第5話 同情無用

 ネットで漁りまくってリストアップした名称を私は順繰りに眺める。オコタンペ湖、然別湖脇の東雲湖そしてオンネト─湖。これが北海道三大秘湖。とはいってもメジャーな呼称ではない。真逆だ。どこかで聞いた覚えがあるようなないような。

 登山に適するのは阿寒湖の西方、雌阿寒岳と阿寒富士が横にあるオンネト─湖だ。ここから左程遠くない。五時間くらいで到着する距離だ。

 大雪山系の東にある然別湖の脇にあるのが東雲湖。途中にナキウサギ生息地がある。彼が好みそうな感じだ。オンネト─からプラス四時間ちょっとの位置。ただし軽登山という表現で考えると微妙だ。

 札幌の南方、支笏湖の脇にあるのがオコタンペ湖。遠いし有名な山も無い。そもそも地図に表示される登山道がない。道なき山中をうろつけるあの人だけど除外していいでしょ。

 さて、東雲湖かオンネト─湖か。どちらも宿が少ない。人が少ないという条件は似たようなもの。シャーペンでメモを突きながら考える。

 なんで彼に拘るんだ。

 私の知らないことを沢山知っているから。自然を大事にする立場のネイチャーガイドが動物を殺すハンターで、ヒグマ襲撃を辛くも生き延びた経験者なのにヒグマを憎んでいないというのは興味深い。一切自慢しない点も高評価。拘ってなにが悪い? 興味津々だ。

 ええと、登山の観点からは……然別湖から東雲湖に行くのは湖畔を歩くルートの他、低い山を一つ越える登山道で往復二時間。一方雌阿寒岳と阿寒富士をつなげて歩くと八時間。そして雌阿寒岳は百名山の一つ。登り応えのあるのはこっちじゃね? よし、オンネト─で決定! お風呂で仕事に頭を切り換えよう。

 広大な湯船で一杯に身体を伸ばし、ゆっくり左右に捻る。湯煙を貫く適度な照明。今日はいろいろあったけど、締めくくりのお風呂が全てをよしとしてくれる。

 普通の観光客よりは自然を実感できたとおもう。ほんのちょっとだろうけど。でも強張った身体に染み入る温泉が自己満足だとしてもいいや。自己満足の代償は明日不可避であろう筋肉痛だけど。

 でもこれをそのまま記事にしても誰も何も感じない。女性ライターなんて珍しくもない。プラスアルファが必要だ。一文字変えて女性ライダーだと? ライダーの男からちやほやされる。ライダーウェアさえ着れば若く可愛く見えるらしい。けっ。

 湯に浸かった肢体を客観的に見る。ふむ、若い子に勝つとは思わないけど、負けてもいないかな。胸は個人差あるし、そもそも垂れてないし。

 でも……涼音みたいな女の子らしい顔とスタイルに生まれたかった。母は溜息交じりに「お前のような不細工が私から生まれたのが信じられない」と言った。父は庇ってくれたけれど。

 進学した女子大で開催されたミス&ミスター・キャンパスで貰ったタイトルには『R』が付いていた。思い出してもむかつく。あ、勝手に出場申し込みしたのは涼音じゃなかったっけ? 帰ったら問い詰めてやる。

 バレンタインは悪夢だった。二年かけて髪の毛を伸ばして難を逃れたけど。今はライディングジャケットに収める手間が増えた。そうしないと雄ライダーが群がってくる。幾ら女ライダーが少ないからって、なんで私なんかに声を掛ける。ほっといてよ馬鹿たれ! 

 教習所で免許を取った連中がオーバー一リットルを自慢する。私はバイク歴十年、通算走行距離二十一万キロ、そして一発試験で大型を取った。女が二五〇㏄のオフバイクに乗っていると直ぐに見下す。なにが「チェーンが伸びているね。クラッチも遠すぎない? 俺が調整してやるよ。」だ。自分で調整してるし、チューブタイヤのパンク修理だって出来る。女はか弱くて馬鹿なメカ音痴? 舐めるな!今日だって一人投げ……ああ、護身術の実践第一号が誤爆とは。

 露天風呂で気分を変えよう。

 ここのお湯は熱めだけど、外気が冷えているから丁度いい。星もよく見える。

 彼の雰囲気は文系でも理系でもない。中庸ってやつか。首から下は完全な体育会系だけど脳筋とはちがう。完全に理解したことを解りやすく、低い声でゆったりとリズムに乗って喋る人。耳に心地よかったな。銃砲店ねえ……変わった仕事だ。でも、仕事や外見でその人の本質なんて解りっこない。奴がそのいい例だ。いや、今まであった男全員がそうだ。文学に親しむ時間の一部を割いて、男を見る目を養うべきだったんだ……。


 小学校の図書館を利用できる学年になる前から、私は読書に没頭した。父親が制約無しに買ってくれたし、父が集めた本も沢山あった。本はあらゆる疑似体験を可能にしてくれる魔法だ。

 中学から私立の女子校に進学した私は軟式テニス部に体験入部したが挫折した。

 ならばと緩い上下関係と書籍に没頭できる文芸部に腰を落ち着け、梅雨の頃から創作をはじめた。軽い恋愛物やコメディ。恋愛に縁がない私でも、本から得た知識に同級生の相談話を加味すればなんとかなった。読み手は友人だ。漫画部の友人が原作に使ってくれた事もあった。

 中等部の演劇部部長が私に会いに来たのが夏休み直前。一時間ほどで演じる学園祭用の台本を依頼された。最初は断ったが、部長同士の連携圧力に屈した。

 完成したものに不安はあったが、彼女達は歓迎してくれた。オリジナルストーリーは刺激的で面白い楽しいと言ってくれた彼女達の熱演で、観客が喜怒哀楽に染まってくれる快感。私は嬉しかった。母親のお小言を忘れて創作に没頭した。

 耽美な虚像でも恋愛コメディーでもオファーには全力で応じた。彼氏には興味が湧かなかった。友人が紹介してくれた男は見た目がよくても中身がすかすかだったからだ。見栄を張る気もなかったので焦らなかった。その時が来ればそうなる、そう思っていた。これが過ちの始まりか。

 女になったのは大学入学直前の春。人数合わせだからと親友に頼まれて、私は気乗りしないまま人生初の合コンに参加した。酔い潰れた私をシティホテルに連れ込んだ男は、抵抗する私を殴って屈服させた。泣きじゃくる私に「付き合ってやる」と男は言った。

 現実の男はこんなものなんだと自分に言い聞かせた。小説や映画のそれはあり得ない虚構の恋愛。でもだからこそ人気を博すのだと。不細工な私を気に入ってくれたなら、ちゃんと付き合えば愛に変わると思った。

 でも無理だった。キスも省いて私の下着をずり下ろしてのしかかる男。嫌悪と苦痛しか感じない。演技すらできずに泣きじゃくるだけの私はすぐ捨てられた。

 別の男が現れた。物静かに話す男は私を熱心に口説いた。二人で相談しながらその日のデートを決めて、互いの理解を深める交際を私は望んでいた。私を知ってもらおうと頑張って会話した。ドライブならと頷いた私が馬鹿だった。

 人気の無い駐車場で私は襲われた。最後まで抵抗した私は叩き出され、タイヤを鳴らして出て行く車からバッグとパンツが放り出された。殴られた両頬が熱かった。疼痛が走る下腹部をティッシュで拭いながら諦めた。男なんて性欲だけの屑なんだ。避妊すらしない屑。そんな屑にしか声をかけられない私は馬鹿。何とか家に戻った私はシャワーが染みるほどタオルで擦り、指で掻き出しながら泣いた。

 妊娠に怯えて過ごしたあの春の日々。

 私には恋愛なんて縁が無い。男を見る目がないし、どうせ不細工なんだ。自分の中の女を捨てる決心をして髪を切った。化粧品も全て棄てた。女らしいといわれる類いの事を全て止めた。そんな私を母は満足げに見ていた。

 入学式直前、久しぶりに会った親友の涼音は、私を見て絶句した。外見も性格も私とは正反対な涼音にだけは真実を告げた。誰にも話せず苦悶していた私には彼女だけが救いだった。きっと呆れて縁を切られるだろうと覚悟して話した。でも彼女は変わりなく接してくれた。誰にも喋らないでくれた。私の心はすこし軽くなった。

 すっぴんにジーンズ、洗いざらしのシャツに男物のジャケットを着て歩く私に周りの人は呆れていた。大学でも当然浮いていた。それでも馬鹿共はしつこく私にちょっかいを出した。馬鹿に邪魔されない為に、電車通学を止めてバイクで通学した。

 半袖の季節になると友人の多くに恋人が出来た。まともな彼氏と人生を満喫する彼女達。喧嘩してもすぐに前より仲良くなる彼女達が妬ましかった。そんな自分に嫌気が差した。

 心を鍛えようと合気道を始めた。より困難な課題を自分に課す為、大型自動二輪の一発試験に挑み、中古の一千㏄ロードスポーツに跨って通学した。清楚さをアピールする学生に満ちた夏のキャンパスを、ヘルメットをぶら下げて革ジャンで闊歩する私は有名人になった。煙草を始めたのもこの頃だ。 

 女を捨てる決意は学園祭の催しで揺らぎ、バレンタインデーで決壊した。男は大嫌いだが同性に愛を求める積もりはなかった。私が髪を伸ばし、年相応の女の格好もするようになると母がまた当たり始めた。自分の現在と将来に不安が芽生えた。自分に自信を持てた小説創作も筆を折っていた。一人で生きていけるほど強くない。どうしたらいいのか悩み模索した。

 その母が病気で死んだ。今際の際「不細工なお前は仕事に生きなさい」と私に告げて。父が母を怒鳴りつけたのは、記憶にある限りその時だけだ。

 大学四年の梅雨入り間近。就職活動から解放された仲間は社会人相手の合コンに励みだした。楽しみながら永久就職の情報収集活動だ。そこそこの企業で内定を貰った私もそれに参加した。仲間は驚いていた。私のもくろみは単純そのもの。女一人で生きていく為のキャリア戦争に勝つ自信はない。子供は好きだ。ならばセックスに淡泊な男を捜して子供を産み、その後は静かに生きて、そして消えたいと考えた。不純な動機なのは理解していたが、付き合っている彼がいても新しい候補者を探して天秤に掛ける人もいるのだからと割り切った。

 でも現実は甘くない。合コン当日に持ち帰りを狙う男ばかり。

 やっぱり無理かと諦めかけたとき、奴が現れた。爪も肌も女顔負けに手入れして身なりは常に清潔。シモネタには顔を顰める線の細い男。そいつが私に目を留めた。東京六大学出身で航空会社の営業部勤務、一人いる兄は既婚と解った。

 門限前に家に送ってくれるしセックスどころか手も握らない。会話は全く面白くないが危なくない。男に対するイメージが変わった。奴が私との結婚を話題にした日、私は自分の過去を話した。嫌われても仕方ない。でも奴は微笑んだだけ。心の広い人だと感激した。

 婚約しても頬にキスする程度。この人ならセックス嫌いの私でも何とかなると思った。不細工な私を選んでくれたのだから一生尽くそうと決心した。

 二人で過ごす初めての夜はクリスマス・イブだった。一流ホテルのスイートで奴は緊張して酔いつぶれた。そんな奴を可愛いと思った。酒臭い鼾を掻く奴の横で一人してみた。高校卒業までは達していたのに。セックス嫌いが不感症も併発したと知った。

 就職して一年後、私は奴と挙式した。義理の両親と義理兄が涙を流さんばかりに喜ぶ傍らで、義理姉は不安げに私を見ていた。でも、めっきり老いた父が流す涙に疑念を忘れた。

 初夜の覚悟は無用だった。初夜から私は一人で寝ていたからだ。イタリアの景勝地を巡る時は幸せそうなハネムーナー。でも夜な夜な奴は姿を消し、煙草と酒そして精液の悪臭を全身から発散して帰ってくる。それが毎日続く。キスはおろか手を握ろうともしない。私の苛立ちは臨界に達した。

 帰国前日の深夜。朝帰りした奴はバスルームに入った。寝たふりをしていた私はドアをこじ開けて踏み込んだ。泡立てたバスタブに浸かっていた奴の甲高い悲鳴がささくれた私の神経を更に昂ぶらせた。

 喧嘩を売ろうと飛び込んだわけだが、私の目は床に転がったタンポンに吸い寄せられた。思わずつまみ上げる。胸糞悪くなる精液の感触、大便臭に混じる青臭いあの臭い。脱ぎ捨てられた下着にこびりついた赤毛。結婚式で奴の家族が見せたあの表情の意味は。泡に隠れるようにして震える奴の顔面にタンポンを叩きつけ、顎に一撃喰らわせて浴室から飛び出した。

 翌朝、バスルームのドアが小さな音を立てた。怒りと指の痛みで眠気を忘れた私はにらみ据えた。

「さっちゃん、話を聞いてよ。乱暴しないで、御願いだから」

 ドアの隙間から目を覗かせた奴が懇願した。

「僕は、そう、ゲイセクシャルなの」

 ホモのオカマ野郎だ。気どるな。たしか私はそう罵倒した。

「……さっちゃんはセックスも男も嫌いでしょ? 僕には解るの」

 確かにそうだ。けど、ホモに言われて私の怒りは煮えたぎった。

「変態だけには言われたくない!」

 怒鳴りつけると、瞬時に目が消えた。

 睨み付けていると漸く戻ってきた。落ち着きなく瞬くその目に殺意すら覚えた。

「君が男嫌いだから結婚相手に選んだんだよ。利害は一致するじゃない、ねえ」

「五月蠅い、黙れ!」

「君は君で自由にやってよ。子供が欲しいなら誰かと作ればいい。ちゃんと認知するよ。僕は自由にヨシ──」

「オカマと仮想夫婦? 子供にお父さんと呼ばせろ? ふざけるな、離婚だ!」

「落ち着いてよ。世間体──」

「黙れ! 今すぐそこから出て自白書を書け。いつからオカマだったか、どういう生活をしていたか、私との婚約中はどうだったか。新婚旅行中何所でどんな相手とホモ行為をしていたか。私と結婚しようとした理由も全部! むかつくからお姉言葉で喋るな! 出てこい、さあ!」

 猫に怯えるネズミが歩くようなスピードで奴が出てきた。情けないその姿。こんな男を選んだ自分自身も情けない。ホテルの便箋を叩きつけたくなる衝動を必死に抑えた。が、我慢できなくなって結婚指輪を奴の顔に叩きつけた。

 奴の書く一字一句を監視しながら自分の人生を呪った。そして全てを諦めた。

 帰国後、奴を引きずるようにして奴の実家に向かった。自白書のコピーを読んだ母親は泣き崩れ、凄まじい形相となった父親と兄が奴を袋だたきにした。死んだふりをするオカマを無視して三人は土下座した。奴が中学時代から同性愛者と疑っていたと三人は告白した。兄の下着で自慰する姿を目撃した義理姉だけが気付いていた。入籍も挙式も終えた今頃教えられても謝られても。私は式の招待者から永遠に笑われる。会社にも顔を出せない。あまりにも哀しいと私は呟いた。絨毯に額をこすりつけた彼らは嗚咽で応えるだけだった。

 翌日、後は全て任せると書かれた紙と委任状そして離婚届が実印と共にトイレに置かれていた。トイレのあの狭い窓から逃げ出せるわけはない。協力者がいたわけだ。奴は行方不明になった。

 私が手配した弁護士が離婚協議書を作成した。両親が慰謝料を払う形での決着。離婚原因を公言しても一切文句を言わないという念書も取り交わした。離婚保証人は義理兄夫婦がなった。私の父はショックで入院していたし、友達に頼むのも憚られたので助かった。

 区役所に追いかけてきた義姉に入り口で制止され、話があるから車にと懇願された。渋々座席に座った私に彼女が口を開いた。

「落ち着いて聞いてね。淳さんが刺し殺されたって新宿署から家に電話が入ったの」

 私は表情を変えなかったと思う。でも心の中では哄笑した。奴が? まことに結構! 

 彼女は恐る恐るの態で続けた。奴が殺されたのが昨夜。書類をこれから提出しても殺された時点では夫婦だ。だから私が保険金を受け取る事になるが、手続きが複雑になると大変だから、届けを出すのは止めたほうがいいのではという。

 そうか、こりゃ揉めそうだ。遺産だもの。くたばってからも面倒くさい奴だ。保険金に気付いたのは誰だ。親もしくは兄? いや、家族が殺されたと聞けば取り乱すだろう。肉親の情は事実あったわけだし。私の横に座っているこの人か。親が出す慰謝料は、奴が死んだ今、そして離婚協議書に私が署名した今となっては義兄が受け取るべきものだったと考えたか。所詮は他人だ。私は腹を決めた。

「保険金殺人を世間と警察は疑うに決まっている。死んでからも迷惑をうける代償として私がいただきます」

 複雑な目で私を見る彼女に「どんなリアクションを期待していたの」と聞くと俯いてしまった。私の疑念は確信に変わった。車を出た私は区役所のドアをくぐった。

 旧姓に戻った私を出入り口で二人の男が待っていた。

 初日は鋭い質問が投げつけられ、翌日は奴を殺して自殺した男の写真を見せられた。青ざめたひげ面を目を逸らさずに見入った。風呂場で自分の首をカミソリで切り裂いて死んだと聞いても何も感じなかった。「見も知らぬ男の死体写真を見て涙するほど感情豊かじゃありません、気味が悪いだけです。」と言い返したら警官はたじろいだ。

 奴が死んだ事に対する感想を求められたので、自白書のコピーを鞄から出させて彼等に読ませた。離婚協議書も念書も。その上で感想を短く述べた。それを聞いた刑事の顔ったら! 

 朝ホテルを出、警察で過ごして夕方戻る毎日。昼の食事は出前で、なおかつメニューを選べると知ったのは収穫だったかも。

 三日後私は解放された。でも説明を一切しなかった警察に不信感が沸いた。私を犯罪者と決めつけておきながら、一方的に疑っておきながら、疑いが晴れても謝罪も説明もしない組織。昼食費も請求されて呆れかえった。

 溜まっていた新聞には第一報が小さく載っているだけ。大都会では小さな事件。でも私の親類そして知人は決して忘れない。泣きながら退職届を書いた。やっと父に安心して貰えると思ったのに。

 犯人と奴が長期にわたって「交際」していた事、奴が結婚して「自分は捨てられた」と犯人が落胆していたと後日知った。教えてくれたのは弁護士だ。結局警察はなにも私に伝えなかった。興味も露わに探りを入れる友人たちが嫌で疎遠になった。そっとしてくれたのは涼音ただ一人。私の大事な友人。父が死んでからは彼女だけが私の心の支え。


 泣いているのに気付いて私は少なからず動揺した。慌てて周囲を伺う。声には出していなかったようだ。

 頬を叩いて立ち上がり、思い切りのびをした。少し雲があるけれど、空で輝く凄まじいばかりの星々。あれは天の川だよね。

 今日巡り会えた人はどことなく涼音に似ている。からっと笑いながら私を真っ向から見てくれる人だと思う。ウンチ爆弾から守ってくれたし、オロンコ岩でも普通に会話してくれた。なにより値踏みする目で私を見なかった。

 ちょっと待て。記事のプロットはどうした。私の唯一の収入源だぞ。真剣に取り組まないと二度と仕事は……でも気になる。私の記事に役立つ知識をもつ人だ。でもそれなら他にもいる。教授とかの肩書きを持つ人に取材した方が読者を納得させられるし……なんで?

 へへっと変な笑い声が漏れた。やっと解った。仕事は言い訳だ。彼と友達になりたい。そのくらい願ってもいいじゃない。明日逢えたとして、彼はどんな顔をするだろう。よし、プロットは部屋に戻って資料を整理しながら考えよう。今は再会したときの挨拶を。連絡先を聞くための第一歩だ!

 当たり障りなく「マサルさんじゃないですか。また逢っちゃいましたね!」とか気軽に……。

 いやいや。私は小心者だ。絶対素振りも、そして予定した台詞すら怪しくなる。

 なら定番の「また会える予感がしていたんです」とか。いや、これは臭い。こんな台詞口にして許されるのは小説の恋する乙女だけだ。ご都合展開全開だったあの小説を今読み返したら、頭を掻き毟ってから失神するまで頭を壁に叩きつけるだろう。若気の至りとは恐ろしい。

 もっと自然に快活に。うーむ……「あ、ドジなマサルさんだ!」は涼音にしかできないよなあ。彼女の言動は小説でお世話になった。掴みがすごく上手。計算せずにそれをやるから嫌みじゃないし。さて困った。

 そうだ。「イルカに乗ったマサルさん」なら掴み……駄目! それに余程の雑学知識をもった人以外は意味不明!

 うー。

 出たとこ勝負でいくか。私に計算は無理だ。


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