第12話 子供殺し

 翌早朝、三谷牧場に別れを告げた私達は一路北上する。目指すはオンネト─湖の北方エリアだ。ヘッドライトをハイビームにしたハイラックスサーフが走る。道ばたで時々光るのはエゾ鹿の目玉。夜間に餌を食べたエゾ鹿は水を飲んでからねぐらに戻る。昼間は腹這いになってうつらうつらしながら、牛のように胃袋の中身を反芻して過ごすという。爆睡出来ないとはお気の毒。猟期はこんな生活を送る彼らだけど、オフシーズンは昼間に行動するそうな。話に聞く狩猟圧ですかと問うたら、嫌がらせしているつもりかもよと彼は苦笑いした。

 ハンドルを握る彼がエゾ鹿猟の種類を説明してくれた。昨日のが牧場撃ちで難易度は一番低い。場所と時間を間違えなければ確実に出会えるそうだ。ただし柵付の私有地ゆえ、地主の許可が無ければ違法狩猟だと。逮捕されれば量刑プラス鉄砲めしあげなんだとさ。当り前だな。私だって自分の砦である家のなかで好き勝手されて我慢できるわけがない。

 次に難しいのが流し猟。林道を車で走りながら道路脇にいるエゾ鹿を探して撃つ狩猟法。経験と情報に機動力を加味した狩猟方法で、数を取るには一番だそうだ。山は国有と私有に大別される。が、柵が無いもしくは私有地なので入るなという警告看板が無い限りは順法だそうだ。国有地の場合、入山許可証を事前に取得するのが望ましいと。なるほどなー。

 一番難しいのが自分の足で山に踏み込み、鹿が残した痕跡をを探して追う渉猟しょうりょう。これが彼の好みらしい。経験も大事だがそれ以上に運がないと駄目なんだよと彼は笑う。私にも想像がついた。ハンターよりエゾ鹿が圧倒的有利だろう。音そして臭いに敏感だから彼らは絶滅せずに生き長らえている。人間はそれが劣る分知恵を使わなければ接近すら出来ない。でも自然は気まぐれだ。風向きは何時変るか解らないし、彼らは自分に有利な地形に陣取るだろう。なるほど、限りなくフェアかも知れない。

「そう。無駄骨に終わることの方が多いんだよ。でも楽しいね。真剣になれるから」

 ジッポの炎が照らした彼の顔は微笑んでいた。今日は流し猟を教えてくれる。


 夜が明けた林道をサーフはひた走る。運転席と助手席の窓は全開。ヒーターが全力運転しているが、窓から吹き込む寒風に車内は冷え切った。

 でも私は寒さを感じるどころか逆に火照っている。速度計は四十キロから六十キロを行ったり来たり。フロアに突っ張る両足とアシストグリップを握る左手が攣りそうだ。道はでこぼこ、そして曲がりくねっている。

 でも彼はスピードを緩めずに前方と左右に目を配っている。手袋が冷や汗で湿る。ハンティングだよね、ラリーじゃないよね。鹿を探そうと前方と左横を見るけど、樹木や草が流れるように後ろに去って行くだけで何も解らない。砕石や岩を踏み飛ばすタイヤの音が風の唸りと共に私の耳を打つ。

「六名様ご一行、みっけ」

 軽い感じで彼が呟いた。そのまま右カーブを曲がりきってから穏やかに減速してエンジンを切る。ハンドブレーキを引かずにギアをパーキングにいれておしまいだ。

 ドアを閉めずに下りて、と囁かれた。

 キャンバス地の銃ケースを持った彼の後を追う。徐々に彼は身体を低くする。私もそれに倣い身を屈め、さらにブーツで踏む足元にも気を配って前進する。

 道路脇に出た彼はケースからライフル銃を取り出し、中身のなくなったケースを足下に置いた。銀色に光るステンレスの銃身、鉄の機関部とスコープはつや消しの黒。ストックは灰色の合成樹脂製だ。ダコタという銃らしい。

 ポケットから出した弾倉を静かに銃床の真下に押し込んだ彼がボルトハンドルとかいう取っ手を起こして後ろに引いた。ハンドルに連結されているボルト本体が機関部の中で滑らかに下がる。口を開けた機関部から金色の弾が覗いた。彼が静かにハンドルを前進させるとボルト先端が弾を銃身に押し込んだ。ハンドルが確り下ろされる。どうやら発射準備が完了したらしい。

 私をちらりと見た彼は、すぐに眼を前方に戻してじりじりと前進していく。私はその場に留まって彼に視線を据えた。居場所不明の鹿を探すより、撃つ瞬間の彼を見た方がいい。

 彼が滑らかに銃を構えた数秒後、轟音と共に銃口から広がる衝撃波を目にした。激しく彼の上体が仰け反る。凄まじいその勢いに幹を突くアカゲラの姿が重なる。絶対身体に悪い。むち打ちになりそう。

 仰け反る彼の右手が素早く動き、金色の筋が宙を舞う。滑らかに身体を戻した彼がもう一発撃った。また仰け反った彼の右にまた金色の線が舞う。ああ、金色の物は空薬莢だ。手動式なのにこんなに早く狙って撃てるんだ。あれ、三発目は?

 暫く銃を構えていた彼が銃を下ろした。安全装置をかけて弾倉を取り替えるが、眼は向こうを見詰めたままだ。私は彼に近寄り、雑草の根元に転がる長く大きな空薬莢を拾い、まだ熱いそれをポケットに収めた。三三八さんさんはちウィンチェスターマグナムという弾で、北半球に生息する陸海の猛獣全てに有効な威力だそうだ。つまりホッキョクグマ、グリズリーを含む巨大熊、セイウチ、さらにムースにシベリアタイガー。虎って熱帯にいるんじゃないの?

 弾倉に三発、薬室一発で最大四連発だとかなんとか。バイクのスペックなら解るんだけど。ちなみに海賊船長もこの弾を使う銃を秋に納品された。彼より年なのに。船長の頚椎が耐えられるか真面目に心配だ。

 銃を腰に構えた彼が歩き出す。撃った地点から六十メートルほど離れた地点で二頭の牝鹿が倒れていた。

 また彼が手を合わせる。私も。

「チコさん、悪いけど車を戻してくれるかな。少し走れば車を回せる空き地がある。ゆっくり乗り入れてあの辺で止めて」

 うん。サーフのボディが薄い傷だらけだった意味が漸くわかった。

 林道を歩く私はふと思いついた。辺りを見回す。大丈夫だよね……私は大きなストライドで駆けだした。


 今回は鹿を立木の枝を使ってぶら下げ、それから腹を切って内蔵を重力利用で出すやり方を教わる。地面に横たえたまま必要な部位を切除するのは山賊バラシというそうな。

 直線的に腹を裂くと腸がずるっと出てくる。それから肛門を抉って膀胱を丁寧に取り出し、最後に気道と食道を切断。直ぐに洗えないので内臓はすべて廃棄だ。黒いごみ袋に入れて、破れないように八袋使って念入りに密閉する。

 彼が持ち上げたそれに下から新しい袋を被せていた私は最後に持ち上げてみた。よちよち歩きがやっとだ。見かねた彼が車に運ぶが口笛吹いている。しみじみと男女の体力差を思い知らされた!

 様々な思いを脳裏に走らせつつ汚れた手袋を交換する私をジェイジェイジャージャーと耳に触る掠れ声で騒ぐ鳥が見下ろしている。身体は灰色基調で頭は薄茶色をした鳩くらいの大きさだ。神社で見かけるドバトにとても似ているけど、鳴声が決定的に違う。

「ミヤマカケスだね。カラスの仲間だから雑食性でね。おこぼれ欲しがってるんだよ。欧米ではキャンプ泥棒とか呼ばれるんだ。それと他の動物の鳴声を真似するから森のおしゃべり屋とも。連中ゴミ袋を狙っている。目を逸らすしかないな」

 たしかに物怖じしないというか図々しい。切り取った脂肪の塊をゴミ袋と反対側に置いた彼が背中を向けた瞬間、カケスたちは大騒ぎで飛び付いた。彼は怒った声を上げる。がカケスたちに怒り返された。なにやってんだろう。

「カラスももうすぐやってくるよ。もしかすると冬に渡ってくるワタリガラスに会えるかも。凄く大きいんだ。さて、再開しよう」

 私たちを突き出さないといいんだけれど。しかし賑やかだ。

 二人でせっせと手を動かす。倉庫の手順と同じだ。新聞紙とキッチンペーパーで念入りに包んだ二頭分のゲームバッグをダンボールに入れ、サーフの屋根に取り付けた鋼鉄のルーフキャリアに載せて縛り付けた。骨は皮で丁寧に包み込み、それもごみ袋に入れた。サーフのリアゲート下に装着された鋼鉄籠にブルーシートで包んだゴミ袋を縛り付けて完了。後に残ったのは血痕だけだ。大騒ぎして脂肪を突いていたカケスとカラスは平らげて満足したのか、今は比較的静かに私たちを梢から見下ろしている。物欲しげにブルーシートの周りを歩くカラスもいるけれど、私たちの眼を気にして手を出さない。いや、くちばしか。

「餌付けになったりしないかな」

 バッグから着替えを取り出す私は心中に湧いた不安を聞いてみた。観光客から餌を貰ったキタキツネの末路は彼から聞いている。

「大丈夫。連中はマヌケな人間から肉を盗んだつもりでいるよ」

 人差し指で自分の顎を指し示して彼が笑う。なるほど! あ、優さんがマヌケというわけじゃなくて。

「盗むという緊張感があると大丈夫なのかも。オンネトーキャンプ場の名物狐も餓死していないし。耳がかぎ裂きになっててね、確かに同一個体だよ」

 ほう、名物狐はオンネトー太郎と呼ばれる泥棒ですか。ちょっと困る名物では。

「まったくね。泊る度になにかしら盗まれてさ」

 へえ……私は優さんをじろじろと見た。マヌケとドジ……根源をたぐると同じやも。


 私たちは黄金の葉を散らすカラ松林が続く林道を走る。目指すは釧路市。早く宅配業者の冷凍庫に入れないと肉が傷んでしまう。出発直前、私たちは猟服を普段着に着替えた。オレンジ色の猟服は山野で目立つだけでなく、車内で着ていても対向車に簡単に気付かれる。銃を携帯していると宣伝しているのに等しいから、防犯上小まめに着替えるそうだ。脱いだ猟服は裏返して後部席と荷台でエアクリーニングしている。身体を酷使した後だから細く窓を開けたままで丁度いい。汗臭かったら彼に悪い。野中温泉のお風呂が脳裏にちらつくけれど、お肉が大事……でも今あのお湯に身を委ねたら極楽だろう。浴室にみちる硫黄の香。窓から差し込む日差しに輝く薄青のお湯。湯船を白く彩る温泉花。湯上がりの身体に染み入る冷え冷えビール! かっ! あきらめろん……。


 谷を挟んだ向かいの尾根一面が黄金色に輝いている。くるくると回りながら落ちたエゾマツの葉が地面を覆う。この素晴らしい景色が温泉とビールの誘惑を振り払った私の目を釘付けにする。谷底を流れる小川の辺りは蔦類とおもわれる紅色が目に鮮やか。壮大な景色に目を奪われていた私はふと思い出した。先程から気になっていた件がある。

「雄鹿って数が少ないの? 雌ばかりだけど」

 雌ばかりこれで五頭。夏に旅すると牡鹿も結構見かけるのに。彼が言わない分は不明だけど、偏重しているような気が。

「ううん。さっきも居たけれど撃たなかった」

「なぜ?」

「角に興味ないし、雄の肉はこの時期臭いわ固いわで」

「臭い?」

 苦笑いしてから彼は口を開いた。

「今は鹿にとって一年一度のセックスシーズンなんだ。鹿は一夫一婦制じゃない。強者の雄だけが囲う雌とセックスできる。若くて弱い雄は決闘して雌の群れを奪おうとする。子孫を残すために醜悪な戦いを繰り広げているわけ。一方の雌はといえば、間男でも群れの王でも遠慮せずに受け入れる」

 思わずどぎまぎした。種の保存本能だ。顔を赤らめている場合じゃない。けどやりまくると口にした彼が男だと急に意識した。そっと横目で彼を見る。あれ、普通の顔をしている。

「雄鹿は絶倫でね。二三回腰を振って射精、すぐに別の雌に挿入射精。これを延々一ヶ月近く繰り返す。水しか飲まない個体が殆ど。暇が出来るとヌタ場でオナニーまでする。ヌタ場は虫除けのために身体にドロを擦り付ける湿地ね。結果精子を身体になすりつけるわけ。体中から発散させるザーメン臭が雌に排卵効果をもたらすそうだけど兎に角臭い。肉にも臭いが移っているし、餌も喰わずにやりまくってるから臭くて固くて不味いの三重苦なのね」

 なんともえぐい言葉の数々。あの臭いを思い出して顔を顰めたその時、尾を引くホルンのような音が耳を打ち、私は身体を強張らせた。なに、今の?

「今のは若い雄が帝王に挑戦状を送った吠え声。コールという。アレを無視できないのが帝王の辛い立場でね。間もなく若い美女を巡って壮絶な──」

 もっと大きく迫力のあるホルンが鳴り響く。長く続くその響きに鳥肌が立った。鹿にあんな図太く凄まじい吠え声が出せるの?

「おお、ハーレムの帝王が挑戦を受けた。コールは体格と体力で音量が決まる。挑戦者が負けそうだ。どっちもチコさん側の谷間にいるね。見れないかなあ。凄くエキサイティングなファイトだよ」

 声だけでも十分凄い。速度を落として彼は助手席側を注視する。彼の身体が近づいて私は身を固くした。彼が発した単語が頭の中で渦巻く。

 全力疾走して正面から角をぶつけ合うファイトだと彼は説明する。分岐した先端が鋭く尖っているので、途中で弱気になると脇腹にそれを食らう。死ぬ事も珍しくないんだと。私が抱いていた大人しい鹿のイメージはがらがらと崩れ去った。そしてなぜか、神の子池で見た彼の姿が脳裏にありありと浮かぶ。私はそれにショックを受けた。彼も……オスなのか。

「残念、見当たらないね。雄を撃たない理由はもう一つある。雌は強い雄とセックスして子供を産む。雄はいくらでもいる。数を減じるためなら、雌を最優先で減らさないと意味がないわけ」

「あ……じゃあ雌鹿たちは」

「殆どが受胎している。私が殺した命は二倍だよ……」

 彼の声はどんどん弱まって途切れた。心配になって彼を見る。彼が浮かべた沈痛な面持ちに私は息を呑んだ。

 私は窓の外を見るしかできなかった。


 宅配便営業所を経由して清掃センターに着くまで彼は殆ど話さなかった。強い人だけど心は脆いんじゃないか。彼も船長も殆どの人からは理解されない義務を黙って果たしている。それはハンターの良心に背いてしまうわけだ。市井の私たちは彼らの働きを知らない。私は知ったけれど、どうしたらいいのか解らない。

 解体済みと未解体で鹿の処理費用は変わる。彼が運ぶ残滓をチェックする担当者に聞いてみた。鹿ほど大きいと丸ごと焼却できないので費用が変わると。夏の駆除シーズンには四トントラックで搬入される。高気温が原因ですぐに内臓が腐ってボールのように膨らむそうだ。

 親切に話してくれた担当さんに頭を下げて車に乗り込んだ。

「ね、優さん。余裕のあるうちに約束のキンキ、食べに行こうよ」

 落ち込んでいる彼にどんな会話を振ったらいいのか考えての結論。恋人同士ならどこで泊まろうかで話が盛り上がるだろうけど。

「ああ、メンメね。でも」

 思い出した! 同じものだったのか。でもってなにを躊躇うの?

「あれ、時価扱いで結構高いよ。いいの?」

 時価……でも彼が元気になるのなら。

「食いしん坊だから興味津々。それに約束したよ」

「じゃあ遠慮なく。オホーツク沿岸でとれるんだ。船長に挨拶がてら知床に行こうか」

 やっと彼に笑顔が戻った。よかった。

 屈斜路湖と摩周湖の間にある川湯の町営浴場に寄っていこうと彼が提案した。

 その建物を見た私は既視感を覚えた。ウトロの婦人部食堂に趣が似ている。つまり、あれです。

 駐車場で銃の機関部と銃身をネジ外す彼の手元を注視する。試させて貰ったけれど、私の筋力では特殊工具は全く動かなかった。スコープが付いたままの機関部と弾を入れた防水バッグを持って彼は男湯に入った。

 ぽかぽかする身体に窓から流れ込む風が心地よい。鄙びた銭湯でお湯も雰囲気も素敵だった。休憩所のテーブルに置かれた一冊のノートに書込まれた旅人の声が北海道らしさだ。

 温泉の感想を話題にしながら車は知床に向かう。

「風呂上がりに冷えた牛乳を瓶で飲めるのが嬉しいね。昨今パックばっかりだから」

 牛乳があんなに美味しいとは。

「今夜はウナベツで泊まろうか。あそこのお湯はお勧めだよ」

 ウナベツ温泉! 異論なんて。ウナベツにもフルーツ牛乳あるかな。


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