第3話 ばいばい、リュウちゃん!

 無駄に広い道をまっすぐに進んでいくと、なんとか海沿いへと出ることができた。

 俺はホッとしながら、もう一度地図を確認する。


(たぶんこっちの方だと思うんだけどな)


 俺は地図と周囲の様子を見比べながら学園に向かうであろう道を歩きはじめた。

 海の近くだからか、カモメの鳴く声がうるさいくらいに聞こえる。

 俺は地図から顔を上げて視線を横に向けた。

 堤防越しに見える海は太陽の光を反射してキラキラと輝き、一段下の砂浜ではゆっくりとした足取りで愛犬と散歩をするおじいさんの姿があった。

 俺がそのおじいさんに道でも聞こうかなと思ったその時だった。


「んっ?」


 ふと、頭に何かがよぎる。

 それは微かな残像。過去の記憶。

 おじいさんと犬の姿に重なるふたつの影。


「あれ、俺、この道知ってるぞ」


 ハッとなった俺は周囲を改めて見回した。

 そうであっても不思議じゃない。小学校に上がるくらいまでとはいえ、俺はここにいたのだ。

 通ったことがある道として覚えていたとしてもおかしくはないはずだ。

 でもなにか物足りなさを感じる。

 あと少しで完成しそうなパズルのピースが足りないもどかしさだ。


「なんだろう?」


 俺は首をかしげる。だがすぐにはそれがなんだったのかわからない。

 しかしあれだけ迷っていた俺の足は、過去の記憶に誘われるように自然と動きだす。


(そうだ。ここをまっすぐ。それでここは左。あとはタバコ屋が見えてくればもうすぐだ)


 一歩、また一歩と進む足。

 俺の中に眠っていた10年前の記憶が一歩足を進めるたびに蘇ってくる。子供の頃よりも周りの風景が小さく見えるが、全然変わっていない。

 だから確信できる。俺はここをよく知っている。

 そしてこの先に何があるのかも、いま思い出した。


「やっぱりあった」


 俺は【かなみ荘】と書かれた看板を掲げる民宿の前で立ち止まる。


『ばいばい、リュウちゃん!』


 そういって小さな女の子が俺に手を振った。

 その女の子を覆っていた過去の影は取り払われ、色鮮やかに俺の前に姿を現した。

 笑顔の可愛いおかっぱ頭のその子は、微笑んだまま消えた。


「懐かしいな」


 俺はそうつぶやく。

 ここは10年前、よく遊んでいた女の子の両親が営んでいた民宿だ。


(夕方まで遊んでるとよく見送りさせられていたっけ。そういえば、たまにおばさんに声をかけられて、晩御飯をごちそうになったりしたこともあったなぁ)


 俺は昔のことを思い出しながら思わず苦笑いを浮かべた。


(あっ、そうだ。久しぶりに顔でも出すついでに、学園までの道のりでも聞いてみるか)


 そう思い立った俺は歩みを進め、入り口であろうアルミサッシの扉へと手を伸ばす。

 だが扉の向こう側に、【準備中】という札がかかっているのが目に入った。


「なんだ、やってないのか」


 俺は少し考える。


(無理に訪ねるのも悪いし、当分はこの町にいるんだから顔を出す機会はまたあるだろう。今日の所は引き返すか)


 俺はそう思い、この場を去ろうと踵を返したちょうどその時だった。

 後ろからガラガラと扉が開く音が聞こえたかと思うと、少し控えめな声が俺の耳に飛び込んできた。


「あの、お客さんごめんなさい。まだ開店前なんです」


 俺はそのなんだか聞き覚えのある声に眉をひそめながら、ゆっくりと後ろを振り返った。

 するとそこには、半分ほど開いた扉から顔をのぞかせる女の子が立っていた。

 彼女は俺に何かを言おうとして口を開けていたようだが、いまではその言葉を忘れてしまったかのように、ぽかんとした表情を浮かべている。

 そんな女の子の顔は少しマヌケな感じがしたが、タヌキのように垂れた目付きとくりくりとした丸い大きな瞳をしているからだろうか。俺は不覚にも可愛いなと思ってしまう。

 この子は俺と同じくらいの年だろうか。でも、背は俺よりも頭ひとつ分くらい小さい。

 髪は肩口あたりで切り揃えられた黒髪で、ツヤツヤと輝いている。


(なんだ?)


 俺は直感的に何かを感じた。それは相手も同じなのだろうか。

 その何かを探るように、俺と女の子は視線を合わせたまま、お互いの顔をただじっと見つめた。

 時が止まったかのような静寂の中、俺は自分の中にある記憶を確かめながら慎重に言葉を探す。

 女の子の方もマヌケだった表情がだんだんと険しいものになっていく。


(俺もいまあんな顔をしているのだろうか)


 そんな余計な事を思いながらも、目の前の女の子はきっとそうなのだという確信めいたものが俺の心の中に芽生えた。

 しかし、俺の口から言葉がなかなか出て来ない。

 出してしまえば簡単なんだろうが、間違っていたらという恐怖がそれを躊躇わせる。

 だが言わなければならない。そして確かめなければならない。

 俺は拳をぎゅっと握りしめ、意を決してその言葉を口にしようとした。


「ちょっと、なにしてるの?」


 だが、そんな誰かの声が俺の意思を簡単に砕く。

 聞こえてきた声の主は、女の子の後ろからゆっくりと現れて扉を開ききった。

 扉を開けたその人は、女の子によく似た顔をした女の人だった。そしてその人は俺の存在に気づいて目を丸くさせる。


「あらっ、嘘……もしかしてあなた、流之介くん?」


 女の人はいとも簡単にそう言った。

 だがそれがきっかけとなり、10年の歳月などまるでなかったかのように、言葉がするりと時間を超越する。

 そして先ほどまで躊躇っていたのが嘘のように、俺の口は自然と動いていた。


「お久しぶりです、おばさん。それに、ミーコ」


 俺は10年ぶりに仲の良かった女の子の名前を呼んだ。

 そして、名前を呼ばれた女の子――園村美衣子そのむら みいこは、びくりと肩を振るわせ、小さく頭をさげたのだった。

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