第3話 殺し屋

 静かな海面を疾走したクルーザーが見物ポイントに到着した。アイドリング状態で漂泊する船から私たちは揃って崖を見上げる。

 崖から流れ落ちる白く細い滝の滴は砕け散って虹となる。その微粒に濡れる岩肌は緑のコケに覆われている。乙女の涙。

 昨日、上から見たときと全くイメージが違う。荒い岩肌に生えたコケの緑が瑞々しい。崖のエッジが青空を鋭く切り裂いている。滝飛沫の微粒が漂う知床の大気を私は胸一杯に吸い込んだ。

 マサルさんにマイクを押しつけた船長は、舵輪に凭れて彼のジョークを交えた説明に聞き入っている。彼の落ち着いた深い声がスピーカーから流れ、その説明に従って皆の目が一斉に移動する。

 彼は飛び交う鳥の名称とともに、その生態もわかりやすく説明してくれる。山中と海岸では植物も動物も種類が違うから退屈しない。

 大きな岩が転がる波打ち際を闊歩する蝦夷鹿の群れ。愛くるしい子鹿に皆が微笑む。貸し出された双眼鏡を覗く皆の口は空きっぱなしだ。あの崖を下ってここに降り、打ち上げられた海藻を食べてまた崖を登って帰ると説明が。塩分補給のためとはいえ、あの断崖絶壁をどうやって? はあ、数千年使い続けた専用道があると。ほえ~。


 クルーザーが移動を始めた。マイクを置いた彼は船長と話し込んでいる。

 速度が上がるにつれて風が冷たくなる。もうすぐ八月だけど、やはり北国だ。他の人は風に身体を晒して喜んでいるけど私はパス。肌荒れの原因だ。救命胴着の上に渡されたコートを着、そのフードを被る。バイク用のグラブを持ってくれば良かった。

 デッキより高い操縦席の真後ろが風を遮っているので、その壁に背中をあずけてしゃがみ込んでみた。よし、しのげる。太陽の温もりが心地よい。

 半眼で揺れと温もりを楽しんでいると、二人が小声で交わす話が耳に入った。

「今の三〇〇ウィンマグはどうするの」

「二挺あれば楽だけど、予算が限られているからな」

 先ほどの続きのようだ。レーダーって単位が挺なのか。ああ、ぬくぬく。

「工具を用意すれば自分で銃身交換できるのは事実だね。船長のM七〇〇なら簡単だし、砲底面が共通だからボルトもそのままだ」

 ちんぷんかんぷん。熱いお茶サービスしてくれたりしないかなぁ。

「でもM七〇〇をもう一挺買っても費用的には変わらない。だから三〇〇は温存して、三三八ウィンマグのライフル買った方が後々便利だよ」

 ぼーっと太陽を味わいつつ熱いお茶の夢を見ていた私は我に返った。ライフルって鉄砲じゃあ? 挺は鉄砲の単位だ!

「でもよ、メーカー純正の銃身は細いからさあ。マサルちゃんに替えて貰ったシーレンの銃身、すっげえ当たるんだ」

 銃身は弾が通る筒だよね。それを替えた……あの人は密造している? やばい、聞いちゃった。気付かれたらまずいって! 思い切り身体を縮め、背中を壁に押しつけた。逃げたくても海の上。岸まで泳げるかな。とんでもない船に乗っちゃった。ああ、やっぱり私は不幸だ。

「トドの駆除なら軽くて振り回しやすい銃が適するでしょ」

 きっと何かの隠語だ。ロシアのマフィアが密輸する何かを強奪するとか! 

「頭を突き出した瞬間、遠距離からの一発勝負だから振り回さねえ。多少重くても命中精度が大事さ。ヒグマにも使えるべ」

 陸のヒグマは警察官で、トドは海だから海上保安庁か。いや、マフィアがヒグマで、トドはロシアの国境警備隊かな? お願い、振り向かないで!

「まあ担ぐのは船長だし。なら中古の機関部にシーレンの新品銃身を嵌めるか。ん……一時方向、距離五百にヒグマ。河口の右」

 おまわりさん? 逃げるチャンス!

「しめた! あそこなら二十メートルまで近寄れる」

「近すぎないか? 連中、泳ぎも得意だぞ」

「スリルを味わえるって評判になれば、ローンの返済が楽にならあな」

 近づいたら捕まるのはあんたら……いや、悪徳警官抱き込んでの密輸か! 全員口封じで殺されるんだ。私の人生、最後まで酷すぎる。

「皆さん。今日はとても運のいい日です。まずはお静かに」

 殺されるのに運がいい日もなにもあるか。化けて出てやる、呪ってやる。いい人だと思ったのに!

「右舷斜め前方の河口をご覧下さい。ヒグマの親子が三頭、餌を探しています」

 押し殺したどよめきが沸いた。伏せていた顔を上げると、全員がボートの右側に押し寄せている。頭を怖々出してその方向を見た。あれは……。

「これより惰性で接近します。最初は大声は駄目ですよ。ヒグマが慣れたら普通の声で大丈夫ですが」

 皆はカメラを陸に向ける。プロ用一眼デジカメを持っている人もいる。なんだ、ただのクマかよ……えっ、ヒグマの親子!?


 直ぐ目の前で金茶色の巨体が躍動する。その脇で転がるように走り回る小さな子熊。アイドリングの低いエンジン音は、シャッター音と興奮した囁きで殆ど聞こえない。

 私だけがぐったり。二人は何の話をしていたのやら……今はヒグマに集中しよう。

「母親の前足付け根の真上に注目して下さい。肩の上部が大きく盛り上がった瘤になっていますね。これがヒグマの特徴で英語ではハンプと呼びます。グリズリーやホッキョクグマも、ヒグマの系統なのでハンプがあります。子供はこの春に生まれたばかりですね。出産時の体重は四百グラム程度ですが、今は十キロ前後でしょう。一緒に生まれても成長の度合いは変わります。来年秋には四十キロ前後にまで成長しますよ」

 母親が石をひっくり返すと子熊が鼻先を突っ込む。石の下に隠れていた虫を食べているそうだ。

「もう離乳しているんですか。いつ頃生まれるの?」

 森で聞かなかったことを聞いてみる。

「もう完了ですね。二月頃に越冬している穴の中で出産します。産むのは二頭が一番多く、次が一頭。穴籠もり中、そして穴から出て暫くは母乳を飲んでいます。ヒグマは完全に眠っての冬眠はしません」

 冬眠って仮死状態に近いって聞いていたけど。

「そのような眠りに就く動物もいますよ。哺乳類約四千七十種のうち、百八十三種が冬眠します。クマだとヒグマの他、ツキノワグマとアメリカクロクマも冬眠します。クマが冬眠する哺乳類では最大種です。次に大きいのがアナグマやプレーリードックですが、多くは小型哺乳類です。

 冬眠中の小型哺乳類は指で突いても目覚めないほど深い眠りにつきます。心臓の鼓動も呼吸も低下して共に一分あたり一桁程度。体温も低下した仮死状態で冬を過ごします。ですが常時その状態ではありません。今説明した持続的冬眠の合間に中途覚醒します。ゆっくりと元のレベルに戻って目覚め、溜めておいた餌を食べたり、蓄えた脂肪をエネルギーに変えて、またゆっくりと持続的冬眠に移行します。これを繰り返して春を迎えるわけですね」

 皆真剣に聞き入っている。ああ、ボイスレコーダーを持ってくればよかった。

「クマの冬眠は違います。本州にいるツキノワグマから説明しましょう。睡眠中は体温や呼吸数そして心拍数も若干低下します。でも外部からの刺激で覚醒できる程度の眠りでして、ハンターがちょっかいを出すと飛び出して逆襲します。小型哺乳類とは違うレベルの冬眠ですね。途中で排泄行為や食事はしません。排泄行為をしない点が謎です。生理学的にはあり得ないのだそうでして、タンパク質の再合成をしていると主張する研究者もいる程です。

 さて、北海道にいるヒグマはツキノワグマよりさらに眠りが浅いのです。暖かいコタツでうつらうつらする人間を想像してください。皆さんはトイレに行くのも億劫だったりしませんか? 私は限界まで粘ってしまいます。電話が鳴ると呪いますね。至福の一時を邪魔してくれた恨みは深い。応答する声にそれが滲んでいるのかな。相手が妙にへりくだります」

 船上の全員が笑う。午前に聞いた説明と細部が違う。覚えたことをそのまま喋っているわけじゃないんだ。これって結構凄い。

「その程度なので僅かな物音で目覚めます。知らずに近づいた何人ものハンターが殺されています。ヒグマは十一月下旬には穴に籠もり、三月下旬から四月中旬に外に出ます。でも眠らずに餌を求めて動き回るヒグマもいます。これを北海道のハンターはアナモタズと呼びます。ホームレスの意味ですね」

 午前は宿無しといっていた。

「アナモタズは冬の前に脂肪を蓄えられなかった個体が殆どですが、逆に餌が豊富な場所の個体も冬ごもりせずに活動します。登別のクマ牧場がその例です。餌を貰えるから年中無休でお客さん相手にクレクレしています。

 ただし、身ごもった雌は必ず穴を探して籠もります。子供を凍えさせない優しさです。でも出産と授乳は著しく体力を消耗します。脂肪を蓄えないまま穴に入った結果、消耗して死ぬ親子もいます」

 煽るような口調じゃ無いのに、彼の説明は心に沁みる。

「あの母熊の大きさは?」

「そうですね、多分身長一七〇越え、体重は……もう産後のダメージから回復しているから二百キロちょっとですかね」

 今度はイメージできる。私が乗るリッターバイクと同じくらいだ。

 若い女の子三人組の一人が手を上げた。

「お父さん熊も同じくらいですか」

「雄はもっと大きいですよ。三メートルの四百キロというのが定説ですが、五百キロを超した個体も以前捕獲されたました。ちなみに北海道の人はヒグマをオヤジと呼びます。でも雌をオバサンとは呼びません。どっちもオヤジ。この船長も家族からオヤジと呼ばれていますが、生活も見た目もヒグマそっくりだからでしょう」

 素直に笑った。船長はまんざらでもないらしい。

「雄雌の外見の差は体格が一番わかりやすいですけど、顔つきでも解ります。あそこの母親の顔を基準としてですね、もっとシャープで悪い顔つきにすると雄。どっちも激怒すると顔の毛も逆立てるから丸く見えますけどね」

 悪い顔か。皆も笑い声を上げる。

 にやりと笑った船長が手を上げた。

「マサルちゃんは悪い顔だから雄、俺のような優しい顔はべっぴんの雌だね」

 皆が微妙な顔で笑うなか、マサルさんは肩を竦める。

「船長、鏡を見てから言おうね」

「この前、突然割れちゃってないんだわ。新築祝いにプレゼントしてくれや」

「寝ぼけて殴ったんだろ。強盗と思って」

「馬鹿言うな! 毎朝にっこり笑いかけていたら突然バリンと。国産じゃなかったのかな」

「我慢の限界に達しての自殺か。鏡に同情するよ」

 翡翠の波が船体を静かに揺らす。その船上で笑い転げる私達。少し先では騒ぎを無視して石をひっくり返す母熊と纏わり付く子熊たち。なんとも平和だ。

「先程体重と身長を説明しましたが、地域によって大きく変わります。水辺が縄張りにあるヒグマは巨大化しますが、そうでないと成長は早めに止まります。いま、皆さんが見ている自然環境がヒグマには極楽なんですよ」

 川を上る鮭を食べるからですか、と中年夫婦の奥さんが聞いた。

「そうです。秋には鮭を。それ以外の季節はカニや虫を食います。昆虫が特に大事ですね。虫の成長は著しく早いですし、数もなかなか減じません。手間は掛かりますが確実に腹を満たしてくれます。水辺を縄張りにするヒグマは打ち出の小槌を持っているようなものです」

 肉食なんだよね、とその旦那さんも問いかけた。

「雑食ですが肉食を好みます。打ち上げられた魚や海棲哺乳類の死骸、自然死した蝦夷鹿などの肉は大好物です。でも果実や木の実、あと木の若葉なども好んで食います。テンサイやトウモロコシに食害を与えることも多々あります。一匹で一晩に二百平方メートルの畑を壊滅させたなんて珍しくもありません。この植物質も食うという点は、あそこでオコボレを探しているキタキツネも同じです」

 彼がまた指を揃えて岸を示した。あちこちで見かけた明るめ茶色が蠢いている。いつ見ても尻尾が大きい。

 暫くキタキツネの説明が続いたが、自由質問となって一人が素早く手を上げた。

「ヒグマが人を襲ったという話を聞きます。その辺を教えて下さい」

 旦那さんだ。

「ヒグマは基本臆病で人間を避けますが、悪い条件が重なると人間を襲います。一番多いのが、彼等の餌に人間が近寄ってしまった場合です。ヒグマはとても独占欲が強い動物なんです。自分の餌だと決めたら決して所有権を放棄しません。これが鍵です」

 皆真剣に聞いている。この話は山中で聞かなかった私も。

「ヒグマの餌を横取りしようとする動物はヒグマだけです。他の種はちょっかいすら出しません。それはなぜか。ヒグマが絶対に許さないから、そして復讐するからです。復讐する動物は少ないですね。ヒグマの復讐心は人間並みかそれ以上といっていいかと思います」

 思わずつばを飲んだ。

「ヒグマは一度噛んだ物を自分の所有物とみなします。それを奪うものは決して容赦しません。盗まれたらどこまでも追いかけ、盗人を排除して奪還します。また、自分を傷つけた相手に対しても同様です。復讐に燃えたら一途です。自分を撃ったハンターを数日後に返り討ちにしたと言う話は珍しくありません。年単位で復讐したという話もあります」

 親子を見る彼の目にあるのは畏怖のようだ。

「ヒグマが人間を襲う理由は何か。基本、人を避けるのが普通なんですよ。農家を襲うときも人間では無く家畜を狙います。ではなぜ襲うか。本題に入ります」

 前振りだけで十分なような。山中で話さなかった理由かな。

「ある人がヒグマに攻撃された事例を分析しました。ヒグマを見た、吠えられたというのは除外で、爪や牙での攻撃を意味します。事例は次の項目に分類されました。排除つまり邪魔者とみなされた事例が最多で六五%、次が食害つまり人間を食う為に襲った事例で二〇%ちょっと、最後が戯れつまりヒグマにとっては遊びだったのが残った一〇%ちょっととなりました。生還率は六割ちょっとです」

 メモが、メモが追いつかない。

「最多事例の排除を分類すると、遭遇が五〇%ほど、母熊が子熊を守ろうとしたのが二〇%ちょっと。餌を確保する為に人間を排除した例は八%もなかった。家畜を狙うといったのはこれです。牛が暴れているから見に行って、という状況ですね。

 ではなぜ遭遇事故が起こるか。原因の多くは二つです。一つは自分の餌を護る為に見張っているから、もう一つは不幸な偶然が重なって遭遇してしまった場合です。餌の見張りから説明します」

 ボイスレコーダー持ってこなかった私の馬鹿。

「ヒグマは何でも食べる雑食性ですが、最大の御馳走は肉です。彼等は見た目より俊敏で最大六十五キロで走ったという記録がありますが、元気なエゾ鹿は捕食できません。自然死した蝦夷鹿は滅多に口に出来ない御馳走です。でも流石に一度に食い切れません。内蔵を先に食って、肉は地面に埋めて熟成させます」

 熟成って?

「腐肉が大好物なので、その状態にすることですね。浅い穴を掘って獲物を置き、上から土を被せて熟成するわけですが、すぐ近くで隠れて見張っています」

 手間かけますね、と言ったら彼も皆も笑った。

「美味しく食べる為には手間暇惜しみませんね。この土盛りを北海道のハンターは土饅頭と呼びます。それに近づくものがいれば、見張っていたヒグマが飛び出して追っ払うわけ。キタキツネなどは瞬時に消えます。縄張り荒らしのヒグマだと奪い合いが始まります。

 人間だと? 腰を抜かしちゃいます。凄く怖いですよ。吠え声と聞くとガオーとかを想像するでしょ? いえいえ、間近で聞くとガドーンと聞こえます。大砲の発射音みたいな音。急に間近でそんな大音響が轟いたら肝を潰します。直後に金茶色もしくは真っ黒な巨体が目の前に飛び出すから、腰も抜けますよ。身長三メートルといいましたが、歩く状態で鼻の先から尻尾の付け根までを計測したのが身長です。立ち上がって両手を高々と上げると五メートル超えです。壁ですね。

 さて、彼らは人間が悲鳴あげて腰抜かしてらあ、見逃してやるかなんて思いません」

 ……どう考えるの?

「警告したのにこいつは逃げない。そんな吠え声で俺様がびびるかよ。舐めんな、チビ。上等だ、やったるわいとね。最初から激怒モードですから」

「どうなるんです、その場合」

 一人旅青年だ。推察できないのかな。

 彼が重々しく首を横に振った。私は唾を飲んで心の準備をする。

「運がよくて数ヶ月は入院です。軽傷で助かった話は聞いたことがありません。運が悪いと土饅頭に埋められますが、その前に内蔵を食われますよ。最悪意識がある状態でね。最近シベリアで若い女性が襲われて、腹を割かれながら携帯電話で母親に救助要請しましたけど、当然助かりませんでした」

 彼が肩を竦める。三人娘が悲鳴を上げた。耳を塞ぎたくなると言うのはこういう気持ちか。一人旅青年、あんたが悪い。今夜怖い夢を見たら恨むよ。詳しく話したマサルさんも!

「参ったな……どういう人が襲われるの?」

「昔は林業従事者が多かったんですが、最近は春に山菜採りで山に入った人が襲われる事案が増えました。山菜は雪がなくなってから出ますし、エゾ鹿も出産シーズンで胎盤が転がってますから。夏は林業従事者、秋口はキノコ狩り、冬はハンターですね。

 事故をハンターと一般人とで分類すると、一般人の被害が六割近いんです。積極的にヒグマを追うハンターより、不幸にも出くわしてしまう一般人が多い」

 北海道でのキャンプツーリング、憧れていたけど止めよう。犠牲者第一号は真っ平だ。

「次は出会い頭の事故を。ヒグマの視力は良くありません。でも聴力と嗅覚はずば抜けて優れています。それでも偶然風下から人が近づいてしまったり、風が草木を揺らして立てる騒音で察知できないときもある。ばったり出くわして双方どっきり。人間は思わず逃げるか悲鳴を振り絞る。ヒグマは逃げる相手を追いかける嫌な癖があります。悲鳴は挑戦もしくは攻撃の吠え声と勘違いされちゃうんですね」

 やな奴!

「鈴を鳴らすといいと聞いたけど、本当に効くの?」

 真剣に聞くこの青年、登山の予定でもあるのかな。私達もつけていたっけ。

「単独のヒグマなら効果あります。自然界にない音が有効ですから金属音はとてもいい。送電線の保守で山に入る人は一斗缶を棒で叩いたりもします。ちなみに彼等は更に念を入れてハンターを護衛につけます。この念入りさを見倣って下さい。鈴以外にもラジオを大ボリュームで流しつつ歩くとか、歌をがなるのもいいですね」

 山の中で一人カラオケとか……疲れそう。

「基本的にヒグマは人間を怖がっています。ですから人間が居ると解れば向こうが避けてくれます。

 でも、この定石が通用しない相手もいます。先の自分の餌だぞヒグマだけでなく、あそこの子連れのヒグマも駄目です。子熊は好奇心の塊だから、聞き慣れない音の発生源に近寄ってしまう。親が子供と一緒にいれば制止しますが、離れていることも多いんです。親は慌てて子供を守ろうとするから、事故になる。子供の位置は聴覚で把握しているから人間の接近も当然探知するわけですね」

 となりますと、山に入らないのが一番ですか。

「それが一番です。むやみに入らない、そして警戒する。ヒグマなんて見たことないから大丈夫と言う人が一番危ない」

 真理だなあ。警戒心のない人って周りを巻き込むから困るんだよ。私は……自滅だったけど。危険を認めて怖がる、これとっても大事。

 出会ったらどうするのか、と問われた彼がすらすらと応えた。

 ふむ、死んだふりをすると本当に死ぬぞと。

 ヒグマは木登りが大得意だから樹に上ろうとは思うな。

 急に動くな。

 ヒグマを睨み付けて動くな。

 様子を見つつ走らず後ずさって距離を稼げ。そして服でも荷物でも少しずつ棄ててヒグマの興味を引きつけろ。熊と自分を何かが遮ったら背中を向けてフルダッシュ。オッケー、ばっちり解った。

 そんな冷静に対処できるんだろうか!

「人を怖がるといわれたけど、札幌とかの町中にヒグマが出て大騒ぎになったとニュースで見た覚えがあるよ。おかしくないですか?」

 旦那さんだ。マサルさんが二度頷いた。

「飢えに胃袋を焼かれて恐怖心を忘れたヒグマなんですよ。餌しか考えられない状態なんです。飢え死にする瀬戸際といってもいい。だから怖いはずの人間の前に現れる、人を襲って食っちまう。そして簡単に捕食できる獲物と学習してしまって、その後も人間を襲い続けるという動物学者もいます。まあそれは置いといて。では、なぜ飢えるかですね」

 原因はどうでもいいのでは。結果が大事だよ。

「自然は毎年状況を変化させます。沢山の餌を供給してくれるときもあれば、全然の時もある。ヒグマも自然の恵みに頼っています。ヒグマの縄張りは九キロ四方、約八十平方キロといわれています。一頭のヒグマが生存するのに必要な面積と考えて下さい。知床は豊かな土地なのでもっと狭い様子ですね。

 ヒグマは自分が飢え死にしないために縄張りを死守します。でも子供が生まれ育ったら縄張りから追放します。この習性が闘争を招きます。敗者は安住の地を求めて流離いながら餌を拾い食いしますが、地主に見つかれば半殺しです。結果、飢えつつ放浪した挙句人里に降りてしまう。恐怖心を飢餓が凌いでいるわけです。ヒグマも増加したので、命を賭けた椅子取りゲームは激烈です」

「なるほど。あぶれてやけっぱちになってか。リストラされた会社員みたいだね」

 しんみりと呟く旦那さんにマサルさんは苦笑いした。

「どうして増えたの?」

「エゾ鹿も爆発的に増加していますが、どっちも原因は解っていません。環境が温暖化して冬を越しやすくなったからという人もいますし、オオカミを絶滅させたから自然の間引きができなくなったのだと主張する人も。ハンターの数が減ったからだという人も。私個人はそれら全部が重なったのかな、と感じています」

「ヒグマなんか、とっとと絶滅させりゃいい」

 ずっと黙っていた壮年の男が言う。存在感も薄い人だ。

 マサルさんが小さく首を横に振った。

「そう考えるのが人情ですね。ですが新たな危険を孕みます。短絡的かも知れません」

 顔を強張らせた壮年男性に、マサルさんは言い聞かせるように続ける。

「存在理由です。地球上に居る生命には、必ず存在理由があります。人間の尺度だと解らない理由もありますね。例えばゴキブリ。学者曰く掃除の役割を果たすそうです。が、私の目の前をうろちょろしたら即座に死んでもらいます。でも私に見えないところで役立っている個体には、その場所でばりばり働いてもらいましょう。私がゴキブリに替わってその仕事をするのはちょっとね」

 壮年男性も苦笑いした。ゴキブリ大嫌いな私は声に出して笑う。

「夏に鬱陶しい蚊とかハエもそうです。こんな種は存在する理由がないと決めつけるのは人間の尺度と都合であり、それは驕りなのだろうと最近考えるようになりました。少し有害鳥獣駆除について話しましょう」

 有害鳥獣駆除?

「農林業及び漁業に被害をもたらす鳥獣を殺すことが目的の行政手段です。従事するのは命じられたハンター。害獣被害を食い止める唯一の手段ですが、ハンターの高齢化そして銃所持の煩雑な手続きが原因で数は減じる一方。有害駆除に陰りが見えてきました。このままだと人間は自然に圧倒されるでしょう」

 どんな動物が駆除されるの、と青年が聞いた。

「北海道の場合エゾ鹿、キタキツネ、アライグマ、カラスそしてトドですね。ヒグマは市街地に出たやら、人的物的被害を与えた場合に該当個体が駆除されます」

「アライグマってアニメになったあれ?」

「ええ。北米原産の種で日本に元からいた動物ではありません。農作物に結構悪さをすること、そして狂犬病の恐れが理由です」

「キタキツネはさっき聞いた病気が理由でしょうけど、エゾ鹿は?」

「キタキツネはそれプラス家畜に害を為します。増えすぎたエゾ鹿は農作物を食害するだけでなく、森そのものを破壊してしまいます」

 森に住む動物が森を破壊する?

「ええ。雪のない時期は草や葉を食みます。積雪で草が埋もれ、葉が散ってしまったら樹木の幹の皮や枝を食うんです。樹木は皮のすぐ下にある導管というストロー状の繊維で根が採取した水分と養分を循環させます。その導管をぐるりと囓られると枯れてしまう。適正な鹿の数なら森の更新に役立ちますが、鹿の数が多いと森が壊滅します」

 程度問題ですか。

「そう、まさに程度問題。枯れ木だらけになると土壌の保水機能が破壊されて、地下水涵養に大きな影響が出ますし、鉄砲水の原因ともなります。地味豊かな表層土が流出してしまうと新しい植物が根付きません。本州でも本州鹿の爆発的増加で同様の事態となっています。

 では、鹿が増加した理由はなにか。歴史を振り返りますと、日本ではオオカミが駆逐されました。明治時代終盤に完了です。オオカミが家畜に被害を与えるというのが理由でした。肉食のオオカミは集団で狩るので、一年を通すと結構な数の動物を補食します。その担い手が消えて百年も経たずに日本中で鹿、猪そしてヒグマを含む熊の被害が増加しました。

 第二次大戦後の人口増加に伴う人エリアの山野浸食も当然絡みます。人間の理屈で自然を犯した結果、自然に反撃されているとも言える状況です」

 彼が肩をはっきりと竦めてみせた。人間の理屈か。

「ヒグマもツキノワグマも、蝦夷鹿も本州鹿も、そして猪も自然界で役目を担っています。自然が個体数調整をしてバランスを保持しました。食物連鎖も自然ですよね。それを崩したのが我々です。一例がニホンオオカミの根絶であり、山野の開墾です。人間の技術力がそれを可能にしました。

 では人間は自然を支配したのでしょうか。自然以上の存在でしょうか。違います。人間も自然に依存して生きています。私達が口にする食品は、全て自然に頼っています。原始の姿だけが自然だとはいいません。人間も地球すなわち自然に養ってもらっている、生かしてもらっていると理解する時がきたんじゃないかなという立場で私は話をしています。皆さんもご自身で考えて下さい。私は伝道師じゃありません。間違っても勧誘したりお布施を要求したりしませんからご安心を」

 笑いが起きる。自分でかんがえろ、か。

「日本だけじゃないんです。世界中で起きています。自然を大事にしないと人間が滅びる日が来ますよ。まあ、種は必ず滅びます。哺乳類の種の生命は精々二百万年だとか。人類はどうでしょう。嫌なことに二百万年前にアウストラロピテクスから分化したのが人類の祖とする学説があります」

 皆の表情が心なしか不安げに、そして真面目になった。

「既に絶滅した亜種の人類は複数確認されています。そうすると四十万年前に我々ホモサピエンスが分化しているから残り百六十万年かも。ほかの恒星系に移住するチャンスはあると思いたいですね」

 真顔で聞いていた皆の表情に笑顔が戻る。私も少し安堵した。

「話が脱線して済みません。そろそろ時間です。なにか質問があったらどうぞ」

「ヒグマのお話、凄く説得力というか迫力があったんですけど。もしかしてマサルさんが?」

 奥さんに尋ねられた彼は一瞬躊躇い、そして頷いた。はっきりと。

「三度遭遇しました。二度は無事にらみ合って別れましたが、一度は殺され掛かりました。怖かったです。腰を抜かして小便を漏らしてしまいました」

 船上が静まりかえった。エンジンのアイドル音がヤケに大きく聞こえる。

「でかかったよなあ。二トントラックにユニック・クレーンで引きずり上げたんだ」

 船長もその場にいたんだ。あれ、命の恩人ってそのヒグマを斃したのが船長?

「人食いだったんだよ。前日に行方不明の届けが出て、もしやということで俺達猟友会が山狩りしていたんだ。こいつ、何も知らずに入っちゃってさ。銃声と吠え声を聞いて吹っ飛んでいったら、情けない顔したマサルちゃんとくたばったオヤジがいた。真っ青を通り越して土気色っての、始めて見たよ。こいつとはその時からの付き合いさ。ほれ、命の恩人を拝めあがめろ、マサルちゃん」

「単独先行して真っ先に来てくれたんです。ショック状態だった私の両頬殴って正気に戻してくれましてね。その後私を斜里のウナベツ温泉に連れて行ってくれました。素敵なお湯ですよ。ぬるっとしていて、肌がつるつるになります。まだ生きているって実感しました」

「非公認温泉ガイドまではじめやがった。幾ら取る気だよ」

「観光協会が怒るかな」

 私は呆れた。なんで笑えるんだろう。修羅場を潜って常識が吹っ飛んでるのか。

 旦那さんが手を上げて。

「誰か殺された?」

 二人の笑いが瞬時に収まった。あれ、まともかも。

「キノコ狩りをしていた老夫婦です。すぐ横で埋められていました。ヒグマはこりごりです」

「一発で脳みそ吹っ飛ばした奴が三味線弾くんじゃねえよ!」

「それでも暴れる奴は嫌だよ! ゾンビ以下だぞ、あれは!」

 皆が引き攣った笑い声を上げた。そりゃ確かに怖すぎる。苦く笑う彼だけど、ヒグマ親子を見る目には今も憎しみはないようだ。畏怖だと思う。そうか、マサルさんってハンターなんだ。自然を愛するネイチャーガイドがハンター。酷い矛盾だ。

「マサルさんの鉄砲が弱かったの?」

 若い男が尋ねた。船長と彼が揃って首を横に振る。

「三〇〇ウィンチェスターマグナムだったよ。俺も使ってる」

「猛獣用ハイパワーライフルのカテゴリーです。でも、怒り狂ったヒグマ相手だとね」

 彼がぽつぽつと話し出した。エゾ鹿を探して森を歩いていたら急に吠えて襲ってきた。弾を補給する余裕なく一発撃った。その後も暴れるヒグマに殴られそうになり、とっさに銃で防いだが銃をへし曲げられたと聞いて怖気が走った。

「二発目が撃てないから、小便ちびりながら逃げまくりました」

 本当に漏らしたらしい。この人が漏らした。

「脳を破壊したら筋肉に指令が届きませんよ。話を大きくしていません?」

 三人娘の一人だ。うん、科学的洞察だね。

「理屈ではそうなんだけどな。俺がこの目で見たよ。辺り一帯を手当たり次第に粉砕しまくってた。頭吹っ飛ばされて目が見えなくなっていたからだろ。撃つ前ならすぐ捕まっちまう。このくらいの太い幹をへし折っていたよ」

 船長が指を合わせて丸を作る。直径十五センチくらい。

「枯れ木じゃないぜ、生の丸太! それに爪を立てて、ずたずたにした姿でくたばってた。マサルちゃんを引き裂きながら死んだ積もりだろうな」

 うめき声が皆から上がる。私はぞくぞくしっぱなしだ。

「その気になっちまったヒグマは化け物さ。だから怖いんだ。俺達は倒れても撃ちまくって穴だらけにする。動かなくなっても暫く近づかない。死んだふりをして急に襲いかかってくるからよ。エゾ鹿だって心臓撃ち抜いても半キロくらい突っ走るよ」

 え、あのたおやかなエゾ鹿が? 嘘だ。

「船長の説明を補足します。油断して草を食っているエゾ鹿は、急所に撃ち込めば即倒れます。でも撃つ前に逃げた鹿は、心臓を撃ち抜いて倒れても起き上がって走り続けます。撃たれる前に走った距離が長いほど、その後の逃走距離も長くなります。脳が分泌したアドレナリンが原因でしょうね。回収に苦労しますよ」

 溜息しか出ない。野生動物ってどんだけタフなんだろ。

 三人娘が手を上げた。

「自然動物と共存できないの? 駆除しかないの?」

 良かった、話が変わる。

「なんともいえないですね。中世ヨーロッパの城塞都市を思い出して下さい。万里の長城でもいいです。あのように高い障壁で人間の生活エリアと野生動物エリアを分ければ可能です。一番現実的ですが、コストの面からは難しい。農作地まで範囲を広げる必要がありますが、天文学的な金額と膨大な時間を必要とします。直ぐにはね」

 んー……だなあ。

「北海道はどうでしょう。ここ知床に来るまでに北海道の広さを実感していただけたと思います。でも手つかずの自然が残る地域は極々一部です。特殊な人工衛星で撮影した写真をネットで見ました。殆どが耕作地等人の手が加わっています。残っているのは知床、大雪山系、日高山脈程度ですよ。人間の活動地域と動物の活動地域がほぼ完全にオーバーラップしているわけです。ですからこれからも野生動物と人間の軋轢は続きます。人間が食料を必要とする限り、どうにもなりませんね」

 あら、やけに突っぱねた言い方だ。

「では駆除で対応するしかないとなりますが。対処方法の転換が必要でしょう」

 何か今のままで不味いの?

「現在駆除にあたるのはハンターだけなのが現実です。でもハンターは高齢化で数を減じています。狩猟は一朝一夕で得られる技術じゃありません。そして駆除は狩猟と違います。狩猟は肉を得る目的で行われます。相手を殺すのは止む無くです。でも、駆除は殺すだけ。数が多く季節も高温な時期なので食肉とする時間がない。結果はゴミと一緒に焼却処分です。これが駆除に当たるハンターの心理的負担となります」

 殺すことには変わりないのに。何が違うんだろう。

 私だけでなく皆怪訝な顔をしている。彼の肩を叩いた船長がマイクを握った。

「期間はいつまで、目標数はウン百、一頭あたりの報奨金幾ら、はい頑張ってと言われるのさ。カネに目が眩んで、鉄砲撃てるからって頑張るだろうと市民は言うよ。でもな、殺した鹿はゴミと一緒に焼却するから辛いんだ。ハンターは食べる為に食べるだけの量を取る。それ以上は殺さない。でも駆除は違う。行政が決めた数だけ殺さなくちゃなんねえ。意味はあるよ。必要だって解る。でも辛いんだ。殺し屋になった気分だよ」

 程度の差はあるようだけど皆考え込んでいる。殺し屋ね……。

 口を噤んだ船長の肩を叩いた彼がマイクを取り戻した。その彼の表情は硬い。

「野生動物は絶対保護すべきという方々がおられます。家畜の肉を食べればいいじゃないか、とね。食われる為に飼育されている家畜はいい、野生の動物は駄目だという意見に私は頷けません。どっちも感情を持っています、生きています。近い将来強要される確実な死を狭い場所で待つ家畜は幸せなのかとか、駆除で殺されて焼き捨てられる動物は可哀想じゃないのかとか、飼えなくなったからと処分される犬猫は……すみません、愚痴でした。どうか勘弁して下さい」

 マイクをフックに戻した彼は大海原を悲しげに見詰める。誰も話さない。船体を叩く波とアイドリングするエンジン音がヤケに耳に付く。

 ペットと食用家畜。愛されて一生を終えるペットに対して、家畜の殆どは早々に生涯を終える。自然に生きる動物、人間が管理するペットと家畜。愛される存在か食われる為の存在か、もしくは邪魔者か。所詮は人間の都合だな……。

「あ……船長」

 突如彼が声を上げた。

「あそこにいるの、イルカじゃないか?」

 彼が船首の左側を指さし、船長も目を細めてその方角を見た。私達一斉に移動して目をこらす。イルカがこんな北にいるか。

「おう、イルカみたいだな。皆さん、ちょっと時間をオーバーしちまいました。こいつが喋りすぎたからね」

 ほっとしたような笑いが応える。

「これから帰港するけど、運が良ければイルカが遊んでくれるかもよ。飛ばすからしっかり捕まって。あいつら、とろい船は相手にしてくれないんだよ」

 皆が両手で何かに捕まったのを確認した彼が船長の背中を叩いた。船長の右手が三つのレバーを同時に下げる。エンジンが咆哮を上げ、船首がぐっと持ち上がった。船客の悲鳴のような歓声が湧く。


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