼は撃たない。何故……その気になったヒグマは常識外だから?
銃から離れた左手がゆっくり私に向く。地面に向けて数回押すように動いて後ろに振られた。一瞬後意味を理解した私は尻を地面に付けたまま必死に下がる。熊笹が邪魔だ。足がまともに動かない。強張った喉から、吐息と共に掠れた悲鳴が漏れる。両手で熊笹を握って身体を引っ張るようにして動く。彼に行動の自由を与えるには、私が自分で遠ざからないと。
必死の思いで彼とヒグマ両方が視界に入るまでに斜面を登った。金茶の巨体が彼を睨み付け、地面を殴りつける度に大太鼓のような大音響が轟く。咆哮が身体を圧迫する。銃を構えた彼は身じろぎもしない。最初に攻撃されるのは彼だ。
いやだ。別々に殺されるより、彼と一緒に死にたい。それがいい。
彼の元に戻ろうとしたとき。
「落ち着けよ……俺たちはお前を傷つけない」静かな語りかけに私は耳を疑った。ヒグマに話しかけている?
「お前を殺したりしない。何も奪わない。落ち着け」
なにやってるの、ヒグマに話が通じるわけが無い!
「落ち着くんだ。お前が立ち去るなら、俺達も帰る」
彼がおかしくなった。いや、私が?
「お互い引こう。相打ちよりも互いに生きていた方がいい。だろう? さ、ほら」
彼が黙った。ヒグマの頭に向けられた銃身は完全に静止している。だけど彼から殺気を感じない。ヒグマからはびしびし伝わってくるのに。
どれだけ時間が経ったのか。ヒグマが身体をゆっくり伸ばして四つん這いになった。
彼をじっと見ていたヒグマの目が私に向く。小さな眼が私を凝視している。唸りが短い吐息にかわり、逆立っていた毛が徐々に寝るのを見た。
見詰められるうちに、私の意識は霞んでいく。
「達者でな、キムン・カムイ」
彼の声で我に返った。ヒグマは躊躇い気味に振り返りながら森の奥に歩いている。彼もスコープから目を離したようだが、筋肉を波打たせて去りゆくヒグマに銃を指向したままだ。
ヒグマが熊笹の向こうに姿を消した。
助かった、のかな。
「そっちに行く」
構えた銃を視線に追従させて左右に振りながら彼が後ずさり始めた。早くそこから離れて!
爪先を滑らせて後退した彼が真横に来るまで、凄く長く感じた。
私に顔を寄せた彼の目は、神の子池の時と同じ眼をしていた。彼のジャケットを握りしめる。汗にまみれた彼の顔が現実のものか自信を持てずに私は見上げた。
「済まない。大丈夫?」
頷くのが精一杯だった。彼は頬を撫でてくれた。うん、ともう一度頷く。身体の震えは酷くなる一方だ。歯が音を立てはじめた。
歩けない私を彼は抱いて運んでくれた。私は失禁していた。でも生きている。二人とも生きている。動き始めた車の中で肩を優しく叩かれて私の自制は一気に崩壊した。すがりついて泣いた。ただただ泣きじゃくった。
石狩岳の奥深く、林道を寸断する幅広い川を四駆で突っ切る。泣き疲れて呆けた私は助手席ドアに押し押せる奔流を黙って見ていた。丸太橋を渡るとき、彼がまた抱き上げてくれた。下を流れる川面までは二メートルくらいか。でも私は怖くなかった。彼の太い腕と厚い胸板から伝わる安堵感に身を委ねた。
丸太橋を渡った先に無人の野湯があった。彼に促されるまま着衣を脱ぐ。別世界にいるような気分だ。彼は背中を向け、両手でライフルを抱えている。
身体に染み入る白く熱い湯に浸るうち、落ち着きが戻ってきた。少し離れた場所で銃を腰撓めにした彼は背中を向けて周りを警戒しつつタバコを吹かしている。躊躇なく私を庇ってくれたあの人の背中。また身体が発作のように震え始めた。止められない。
「一緒に入って」
少しでも近くにいて欲しい。
「いや、それは」
「おねがい」
躊躇いを見せた彼だが、小さく頷いた。安堵して水面に視線を落とす。細かな水紋が私から広がっている。こんなに震えられるものなのか。
彼は私から一番離れた場所に腰を下ろしかけた。
「怖いの。御願いだから横にきて」
彼は背を向けたままで横に来てくれた。その背中に父の面影がだぶって見えた。
「なんで……私の前に?」
彼は上から撃てたはずだ。私が這い上がった中途の場所でも彼とヒグマは重なっていなかった。なぜあんな真似を。
「咄嗟に。危ない目に遭わせてごめん」
彼の呟きに首を大きく横に振った。期待した答えとはちがう。けど十分。
「ありがとう」
答えはない。彼の横顔を見る。困惑、後悔そして苦悩が見えた。心が痛む。護ってやったとは絶対考えていない。ただただ自分を責めている。その気持ちがとても嬉しい。この人が好き。涼音の言葉が甦った。見えていたのに、自分がそれを拒否していた。伝えるのは怖い。でも伝えたい。
「私……あの……」
言わなければ今の関係が続く。不透明な湯の中で横にいる彼の手を探す。固く握りしめた拳に触れた。そっと右手で触れる。少し拳が震えたような気がした。彼が私と同じ方角を向いてくれた。胸が苦しい。お湯に何かが滴って小さな波紋を作り始めた。涙だ。
「見て欲しい物があるんだ」
囁くような声に頷いた。ライフルの下になっていた猟服から何か取り出した彼は私にそれを突き出す。ジッポだ。掌に落ちたそれには、銅メッキが薄れた表面に『あなたへの愛は永遠に』と英文の刻印がある。その文字は……ハートマークの左側を形作っている。右……これはペアのジッポだ! 止めようもなく私は呻いた。見たくない。目を瞑る。伝える前に終わっちゃった。
「顔も思い出せなくなったのに使っていた」
今も愛している人の顔を思い出せない? それっておかしいよ。
「……よりを戻したいんだね」
彼が激しく頭を振り、お湯が揺れた。
「考えなかった。彼女は決断したら振り返らない人だ。あれから時間が経ちすぎた。だから顔を思い出せないんだろう……夢にすら……正直それが寂しいと思ったけどね」
頭が混乱した。何を言いたいの。
「最近ずっと考えていたんだ。今日で区切りをつける」
なにを、なぜと聞きたかった。婉曲な言葉だけ思いついた。
「忘れちゃうの?」
彼が静かに、そして小さく頭を振った。
「眠らせる。誰にも起こされない場所、でも寂しくない場所で」
戸惑う私の顔面に右手が突き出された。数瞬意味を考える。
ジッポを乗せると彼は立ち上がった。急に心細さを覚えた。彼にとんでもないことをさせようとしているのでは。彼の左手がはなれてしまったことへの不安が困惑を嫌にも駆立てる。彼は銃を右手に持ち、温泉と駐車場を隔てる川に向かって歩き出した。
清流の直中にずんずん進む彼を膝立になって見守る。ライフル銃を背負った彼は岩の一つを持ち上げて横にどけた。両膝を突いた彼が一瞬、何か祈るような仕草をした。腕で覆った胸に痛みが走る。
元通りにした岩をせせらぎが覆い隠した。振り向いた彼と目が合う。真っ直ぐ私を見て彼は戻る。彼の手には銃の他何もない。
湯船に浸かり直した彼は無言だ。思い切って尋ねてみた。
「いいの?」
幾つもの問いかけを込めた。
「あの人も北海道が大好きだった。ここがいい」
以前から何度も噂に聞いた場所だ。毎年夏、沢山の人がここを訪れる。彼も彼女を伴って来たことがあるんだ。投げ捨てたりしない人でよかった。素直にそう思えた。泣きながら思い人の写真を引き千切った同級生の姿を思い出していた。彼女のそれも決別だった。彼の行為はそれより静かだが、私の心を打つものだった。
「何を祈ったの?」
どうしても聞きたかった。
「あの人がいつも笑っていますようにって」
胸がきりっと痛んだ。切ない。
なぜ彼女は別れたのだろう。気持ちが離れてしまう何かがあったんだろうけど……でも彼が歩き出すのを見守って、確認してから別れを告げた。その人の優しさに心がもやもやする。
有り難う、と彼が呟いた。彼が過去に決別した理由はなんだろう。
ふう、と私は小さく溜息をついた。今日はさんざんな日だ。おしっこ漏らしたし、泣き喚いたし。もう恥ずかしい事が残っているとは思えない。彼を傷つけないように気をつけて聞いてみよう。
「好きな人、できたの?」
口を開いた瞬間から心臓が激しく打ち出したけれど、なんとか言い終えた。
「うん……悩んだけど。はっきり解ったんだ」
「悩んだ?」
「あの人と似ているんだ。それでかと……で、距離を置こうとしたけどできなかった。好きなんだ」
心臓の鼓動が高まる。ああ、苦しい。
「どんなところが?」
外見が、なんて言われたら絶対厭だ。
「自然が好き……それと美味しそうにご飯を食べる人でね」
期待が胸の中で飛び跳ねた。でも、その相手が私だと思うのはおこがましい。涼音かな。とても気が合うし。彼には涼音がいいのかも。そうだよ、そのほうがいい。私は普通じゃない……。
「祥子さんは好きな人とか気になる人、いるの?」
急に問われてどぎまぎした。
「いるけど、私駄目だから。前に話したよね、セックスが大嫌いで」
「何かあったんだね」
彼が誰を好きでも、私とは友達でいてくれると思う。全部話そう。
相づちも質問も無かった。無言で聞いてくれた。さっぱりした気分で対岸のサーフを見る。こんな話を露天風呂でするとは。いや、参った。
でも今だから話せたんだ。全てが愛しく感じる。川を流れる清流も、風にそよぐ草も愛しい、太陽の光も暖かい。枯れた草木も春になれば芽吹く。あのヒグマにも憎しみは覚えない。全部終わった事。私達は今も生きている。いいんだ、もう。
「わかった。その上で……私と付き合ってくれないか」
瞬きも忘れて彼を見詰めた。彼の顔が急速に紅くなっていく。
「冗談……だよね」
彼が即座に首を横に振った。大きく、はっきり。また私の鼓動が高まる。
「でも、私は……」
「祥子さんと一緒にいることが大事なんだ。祥子さんに我慢させたくない。あなたの涙なんて見たくない」
顔を赤らめた彼がはにかんでいる。急に視界がぼやけた。うそだ、こんな現実有る訳がない。もしかしたら、私たちはもう殺されているのかも。
でもそれでもいい。
「今日から友達以上として付き合ってほしい。二人とも互いをさらけ出していない部分もあると思うし、それを見せ合って理解し合うのが大事かなって。私が未熟だから失敗したんだと……正直不安なんだ」
慎重さが凄く嬉しい。私も異存なんて。でも、でも。
「後になって……そんなの厭だよ」
「無理強いは決してしない。許せる範囲でいい。そうだ、ちょっと背中を向けてみて」
彼に背中を向けて体育座りする。背後から抱き締めたりされたら抵抗出来ないのは承知だけど、彼の善意を信じたい。それでも足を抱えた腕に力が入ってしまう。正直怖い。
じっとしているとお湯が波打ち、背中に暖かくて広いものが押し当てられた。身体が硬直し、心臓が激しく鼓動する。
でも背中に接しているものは動かない。
恐る恐る振り向いてみる。彼の肩が、そして後頭部が見えた。彼は背中を接している。そう知った私の身体は強ばりが収まっていく。彼の鼓動を背中全体で感じる。これなら恐くない。電車で少し触れられただけでも厭なのに。彼なら安らげる。
「大丈夫かな」
うん、と頷いてから気付いた。うん、と声で応えた。
「シャングリラを見る祥子さんの笑顔をみて。ずっと一緒にいたいと思った」
膝に回した手を解いて彼に身体を預けた。腕が彼の腕に触れる。思い切って彼の手に自分の手を重ねると握ってくれた。
「大好き。だから」
呟きが頭一杯に響いた。胸が苦しい、痛い。でも嬉しい。また涙が零れはじめた。
「一緒にいてほしい」
素直に……彼の気持を受け止めよう。
「大好き……私も」
帰り道の川渡り、ハンドルを握らせてもらった私ははしゃぎにはしゃいだ。ずっと憧れていた夢を彼と実現していたと今更気付いたから。二人で楽しめるデート。今日も、その前も。彼に出会えてよかった。生きていてよかった。
彼と同じ部屋で過ごした翌日の今日は北海道最終日。私は生あくびを噛み殺し続けている。
疲れた身体と心は眠りを欲していたけれど無理。大あくびを連発する私を心配する彼に私は拗ねた!
夜、私は何度も彼を呼ぼうと思った。でも出来なかった。同じ部屋で別々のベッド。ウトウトすると必ず奴が姿を現した。金茶の巨躯、凄まじい威嚇。息のあるうちに内蔵を食われると聞いた恐怖を何度も。独りぼっちなら錯乱したかも。
幻影の恐怖に負けて彼を呼ぼうとすると、今度はセックスの恐怖が私を襲う。喉が硬くなって呼吸すら困難になる。少し離れた場所で安らかに眠る彼が憎らしく思えた。結局一睡も出来なかった。
「ごめん。今夜眠れなかったら付き合うよ。本当にごめん」
信頼してるから添い寝してと真剣に頼んだら、彼はもう一度約束してくれた。
欠伸を連発しながら札幌に出た。彼と相談して北海道限定ビールを山ほど買い込む。二人で手を繋いであちこち廻る。だるさと睡魔が吹き飛んだのはなぜだろう。
トイレに寄った彼を待つ私は、ショーウィンドウで煌めくライターに吸い寄せられた。ペアのフクロウが寄り添う姿を線彫りしたシルバーのジッポ。ワイドタイプとスリムタイプの二つがあるけど、共に同じ絵柄だ。
「お待たせ、チ……祥子さん」
混乱している彼に微笑んだ。どっちでもいい。呼び捨てにしてくれたらもっと嬉しい。そう告げると彼は顔を赤らめた。
定刻の十八時四十五分に苫小牧発大洗行きフェリーは出港した。デッキから見下ろすフェリーターミナルは水銀灯に照らされ、離岸作業を終えた岸壁係員が私たちにゆったりと手を振ってくれている。ツーリングで何度も見たこのシーンはただただ物悲しい。楽しかった日々が終わり、日常が待っているから。でも今は違う。彼が横にいる。彼は私を好きだと言ってくれた。二人でこれからの未来を目指して歩く。幸せな気持ちで私は遠ざかる水銀灯を見れる。
そうだ、今がいいかも。埠頭を見詰める彼に気付かれないよう、バッグを手探りした。
「これ、よかったら使ってくれる?」
彼に小さな紙箱を手渡した。包みを破き、中身を見た彼が破顔する。
「ペアフクロウか。こりゃ可愛いね。ありがとう! こっちは祥子さんが使うんだよね」
然別のエゾフクロウもシャングリラのシマフクロウも夫婦だったから、といったら彼が照れた。寒い通路は人も少ない。彼の腕を抱きしめてみる。うん、凄く落ち着く。私のライターは友人以上の付き合いから進展するまで大事に仕舞って、その日が来る事を祈ろう。私も変らなきゃ駄目だ。
お風呂を大浴場ですませた私たちは、特別室で静かに呑みながら夏と今回の旅の想い出を語りあう。ただのビールなのにとても美味しい。気付けば日付が変っていた。寝る前に部屋付属のお風呂で暖まる。当然一人ずつだ!
何を着て寝るか悩みに悩んだ。万が一を考えると簡単に脱がされない服装だ。でも普段はパジャマで寝ている。ぎっちりがっちりびっしり着込んだら眠れない。猟の保温下着も考えたけど、身体のラインがもろに出るから逆効果だろう。
彼が協力してくれた結果、私は浴衣の下にシャツを着込むという厳重装備でベッドに。彼はジーンズにTシャツそれに頑丈な革ベルトまで装着してくれた。その心遣いが嬉しかった。
エンジンの音が微かに響く中、背中合わせでいろいろ話した。迷ったが聞いてみる。
「恋人になるのはいつから?」
セックスといわれたらどうしよう。
「一緒に暮らしたいと思ったその日から」
即答してくれた。自然と背中を密着させると、彼はくすりとわらった。私は目を閉じて彼の温もりに浸る。幸せという言葉の意味を噛み締めながら。
心穏やかに目を覚ました私は、彼の後頭部に溜息を吐いた。寝顔を見たかった。
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