第14話 フクロウは見た

 急峻な山に挟まれた幅五十から百ほどの河を私たちは遡上する。まばらに木が生えている岩だらけの山肌から転がり落ちてきたのか、河原は大きな岩だらけだ。蛇行する河原で目立つのは群生した柳。遠くから見ると木全体が鮮やかな紅に染まって見えるが、近寄ると小枝が赤いと解る。彼曰く、ケショウヤナギだと思うけれど、この辺にあるとは知られていないと。

 渉猟四日目の今日は阿寒町の西方に入った。知茶布川の畔に車を捨てて遡上を始めて一時間以上過ぎた。足を濡らす清冽な水は踝程度の水深だ。彼が選んだブーツは水の侵入を許していない。急峻な山を見上げて私は微笑んだ。以前のツーリングでこんな風景は何度も見ていた。でも足を踏み入れたのは始めて。より深く山の中に自分の足で踏み込む渉猟が私は好きだ。ゆっくり周りを見、辺りの臭いを嗅ぎ、大気の澄んだ冷たさを感じる時間がある。そして考える時間も。

 私が背負うリュックには緊急用寝袋と焚き火道具、小さめのブルーシートと水そして携帯食が収まっている。リュックのストラップには携帯GPS。大げさに思えるだろうけども万が一の時に焦らず慌てずに行動する為の保険だ、と彼が渡してくれた。彼のリュックには、私のと同じ荷物プラス狩猟用品とガスバーナー等が入っている。でもGPSは持っていない。命綱になるかもしれない装具を私に渡した意味を私は考え続けている。

 彼と一緒だと幸せだ。

 宿で一人になると寂しくなる。

 多分私は友情以上の気持を彼に覚えている。でも。

 前を行く彼が静止した。私も停止して指示を待つ。

 ゆっくりと彼が左手で手招いた。私は足先を水底に沿わせるようにして前に進む。水面から靴底を離してしまうとせせらぎのそれと違う音を出すからだ。山中を歩く際は踵から足を下ろさず、爪先から下ろしてゆっくり踵に体重をかけていくと足音を消せる。当然踏みつける場所に小枝が転がっていない場所を探すわけ。

 水を飲んだり中州に生える草を食んだりしている九頭の群れが見えた。雄鹿は三頭。雌鹿のただ中に居る眼だって立派な一頭が群のボスか。群れから少し離れた場所にいる二頭は間男らしい。体格も角も貧弱だし。

 彼がハンドサインで後退を指示した。私は息を潜めて数歩下がり、向きを変えて下流に向かう。

 私を追い抜いた彼が囁いた。

「障壁がない。一度戻って川の対岸に渡り、可能な限り接近して狙撃するよ」

 二百メートルほど戻ると河が蛇行して完全に鹿の視界から私たちは隠れた。浅瀬を探りながら対岸に移動する。

 岩場に身を潜めての移動が始まった。中腰状態での無音行動は結構きつい。後退時間は二十分ほどだったが、発見した場所に戻るのに倍近く掛かったような気がする。革手袋で額と顎の汗を拭った。

 発見地点から百メートル以上群れに接近できたけど、そこから先は身を隠す場所が途切れる。リュックを下ろした彼がにじり進む。茶室に入る姿を彷彿とさせるその背中を見守った。

 彼が停止した。きつく左の二の腕に締め付けた幅広い皮のスリングを、左手首に巻き付けるようにした彼が膝撃ちの姿勢を取る。どう見ても五百メートル以上離れている。当たるの? 群れは私達に気付いていない。彼に目線を戻した。さっきより呼吸が滑らかになっているようだ。私はまだ荒い呼吸が収まっていないのに。銃口は微動だにしない。彼の全身から集中された気が漂う。殺気とは違う純粋なまでの精神集中だ。私は鹿の群れに集中する。初めて見る長距離射撃だ。彼が急所を外さないよう願った。

 衝撃波が身体を叩く。何とか目をつぶらずに済んだ。でも鹿は微動だにしない。

 外れたと思った瞬間、もう一度衝撃波が身体を叩き、それと同時に一頭のエゾ鹿が潰れるように倒れた。眼を瞬いた時、別の一頭が崩れ落ちる。それまで呆然としていた群の残りが一斉に逃走を開始した。水しぶきを上げて突っ走った鹿達は垂直に見える山肌を俊敏に駆け上る。私はその様を呆れて見送った。握れない蹄の足なのに、よくもまあ。

「確認に行こう」

 彼の落ち着いた声が掛かった。


 二頭とも文句なしの即死だ。二番目に倒れた一頭は真横から心臓と肺を貫かれ、最初の一頭は頭部に被弾している。着弾のショックで眼球が飛び出した死体を私は唖然と見下ろした。映画の世界ではよくあるけれど、現実にできる人がいたとは。

 手を下ろした彼が呟いた。

「群の多くが真っ正面を向いていたから、頭しか狙点がなかったんだ。心臓を狙うと弾丸が腹腔を貫いちまう。そうなったら肉が駄目になるし、半矢で苦しめるのも厭だったから頭部をね。外れたら逃げるし。弾の山勘落差計算が偶然合ったね」

 半矢とは手負いにすること。

 そして銃から放たれた弾丸は決して直線的に飛行するのではなく、重力に引かれて落下していくと以前聞いた。空気抵抗で速度が落ちるにつれて加速度的に落下率は増す。だから遠くの得物に命中させるには上向き、つまり仰角で発射すればいいと。四十五度で放出すれば弾丸の飛翔距離は理論上は最長となる。でも様々な要因が絡むので実際は三十度ちょっとが最適だそうだ。学校でのスポーツテストで投げたソフトボールを思い出しつつ、私は紙に軌跡を描いてくれる彼の手元をみていた。

 上向きに発射した弾丸が落下して目標中心に命中するように照準器は調整される。調整距離より更に遠い目標に命中させるには、二つの方法があると彼は紙に点線を描いた。事前の練習射撃で得た数値に基づき照準器を調整し、目標そのものをズバリ狙って撃つのが一つ。ただし日本では最大三〇〇メートルの射撃場しかないし、山で練習射撃するのは違法だから現実的ではないそうだ。弾道計算ソフトというものもあるけれど、使う銃の銃身の長さや装弾の弾頭重量や形状そして与えられる速度が大きな差をもたらすので参考程度にしかならないと。

 もう一つは三〇〇メートルで調整したまま、弾道計算ソフトで演算した数値を参考に実猟で試して経験を積み、目標の遥か上を狙って発射する方法。彼は経験と山勘でそれを実行し成功させたわけだ。

 ただし。冷え切った銃身から発射された一発目の飛翔コースと、すぐに二発目を放った場合のそれは異なるとも聞いている。初弾の発射ガスで加熱された銃身を通過するので、着弾は少し上にずれるそうだ。さらに銃身内部に切られた弾頭を回転させる溝の回転方向がそのずれに影響するので真上にずれるわけではないと。彼のダコタだと右回転で溝が切られているから斜め右上に着弾するそうな。

 一キロ超えの超長距離射撃になれば、地球の自転に伴うコリオリだかなんだかも計算すべきだと……私は物理が苦手だ。内心辟易しつつ聞いていた私に気付いた彼はすぐに話題を変えたけど。

 でも実際に彼は命中させた。二発とも。飄々と話す彼の顔を半ば呆れて見守る。

「直ぐ水で冷やせるからいい肉になるよ。これで通算十頭。打ち止めにしよう」

 三谷牧場の一日分を除いた頭数だ。私と彼とで半々、そして私の冷蔵庫に収まらない分は彼が保管してくれる。有り難う。

「川の水で内蔵も処理しよう。つかえない内臓は自然に帰す。石で覆うけれど一晩で消えるよ」

 ナイフを振るって食用に適さない内蔵を排除した彼は、弾倉を全装填のものに取り替えてあること、そして安全装置は外して薬室が空であるのを確認して銃を背負った。一度に二頭を引っ張りはじめる。私も慌てて一頭を担当したが直ぐに音を上げた。彼が足を一本手伝ってくれ、さらに水が助けてくれて何とか引っ張れる。それにしてもよく肥えていらっしゃる。

 一キロくらいは引っ張った。中州で二頭を本式に解体する。疲れを見せない彼は胃と小腸そしてレバーをせっせと流水で洗い清める。彼はスプーンの代わりにナイフの背を使う。私は皮剥そして精肉作業だ。今日は横たえたままで皮剥する。残り一頭は川の水に漬けて強制冷却中。

 痛み始めた腰を伸ばそうと立ち上がった私は、上流でカラスが乱舞しているのに気付いた。内蔵を埋めた辺りだ。彼にそれを告げる。

「ああ、先客のお食事が済むのを待っているんだよ」と笑う彼に首を傾げた。

「先客?」

「キタキツネ程度ならカラスは遠慮しない。オヤジが銃声を聞いてすっ飛んできたのさ」

 う。ヒグマはパス! 慌てて作業を再開した私に彼は柔らかく笑った。

「私も見張っているし風は下流に吹いている。血は川の水で流された。奴さんには内蔵の御馳走があるし、鹿本体に噛みついていないから執着しないよ」

「他のヒグマがここに来たら……」

「護るよ。必ず」

 心強い。彼がいると安心出来る。でも友達でいるべきなんだ。


 雌阿寒岳温泉で一晩過ごした私達は帯広方面に移動した。

 甘い物でも食べないか、と誘った彼が向かった先は有名菓子店。賞味期間が二時間というパイを始め、好みのケーキを選んでその場でいただいた。

 ケーキを食べつつ彼と今後を相談。帰りのフェリー予約は三日後だ。「山中をかなり歩くけれど面白い場所がある、よければ見てほしい」と彼が誘ってくれたので、迷うことなく首を縦に振った。彼と私の好みは似通っている。彼が面白いと思うならきっと私も。

 本日はそこに近い然別湖で一泊と決まった。例の三大秘湖の一つ、東雲湖がすぐ横にある。その話を振ると彼は微笑んだ。相談して午後の予定を決める。それだけの事が凄く楽しい。

 山裾と緩やかな丘陵の狭間にその湖はあった。岸辺は枯れた葦で覆われ、丘陵に密生する熊笹の緑とくっきりした境界を描いている。丘を吹き渡る風が葦と熊笹を波打たせる。水鳥が数羽、水面に逆立ちするようにして盛んに餌を食べていた。マガモのつがいだ、と彼が囁く。ハンターは青首と呼ぶそうだ。確かに片割れの首が碧緑に輝いている。その輝きに知床の海を思い出した。シベリアから渡ってきた彼等はここで休養を取り、湖が凍結する前に本州に旅立つ。茜に染まり始めた雲の下、微かな風の音そして葦と熊笹のそよぎしか聞こえない。お邪魔しているという気分になる場所だ。素敵な場所。心が無になっていく。


 踏みわけ道を戻る私の足取りは軽かった。彼とは友達の関係が一番いい。近寄りすぎず、離れすぎずに付きあえばいい。そうでないと彼を苦しめる……。

 途中で彼が手を上げた瞬間私も停止した。この数日で言葉を使わずに意思疎通が出来るようになった。ゆっくりこっちへ。

「この先の大きな岩がナキウサギの営巣場所だよ。運がよければ彼等の目覚める声を聞けるかも」

 胸の鼓動が高まった。小型のハムスターのような愛くるしい姿をネットで見て、ずっと心惹かれていた。氷河期の生き残り。

 彼が慎重すぎるほど慎重に前進をはじめた。私も真似る。岩の手前二十メートルほどで蹲って耳を澄ませる。

 二十分ほど経った。じれ始めていた私は口笛のような音を聞いた。聞き逃してしまいそうな微かな声。薄闇の中、彼がにんまりと笑う。あれがナキウサギの鳴き声なんだ。あ、また聞こえた。

 可憐な声を堪能し終わったとき、周囲は真っ暗になっていた。四時を過ぎると一気に暗くなる。ライフルで右手がふさがった彼が先に立ち、私が後ろから懐中電灯で照らす。彼が差し出した左手を意識せずに握ると、辺りを満たす暗闇への恐怖が一瞬で消えた。

 照らす場所、自分の足を下ろす位置そして私を包む安堵感について考えつつ足を運んでいた私は、

「ぎゃわーっ!」突如頭上から降ってきたぶっとく奇っ怪な音に飛び上がった。

「フクロウかミミズクだよ。ヤバイ相手じゃないからね、チコさん」

 背中を軽く叩かれた。でも喉が固まったようになって声が出ない。

「……なんだっけ、それ?」

 震えた情けないこの声が自分の声とは。

「目玉がまん丸で夜行性の鳥のあれ。妖怪でも幽霊でもないよ。挨拶してきたのかもね」

 妖怪と幽霊は違うのか? いや、ええと。そうだ、あれだ。

「優さんの事務所にも沢山いたもんね」

「北海道に来る度、必ず買うんだ。可愛いから習慣になっちゃって」

 うん。うん、だいぶ落ち着いてきた。

「ちょっとライトを貸して……いた。ああ、エゾフクロウの夫婦だ。ほら、木のうろの中」

 見上げると白いブナの樹が照らされていた。うろの中に黒い物が見える。

 目を凝らすとそれが瞬きした。眼だ。

 輪郭がようやく解ってきた。羽毛がブナの樹肌にそっくり。ハート型の顔に丸い大きな目と黄色い嘴がアクセント。物珍しそうに私達を見下ろす四つの眼。うわ、かわいい。あんなに仲よさそうに寄り添って。彼はライトの中心を彼等からずらしていた。うーん、あの小柄な鳥があれほど大きな声を出したとは。

「フクロウは夫婦で子育てするんだ。産卵は二月から三月。フクロウは一度夫婦になったらずっと一緒らしいよ」

 羨ましいと思いつつ目を凝らす私だが、自分が何をしているかようやく気付いた。彼の腕を胸に抱き込み、身体をびったりくっつけている。収まり掛かった鼓動が一気にレッドゾーンに飛びこんだ。まずい、ばれちゃう。でも急に手を離したら彼を痴漢扱いするような。抱きついたのは私だ。彼を横目で見る。どうしたらいいんだろう。息を殺したい。でも苦しい。口で息をしたら喘いでいるように聞こえるだろう。でも鼻で呼吸しようにもすごい鼻息になるのは……ああ、耳まで熱い。

「アイヌの人々がコタン・コロ・カムイ、集落の神様と呼んだシマフクロウは、このエゾフクロウよりもう一回り大きいんだ。道東の棲息個体が有名だけど、中央部のこの辺りにもいるそうだよ。魚が主食だから、川や湖沼のある場所に棲息する。逢いたいねえ」

 何か必死に説明しているような。彼が私にライトを向けないことだけを祈る。照らされたら死んでしまう。

 よし、彼がライトを動かした瞬間離れよう!


 部屋に戻った私は、手にしていたビニール袋を座卓に乗せた。一つは缶ビールが、もう一つには紙袋が収まっている。濡れたタオルを干しながら明朝の予定を考える。明日はホテルで朝食を食べてから出発する。お風呂は四時からだそうな。生まれて初めて茶色い温泉に入った。よし、目が覚めたらお風呂、それから彼を誘ってご飯を食べよう。そう、彼も朝風呂が好きだ……携帯メールで打ち合わせせねば。

 布団に腰を下ろして、ビニール袋から取り出したビールの封を切る。今日も一日お疲れさま! そうだ。涼音に報告しなきゃ。メールでいいね。

 携帯を坐卓に放り出し、別の袋から取りだした紙包みのテープを丁寧に剥がす。掌に転がり出たのは木彫のフクロウ。風呂の後、土産物コーナーで彼と一緒に買った。彼が買った子は右に小首を傾げている。私のは左に。彼の子と比べて私のは小さい。

 湖畔のエゾフクロウ夫婦に似た可愛いフクロウを肴にビールを飲む。彼もフクロウを見ながら飲んでいるかも。「どれも可愛いね。チコさんはどれがいいと思う?」と問われて、私が指さした子を彼は躊躇無く選んだ。そしてわたしが片割れを。きっとこの子達はペアだ。あ、彼にしがみついている様を見たフクロウ達も私達を。それって……。

 怪しい笑い声に我に返った。小首を傾げたフクロウが私を見詰めている。君か、今のは。私達は友達だからね、君。

 携帯が震えた。涼音からメール。

「窓の外、湖だろ。窓ガラスにびっしり幽霊が張り付いてるぞ!」

 なん……!

 畳を見詰めるようにして窓辺に怖々近づいた私は障子を叩きつけるように閉めた。

 煌々と灯をともし、布団に頭まで潜り込んで。そしてテレビの深夜放送。ああ、眠れない! いざとなったら携帯で彼に助けを!

 あ、また涼音からメール。

「マッシーの部屋に逃げ込んだか? よし、嘘も方便だ。おやす~!」

 こ……このやろ!

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