第2話 山賊vs海賊
ホテルでシャワーと着替えを済ませた私は港に降り、観光船の事務所を確認した。観光船は二種類ある。一つは大型船、もう一つは小型のクルーザーだ。以前大型船に乗ったので、今回はクルーザーで自然と動物をみるツアーを予約した。海が荒れると大変らしいが、今日は波も風も穏やかだ。
それと……大型船で流れるあの音楽はもう聴きたくない。TDLのちっこい世界と同等の破壊力を持つあの名曲は、東京に戻ってからも私を苦しめた。
さて。私はトレッキング中の休憩でキャンディバーを都合四本食べた。けどお腹が空いた。デンプンを補充しようと周囲を見渡す。
観光客が盛んに出入りする食堂兼業の土産物店が並ぶ区域から離れた場所で、ウトロ漁港婦人部食堂と染め抜かれた暖簾が海風にはためいている。なんだか面白そうだ。まさか会員制ってことはないだろう。
近寄るにつれて食堂のモルタル外壁はくすみ、元は紺色だったと思われる暖簾は履き古したジーンズのように薄いと気付いた。店の前にメニューも置かれていない。うーむ。見た目のぼろさに腰が引ける。お客は入っているんだろうか。長年営業している店は味も値段も安心できるというのが経験則だけども。
「翠川さんもメシですか?」
振り向くと、笑顔のマサルさんが気軽に手を上げた。
「先程は有り難うございました」
「いえいえ。お疲れ様でした」
互いに頭を下げ合ってから笑ってしまった。が、私は内心警戒する。
「この店が気になるの? 味は結構なかなか。定食も観光客用の豪華メニューもありますよ。値段はピンキリ」
定食ならリーズナブルなのか。
「もしかして常連さん?」
彼は笑いながら頭を振った。
「いや、家は神奈川だから常連じゃないよ。でもウトロに寄ると、ここでしか食べなくなっちゃった。港で働く人が常連さんだね。なんで今回もここで昼飯です」
地元民御用達とな。こういうのは記事にすると受けがいい。そしてなにより私のB級グルメの血が騒ぐ。
彼に続いて私は暖簾をくぐった。カウンター席の丸椅子に陣取り、メニューを前に考え込む。と、彼が水の入ったコップを持ってきてくれた。みれば冷水容器に『セルフで』と張り紙がある。飢えに負けた自分が恥ずかしい。礼を言うと軽く手が振られた。
お客が何を食べているのか気になって周囲を見渡す。二十席くらいある店内は七割ほど埋まっていた。ラーメンや定食を頼んでいるのは地元の人らしい。見るからに観光客なおっさんとおばさん達は丼物が多い。ふむ。
マサルさんは焼き魚定食を注文した。今日はトキシラズという魚だそうだ。ふむ。ラーメンやカレーの気分じゃない。ここは港だ。今も漁船が水揚げの真っ最中。常連が満足する新鮮なものを出すはずだ。うーん、予定が狂ったな。
「焼き魚定食。いやウニ丼……積丹で食べたけど」
「君はウニ丼を注文して、私の焼き魚と半分こしようか。食事代は私が持つよ」
思わず首を竦めた。考えが口に出てしまうのが私の悪い癖。
魅力的な提案だけど、さすがにそれは。
「チャンスは生かさないと。結構アルバイト代弾んでくれたし」
遠慮したけれど、嫌々ガイドしたわけでもないし本業はちゃんとあるから、と言ってくれたので好意に甘える。本業について説明があるかと思ったが、彼はそれについては語ってくれなかった。
沈黙は嫌なので、トキシラズについて聞いてみる。一般に出回る産卵期に川で収穫したものと違い、海で捕獲した鮭をそう呼ぶそうな。産卵準備に体力を消耗していないので、普通の鮭より美味しいと。それは楽しみ。といいつつも私の目は、おばちゃんが菜箸で豪快に丼に載せるウニに吸い寄せられてしまう。
ウニ丼が先に出された。産卵前の一番美味しいのをミョウバン未使用で出しているのさ、と食堂のおばちゃんは微笑む。おお、当たりかも!
「先に食べ始めて。ご飯の熱がウニに移っちゃうよ」
おばちゃんに一言断ってからデジカメに収めた。
醤油を少し垂らして。うひ。
「いただきます!」
あ、美味しい。思わず頬が緩む。このウニ最高! 磯の香りが爽やかに口中一杯に広がる。このウニで冷やの辛口をやったら悶絶するだろう。ああ、幸せ。
私の箸が動きを止めた。
ああ。最初の数口は注意していた……はずだのに。食いしん坊な私が哀しい。
ちろりと横目で彼を見る。彼は食堂のおばさんと雑談を交わしている。気付かれる前にお箸でご飯を解して嵩を増し……いや、ウニの盛りつけが崩れてばれる。まずい、どうしたものか。
彼の焼き魚定食が出されて、私は崖っぷちに追い詰められた。
「はい、熱いうちに食べて」
定食の盆を私の盆と入れ替えた彼が手を差し出した。思わず私は丼を遠ざける。
「マサルさんがお先に」
私の手の動きに気付いた彼が丼を見やって微笑んだ。ああ、恥ずかしい。
「今回は変則だからさ。ほい、ウニ頂戴」
諦めて丼を渡すと彼はすぐに食べ始めた。ごめんなさい。
皿の上で二つの切り身が香ばしい脂の泡を吹いている。ウニを堪能したばかりなのに口中に唾が湧いてくる。写真を撮り終えた。では、と切り身に箸を入れ、一切れ口に含む。
うめき声を押し殺した。鮭ってこんなに美味しかった? ここに入ってよかった!
「定食注文してくれたからご飯のお代わり自由だよ。沢山食べてってよ」
おばちゃん、ありがとう!
「食べっぷりがいいと嬉しいさ。ほれ、賄いに作ったカレイの煮付けもサービス!」
知床に天使がいた! 頬が緩みっぱなしになる。
「トキシラズ、気に入った?」
彼の問いかけにも笑顔で頷いた。私の箸は忙しく往復する。
「ケイジも美味しいけど、気軽にはね」
おばさんが何か言ったけど、トキシラズを彼に渡してカレイの煮付けを突いていた私は聞き逃した。これも小鉢に入ったイカの塩辛も凄く美味しい。ほかほかのご飯がすすむ。
「一匹五万とかでしょ。俺はメンメで十分」
な? 彼をまじまじと見た。そんな高級魚聞いたことない。質問したいけれど、奢ってくれると言われた後だ。勘違いされたら……やめとこう。
「そうそう、メンメは美味しいよお。焼いても煮てもよし」
思わずカレイの頭部を見詰める。これを集めて調理するのかな。お味もよくて頭脳にも。
「美味いよね。骨までしゃぶりたくなる」
目玉には骨はないね。なんだろう。
居合わせた人達もメンメとやらを褒める。メンメかあ、私も何時か食べてやる。
くちくなったお腹を擦りつつ、私は幸せ気分で外に出た。眩しい光の中をカモメが乱舞している。
財布を出したが遠慮された。照れくさそうに手が振られる。
「いいんだって。一人で食べるより楽しかったし美味しかったし」
そう言われてはたと気付いた。何度も北海道を旅してきたけれど、誰かと一緒にご飯を食べたのは初めてだ。
うん、確かに楽しかったし美味しかったです。そう言ったら彼はいい笑顔で笑ってくれた。
彼がバイクを止めた船着き場横の駐車場に二人で歩く。私の乗るクルーザーの事務所はその脇だ。観光客の間を縫って歩きながら雑談する。予定を立てずに旅行している彼は、これから中標津方面に行く気分らしい。羨ましいな。
「天気がいいから知床峠を通って羅臼におり──」
「あぶね!」
急に腰を引っ張られた。どきりとした瞬間、彼の胸が急接近する。微かに皮と煙草の臭いがした。腰に感じた力強さとそれらが相まって、激しく心臓が跳ねる。
心臓に鋭い痛みを感じたその時、彼の腕から力が抜けた。わき上がった恐怖をおしころし、彼を睨みつけた。
「ちょっと!」
声を張り上げた私の背後で、妙に湿った炸裂音が響く。ん?
「ごめん、声を掛ける余裕がなくてね」
困った顔で彼が人差し指で示すのは、私の背後。
地面に白い液体が大量に飛び散っていた。ええと……なにこれ。
「カモメのウンチ爆撃だよ。あれを喰らうと悲惨でね。油が多いから、洗剤の原液をぶっかけて二三度洗わないと落ちないんだ」
そうだ、カモメ。駐車場横の岩壁にもみっしりと群れている。
助かりました、有り難う。
「ウンチする直前、高度をぐんと落とすから注意していればわかるよ。あとは軸線直下からすたこら逃げれば回避できるけど――」
斜め前から対向してきた観光客が盛大な悲鳴を上げた。直撃だ。おお、これは……お気の毒としかいいようがない。
「空ばかり見て歩くわけにもいかないからねえ。最後は運かな。ウンだけに」
彼のバイクの横で礼を言って彼と別れた。相模ナンバーのCB一三〇〇スーパーフォアには、テントやシュラフが網ゴムで縛り付けられていた。
上空をちらちら見つつ、私は観光船の事務所に辿り着いた。厳ついおじさんが笑顔で迎えてくれる。が、乗船申し込み兼保険加入用紙を手渡す前に、彼は椅子から飛び上がった。その勢いに思わず後ずさる。サッシ戸まで走った彼が。
「おい、山賊! 待てや!」と銅鑼声を張り上げる。
駆け出したおじさんの背中を私は唖然と見送った。壁際のソファに座っていた観光客も身を乗り出して目で追う。
おじさんはバイクに跨ったマサルさんに駆け寄った。山賊ってマサルさんか。
制止しかけた彼より素早くおっさんの手が動く。何か怒鳴った彼に構わず、おじさんは笑いながら事務所に駆け戻る。バイクから降りた彼があきらめ顔でその後を追う。なにやってんの、この二人。
「座れや。コーヒーでいいよな」
おじさんが私の横のパイプ椅子を示した。強盗よわ張りしたわりに好意的?
「もう出航の時間だろ。日を改めてくるからさ」
立ったままでマサルさんが応える。うん、もうすぐ出航時刻だ。
「ここは秘境知床だ。一時間くらい遅れたって構わねえよ」
ちょっと、おっさん! 冗談言わないでよ!
「お客の前で言うその度胸は認める。でもネットで触れ回られたら倒産するぞ。クルーザーと家のローンどうするよ」
うむ、絶対利用するなと書いた上で、観光協会にもクレーム入れてやる。
腕組みをしたおっさんは哀しそうに頭を振った。
「便利だけどつまらねえ時代だよな。おおらかな時代、そうさな、大航海時代に生まれたかったね。そのころなら踏み倒しても何とかなったさ」
このおっさんならお似合いだ。コロンブスやマゼランのような探検航海家じゃなくて海賊が。
「あの時代、スポンサーは王室や貴族だぞ。都落ちどころか文明圏には居られないよ。船長の末路は見せしめで磔か首チョンパだよ」
ほお、そっち方面にも造詣が深い。なかなかに凄い人だ。
「よし、マサルちゃんも乗れ! 特別にサービスしてやらあ」
「気持ちは有り難いけど、俺にも予定があるんでね。また寄るよ」
「一切予定立てないお気楽風来坊だろうが!」
「嘘に決まってるだろ!」
思わず目を瞬いた。なんと潔い喧嘩の売り方だ。
「命の恩人をそこまで嫌うか! 俺と二人で乗れって訳じゃねえ。ナマラべっぴんさんが一緒だ。有り難いと思え」
おっさんが私を指さした。振り向いても誰も居ない。
「丁度お前に相談があってな。儲け話だ」
べっぴんとは美人の意味だ。ナマラって否定の北海道弁か。確かにいい度胸だ。
「怖いんだよ! 今ここで済ませてくれ。二分!」
キャンセルすると言いかかった私は彼の言葉に目を瞬いた。
怖いって、あの原生林を自信に溢れて……ああ、このおっさんがね。
「口径をでかくしたい。サンサンハチあたりで予算十万」
「レミの七〇〇でも税別十八万はする。無理! はい、お終い」
一分五十秒ほど残ったね。船の……レーダーとかかな。案外安い。
「しょうがねえ、俺の孫娘をお前の嫁にやる。ロハでいいよな」
おお、嫁ゲット! え、マサルさんって独身?
両手で船長を封じた彼が私達に顔を向けた。
「皆さん、人身売買を公言する男の船には乗らない方がいいですよ。ほら、この顔をよく見て。男の顔は履歴書。指名手配のポスターによくある顔です」
私も堪えきれずに吹き出した。やっぱり海賊だったのか。
「ばかたれ! ウトロ一、いや、北海道随一の海の男になにぬかす」
「孫娘って八歳だろ、あほたれ」
うわ。彼は三十代半ばくらいにみえる。
「七歳だ! 光源氏ってしらねえのかよ。今から大事に育てりゃマサルちゃん好みのいい女になるぞ?」
「犯罪者になるのも、孫娘の将来を台無しにするのも真っ平!」
まともな人でよかった。鼻でいなした船長が手を打った。
「じゃあこうしよう。マサルちゃんがガイドしろ。皆さん、この山賊はネイチャーガイドの資格持ちなんですよ。皆さんはとても運がいい」
私以外のお客さんがどよめいた。説明も上手で知識量も経験も知床随一だと続けた船長が彼に笑いかける。
「自然を語れるチャンスをやるんだ。だから俺の分は勉強しろ」
押しが強いおっさんだ。
「脳味噌あめってんじゃないよ。船長が得するだけじゃないか」
あめった? 雨か飴もしくはアメフラシ……全然解らない。
「こんな絶好の航海日和にタダで乗せてやるんだ。ほかのお客さんは大枚払ってんだぞ。お前さんが絶対に得だ。皆さんもそう思いますよね。ね?」
大笑いが応える。面白いから一緒に行こうよ、と若い女性三人組が声を揃えて誘うとおっさんはにんまり笑う。たくましいというか図太いというか。人生楽だろうな。ある意味羨ましい。
「船長、出港十分前! やっぱりマサルちゃんだ。元気そうだね。彼女はできたかい」
奥から出てきたおばさんに手を上げて応えた彼だが、即座に手を横に振った。へえ、ほんとにシングルなのか。
「バイクのキー、船着き場からほっちゃろうか。乗るよな」
船長がこれ見よがしにバイクのキーを振り、それを奪おうとした彼の手は虚空を掴んだ。なるほど、それで嫌々来た訳か。ほっちゃるって放り込むという意味かな。
「解ったよ。揺らさないでくれよ。死んじまう」
忌々しそうに呟いた彼におっさんが満足気に笑う。ああ、船酔いを北海道では怖いというのか。後でメモっとこう。
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