第一章 天から堕ちた少女

異世界少女にパフパフ.1

††

 

 煌龍歴二三二年 闇ノ月三五日

 

 ガプス大陸の北の地の辺境

 

 広大に広がる森林の中に、小さな泉があった。銀色のような鏡のように映る水面は静かに佇み、周囲には空を覆い隠す巨木が立ち並び、辺りを薄暗く覆っていた。

 

 静まり返ったその地は、漏れてくる月明かりの中、幻想的な趣さえ見せている。

 

 この泉の畔には小さな妖精が集まってくるのか、泉の周囲の地面からは小さな光の塊が浮かび上がってきたり、また空中を飛び交っている。

 

 絵に描いたようなファンタジーな幻想的光景の中、がさがさと音を立て茂みの中から現れるモノがいた。

 

 獲物を片手に掴み現れた人物は、泉の傍にやってくると使い古された炭が大量に残っている窪みの傍に獲物を放り出した。

 

 ごろりと転がされたソレは、身体中に獣毛を生やし巨大な牙を持った、まるまると太った猪のような魔獣ファングボアだ。

 

 ファングボアの近くに腰を降ろし、ふうっと嘆息したのは銀色の髪の老人だった。

 

 ポリポリと掻いた頭の上には銀色の毛に覆われた、先の尖った獣の耳が生えている。また年季の入った革防具の尻からは五〇センチ程の長さの尻尾が生えていた。

 

 その見た目は人間とも云えなくはないが、獣人という言葉がしっくりと来る。

 

 老人──老獣人の顔には多数の皺があり、可成りの高齢であることを窺わせる。

 

 老獣人はファングボアの近くに腰を降ろす。

 

 見た目小柄な老獣人ではあるが、薄汚れたシャツから見える腕は、無駄な肉が全て削ぎ落ちたような、老齢にしてはやたらと逞しく鍛えられた腕をしていた。

 

 腕を腰に回し、一筋のナイフを取り出と、ファングボアの牙を掴み、首のあたりにナイフを当ててさくりと斬った。直ぐにファングボアの後ろ足を持ち、逆さ吊りにして溢れ落ちる血を窪みへと注いでいった。

 

 体重五〇キロ程も有るファングボアを片手で軽々と持ち上げ、首から溢れ落ちる大量の血が窪みの中に血溜まりを作り、池のようになっていくのぼんやりと見つめていた。

 

 窪みに溜まった血は、まるで大地が血を飲み込んでいくかの様に、直ぐに地面に吸い込まれてしまう。


 やがて血抜きが終わったのか、ファングボアを持ったままナイフを巧みに操り、サクサクと手際良く皮を剥ぐと地面に広げていく。

 

 次に肉を手頃な大きさに解体していくと、皮の上に置いて行った。肉の解体が終わると次は長さ五〇センチ程の太めの丸太を取り出してきた。

 

 丸太に手刀を当てると、丸太が削られ次々に細身の串となっていく。次に慣れた手つきで肉の塊に串を無造作に突き刺していった。

 

 二十本の肉串が出来上がると、次は腰につけたバックから小さな包みを取り出し、粉末状の物を手掌で伸ばしながら肉になすりつけていく。

 

 一通りの作業が終わり、かなり大きめの肉串を地面に突き刺して並べられると、老獣人は立ち上がり、泉の傍に建立された古びた祠に向かった。

 

 祠は石造りのようで、高さは一メートルほどだろうか。老獣人は祠の脇に置かれていた薪を、いくつか小脇に抱えて戻ってくる。

 

 薪は半分程を残して炭が残る窪みへ無造作に放り込まれ、老獣人が指先を前に差し出すて、ぼそりと呪文を詠唱する。指先から火球が現れ、窪みに置かれた薪に向かって飛んでいった。

 

 炎が薪を包み込み、パチパチと音を立てて勢い良く燃え上がっていく。傍に突き立てられた肉が炎に炙られ焼かれていき、良い香りが辺りに漂い始めた。

 

 今夜の夕食といったところだが、老獣人にとっては毎日のことであり、慣れたことであった。

 

 焼けてきた肉串を掴み、ふうふうと息を吹きかけて、一噛みする。口の中にじゅわっと肉の脂と旨味が広がり、眼が細まる。

 

 肉を噛み砕きながら、老獣人はふと顔を上げて、樹木に覆われた空を見る。暗い茂みのなかから漏れる月明かり、暗視能力を持つ獣人にとって暗がりは別に不便ではないが、空を見なくなってどのくらいかと考える。

 

 ふっと溜息を吐いて、肉をもうひと噛み。

 

 肉の味を活かすために、軽く岩塩を揉み込んだだけだが、ファングボアの野趣溢れる風味は老獣人の好みの味でも有る。

 

 バロー種の味も絶妙なのだが、バロー種は大きいため三分の一も食えずに残してしまう。いっそ《森の主》でも倒して村に持って行って、村人達と食べるか、などと思ってみたりするのだが、老獣人はそこで思考停止した。

 

 

 

 老獣人は目の前に起きた不思議な現象に気を取られ、眼を見開いて、肉に喰らいついたまま硬直していた。

 

 普段は静かに佇む泉、近場に棲む獣人からは《精霊の泉》と呼ばれる泉だが、老獣人がここに住み込んでからと言うもの、《精霊》なんて見たこともない。

 

 精々がこの泉の畔に集まる精霊のなりそこないの、小さな妖精の光ぐらいだ。妖精の光は泉の周囲の地面から光の粒子のような塊となって浮かび上がってきたり、また空中を無数の光の粒子となって飛び交っている。

 

 それはそれで幻想的な風景を醸し出してはいるが、長年此処に住んでいる老獣人にとってはどうでも良いことだった。

 

 もし《精霊》とやらが住んでいるのなら、是非お目にかかってみたいものだと思っていた。

 

 そんな名前ばかりが幻想的な、普段から静かに佇んでいる泉の鏡面のような水面が、今日はいつもとは違っていた。

 

「これはいったい。」

 

 水面の上が仄かに光り輝いている。

 

 そしていつも水紋さえ滅多に起きない水面が、ざわざわと幾つもの水紋を広げていく。雨が降っているわけでもなく、樹木から葉が落ちたわけでも、他の何かが落ちてきているわけでもない。

 

 静かであるはずの泉に広がる無数の水紋、そして仄かに輝く光、それは何かの前触れなのか。この地に長く住んでいるが、このような事は初めてお目にかかった。

 

「な、なんじゃ、何が起きてる、まさか凶事の前触れか……」


 なんとも言えぬ異様な気配が辺りを包み込み、あちらこちらで魔獣達のざわめきが聞こえてくる。

 

 老獣人は初めて体験する異変に、身体中の毛を逆立たせ泉を凝視した。

 

 泉は輝きを増し波紋を無数に造り、ついには波打ち始める。

 

 ぴちゃぴちゃと水が畔に打ち付けられる音が聞こえてくると、魔獣の叫び声や唸り声が、より激しくなりまるで合唱のように騒がしくなってきた。

 

 何かが起きようとしていた。平和で静かだったこの地に、異変が起きようとしていた。

 

 ゴクリと固唾を飲み込み、額から大量の冷や汗を滴らせる老獣人の目に、それは映った。

 

 泉から天に向かって、光の柱がゴウッという音と共にそそり立ったのだ。

 

「おわぁぁぁぁっ!」


 老獣人は突然の事に、手に持つ肉串を放り出し尻もちを付いて地面に転がった。


 輝く光柱は空に伸び、樹木を突き抜けて何処までも続いているかのようだ。 

 

「ななななな、なんじゃぁぁっ!」


 目も眩む凄まじい光の中、老獣人が慌てふためき、四つん這いとなって巨木の裏へと向かった。

 

「い、いよいよ大異変がおきるのかぁぁぁ」


 巨木の陰に隠れ、目を手で覆いつつも泉から天に向かってそびえ立つ光の柱を見つめた。

 

 それは長くも短くも感じられる数瞬の間だった。

 

 光が細まっていき、そしてゆっくりと降りてきた。

 

「な、なんじゃあれは!」


 今まで光の柱がそびえ立っていた泉の上に、それはいた。

 

 生い茂る樹木の間からゆっくりと姿を現したそれは、徐々に高度を下げてくる。

 

「あれは……」


 呆然として見つめるていると、精霊の泉から登る光柱がついに消えた。瞬間、それが急に落下速度を早め、泉をめがけて落ち始めた。

 

「おおお、おちる、おちるぞぉぉっ!」


 老獣人は慌てふためき走りだし、それが泉に落ちる瞬間、老獣人が跳んだ。

 

「うおぉぉっ!」

 

 掛け声もろとも落ちてきたソレを抱きしめ、泉を跳び超えて地面に着地する。

 

「ん、、ん、、」


 老獣人の腕に抱きかかえられた者は、ぱらりと綺麗な茶色の髪を垂らし、凡そ見たことも無いほどの美貌を露わにする。

 

「人間族か、それも、お、おなご……」


 老獣人は久しぶりに見た人間族の女を見て、ゴクリと固唾を飲み込んだ。


「茶髪、亜人?いや人間か?」


 肩よりも長い茶色の髪は見たこともない薄い茶色と濃い茶色が混ざったような色合いをしている。長く生きてきた老獣人にとっても、初めて見る色合いの髪である。

 

 一瞬亜人かとも思えたが、亜人には確か茶髪はいない。むしろ北方種と南方種の人間の混血ではないだろうか、と思い直す。しかし濃い茶色と薄い茶色の混ざった色というのは初めて見るものだった。

 

 そもそも何故ここに人間族の女が、という疑問も湧いてくる。獣人族が多く棲むガプス大陸に人間族が居ないわけではないが、しかもよりによって『この場所』にいるのかが不可解だった。

 

 さらに不可解なのは、この少女の纏った衣服であろうか。見たこともない、紺色の上着とスカートを少女は着ていた。それは日本の高校生が着ている、女子生徒向けの制服。いわゆる学生服なのだが、老獣人が知る芳もないことである。

 

「人間族のおなご、おなごかぁぁ……」


 何故か老獣人の目尻が厭らしく垂れ下がってきていた。

 

††

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