第4話 一投げなら誤認

 疾走するクルーザーの周囲を滑らかに泳ぐ彼等の白いお腹が海水の翠に染まって目に鮮やか。その優美な姿から目が離せない。サービス精神旺盛なのか、背びれを出してから潜り、また浮いてを繰り返す。浮いてきた彼らの目までも見える。

「船長! あれなんていうイルカ?」

 三人娘が風に逆らって叫ぶと船長が振り向いた。

「しらねえ! 鯨のコッコ、子供かもな! いや、白い部分もあるな。もしかすっとシャチのコッコかも!」

 皆爆笑した。おいおい、模様が全然違うってば。

「腹が白いからカマイルカ! 勉強しようよ!」

 訂正した彼も船長も素敵な笑顔でイルカを見ている。動物が大好きなんだ。ハンターだけど。

「細けえこたあ気にすんな、どれも哺乳類さ!」

「この極楽とんぼ!」

 皆が身体を折って笑う中、私は考え込んだ。

 マサルさんは面白い人だ。私達の知らないことを沢山、そして深く知っている。彼の世界を取材したい。でもどうアプローチしたらいいのか。軽い女と思われるのも嫌だ。利益の為に自分を餌に使うなんて思われるのは真っ平だ。

 ちらりと手すりを掴む彼の左手を見た。指輪はない。本当に独身なんだろうか。礼儀正しく名刺を渡して取材を申し込むか。でも私の個人情報を晒すのは危険だ。別に媚びてもいないのに勘違いする男が多すぎる。彼はどうだろう。半日以上一緒にいるけれど、私を見るときと自然を見るときとで笑顔に差がある。自然に対しての方が開けっぴろげに微笑む人だ。私は嫌われていないけど、だからといって好かれてもいないわけだな。ふむ。中庸、ニュートラル。はたまた無関心。どれも私にはありがたい。

 男は嫌いだ。後腐れの無い関係狙いのアホばかり。彼女や奥さんがいるのに誘う脳みそが信じられない。ネットでウィキを見た私は爆笑した。ヒトの記載だ。だれが書いたのか知らないが、よくぞあそこまで男の本質を書いたものだ。ただただ頷くばかり。あまりに感心しすぎて、何に興味を持って検索したのか忘れたほどだった。つまり男は動物だ。動物故に理性なんてすぐに忘れる。

 私がバツイチだと知った男の行動は決まっている。二つだけだ。

 その一。子供がいるのか気にする。いると応えると腰が引け、子供がパパを欲しがってと追い打ちを掛けると逃亡する。自分の子孫だけ残したがるというウィキの記載に誤りなし。子供はいないけどね。

 その二、じゃあねで逃げるのはダブル不倫願望に取り憑かれた馬鹿だ。私が本気になったら不味い、地雷女は遊び相手として不向きというわけだ。離婚したくないなら火遊びするな。離婚済ませてから恋愛しろ! それも嫌なら風俗行けっての。安く済みなおかついつでも会える女が欲しい。男なんてそんなのばっかり。ああ、嫌だ嫌だ! 電車に乗れば身体を押しつけてスリルを楽しむ馬鹿共。今の仕事も編集長が女だから続けられるようなものだ。前の担当は屑だった。酒席では率先して酌をする女であれ、セクシーな酔態で目を楽しませろ、多少のタッチに目くじら立てるな、適度な期待を持たせつつはぐらかして期待値を高めさせろ、そして頃合いを見計らって一緒に席を立てよと。私は大泥棒三世を手玉に取るあの子じゃない。バツイチ女はすべからず男に飢えている? ステレオタイプ馬鹿はくたば──。

「ど……た?」

 風に消されそうな声と共に肩を軽く叩かれた。びっくりして振り返ると離れていく大きな手が見えた。自動化された身体と神経が即応する。身体を回し、左手で手首を掴んで軽く引っ張る。引き戻そうとする一瞬の無意識反射を利用して私は相手の懐に飛び込み、腰を大支点として足を払いざまに手首を下に振り抜き、そして思い切りよく離す。決まった!

 戸惑いが浮かび始めた相手の顔が離れていく。私は目を見張る。

「え?」

 彼の声をはっきり聞いた。盛大に上がった水しぶきはすぐに船尾に流れる。

 今のは!

「船長! 誰か落ちちゃった!」

 三人娘の一人が叫び、皆も喚き始めた。思いが真っ白になった私はフロアにへたり込んだ。これは……まずい。


 海面に浮かぶ彼の周りでイルカが群れている。彼は余り身動きしていない。

 惰性で船を寄せた船長が彼を引っ張り上げ、彼は海水を滴らせながら荒い息を吐いた。その顔色は真っ青だ。

「なにやってんだ」

「足が滑った。悪い予感はこれだったんだ。ああ、乗るんじゃなかった。でもまあ、イルカたちが面白がっていたからいいか」

「俺たちも面白かったわ、あほすけ!」

 真剣に心配していた皆が苦笑いした。笑わないのは私だけ。

「ドルフィンスイムしたくてわざと落水したな。ナんマラ冷てえのによくやるよ」

 娘達はうらやましそうに彼と海面をみる。イルカたちが私たちを見上げていた。

「マジ冷たかった! 冷たくて痺れた!」

 娘達が残念そうに嘆息した。私は彼の顔を直視できない。

「風邪引くぜ、脱げよ。でもぶらつかせんなよ。船長命令だ」

 バスタオルと毛布を投げ渡した船長は再スタートした。彼は諦めきった表情でベストを脱ぎ出す。最初は手伝おうとした船客も、笑顔で遠慮されると手が出せない。風が最も当たりにくい場所、つまり私が怯えて座っていた場所を彼に提供するのが精一杯だ。失礼、と呟いた彼がジーンズ風革パンツに手をかけると女達は一斉に背を向けてイルカの可愛い姿を愛ではじめた。私もそれに加わりたい。

 タオルを腰に巻き、毛布を身体にきつく巻き付けた彼が船尾で服を絞って戻った。

「あの……ごめんなさい」

 意を決して声をかける。囁き程度の声しか出せないのも彼の顔を直視できないのも、罪の意識というよりも自己保身。情けない。

「柔道と違うね。気付いた時には飛んでた。合気道かな?」

 小声で返された。思い切って顔を上げる。顔は笑っているけど微かに引き攣ったまま。唇はまだ青い。罪の意識が私の心を切り刻む。

「本当にごめんなさい」

「もう大丈夫だから気にしないで」

 気にするなって言われても……服をたたむの手伝います。

「少し温いけど、お茶どうぞ」

 三人娘の一人が水筒のコップを差し出した。一番元気な、そして派手な娘だ。コップから立ち上る湯気は一瞬で風に消えていく。

「有り難う。いただきます」

 礼を言った彼が一口啜った。溜息を漏らす彼に微笑んだ彼女は、冷たい目で私をちらりと見る。見られたか、それとも聞かれたか。

 いや、なにやら挑戦的な光が彼女の目に。

「ドジなんですね。意外性があって可愛い!」

 違う。馬鹿に八つ当たりされた被害者だ。

「子供の頃からドジだったね。きっと情けない死に方するんだろうな。ドジ男ドジ故に死し此処に眠る、とか墓標に刻まれる運命かも」

 カップを抱えた彼が笑うと娘も大笑いする。それは駄目だ。顔が火照るけど!

「私はマサルさんと呼びますよ。私は祥子です」

「ありがとう。翠川祥子さんね。響きがいいね」

 褒められた! それも響きを。こんなの初めて。

 お? 茶娘が一瞬きつい眼で私を見た。

「私はミオ。どう?」

 今風の名前で羨ましいよ、ってなぜにあんたが。

「素敵な名前だね」

「ありがと! 一緒に写真撮ろう。ブログにアップするからさ」

「公開処刑は勘弁してよ」

 エチケットがなってないね? 押しの強い小娘だから当然か。

「じゃあアップしない! アキ、撮ってよ。んー、これじゃ面白くない。よし、私も毛布に入る!」

 彼の抵抗は潰えた。鍛えられた裸の胸に抱きついてミオとやらが微笑む。が、彼は喜んではいない。どちらかと言えば情けない顔をしていた。こら茶娘、いつまで抱きしめてんの。全く今の若い子は。なに、アキと交代? 彼の気持ちも考え……元凶の私が何を。目立たないように私は彼から距離を置いた。

 視線を感じて其方をみる。ミオとやらが私を見ていた。私に気付いた彼女はすぐ視線を彼に戻す。わざとらしいその笑い声が勘に障った。


 ぐずぐずしていた私は最後に埠頭に降りた。まだ揺れているような錯覚を覚えながら彼の姿を探す。が、どこにもいない。ショートホープをポケットから取り出しながら渡り板を歩く船長に聞くと、無線で連絡したから嫁が家の風呂場に連れていったよと返された。だよねえ……どうしよう。

 考え込んだ私に船長が囁いた。

「あんた、何かやってるよな。切れがよかった」

 ぎくりとした私に悪戯っぽく船長は笑いかける。

「今日のお客さんはラッキーだ。ヒグマを見れたしカマイルカが落水したマサルちゃんをからかう姿も! いや、おもしろかったよな!」

 豪快に笑いながらターボライターを仕舞う彼に私は愛想笑いした。

「イルカって何でも遊びにしちゃうんですね。船長、私達と一緒に写真お願い!」

 アキとミオそして名知らず娘が群がってきた。帰りかけた他の船客も足を止めてカメラを取り出す。クルーザーをバックに写真に収まりたいらしい。カメラをやりとりして交代で写真を撮り始めた皆を私はぼんやりと見る。

 ポーズを決める船長が思い出したように口を開いた。

「あのイルカ、マサルちゃんを心配して留まったんだろうな。至近にいる人間の感情を読み取れるんじゃないかって、前に読んだ本に書いてあったわ」

 感情?

「子供の頃、夜釣りの船から転落して暫く気付かれなかったらしいんだわ。夜の海は怖いぜ。助かったのは奇跡だな。そのトラウマで深い場所だと身体が動かなくなるんだとさ。プールなら五キロ程度は泳げるらしいけど」

「へえっ、意外だ。あの人、怖がっていたわけ?」

「可愛いなあ。やっぱ気になる」

 黙りなさい、茶娘!

「アイツのメンツを思ってごまかしたんだ。俺は優しいからよ」

 ばらしたよっ!

 私、彼を殺しかけたんだ。ライフジャケットつけていても、精神に負担がかかれば心臓麻痺だって。真っ青だった……とぼとぼと荷物を預けた事務所に向かう私の背中に声がかけられた。船長だ。

「元気ねえなあ、どうした?」

「あの人にちゃんと謝りたいんです。待たせて──」

「やめとけ」

「でも」

「アイツにもメンツがある。あんたがなんか思い詰めた風だったから心配したんさ。あんたはさっきあやまった。あいつはやり方を間違えた自分が悪いと思っているはずだ。なのにまたあんたが謝ったら、奴には負担になる。お終いにしなよ」

 彼との付き合いが長い船長だ。きっと正論なのだろう。

「アイツはその辺の奴と違う。あんたもくよくよしちゃ駄目だよ。旅を楽しめよ」

 どの辺がどのように違うんだろう。考えながら船長の横を歩く。

「さっちゃんだっけ、車で廻ってんのかい」 

「いえ、バイクです」

「へえ、最近じゃ珍しいな。あんたのブーツを見て、てっきり車だと思ったんだけどよ」

「オフロードバイクなんですよ。これ、軽登山にも代用出来るから」

「ああ、フェンダーと前輪が離れたあれね。もしかしてネイチャー・トレックでマサルちゃんと会ったのかい」

「ええ、予定のガイドさんがこれなくなって、彼が臨時に」

「なら納得だ」

 は?

「なんでマサルちゃんがサッちゃんと一緒に歩いていたのか首傾げていたわけよ。アイツが女に声かけるわけねえからさ」

 事務所のロッカーから荷物を取り出した私の眉が寄る。

「お昼を何処でと迷っているとき、彼に声かけられましたけど」

「ま、座って。コーヒーでいいか……あいつは女が苦手なんだよな。ほれ、女子学生の三人組がいただろ。マサルちゃんの連絡先聞きたがっていたけどね。でもあいつは連絡先を教えねえし、今晩一杯なんていわれても絶対行かないね。観光旅行だからな。ちょろっと観光して自然を眺めて、すぐに土産物屋に走り込む。そして高級ホテルで快適な夜を過ごす」

 そっか。アドレス交換せがまれたんだ……でもあの娘達は彼には似つかわしくないよ。騒がしすぎだと彼も感じたんだろう。

 コーヒーを啜った船長が続ける。

「そういう観光客が殆どだ。俺もそれで商売してるけど、時々思うよ。こんな遠くまで折角きたのに、それで満足かよってね。あいつは知床に惚れこんでんのよ。原始の自然があるってね。ルートから外れて歩き回ってよ、下手すりゃ死ぬんだぜ。でも止めない。俺は原生林が正直怖い。人間が居ついちゃいけない世界さ」

 ハンターが何言って……。

「あいつは喜びながら悲しんでる。自然に興味を持つ人が増えたって喜ぶ。でもさらっと見ただけで帰る人に悲しんで。馬鹿だよ、それが現実だ。世界遺産だ何だいっても、所詮カネよ。本当に自然を保護したいなら、人間を一切排除するしかない。それは俺たち観光業者の存在を否定するけどよ」

 ショートホープを取り出した船長が眼で私に問いかけた。どうぞ。

「自然に興味を持ってくれて嬉しいさ。ネオンよりよっぽど健康的だし、将来に繋がる。マサルちゃんも俺と似たようなこと考えてるかもな。人は謙虚であるべきだってさ」

 戸惑いはじめた私の思いは顔に出たらしい。船長が笑った。

「何でさっちゃんに奴が声をかけたかだな。さっちゃんが自然により近づこうと大汗かいて苦労したからだ。その時点で他と違う人になった。その人がどこで食うか迷ってるらしい。身体を酷使して腹も減っただろう。でも、ここに来るまでに美味いものは食ったはずだ。なら普通の飯でも美味い昼飯を、って考えたんだろ。でも客引きみたいな真似はしねえな。奴が目指す店の前で、さっちゃんが迷っていたから声を掛けたかな」

 はあ、漁港婦人部食堂でした。

「あそこはお勧めだ。ラーメンも美味いぞ、出汁がいいから……基本奴は他人に干渉しないんだ。そんな奴があんたを気遣ったからさ、珍しいなとミラーで見てたらほっちゃられてやんの。ありゃ最高の飛びっぷりだった」

 大口を開けて笑う船長の口に、マグカップを押し込みたい衝動を必死に押さえる。

「その話はもう……二つ質問があるんですけど」

「ん?」

「マサルさんと私に気付いたのはいつ? まさか、かもめウンチのあの時じゃ」

 あの瞬間は……。

「なんだそりゃ? 俺も男だ、べっぴんさんが事務所の前をうろうろしたからチェックしてたぜ。予約名簿をパソコンで見たら、該当しそうなのは一人だけ。暫く経ったらさっちゃんが男と一緒に歩いてきた。知床まできてナンパかよと思ったら、さっちゃんだけが入ってきた。ナンパのカネけちるんじゃねえ馬鹿たれへたれが、とよくよく見りゃマサルちゃんだ。訳わからねえと飛び出して捕まえたさ」

 それが彼の不幸の始まりで。船長にも責任の一端はある。絶対ある。

「次ですが、なまらってなに?」

「すげえとかそういう意味だよ。なまらでけえな、とか。強調するときはなぁんまらとか」

「否定の意味ですよね?」

 船長を睨むと戸惑いの視線が戻った。

「違うよ。うちの孫は超とか使うけどよ。ほっちゃる、あめるってのも若い奴は使わなくなったな。ほっちゃるは棄てる、あめるは腐ってる、痛んでるって意味」

 ふむ。鍵を捨てる、彼を投げ飛ばす、脳味噌腐ってる、か。ということは、なまらべっぴんは……がさつな人でもお世辞はいえるわけだ。あ、コーヒー有り難う。美味しかったです。

「そうかい? インスタントだけど」

 はは、実直な人でもあるらしい。よく解らない人だ。

 長居してしまって済みません、と席を立つ。

「さっちゃん、この時間に焦ってないんだからウトロ泊だよな? 夕陽が綺麗に見れる場所、知ってるかい」

「ええ、連泊です。夕陽ポイントって野営場ですよね」

 キャンプ場のある高台から見る夕陽がすばらしい。私はいつもそこで見る。人が多すぎ、騒がしくて情緒に欠けるのは致し方ない。

 船長がにやりと笑う。

「もっといい場所がある。ほれ、あそこのオロンコ岩。あっちに階段があるからさ、頑張って登ってみ。雑味のない景色だ。苦労は数十倍で報われるぜ」

 彼が指さすのは巨大な岩。カモメが群れる岩山が子供にしか思えない大きさだ。

「今日は風もないから最高さ。感激しなかったら今日のクルーズ料金、半分払い戻すわ。朝八時に来てくれ」

 そこまで言うなら試してみようかな。

「直ぐに暗くなるから長居すんなよ。んじゃ、したっけー」


 心の中で罵りながら足を上げてステップを踏み続ける。午前中のトレッキングが結構足に堪えている。太腿がパンパンで震えている。岩壁にへばりつくように付けられた狭い階段は、つづら折りで延々と上に続いている。下を見ると腰から下の力が抜けそうになった。真下は見ちゃ駄目だ。大丈夫、この階段は見た目より強固だ。絶対崩れない。手すりも折れたりしない。真上も見ない方がいいな。

 罵りが呪いの呟きに変わり、語録が尽きた時になって私を圧迫し続けていた岩肌が消えた。私は目を見張った。潮風に波打つように揺れる草原が目の前に広がり、黄色や紅色そしてオレンジ色の花が咲いている。オロンコ岩と刻まれたポールで羽を休める一羽のカモメ。その向こうに広がるオホーツク海は遙か彼方で空と交わっている。爽やかな海風が私の汗を優しく拭ってくれるのを喜びながら私は何度も周囲を見回す。

 誘われるように小道を歩く。オレンジの花はエゾカンゾウ。紅色の花は何だろう。どことなく薔薇を思わせる花だ。赤紫の花はアザミだろう。黄色のラッパ水仙のような花も綺麗。こんな岩山のてっぺんに花園があったとは。ゆっくり歩みつつ私はただただ感嘆した。

 足を止め、空を見上げる。透明な光に満ちて何所までも広がる空間。こんなに空が近い場所があったのか。素敵だ。とても素敵。ありがとう、船長。

「気に入ったみたいだね」

 呆けるほどに夕日に見入っていた私は、背後からの声に身構えた。が、聞き覚えのある声と気付いて緊張を解く。ここで投げたら今度は確実に殺してしまう。すぐ向こうは断崖絶壁だ。咄嗟に笑顔を浮かべようと自分に強いてから振り向いた。

 気取らない暖かい微笑みを赤く染めた彼がいる。急に贖罪の気持が胸にこみあげた。

「さっきは……どうも」

 船長から言われた言葉がぎりぎりで甦った。乾いたシャツの上にフリースのジャケット、下はジーンズ姿の彼が気楽に右手を挙げる。足下は裸足にサンダルだ。

「はい、どうも。本当に元気だね」

「船長が教えてくれて。頑張ってよかった」

 頷いた彼が夕陽に目を向けた。私も身体を戻す。船長が雑味云々いっていたけど、多分温泉街やウトロ港が視界に入らないという意味だろう。視界の全てが自然そのものだ。

 深紅に焼けた太陽が水平線に近づく。彼が無言なので私も夕陽に没頭。紅に染め上げられた空と雲。大海原が紅く煌めく。その中を黒い点となった二羽の水鳥が海面すれすれを舞っている。

 残照が水平線を染め上げた。大きく溜息を漏らしてしまう。

「悠久の輪廻を……連綿と続く地球の営み……ああ、もどかしい」

「文学的だね」

 思わず身を竦めた。また呟いてしまった。ああ、もう。

「職業病なんです」

「文章を扱う仕事ですか。煙草吸ってもいい?」

「あ、私も」

 煙草のパックとライター、それに携帯灰皿をお互いに取り出した。彼はセブンスター、私はマルボロメンソールのライトだ。少し強くなった海風が私の使い捨てライターの火を吹き消してしまう。私が背中を丸めて苦闘していると、彼のライターがもう一度澄んだ音を発した。水没しても大丈夫なんだ。すごいな、ジッポ。

「有り難う」

 歯切れのよい閉鎖音の直後、また手を振られた。気取らない人だ。私も気が楽。今日あったばかりの人の前で平然と煙草を吸ってしまったけど、彼の雰囲気が。

「雑誌のライターなんです。仕事で北海道を廻ってます」

 彼の目が一瞬見開かれた。変な仕事じゃないと思うけど。

「それでメモをせっせと。旅を楽しんでる?」

 ああ、そっちを心配してくれたのか。

「切り替えちゃいます。昼間は考えずに楽しんで、夜寝る前にメモの清書と画像を整理して」

「出来れば海水浴は書かないで。ほら、勘違いする人が出ると船長が困るから」

 心配げに言う彼に内心焦る。ええと……笑え、私。

「絶対に書きません。扇動罪とか傷害罪で逮捕されちゃいます」

「そそ。闇に葬って忘れちゃう。それが一番」

 彼も朗らかに笑う。嫌みは全く感じない。さっぱりした人で助かった。

「マサルさんのお仕事は? あ、詮索するみたいで済みません」

 また彼が右手を振った。癖なのかな。

「北海道での気分は無職時々ガイドかな。戻ったら全うに仕事をしてますよ」

「鉄砲関係?」

「うん、猟銃や射撃専用銃の輸入製造販売業。でも危ない物は扱っていないよ」

 ガンショップとかいうあれか。でも鉄砲は。

「危ない物って?」

「軍用小銃とか拳銃。人を撃つ銃は大嫌いだ」

 安心しましたといったら、彼が笑った。

「ハンティングや射撃は別なんですね」

 彼が大きく頷いた。詳しく説明して欲しかったけど、彼は顔を海に向けて黙り込んでしまった。北海道では無職……ストレスの多い毎日を送っているのかな。

 彼のことをもっと知りたい。唐突に、でも真剣に思った。でも……。

 暫くして彼が吸いさしを灰皿に押し込んだ。どきりとしたのを気取られないよう、私も消してポケットにしまう。

「そろそろ暗くなる。下りよう」

 ボールペン大の懐中電灯を貸してくれた。私も彼も殆ど無言で階段を降りる。

 私のバイクが階段側に近かった。左右のミラーに生乾きのブーツが刺さっている。礼を言って懐中電灯を返しつつ、私は決意した。

「あの……」

 名刺渡したらどうなるだろう。信頼できる人だと思うんだけど、私の勘の鈍さは自分でも保証付きだ。今度失敗したら立ち直れない。え?

「ん?」

 混乱した私は必死に言葉を探した。

「上で咲いていた花の名前を知りたいんですが」

 頷いた彼に私にその花の色と特徴を言うと、彼は即答してくれる。名前だけでなく開花時期までも。メモを取る私の心はほんのりと安らいだ。

 でも質問が永遠に続くわけがない。メモ帳をタンクバックに仕舞いながら、また考える。彼の知識は私の仕事にプラスになりそうだ。だから彼と今後コンタクトを確保したいんだ。

 でも私の個人情報は隠したい。メールアドレスだけでいい。いざとなったら受信拒否できる。でもやっぱり躊躇してしまう。

 そうだ、何処に泊まるんだろう。知床での無予約宿泊は難しいと以前聞いたし、昨日夕焼けを見に行った野営場は満杯だったし。

「船長の家で酒盛りしながら次期主力ライフルの選定会議だから大丈夫」

 ああ、安心した。洗濯物とか塩抜きとかあるものね。ええと。

「何処かで会ったら、また教えてくれますか」

 空気読んで!

「いいですよ。私の廻る先は人の少ない場所ばかりだけど」

 はい、富良野美瑛消えた! この人は堅物なのか、はたまた私並みに鈍いのか。暗がりでも彼が微笑んでいると教えてくれる白い歯並びがちょっと憎たらしい。

「難しいヒントですね。あの……今後は? 中標津?」

 私、なにやっているんだろう。

「ううん、明日は移動、明後日は秘密の湖の横で軽登山をしようかなと。天気がいいらしいから」

 お手上げですといったら彼は笑って別れの言葉を口にした。


 観光客が満足するレベルな夕食の筈だけど、私の意識は別ベクトルに向いているので美味しいとも不味いとも感じない。彼の連絡先を船長に聞く案を思いつき、頭の中で転がしたが諦めた。きっと船長は断る。理由は簡単。私は彼に行動しなかった。マサルさんも船長も自分で行動する人を評価するらしい。でも私にだって事情が……私を理解してくれるのは涼音ただ一人。重い気分で箸を置いた。

 三階の夕食会場から一階に移動し、旅を満喫する人々に混じって私は土産物を物色する振りをはじめた。こんな気分の時は騒がしい場所にいるべきだ。適当に手に取ったお菓子のパッケージの裏を見る。ほう、クリオネパイは江東区で製造か。値段の半分は輸送コストじゃあるまいか。もしやうなぎパイみたいに……原材料には入ってないな。味はすこぶるいい。でも箱が大きすぎ。ふむ、ホタテの燻製貝柱ブランデー漬けか。試食はなし。まあ佐呂間で作った物なら大丈夫だろう。高いけど涼音にはこれだ。コンパクトなのもいい。よし、三つ買おう。

 そうだ、電話しちゃおうか。話のついでに相談……。

 いや。人に頼ってはいけない。自分が動け。考えろ! 

 ……むかつく。自分の知識のなさに腹が立つ。何度も北海道に来ているのに、彼のヒントが全然解らない。ヒントは四つ。一日かけて移動する。人が少ない。秘密の湖そして登山。疲労の少ない大排気量バイクなら高速を使わなくても一日五〇〇キロ程度移動できるのが北海道。北海道のほぼ全域カバーじゃんよ。ええい。

 そうだ、秘密の湖という言葉がある。よし、すぐ部屋に戻って検索だ。

 おっと、会計しなきゃ。

「いらっしゃいませ。お土産用の袋は何枚ご入り用ですか?」


 満天の星空の下、満員となったウトロの知床国立野営場は夕餉と歓談に興じる声に満ちている。あぐらを掻いてキャンプ用バーナーを囲む四人の男も同様だが、この四人の周囲は少し他と距離がある。四人の身なりと声の大きさが原因だろうか。

ジンギスカンの香ばしい湯気を吹き上げるフライパンに箸を突っ込みつつ缶ビールを呷る四人は全く気にせず盛り上がっている。

「でもよ、あっちに比べるとしけてるのは否めないね」

 ラム肉とタマネギを口に押し込んだ若い男が笑いつつ自虐的に続けた。

「柔らかで暖かいベッド。いつでも入れる風呂。まともなテーブルに載ったメシを虫に悩まされず食えるんだからな」

 缶ビールを大きく呷り、空になったそれを握りつぶす男が嘲笑う。

「ばーか。今までのツーリングと比べてみろ。それにお前にゃ観光ホテルは似合わねえ。申し訳ございません、本日満室ですと断られるだけだ」

 封を切った味付きジンギスカンをフライパンに入れる男も笑顔で同調した。

「支度金のお陰で肉食い放題、氷でキンキンに冷やしたビール飲み放題。仕事自体もお楽しみ。そして人にはそれぞれ適した生活環境ってものががあるんだよ」

 笑うだけでやりとりを聞いていた男も「一袋税別百円だ。存分に食って浮き世の憂さを晴らせ」と茶々を入れながら追加の肉をフライパンの中身を炒める。しけているといった男は、箸を咥えて考え込んでから口を開いた。

「手付けだけでシカトすりゃよかったかなってさ。リスクは最小。あいつだって俺たちを追いかけたりしないだろ」

 最初に反論した男が勢いよく缶を振る。水滴と共にビールが飛び散った。

「質問。資格や登録が必要な難しいお仕事のオファーでしょうか」

 三人が首を横に振った。

「そう。気合いの入った男であればよし。そして楽しめるときたもんだ。それに」

 ジンギスカンを口一杯に押し込んだ男がビールで流し込むのを三人は待った。

「手付けは八〇。その簡単な仕事を終えれば二百。さて諸君。俺たちはどう判断すべきでしょうか」

 大仰な身振りをまじえて問うた男に二人が笑う。

「常識、全額ゲットだわな」

「いやならやめろ。俺たちの取り分が多くなる。となれば札幌で泡風呂追加だ」

「わかったよ」

 渋々頷いたしけている男に三人は大笑いした。


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