貝殻のバージン・ロード

橘 哲生

第1話 変った人

 腰まで届く熊笹を掻き分けて私たちは歩く。

 二人の荒い吐息。

 腰に付けたヒグマ除けの鈴の音。そして辺りを吹き抜ける風にそよぐ森の木々が立てる音。鳥のさえずりや微かにせせらぎの音も聞こえる。

 でも観光客のざわめきや有線の歌声は一切届かない場所を私たちは歩く。

 自然遺産知床には人々が押し寄せる。でも道すらない原生林を縦断する私とガイドのマサルさんの周囲にいるのは動物だけ。そして彼らは慎ましやかだ。

 足を止めたマサルさんが、滑らかに左手の谷向こうを指さした。木々の根元を覆う熊笹の海にたたずむ大きな二頭のエゾシカ。その周りを身軽に跳ねる子鹿たち。

「この春に生まれたコッコ、子供です。ああやって遊びながら身体を鍛え、独り立ちに備えます。視力は左程よくない分、音に敏感です。が、熊鈴はトレッカーだと母親は知っているので逃げないでしょう」

 荒い息を出来るだけ潜めて彼らを見守る。母鹿は大きな耳を蠢かして私たちを探っている。なるほど。あの耳ならさぞかしよく聞こえるだろう。

 すぐに興味をなくした彼女はのんびり歩を進め、木々の若葉を毟っての食餌行動に戻った。低くも優しい声が説明を再開する。

「危険と判断すると「ぴーっ」と鋭く鳴いて警告し、尻尾を立てて裏の白い毛を見せつつジャンプとダッシュを混ぜてジグザグに逃亡します。人間は身動きし難い熊笹ですが、彼らは突っ走りますよ」

 その様も見たい、といいつつ私はザックのストラップに幅広輪ゴムで縛り付けたボイスレコーダーのインジケーターを確認する。仕事のために大枚はたいたのに、貴重な情報が記録できませんでしたでは憤死する。

 このどうにも邪魔な熊笹の中、本当にダッシュできるの?

「人間の走り方とは違うから。鹿はジャンプしつつ走るから引っかからないんですよ。踝先からつま先までの距離も絡みますね。ちなみにこの場所の熊笹は左程ではありません。場所によっては人の背丈を超すほどに成長します。方向感覚を失いますから、我々二本脚はそういう場所は避けないとね。

 余談ですが、逃走中の彼らにホイッスルを強く吹いたり車のクラクションを鳴らすと足を止め、音の出所を確かめようとする癖があります。さ、熊穴まであと少しです。頑張れますね?」

 白い歯を見せて笑った彼に私は頷いた。もっとネタがほしい。

 前進を再開。彼の歩きを真似て腿を大きく上げ、出来るだけ垂直に脚を抜き差しする。中学の体験入部を思い出した。体力トレーニングの腿上げランが苦痛で、私は軟式テニスを諦めた。でも不思議と今は頑張れる。首に巻いたタオルで汗を拭いながら、革手袋を嵌めた手で熊笹を引っ掴んで斜面を登る。ひたすら彼の背中を追う。先導する彼が全身から発散する自信だけが頼りだ。


「はい、到着しました。なかなかの健脚ですよ、翠川さんは」

 辺りを見回すと結構高い地点にいた。うっすらと汗をかいたマサルさんに笑い返す。

「なんだか漲っちゃって。祖先の血が騒いだのかな」

 二人の笑い声が消えると自然の音が戻ってきた。頭上を覆う樹冠を貫いた透明な光が私達に降り注ぐ。微かな踏み跡も無い原始の森。振り向いても私たちが歩いた痕跡はもうわからない。

 真夏の活力溢れる七月下旬の知床。その原生林の直中にいる私はフリーのライター。離婚後すぐに始めたが、安定したとは言えない。三十路にリーチが掛かった今、先行きに不安を覚えないと言ったら嘘になる。競争は激しく、仕事の口は限られている。

 今回編集部から受けたオファーは、一歩踏み込んだ旅行記事だ。食事は美食よりもB級グルメ、観光も表通りよりも裏通りに首を突っ込むのが趣味な私だから御指名いただけたのだろう。湿原のただ中を音もなく流れる川をカヌーで縫い下ったり、水飛沫を白く跳ね上げる急流をゴムボートで駆け下るスリリングなラフティングを経て、今日はネイチャートレッキングで大自然を楽しみつつ取材している。楽しみつつ……難行苦行なのも事実だけど、正直愉しい。今夜のビールはさぞや!

 彼は目前の巨木を指さした。太い枝を四方に伸ばし、緑鮮やかな葉を青空に広げている。

「ミズナラです。樹齢は百年ほどで樹高は三十メートルちょっと。かなりの大木です。秋になるとドングリを周囲にばらまきます。ドングリは日本人になじみ深いものですね。クヌギ、ナラ、カシワそしてカシの果実の総称です。旧石器時代から人間はドングリからデンプン質を摂取しました。採集によって食物を得ていた時代、人間の命を支えたのがドングリとも言えます。当然野生動物にとっては今も大事な食料供給源です。保存が利きますからね。人間がコレを効率よく保存するためには? そう、土器が必要です。石室では芽吹いてしまう危険性があります」

「ええと、縄文式土器とか?」

 彼が白い歯を見せつつ頷いた。

「北海道だとオホーツク文化圏ですから縄文文化とはちょいと違いますが。でも長野で算出する黒曜石が北海道やサハリンでも出土しています。経済交流があった証明ですね。

 さて、土器の発祥はどのように? 地面に掘った穴を火床として常用すると粘土質が硬化します。熱い灰でドングリを炒って食べていた人々も遅かれ早かれガチガチに硬化する理由を考えますよね。当初は余計な燃えかすと灰を排除するに都合がいいわ程度だったかも知れませんが、物好きが試しに成形した粘土をたき火に放り込んだのではないか。その結果できた物をどう使えばいいかと物好きさんは考えるでしょう。というのは私の夢想ですけどね。

 でも火床で焼かれたものか、はたまた土器として生成されたものかはなかなか見極めが難しい。低温で焼かれた土器は風化しやすいものですから。なので土器文化発祥時期は今も確定していません。が、縄文式土器は一万年以上前に始まったという説が考古学会で注目されています。提示された資料が真実なら、人類史上最古の土器文化となります」

 落ち着いた声が心地よく耳にしみいる。この場の雰囲気にマッチしているなと思いつつ梢を見上げた。

 彼が私の注意を根元に向けた。

「さて。この根元の穴がヒグマの越冬穴です。ヒグマは日本最大最強の陸生ほ乳類で、学名はウルスス・アルクトス。もっともらしく聞こえますが、意味はどっちもクマです。頭痛が痛いみたいですよね」

 思わず笑った。

「この越冬穴は実に理想的な場所にあります。南向きの高台にあるから雪に深く埋もれません。そして周囲の高台が海風の直撃を遮ります」

 知床半島の付け根は比較的平坦だが、先端に行くにつれ台地となっている。その海岸線の殆どが崖だ。スタート地点は崖の直上だったが、確かに海風は強かった。

「ヒグマはどのくらいの大きさ?」

「雄で体長二メートル半から三メートル、体重は二百五十から五百キロ。環境による個体差が大きいんです。内陸部は餌が少ないので巨大化する個体は少なく、水辺を縄張りにする個体は餌が豊富なので巨大化する傾向があります。えりも町で二〇〇七年捕獲された個体は推定十七歳の雄で体重五二〇キロ。これが公式に記録された最大の個体です。本州のツキノワグマだと二百キロを越す個体はまずいません。実際に見ると格が違う巨体です」

 ええと。米袋五十二個分……想像できない。知床のヒグマも大きい個体が多いという。

 穴に入ってみますかと彼に誘われた。私は聞き返す手間も惜しんでザックを降ろし、音声を拾えるように穴のすぐ横にそれを置く。んだば。

 腹ばいで何とか入り口をクリアできた。中は広いかといえば全然。何より低い。土中に空いたどら焼き状の空隙とでもいうか。天井から突き出した根っこに、茶が掛かった黒く堅い毛が絡みついていた。あ、なんだか臭い。ワキガみたいな――。

「大して広くないでしょう?」

 入り口から彼が声をかけた。振り向くと彼も腹ばいで覗き込んでいる。悪戯っぽく笑う彼に苦笑いを返した。

「こんな穴に大きなヒグマが入れるの?」

「楽勝です。次の春に親離れする子連れ母熊のお宿ですから広い方です」

 子連れでこんな狭い場所に?

「二年目の春から初夏に親離れします。ヒグマはフクロウと共に「森のニンジャ」と呼ばれます。頭部がくぐれる隙間であれば、狭いところも難なく通ります。この一帯に生えている熊笹にすっぽり隠れて行動できますよ。だから潰れた大福みたいなこの穴で大丈夫。余計な隙間がないほうが暖かいですし、排便もしないから」

 腹ばいで苦労して方向転換し、やっとの思いで這い出た私を彼は拍手で迎えてくれた。照れ笑いしつつ私は周りをぐるりと見る。おかしい。

「この熊笹に隠れるって言いました?」

 私の腰程度の高さだ。それはいくら何でも。

「普段は四本脚で腹を持ち上げて移動します。攻撃直前の接近時は四本脚で匍匐するんですよ。結構なスピードで動いても、今ここを吹き抜けている様な風があれば全く解りません。風が熊笹を揺らすし音も立てます。経験を積んだハンターでも気づけません。そして至近距離で不意に立ち上がる」

 さっぱりと肩を竦めた彼がこれまたあっけらかんと笑う。

「姿を見たときはジ・エンド。巨大な前足の掌で叩かれて頭がもげます。車の鉄板を引き裂ける爪と筋力は圧倒的ですよ。ボンネットとフロントメンバーを一撃で破壊された車を見ました。呆れるばかりです」

 笑いながら言わないで。思わず周囲を見回す。

 と、間近で起きた道路工事のような大音響のスタッカートに飛び上がった。

「ほら、あそこ。エゾアカゲラです。後頭部が紅いから雄です。雌は黒い。お腹側の尻付近にも赤羽があります。「キョッキョ」と鳴きます。頑張ってますねえ」

 鳥か。驚かせないでよ!

 枯れ木にしがみついた鳥が激しく頭部を前後に動かしている。黒が多い背中に後頭部の赤がアクセント。とはいっても、頭部をはっきり目視できるわけじゃない。残像だ。慎ましくない鳥だね、全く。焼鳥にしてやろうかしらん。

「あんなに嘴を打ち付けて、脳震盪やら鞭打ちとか大丈夫なんですか」

「緩衝機構が備わっていますから。あの調子で頑張って、衝撃で樹の表皮奥に潜む虫を追い出して食べます。キツツキ目の特徴は足の指にあります。前に三本、後ろに一本が普通の鳥ですが、キツツキ目は前と後ろそれぞれ二本。だから樹の幹にへばり付いても身体を安定確保できるんですね」

 右手指を三本動かして支え方の実演をする彼に思わず頷く。なるほど、垂直な幹に取り付いたとき踏ん張りが効くわ。

 天然記念物のエゾ黒鳥はどこかで見ましたか、と彼に問われた。首を横に振った私に、彼は微笑みながら首を傾げてみせる。

「それは残念。あれを見ると幸せになれるのに」

 なんですと! どんな鳥なの、白鳥の親類のあれの遠縁とか?

「いや、水上生活だけはしませんね。鳴き声が『カァ、カァ』と澄んでいればハシブト、『ガァ、ガァ』と濁ったのはハシボソ。山にいるのはハシボソが多いです」

 聞いた情報を脳内で反芻した私は眉を寄せてしまう。

「それってカラスじゃ?」

「御名答! 北海道旅行者の間で交わされた古い冗談ですよ」

 沢山見たから未来が楽しみ、と私も笑って返す。この人は顔の筋肉だけではなく、目でも暖かく笑う。この人にはからかわれても嫌な気分にならない。

「エゾって頭に付く名前が多いから信じちゃいますよ」

「ええ。エゾリス、エゾライチョウ、エゾオコジョ。植物だとエゾ松とかね。だからエゾ黒鳥とかエゾテンで信じちゃう。北海道にいるテンは、本州から移入されたホンドテンなんです。ま、適当にエゾをつけて呼べば三分の一程度は正解ですよ」

 笑い返しながら彼をちらりと見た。

「エゾビトとか?」

「やめといた方がいいでしょうね。思考速度を計測できますけど、そのあとがヤバくなりそうですよ」

 頭の回転が速い面白い人だ。今朝は不安だらけだったけど。


 東京で計画を立てた際、マンツーマンのガイドを私はお願いした。朝八時から四時間みっちり廻る。一般的なツアーは大人数で周回するが、それでは取材になるか不安だった。取材費用は自分持ちだけど、記事が全てだからカネも体力も出し惜しみできない。

 気合い満々でネイチャーガイド事務所を訪れて私は慌てた。予定した女性ガイドさんが今朝方交通事故に巻込まれて休んだという。夏の北海道は観光客で混み合う。壁際のベンチにすでに二十名近くの客が待っている。その通常プランのお客で出勤しているガイドさんは手一杯らしい。

 予想外の事態に焦る私に「ネイチャーガイドの資格を持っているが常勤でない人を手配した。もし不満の残る結果となったら代金はいらない。」と責任者が提案した。男は厭だけど仕方なく私は頷いた。

 まあまあのコーヒーを飲みつつ待っていると男が入ってきた。ヘルメットを左脇に抱えたその男は、今時珍しいダブル襟の革ジャンを着ていた。そのあちこちに転倒の擦れ跡が。下手くそ、と内心舌を出す。私はバイクの操縦には自信がある。教習所と訓練所以外で転倒したことはない。

 ジャケット同様、デニム風の革パンツも年季が入っていた。ライディングシューズではなく軽登山靴風のごついハーフブーツを履いている。シフトペダルを操作して穴が開かないよう左足指元に当て皮があるからツーリング用ブーツだ。ベンチに座ったお客さん達も興味半分胡散臭さ半分で彼を見る。

 責任者やガイドさん達と笑顔で挨拶を交わした男は、責任者の視線を辿って振り向き、私に微笑んだ。

「ガイドをするマサルです。よろしく」

 立ち居振る舞い、そしてこの笑顔。厭な感じはしない。でも男だ。ジャケットとパンツ越しでも体格の良さは見て取れる。間違いない、パワー系だ。

 私の心に怯えが走った。でも食べていくためには。覚悟を決めて私は腰を上げた。

「よろしくお願いします。私は──」

 手で遮られて私は言葉を飲み込んだ。

「ごめん、時間がないから後で。携行食は持ってきましたか?」

 首を横に振ると、肩をすくめた彼は責任者に向き直る。おい、失礼だろ。

「川村さん、服とザックを貸してよ。あとキャンディ・バーを六本。衛星電話のバッテリーとバーナーのガスはフル? オケ。それと……」

 二人で奥の部屋に入ってしまった。一人残された私は唖然としつつ、これは仕事だ、我慢だと歯を食いしばった。

 山に入ってから私は彼への評価を変えた。

 彼が言うところの健脚向け原生林探索コースだ。私の体力に気を遣いつつ案内し、説明はとてもわかりやすく、タイミングがいい。そして私が周りを見て楽しむインターバルを置いてくれる。物理的そして精神的にも距離も保ってくれたので、彼が男だという不満もいつの間にか消えていた。

 もう一つ、私は彼に好感を持った。何かを指さすとき、彼は革手袋をした指全体で示す。人差し指だけを使わない。私も父から厳しく躾けられた。知らぬ人であっても指一本で示すのは無礼だと。でも人差し指で示す人ばかり。

 十時を過ぎて大休止となった。プロパンガスのバーナーでお湯を沸かす間、自然と人間の関係をおもしろおかしく話す彼の話に聞き入る。これも当然録音だ。

 二本のキャンディバーと共にステンレスの保温マグカップが手渡された。

 砂糖と粉末クリームがたっぷり入った紅茶が胃に染みる。

「一つだけ忠告させて。山で行動するときは高カロリーの携行食を用意して、休憩時に少しずつ食べてください。お弁当とは別ですよ。身体に取り込んだ糖分を使い切るとどうなるか知っていますか」

 昼には戻ると言うからお弁当用意しなかったけど。どうなるの?

「手足が震え始めたら危険信号。その後身動き出来なくなる。そして目が見えなくなる。最悪死にますよ。昔の人は餓鬼がとりついたと考えました。何か食べればすぐ治るから、その餓鬼が満足して離れたと考えたわけ。山屋さんはハンガーノックとかシャリバテと呼んで警戒します」

 少し手が震えていたのはそれかな。

「じゃあもう一本食べて。砂糖の吸収は早い。お米はデンプンです。糖に変換されるのに時間が掛かりますが腹持ちがいい。食事で基礎体力を、携行食はそれを補う役目なわけです。上から目線でごめんなさい」

 気をつけますと素直に言えた。ネイチャーガイドって皆いろいろ知っているの?

「講習で基本を教わります。動植物の知識と共に雪山で火を焚く遣り方とかも。資格をとってからが本当の勉強の始まりです。私なんてまだまだ未熟ですよ」

 ラテン語の学名まで知っているじゃないですか、というと無邪気に手を振って笑った。気取らない人だ。


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