第9話 餌付けはテスト!!
髪の毛を思い切り掻きむしった私は呻きながらヘッドバンキングをはじめた。気分は歌舞伎。ひとしきり髪の毛を振り回す。仕上げに思い切りよく首を回す。凄い衝撃が脳と鼓膜に響いた。恒例のストレス発散を終えても苛立ちは左程も軽減されない。涼音が遊びに来てから一週間たつのに。
ちょっと歌舞伎過ぎたかな。よろけながら椅子から立った。怠い。そして眠い。でも苛立ちが勝っている。原稿を受け取って貰えるまでこの生活が続く。妥協したら次の依頼はない。
饐えた臭いを放つコーヒーメーカーの濃縮残滓を流しに捨て、薬缶を火にかけた。緑茶にしよう。次に両親の仏前に朝のお勤め。頑張ってますよ、と報告した直後の大あくび。二人の位牌が笑ったような気がした。
気分転換と実益を兼ねて洗濯機のスイッチを入れ、掃除機もかける。独りぼっちの家は静かだ。回覧板猫が来てくれないかと期待している自分に気付く。ティッシュが好きなかりかりご飯も用意してある。離婚後実家でひっそり暮らす私の元にふらりとやってきた彼女は、ティッシュ一箱使って紙吹雪を一山作成し、悪びれずに昼寝をしたあげく食事まで要求した。それ以来ちょくちょく遊びに来てくれる。でも本名もどこの家の飼い猫かも知らない。横の奥さんはミイと呼んでいる。
炊飯器に残っていたご飯をのりの佃煮と納豆でお腹に収める。咀嚼しつつも頭はいっぱい。
洗い物を済ませてお茶をすすっていると脱水終了のブザーが鳴った。よっこらしょ。
籠を持ってベランダの引き戸を開ける。セミの鳴き声が私を包み込んだ。朝早くからセミ達は全力運転だ。北海道の青空みたいな透明感はないけれど。今日も空は碧く高く、神はそこにいらっしゃる、らしい。あの人も朝食食べているかな。よし、頑張ろう!
湯船に浸かってマッサージしてから首を回す。あくびはほどほどに。思い出すんだ。潮の香りも熊笹を揺らす風の臭い、岩礁で群れていたウミウの数も、アカゲラが樹を突く音も。人間の脳は記憶を忘れる事はないと昔聞いた。視覚だけで無く五感で感じた全てを覚えていて、臨終の際見るあれはそれが再生されるとか。いや、それはいいから!ほれ、思い出せ。
碧い光が私を包んでいる。ああ、水中か……この水の色は神の子池かオンネト─湖だな。透き通った光の中をたゆとう水草。水に沈んだ倒木も碧い。白い川砂がもこもこ盛り上がる。その中を素早く泳ぐ魚はオショロコマ。となるとここは神の子池。オンネト─湖は酸性湖だから魚は棲めないと優さんが教えてくれた。綺麗だ……本当に綺麗。息継ぎしてまた潜ろう。あれ、浮かべない? 苦しい。やばい、溺れる!
藻掻いた私は苦し紛れに目を開く。視界一面が水面。慌てて身体を起こすと湯船の保温蓋とそれに載ったメモ帳、水のボトルが眼に入った。あぶな、もうちょっとで私の知らない世界のドアを潜るところだった。開きたいのは記憶のドアだ。
湯気で曇った鏡を見つつ、タオルで髪の毛を揉む。今この瞬間も気怠さと狂おしさが身体の中を駆け巡っているけれど、お風呂に入る前よりは落ち着いた。すこし寝よう。
新しいタオルを身体に巻いただけで寝室に向かう。今夜は過ごしやすい。エアコンの代わりに窓を少し開けてベッドに倒れ込んだ。窓から吹き込む涼風が北海道を思い出させる。うん、今年の北海道はとても楽しかった。彼のおかげで笑っていられる。あの人と一緒に走れてよかった。彼はもう寝たよね……。
「こんな種は存在する理由がないと決めつけるのは人間の尺度であり、それは驕りなのだろうと最近考えるようになりました」
人間の尺度……オオカミを駆逐したのも人間の勝手な理屈だよね。何かしらの理由があるから存在してる、か。人間の存在理由は何だろう。
「鹿の数が多いと森が壊滅します」
ああ、オオカミによる間引きができなくなって、環境が温暖化したから冬に餓死の形で自然淘汰も……自然災害の呼び水になると判断したのも人間か。地球にはどうでもいい事なのかもしれない。
「食われる為に飼育されている家畜はいい、野生の動物は駄目だという意見には頷けません。どっちも感情を持っています、生きています」
どっちも生きている、感情を持っている。人間が決めたから構わないというのはエゴだ。餌を与え面倒を見ているからいい? もし私達を飼育する存在がいて、ある日突然食うから殺すといわれたら? そんな勝手な理屈、納得出来るか! 信じていたのにって恨んでやる! 人間を養う存在は……地球。
飛び起きた。窓から差し込む月明かりが照らす室内を呆然と眺める。ここは私の寝室? でも今。
ベッドから飛び出した私はデスクに突進した。
だめだ、小さすぎる。メモ帳を投げ捨てて周りを見回す。焦りが、恐怖が心を焦がす。
月明かりに照らされたカレンダー。駆け寄って壁から引きはがした。止めていたピンが何処かに飛んでいったけど無視。床に膝をつき、身体を屈めて裏返したそれにボールペンを走らせる。文字で一杯になると捲って次の裏面に書き殴った。
全部書き終えた私は呆けて床に剥き出しのお尻を下ろした。ようやく思い出せた。夢の中であの知床の一日を再体験出来た。彼の説明を聞きながら二人の私が別々に考え、その考察をなんとか記憶したまま目覚めた。書けなくなって悩んだとき、夢の中でヒントを何度も貰った。でも、過去を再体験したのは……身体が震えた。
もしかしてこれも夢か。恐る恐る頬をつまんで捻り引っ張る。痛かった。その傷みが嬉しい。神様に感謝した。
原稿を上書き保存した私はすぐCDRとバックアップ専用ハードディスクにコピーした。『日本の環境保全と自然、それに携わる人々の戦い』と銘打った原稿用紙換算百五十枚の記事原稿だ。消えたら泣くどころの騒ぎじゃない。よし、完了。
椅子から立ってノビをする。やり遂げた。もう九月も下旬に近い。考察を深め、四つの県を駆け回って追加取材をした。対象は鹿と猪そしてカワウの有害駆除と被害実体の調査だ。知床で見たウミウの親類は漁業関係者の大敵。写真は対象動物のみを掲載し、推移説明を省く為に使う各種グラフも用意した。
原稿をPDFファイルに変換し、テキストデーターと共にメールに添付。気合いを入れて拝む。よし、それいけ。
メーラーにもう一度手を合せてから首をコキコキ。さて。彼にコンタクトを取るぞ。原稿を読んで意見してほしい。心臓がどくんと大きく打った。私の考察を彼はどう受け取るだろう。現場を知らないド素人と笑われるか、下手をすると怒られるかも。でも私なりに真剣に考えた結果だ。異論をねじ伏せるような人じゃないとおもう。でももしそうだったら……嫌。
メールの送信ボタンをクリックできない。彼は私との再会を望んでいないかも。
溜息を吐いた私はマウスから手を離し、机の引き出しからクリアファイルを取り出した。収めていた紙片を眺める。メーターカウルに挟まれていたあのメモに書かれた言葉はピースサインと同じ意味かも。擦れ違うライダー同士が「
彼は私をどう見ていたのだろう。危なっかしいから保護衝動が沸いただけかも。無実の彼を海に叩き込んだ私なのに、スーフォアを放り出して助けてくれた。世間一般は彼の行為を傷害罪とみる。だけど私は彼の行動を全面的に支持する。
でも……なんでそうまでして。
面倒見のいい人なだけかも。だから登山も同行を許してくれたのでは?
いつから私は押しが強くなったんだろう? 彼がそういう人の扱いに長けていたのか。「オバサンには逆らうな。居なくなったらすべてを忘れろ。」というのは対オバサン戦略の根幹だ。ふむ、オバサン……あれっ、やば! 頬も手の甲も張りがない。いつからこんな……おちつけ、これは疲れだ。戻ってからずっと頑張った。この六日間、一日三時間程度しか寝ていない。そうだよ、疲労が肌に一時的に出ただけ。かもかもばかり考えるのはやめて、お風呂に入ってたっぷり寝よう。ちゃんとしたご飯も食べなきゃ。メールは元気になってから!
洗面台の鏡に映る魔物に驚愕した。山姥だ。顔を背けて浴室のドアを潜る。
がくんと首が垂れて目が覚めた。降り注ぐ温水。胡座を掻いた足とお尻が痛い。シャワーで滝行しちゃった。どこまで洗ったんだっけ……洗顔フォームを掌に取る。ふふん、毛穴は十分開いたさ。シャワーでよかった。湯船で寝たら溺死体になるところだった。ぶよぶよよりまだシワシワのほうが。
すぐ届いた彼からの返事に胸が締め付けられる。これはいくら何でも早すぎる。嫌な予感しかしない。
椅子の周りを歩き回っていても仕方がない。勇気をふりしぼってクリック。ああ、どうか……おお! 驚いている様子だが、拒否は感じられない。よかった。
返信メールをペチペチ作る。拙稿のご意見をいただきたく存じます。つきましては大鷹さんのご都合をお教えいただければ幸いです、と。大鷹さんと書くとなんかへんだな。いや、敬語が駄目だぞ……署名完了、それいけ! 神様仏様諸々様。アーメンソーメンリャンタンメーーーーーン!
ああ、私舞い上がってる。
ほんの三分程で返信が来た。パソコンの前で仕事している様子。「不定休なので翠川さんの都合で決めて下さい。」とある。添付ファイルで簡易地図も送ってくれたし、グーグルアースのアドレスまで添えられていた。美容院に予約して、その翌日に御願いしよう。
訪問日決定、よしこれで……いやまて、自然に親しむ彼だから鼻も効く筈。北海道では私は常にすっぴんだった。化粧台を掻き回した私は肩を落とす。無香性どころか微香性の化粧品もない。買いに行こう。お菓子も買わなくちゃ。失敗は許されない。
通りから斜路で結ばれた地下に会社の玄関はあった。上階は一般住居風だ。
白く塗られたコンクリート壁に取り付けられた金属扉には、シャッターまで併設されている。どこにも窓がない。そして監視カメラのレンズが私を睨んでいる。うっ、なんで赤外線警報まで!?
熱烈歓迎の真逆感が漂う入り口を前に足が竦んだ。深呼吸をしながら身なりを確かめて。
インターホンを押した後で気付いた。シャッターフレームの内側で光るのは対人センサーだ。震えが走った。ドアの施錠を解く音に心臓が締め付けられる。
「いらっしゃい。お久しぶりです、翠川……いえ、祥子さん」
和やかに微笑む彼が顔を出した。北海道でみたあの笑顔が嬉しかった。
十五畳程の部屋。床は板張りだ。私のヒールがたてる音からするとかなり分厚い。青いダンガリーシャツの袖を捲り、チノパンにスニーカーの彼はコーヒーの支度を始めた。ホームページの写真はネクタイを締めていたので、正直拍子抜け。
一言も発さずに原稿を読み終えた彼が面を上げた。不安が胸を駆け巡る。
「もう一度読ませて下さい。自由に見て貰って結構ですよ」
流れるような動作で彼の手がショーケース辺りを指さした。今日も掌全体で示している。
では遠慮無く、と一番気になっていたショーケースに歩む。内部照明で照らされたケースの中に、二十挺程の鉄砲が立てかけられていた。鉄砲を見るのは初めてだ。磨かれた木部はコーヒー色だったり紅茶色だったり。木目が綺麗。それが鉄部分を染めた深い青黒色とマッチしている。綺麗だなと素直に感じた。木ではなくプラスチックを使った黒一緒な鉄砲は雰囲気が怖い。
ショーケースの上を見た私は思わず微笑んだ。木彫の小さなフクロウがずらりと置かれている。可愛い表情と姿でちんまり座る彼等は一つとして同じものがない。誰が選んだんだろう。彼かな。いいなあ、フクロウが部屋の雰囲気を和らげている。
かなり大きい木製の事務机にはパソコンのモニターとキーボード、それに電話が置かれている。脇の軽量机にはパソコン本体とレーザープリンターが載り、書類が山積みだ。
机の後ろには騎乗したカウボーイを描いたタペストリーが掛けられ、それには英語でウィンチェスターとある。何処かで聞いた覚えが……父が好きだった西部劇でだったかな?
窓はどこにもない。流しの上で換気扇が廻っているだけだ。玄関以外に二つあるドアも鋼鉄ドアだ。歩く度に心地よい音が響くフローリングは濃いコーヒー色の艶を放っている。剥製はどこにもない。剥製が苦手な私にはとても有り難い。ヒグマや鹿が壁でじっと私を見ているなんて耐えられない。うん、この部屋は居心地がいい。そういえば監視カメラのモニターがないな……。
彼が原稿をフォルダーにしまった。急いで椅子に戻る。木材を綺麗に曲げてフレームとし、暖かな柄のクッションを着けたイスの座り心地はとてもいい。
彼が真っ直ぐ私を見詰めた。ああ、緊張する。
「いいと思いますよ。私は疑問も違和感も覚えません」
私はプロ。お世辞は無用。
「有り難うございます。何処か変な表現とか、掘り下げ不足とか……お気づきならおっしゃって下さい」
「専門知識や予備知識が無い方々が読むなら十分です。掲載される雑誌の購買層は普通の社会人、多分男性メインかと」
え、雑誌を読まれた?
「ええ、当然読みました。正直に言うと初めて買いました」
手強い。ええと、それで。
「男性には狩猟本能があります。嬉しい箇所がありました。カワウの駆除従事者が「食わなきゃと思うんだけど、臭くて無理なんだ。」鹿では「前はともかく、今は皆飽きちゃって食べてくれないし。可哀想だけど全量消費できなくなった。」猪に関しては「美味いから気合いも入るよ。」と。これはいずれも食を意識した真実の声です。書いて下さって有り難う。多くの人に理解してもらえるでしょう」
二度読んだだけで一字一句間違えないってどういう集中力だ。
「食害被害者の声は報道されます。でも、実際に駆除する人の声はね。ハンターは殺しだけを楽しんでいるという誤解は、そこから生じると思うんです。釣をする人に「人でなし」とか「殺しが楽しいか」という人はまずいません。でも我々は言われる。食べる為に殺すハンターですけど、殺害だけを捉えて欲しくありません。正直傷つきます。祥子さんは『食』を表現してくれました。読んだ人の一部は気付いてくれるでしょう」
優さんと船長がそういう話をしていましたから。
「ああ、記憶力いいですね」
えへへと笑う。凄く苦労したなんて言えない。
「感情に訴えない文章がいいですね。必要以上に感情的に書いて煽るマスコミが多いでしょう。白熊が溺れるのは温暖化が原因だとか。あれはよくない。氷に開いた穴もしくは波打ち際にいるアザラシは、襲われたら当然水中に逃げます。それを追いかけて白熊も飛び込むんですよ。夢中になって追いかけまくった挙句、気付いたら頭上が氷に覆われていて浮上できない。エラ呼吸できないんだから当然溺死します。アザラシも案外それを狙って逃げる先を決めるのかもね」
思わず笑った。横浜で見た白熊はものすごく泳ぎが達者だった。でも確かにそうだ。アザラシには敵わない。
「まあ、何でも温暖化ですよ。それが金儲けになるからね。でも、まあね」
「プロパガンダは私も嫌いです。これを読んだ人がじっくり考えてくれたら、と願いながら書きました」
彼がはっきり頷いた。嬉しくなる。
「でも考える事は大変だ。時間も掛かるし頭も疲れる。違う意見を述べれば叩かれる。となれば大きな声に同調した方が楽。でも教条主義者の言葉を盲信したら危ない。百人が百通りの考えを持って、それをすりあわせた方がいい。途中で間違いに気付いてもすぐに修正できますからね」
「異論反論を聞きながら主張するって、ある意味厳しいですね」
「頭ごなしの否定しかしない人が結構いますからね。ノイジーマイノリティと呼ばれる少数派だけど声が大きい人々ね。声の大きさで相手を黙らせるというか……でも、だからこそというと語弊があるかも知れませんが、私はどんな意見でも人の意見を封じようとはおもいませんね」
知床の船上でもそうだった。諭して考えさせて、そこで止めたっけ。封じてはいなかった。あの男性、そして乗り合わせた人達はあれから考えているのかな……。
「あ、ちょっと補足。罪のない他人を害する意見と行為だけは絶対に認めない」
頷きながらしみじみ思う。おかげで今も元気です。
「優さんの意見をもっと知りたいんです。よければ話して貰えますか? 録音しながらの会話でお願いしたいんですけど」
「構いませんよ。もし私が放送禁止用語口走ったら、伏せ文字入れてね」
ボイスレコーダーを取り出しながら笑ってしまった。
「長々とごめん。予想される人類の未来は暗いわけです」
野生動物と家畜の差やら、人間の欲がもたらした現状、人類の食糧問題などを私の誘い水で喋った彼が溜息をついた。人類が近い将来飢餓に直面するはずだ、と言った私の意見を彼は全面肯定した。否定して欲しかった。
「有害駆除で殺す野生動物に自分の姿が重なっちゃうんだよね。人間の都合で排除する。彼等も生きる為に食っている。言い分はどっちにもある。じゃあ地球が人間を評価したらどうなります? 害獣ですよ。環境を破壊し、種を滅ぼし、いまもせっせとそれを続行しているんだもの。神に選ばれたとか、産めよ増やせよ地に満ちよと許可されたからって主張してもね」
ええと、神ですか?
「自分さえよければ何をしてもいいと断言したんだ。自分を神とほぼ同格にしている。他の種を押しのけて、現状に満足する事無く資源を食いつぶしているのが人類。その反動を自然に押しつけて平然としている。地球にとっては害獣だよ。有害駆除で対象をスコープに捉えたハンターは、対象に人間の姿を重ねて見てしまう。人間も害獣そのものじゃないか。地球を食い殺すヴィールスが人間なのかな。ならば俺達を駆除する存在って何だろうってね。そして何かが人類を罰するのではと畏れる」
コーヒーを啜る彼を凝視した。話がとんでもない方向に向かっている。
「強硬な自然保護を主張する団体には人類滅ぶべしと叫ぶのもいるんです。ふざけるなと思う反面、何処か頷いてしまう自分もいる。駆除をやると、勝利なんてあり得ないと思ってしまう。きりが無い。道路工事で使うローラー車、解る? うん、あれがじりじりと迫って来る気分になる」
相手を殺して食べることで己の命を長らえる。その真理を直視しているのが彼等。その上で未来に不安を、いや、絶望しているのか。
「諦めるしかないのかな」
滅びるとは口に出来なかった。彼は首を横に振る。
「まだ間に合うと思う。地球を食いつぶして破滅するなんて情けないよ。人類だって存在理由があるはずだ。その理由は生産的な物であってほしい」
どうしたらいいと思うの?
「まず地球全体での出産制限が最優先。次に自然資源の保護。食料ですね。とくに海洋資源の漁獲制限。海は人類最後の希望になると思う。だから汚染と乱獲に歯止めを掛けないと。それと生活の見直し。贅沢している余裕はもうない。最後は宇宙進出の促進。いつか別の星系に移民するまでは何が何でも。そのための技術開発が食糧増産にもつかえるはずです。長時間狭い宇宙船の中で生活するには、搭載した食料だけで足りるわけはない。宇宙船の中で食料を生産するのが必須です」
すぐに出来る事もあったし、夢もあった。でも聞いて安堵した。そうか、暗い面ばかり見ていては駄目なんだ。未来を信じて手探りするしかない。
「前向きな意見で安心しました。最後に教えて下さい。自然と人間は優さんにとってどういうもの?」
「自然が好き、それは地球が好き、地球にいる動植物のすべてが好き。人間も自然の一部だから基本好きですよ」
「ただし、ゴキブリは目の前を歩くな、ですね」
「そう! 私に見えない場所で活動するなら応援するね」
彼の大笑いに私も和した。あ、丁度いい。聞いちゃえ。
「レイパーも嫌だと」
「ああ、大嫌いだ。人の行為中最悪の類いだ」
声の調子に気付いて私はレコーダーを停めた。深いわけがありそうだけど。もし差し支えなかったら。私の目に気付いたか、彼は続けてくれた。
「親友の彼女が襲われてね。心が壊れて自殺した。彼も苦しんでね。キリスト教の学校に進んで神父になった」
そうだったんだ。神父様は結婚しないよね……。
「彼女の魂も……そうだ、シュークリームがあるんだ。祥子さんから貰ったお菓子と一緒に食べましょう」
冷蔵庫から箱を取り出す彼の背中を見詰めた。優しい、そしてシャイな人。
皿に載せられたシュークリームは特徴的だった。表面が細かく泡、チーズをオーブンでしっかり焼いたような泡に覆われたとても香ばしいシュー。二つ貰ってしまった。甘い物も好きだと言った彼は私が渡したクッキーを喜んでくれた。
北海道のお菓子を話題に話す最中、私は閃いた。この人の狩猟に同行して自分の目で見たい。彼の思考には狩猟が大きく影響していた。彼と私の考えは大きく違う部分はない。でも、私が狩猟を自分の肉眼で見たらどうなるだろう。よし、お願いしよう!
「案外物好きだね、祥子さんは」
「両親からもよく言われました」
特に母がね。お小言を聞けなくなったのは寂しいことだ。
「獲物が殺されるその瞬間を見るんだよ。目を逸らさずにいられる?」
「経験した事がないから解らないです」
「それもそうだ。じゃあ私が殺した獲物を解体するとき、祥子さんはどうする? 内臓を取り出して、皮を剥いで肉にするんだよ。血まみれだし、とても生臭いよ」
「手伝うから教えて下さい」
魚を捌くのは得意だ。やり方さえ教わればきっとできる!
「うーん……最後の質問。あなたはその肉を自分で食べる?」
はい、と即答した。野生動物のお肉って海由来のもの以外食べた事ないけど。
「試しにエゾ鹿のステーキ、食べてみる?」
即答した私の顔を彼はまじまじと見てから微笑んだ。
目の前におかれた皿に大判のステーキ、添え物のニンジンとコーンが綺麗に盛りつけられている。肉を焼いた瞬間に感じた牛肉と違う臭いは気にならない。ナイフを入れる。オージー牛より少し固いな。肉汁ソースを絡めてから口に入れた。ゆっくり噛みしめる。
「美味しい!」
ナイフのスピードがどんどん速まる。彼も旺盛な食欲で肉片を口に運んでいる。白のシャブリがシンプルなソースに合う。お酒を飲めばここに居られる時間も増える!
お皿に残ったソースまでパンで綺麗に拭って私のお腹に収まった。ご馳走様。とても美味しかった。
「よかった。洗っちゃうからのんびりして」
調理中から素早く洗い物をしていた彼が流し場に消えた。料理も手早かったけど、片付けも迅速だ。何者だ、この人。肉に塩こしょうは解る。でも肉を包丁の背でたたいて柔らかくしたし、牛の脂身を溶かし出した油に薄切りのニンニクを入れて香り付けするわ、フランベするわ。合間にナイフで皮を剥いたニンジンを電子レンジで茹でていた。調味料もすべて手加減。それでいてあの味だ。シングルというのは本当かも知れない。普通の女があれを見たら引く。料理に口出しする人だと嫌だなあ。
「ごめん。デザートのタルト、解凍できたんだけど切ってくれる?」
小ぶりなパックを手渡した彼は洗い物に戻る。通販で買ったが、想像以上に大きくて一人では食べきれないと仕舞い込んでいたそうな。なるほど、確かに賞味期限が近い。
ベークドキャラメルタルトを食べ終え、二杯目の紅茶を楽しんだ。
「料理が趣味なの? 凄く手慣れていたけど」
それとなく気になった点を聞いてみる。
「ううん、必要に迫られただけ。学生時代は全然やらなかった」
学食と麻婆豆腐の素そして炊き込みご飯の素で四年間生き延びたそうだ。彼女に作ってもらったとおもうけれど、これは流石に聞けない。
「男の人はコンビニご飯とかに頼ると思っていましたけど、間違いでしたね」
私も締め切り間際は愛用している。
「いや、もうコンビニ飯だけは金輪際パス」
もしかして飽きるほど食べた?
「バツイチなんだ。原因の一つがそれ。三年以上毎日さ。仕出しの弁当も駄目なんだ」
三年!? 身体壊さなかった?
「うん、おかしくなった。それで自分で作るようになったんだ」
「ごめんなさい。私もバツイチなの。勘弁してください」
怪訝な顔で彼は私を見た。理由は聞かないで。
「……猟の件、かなり体力使うけど。それでもよければ」
「お願いします! 私がへばったら、構わず置いていって下さい」
「そりゃ出来ないよ」
安心した。勢いで言ったけどやっぱり困る。
「場所は丹沢と伊豆。十一月十五日から二月十五日までだから、祥子さんの都合で日を決めよう」
「北海道じゃないの?」
効率よく取材するには泊まりがけがいい。忘れないから。
「行くけど……日帰りは無理だよ?」
「空港脇ですぐ獲れるとは思いませんよ」
「最低一週間程は。祥子さんには仕事があるし」
やった! 一週間以上、みっちり勉強できる!
「空けます。優さんの日程に合わせます」
「車の周囲何十キロって誰もいない場所に行くんだよ」
「北海道ですものね。いつも通りに狩猟して下さい」
彼が呆れた眼で私を見た。何か変なこと言ったかな?
「これ、バツイチ彼女ナシの欲求不満。非常に危険な男。わかってないでしょ」
自分を指さすときは指一本なんだ。
「優さんはそんな人じゃありませんよ。信じてます」
「ご両親が絶対駄目って言うよ。危険察知回避能力ないの?」
その方面の勘は壊滅的に鈍いです。でも優さんは違う。
「両親はもういないんで、私の親友に聞きますね」
携帯を引っ張り出してスピーカーモードでコールする。嘘をつく気はないから。
「珍しいね、祥子から電話なんて。淋しいなら遊びに行きましょうに。厚木にいるから少し時間掛かるけど」
「涼音、ちょっと意見聞きたくて電話したの。北海道で私を助けてくれた優さん、覚えているよね」
「アグレッサー・マッシー? 忘れるわけないじゃん。それで?」
優さんの表情が一瞬強張った。アグレッサーってアグレッシブの……やばい。いや、いまは。
「一週間ほど北海道ハンティングに同行しようと思うんだけど」
「一週間一緒に過ごすの? 祥子が?」
「ちょっと。部屋は別々だよ」
「マッシーの安全の為には必須だね。前科一犯のさっちんだ。寝ぼけて関節外しかねないわ」
顔を背けた優さんの肩が震えた。
「ちょっと!」
「しっかり勉強させてもらいなよ。お土産ドカンとよろしく!」
よっし! 優さんが電話と自分を交互に指さし始めた。どうぞ。
「失礼、大鷹優です。初めまして」
「鳳笙涼音と申します。初めまして。祥子がいつもお世話になります。ご迷惑かも知れませんが、祥子に勉強させてやって下さい。見た目と違ってタフですから心配ご無用です。済みません、祥子に代わっていただけますか」
出た、涼音の瞬間猫かぶり、そして怒濤の寄り切り。流石だ。でも彼は狼狽えている。許可に同意に推薦のコンプリートですよ。
「ハンズフリーで話してるよ」
「げっ! なんで最初に言わないかな。状況を短く明確に!」
お、皮を脱ぎ捨てた。ごめんね。
「記事を読んでもらってね、折角だからいろいろ教わって、北海道ハンティングに参加希望したら、鹿肉ステーキまで食べさせて貰ったの」
「日本語だけどねえ……今どこ?」
あれ、私なんだかはしゃいでるっぽい。
「海老名だよ。優さんのお宅」
「すぐ横だね。話をちゃんと聞かせなさい。優さん、私もお邪魔していいですか」
「歓迎しますよ」
「有り難う。住所を教えて下さい。メモります」
私の顔は緩みっぱなしだ。話を聞きたいという口実で、噂の彼を見るつもりだな。
「途中で解らなくなったら電話して下さい。お腹減ってますよね」
「いやあ、そんな貴重な食材を。いえいえ、お昼抜きでしたけど。では後ほど」
通話終了。今日も涼音はたくましい。
「騒がしいけど、いい子なんですよ」
本当です。折り紙付きですよ。ちょっと不安になってきたけど。
「賑やかな方が楽しいよ。しかしアグレッサーとは。参ったな」
まずい。解らない振りをしよう。
「攻撃的とか殴り込みとかの意味。いや、顔合わせにくいな」
やばっ! ああ、墓穴を掘った。どうしよう。
「いいですよ。さて、急いでステーキの準備をしないと」
よかった……涼音め。すみません、ほんとに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます